登録日:2009/12/01 Tue 18:51:28
更新日:2025/03/12 Wed 19:59:52
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●目次
【史実】
◆概要
1582-1602
豊臣秀吉の義理の甥(秀吉の正室おねの兄・木下家定の五男)。近江国の長浜にて生を受ける。
関ヶ原の戦いにおいて傍観する西軍の将の中で最初に裏切り、その後の
裏切りの連鎖を引き起こした。
名前の推移:木下辰之助→木下秀俊→羽柴秀俊→小早川秀俊→小早川秀秋→小早川秀詮
※最終的な名乗りは「小早川秀詮」であるが、改名したのが関ヶ原の後で、名乗った期間がかなり短いため、一般的には「秀秋」の表記が使われる。
◆人物
学問を学ぶ姿勢はあまりなく、優柔不断で悪政を敷いたとも、幼少期は利口であったとも言われる。短気であったことはほぼ確定らしい。
政治については、優秀な家臣団が小早川家にいたのも要因かもしれないが、秀吉の死後、朝鮮遠征で疲弊した領国を立て直すべく年貢を免除したり、
関ヶ原の戦いの後、領地として与えられた岡山の寺社復興や農地整備などを精力的に行い、(当時としての)近代化を推し進めていたりと、
若くして亡くなったこともあって目立っていないが、実際には悪政を敷くどころか割と良い藩主であったのでは?とも言われる。
これに関しては早世した上に小早川家も断絶しているため、後世になって「裏切者」としての悪いイメージで語られるようになっても、
抗議したり、汚名を返上する史料を出す子孫がいない、まさしく「死人に口なし」の状況も影響していると思われる。
とはいえ関ヶ原戦から死没までわずか二年一カ月であり、これでは善政も悪政もやりようがないというか、
政策方針を固めることはできても、その成果が出るまでの行政手腕はとても発揮できなかったとも思われる。
また21歳で亡くなっていることから見ても、「朝鮮出兵後の領国内の租税免除」などは本人(十代後半の少年)の発案というよりやはり家臣団の手筈と考えた方が自然。
有能無能以前に、発揮した能力を評価できるだけの寿命がなかった歴史人物である。その意味では「最も大きく成し遂げた事案」に着目されるのもしょうがないところはある。
◆来歴
実子のいなかった豊臣秀吉の養子となり(この時の名前は「羽柴秀俊」)、急に裕福になるが、
秀頼が生まれたことで跡継ぎとしての立場が無くなり、冷遇を受けていたところで
黒田如水の助力を貰い、小早川家の小早川隆景の養子となる。
歪んだ性格は、このように幼少期に散々持ち上げられたり突き落とされたりしたためとも言われる。
この後、いわゆる『豊臣秀次事件』に連座して領地を没収されるが、養父の隆景が隠居したためその跡を継いでいる。
朝鮮出兵(15才)の際には敵兵に囲まれた加藤軍に救援に行き活躍するも、
その報告を受けた秀吉には「守備任せたのになに突撃してんの馬鹿なの?死ぬの?」と説教を食らった挙句、大幅減封及び転封。
ちなみに転封前の領地は石田三成に奪われている。→三成はこれを辞退したが、秀秋旧領は豊臣家直轄地となり、その代官に任命されている。
加藤軍を救援した際の秀秋はリアル無双したそうな。
この処置は以前から秀秋を疎ましく思っていた秀吉が、彼を追い落とすために謀ったという説もあるが、
想像の域を出ない。
秀吉の死後、
徳川家康の根回しで減封は取り消され、いい具合に家康に釣られる。
家康には以前にも、前述の減封を三成の讒言のせいだと思い込み、伏見城で
怒りのままに斬り捨てようとしたところを制止された上、
彼のとりなしで事なきを得ており、この件で秀秋にとって家康は頭の上がらない恩人となったと言っても過言ではないだろう。
ただし、領地はともかく家臣については、これ以前の減封で多くの者が秀秋の下から去ってしまっている。
伏見城の戦いにおいては、19歳にして筑前(
福岡県)から1万5千人もの兵を動員して畿内にやってくるという何気にすごいことをやりつつ、
東軍鳥居元忠に援軍を申し入れるも、
「援軍とか聞いてない。どうせそう見せかけて裏切るんでしょ?よくあるんだよねそういうの」
と拒否され、西軍に付かざるを得なくなり(これは
島津義弘も同様)不本意にも武功を上げてしまう。
秀秋がこの際の行動を悔いてノイローゼになり各地をうろうろしているうちに関ヶ原の戦いが起こる。
なおこの時、西軍の命令を聞かずに各地を彷徨っていたためこの時期から西軍からは味方だと思われてなかったのでは?という説もある。
関ヶ原の戦い
そもそも会津討伐に参加するため畿内に入ったところ、成り行きで西軍になったため割とすんなり東軍の山岡道阿弥(景友)による内通に応じ、
『寛永諸家系図伝』岡野系図によれば足軽十人による部隊で甲賀
忍者が
スパイした三成の情報を板部岡江雪斎(岡野融成)へ流していたが、
『あいつ絶対裏切るだろ…』と思っていた三成と
大谷吉継から「勝ったら関白にしてやる」などと釘を刺される。
もっとも三成に秀秋を関白にする権限なんてないので(推薦ぐらいはできるだろうが)、ただのその場しのぎの口約束か本当にその気があったとしても関白になれるかは不確定だと思われる。
そのためかそうでないのかは分からないが1万5000もの兵(西軍で2番目の兵数)を率いる秀秋は西軍有利にもかかわらず傍観。
家康がキレたところでようやく寝返り大谷隊に攻めかかるが事態を予測していた大谷隊から予備の600人の部隊が出てくるとびっくりして押し返される。
しかし、連鎖的に寝返った脇坂隊、赤座隊らの助力もありこれを撃破、これを機に3万を率いる家康本隊も加勢し東軍の勝利となった。
これに関しては、近年「開戦直後に即座に東軍に寝返り、西軍に襲い掛かった」という説も出てきている。
その後、自分と同じく裏切った四将らと共に井伊直政の指揮の下、三成の居城である佐和山城を攻撃している。
余談だが、敗戦後落ち延びていたものの捕縛され、重罪人として晒されていた石田三成に何を思ったのか会いに行っている。
三成がそんな目に遭っている最大の要因とも言っても過言ではない秀秋がそんなことをすればトラブルになることは火を見るより明らかであり、
同行していた
細川忠興に止められたが、三成の視界に入ってしまった。
…うん、もう一度言うが、
細川忠興に止められたのである。
妻である細川ガラシャを熱愛し、妻を見たというだけで庭師を殺したなんて話もある「戦国随一のヤンデレ」、
かつ、舅である明智光秀に「攻めた国の人間を無暗に殺すな」と忠告されたと伝わるほどの残酷な男が、
ましてやその妻を事実上殺したに等しい上に元から不仲である三成の内心を(おそらく)察して制止するようなことを秀秋はしたのである。
その忠興の案の定というべきか、三成は秀秋を見るなり彼を罵倒し、
「お前が裏切るつもりだったことを見抜けなかったのは自分の落ち度だが、約束を破って人を裏切るなど武士の風上にも置けない。
この世の末までお前のやったことを語り継ぎ、笑ってやろう」とさえ言われるも、秀秋は何も言い返せなかったという。
関ヶ原の戦い後
戦後は岡山55万石に加増され内政に力を注ぐが、家臣の出奔や不審死が相次ぎ、そして自らも21才の若さで急死している。
死因に関しては複数の説があり、病死の他に、無礼を働いた小姓を斬ろうとして返り討ちに遭った、
村の視察中に怒った農民に股間を潰されて死んだ、果ては大谷吉継の祟りで狂い死んだなどの説があるが、
病死以外はなんとも情けない死因ばかりであり、これらに関しては『因果応報』的な意味合いの強い俗説とも言われている。
ちなみに、秀秋は晩年家老を手討ちにするなどの奇行が目立っていたが、
三成に言われたことを気にして精神的に参り、三成や吉継などの幻影を見るほど精神薄弱状態だったらしい。
秀秋の急死の後、小早川家は跡継ぎがいなくなったため無嗣断絶として取り潰された。
秀秋や小早川家のこの末路に関しては、石田三成や大谷吉継の怨霊の仕業とまことしやかに囁かれたとかなんとか。
もっとも秀秋に続いて裏切った武将である脇坂安治と朽木元網はかなり長生きしているが。
ただ、秀秋が若くして亡くなったことに関しては秀秋が重度のアル中だったことに端を発するというのが現在の説である。
詳しくは余談にて。
そして毛利家の一門であるはずの小早川家だが、秀吉一門に再乗っ取りされたことなどもあってかすぐ再興されることはなく、
そのまま廃藩置県…つまり明治維新を迎えた。改元とか将軍の代替わりとかのレベルを通り越して時代が変わるまで放置されている。
関ヶ原後は毛利本家も大減封でそれどころではなかったとはいえ、いくらなんでも放置されすぎでは…
なお秀秋の人間関係は、当初自分を跡取りにしようとした叔父(秀吉)に「秀頼!秀頼!秀頼!」と要らない子扱いされ、
養父(隆景)には「あいつが毛利家を継いだら毛利は滅びるぞ!」と懸念されたことで養子となり、
自分と似たような立ち位置である豊臣秀次が秀吉によって粛清されたことで明日は我が身と脅えさせられ、
全く戦の経験がないのに朝鮮出兵では15歳にして総大将にされ、家臣は「あの当主にはお仕えできません」と出奔し、
家康の味方をするためやって来たのにほぼ無理やり西軍として伏見城を攻めに参加することになったり、
西軍の同僚からは「あいつは東軍だから注意しろよ」と最初から敵扱いされたりと、
ある程度は自分のアル中ぶりが原因としても相当ハードだったらしい。
……と、いうのが今までの俗説、通説であった。
そのため、時代劇など関ケ原を舞台として作品では散々な扱いをされることも少なくなかった。
だが、近年、関ケ原そのものに新説がでてきたことで秀秋の評価も変わっており、今後の研究での秀秋の評価がどうなっていくのかが楽しみである。
◆余談
秀吉の後継者と目されたことで秀秋は12歳にして未成年飲酒、連日酒宴漬けの生活になり、
その梯子を外されて小早川家の養子となってからも、酒を飲むことはやめられなかった。
このため、親である高台院などからも大量の借金を抱えるようになった上、
関ヶ原前後の18、9歳の頃には肝硬変と見られる症状が出て黄疸も出ていたとの話もある。
肝硬変は一度起こってしまえば治らない不治の病で、透析や肝移植などもできないこの時代で発症すれば長生きなどできない。
しかも、秀秋は生活を改善することもなかったらしく、その場合、当然のことだが病状は加速度的に悪化していき命の削れていく。
このことから関ヶ原後まもなく死んだのは一説にはアルコール中毒による肝硬変と考えられている。
また、そこまで酒浸りだったのであれば正気を保つのも難しいため、
後世に語られる発狂している話や三成の怨霊なども、もしかしたらアルコール中毒が原因であったかもしれない。
当主が若くして心身ともにこんな状態で後継ぎもいないという状況だったのであれば、
先代からの優秀な家臣たちが小早川家から離れていくのも当然の道理と言えよう。
彼がアル中になることなく、もう少し長く生きていたら後世での評価も違ったのだろうか。
関ヶ原の戦いでは秀秋は家康に鉄砲で脅しを掛けられるまで裏切るかどうか迷っていた、という有名なエピソードから、
秀秋はずっと優柔不断なイメージで語られていたが、近年ではこのエピソードは真実かどうか疑問視されている。
というのも、最も古い資料である合戦二日後の書状では「東軍が敵陣に攻めかかると同時に秀秋が裏切った」とされている一方、
世間一般でよく知られる「鉄砲で脅されて裏切った」という話は実に100年後の軍記からしか確認できず、
さらに、関ヶ原の戦い前後の秀秋(小早川軍)の動きなどが研究されるにつれ、
「最初から東軍でどっちつかずの態度など取っていない」とか、「開戦時に一気に大谷軍に突っ込んでいった」とか、
「開戦のきっかけが秀秋が松尾山に布陣したことで三成たちが出陣したところからだった」などという説があり、
東軍への寝返りの理由も、叔母だが母のように慕う北政所の立場を慮ってのものとする説も。
それに彼の人生を振り返ってみれば、彼が三成のために何かしてやる義理は全くないどころか積極的に敵に回ってもおかしくない上、
関白の座も、本人どころか一族郎党皆殺しにされた秀次事件のことを考えると、それほど興味はなかったのではないかとも言われる。
そもそも松尾山から西軍を追い払って布陣した時点で東軍だと認識されてもおかしくない。
基本的に合戦中に裏切るのは例え内応していたとしても許されることではないにもかかわらず加増されているのも、
少なくとも合戦が始まる前には東軍だったという説を後押ししている。
どの説でも秀秋の活躍によって西軍を総崩れにしており、今までとは違った秀秋の姿が見え始めているのかもしれない。
義父となった小早川隆景との関係などについては、隆景は秀秋が名島に来る時にはかなり気を使った手紙を書いており、
秀秋が養子となった時に開かれた宴はそれはもう盛大な宴だったらしい。
その様に自分を歓迎してくれた隆景を秀秋は大層慕った様で、堅田元慶が隆景の馬印をもっていたので譲ってもらったり、
等身大隆景の木像を作ってもらったり、自身が朝鮮出兵に行っている間に隆景が死ぬとその
死を悼む和歌を詠んだという話があり、親子仲は大変よかった様だ。
上記の通説説明文での「あいつが毛利家を継いだら毛利は滅びるぞ!」というのも、
本当は隆景が秀秋を自分の子供にしたかったからそう言った可能性も……さすがにないか?
まあ単に毛利本家に豊臣一門が入ることを危惧したのだと思われる。
自分もそうやって小早川家を毛利家にしたしね。
能で演じたのが女役ばかりだったらしい。
彼の物とされる陣羽織が残っているが、そのデザインはド派手な色した羽織りの背中に命を刈り奪る形をした鎌×2が描かれているというもの。
戦国の世のオシャレ度合いを物語る名品として名高い。
【創作】
単純に「気弱な人物」とする物もあれば、あえて「苦悩する優秀な人物」として描く物もあるなど様々。
基本的には「年若いヘタレ」扱いが多く、短気で苛烈な面は控えめなことが多いだろうか。
その短気だった面や陣羽織のド派手なデザインから
DQNっぽく描かれることもごく稀にある。
長い間裏切り者として散々な評価を受けまくっている彼だが合戦アドベンチャー「
采配のゆくえ」ではなぜか萌えキャラと化した。あと
顔芸。
新たな小早川秀秋像も形成されつつある…のかもしれない。
歴史小説徳川家康(山岡荘八)を原作とした横山光輝作の
漫画「徳川家康」では関ケ原で東軍、西軍両方からの誘いを受け、両者のやり方に呆れながら酒を飲んでいた。
また、家康から
大砲を撃たれるものの、他の作品のように慌てたりする様子もなく冷静に裏切りを決めている。
なお、飲酒時に体調不良の様子も描かれており、その描写は史実の秀秋の死因と考えられている肝疾患のようなものとなっている。
戦国はっちゃけアクションゲームの「
戦国BASARA3」では、小太りで美食家で鍋とおたまで戦うウザキャラという、
これまた(いろんな意味で)従来のキャラ性をぶち壊したキャラとして登場。
二つの鎌……もとい
斧をくっ付けたような前立の兜を被り、大きな鍋を背負ったその姿はさながら
人間カブトムシ。
伏見城には超巨大な鍋が設置してあり、合戦中でも作戦は兵士と
天海まかせで自分は鍋を食う。
何しに来たんだお前。
キャラとルートによっては裏切らせず最後まで西軍に残らせられるが、メリットが無いから結局プレイヤーから裏切らせる悲しい扱いをされる。
「宴」ではプレイアブルキャラに昇格し、まあまあ扱いやすい上にUMAより速く走れたりする良キャラ。
しかも天海様は自分で使う分には機動力以外最強。小早川家が天下取れちゃうのでは?
え?主家?まだ
義祖父様生きてるからなんとでもなるでしょ。
1は関ヶ原の戦いが
スルーされたため、モブとしての登場すらなかったが、2からモブ武将として登場。
2では戦が始まってしばらくの間は静観。本作では優柔不断なキャラとなっている。
その後は史実通りに東軍へ寝返る事もあれば、西軍のまま戦う事もある。戦況を有利にした上で計略をこなす(あるいは止める)事が鍵。
なお、東軍側の場合は開始すぐに西軍本陣へ突貫もできるが、それを行うと「どうも東軍の旗色が悪いみたいだ」等と秀秋がぼやき始め、
秀秋が東軍本陣への突貫を決意し、西軍総出で攻撃開始。東軍武将の士気がガタ落ちしてしまい敗色濃厚になるので注意。
叔母のねねには頭が上がらず、鉄砲よりも半蔵よりも島左近よりもねねを恐れるというキャラ付けもされており、
ねねが東西両軍を諫めるために関ヶ原に乱入した時は東軍でも西軍でもなく「ねね軍」として参加した。
3も西軍に付いてこそいるが、西軍側でプレイする際は必ず東軍へ裏切るようになっている。
しかし東軍側でやる場合は東軍には裏切らず、西軍の一員として戦う。2とはまるで異なる優柔不断ぶりである。
家康は開始早々「小早川は裏切るように手を打ってある」と語るのだが、どんな手を打ってたんですかね…
4でも西軍→東軍へ寝返る形式は変わらず。今回は東軍側でも東軍へと寝返るようになった。
なお、西軍側でプレイした際に秀秋が裏切った際は、大谷吉継が「小早川…人面獣心なり…」と口にする。
初代「仁王」に登場。「仁王2」では装備のみ出てくる。
元々酒や贅沢が好きな性格だったが、減領されたことから一層荒み「権力者になるのも権力者に従うのも空しい」と考えるようになる。
乱世そのものをくだらなく思っており、敢えてトリックスターとして振る舞うことで全てを引っ掻き回そうという退廃的な考えの持ち主。
そのため関ヶ原においても「いつ寝返るかまでは約しておらぬ」とわざと家康を焦らすような真似をするが、ウィリアムの砲撃によって考えを改め大谷吉継へと兵を進めた。
その後は特にこれといった見せ場も無く、史実通りに急死している。
なお、彼から受けられるサブミッションはいずれも「ただの賊退治のはずが、実際に赴くと妖怪に襲われる」というきな臭い内容となっている。
秀秋主役の歴史小説。
この小説では若くして優秀な人物として描かれているが、優秀すぎるが故、
人の機微に疎い面やまだ若いこともあってある意味で感情的になりやすいと若すぎた天才児という感じの人物として描かれている。
コミック版日本歴史の戦国人物伝シリーズでは、関ヶ原を扱った回で登場している。
基本は通説のような言動を取っており、大谷吉継の回でははっきりしない態度に裏切りを疑われ、首先に刃を向けられて冷や汗をかいたこともあるが、
三成に動くように要請された後、彼が去ると自分を捨てた豊臣への恨みを軽蔑と憎悪に満ちた顔で呟くなど、「豊臣への恨みで裏切った」という描写になっている。
一方、遂に自身が主役になった回では……。
本能寺の変が起こる年に誕生し、元服はそこから更に15年待たなければならないので登場はかなり遅い。
昔は関ヶ原の戦いがあるシナリオでも彼が物語のメインになることは無かったが、
「創造」以降の作品では西軍で
ゲームを開始して西軍が有利だと裏切らずに共に東軍を攻撃してくれる。
また、ゲームなので連合軍でも
三成の武将としての格であっても武将の位置を調整できるので、それで秀秋を最前線に置くという芸当もできる。
ただ流石に現時点での新作の大志ではできない。
ステータスは全体的に非常に低く、裏切りのエピソードから義理も低いので弱いくせにすぐ裏切る非常に使えない武将のイメージが強い。
顔グラが某ジャニーズの某メンバーに似ているともっぱらの評判。肖像画の困り眉も再現されており、秀逸な出来。
戦国乙女「小早川ヒデアキ」名義で登場。石田三成、
真田幸村、黒田官兵衛そのほかメジャー武将を差し置いての参戦に多くのファンが驚いた。
毛利モトナリの部下であり、彼女から拝領した妖刀「隆景」を鎌に差し替えて使用している。
泣き虫でヘタレで臆病者であるが、運ばかりはずば抜けて高い。
Legend Battleでは意図的に最弱性能にされているが、隆景を解放することで他の乙女並みの強さを得る。
極めて優柔不断で忘れっぽく、関ヶ原でどちらに加勢するかを花占いで決めようとしたほどのボンクラ。
あまりの無能ぶりに、作中No.1の我慢強さを誇る家康が「これ以上待たされたら鉄砲を打ちかけてやる」と爆弾発言するほど憤慨していた。
登場人物のほとんどが
猫であるので当然、秀秋も猫(たまに
犬やら猿もいるが)。
関ケ原の戦いでは高いという理由で松尾山に動いて(猫だから)、家康から江戸名物にゃんぎょうやきをもらって全部食べたが忘れたのか日向ぼっこし続け、
曇ってきたので日向があたっている光成のところに突撃(という名の日向への移動)し、光成を蹴散らし、日向ぼっこした。
と関ケ原の戦いとかどうでもよくただ日向ぼっこしていただけで両軍を翻弄しナレーターから「小早川の勝ち」という他作品では見られないであろう。
ある意味、小早川秀秋大勝利という珍しい展開を迎えている。
普段は数奇のセンスにうるさい気だるげな若殿、しかしキレたらヤバいヤンキーじみた特攻隊長として描かれる。
直接のシーンこそないが朝鮮の役で大暴れした逸話にも言及されるなど、作中でもそのキレっぷりは知れ渡っているようだ。
関ヶ原では「家老二人が言うことを聞かぬのよ」などと白々しく言ってのけつつ、家ぐるみで堂々と日和見を決め込む。
しかし織部の身体を張った説得で趨勢を悟ってからの決断は早く、一瞬のうちに臨戦態勢に入って家臣たちを恐れさせた。
本作の舞台は関ヶ原で西軍が勝利して豊臣の天下となった時代であり、秀秋は「豊臣の勝利に貢献した功労者」ということになっている。
しかし何故か投獄されており、脱出後に報復のためにムサシの持つ「ガン鬼の銃」を奪うが、
銃の中に潜む鬼に意識を乗っ取られてしまい、そのままアヤカシの首領ヤシャに回収されて以後消息不明。
なかなかのハンサムボーイに描かれているうえに印象的な出番もあるが、
彼が中心となった一連の回は作画崩壊に定評のある本作の中でもワースト級に酷いことも印象的。
2014年の「軍師官兵衛」、2016年の「真田丸」にて、どちらも浅利陽介氏が演じて話題となった。
演技力もさることながら、氏の顔が肖像画とソックリということで、今後も秀秋が出るなら氏が演じるのでは?と言われているとかいないとか。
2023年の「どうする家康」では嘉島陸氏が演じた。
気弱さや優柔不断さをまるで見せず、関ヶ原前に家臣の前で「西軍につく」と宣言した直後に「ただし、どちらにも転べるようにしておけ」と釘を刺すというなど、
これまでの秀秋のイメージを大きく覆す冷徹な性格で話題となった。
関ヶ原本番でも西軍として出撃こそするものの、「戦力は三成だが家康は戦上手」と冷静に戦局を見定めるように動かず、その後家康本陣の前進に呼応する形で裏切りを敢行した。
事前準備の周到さや鉄砲で脅されることも無く冷静な判断で裏切った姿に視聴者からは「こんな狡猾な秀秋見たことない」「知力90ぐらいありそう」等と称された。
陣幕の鎌の絵が奇跡的な位置で頭に重なりツインテール秀秋というネタも爆誕した。
追記と修正は優柔不断で信用の無い人以外お願いします。
- BASARAの秀秋君
実は他人の筆跡を模倣できる書や文の達人だったりしてたな (劇場版) -- 松永さん (2013-07-15 23:49:31)
- 百万人の戦国無双の秀秋もなかなかいいキャラだったよ、細川忠興並とは言わないが病みキャラだったが、こいつは状況や過程から裏切りまだ許せるんだ、むしろ田中吉政の屑っぷりの方が -- 名無しさん (2013-08-07 01:24:37)
- 「風雲児たち」に出てくるこの人は、いかにも優柔不断そうな自画像をさらに福笑いみたいにし、裸の大将みたいなしゃべり方にしたキャラだった。本人は草葉の陰でどう思っているのだろう。 -- 名無しさん (2013-08-12 20:33:14)
- 裏切り・背信は国が滅びようとも永久に語り継がれるから仕方ないとも思ってそうだけどね -- 名無しさん (2013-08-12 21:35:35)
- 糞ドラマ「戦国自衛隊~関ヶ原の戦い~」の唯一の評価点。 -- 名無しさん (2013-10-09 19:37:41)
- 朝鮮出征では20人くらい倒したとか何とか -- 名無しさん (2013-11-28 09:29:24)
- 遠くの銃声にびびって東軍に寝返ったと聞いたことある -- 名無しさん (2013-11-28 09:35:48)
- 『影武者徳川家康』(漫画版)では、三成が吉継の霊と語っているのを見て、大谷勢の亡霊見てびびってたな -- 名無しさん (2013-11-28 11:07:08)
- 義風堂々では エラいイケメンだった -- 松永さん (2013-11-28 12:09:22)
- ↑途中発信失礼
大谷さんが ね -- 松永さん (2013-11-28 12:11:22)
- ↑6 秀秋はカッコよかったね 他作品での扱いがひどすぎるだけなんだけど -- 名無しさん (2013-11-28 12:17:17)
- 隆慶一郎の小説だとやたらかっこよかった -- 名無しさん (2013-12-30 10:01:11)
- 無双のねね外伝、関ヶ原乱入ではモブながらかなりの存在感だったなあ -- 名無しさん (2014-01-31 11:24:31)
- 戦国自衛隊での伊庭とのやり取りは必見。「歴史を信じるなら家康だ……」「本当だな……!それで本当に戦の世が終わるんだな……!」「コクリ」→「目指すは石田治部少!!我に続け!!!」カッコよすぎ -- 名無しさん (2014-01-31 12:26:34)
- 小早川家は跡継ぎがいないので断絶したけど、隆景は毛利の血統だからどうなんだろ。 -- 名無しさん (2014-03-26 21:46:40)
- 隆景も実子が居ないし、そもそも小早川は秀秋の頃には「毛利両川」と言われた半家臣でもなくなってる -- 名無しさん (2014-05-26 10:25:32)
- まあそこそこの能力はあったんだろうな。20歳にもなってないのに朝鮮で総大将だし -- 名無しさん (2014-05-26 10:40:10)
- 朝鮮での減封罰は本国帰還命令を無視したのも秀吉に怒られた原因。その場合清正死んでただろうけど -- 名無しさん (2014-05-26 13:17:09)
- 秀頼が生まれた後は冷遇なんてもんじゃない。一緒に養子になった義理の兄の秀次は妻子はもちろん使用人まで皆殺し。秀秋も一歩間違えば殺されてた。受けた仕打ち考えたら西軍につくわけがない -- 名無しさん (2014-08-11 23:29:35)
- 西軍が勝ったとしてもその後の日本が戦国の世に逆戻りした可能性高いしそうなれば西欧諸国の植民地になった可能性もある。小早川の決断は日本の将来を決したと言えるな -- 名無しさん (2014-08-12 00:34:33)
- ものすごい男色家としても有名。片倉重綱はイケメンだったんで秀秋に追いかけ回されたことがあったそうな -- (2014-08-14 01:30:55)
- 関ヶ原の戦いが -- 名無しさん (2014-08-14 01:43:10)
- ↑ミスった関ヶ原の戦いが短期で終わったのはこいつの裏切りがあってのことなのに優柔不断扱いはおかしくない? -- 名無しさん (2014-08-14 01:44:23)
- ↑それこそ後世のイメージ操作だよな -- 名無しさん (2014-08-14 20:14:12)
- 「采配のゆくえ」の顔芸は本気でビビった -- 名無しさん (2014-08-14 21:51:44)
- 嫌われすぎて死因が「農民に股間を蹴られて死亡」とか語られてるからな… -- 名無しさん (2014-08-15 09:22:05)
- 基本的に善政を敷いてたし領民には慕われてたんだけどな。これでも秀吉の養子やぞ -- 名無しさん (2014-08-15 09:54:35)
- 徳川幕府からすれば神君家康の策略にまんまとはまった愚かな若造、明治政府からすれば脅しに屈して家康に味方した臆病者と印象付ける必要があったからな、そりゃネガティブなイメージしかつかないわな -- 名無しさん (2014-08-16 00:47:30)
- この人のいいところを探そうぜ!! -- 名無しさん (2014-08-29 07:14:55)
- ない。以上 -- 名無しさん (2014-08-29 07:31:51)
- 秀吉以外には結構好かれてる所。朝鮮戦役で清正助けた所。 -- 名無しさん (2014-08-29 10:50:01)
- もうちょい図太いところがあればなぁ。戦国武将なんて裏切り寝返り当たり前だったし。 -- 名無しさん (2014-08-29 14:59:26)
- 三成に卑怯者って罵られた時言い返せればもっと評価違ったかもね。そこで黙っちゃいけない -- 名無しさん (2014-08-29 15:05:40)
- > (2013-11-28 11:07:08) 確かそのびびって奇行を行ったことが、次郎三郎(家康の影武者)と三成が会見するきっかけになったんだっけか? -- 名無しさん (2014-08-29 15:31:33)
- 最近では元々東軍だったって言われてるよね。まぁ先にいた西軍から陣地奪ってるし、徳川には元々内通していて鳥居元忠を攻めた事を謝る書状があるし、三成も元々信用していなかったらしい証拠もあるし裏切ったって言うのは不当な評価よね。これまでもこれからも裏切り者と言われるんだろうけど。 -- 名無しさん (2014-10-09 08:51:19)
- ↑藤堂高虎も「武士は七回(八回)主を変えてなんぼ…」みたいなこと言ってるしね……ついでに三成や吉継の祟りというなら真っ先に徳川に行きそうなものだが(裏切ったからと言うなら見抜けなかった二人にも大きな落ち度があることになる。吉継は見透かしていたらしいけど) -- 名無しさん (2014-10-09 09:06:56)
- というか元々は家康の上杉征伐の為の出征軍を無理矢理西軍に編成されただけだしね -- 名無しさん (2014-11-01 16:22:03)
- 『逆風の太刀』の秀秋はかっこよかったな -- 名無しさん (2014-11-02 00:04:30)
- 秀吉の親戚っていうよりねねの親戚ってイメージ -- 名無しさん (2014-11-02 21:28:54)
- 個人的な考えだけど関ヶ原時に迷っていたかというのも怪しいと思う -- 名無しさん (2014-11-15 20:56:27)
- ↑関ヶ原の項目だと戦開始から4時間で裏切ってる。 -- 名無しさん (2014-11-15 21:23:24)
- ↑それも一番いいタイミングをうかがってただけという説もある -- 名無しさん (2014-11-20 02:09:43)
- てか、関ヶ原の合戦当時19歳。悩みもすりゃー迷いもするさ。 -- 名無しさん (2014-11-20 02:21:15)
- 4時間が長いのか? -- 名無しさん (2014-12-15 15:57:18)
- 優柔不断なイメージが定着している人が戦国大戦の秀秋見たらどう思うだろう。「こんなん秀秋じゃない!」って言いそうだが -- 名無しさん (2014-12-15 17:00:38)
- ↑2 そりゃ最初から裏切るよって聞いてたのにいつまでも動かなかったら家康もやきもきする。決着の時間自体は合戦の規模に比べて異例の短さな分、秀秋の立ち位置が如何に重要だったかが分かる -- 名無しさん (2014-12-15 17:10:21)
- 三成に罵られた際に言い返せてればな… わしは豊家のためにおぬしを裏切ったのだとか言えてれば気骨のある一本筋の通った武将として評価されただろうに -- 名無しさん (2015-10-12 00:39:24)
- ⬆それでも後世では偽善者とか言われそうだけどな -- 名無しさん (2015-10-12 08:47:32)
- ↑でも卑怯者、小心者と言われるよりはましだと思うが -- 名無しさん (2015-10-22 00:13:18)
- 死因はいろいろ情けなく言われてるがアルコール中毒になったことによる肝臓系の病気と考えるのが妥当だろうな -- 名無しさん (2015-11-02 20:11:48)
- 短気なのは、色んなところへ養子に出されたり戻されたりを繰り返して心が不安定だったんだろうな -- (2015-11-02 20:29:29)
- そもそも10代後半で重い決断ばっか強いられすぎてるかな。そりゃ情緒不安定にもなるわ -- 名無しさん (2015-11-02 20:45:32)
- 一時期は天下人の跡継ぎ候補、そして名門武家の分家、そして改易からの復帰か… 確かにメンタル不安定になるわ -- 名無しさん (2015-11-03 09:39:41)
- 関ヶ原の戦いを描く時、作品によって東西で善悪が割れるけど、大体「小早川が悪」ってのは一緒なんだよね…まぁ、幕末の井伊直弼にも言える事だが。 -- 名無しさん (2015-11-03 10:08:39)
- 裏切りは喜ばれても裏切り者は疎まれる好例 -- 名無しさん (2015-11-03 10:26:56)
- 最近では擁護されるようになったのか関ヶ原は松尾山に入ると言う西軍に対する明らかな反逆行為により包囲された小早川を救出するために起きた戦いだったとか脇坂をはじめとする四将に裏切りを説得し、全員から了解を得たから大谷に攻撃したから迷っていたと見えるだけと言う説もある -- 名無しさん (2015-12-05 19:13:32)
- 三成に卑怯者と罵られたとかは創作だろうから言い返すも何もないと思う 逆風の太刀はかなりカッコ良かったな -- 名無しさん (2016-03-30 12:29:01)
- 事前に三成に、「西軍に着いてもいいけど、何かあったら裏切らせてもらうから覚悟しておくことだな」と言い放ってたらかっこいいのになぁ。 -- 名無しさん (2016-03-30 12:44:58)
- 後年の創作のせいで評価落としまくった人というイメージ。初陣の朝鮮で大活躍はもっと色んな人に知られていい -- 名無しさん (2016-05-22 06:27:49)
- 本人の資質は抜きにしても秀吉の晩年の奇行でゆがんだイメージがある。少なくともあの秀吉に見いだされた人なんだから無能なはずはない。そんな人物があの仕打ちなんだからそりゃ裏切りますよ、豊臣家に恨みはあれど自分の輝かしい未来を奪った人に付いていくことはできないだろうし -- 名無しさん (2016-08-24 13:59:32)
- 大幅減封された際に大坂城で三成に切りかかろうとしたらしいね そんな関係じゃ裏切るのも当たり前か -- 名無しさん (2016-09-11 09:52:59)
- い、今川義元よりはマシだから -- 名無しさん (2016-09-11 10:25:50)
- ぶっちゃけこの人のたどってきた経緯や秀吉や三成から受けた処遇なんかを考えるとそもそも最初に西軍についたこと自体が不思議な位なんだよなあ -- 名無しさん (2016-09-11 10:44:22)
- ↑始め東軍につこうとしてたら西軍に囲まれてやむを得ず西軍についただけだからなあ 伏見城攻め後はほとんど何もしてないし家康に接近しまくってるし -- 名無しさん (2016-09-11 10:52:39)
- そもそも、裏切りなんて戦国時代ではみんなやっているからな。三成が潔癖(頭でっかち)なだけだという気もする。 -- 名無しさん (2016-09-11 18:21:24)
- ↑ それはそうだけど、三成の不備を指摘して開き直れなかった、へし折れて自滅してったのは本人の限界 -- 名無しさん (2016-09-11 18:48:50)
- 皮肉なことに裏切り上等みたいな奴ではなかったんだろうな -- 名無しさん (2016-09-11 19:37:25)
- 国替えから2年。酒の飲みすぎで死亡。2年のうちの晩年には奇行が目立つ。そりゃ評価も下がるだろう。 -- 名無しさん (2016-09-23 03:06:02)
- ↑7ネタだと思うがそもそも比べるまでもなく大大名の義元さんとは人物の大きさが違うし、死に方も不運であって別に情けなくもない。加えてお前も本当に戦国大名なのかと言いたくなる息子の氏真もなんやかんや波乱万丈の人生ながらも夫婦円満、お家存続、天寿をまっとうのフルコンボよ。いやホントにこういう人もいるのになぁ -- 名無しさん (2016-09-23 04:55:11)
- ある意味「未来を決めた(作った)若者」なんだけどなぁ。 -- 名無しさん (2016-09-23 08:38:47)
- ↑5 創作逸話に死んだ後反論しろとか、大軍を前に開き直らないと限界とか、そんな無茶言われても…… -- 名無しさん (2016-10-11 09:47:00)
- ↑ んなこと言ってたら「ダメなアル中がくたばった」の一言で終わりな話だぞ -- 名無しさん (2016-10-11 18:06:35)
- ここ十年くらいで急速に再評価がされてきてる武将 最近では関ヶ原開戦時に大谷軍に突っ込んでいたという話もある -- 名無しさん (2017-01-05 23:00:23)
- 開戦後さっさと徳川に御味方して西軍が総崩れになったって記録が関ヶ原の2日後の徳川方書状や宣教師の書簡にあるみたいだね。真田丸の考証の先生が紹介してたけど。 -- 名無しさん (2017-01-07 02:02:15)
- 他家に養子に出されては戻された日々で荒れて若い頃からアル中、ねねの他大勢の人間から借金までしていた。最近では酒の飲みすぎで肝硬変を患っていたのが死因らしい -- 名無しさん (2017-02-11 23:12:02)
- とりあえずみんな「我が名は秀秋」読もうぜ -- 名無しさん (2019-01-31 12:39:20)
- 最近じゃあ鬼切丸伝で怨霊ネタを使われて死んだ人 -- 名無しさん (2019-01-31 16:08:37)
- 鉄砲を撃ちかけられて~は有名だが現地調査したら弾はおろか銃声さえ届かないと判明、やっぱ死人に口なしで悪い部分押しつけられたんやろな -- 名無しさん (2019-01-31 16:16:31)
- 浅利陽介氏、ググってみたら確かにイメージぴったりだわw -- 名無しさん (2019-08-03 01:56:01)
- 結果的に徳川家臣ダシに使ってMVP獲ったという恨み買ったが、小早川家の戦後の処遇も考えたら井伊や福島が戦場に居る状況で寝返りは出来んわな。絶対に難癖付けられる -- 名無しさん (2021-01-03 23:54:17)
- 上でも言われてたけど、裏切り上等なら三成に罵られて苦悩のあまり早世したりしなかっただろうな。もっと松永久秀あたりを見習ってみればよかった -- 名無しさん (2021-01-04 00:06:50)
- 苦悩とか以前に関ヶ原辺りでもう早世が確定するほど病状進んでるぞ -- 名無しさん (2021-01-04 00:19:43)
- せめて30代まで生きてまともに領地を治めてればもっとマシな評価だっただろうとは思う -- 名無しさん (2021-01-04 00:37:39)
- 10代なうえに全然戦してないのに朝鮮攻めの重要ポストなったのは戦死させるか失敗させて理由付けて粛清する気だったのかな秀吉 -- 名無しさん (2021-03-25 00:58:48)
- 小早川秀秋は裏切り者の代名詞で有名だが秀秋は死後に言われるようになったが片桐且元は生前から裏切り者と言われていた。 -- 名無しさん (2021-04-10 21:20:54)
- 徳川派の豊臣一門というだけで既に濃いのに関ヶ原のMVP、外様上位の石高、比較的畿内近い、実は有能だったっぽいとか長生きてたら当時の日本史の中心地待ったなし -- 名無しさん (2021-04-18 21:55:33)
- どう見ても秀吉による実子に跡を継がせる目的の冤罪で、立場的に義兄同然の間柄であったろう秀次が処刑されたの真横で見てたら豊臣の関白の座なんざ時限爆弾付きの椅子としか思えんわな… -- 名無しさん (2021-04-21 23:15:24)
- 朝鮮の役で無茶ぶりされた挙句、難癖で減封された(どうせ清正見殺しにしたらそれはそれで批判の種にするんだろ?)の見るに何が何でも秀秋を潰したい豊臣本家の執念が見える。他家に養子に行った時点で後継者候補から外れたんだからそれで満足しとけばいいのに -- 名無しさん (2021-06-12 13:35:06)
- 裏切り後に挽回の機会早世のせいでなかったことが一番悔やまれる部分だろう -- 名無しさん (2021-06-16 19:22:13)
- 上地雄輔が秀秋を演じた天地人を見て、秀秋が秀吉の養子だったことを初めて知って驚いたことを覚えてる。 -- 名無しさん (2021-07-12 20:09:02)
- 早世してもせめて子孫が残っていれば蜂須賀家みたく子孫が汚名返上してくれたかも -- 名無しさん (2021-10-14 15:58:22)
- 裏切り自体は下剋上の戦国時代の世の常とは言え、秀秋自身もまさか数百年後のその後の歴史を変える事になるとは思っていなかっただろうな。 -- 名無しさん (2023-05-14 10:15:29)
- 実は江戸幕府にしたら最高のプロパガンダの素材になるはずの関ヶ原が機密指定扱いになったのこいつがあまりにも極悪人だったからの可能性も? -- 名無しさん (2023-05-28 14:46:28)
- ↑秀秋をはじめとする豊臣系武将が活躍しすぎたから、機密指定扱いになったんじゃない?それで時を経て家康が活躍したという話がどんどん追加されたと -- 名無しさん (2023-06-13 07:51:49)
- 石田三成の亡霊って単に酒の飲み過ぎで酔っ払って幻覚を見ていただけじゃないか? -- 名無しさん (2023-06-14 07:15:12)
- それで幻覚を見るなら、本人が結構気にしてるってことで、(秀秋にとっては)亡霊と言っても過言ではない。 -- 名無しさん (2023-10-18 19:51:54)
- 優柔不断でもビビりでもない小早川というのもなかなか新鮮で面白かったな。でも早死するように見えなくなってしまうなそれだと。 -- 名無しさん (2023-11-29 16:33:12)
- 花の慶次のスピンオフ【花の慶次 かぶき旅】では【イケメン化+かっこいい扱い】になりましたね… -- 名無しさん (2025-01-03 10:21:50)
- 秀秋が西軍に付いた理由は三成云々じゃなく毛利輝元が西軍の総大将だったからじゃないかな。小早川家にとって毛利家は本家筋だし当時の輝元は秀頼、家康に次ぐ豊臣政権のNo.3。初手で秀頼って錦の御旗と大阪城を抑えてるし兵力的にも毛利家と宇喜多家を合わせたら徳川家とも互角に渡り合える。当時は西国の方が先進地帯だから長期戦になれば西軍有利って観測もありだと思うが -- 名無しさん (2025-01-19 21:01:32)
- 聚楽第行幸の際に諸大名の出した誓紙の受取人が6歳辺りの秀秋だったこと考えたら一時期は秀次差し置いて後継者候補だったんだよな 小早川に行かなかったら秀次ルートもあり得たんだろうか…? -- 名無しさん (2025-03-06 22:03:26)
最終更新:2025年03月12日 19:59