豊臣秀吉(戦国武将)

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&font(#6495ED){登録日}:2009/10/18(日) 19:14:27 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 12 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- ※この項目では、戦国時代の人物としての豊臣秀吉について記述しています。 ゲーム、漫画等の豊臣秀吉についてこの項目に記載するか、別に項目を立てるかは各人の判断に御任せ致します。 &ruby(とよとみ){豊臣}&ruby(ひでよし){秀吉}は戦国時代の武将、大名である。 幼名はひよし、通称は藤吉郎。猿に似ていた顔から、主君[[織田信長>織田信長(戦国武将)]]始め、織田家家臣時代は専ら「猿」と呼ばれたとか。 また禿げてやせた頭から「ハゲ鼠」とも呼ばれていた。 豊臣秀吉は彼の最後の名前であり、それまでに木下藤吉郎→羽柴秀吉→藤原秀吉(近衛前久の猶子時)と名前を変えた。 **経歴 尾張中村に生まれた下級足軽の子とされるが、実は素性ははっきりとは分かっていない。 よく元は百姓やら木こりだともされているが、これは民衆の支持を得るため(嫉妬されないように)に積極的に流布していた可能性が結構高い。 とは言え、いずれにせよ元々の身分はそう高くは無かったとは類推されている。 確かに存在が確認出来るのは1558年頃からであり、美濃攻めに従軍した後1568年の上洛戦ではいきなり[[柴田>柴田勝家]]や[[丹羽>丹羽長秀]]などの名だたる武将と共に活躍している所を見ると、 美濃攻めの時に破格の出世をしたとみられる。後に明智光秀と共に京都守護に就くなど次第に頭角を顕す。これは彼の人生における第一の「逆転」であろう。 下剋上を象徴しているとも言えるが、信長の慧眼も非常に大きい。 1570年の金ヶ崎撤退戦では明智、池田と共に殿を努め、全軍の帰還を支援した。 その後元亀争乱の時には一貫して北近江の浅井氏攻めに関わっており、一度も防衛ラインを破られる事無く浅井氏を滅亡に追い込んだ。 その功績で、浅井氏の旧領北近江長浜12万石をそのまま与えられ大名に出世する。いかに信長が彼を評価していたかが窺える。 その後、武将として織田の中核をなすようになり、「羽柴秀吉」と改名する。 ちなみにこの名字は、『丹「羽」長秀と「柴」田勝家から取って「羽柴」という名字にした』というのが通説だが、実は確かな由来は分かっていない。 確かに長秀と勝家は織田家において有力な家臣であったが、勝家の方が格上であるため、長秀由来の「羽」を先にするのは勝家に対して失礼であり、 当時の常識に照らして考えれば、最初からこの両名から一字ずつもらって名字を付けるなら「羽柴」にはならないと考えられるからである。 そのため、元々「はしば」という名字を付けるつもりであり、漢字を当てる際に柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつもらったのでは、等の説が唱えられている。 「羽柴秀吉」となった秀吉は、中国毛利氏攻めに専念。 三木城の別所長治に裏切られて苦戦する等決して順風満帆とは行かないまでも、[[宇喜多直家>宇喜多直家(戦国武将)]]を味方に引き入れたり、 彼が十八番とした数々の攻城戦の結果、現在の兵庫県から岡山、鳥取県辺りまでを征服し信長に但馬、播磨2か国(約47万石)を与えられる。 家臣を多く集めたり、出来るだけ被害を少なく済ませようと努力したりしたとされるが、前者は信用出来る一門が居なかった事が関連しており、 後者も味方に対してのみであり、敵は撫斬りしたり、問答無用に干殺し・飢え殺し((殺すまでの意図はなかったという説もあるが、他の例を考えると味方に損害が出なければどうでも良かったんじゃないかと思われる。更に恐らく想定外だった気もするのだが餓死寸前の者達に注意せず飯をそのまま与えたことにより、(困窮のあまり死体の人肉や脳みそなどまで食したとされる)残った約半数をショック死させた。))・水攻めを試みるなど当時の世情を考えてもなおえぐい事を一通りやってのけているため、実に微妙だと言わざるを得ない。 後世において魔王だの何だのと恐れられつつも、実は名君として辛抱強い対応や情の有る対応もよく行っていた信長と比べて明らかにえぐいことをしている。 ここから彼の人生は第二の逆転の道を突進む。 仕える主君である信長が本能寺の変で討ち取られてしまったのである。 備中高松城を包囲していた秀吉は、捕らえた明智方の使者が持っていた密書で主君の訃報を知る(偶然自陣に迷い込んできた、秀吉が周囲に放っていた忍びが怪しんで捕らえたなど、その経緯は諸説ある)。 秀吉は敬愛する主君が討たれたことに茫然自失となったとされるが、軍師である黒田官兵衛に天下取りの好機と忠告されて復調。 信長死去について部下に箝口令を敷き、手早く毛利との講和を成立させるや、交換条件である清水宗治の切腹を見届けた後に直ちに反転。 驚異的な行軍速度で姫路城まで到着した秀吉は、情報を上手く扱って織田の旧臣たちを味方につけ、山崎の合戦にて明智光秀軍を撃破する。 後に『中国大返し』と呼ばれるこの強行軍では、秀吉は貯めていた財を惜しみなく兵に分配したり、できるだけ兵の持つ荷物を少なくしたりと、士気を保つためにかなり心を砕いたという。 なお、明智光秀が謀反を起こした明確な流れ・意図・理由が不明なことと(信長の扱いと実際に下剋上したことからして内心嫌だったんだろうなという推察しか現状ない)、 更に光秀が織田家を滅ぼした後の展望が不明なこと、 更に秀吉は毛利家と遠方で戦争中だったにも関わらず、都合よく主君の訃報を速く知り、そしてありえないぐらいの速さで転進して当の明智光秀を撃破し、後述するが主家を乗っ取っていること、 更に光秀を倒した後の動きも想定していなければありえないぐらい理想的な流れに持ち込んでおり(後述)、家康の介入以外は全て彼の理想通りと言っても過言ではない。 更に彼が当時の名だたる天才達にも決して見劣りしない天才だったことから、 &bold(){彼が明智光秀に信長暗殺(とその後の信忠撃破)をそそのかし、最後に口封じを狙ったのでは?}などの陰謀説も割と根強い。 秀吉が本当に首謀者や共犯者ならば、明智光秀がその事実を公表していないのはおかしいとする意見もあるが、 仮に一緒に裏切る算段をつけていたならば言わないこともおかしいことではない。 背後からの奇襲や内部からの攻勢も可能になるため言わないメリットは大きく、仲間になるかどうか分からない者に伝えると情報漏洩する恐れが高い。 信長を討った後の咄嗟的な仲間集めの際に言うにしても本能寺の変の時に秀吉は遠方に居たので効果が薄く(本来ならそんな早くに戻ってこれていない)、 更に秀吉に討たれているわけだから、言っていたとしても秀吉が妄言だと言えばそれで終わってしまう話である。 もちろん証拠は一切ないので想像の域を脱することは無い。 本能寺の変を知った秀吉が、上記の天才的な才覚と手腕を持って、現状での最善手を打っていったことで理想的な流れを引き寄せたとしてもおかしくはない。 毛利と講和を素早く結んでからの即撤退は博打だったが、これもいくらなんでもタイミングや手際が良すぎることが怪しいだけである。 ちなみに信長が討たれたとあっては速やかに撤退する価値が何よりも大きく秀吉もそのように認識していたはずなので、光秀との関係に関わらず危険を承知で博打をうったことは疑いようがない。 一方で追う側も相応の準備が必要なのでスタートダッシュさえ決めれば逃げられると、元々考えていたように思える行動を取っているのでそこまで分が悪いとも思っていなかったかもしれない。 清洲会議では信長の嫡孫、三法師(後の秀信)を後継に推し、その保護者となる事で織田家での地位を高めようとする。ここらで柴田勝家との立場が逆転。 …が当然この露骨な動きに対して、柴田勝家はお市の方と結婚して織田家と血縁関係となる上に領地分配の際に秀吉の領地を受領する等、 秀吉の織田家乗っ取りを警戒して肘鉄を当ててきたのである。 一応最初はお互いの主張を汲んだ形で決着をつけているが(仇を討った秀吉の方が有利ではあるが)、その後も激しい主導権争いが続く。 その為に柴田勝家・織田信孝・滝川一益を撃破。信孝、勝家を自害させる。(賤ヶ岳の戦い) また、織田信雄・[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]の連合軍と戦い(小牧・長久手の戦い)、緒戦には破れたものの信雄とは和睦、外交的に勝利し徳川家康の臣従にも成功する。 ただし、この戦い自体は秀吉側にとっては蛇足、アクシデント以外の何物でも無く徳川、織田家に対して配慮を強いられるようになってしまった。 世間的に秀吉に丸め込まれる形で和睦したと取られ、無能扱いされている信雄だが自前の戦力が乏しい現状であり、戦いが続けば織田も徳川も討ち滅ぼされたり泥沼化して他国の大名が介入する可能性もあった。 そういう意味では緒戦で優勢を勝ち取って秀吉側が怯んでいる内に和睦して譲歩を迫るのは決して悪手ではない。 (そもそも秀吉側に看破されずに父の同盟相手と言う希薄な繋がり((ただし、信長と家康は敵対することもあったりしたが要所要所で長く苦楽を共にした戦友でもあり、関係性は希薄でも織田家との仲そのものはかなり良かったと思われる))の家康と連合軍を結成して戦いに持ち込めただけでも大したものである。) その後、朝廷から豊臣の姓を賜った上で、太政大臣、関白に就任し、四国は[[長曽我部>長宗我部元親(戦国武将)]]、九州は[[島津>島津義弘(戦国武将)]]を降し、1590年、小田原征伐・奥州仕置により天下を統一。 人臣の限りを尽くし、天下人となった彼は正しく絶頂期であった。 しかし、この天運は次第に彼の人生を、そして彼自身を狂わせていく。 脆弱な自身の政治基盤を固める過程で、信用出来る者を自分の周りに置いていくという当たり前の行為によって周囲はイエスマンばかりで固まっていき、 弟・秀長や母の死後、彼の行いは次第に狂気を増していく。 これは部下から見れば最高の上官と褒め称えて当然と言えるぐらいだったのだが((味方を見捨てたり、下剋上の世とは言え大恩のある主家を乗っ取ったりなどしているので、『部下』ではなく『味方』として見たら……というところも強い))、同時に&font(#ff0000,b){絶対に敵に回したくない人}なので、結果的に見ればこうなるのは当然の流れだった。 まず、息子の拾(秀頼)を後継者にしたいが為に、養子にし、自身の後継者として育てていた甥・秀次を切腹に追い込んだ上、親族・関係者数十人を公開処刑。 その中には秀次とろくに会った事も無い、最上家の娘・駒姫もいた。(側室になった直後に巻き込まれた) この事件をきっかけに[[最上義光>最上義光(戦国武将)]]や秀次と懇意であった諸大名は家康との関係を深め、一気に反秀吉急進派となっている。 また、千宗易(千利休)を言い掛かりのような罪状で切腹させる。(もし死罪にするにしても商人である宗易に武士の作法である切腹を命じるのは常軌を逸している) ストッパーとなっていたのは肉親のみで、家臣は全員が成り上がりの過程で雇ったサラリーマンの様なものだった。 天下人となった後、肉親が死ぬことで歯止めが効かなくなったのはある意味彼の不幸と言えよう。 また、晩年になってやっと生まれた実子(注:父親別人疑惑は後世になって出た説)に跡を継がせることをあまりに執着したがあまり、 十分な後継者育成や周辺環境を整えることができなかったのも豊臣氏が一代で勢力を失い、豊臣家がほぼ断絶する原因となってしまった。 ※織田氏も一代で勢力を失ったが、これは信長の後継者である信忠が本能寺の変で討ち死にしたことが最も大きい。 信長は後継者に指名した信忠に天下人となるための十分な教育を行っており、信忠は信長のような革新性はないが、君主として十分な器量を持っていたと考えられている。 更に信忠の死後に秀吉が割り込む形で権力を奪い取ったという流れなので、言わば内紛の延長で滅びたとも言える豊臣家とは話が異なる。 また、『織田家』というネームバリューは豊臣家や徳川家が天下を取った後もしっかりと残っている。 そして彼の晩節を汚したとも言われ、国力の浪費と共に日朝間に禍根を生んだのが 「朝鮮出兵」(日本正式名…文禄・慶長の役、現地名…壬辰・丁酉倭乱) である。 これは明侵略の先駆けに李氏朝鮮領内の通過と助勢を依頼したが断られた、とされている。 しかし実際は国内に分譲可能な領地が減少し、失業寸前で特に不満の強かった武断派武将の反乱を抑える為の「公共事業」として戦を行った側面もある。 天下統一の傷も癒えない頃合い、しかも自身の寿命に焦ったのか文治派と武断派の調整も取らず無謀な戦略で始まった戦は泥沼化。 戦の内容は諸説あるが、上陸後あっという間に進軍出来すぎて補給線が伸びきってしまったこと・当時の朝鮮半島には略奪して軍を賄うほどの食料がなく補給に困ったことが挙げられている。 なお、海路~釜山まではそれほど補給に困っておらず、慶長の役になるとその時の経験からか補給線を維持出来ている。 しかしながら結果としては多大な犠牲を出すだけで、秀吉の死と共に終結した。 余談だがこの時秀吉と戦った李舜臣(イ・スンシン)は韓国の国民的英雄として知られているが、色々と盛られている模様。 このときのいざこざが原因で武断派七将の三成襲撃事件が起きる。 晩年は信長の幻影に怯えて失禁するなどの奇行が目立ち、「盛者必衰」の如く、栄華を誇った天下人とは思えないほど惨めな晩節だったと言われる。 そして今際の際には家康ら五大老に秀頼の今後だけを一心に頼み、亡くなったという。 **逸話 彼には逸話が多いがその殆どは小瀬甫庵「絵本太閤記」などの後世の創作の可能性が高く、彼の実像を語る術になるとは限らない。 信長に重宝され、確かな戦果を残し、天下人として生存中は権力を握り続けることが出来たため、 戦術・戦略・施政のいずれも才能があったことだけは確かだと言える。 また、いくら切実な理由があったとは言え戦略や実子の件を鑑みるに自己中っぷりが周囲からも透けて見えた(敵対者からすると好かれることはまずない)という欠点も確かだろう。 -親が遺した一貫文を元手に行商を行なった。携帯性が良い針を売っていたようである。 -蜂須賀小六(正勝)に一時期仕え、後に織田家に小六を推挙した。 --尚、出会ったのは矢作川の橋の上と有るが、この時代矢作川に橋は無い。 -今川家臣・松下之綱に仕えていた事もあり、後に大名にしている。 -信長の草履取りをしていた。ある寒い朝、信長が草履が暖かいのに気がつき草履を尻に敷いていたのではないか、と疑ったが秀吉は懐で温めていた。 -信長に小便を引っ掛けられた。「小便を掛けられて怒鳴ってみたら信長様だった。」な、何を言って(ry -清洲城の崩れた石垣を割普請(チーム毎に担当区域を分け、早く仕上がったところには賞与すると明言)で三日間のうちに修復。 -美濃攻略の際には墨俣に「一夜城」を築いたとされる。川上で木を伐採、パーツの形状に加工して川を下り拠点で組み立てたという。 -[[竹中半兵衛>竹中半兵衛(戦国武将)]]に三顧の礼を取る。 --ただしこれは三国志演義の[[劉備]]と[[諸葛亮]]を参照した可能性が高い。 -信長の命令に背いて謹慎中、芸者を呼んで大騒ぎ。これは鬱々してると怪しまれるという読みから。 -鳥取城では米価の操作(米の買占め)後の兵糧攻め、備中高松城では堤防工事による水攻めとバラマキ型の政治、攻城戦が得意。 -真夏の戦でぐったりする兵のために傘を大量に買い集め、敵味方関係なく被せて回るなど、特に若い頃は「人蕩し」と言われるほど他人の心の機微を読んだ振る舞いが得意だった。 -無学だが、勉強熱心。歌の腕前も悪くは無いし、素朴な字を書く。ちなみに秀吉の残した書の文字を見て、かの北大路魯山人も「上手い」と称賛している。 -地元には年貢を免ずる代わりに野菜を届けさせた。好きだったんだろう。 -元々武士ではなかったためか、当時の武将の嗜みとされた男色を敬遠していたとされる。&br()そのことを危惧した家臣達が、家中でも一番の美男子と呼ばれる小姓を呼んで秀吉の傍に置かせたのだが、秀吉はその小姓に対し「お前に姉か妹はおるか?」と聴いただけで、決して手を出さなかったという。 --しかし小姓の有用性は認めており、森蘭丸らに対する礼は尽くしていたとか。 -自らの生まれに対するコンプレックスからか、女性の趣味は高貴な生まれの上淫好みだった。&br()好色家でもあり、貴族や武士の娘によるハーレムを築いていたという。 --尤も、ハーレム自体は珍しいことでもなかったようで、家康等も作っている。 -奇形の一種である、多指症(手の指が六本)だった説がある。&br()親指が二本あり、その件で信長にからかい半分に褒められた記録が残っている(成人に至るまで切り落とさず残しているとは見上げた奴だ)。 --肖像画では隠されているあたり、本人にコンプレックスがなかったわけではないようだ。 **彼を取扱った作品 ・小説 吉川英治「太閤記」 司馬遼太郎「新史 太閤記」 加藤廣「秀吉の枷」 山田風太郎「妖説太閤記」 ・漫画 「センゴク」シリーズ 「[[へうげもの]]」 「信長の忍び」 ・ゲーム [[戦国無双]]シリーズ [[戦国BASARA]]シリーズ 太閤立志伝シリーズ その他、多くの歴史ゲーム ・彼にあやかった人物 相澤秀禎(サンミュージック創業者 本名は「相澤與四郎」) 羽柴誠三秀吉(実業家、選挙マニア 本名は「三上誠三」) #center(){&bold(){&color(GOLDENROD){露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢}}}((訳:露のようにこの世に生まれ、また露のようにはかなく消え去っていく我が身であることだ。大阪城(浪速)で過ごした栄華の日々も、夢のなかの夢のようにはかないものだった。)) 追記・編集宜しくお願い致します。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,8) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 小牧長久手って家康の勝ちというより、秀吉の舐めプにも取れるな &br()結果論だが、関ヶ原勃発したの見ると秀次や利休切腹も将来の火種になったろうし…手加減無さ過ぎだが -- 松永さん (2013-04-09 16:58:41) - 竹中直人の秀吉は最強の秀吉 -- 松永さん (2013-05-22 16:54:59) - 秀次切腹は跡継ぎのゴタゴタをなくすためには悪くはなかったが、流石に色々と不味すぎた、秀長や堀の死は色々大きかった -- 名無しさん (2013-08-07 19:20:52) - またの名を超時空太閤 -- 名無しさん (2013-08-07 19:34:10) - 山田風太郎のは「甲賀忍法帖」ではなく[ -- 名無しさん (2013-08-07 21:16:42) - ミスった。山田風太郎のは「甲賀忍法帖」ではなく「妖説太閤記」じゃ?おそらく数ある黒い秀吉を描いた作品の中でも最もドス黒く哀れな秀吉を描いた小説。 -- 名無しさん (2013-08-07 21:18:16) - 秀次単体ならまだ理解も評価もできたが、流石にその妻子や関係者無差別に処罰したのは擁護の仕様がない。しかも秀次事件であちこちから恨み買った所為で結果的に息子や孫の命運を決めた感じだし… -- 名無しさん (2013-09-16 01:26:54) - ↑ただ根切りって &br()どこからどこまでって 明確な基準がないからな &br()残せば 残党化するし根絶やせば 第三者の恨みかうし &br()源頼朝から松平容保まで根絶やししたしないで 偉い違うし -- 松永さん (2013-09-16 08:46:15) - ↑そもそも根切り出来る程血縁に余裕が無い気が……。息子に継がせたい気持ちは分かるけど、結局こう言う行動が祟って家康みたいなのに後を頼まなきゃならなくなってるし -- 名無しさん (2013-09-16 08:53:49) - やはり最大の欠点は親族だよな。弟・秀長にも実子はいなかったし、秀頼ももう少し早く生まれていたら秀次もああはならなかっただろうし -- 名無しさん (2013-09-26 22:05:25) - そもそも女好きなのに男児に恵まれなかったのが悲劇。ねねとの間に男児がいれば豊臣家はもったかもしれないのにな。 -- 名無しさん (2013-09-26 23:41:33) - 李は結局奇襲仕掛けたが、島津にボコられて終わりだったな。逸話は太閤記だけでもない。日朝関係は前から壱岐対馬侵略などで既に悪かった。 -- 名無しさん (2014-01-26 15:55:36) - 失禁とかガセでしょ。出兵も色々説あるし、断定してるのはどうよ?攻めない限り攻められない体制は作ったわけだし。戦闘もほとんど勝ってるしな。義勇兵も各個撃破、明も押し返した。まぁ色々な説や考えが載るのが好ましいが。晩説は汚していないと思うぞ。 -- 名無しさん (2014-01-26 16:06:58) - 領土を一坪も手に入れられなかった以上朝鮮侵攻は失敗なのはどうあがこうとも揺るがない事実 -- 名無しさん (2014-01-26 21:56:29) - 覇者にはなれても王者にはなれなかった系統だな。しかしタグの「ノンケ」で頬が緩むな。ホモだバイだが常態化してた武家出身者じゃない(たとえ武家だとしても農民同様の下位レベル)のがわかる。 -- 名無しさん (2014-01-26 22:02:19) - ↑家康も衆道にはほとんど興味なかったっぽいけどな(但し万千代は除く) -- 名無しさん (2014-01-26 22:27:04) - ↑家康は経産婦未亡人好きだな。 -- 名無しさん (2014-02-12 16:04:32) - 明への大討ち入りが悪いとは言わんが、やるなら、もう少し手際よくやって欲しいよな。といっても、日本国内なら調略と所領安堵、合戦の三点セットで勝てたけど、言語が通じず、中華思想に被れた連中相手では、正攻法だけでは限界なんだろうね。イギリスが清朝にやったみたいにアヘンを売りつけて国内をボロボロにして相手を挑発して、それからでないと勝てないだろうね。といってもそれは秀吉の時代には無い話なので、やっぱ大陸進出は夢でしかないのかな。 -- 名無しさん (2014-03-15 17:18:02) - ↑現地派兵組からすれば秀吉は明をとれ、と言われヒャッハーと行ってみて序盤朝鮮攻略で無双→明「意外とヤバい、本気出す」→補給失敗も重なり朝鮮軍も持ち直してきた、一方明・朝鮮も疲弊→………「「仕方ない」」と両陣営は現地で和睦、秀吉には勝ったと報告→皇帝から王にしてやるという書状を見て激怒、「延長だー!!延長しろ!!」→現地軍「まじかよ…」 -- 名無しさん (2014-05-24 13:01:24) - 中国大返しは地味な扱いにだけど世界的に見るととんでもない戦略機動なんだよな -- 名無しさん (2014-05-24 13:09:37) - 椎名高志の「ミスタージパング」は、テコ入れ大失敗だと思った。史実に添ってた前半は面白かったのに。 -- 名無しさん (2014-05-24 13:59:30) - 成りあがりなりに縁戚で体制固めたのに秀次事件で何もかもパぁにした --   (2014-05-24 15:30:06) - ↑×4 そこでアヘンを売りつけて、国内の人的資源をボロボロにして、相手に抗戦を断念させるのだろう。国内なら、米を買い占めて、 -- 名無しさん (2014-05-24 19:12:54) - ごめんなさい。続き。兵糧を無くして、村を焼き討ちして、農民を城に逃げ込ませて、食い扶持を増やして、兵糧の減りを速くさせ、長期戦を断念させるような。 -- 名無しさん (2014-05-24 19:15:56) - 羽柴が柴田と丹羽から採ったっていうのは一般に言われてるけどこれって文献とかにある?元にされなかった河尻や佐久間は泣いていい -- 名無しさん (2014-07-09 23:55:13) - 主君の死後、その息子(信孝)、妻のうちの一人(信孝の母)、孫(信孝の子)を殺しているのに家康ほど悪し様に言われない不思議な御仁 -- 名無しさん (2014-08-04 05:59:30) - かなり子作り頑張ってたのに、子供が中々出来ない&出来ても病弱&全然似てないんだけど、それ俺の子か? って散々な結果になったのは、秀吉の体に欠陥がある説があるみたいだな。六本指の点から見ても遺伝子が何かおかしい事になってたんじゃっていう -- 名無しさん (2014-08-17 08:31:26) - ED説あるかも -- 名無しさん (2014-08-17 09:00:55) - ≫強い立場で物を言える肉親も世を去り、家臣も全員が成り上がりの過程で雇ったサラリーマンであったため、天下人となってしまうと歯止めが効かなくなったのはある意味彼の不幸と言えよう。 共産主義社会主義国家の独裁者にも言える事かもしれないな。 -- 名無しさん (2014-08-18 17:57:41) - 戦上手の人物ではあるんだな。孫子と考えかたは似てるし。 -- 名無しさん (2014-08-21 13:17:46) - こんばんは豊臣秀吉です -- チータス (2014-09-11 15:23:56) - 一時的にとはいえ家康を豊臣に膝まずかせた秀長が先に死んだのは痛すぎる……後に残ったのは官僚思考のイエスマン(石田・長束・大野)、軍才・現実思考に長けるが発言力に乏しい大谷といった若手と小飼の宇喜多。武田といい、No.2が崩れると組織は乱れるな。 -- 名無しさん (2014-09-11 18:29:27) - 組織はNo.2で決まるらしいです -- 名無しさん (2014-09-11 18:38:24) - 中国の劉邦、朱元璋、毛沢東もそうだけどなんで底辺から成りあがった支配者は晩年暴走するんだろうか。 -- 名無しさん (2014-09-11 19:18:56) - ↑むしろ底辺から成り上がったから...とか?成り上がりだから、どん底の生活を知ってて「あの頃に逆戻りしたくない!」→持ってるものすべて失いたくないから邪魔するものや目障りなものはすべて消去したがるし、「天下人になった俺に不可能はない!」というトンデモ発想になる...とか...? -- 名無しさん (2014-09-11 19:30:11) - ↑2 暴走する奴だけ目立つから。一般に成り上がり者は周囲の反感を買いやすい。 -- 名無しさん (2014-09-11 19:46:01) - ↑17 &br()明が降伏しましたとか報告されたのに、明の使者の書状が、王として認めて冊封体制に入れたる。じゃ、そりゃあかん &br() &br() -- 名無しさん (2014-10-25 14:24:59) - 竹中直人の演じる秀吉ほんと大好き。心・配・御・無・用!! -- 名無しさん (2014-11-04 17:18:51) - 失禁に関しては本当だったようだ。駒井重勝という人物が日記に残している -- (2014-12-13 12:34:38) - 頼朝の像に対して「貴方は親(義朝)の遺産があったからこそ天下人になれたが私は腕一本で天下を掴んだ」と言わしめながら皮肉にもその頼朝と同じような事を晩年に犯した結果が子飼いの武将たちの離反等を生み出して自身の家系を滅亡させるという…。 -- 名無しさん (2015-02-09 00:55:11) - 本当に弱い基盤しか持ってないし杜撰な組織しか作れなかったよな よく足利幕府と似ていると言われるけど足利幕府に失礼なくらいに弱い組織図だし 仮にも名門出身と出生も明らかでない成上がりとの違いが出たね -- 名無しさん (2015-10-10 12:36:52) - 李みたいな騙し討ちと停戦して引き上げてる相手を命令無視して後ろから襲って返り討ちに逢ったのが英雄って…。 -- 名無しさん (2015-10-10 12:51:19) - 自分が年を重ねたからか最近は3傑の内で秀吉が一番気に入ってる -- 名無しさん (2016-03-04 22:57:13) - ↑19 作家八切止夫は「端柴売りの稗吉」からとったという説を打ち立ててるな。 -- 名無しさん (2016-04-03 08:20:35) - 秀吉は源頼朝と同じに見えてくる。あれだこれだ粛清しまくる、子供達は不幸な最期を遂げる、家が取って代わられて滅ぼされるとかさ。 -- 名無しさん (2016-05-15 19:02:36) - ↑頼朝も秀吉も成り上がりもので内に秘めていた強迫観念に潰されたもの同士だからな。 --   (2016-05-15 19:32:12) - 晩年の秀吉は認知症を患っていたのではと言う説も。 -- 名無しさん (2016-06-19 13:26:30) - 権力者が老人ボケとかたち悪いとかいうレベルじゃねぇな・・・ -- 名無しさん (2016-06-19 14:13:06) - 秀吉って『外征』『粛清』『荒淫』『過度の土木事業』っていう煬帝と同じことやらかしたって点では日本には珍しい暴君だったんだよな --   (2016-06-19 21:10:56) - ↑2 だからこそ諌言してくれる、信頼できる腹心は絶対必要なんだよね。中国古典だが戦国策なんか見てると繰り返し「外見や聞こえのいいあっぱらぱーよりしっかりした相手をそばに置け」って言ってる -- 名無しさん (2016-08-24 16:16:37) - ↑3 -- 名無しさん (2016-09-01 01:23:41) - (si -- 名無しさん (2016-09-01 01:23:49) - 「真田丸」では認知症説を取り入れられてる。確かに晩年の奇行とか失禁とかが認知症のそれと完全に一致するんだよなぁ… -- 名無しさん (2016-09-01 01:43:52) - たまに「猿」呼ばわりされていたのって「節操なく女性に手を出しまくってたからじゃあ」って思う時がある。 -- 名無しさん (2016-11-02 10:10:14) - ↑ わかる、日本史でもかなり目立つ女好きだしね。 -- 名無しさん (2016-11-02 11:53:37) - 家康が天下取れなくなるけれど晩年の秀吉を見ていると何だか哀愁を感じてしまう。 -- 名無しさん (2017-04-16 02:12:08) - ↑7 だからこそ弟の秀長が先に死んだのが決定的だな。 -- 名無しさん (2017-05-16 14:55:40) - 秀長の死後から一か月で千利休が切腹させたりとか朝鮮出兵とか秀吉の暴走が一気に進んだし。 -- 名無しさん (2017-05-16 14:59:30) - 人誑しではあるけど人を見る目は節穴だよなこの人 -- 名無しさん (2017-05-26 16:43:42) - 秀頼可愛さかどうかはわからないけど結果的に首を絞めてしまった秀次粛清は秀頼派と秀次派で分裂することを恐れたのか秀次の方を担ぎ上げて誰かが謀反を起こしたりするのを避けるためだったのかどちらが有力説になるだろうか。 -- 名無しさん (2017-11-07 17:55:44) - ↑ 分裂以前に、先に「後継者」として発表しちゃった秀次がいる限りどうやっても秀頼が家督継げないからね。安直に邪魔者は排除せねばと思ったんじゃないだろうか -- 名無しさん (2018-03-27 10:28:59) - 人間って成功するときは多種多様だけど、失敗する時は大体同じだよな。 -- 名無しさん (2018-12-15 04:35:40) #comment #areaedit(end) }
&font(#6495ED){登録日}:2009/10/18(日) 19:14:27 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 12 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- ※この項目では、戦国時代の人物としての豊臣秀吉について記述しています。 ゲーム、漫画等の豊臣秀吉についてこの項目に記載するか、別に項目を立てるかは各人の判断に御任せ致します。 &ruby(とよとみ){豊臣}&ruby(ひでよし){秀吉}は戦国時代の武将、大名である。 幼名はひよし、通称は藤吉郎。猿に似ていた顔から、主君[[織田信長>織田信長(戦国武将)]]始め、織田家家臣時代は専ら「猿」と呼ばれたとか。 また禿げてやせた頭から「ハゲ鼠」とも呼ばれていた。 豊臣秀吉は彼の最後の名前であり、それまでに木下藤吉郎→羽柴秀吉→藤原秀吉(近衛前久の猶子時)と名前を変えた。 **経歴 尾張中村に生まれた下級足軽の子とされるが、実は素性ははっきりとは分かっていない。 よく元は百姓やら木こりだともされているが、これは民衆の支持を得るため(嫉妬されないように)に積極的に流布していた可能性が結構高い。 とは言え、いずれにせよ元々の身分はそう高くは無かったとは類推されている。 確かに存在が確認出来るのは1558年頃からであり、美濃攻めに従軍した後1568年の上洛戦ではいきなり[[柴田>柴田勝家]]や[[丹羽>丹羽長秀]]などの名だたる武将と共に活躍している所を見ると、 美濃攻めの時に破格の出世をしたとみられる。後に明智光秀と共に京都守護に就くなど次第に頭角を顕す。これは彼の人生における第一の「逆転」であろう。 下剋上を象徴しているとも言えるが、信長の慧眼も非常に大きい。 1570年の金ヶ崎撤退戦では明智、池田と共に殿を努め、全軍の帰還を支援した。 その後元亀争乱の時には一貫して北近江の浅井氏攻めに関わっており、一度も防衛ラインを破られる事無く浅井氏を滅亡に追い込んだ。 その功績で、浅井氏の旧領北近江長浜12万石をそのまま与えられ大名に出世する。いかに信長が彼を評価していたかが窺える。 その後、武将として織田の中核をなすようになり、「羽柴秀吉」と改名する。 ちなみにこの名字は、『丹「羽」長秀と「柴」田勝家から取って「羽柴」という名字にした』というのが通説だが、実は確かな由来は分かっていない。 確かに長秀と勝家は織田家において有力な家臣であったが、勝家の方が格上であるため、長秀由来の「羽」を先にするのは勝家に対して失礼であり、 当時の常識に照らして考えれば、最初からこの両名から一字ずつもらって名字を付けるなら「羽柴」にはならないと考えられるからである。 そのため、元々「はしば」という名字を付けるつもりであり、漢字を当てる際に柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつもらったのでは、等の説が唱えられている。 「羽柴秀吉」となった秀吉は、中国毛利氏攻めに専念。 三木城の別所長治に裏切られて苦戦する等決して順風満帆とは行かないまでも、[[宇喜多直家>宇喜多直家(戦国武将)]]を味方に引き入れたり、 彼が十八番とした数々の攻城戦の結果、現在の兵庫県から岡山、鳥取県辺りまでを征服し信長に但馬、播磨2か国(約47万石)を与えられる。 家臣を多く集めたり、出来るだけ被害を少なく済ませようと努力したりしたとされるが、前者は信用出来る一門が居なかった事が関連しており、 後者も味方に対してのみであり、敵は撫斬りしたり、問答無用に干殺し・飢え殺し((殺すまでの意図はなかったという説もあるが、他の例を考えると味方に損害が出なければどうでも良かったんじゃないかと思われる。更に恐らく想定外だった気もするのだが餓死寸前の者達に注意せず飯をそのまま与えたことにより、(困窮のあまり死体の人肉や脳みそなどまで食したとされる)残った約半数をショック死させた。))・水攻めを試みるなど当時の世情を考えてもなおえぐい事を一通りやってのけているため、実に微妙だと言わざるを得ない。 後世において魔王だの何だのと恐れられつつも、実は名君として辛抱強い対応や情の有る対応もよく行っていた信長と比べて明らかにえぐいことをしている。 ここから彼の人生は第二の逆転の道を突進む。 仕える主君である信長が本能寺の変で討ち取られてしまったのである。 備中高松城を包囲していた秀吉は、捕らえた明智方の使者が持っていた密書で主君の訃報を知る(偶然自陣に迷い込んできた、秀吉が周囲に放っていた忍びが怪しんで捕らえたなど、その経緯は諸説ある)。 秀吉は敬愛する主君が討たれたことに茫然自失となったとされるが、軍師である黒田官兵衛に天下取りの好機と忠告されて復調。 信長死去について部下に箝口令を敷き、手早く毛利との講和を成立させるや、交換条件である清水宗治の切腹を見届けた後に直ちに反転。 驚異的な行軍速度で姫路城まで到着した秀吉は、情報を上手く扱って織田の旧臣たちを味方につけ、山崎の合戦にて明智光秀軍を撃破する。 後に『中国大返し』と呼ばれるこの強行軍では、秀吉は貯めていた財を惜しみなく兵に分配したり、できるだけ兵の持つ荷物を少なくしたりと、士気を保つためにかなり心を砕いたという。 なお、明智光秀が謀反を起こした明確な流れ・意図・理由が不明なことと(信長の扱いと実際に下剋上したことからして内心嫌だったんだろうなという推察しか現状ない)、 更に光秀が織田家を滅ぼした後の展望が不明なこと、 更に秀吉は毛利家と遠方で戦争中だったにも関わらず、都合よく主君の訃報を速く知り、そしてありえないぐらいの速さで転進して当の明智光秀を撃破し、後述するが主家を乗っ取っていること、 更に光秀を倒した後の動きも想定していなければありえないぐらい理想的な流れに持ち込んでおり(後述)、家康の介入以外は全て彼の理想通りと言っても過言ではない。 更に彼が当時の名だたる天才達にも決して見劣りしない天才だったことから、 &bold(){彼が明智光秀に信長暗殺(とその後の信忠撃破)をそそのかし、最後に口封じを狙ったのでは?}などの陰謀説も割と根強い。 秀吉が本当に首謀者や共犯者ならば、明智光秀がその事実を公表していないのはおかしいとする意見もあるが、 仮に一緒に裏切る算段をつけていたならば言わないこともおかしいことではない。 背後からの奇襲や内部からの攻勢も可能になるため言わないメリットは大きく、仲間になるかどうか分からない者に伝えると情報漏洩する恐れが高い。 信長を討った後の咄嗟的な仲間集めの際に言うにしても本能寺の変の時に秀吉は遠方に居たので効果が薄く(本来ならそんな早くに戻ってこれていない)、 更に秀吉に討たれているわけだから、言っていたとしても秀吉が妄言だと言えばそれで終わってしまう話である。 もちろん証拠は一切ないので想像の域を脱することは無い。 本能寺の変を知った秀吉が、上記の天才的な才覚と手腕を持って、その場その場で最善手を打っていったことで理想的な流れを引き寄せたとしてもおかしくはない。 「中国大返し」についても、成功したからこそ怪しまれる論拠になっているが、当時の状況でこの判断は(間違ってはいないとはいえ)かなりの大博打であり、 もしも毛利方が追撃を掛けて来ていたら毛利勢と明智勢に挟み撃ちになっていてもおかしくないので、仮に本能寺の変を知っていたとすれば&bold(){秀吉はわざわざ命懸けの危険を冒した}ことになる((少なくとも毛利勢は追撃するとなれば本気で殺しに掛かってくる))。 行軍速度に関しても、沼城から姫路城、つまりは毛利勢の追撃を受けかねない範囲からの離脱は素早かったものの、姫路城からは慎重に情報や加勢を集めながら常識的な速度で行軍しており、 細部を見ていくと「謀反を予め知っていた」とは考えられない行動や判断がみられる。 光秀がその事実を公表していない点についても、光秀自身が公表しない論拠は上述の通りだが、 敵対関係になってからも(もしも秀吉が首謀者や共犯者であるなら)そのことについて一切光秀が言及しないままに討たれた、というのはやはり不自然であり、 公表すれば織田の旧臣等は秀吉に付かないばかりか謀反人として攻撃する可能性もあり、秀吉勢とかなりの戦力差が存在した山崎の合戦時点では、光秀にとって公表する明確なメリットが存在する。 「公表はされたが勝者である秀吉が敗者の妄言として片づけた」という顛末であっても、後に秀吉と対立した家康や信雄にとっては反秀吉の恰好の攻撃材料となるのに、 当時家康や信雄が(光秀が公表したなら)一切そのことに言及していないというのもこれまた不自然である。 結局のところ、確かに秀吉は怪しく見えるものの、直接的な証拠がないこと以外にも秀吉は黒幕ではないと判断できる材料も存在しており、 少なくとも「光秀の背後に何者かがいた」という決定的な証拠が出てこない限り、巷でささやかれる俗説の域を脱することはないだろう。 清洲会議では信長の嫡孫、三法師(後の秀信)を後継に推し、その保護者となる事で織田家での地位を高めようとする。ここらで柴田勝家との立場が逆転。 …が当然この露骨な動きに対して、柴田勝家はお市の方と結婚して織田家と血縁関係となる上に領地分配の際に秀吉の領地を受領する等、 秀吉の織田家乗っ取りを警戒して肘鉄を当ててきたのである。 一応最初はお互いの主張を汲んだ形で決着をつけているが(仇を討った秀吉の方が有利ではあるが)、その後も激しい主導権争いが続く。 その為に柴田勝家・織田信孝・滝川一益を撃破。信孝、勝家を自害させる。(賤ヶ岳の戦い) また、織田信雄・[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]の連合軍と戦い(小牧・長久手の戦い)、緒戦には破れたものの信雄とは和睦、外交的に勝利し徳川家康の臣従にも成功する。 ただし、この戦い自体は秀吉側にとっては蛇足、アクシデント以外の何物でも無く徳川、織田家に対して配慮を強いられるようになってしまった。 世間的に秀吉に丸め込まれる形で和睦したと取られ、無能扱いされている信雄だが自前の戦力が乏しい現状であり、戦いが続けば織田も徳川も討ち滅ぼされたり泥沼化して他国の大名が介入する可能性もあった。 そういう意味では緒戦で優勢を勝ち取って秀吉側が怯んでいる内に和睦して譲歩を迫るのは決して悪手ではない。 (そもそも秀吉側に看破されずに父の同盟相手と言う希薄な繋がり((ただし、信長と家康は敵対することもあったりしたが要所要所で長く苦楽を共にした戦友でもあり、関係性は希薄でも織田家との仲そのものはかなり良かったと思われる))の家康と連合軍を結成して戦いに持ち込めただけでも大したものである。) その後、朝廷から豊臣の姓を賜った上で、太政大臣、関白に就任し、四国は[[長曽我部>長宗我部元親(戦国武将)]]、九州は[[島津>島津義弘(戦国武将)]]を降し、1590年、小田原征伐・奥州仕置により天下を統一。 人臣の限りを尽くし、天下人となった彼は正しく絶頂期であった。 しかし、この天運は次第に彼の人生を、そして彼自身を狂わせていく。 脆弱な自身の政治基盤を固める過程で、信用出来る者を自分の周りに置いていくという当たり前の行為によって周囲はイエスマンばかりで固まっていき、 弟・秀長や母の死後、彼の行いは次第に狂気を増していく。 これは部下から見れば最高の上官と褒め称えて当然と言えるぐらいだったのだが((味方を見捨てたり、下剋上の世とは言え大恩のある主家を乗っ取ったりなどしているので、『部下』ではなく『味方』として見たら……というところも強い))、同時に&font(#ff0000,b){絶対に敵に回したくない人}なので、結果的に見ればこうなるのは当然の流れだった。 まず、息子の拾(秀頼)を後継者にしたいが為に、養子にし、自身の後継者として育てていた甥・秀次を切腹に追い込んだ上、親族・関係者数十人を公開処刑。 その中には秀次とろくに会った事も無い、最上家の娘・駒姫もいた。(側室になった直後に巻き込まれた) この事件をきっかけに[[最上義光>最上義光(戦国武将)]]や秀次と懇意であった諸大名は家康との関係を深め、一気に反秀吉急進派となっている。 また、千宗易(千利休)を言い掛かりのような罪状で切腹させる。(もし死罪にするにしても商人である宗易に武士の作法である切腹を命じるのは常軌を逸している) ストッパーとなっていたのは肉親のみで、家臣は全員が成り上がりの過程で雇ったサラリーマンの様なものだった。 天下人となった後、肉親が死ぬことで歯止めが効かなくなったのはある意味彼の不幸と言えよう。 また、晩年になってやっと生まれた実子(注:父親別人疑惑は後世になって出た説)に跡を継がせることをあまりに執着したがあまり、 十分な後継者育成や周辺環境を整えることができなかったのも豊臣氏が一代で勢力を失い、豊臣家がほぼ断絶する原因となってしまった。 ※織田氏も一代で勢力を失ったが、これは信長の後継者である信忠が本能寺の変で討ち死にしたことが最も大きい。 信長は後継者に指名した信忠に天下人となるための十分な教育を行っており、信忠は信長のような革新性はないが、君主として十分な器量を持っていたと考えられている。 更に信忠の死後に秀吉が割り込む形で権力を奪い取ったという流れなので、言わば内紛の延長で滅びたとも言える豊臣家とは話が異なる。 また、『織田家』というネームバリューは豊臣家や徳川家が天下を取った後もしっかりと残っている。 そして彼の晩節を汚したとも言われ、国力の浪費と共に日朝間に禍根を生んだのが 「朝鮮出兵」(日本正式名…文禄・慶長の役、現地名…壬辰・丁酉倭乱) である。 これは明侵略の先駆けに李氏朝鮮領内の通過と助勢を依頼したが断られた、とされている。 しかし実際は国内に分譲可能な領地が減少し、失業寸前で特に不満の強かった武断派武将の反乱を抑える為の「公共事業」として戦を行った側面もある。 天下統一の傷も癒えない頃合い、しかも自身の寿命に焦ったのか文治派と武断派の調整も取らず無謀な戦略で始まった戦は泥沼化。 戦の内容は諸説あるが、上陸後あっという間に進軍出来すぎて補給線が伸びきってしまったこと・当時の朝鮮半島には略奪して軍を賄うほどの食料がなく補給に困ったことが挙げられている。 なお、海路~釜山まではそれほど補給に困っておらず、慶長の役になるとその時の経験からか補給線を維持出来ている。 しかしながら結果としては多大な犠牲を出すだけで、秀吉の死と共に終結した。 余談だがこの時秀吉と戦った李舜臣(イ・スンシン)は韓国の国民的英雄として知られているが、色々と盛られている模様。 このときのいざこざが原因で武断派七将の三成襲撃事件が起きる。 晩年は信長の幻影に怯えて失禁するなどの奇行が目立ち、「盛者必衰」の如く、栄華を誇った天下人とは思えないほど惨めな晩節だったと言われる。 そして今際の際には家康ら五大老に秀頼の今後だけを一心に頼み、亡くなったという。 **逸話 彼には逸話が多いがその殆どは小瀬甫庵「絵本太閤記」などの後世の創作の可能性が高く、彼の実像を語る術になるとは限らない。 信長に重宝され、確かな戦果を残し、天下人として生存中は権力を握り続けることが出来たため、 戦術・戦略・施政のいずれも才能があったことだけは確かだと言える。 また、いくら切実な理由があったとは言え戦略や実子の件を鑑みるに自己中っぷりが周囲からも透けて見えた(敵対者からすると好かれることはまずない)という欠点も確かだろう。 -親が遺した一貫文を元手に行商を行なった。携帯性が良い針を売っていたようである。 -蜂須賀小六(正勝)に一時期仕え、後に織田家に小六を推挙した。 --尚、出会ったのは矢作川の橋の上と有るが、この時代矢作川に橋は無い。 -今川家臣・松下之綱に仕えていた事もあり、後に大名にしている。 -信長の草履取りをしていた。ある寒い朝、信長が草履が暖かいのに気がつき草履を尻に敷いていたのではないか、と疑ったが秀吉は懐で温めていた。 -信長に小便を引っ掛けられた。「小便を掛けられて怒鳴ってみたら信長様だった。」な、何を言って(ry -清洲城の崩れた石垣を割普請(チーム毎に担当区域を分け、早く仕上がったところには賞与すると明言)で三日間のうちに修復。 -美濃攻略の際には墨俣に「一夜城」を築いたとされる。川上で木を伐採、パーツの形状に加工して川を下り拠点で組み立てたという。 -[[竹中半兵衛>竹中半兵衛(戦国武将)]]に三顧の礼を取る。 --ただしこれは三国志演義の[[劉備]]と[[諸葛亮]]を参照した可能性が高い。 -信長の命令に背いて謹慎中、芸者を呼んで大騒ぎ。これは鬱々してると怪しまれるという読みから。 -鳥取城では米価の操作(米の買占め)後の兵糧攻め、備中高松城では堤防工事による水攻めとバラマキ型の政治、攻城戦が得意。 -真夏の戦でぐったりする兵のために傘を大量に買い集め、敵味方関係なく被せて回るなど、特に若い頃は「人蕩し」と言われるほど他人の心の機微を読んだ振る舞いが得意だった。 -無学だが、勉強熱心。歌の腕前も悪くは無いし、素朴な字を書く。ちなみに秀吉の残した書の文字を見て、かの北大路魯山人も「上手い」と称賛している。 -地元には年貢を免ずる代わりに野菜を届けさせた。好きだったんだろう。 -元々武士ではなかったためか、当時の武将の嗜みとされた男色を敬遠していたとされる。&br()そのことを危惧した家臣達が、家中でも一番の美男子と呼ばれる小姓を呼んで秀吉の傍に置かせたのだが、秀吉はその小姓に対し「お前に姉か妹はおるか?」と聴いただけで、決して手を出さなかったという。 --しかし小姓の有用性は認めており、森蘭丸らに対する礼は尽くしていたとか。 -自らの生まれに対するコンプレックスからか、女性の趣味は高貴な生まれの上淫好みだった。&br()好色家でもあり、貴族や武士の娘によるハーレムを築いていたという。 --尤も、ハーレム自体は珍しいことでもなかったようで、家康等も作っている。 -奇形の一種である、多指症(手の指が六本)だった説がある。&br()親指が二本あり、その件で信長にからかい半分に褒められた記録が残っている(成人に至るまで切り落とさず残しているとは見上げた奴だ)。 --肖像画では隠されているあたり、本人にコンプレックスがなかったわけではないようだ。 **彼を取扱った作品 ・小説 吉川英治「太閤記」 司馬遼太郎「新史 太閤記」 加藤廣「秀吉の枷」 山田風太郎「妖説太閤記」 ・漫画 「センゴク」シリーズ 「[[へうげもの]]」 「信長の忍び」 ・ゲーム [[戦国無双]]シリーズ [[戦国BASARA]]シリーズ 太閤立志伝シリーズ その他、多くの歴史ゲーム ・彼にあやかった人物 相澤秀禎(サンミュージック創業者 本名は「相澤與四郎」) 羽柴誠三秀吉(実業家、選挙マニア 本名は「三上誠三」) #center(){&bold(){&color(GOLDENROD){露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢}}}((訳:露のようにこの世に生まれ、また露のようにはかなく消え去っていく我が身であることだ。大阪城(浪速)で過ごした栄華の日々も、夢のなかの夢のようにはかないものだった。)) 追記・編集宜しくお願い致します。 #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,8) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - 小牧長久手って家康の勝ちというより、秀吉の舐めプにも取れるな &br()結果論だが、関ヶ原勃発したの見ると秀次や利休切腹も将来の火種になったろうし…手加減無さ過ぎだが -- 松永さん (2013-04-09 16:58:41) - 竹中直人の秀吉は最強の秀吉 -- 松永さん (2013-05-22 16:54:59) - 秀次切腹は跡継ぎのゴタゴタをなくすためには悪くはなかったが、流石に色々と不味すぎた、秀長や堀の死は色々大きかった -- 名無しさん (2013-08-07 19:20:52) - またの名を超時空太閤 -- 名無しさん (2013-08-07 19:34:10) - 山田風太郎のは「甲賀忍法帖」ではなく[ -- 名無しさん (2013-08-07 21:16:42) - ミスった。山田風太郎のは「甲賀忍法帖」ではなく「妖説太閤記」じゃ?おそらく数ある黒い秀吉を描いた作品の中でも最もドス黒く哀れな秀吉を描いた小説。 -- 名無しさん (2013-08-07 21:18:16) - 秀次単体ならまだ理解も評価もできたが、流石にその妻子や関係者無差別に処罰したのは擁護の仕様がない。しかも秀次事件であちこちから恨み買った所為で結果的に息子や孫の命運を決めた感じだし… -- 名無しさん (2013-09-16 01:26:54) - ↑ただ根切りって &br()どこからどこまでって 明確な基準がないからな &br()残せば 残党化するし根絶やせば 第三者の恨みかうし &br()源頼朝から松平容保まで根絶やししたしないで 偉い違うし -- 松永さん (2013-09-16 08:46:15) - ↑そもそも根切り出来る程血縁に余裕が無い気が……。息子に継がせたい気持ちは分かるけど、結局こう言う行動が祟って家康みたいなのに後を頼まなきゃならなくなってるし -- 名無しさん (2013-09-16 08:53:49) - やはり最大の欠点は親族だよな。弟・秀長にも実子はいなかったし、秀頼ももう少し早く生まれていたら秀次もああはならなかっただろうし -- 名無しさん (2013-09-26 22:05:25) - そもそも女好きなのに男児に恵まれなかったのが悲劇。ねねとの間に男児がいれば豊臣家はもったかもしれないのにな。 -- 名無しさん (2013-09-26 23:41:33) - 李は結局奇襲仕掛けたが、島津にボコられて終わりだったな。逸話は太閤記だけでもない。日朝関係は前から壱岐対馬侵略などで既に悪かった。 -- 名無しさん (2014-01-26 15:55:36) - 失禁とかガセでしょ。出兵も色々説あるし、断定してるのはどうよ?攻めない限り攻められない体制は作ったわけだし。戦闘もほとんど勝ってるしな。義勇兵も各個撃破、明も押し返した。まぁ色々な説や考えが載るのが好ましいが。晩説は汚していないと思うぞ。 -- 名無しさん (2014-01-26 16:06:58) - 領土を一坪も手に入れられなかった以上朝鮮侵攻は失敗なのはどうあがこうとも揺るがない事実 -- 名無しさん (2014-01-26 21:56:29) - 覇者にはなれても王者にはなれなかった系統だな。しかしタグの「ノンケ」で頬が緩むな。ホモだバイだが常態化してた武家出身者じゃない(たとえ武家だとしても農民同様の下位レベル)のがわかる。 -- 名無しさん (2014-01-26 22:02:19) - ↑家康も衆道にはほとんど興味なかったっぽいけどな(但し万千代は除く) -- 名無しさん (2014-01-26 22:27:04) - ↑家康は経産婦未亡人好きだな。 -- 名無しさん (2014-02-12 16:04:32) - 明への大討ち入りが悪いとは言わんが、やるなら、もう少し手際よくやって欲しいよな。といっても、日本国内なら調略と所領安堵、合戦の三点セットで勝てたけど、言語が通じず、中華思想に被れた連中相手では、正攻法だけでは限界なんだろうね。イギリスが清朝にやったみたいにアヘンを売りつけて国内をボロボロにして相手を挑発して、それからでないと勝てないだろうね。といってもそれは秀吉の時代には無い話なので、やっぱ大陸進出は夢でしかないのかな。 -- 名無しさん (2014-03-15 17:18:02) - ↑現地派兵組からすれば秀吉は明をとれ、と言われヒャッハーと行ってみて序盤朝鮮攻略で無双→明「意外とヤバい、本気出す」→補給失敗も重なり朝鮮軍も持ち直してきた、一方明・朝鮮も疲弊→………「「仕方ない」」と両陣営は現地で和睦、秀吉には勝ったと報告→皇帝から王にしてやるという書状を見て激怒、「延長だー!!延長しろ!!」→現地軍「まじかよ…」 -- 名無しさん (2014-05-24 13:01:24) - 中国大返しは地味な扱いにだけど世界的に見るととんでもない戦略機動なんだよな -- 名無しさん (2014-05-24 13:09:37) - 椎名高志の「ミスタージパング」は、テコ入れ大失敗だと思った。史実に添ってた前半は面白かったのに。 -- 名無しさん (2014-05-24 13:59:30) - 成りあがりなりに縁戚で体制固めたのに秀次事件で何もかもパぁにした --   (2014-05-24 15:30:06) - ↑×4 そこでアヘンを売りつけて、国内の人的資源をボロボロにして、相手に抗戦を断念させるのだろう。国内なら、米を買い占めて、 -- 名無しさん (2014-05-24 19:12:54) - ごめんなさい。続き。兵糧を無くして、村を焼き討ちして、農民を城に逃げ込ませて、食い扶持を増やして、兵糧の減りを速くさせ、長期戦を断念させるような。 -- 名無しさん (2014-05-24 19:15:56) - 羽柴が柴田と丹羽から採ったっていうのは一般に言われてるけどこれって文献とかにある?元にされなかった河尻や佐久間は泣いていい -- 名無しさん (2014-07-09 23:55:13) - 主君の死後、その息子(信孝)、妻のうちの一人(信孝の母)、孫(信孝の子)を殺しているのに家康ほど悪し様に言われない不思議な御仁 -- 名無しさん (2014-08-04 05:59:30) - かなり子作り頑張ってたのに、子供が中々出来ない&出来ても病弱&全然似てないんだけど、それ俺の子か? って散々な結果になったのは、秀吉の体に欠陥がある説があるみたいだな。六本指の点から見ても遺伝子が何かおかしい事になってたんじゃっていう -- 名無しさん (2014-08-17 08:31:26) - ED説あるかも -- 名無しさん (2014-08-17 09:00:55) - ≫強い立場で物を言える肉親も世を去り、家臣も全員が成り上がりの過程で雇ったサラリーマンであったため、天下人となってしまうと歯止めが効かなくなったのはある意味彼の不幸と言えよう。 共産主義社会主義国家の独裁者にも言える事かもしれないな。 -- 名無しさん (2014-08-18 17:57:41) - 戦上手の人物ではあるんだな。孫子と考えかたは似てるし。 -- 名無しさん (2014-08-21 13:17:46) - こんばんは豊臣秀吉です -- チータス (2014-09-11 15:23:56) - 一時的にとはいえ家康を豊臣に膝まずかせた秀長が先に死んだのは痛すぎる……後に残ったのは官僚思考のイエスマン(石田・長束・大野)、軍才・現実思考に長けるが発言力に乏しい大谷といった若手と小飼の宇喜多。武田といい、No.2が崩れると組織は乱れるな。 -- 名無しさん (2014-09-11 18:29:27) - 組織はNo.2で決まるらしいです -- 名無しさん (2014-09-11 18:38:24) - 中国の劉邦、朱元璋、毛沢東もそうだけどなんで底辺から成りあがった支配者は晩年暴走するんだろうか。 -- 名無しさん (2014-09-11 19:18:56) - ↑むしろ底辺から成り上がったから...とか?成り上がりだから、どん底の生活を知ってて「あの頃に逆戻りしたくない!」→持ってるものすべて失いたくないから邪魔するものや目障りなものはすべて消去したがるし、「天下人になった俺に不可能はない!」というトンデモ発想になる...とか...? -- 名無しさん (2014-09-11 19:30:11) - ↑2 暴走する奴だけ目立つから。一般に成り上がり者は周囲の反感を買いやすい。 -- 名無しさん (2014-09-11 19:46:01) - ↑17 &br()明が降伏しましたとか報告されたのに、明の使者の書状が、王として認めて冊封体制に入れたる。じゃ、そりゃあかん &br() &br() -- 名無しさん (2014-10-25 14:24:59) - 竹中直人の演じる秀吉ほんと大好き。心・配・御・無・用!! -- 名無しさん (2014-11-04 17:18:51) - 失禁に関しては本当だったようだ。駒井重勝という人物が日記に残している -- (2014-12-13 12:34:38) - 頼朝の像に対して「貴方は親(義朝)の遺産があったからこそ天下人になれたが私は腕一本で天下を掴んだ」と言わしめながら皮肉にもその頼朝と同じような事を晩年に犯した結果が子飼いの武将たちの離反等を生み出して自身の家系を滅亡させるという…。 -- 名無しさん (2015-02-09 00:55:11) - 本当に弱い基盤しか持ってないし杜撰な組織しか作れなかったよな よく足利幕府と似ていると言われるけど足利幕府に失礼なくらいに弱い組織図だし 仮にも名門出身と出生も明らかでない成上がりとの違いが出たね -- 名無しさん (2015-10-10 12:36:52) - 李みたいな騙し討ちと停戦して引き上げてる相手を命令無視して後ろから襲って返り討ちに逢ったのが英雄って…。 -- 名無しさん (2015-10-10 12:51:19) - 自分が年を重ねたからか最近は3傑の内で秀吉が一番気に入ってる -- 名無しさん (2016-03-04 22:57:13) - ↑19 作家八切止夫は「端柴売りの稗吉」からとったという説を打ち立ててるな。 -- 名無しさん (2016-04-03 08:20:35) - 秀吉は源頼朝と同じに見えてくる。あれだこれだ粛清しまくる、子供達は不幸な最期を遂げる、家が取って代わられて滅ぼされるとかさ。 -- 名無しさん (2016-05-15 19:02:36) - ↑頼朝も秀吉も成り上がりもので内に秘めていた強迫観念に潰されたもの同士だからな。 --   (2016-05-15 19:32:12) - 晩年の秀吉は認知症を患っていたのではと言う説も。 -- 名無しさん (2016-06-19 13:26:30) - 権力者が老人ボケとかたち悪いとかいうレベルじゃねぇな・・・ -- 名無しさん (2016-06-19 14:13:06) - 秀吉って『外征』『粛清』『荒淫』『過度の土木事業』っていう煬帝と同じことやらかしたって点では日本には珍しい暴君だったんだよな --   (2016-06-19 21:10:56) - ↑2 だからこそ諌言してくれる、信頼できる腹心は絶対必要なんだよね。中国古典だが戦国策なんか見てると繰り返し「外見や聞こえのいいあっぱらぱーよりしっかりした相手をそばに置け」って言ってる -- 名無しさん (2016-08-24 16:16:37) - ↑3 -- 名無しさん (2016-09-01 01:23:41) - (si -- 名無しさん (2016-09-01 01:23:49) - 「真田丸」では認知症説を取り入れられてる。確かに晩年の奇行とか失禁とかが認知症のそれと完全に一致するんだよなぁ… -- 名無しさん (2016-09-01 01:43:52) - たまに「猿」呼ばわりされていたのって「節操なく女性に手を出しまくってたからじゃあ」って思う時がある。 -- 名無しさん (2016-11-02 10:10:14) - ↑ わかる、日本史でもかなり目立つ女好きだしね。 -- 名無しさん (2016-11-02 11:53:37) - 家康が天下取れなくなるけれど晩年の秀吉を見ていると何だか哀愁を感じてしまう。 -- 名無しさん (2017-04-16 02:12:08) - ↑7 だからこそ弟の秀長が先に死んだのが決定的だな。 -- 名無しさん (2017-05-16 14:55:40) - 秀長の死後から一か月で千利休が切腹させたりとか朝鮮出兵とか秀吉の暴走が一気に進んだし。 -- 名無しさん (2017-05-16 14:59:30) - 人誑しではあるけど人を見る目は節穴だよなこの人 -- 名無しさん (2017-05-26 16:43:42) - 秀頼可愛さかどうかはわからないけど結果的に首を絞めてしまった秀次粛清は秀頼派と秀次派で分裂することを恐れたのか秀次の方を担ぎ上げて誰かが謀反を起こしたりするのを避けるためだったのかどちらが有力説になるだろうか。 -- 名無しさん (2017-11-07 17:55:44) - ↑ 分裂以前に、先に「後継者」として発表しちゃった秀次がいる限りどうやっても秀頼が家督継げないからね。安直に邪魔者は排除せねばと思ったんじゃないだろうか -- 名無しさん (2018-03-27 10:28:59) - 人間って成功するときは多種多様だけど、失敗する時は大体同じだよな。 -- 名無しさん (2018-12-15 04:35:40) #comment #areaedit(end) }

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