豊臣秀吉(戦国武将)

登録日:2009/10/18(日) 19:14:27
更新日:2020/01/02 Thu 06:35:10
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※この項目では、戦国時代の人物としての豊臣秀吉について記述しています。
ゲーム、漫画等の豊臣秀吉についてこの項目に記載するか、別に項目を立てるかは各人の判断に御任せ致します。

豊臣(とよとみ)秀吉(ひでよし)は戦国時代の武将、大名である。
幼名はひよし、通称は藤吉郎。猿に似ていた顔から、主君織田信長始め、織田家家臣時代は専ら「猿」と呼ばれたとか。
また禿げてやせた頭から「ハゲ鼠」とも呼ばれていた。
豊臣秀吉は彼の最後の名前であり、それまでに木下藤吉郎→羽柴秀吉→藤原秀吉(近衛前久の猶子時)と名前を変えた。


●目次

経歴

尾張中村に生まれた下級足軽の子とされるが、実は素性ははっきりとは分かっていない。
よく元は百姓やら木こりだともされているが、これは民衆の支持を得るため(嫉妬されないように)に積極的に流布していた可能性が結構高い。
とは言え、いずれにせよ元々の身分はそう高くは無かったとは類推されている。

確かに存在が確認出来るのは1558年頃からであり、美濃攻めに従軍した後1568年の上洛戦ではいきなり柴田丹羽などの名だたる武将と共に活躍している所を見ると、
美濃攻めの時に破格の出世をしたとみられる。後に明智光秀と共に京都守護に就くなど次第に頭角を顕す。これは彼の人生における第一の「逆転」であろう。
下剋上を象徴しているとも言えるが、信長の慧眼も非常に大きい。

1570年の金ヶ崎撤退戦では明智、池田と共に殿を努め、全軍の帰還を支援した。
その後元亀争乱の時には一貫して北近江の浅井氏攻めに関わっており、一度も防衛ラインを破られる事無く浅井氏を滅亡に追い込んだ。
その功績で、浅井氏の旧領北近江長浜12万石をそのまま与えられ大名に出世する。いかに信長が彼を評価していたかが窺える。

その後、武将として織田の中核をなすようになり、「羽柴秀吉」と改名する。
ちなみにこの名字は、『丹「羽」長秀と「柴」田勝家から取って「羽柴」という名字にした』というのが通説だが、実は確かな由来は分かっていない。
確かに長秀と勝家は織田家において有力な家臣であったが、勝家の方が格上であるため、長秀由来の「羽」を先にするのは勝家に対して失礼であり、
当時の常識に照らして考えれば、最初からこの両名から一字ずつもらって名字を付けるなら「羽柴」にはならないと考えられるからである。
そのため、元々「はしば」という名字を付けるつもりであり、漢字を当てる際に柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつもらったのでは、等の説が唱えられている。

「羽柴秀吉」となった秀吉は、中国毛利氏攻めに専念。
三木城の別所長治に裏切られて苦戦する等決して順風満帆とは行かないまでも、宇喜多直家を味方に引き入れたり、
彼が十八番とした数々の攻城戦の結果、現在の兵庫県から岡山、鳥取県辺りまでを征服し信長に但馬、播磨2か国(約47万石)を与えられる。

家臣を多く集めたり、出来るだけ被害を少なく済ませようと努力したりしたとされるが、前者は信用出来る一門が居なかった事が関連しており、
後者も味方に対してのみであり、敵は撫斬りしたり、問答無用に干殺し・飢え殺し*1・水攻めを試みるなど当時の世情を考えてもなおえぐい事を一通りやってのけているため、実に微妙だと言わざるを得ない。
後世において魔王だの何だのと恐れられつつも、実は名君として辛抱強い対応や情の有る対応もよく行っていた信長と比べて明らかにえぐいことをしている。


ここから彼の人生は第二の逆転の道を突進む。
仕える主君である信長が本能寺の変で討ち取られてしまったのである。

備中高松城を包囲していた秀吉は、捕らえた明智方の使者が持っていた密書で主君の訃報を知る(偶然自陣に迷い込んできた、秀吉が周囲に放っていた忍びが怪しんで捕らえたなど、その経緯は諸説ある)。
秀吉は敬愛する主君が討たれたことに茫然自失となったとされるが、軍師である黒田官兵衛に天下取りの好機と忠告されて復調。
信長死去について部下に箝口令を敷き、手早く毛利との講和を成立させるや、交換条件である清水宗治の切腹を見届けた後に直ちに反転。
驚異的な行軍速度で姫路城まで到着した秀吉は、情報を上手く扱って織田の旧臣たちを味方につけ、山崎の合戦にて明智光秀軍を撃破する。
後に『中国大返し』と呼ばれるこの強行軍では、秀吉は貯めていた財を惜しみなく兵に分配したり、できるだけ兵の持つ荷物を少なくしたりと、士気を保つためにかなり心を砕いたという。


なお、明智光秀が謀反を起こした明確な流れ・意図・理由が不明なことと(信長の扱いと実際に下剋上したことからして内心嫌だったんだろうなという推察しか現状ない)、
更に光秀が織田家を滅ぼした後の展望が不明なこと、
更に秀吉は毛利家と遠方で戦争中だったにも関わらず、都合よく主君の訃報を速く知り、そしてありえないぐらいの速さで転進して当の明智光秀を撃破し、後述するが主家を乗っ取っていること、
更に光秀を倒した後の動きも想定していなければありえないぐらい理想的な流れに持ち込んでおり(後述)、家康の介入以外は全て彼の理想通りと言っても過言ではない。
更に彼が当時の名だたる天才達にも決して見劣りしない天才だったことから、
彼が明智光秀に信長暗殺(とその後の信忠撃破)をそそのかし、最後に口封じを狙ったのでは?などの陰謀説も割と根強い。

秀吉が本当に首謀者や共犯者ならば、明智光秀がその事実を公表していないのはおかしいとする意見もあるが、
仮に一緒に裏切る算段をつけていたならば言わないこともおかしいことではない。
背後からの奇襲や内部からの攻勢も可能になるため言わないメリットは大きく、仲間になるかどうか分からない者に伝えると情報漏洩する恐れが高い。
信長を討った後の咄嗟的な仲間集めの際に言うにしても本能寺の変の時に秀吉は遠方に居たので効果が薄く(本来ならそんな早くに戻ってこれていない)、
更に秀吉に討たれているわけだから、言っていたとしても秀吉が妄言だと言えばそれで終わってしまう話である。

もちろん証拠は一切ないので想像の域を脱することは無い。
本能寺の変を知った秀吉が、上記の天才的な才覚と手腕を持って、その場その場で最善手を打っていったことで理想的な流れを引き寄せたとしてもおかしくはない。

「中国大返し」についても、成功したからこそ怪しまれる論拠になっているが、当時の状況でこの判断は(間違ってはいないとはいえ)かなりの大博打であり、
もしも毛利方が追撃を掛けて来ていたら毛利勢と明智勢に挟み撃ちになっていてもおかしくないので、仮に本能寺の変を知っていたとすれば秀吉はわざわざ命懸けの危険を冒したことになる*2
行軍速度に関しても、沼城から姫路城、つまりは毛利勢の追撃を受けかねない範囲からの離脱は素早かったものの、姫路城からは慎重に情報や加勢を集めながら常識的な速度で行軍している。
ただし、姫路城以降まで遠ざかられると追撃側も兵站を整えながら追わなければならず、秀吉側は更にとどまることなく逃げているのでなおさら追撃は困難であり、初動は大博打だがここまで逃げ込めた以後に関しては言うほどの博打ではない。

光秀がその事実を公表していない点についても、光秀自身が公表しない論拠は上述の通りだが、
敵対関係になってからも(もしも秀吉が首謀者や共犯者であるなら)そのことについて一切光秀が言及しないままに討たれた、というのはやはり不自然であり、
公表すれば織田の旧臣等は秀吉に付かないばかりか謀反人として攻撃する可能性もあり、秀吉勢とかなりの戦力差が存在した山崎の合戦時点では、光秀にとって公表する明確なメリットが存在する。
「公表はされたが勝者である秀吉が敗者の妄言として片づけた」という顛末であっても、後に秀吉と対立した家康や信雄にとっては反秀吉の恰好の攻撃材料となるのに、
当時家康や信雄が(光秀が公表したなら)一切そのことに言及していないというのもこれまた不自然である。

結局のところ、確かに秀吉は怪しく見えるものの、直接的な証拠がないこと以外にも秀吉は黒幕ではないと判断できる材料も存在しており、
少なくとも「光秀の背後に何者かがいた」という決定的な証拠が出てこない限り、巷でささやかれる俗説の域を脱することはないだろう。


清洲会議では信長の嫡孫、三法師(後の秀信)を後継に推し、その保護者となる事で織田家での地位を高めようとする。ここらで柴田勝家との立場が逆転。
…が当然この露骨な動きに対して、柴田勝家はお市の方と結婚して織田家と血縁関係となる上に領地分配の際に秀吉の領地を受領する等、
秀吉の織田家乗っ取りを警戒して肘鉄を当ててきたのである。
一応最初はお互いの主張を汲んだ形で決着をつけているが(仇を討った秀吉の方が有利ではあるが)、その後も激しい主導権争いが続く。

その為に柴田勝家・織田信孝・滝川一益を撃破。信孝、勝家を自害させる。(賤ヶ岳の戦い)

また、織田信雄・徳川家康の連合軍と戦い(小牧・長久手の戦い)、緒戦には破れたものの信雄とは和睦、外交的に勝利し徳川家康の臣従にも成功する。
ただし、この戦い自体は秀吉側にとっては蛇足、アクシデント以外の何物でも無く徳川、織田家に対して配慮を強いられるようになってしまった。
世間的に秀吉に丸め込まれる形で和睦したと取られ、無能扱いされている信雄だが自前の戦力が乏しい現状であり、戦いが続けば織田も徳川も討ち滅ぼされたり泥沼化して他国の大名が介入する可能性もあった。
そういう意味では緒戦で優勢を勝ち取って秀吉側が怯んでいる内に和睦して譲歩を迫るのは決して悪手ではない。
(そもそも秀吉側に看破されずに父の同盟相手と言う希薄な繋がり*3の家康と連合軍を結成して戦いに持ち込めただけでも大したものである。)

その後、朝廷から豊臣の姓を賜った上で、太政大臣、関白に就任し、四国は長曽我部、九州は島津を降し、1590年、小田原征伐・奥州仕置により天下を統一。
人臣の限りを尽くし、天下人となった彼は正しく絶頂期であった。


しかし、この天運は次第に彼の人生を、そして彼自身を狂わせていく。
脆弱な自身の政治基盤を固める過程で、信用出来る者を自分の周りに置いていくという当たり前の行為によって周囲はイエスマンばかりで固まっていき、
弟・秀長や母の死後、彼の行いは次第に狂気を増していく。
これは部下から見れば最高の上官と褒め称えて当然と言えるぐらいだったのだが*4、同時に絶対に敵に回したくない人なので、結果的に見ればこうなるのは当然の流れだった。

まず、息子の拾(秀頼)を後継者にしたいが為に、養子にし、自身の後継者として育てていた甥・秀次を切腹に追い込んだ上、親族・関係者数十人を公開処刑。
その中には秀次とろくに会った事も無い、最上家の娘・駒姫もいた。(側室になった直後に巻き込まれた)
この事件をきっかけに最上義光や秀次と懇意であった諸大名は家康との関係を深め、一気に反秀吉急進派となっている。
また、千宗易(千利休)を言い掛かりのような罪状で切腹させる。(もし死罪にするにしても商人である宗易に武士の作法である切腹を命じるのは常軌を逸している)

ストッパーとなっていたのは肉親のみで、家臣は全員が成り上がりの過程で雇ったサラリーマンの様なものだった。
天下人となった後、肉親が死ぬことで歯止めが効かなくなったのはある意味彼の不幸と言えよう。
また、晩年になってやっと生まれた実子(注:父親別人疑惑は後世になって出た説)に跡を継がせることをあまりに執着したがあまり、
十分な後継者育成や周辺環境を整えることができなかったのも豊臣氏が一代で勢力を失い、豊臣家がほぼ断絶する原因となってしまった。

※織田氏も一代で勢力を失ったが、これは信長の後継者である信忠が本能寺の変で討ち死にしたことが最も大きい。
信長は後継者に指名した信忠に天下人となるための十分な教育を行っており、信忠は信長のような革新性はないが、君主として十分な器量を持っていたと考えられている。
更に信忠の死後に秀吉が割り込む形で権力を奪い取ったという流れなので、言わば内紛の延長で滅びたとも言える豊臣家とは話が異なる。
また、『織田家』というネームバリューは豊臣家や徳川家が天下を取った後もしっかりと残っている。


そして彼の晩節を汚したとも言われ、国力の浪費と共に日朝間に禍根を生んだのが

「朝鮮出兵」(日本正式名…文禄・慶長の役、現地名…壬辰・丁酉倭乱) である。

これは明侵略の先駆けに李氏朝鮮領内の通過と助勢を依頼したが断られた、とされている。

しかし実際は国内に分譲可能な領地が減少し、失業寸前で特に不満の強かった武断派武将の反乱を抑える為の「公共事業」として戦を行った側面もある。
天下統一の傷も癒えない頃合い、しかも自身の寿命に焦ったのか文治派と武断派の調整も取らず無謀な戦略で始まった戦は泥沼化。
戦の内容は諸説あるが、上陸後あっという間に進軍出来すぎて補給線が伸びきってしまったこと・当時の朝鮮半島には略奪して軍を賄うほどの食料がなく補給に困ったことが挙げられている。
なお、海路~釜山まではそれほど補給に困っておらず、慶長の役になるとその時の経験からか補給線を維持出来ている。

しかしながら結果としては多大な犠牲を出すだけで、秀吉の死と共に終結した。
余談だがこの時秀吉と戦った李舜臣(イ・スンシン)は韓国の国民的英雄として知られているが、色々と盛られている模様。

このときのいざこざが原因で武断派七将の三成襲撃事件が起きる。

晩年は信長の幻影に怯えて失禁するなどの奇行が目立ち、「盛者必衰」の如く、栄華を誇った天下人とは思えないほど惨めな晩節だったと言われる。
そして今際の際には家康ら五大老に秀頼の今後だけを一心に頼み、亡くなったという。

以降、石田三成と家康の対立は深まり、関ヶ原の戦いに繋がっていく。


逸話


彼には逸話が多いがその殆どは小瀬甫庵「絵本太閤記」などの後世の創作の可能性が高く、彼の実像を語る術になるとは限らない。

信長に重宝され、確かな戦果を残し、天下人として生存中は権力を握り続けることが出来たため、
戦術・戦略・施政のいずれも才能があったことだけは確かだと言える。
また、いくら切実な理由があったとは言え戦略や実子の件を鑑みるに自己中っぷりが周囲からも透けて見えた(敵対者からすると好かれることはまずない)という欠点も確かだろう。


  • 親が遺した一貫文を元手に行商を行なった。携帯性が良い針を売っていたようである。
  • 蜂須賀小六(正勝)に一時期仕え、後に織田家に小六を推挙した。
    • 尚、出会ったのは矢作川の橋の上と有るが、この時代矢作川に橋は無い。
  • 今川家臣・松下之綱に仕えていた事もあり、後に大名にしている。
  • 信長の草履取りをしていた。ある寒い朝、信長が草履が暖かいのに気がつき草履を尻に敷いていたのではないか、と疑ったが秀吉は懐で温めていた。
  • 信長に小便を引っ掛けられた。「小便を掛けられて怒鳴ってみたら信長様だった。」な、何を言って(ry
  • 清洲城の崩れた石垣を割普請(チーム毎に担当区域を分け、早く仕上がったところには賞与すると明言)で三日間のうちに修復。
  • 美濃攻略の際には墨俣に「一夜城」を築いたとされる。川上で木を伐採、パーツの形状に加工して川を下り拠点で組み立てたという。
  • 竹中半兵衛に三顧の礼を取る。
    • ただしこれは三国志演義の劉備諸葛亮を参照した可能性が高い。
  • 信長の命令に背いて謹慎中、芸者を呼んで大騒ぎ。これは鬱々してると怪しまれるという読みから。
  • 鳥取城では米価の操作(米の買占め)後の兵糧攻め、備中高松城では堤防工事による水攻めとバラマキ型の政治、攻城戦が得意。
  • 真夏の戦でぐったりする兵のために傘を大量に買い集め、敵味方関係なく被せて回るなど、特に若い頃は「人蕩し」と言われるほど他人の心の機微を読んだ振る舞いが得意だった。
  • 無学だが、勉強熱心。歌の腕前も悪くは無いし、素朴な字を書く。ちなみに秀吉の残した書の文字を見て、かの北大路魯山人も「上手い」と称賛している。
  • 地元には年貢を免ずる代わりに野菜を届けさせた。好きだったんだろう。
  • 元々武士ではなかったためか、当時の武将の嗜みとされた男色を敬遠していたとされる。
    そのことを危惧した家臣達が、家中でも一番の美男子と呼ばれる小姓を呼んで秀吉の傍に置かせたのだが、秀吉はその小姓に対し「お前に姉か妹はおるか?」と聴いただけで、決して手を出さなかったという。
    • しかし小姓の有用性は認めており、森蘭丸らに対する礼は尽くしていたとか。
  • 湯を求めた秀吉に対して、だんだんぬるいものから熱いものを持ってくる細かい気遣いを見せた茶坊主を勧誘。この茶坊主が後の石田三成
  • 自らの生まれに対するコンプレックスからか、女性の趣味は高貴な生まれの上淫好みだった。
    好色家でもあり、貴族や武士の娘によるハーレムを築いていたという。
    • 尤も、ハーレム自体は珍しいことでもなかったようで、家康等も作っている。
  • 奇形の一種である、多指症(手の指が六本)だった説がある。
    親指が二本あり、その件で信長にからかい半分に褒められた記録が残っている(成人に至るまで切り落とさず残しているとは見上げた奴だ)。
    • 肖像画では隠されているあたり、本人にコンプレックスがなかったわけではないようだ。


彼を取扱った作品


  • 小説
吉川英治「太閤記」
司馬遼太郎「新史 太閤記」
加藤廣「秀吉の枷」
山田風太郎「妖説太閤記」

  • 漫画
「センゴク」シリーズ
へうげもの
「信長の忍び」

  • ゲーム
戦国無双シリーズ
戦国BASARAシリーズ
太閤立志伝シリーズ
その他、多くの歴史ゲーム


  • 彼にあやかった人物
相澤秀禎(サンミュージック創業者 本名は「相澤與四郎」)
羽柴誠三秀吉(実業家、選挙マニア 本名は「三上誠三」)


露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
*5


追記・編集宜しくお願い致します。

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