石田三成(戦国武将)

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この項目では[[戦国時代>戦国時代(日本)]]の人物としての石田三成について記述します。
//他メディアでの石田三成について別に項目を立てるか、この項目に記載するかは各人の判断に御任せ致します。

&ruby(いしだ){石田}&ruby(みつなり){三成}(1560~1600)は戦国時代の人物、武将である。


●目次
#contents

*★人物
近江の出身で、長浜時代の[[羽柴秀吉>豊臣秀吉(戦国武将)]]に登用されたと伝わるがいまいちはっきりしていない。
近江出身者の特徴とも言うべき高い実務能力を有し、早い時期から羽柴家の台所を切り盛りしたとされる。
本能寺の変が起こった際には直ちに兵坦を確保、秀吉軍の素早い進軍を助けている。
武将としても優秀だったと思われるが、前線に回される事が少なく、出た時も活躍出来なかった。

その正義感の強さに惹かれ、[[大谷吉継>大谷吉継(戦国武将)]]や田中吉政らとは交流があった。
また、義を掲げる[[直江兼続>直江兼続(戦国武将)]]とも仲が良かった様子だが、当時において「義に生きる」と言うのは、「清廉潔白で正義感が強い」では無く、「乱世の戦国においても学問の大切さを理解している」という意味合いとなっており、兼続とはお互い官僚的な気質であった事からウマが合っていたとも言える。一方、この点に関しては、皮肉にも後に敵対する[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]とも通じている。

一方、優れた行政能力を持ちながらも、若くして文治派として出世し、秀吉からも過度なまでに重用された事から、武断派から嫉妬を買いやすく、その生涯全体を見ても、つくづく人望には恵まれなかった。
ただし、人望に恵まれなかった点に関しては三成本人にもかなり問題があった為でもあり、官僚の性に加えて彼自身が狷介((自分の意志を曲げず人と和さないこと))で好き嫌いの態度の差が激しいと、人から嫌われ易い性格をしていた。
また、後述の逸話にもある様に、真面目過ぎたが故に、不正に関しては意図した物ではないとしても厳しく糾弾する等、過剰なまでに規律に固執し、不器用で配慮に欠ける言動をしてしまう事もあった。
更にそれを改善する為の努力や、自身のやり方を省みようともしない性質が、周囲の反感を加速させてしまう要因にもなっていたようである。
計算には長けているが、人の心までは読むことができない、といったところだろう。
現代で言うアスペルガー症候群だったのではないかという説も。

文治派の自身とは対照的に、常に前線で命懸けで戦ってきた武断派である福島正則や加藤清正等からは、同じ秀吉の子飼いの兄弟分でありながらも嫌われていた。
それでも、名護屋城建設の際には清正と見事なコンビネーションを見せたという話も残っているのだが、後述の朝鮮出兵の時期に、関係が悪化し決別してしまっている。
これに関しても、三成本人が「どうせあの二人に何を言った所で無駄に決まっている」と勝手に自己完結してしまう傾向があった結果、結局そのままで終わるどころか、更に悪化させてしまう事態に繋がっている。

「人望を集める」、「人と無駄に衝突しない」為の努力や配慮をする事も、人の上に立つ者として求められる物であるので、それをしなかった事が三成の最大の欠点であったのは間違いないのが悲しい。
ただ、人への配慮に全く無関心では無いのも事実で、自身の領土の民からは慕われていたとされている。
その証拠に自らが追われている際に恩のある村人に匿われるも、「このままでは匿った人たちが殺される」ということで突き出すように願った。
ということから、民に対してはかなり慈悲を見せていた思われる。((しかし、領民から慕われる為の努力も、一揆等を防ぐ為にしなければならない最低限の必須事項となるが…。))。


親友と言っても過言ではない程親しかった大谷吉継にすら、
「お前には人望がなく禄高も家康に大きく劣る((三成が19万石、家康が約255万石、家康の場合は一門や譜代も含めれば更に高い。))のだから、家康を打倒するなら他の人を上に立てろ」と助言されたほどである。
三成はその助言を受け入れ、関ヶ原の戦いの際には大大名である毛利輝元を総大将に立てているのだが、結局自らのそれまでの行動が仇になる形で、本戦では自滅に近い末路を迎えてしまう事になっている。

しかしこれらの欠点はもしかしたら「敗軍の将」としての後世の後付けのせいかも知れない可能性は留意すべき点である。
かの[[織田信長>織田信長(戦国武将)]]も「魔王」として苛烈な印象を付け加えられ以降400年に余りそのイメージがまとわりつき、ここ数年の研究でそれらがもしかしたら偽りではないのかと言われているのだから。
しかしその欠点の内訳が「度の過ぎた真面目さや正義感故の融通の利かなさ」という辺りから、多少の過大表現はあれどそういう人物だったのは間違いないだろうか。



*★来歴
**豊臣政権下
秀吉に仕官したばかりの時は、特に目立った活躍は無かったものの、彼が関白に就任してからは、&bold(){従五位下治部少輔(じゅうごいげじぶのしょう)}に就任。以降は堺奉行、検地奉行等、行政官として手腕を発揮していく事になる。
有名な「太閤検地」も、事実かどうかは不明であるが、三成の発案ではないかとされている。
九州平定後には博多奉行にもなり、復興に寄与したり、色々な地方の検地を担当している。

しかし、行政官として活躍する反面、武将としての活躍は優秀と言えない状況が続き、小田原征伐の際は忍城攻略軍の司令官として長大な堤防を築き水攻めを試みたが決壊し失敗。小田原本城が先に陥落する大失態を犯してしまった。
この水攻めは近年では秀吉の指示と言われており、本人はむしろ難色を示していたとされる。指揮官でありながら結局企画担当として扱われる三成の姿が垣間見える。
作戦の立案者はどうあれこれがきっかけで三成は戦下手と馬鹿にされるようになったとか。

最初の朝鮮出兵である「文禄の役」の際は、自らも朝鮮に渡り、奉行人達を纏めて各武将の働きぶりを秀吉に報告する役だったが、真面目ゆえに不手際や軍紀違反まで事細かに秀吉に謹言。一方で自身は明との講和交渉に積極的役割を果たし、秀吉から更に信頼を得た為に、結果的に秀吉の不興を買った武将達から恨みを買ってしまう事になった。
例えるなら、ちょっぴりワルな学生たちが融通の利かないクラスの風紀委員を「チクリ魔」と毛嫌いするようなものだろうが、三成自身の空気の読めない言動も、原因と言えるが。

文禄から慶長の時代に入ってからは、京都奉行に任じられている一方で、キリシタン弾圧を命じられた時は、秀吉の怒りを宥めたり、奔走して捕まえる人間や処刑者を減らす為に奔走したりしていた。結局処刑は防げなかったが、処刑された彼等はルイス・フロイスによって「日本二十六聖人」として扱われている。 
二度目の朝鮮出兵となる「慶長の役」にて、戦線縮小を求めた在朝鮮の諸将達に激怒した秀吉が、彼等に譴責や所領の一部没収といった暴挙に出た際は、それらに関する状況を報告したのが自身の縁戚であった結果、処分を受けた諸将達からも恨みを買ってしまう事になる。
前述の文禄の役での三成による謹言からも、処分を受けた諸将達には三成の陰謀に映ってしまったのかもしれない。
また、戦の経験など皆無でありながら、日本軍の総大将として参加させられた[[小早川秀秋]]が独断専行してしまった件についても、窮地に陥った味方の清正を助ける為の行動であった以上、ある程度配慮してもよかったはずなのだが、融通の利かなかった三成はそれもそのまま報告。
結果、秀頼の事で秀秋の存在を疎ましく思っていたと思われる秀吉が、減封転封命令によって彼を追い落とす切っ掛けを与える事になってしまっている((一説では、最初から秀秋を追い落とす為に秀吉が仕組んだ策略ともされている。秀次事件の時も秀秋は領地を没収され切腹される可能性まであったことからそういう意図があってもおかしくない。))。
しかもこの後、没収された秀秋の領地や一部の家臣ですらも三成が手中に収めてしまった為、散々な目にあった秀秋からは、相当な恨みと反感を買ってしまったのは、言うまでもないだろう。
更に、秀次事件のときは秀吉の命令により秀次を糾問したり、秀次一族の死後にはその旧領を受け継いだりしている。
これらの点を見ても、秀吉が三成に対し、過剰なまでに重用・信頼を置くようになってしまったのは明らかで、後の悪評や他の武将達からの恨みつらみへと発展してしまう原因となっている。

**秀吉死後
秀吉死後、五大老の筆頭となっていた家康と連携する形で、朝鮮半島からの日本軍撤退をいち早く行い遠征軍を助けているのだが、文禄の役で渡海した以降は、国内に留まり続けていた為か、武断派から嫌われるのは変わらなかった。
というか『こっちは命懸けで必死に戦ってきたのに、なんだよこれ!あーもー全部石田が悪い!!』なんて言われる始末。%%ぶっちゃけ清正の例の進軍なんかやらされたら兵糧を管理する文官側もそりゃ冷たくするわとは思うが。%%
が、三成はそんな状況には殆ど気にしないまま、秀吉の遺命であった「秀吉の許可無しによる大名同士の婚姻」を破った[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]を厳しく弾劾するが、上手くかわされる。
とまあ、ここまで言えば三成の方が正しいと見えるのだが、実は家康よりも前に三成の方が秀吉の死から わずか十日後 にて、毛利輝元を証人に、長束正家・増田長盛・前田玄以の三人と起請文を交わす遺命破り(徒党を組む)に出ていたりするので、偉そうな事は言えない。
加えて、秀吉から政権執行者を任されていた家康が行った大名同士の婚姻も、遺命破りになるかは微妙で、更に秀吉の残した大名同士の婚姻の内容は「秀吉本人からの許可が要る」という物で「秀吉の死後は誰が許可するのか」については全く決まっていなかったという「抜け穴」もあった((ちなみに、後に家康が発布した武家諸法度では、大名同士の婚姻に関して「幕府からの許可が要る」としっかり記載されている。))。
また、三成は家康を咎めても、彼と婚姻を結んだ清正や正則、[[伊達政宗>伊達政宗(戦国武将)]]に関しては咎めていない為、余計に家康の豊臣家からの追放を目的としたものと見えてしまっている。

そんな事をやっている内に、前田利家の死を契機となる形で、逆に武断派七将((加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政))に命を狙われる失態を犯してしまい、佐竹義宣と徳川家康に守られる。
なお家康が守ったのは、三成が「今ここで自分が死ねば豊臣家の内紛は無くなり家康にとって都合が悪い=自分は家康に殺されない」と見込んで家康に助けを求めたためだという。
殺されないと見込んで敵にさえ助けを求める三成の頭脳に、家康は戦慄したとか…。
しかし、命は助かったが結局、隠居させられてしまい、同時に家康は三成の優秀さに対して更に警戒を強めることになったという。
ただし、徳川屋敷に駆け込んで家康に守られるのが三成の策略であったという点や、家康が三成を恐れて隠居に追い込んだという点は、後年の創作である可能性も高い。
ここで三成を何のお咎めも無しにしてしまえば、三成がまた命を狙われる事になるのは明白で、最悪の場合は武断派七将全員が豊臣家から離反し、戦国の世に逆戻りになってしまう可能性もあった為とも取れ、「豊臣家の秩序を守り、なおかつ三成の命を助けるには、隠居させるしかなった」という解釈も出来る。
いずれにせよ、こうなってしまったのは武断派七将との関係を改善しようとしなかった三成自身に原因があったというのが、痛い話である。

**[[関ヶ原の戦い>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]
秀吉の死から時間も経ち、豊臣家の重鎮である前田利家も亡くなった後、実質豊臣家の最高権力者となった家康は、越後の領主となっていた堀秀治から、同じ五大老の一人である上杉景勝に謀叛の疑いありという名目で会津上杉討伐を行う((実際は景勝ではなく、越後に移民一揆を起こさせて、再び上杉の領土にしようとした[[直江兼続]]の策謀。))。

三成はこれを好機と密謀を巡らせ、親友の大谷吉継や五大老の毛利輝元、[[宇喜多秀家>宇喜多秀家(戦国武将)]]、五奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以の三人、小西行長、安国寺恵瓊といった大名達に協力を仰ぎ、1600年に西国大名を束ねて家康討伐に乗り出す。
西国大名の動員、壮大な布陣、大義名分の確保等、僅か数十万石(19万石程度)の小大名としては見事な準備を整え、大阪城に入城し家康の弾劾状を叩きつけた三成の正義を成す為の戦いは、関ヶ原にて遂に幕を上げる…。



しかし、現実はそんなに甘くなかった…。



三成本人からしてみれば、間違いなく「奸臣の家康を討つ正義の為の戦い」であったのが、元々西軍についた武将達の多くは家康の会津征伐に協力する為に出陣し、なし崩し的に協力させられたに過ぎない上に、三成の挙兵は客観的に見れば「自らの復権を賭けたクーデター」の様なものの為か、家康と戦う事に乗り気でない者が多かった。
家康に同行していた武断派七将やその他の大名に呼びかけた際も、彼等の女房や子供を人質にした上に、人質の一人である細川ガラシャが自害した結果、誰一人も家康から離反する事無く、むしろ「三成、許すまじ!」と激怒させてしまう事になり、特に妻を失った細川忠興に至っては、福島正則と共に最前線で三成の首を取ろうという勢いだった。
この事件に加え、小山評定により東軍の統率は非常に高かった。
自らの指揮する西軍の中でも、三成の謹言が原因で所領や多くの家臣を奪われた小早川秀秋は、三成を激しく恨んで早くから家康と内通しており、
碌に家臣に相談もせずに総大将に担がれた毛利輝元も、勝手に三成への協力を決めた事で家臣達に咎められた結果、その家臣である吉川広家が毛利秀元や恵瓊の軍を牽制。
西軍の中でも特に実戦経験豊富である[[島津義弘>島津義弘(戦国武将)]]と島津豊久に至っては、三成から1000人の軍勢を軽視され、前哨戦の墨俣の戦いで見殺しにされた挙句、本戦前日に提案した夜襲も馬鹿にされた事に激怒し、「もう知るか!」と言わんばかりに最初から我関せずの姿勢をとられてしまう始末だった。
なお三成は豊臣秀頼が西軍として戦場に駆け付けることを期待していたようだが、家康が仕組んだこととはいえ会津討伐は豊臣家と朝廷が正式に発表したことなので、そんな豊臣家が上杉を助けるようなことをすれば豊臣の信用に関わるので出陣などできるわけがなかった。
家康の入念な工作も理由の一つであるが、三成自身の軽率な判断や行動もまた西軍のまとまりを悪化させる大きな要因となり、開戦初期から中期にかけては優勢に進めるも、兼ねてより三成を恨んでいた秀秋率いる軍の大谷軍への攻撃が切っ掛けとなり、敗戦。
伊吹山山系へ農民達に匿われる形で逃亡するも、捕縛される。
同年、同じく捕縛された行長、恵瓊の二人と共に六條河原で処刑された。

*★評価
一般に無能な小心者、豊臣政権を私した奸臣というイメージが近年まで続いていたが、
これは徳川政権の正当化を図る江戸幕府の情報統制による影響を多分に含んでいる点を忘れてはならない。
皮肉にも敵対していた張本人、徳川家康や"[[水戸黄門]]"[[徳川光圀>徳川光圀(史実)]]と言った江戸幕府の最高責任者達が、石田を忠臣・名臣と呼んでいる。

近年再評価の機運が高く、忠臣・名臣として表現されるようになりつつある。
だが一方で、あまりに見直しや美化が行われ結果、源義経の様に判官贔屓され過ぎているのではないかという批判もある。
義の人((先ほども言ったがこの時代における義人とは教養に長けた人のことを指すが、それを理解していない人は「義理深い人」だと認識するだろう))である直江兼続、大坂の陣にて奮戦した真田信繁ともども「彼らは豊臣のために戦う正義の人」、逆に徳川家康とそれに従うものは悪人という扱いにされることすらよくある。
三成が融通の利かないマニュアリストなのは事実であり、最前線で戦う武将達との確執は、自身の失脚や家康の征夷大将軍への就任、豊臣家が一大名にまで落とされた挙句に滅亡した遠因でもあった。
また、三成の関ヶ原の西軍敗戦が原因で、上杉家、毛利家は所領を大幅に減封され、真田昌幸や[[真田幸村]]、長宗我部盛親といった名立たる武将達の改易や破滅にも繋がった事も踏まえれば、やはり擁護しきれない。
「水清ければ魚棲まず」という諺がある様に、清廉潔白すぎることではなく清濁併せ呑む大器こそが、本当に大事なのかもしれない。


*★逸話
-三杯の茶(三献茶)
一杯目…温くて沢山。まずは喉の渇きを潤す。
二杯目…やや熱くて少なめ。
三杯目…熱くてちょびっと。
この気の効いた三杯の御茶を貰ったのが、秀吉である。
&font(#ffb74c){「はぅ~三成ちゃんお持ち帰りぃ~!」}
逆にこれを「茶坊主の阿り」と武断派武将達には小賢しく思われた。
勿論これは創作ではあるが、「茶坊主」という罵りは便利らしく現代の創作で採用されることは多い。


-商才
最初の石高は無石。代わりに河原の葦の採取税を取って莫大な利益を出す。

大阪を台風が襲った際、普請現場((工事現場))の被害が気になり、工事担当者より先に調べ上げて秀吉に報告。
おかげで担当者は秀吉に「うーん、三成の報告の方が分かりやすいかも」と言われてしまい面目丸潰れ。
ここで責任者に渡せないのが三成である。


-無欲な男
自分の禄高4万石の際、筒井家浪人島勝猛を&font(#ff0000){半分の}2万石で勧誘。数々の仕官を断った島もこれには敵わず仕官。
ちなみにこの島という人物、[[関ヶ原>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]で東軍兵士にトラウマ(関ヶ原三大トラウマ)を植え付けた島左近その人である。

加増された際、一人にまるまる加増分を与え仕官させる。

秀吉の右腕と言ってもいい地位にいながら秀吉のように豪奢な暮らしはせず、質素に暮らしていた。
さぞかし財を貯め込んでいるだろうと攻め込んだ佐和山城の質素さに兵士一同愕然としたとか。
これに関しては『主君から与えられた物はすぐに使い切るべし。それを貯め込むのは盗人と変わらない』という三成の考え方も関係しているだろう。
ちなみに『貯め込むのは盗人』であり、『使い込んで借金するのは愚人』とも考えていたとか。


-大谷吉継との友情
武将たちによる茶会では、結束を深めるため一杯のお茶を集まった諸侯で回し飲みするのが通例となっていた。
ハンセン病を患っていた大谷吉継は、その病気から自分の後にお茶を飲むことを嫌がられ、肩身の狭い思いをしていた。
そしてとある茶会にて、吉継はお茶を飲んだ際、膿(鼻水という説も)をお茶の中に落としてしまった。
吉継の後に続いた武将はお茶を飲むふりをしてやり過ごしたが、三成は吉継の気持ちを慮ってかぐいっと一口にお茶を飲み干したという。
その三成の態度に感じ入った吉継は彼と友誼を深めていき、強い信頼関係を築いていった。
非常に男気溢れるエピソードだが最近の研究ではそもそも大谷義継がハンセン病であるか怪しく、創作である可能性が高いらしい。


-超真面目な頑固者
大阪城で同僚((浅野長政))と一緒に、頭巾を被って日に当たって暖を取っていた三成。
家康が来た時、自分より凄く偉いのに頭巾も取らずガン無視。
近くにいた同僚に注意されても、業を煮やした同僚に頭巾を取られて焚き火に放り込まれてもガン無視。
これにはターゲット(家康)も苦笑い。

毛利家から「こんな時季に取れるのは珍しいので献上したい」と果物((10月に採れた桃。桃の旬は7月下旬~8月上旬とされる))が送られてきたとき、
「時季外れとはいえ立派な果物であるが、時期外れのものを食べて公((秀吉))に何かあったら大変だから受け取れません」と突き返した。
一応「万が一何かあったら毛利家の面子が丸潰れになる(下手すれば責任問題で誰かの首が物理的に飛びかねない)」という理由もあったのだが、
「何も突き返すことないだろ、横柄だ」と大ブーイングを受けることとなった((ごく一部の人は「もっともなことであり、こういう才人だからこそ武人が多い豊臣家で信頼されているのだ」と言ったとされるが、まあ本当に一握り))。


-管理職と現場の乖離
朝鮮帰りの加藤清正たちを労おうと「お前らが今度京都にきたら茶会でもしようか」と言ったら、
「7年も命懸けで戦って金も食料も人員もすっからかんの俺たちに茶会出ろとかナメてんのか?」とブチキレられる。
茶会に招かれた側も礼儀的に手ぶらで参加はできない((それなりに費用と人員を割かないと面子が潰れる))のでごもっともな話である。


-関ヶ原から敗走後捕まって大津城で晒されていた時の反応
福島正則…「捕まってやんのバーカ」と罵られて「お前をここに晒せなかったのが悔しい」と憎まれ口。

黒田長政…「勝負は時の運」と羽織りを貰って「有り難う」と御礼を言う。

藤堂高虎…「うちの鉄砲衆にアドバイスを」と求められ、「傭兵に頼りすぎ。組頭を何とかせにゃ」とアドバイス。後にアドバイス通り鉄砲隊を再編成。

[[小早川秀秋]]…見るなり「地獄に落ちろ、クズが!」と激怒。小早川ビビる((「異説として「俺がお前の二心を知らなかったのは俺が愚かだったからだ。だが約に違い義を棄て人を欺いて裏切ったのは武将の恥。末代まで語り継がれて笑われろ」と言ったというものもある。))。


-最後まで諦めない
処刑場に行く途中で「喉が渇いた」と訴え、白湯を求めるも無かったために干し柿を出され、「干し柿は痰の毒。自分は痰持ちだから」と断る。
これから死ぬ人間が健康を気にするのか、と嘲笑した兵士を「志ある者は生きている限り諦めないものだ」とたしなめたという。
また、捕らえられた後に「敗戦の将ならば敗戦の責任をとってすぐに切腹すべきだった。そうすれば縄目に遭うこともなかっただろうに」と言われた時も、
「大望ある者は簡単には諦めないもの。私は再起を図っていただけだ」と言い返したとか((実際に島津と連携して九州からの巻き返しを狙っていたとされる))。
&s(){なおこのエピソードから創作などで苦手な物「柿」にされがちでもあるが嫌いなものを理屈つけて食べなかったわけではない……よね?}
他方[[御城プロジェクト:RE~CASTLE DEFENSE~]]の三成は柿が大好き。どちらにせよこの果物との縁は持たされる傾向にある。

-しかし命運尽きる際は潔く
関ヶ原の戦いの後、捕らえられて引っ立てられた三成に家康は「勝負は時の運。どんな名将とて負ける時は負けるもの。恥に思うことはない」と言うが、
三成は平然としたまま「そんなことはわかっている。私に天が味方しなかっただけだ。早く首を切るがいい」と言い返したという。
この潔い態度に家康は「流石に大将の器がある。命乞いをした平宗盛((平安時代末期の平家の公卿・武将。捕縛され鎌倉に連れてこられた際に、死罪は決まっているのに卑屈な態度に終始して命乞いをして集まった者から嘲笑、批判されたという))とはわけが違う」と言ったとか。
上記の「諦めの悪さ」とは矛盾するような逸話であるがそれは違う。諦めが悪い事と往生際が悪い事はまた別の話なのだ。

-家康の方は…
秀吉の死後、本格的に対立を深めた三成と家康。
しかし三成はともかく、家康の方は彼を政敵と見つつも個人的には嫌っていなかったとされている。
三成の息子である石田重家の事は実の孫の様に可愛がっていたらしく、三成が失脚した後も自らの権限で元服を認め、自らの家康の「家」を含めた元服名を与えている程。
会津征伐の際には吉継の傘下として出陣を認め父親の汚名返上の機会も与えようとしており、そして三成と対立し最終的に斬首刑に処せられた後も家康は「十代前半の若さ」であるのを理由に重家の助命嘆願も赦している。
これらからも家康の方が三成を嫌っていた可能性は極めて低いと言え、前述の様に三成を武断派七将から庇ったのも、彼の息子である重家の事を思ったが故なのかもしれない。
また三成の娘達も徳川下で大事にされ、特に次女の小石殿の孫(三成から見て曾孫)は三代将軍徳川家光の側室となり子を宿し、以降石田三成の血を現在までに残している。

一方家康の次男「結城秀康」は、襲撃事件の後三成の護衛をした縁で、彼から正宗の刀を貰った。
石田三成が江戸幕府において逆賊と罵られていることを知りつつも彼はそれを大切にしたという。


互いに戦を起こすほどまで争い「逆賊」と扱う間柄ながらどこか相手への敬意を感じるそれらの行為は偶然か、それとも。


*★石田三成が登場する作品
**小説
[[司馬遼太郎]]『関ヶ原』
童門冬二『石田三成』

**漫画
原哲夫『SAKON-戦国風雲録-』
[[重野なおき]]軍師黒田官兵衛

**ゲーム
[[戦国無双]]シリーズ
・幸村、兼次と合わせて義トリオの一人。cv竹本英史
イケメンだが口の悪さが玉に瑕。実はツンデレ。武器は扇子でビームも撃てるし地雷も設置できる。


[[戦国BASARAシリーズ]]
・BASARA3より登場。CV[[関智一]]。秀吉を敬愛してやまないヤンデレ。
秀吉がいるときといないときで精神の安定度が違いすぎる。

戦国大戦
・初登場はver2。レアリティはRでどこか傲慢さを感じさせる少年で後にそのまま成長した姿も登場した。ver3の関ヶ原でついにSRとして排出。ゴリラモデルと計略ムービーが絶妙なダサさで三成らしいと評判。CV[[緑川光]]
信長の野望
・文官型のステータスで義理が高い
太閤立志伝
采配のゆくえ←主人公
・関ヶ原の戦いの時点で二十代、エンディングでは・・・




#center(){&bold(){&font(#ed6d3d){筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり}}}((訳:筑摩江(地名)よ、あの芦の間に灯るかがり火のように、わが命も消えていくのだな…))


追記・修正お願い致します。

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- 最近の意見では真の敵は、細川幽斎+近衛前久「龍山」らしい  -- 松永さん  (2013-04-09 17:02:30)
- 秀頼は、実は三成の子という俗説があるって聞いたことある。  -- 名無しさん  (2013-05-22 17:04:38)
- ↑大野さん説も有るが、何にしても三成さんモテモテやな~  -- 松永さん  (2013-05-22 17:08:54)
- ↑もしこれが真実なら秀吉は種な・・・いや何でもない・・・。  -- 名無しさん  (2013-05-22 22:20:47)
- ↑おねさんの不妊症や愛人に産ました子供が虚弱体質で早死にするの見ると、胤なしに近いのかな~ まあ胤なしというより 子煩悩どころかスパルタで子供て死なせちゃうタイプなのかも 秀吉 &br()そして玉砕した思ったら ちゃっかり生き延びてる石田家の一族  -- 松永さん  (2013-05-22 22:40:03)
- 取り扱った作品の小説に「のぼうの城」は入れられないでしょうか。主人公ではないのですが。  -- 名無し  (2013-05-26 18:50:38)
- 義風堂々 アニメ化したら 是非ともでてほしいキャラの一人  -- 松永さん  (2013-07-04 15:14:16)
- まあ秀頼の実父という俗説は、三成や淀ひいては豊臣家を貶める為に江戸時代で唱えられた説だろう。実際淀の後につく「君」というのは遊女を意味するって聞いた事がある。近年では淀「殿」で聞くけど  -- 名無しさん  (2013-09-26 22:26:06)
- ↑×7 &br()淀が懐妊した時点で三成は朝鮮にいたからその説はありえない。てか、利休事件とか秀次事件とか巷にある「三成の黒幕」みたいな話は実際には三成にアリバイがあったことで否定できるものが大半だったりw  -- 名無しさん  (2013-10-23 16:00:05)
- そもそも石田三成の一族は淀殿の実家である浅井家とは敵対関係だったから、むしろ淀殿一派からはうとまれていたんじゃないの?  -- 名無しさん  (2013-11-24 18:45:31)
- ↑むしろ 不仲説もあった 寧々やその実家のが仲良かったらしいしね  &br() とはいえ茶茶と寧々も 案外親密らしいとこ見るに 対人関係そんなに悪くなさそうな 佐吉  -- 松永さん  (2013-11-24 20:13:46)
- なんやかんやで部下や民衆や親類は最後の最後まで三成を見捨てなかったってとこが同じように「人望がなかった」って言われてる他の歴史人物との大きな違いだと思う。  -- 名無しさん  (2013-11-24 21:22:07)
- ただ良くも悪くもストレートな性格だから敵を作り易かったのは間違いないと思う。リアルでいたら頼もしく思えるのと同時に、(相手を馬鹿にしている訳じゃないだろうが)カチンとくる発言が多そう。  -- 名無しさん  (2013-11-25 00:50:44)
- ↑×5 &br()いい加減利休や秀次排除した黒幕は三成っていうテンプレ論はホント止めて欲しいよね。どっちも三成にはアリバイがあるのに。  -- 名無しさん  (2013-12-27 03:58:13)
- 小早川何したら出会い頭にそんなこと言われるんだよw  -- 名無しさん  (2013-12-27 04:27:09)
- 関ヶ原三大トラウマで検索しても出てこないんだけどもしかして造語?  -- 名無しさん  (2013-12-27 04:38:24)
- そして島津と毛利は教訓とした  -- 名無しさん  (2014-01-07 18:39:53)
- 秀次の元家臣に捕らえられたのは皮肉というか可哀想というか。  -- 名無しさん  (2014-01-09 01:41:33)
- ↑×4見事に裏切っただろ。三成の場合、前線での指揮が少ないのは前線よりも後方で補給物資の差配とか増援の戦力配布とかの戦略面での貢献の方が全体の為に必要だったのもあるかと(武断派は差配出来て合戦(一戦)での戦術レベルの脳筋揃いでそういう戦略的な事には不向きだったみたいだし)  -- 名無しさん  (2014-01-09 02:18:25)
- 家康は三成の忠義には敬意をしているんだよな。だから、三成の娘が津軽藩の正室(のちに側室に格落ちするけど)になっても大目に見てるし、家康もなんだかんで三成に同情はしていたと思う  -- 名無しさん  (2014-02-12 15:44:22)
- 中里介山の「大菩薩峠」では、小栗忠順がこの人になぞられていたな。人物像、財政手腕、  -- 名無しさん  (2014-03-09 15:36:19)
- 治部が戦下手とかはほんと風評被害だよな。 実際賤ヶ岳じゃプロパガンダの七本槍よりか手柄は多いみたいだし。  -- 名無しさん  (2014-04-09 20:08:02)
- 三成は項羽と劉邦の蕭何って感じがするが武断派筆頭の福島とか加藤はそういうところ学んでなかったんやろな。  -- 名無しさん  (2014-08-18 23:30:20)
- 小早川秀秋に味方したら関白を任せるって約束したけど朝廷や毛利宗家や豊臣を馬鹿にしてる気がする。いくら三成が勝利しても朝廷に意見ができるとは思えないし毛利宗家が仮にも分家の小早川が関白になるのを許すわけないし淀がなんと言うか分からないのか  -- 名無しさん  (2014-08-19 13:23:09)
- ↑ゆえに秀頼成人までの繋ぎとしての関白としか約束していない。三成に権限あろうがあるまいが優柔不断な秀秋を味方にしておくには最低限これだけは……と考えたんだろう。無論西軍が勝っても政争の元となったはず。  -- 名無しさん  (2014-08-19 14:01:32)
- 所詮口約束だと思ったから小早川も家康に付いたのかもしれないし。秀次といい秀家といいつくづく周りに振り回される義兄弟だなぁ  -- 名無しさん  (2014-09-18 12:56:55)
- 黒田官兵衛見てて思ったけど、清正とかに嫌われる理由は、たっぷりあったんだな。文治派対武断派、淀派対ねね派。秀吉の悪かった面を全部三成が背負ってる感じ。関ヶ原で豊臣家裏切った清正を裏切りものだとおもってたが、三成を除けば、豊臣家が良くなると考えるのも理解できるようになった。  -- 名無しさん  (2014-10-08 05:47:25)
- 淀君対ねねって構造は否定されているぞ  -- 名無しさん  (2014-10-09 10:38:54)
- ↑2  皮肉にも武断派・文治派どちらも豊臣への忠誠は篤いが………天下統一により統治範囲が拡大→秀吉小飼奉行の権限・威勢拡張→諸大名への火の粉という悪循環。武断派が勢力回復(一部逆恨み)のために猫を(狸)被っていた家康を頼っても不思議はない。  -- 名無しさん  (2014-10-12 20:54:25)
- 軍師官兵衛での田中圭演じる三成の陰湿さったらもうww。果たして親父をあんな目に合わされた桃李長政が敗戦した三成に陣羽織あげるんだろうか  -- 名無しさん  (2014-10-22 22:59:43)
- 性格的に不倫はありえねーだろ。大麻君の方は知らんが。  -- 名無しさん  (2014-10-22 23:24:17)
- 部下からの受けは良かったんだよなー。  -- 名無しさん  (2014-10-24 14:04:49)
- ↑2そもそも秀頼生まれる前後の三成は、朝鮮に行ってるから秀頼の父親になるのは不可能だもんな...大野は知らん  -- 名無しさん  (2014-11-03 13:43:41)
- 大局的・長期的に物事を考えることはできるけど、一個人に対しての配慮とかは苦手(ただし秀吉は除く)なイメージ  -- 名無しさん  (2014-11-19 12:22:41)
- ↑秀吉に関してが三成の立場・状況を鑑みるとかなり問題。秀吉死去後、多くの大名が幼い秀頼に国家運営は不可能であり、家康が多少幅を利かせてでも統治する必要があると認めていた。バランサーである前田利家を失えば合議など成立するはずもないが、長期的視野に長けるはずの三成は秀吉の最期の命令に固執してしまい身を滅ぼす結果に繋がった。  -- 名無しさん  (2014-11-19 13:18:52)
- 正則と清正の身内贔屓(二人とも秀吉の親戚)が三成や豊臣の不幸だったのかも  -- 名無しさん  (2015-02-13 19:29:18)
- 合理的  -- 名無しさん  (2015-05-06 15:07:06)
- 合理的なあたり、信長とも気があうかもな。  -- 名無しさん  (2015-05-06 15:10:43)
- 合わんだろ。前に習え体質の三成は信長の一番嫌いなタイプだろうし  -- 名無しさん  (2015-05-07 20:17:44)
- ↑部下にはそういうタイプがいてほしいと思ってほしいんじゃない?  -- 名無しさん  (2015-10-12 00:36:19)
- ↑間違えた 思ってたんじゃない?  -- 名無しさん  (2015-10-12 00:37:08)
- 石田光成は委員長タイプで加藤清正はガキ大将タイプだから。たぶん性格的に遭わなかったんだろうな  -- 名無しさん  (2015-10-13 04:06:30)
- なんかその場しのぎしかできてない気がする 朝鮮出兵の報告もそうだし関ヶ原起こした時もなんかこの後どうするってビジョンが見えないし   -- 名無しさん  (2015-10-22 00:11:48)
- 本質的には官僚なんだよこの人。組織運営や維持をやるにはすごい重宝する人なんだけど、自分がリーダーで物事を大局的に動かすのは苦手な人。政治家じゃない。  -- 名無しさん  (2015-10-22 00:20:04)
- 最近の研究だと言われてるほど官僚体質でも杓子定規な人でもなかったみたいだがね  -- 名無しさん  (2015-11-08 00:37:40)
- 裏方仕事ばっかさせられてるから官僚イメージ強いけど  -- 名無しさん  (2016-04-06 19:14:34)
- 他の三人に比べ(福島は少しきつかったけど)、小早川への対応がww よほど、あの裏切りに腸煮えくり返ってたんだろうなぁ。  -- 名無しさん  (2016-04-06 19:21:26)
- ↑そりゃそうだろ 自分がこんな目にあってる元凶なんだから  -- 名無しさん  (2016-04-10 11:06:37)
- 最初から正々堂々と戦った好敵手と裏切り者とじゃ扱いが違うのは当然だな  -- 名無しさん  (2016-06-04 16:00:21)
- 一途で真面目すぎる分、空回りしているんだよな。この人は。  -- 名無しさん  (2016-06-10 12:00:48)
- 大河の真田丸では、とてもまっすぐで内心は熱い人という描かれ方。  -- 名無しさん  (2016-08-10 01:09:41)
- 悪い人ではないんだろうけど他人の事情考えずに良かれと思って余計なことする人ってイメージ。つくづく秀吉の後継者ごたごたがなくいい主君に仕えられていれば…  -- 名無しさん  (2016-08-24 13:31:18)
- 管理能力抜群、なにやらせてもこなせる、汚れ仕事も厭わない、絶対裏切らない 部下としては最高すぎる。ただ性格難ありだから同僚や上司にいると大変そう  -- 名無しさん  (2016-08-27 02:04:38)
- 結局こいつの性格が武断文治で豊臣内の軋轢を生んで家康に付け込まれたんだから自業自得の最期ではある  -- 名無しさん  (2016-08-27 04:12:15)
- 吉継も指摘してるけどトップの器ではない、首根っこ押さえて状況を管理してやれる人間が要る、ただし秀吉クラスでないと分は悪いかもだが  -- 名無しさん  (2017-04-29 20:27:01)
- 「先人たちの底力知恵泉」で頭蓋骨が復元されていた。ああいう顔だったのか。そして子孫が生き延びていたとは。  -- 名無しさん  (2017-04-29 20:36:04)
- 一度敵と決めると、とことん敵視してその人を悪人扱いするんだよなあ 秀吉死後わずか十日で遺言やぶって三成主導で浅野を除く五奉行が毛利輝元と徳川対策の密約結んでるし、あまりにも徳川家康を敵視するもんだから前田、大谷からもっと家康を信頼しろ、歩み寄れと注意をされたらしい  -- 名無しさん  (2017-04-29 23:25:43)
- 五奉行筆頭って浅野長政じゃ・・・?  -- 名無しさん  (2017-11-10 19:02:12)
- 最近はツイッターで大河ドラマの実況や感想をつぶやいている模様。  -- 名無しさん  (2018-05-15 15:34:01)
- そろそろ大河ドラマの主役やらないかな  -- 名無しさん  (2018-07-20 23:05:34)
- ↑2 そして、うっかり、『領土は不要』とツイートしてしまい、コーエーの開発から『そしたら、佐和山城も取り上げてOK?』と返され、『いや佐和山城はわしのアイデンティティだから残して』と慌てた模様w  -- 名無しさん  (2018-11-09 10:14:52)
- 自分の領地では善政を敷いていたらしく領民からは慕われていたらしい  -- 名無しさん  (2019-06-12 05:18:52)
- 編集しました。  -- 名無しさん  (2019-09-04 15:11:42)
- ↑2そりゃあそうしないと一揆がおきて殺されるか追放されるかだからどこの武将だってそうだよ。  -- 名無しさん  (2019-09-04 17:43:02)
- 実際にできるかどうかは別だけどね  -- 名無しさん  (2019-12-18 19:42:13)
- 個人的に現代で言うと宮崎駿のイメージだわ。なんでも自分でやりたがる完璧主義者。他人の不出来を見逃せず修正してしまう(された方は面目丸つぶれ)そんなだから実力は凄いのに人望に欠け後継者もいない   -- 名無しさん  (2020-05-11 13:08:33)
- 『影武者徳川家康』では、捕まったところを見に来た小早川の前で、吉継の霊と語らう振りをしてたね。(実際に見えていたかも)それで小早川がびびっていたな。(大谷軍の亡霊の幻が見えてた)  -- 名無しさん  (2020-05-11 14:22:19)
- 評価の分かれやすい人物だから仕方ないとはいえ、他の武将の記事に比べて全体的に内容が辛辣というか編集者による個人的な人物評のウェイトが多くね?  -- 名無しさん  (2020-09-27 20:47:50)
- そもそも近年だと関ヶ原自体、毛利輝元が言い出しっぺだけどさっさと家康と和睦しちゃったから三成達は結果的にスケープゴート。ここで散々批判されてる人物像も大部分というかほぼ全部江戸時代中期以降のいい加減な史料がソースだし(大谷吉継に性格の悪さを指摘された話とか)  -- 名無しさん  (2020-09-27 20:52:24)
- 『影武者徳川家康』では関ヶ原の合戦時と捕縛後で別人レベルに変わっていたが、それでも『花の慶次』で登場した時から少しずつ成長して行った結果なのかと考えるとやっぱりシリーズで一番好きなキャラだったなぁ。  -- 名無しさん  (2021-12-15 22:24:51)
- コミュ障でKYでなければなぁ...  -- 名無しさん  (2021-12-30 12:23:02)
- ↑石田三成の話をしてるのに、なんでジブリアンチがわいてんだ?  -- 名無しさん  (2021-12-31 02:27:21)
- こいつに限らず戦国武将の論って時の体制、特に自民党への立ち位置で決まるとこあるからな  -- 名無しさん  (2022-05-17 23:37:02)
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