豊臣秀吉(戦国武将)

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&ruby(とよとみ){豊臣}&ruby(ひでよし){秀吉}は戦国時代の武将、大名である。
幼名はひよし、通称は藤吉郎。猿に似ていた顔から、主君[[織田信長>織田信長(戦国武将)]]始め、織田家家臣時代は専ら「猿」と呼ばれたとか。
また禿げてやせた頭から「ハゲ鼠」とも呼ばれていた。
豊臣秀吉は彼の最後の名前であり、それまでに木下藤吉郎→羽柴秀吉→藤原秀吉(近衛前久の猶子時)と名前を変えた((氏と姓の違いの問題であり、彼自身の本名は最後まで羽柴秀吉))。


●目次
#contents

**経歴
尾張中村に生まれた下級足軽の子とされるが、実は素性ははっきりとは分かっていない。
よく元は百姓やら木こりやらだともされているが、これは民衆の支持を得るために積極的に流布していた可能性が結構高い。
とは言え、いずれにせよ元々の身分はそう高くは無かったとは類推されている。

存在が確認出来るのは1558年頃からであり、美濃攻めに従軍した後1568年の上洛戦ではいきなり[[柴田>柴田勝家]]や[[丹羽>丹羽長秀]]などの名だたる武将と共に活躍している所を見ると、
美濃攻めの時に破格の出世をしたとみられる。後に[[明智光秀>明智光秀(戦国武将)]]と共に京都守護に就くなど次第に頭角を顕す。これは彼の人生における第一の「逆転」であろう。
秀吉の成り上がり象徴しているとも言えるが、信長の慧眼も非常に大きい。

1570年の金ヶ崎撤退戦では明智、池田と共に殿を努め全軍の帰還を支援した。
その後元亀争乱の時には一貫して北近江の浅井氏攻めに関わっており、一度も防衛ラインを破られる事無く浅井氏を滅亡に追い込んだ。
その功績で、浅井氏の旧領北近江長浜12万石をそのまま与えられ大名に出世する。いかに信長が彼を評価していたかが窺える。

その後、武将として織田の中核をなすようになり「羽柴秀吉」と改名する。
ちなみにこの名字は、『丹「羽」長秀と「柴」田勝家から取って「羽柴」という名字にした』というのが通説だが、実は確かな由来は分かっていない。
確かに長秀と勝家は織田家において有力な家臣であったが、勝家の方が格上であるため、長秀由来の「羽」を先にするのは勝家に対して失礼であり、
当時の常識に照らして考えれば、最初からこの両名から一字ずつもらって名字を付けるなら「羽柴」にはならないと考えられるからである。
そのため、元々「はしば」という名字を付けるつもりであり、漢字を当てる際に柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつもらったのでは、等の説が唱えられている。

「羽柴秀吉」となった秀吉は、中国毛利氏攻めに専念。
三木城の別所長治に裏切られて苦戦する等、決して順風満帆とは行かないまでも[[宇喜多直家>宇喜多直家(戦国武将)]]を味方に引き入れたり、
彼が十八番とした数々の攻城戦の結果、現在の兵庫県から岡山、鳥取県辺りまでを征服し信長に但馬、播磨2か国(約47万石)を与えられる。

家臣を多く集めたり、出来るだけ被害を少なく済ませようと努力したりしたとされる。
しかし前者は信用出来る一門が居なかった事が関連しており、後者も味方に対してのみである。
敵に対してはは撫斬りしたり、問答無用に干殺し・飢え殺し((殺すまでの意図はなかったという説もあるが、他の例を考えると味方に損害が出なければどうでも良かったんじゃないかと思われる。更に恐らく想定外だった気もするのだが餓死寸前の者達に注意せず飯をそのまま与えたことにより、残った約半数をショック死させた。困窮のあまり死体の人肉や脳みそなどまで食したとされる人たちなのでリフーディング症候群であろう。))・水攻めを試みるなど当時の世情を考えてもなおえぐい事を一通りやってのけているため、実に微妙だと言わざるを得ない。
後世において魔王だの何だのと恐れられつつも、実は名君として辛抱強い対応や情の有る対応もよく行っていた信長と比べて明らかにえぐいことをしている((そもそも信長に関しては研究が進むにつれて、過去のイメージとは間逆な実像が浮かんできているのだが))。


ここから彼の人生は第二の逆転の道を突進む。
仕える主君である信長が本能寺の変で討ち取られてしまったのである。

備中高松城を包囲していた秀吉は、捕らえた明智方の使者が持っていた密書で主君の訃報を知る((偶然自陣に迷い込んできた、秀吉が周囲に放っていた忍びが怪しんで捕らえたなど、その経緯は諸説ある))。
秀吉は敬愛する主君が討たれたことに茫然自失となったとされるが、軍師である黒田官兵衛に天下取りの好機と忠告されて復調。
信長死去について部下に箝口令を敷き、手早く毛利との講和を成立させるや、交換条件である清水宗治の切腹を見届けた後に直ちに反転。
驚異的な行軍速度で姫路城まで到着した秀吉は、情報を上手く扱って織田の旧臣たちを味方につけ、山崎の合戦にて明智光秀軍を撃破する。
後に『&bold(){中国大返し}』と呼ばれるこの強行軍では、秀吉は貯めていた財を惜しみなく兵に分配したり、できるだけ兵の持つ荷物を少なくしたりと、士気を保つためにかなり心を砕いたという。


なお、明智光秀が謀反を起こした明確な流れ・意図・理由が不明なこと((信長の扱いと実際に下剋上したことからして、内心嫌だったんだろうなという推察しかできない))と、更に光秀が織田家を滅ぼした後の展望が不明なこと、
更に秀吉は毛利家と遠方で戦争中だったにも関わらず、都合よく主君の訃報を早く知り、そしてありえないぐらいの速さで転進して当の明智光秀を撃破し、後述するが主家を乗っ取っていること、
更に光秀を倒した後の動きも想定していなければありえないぐらい理想的な流れに持ち込んでおり(後述)、家康の介入以外は全て彼の理想通りと言っても過言ではない。
これらのことから、&bold(){彼が明智光秀に信長暗殺(とその後の信忠撃破)をそそのかし、最後に口封じを狙ったのでは?}などの陰謀説も割と根強い。

秀吉が本当に首謀者や共犯者ならば、明智光秀がその事実を公表していないのはおかしいとする意見もあるが、
仮に一緒に裏切る算段をつけていたならば言わないこともおかしいことではない。
背後からの奇襲や内応も可能になるため言わないメリットは大きく、仲間になるかどうか分からない者に伝えると情報漏洩する恐れが高い。
信長を討った後の咄嗟的な仲間集めの際に言うにしても本能寺の変の時に秀吉は遠方に居たので効果が薄く((本来ならそんな早くに戻ってこれない))、
更に秀吉に討たれているわけだから、言っていたとしても秀吉が妄言だと言えばそれで終わってしまう話である。

もちろん証拠は一切ないので想像の域を脱することは無い。
本能寺の変を知った秀吉が、上記の天才的な才覚と手腕を持ってその場その場で最善手を打っていったことで理想的な流れを引き寄せたとしてもおかしくはない。

「中国大返し」については、成功したからこそ怪しまれる論拠になっているが、当時の状況でこの判断は(間違ってはいないとはいえ)かなりの大博打であり、
もしも毛利方が追撃を掛けて来ていたら毛利勢と明智勢に挟み撃ちになっていてもおかしくないので、&bold(){秀吉は命懸けの危険を冒した}ことになる((少なくとも毛利勢は追撃するとなれば本気で殺しに掛かってくるし、当時の毛利家には追撃派がかなり存在した))。
追撃しなかった理由としては、当時の毛利の資料には「謀反した者は津田信澄・明智光秀・柴田勝家」とする記述が残っており、これを毛利側がそのまま受け取ったとすれば、
秀吉を撃破してもその後明智・柴田の大軍と対峙する羽目になる((この時点で明智光秀の送った使者は捕らえられており、共同できていなかったであろうことに注意。))からという可能性もある。
ちなみに、「中国大返し」は徹頭徹尾異常な速度で行軍していたと思われることもあるが、実際のところはそうではなく、
沼城から姫路城、つまりは毛利勢の追撃を受けかねない範囲からの離脱は素早かったものの、姫路城に到着してからは、慎重に情報や軍勢を集めながら常識的な速度で行軍している。
姫路城以降まで遠ざかられると追撃側も兵站を整えながら追わなければならなくなる上、秀吉軍は更にとどまることなく逃げているのでなおさら追撃は困難となる上、
姫路城は織田軍の軍事中継基地であり、大量の軍事物資が集積されているため、ここに到着した時点で秀吉軍の兵站は確保できるので、
秀吉にわずか2~3日で姫路城にたどり着かれてしまったことで毛利に追撃の選択肢は無くなったと言ってよく、秀吉側もそれを理解して姫路城以降は行軍速度を緩めたと思われる。

光秀がその事実を公表していない点についても、光秀自身が公表しない論拠は上述の通りだが、敵対関係になってからもそのことについて一切光秀が言及しないままに討たれた、というのはやはり不自然である。
公表すれば織田の旧臣等は秀吉に付かないばかりか謀反人として攻撃する可能性もあり、秀吉勢とかなりの戦力差が存在した山崎の合戦時点では、光秀にとって公表する明確なメリットが存在する。
「公表はされたが勝者である秀吉が敗者の妄言として片づけた」という顛末であっても、後に秀吉と対立した家康や信雄にとっては反秀吉の恰好の攻撃材料となるのに、
実際に一戦交えるところまで行っても家康・信雄側が一切そのことに言及していないというのもこれまた不自然である。

また、信長と共にその嫡男であった信忠も光秀に討たれたことで織田政権が揺らぎ、その光秀を討ったからこそ秀吉は台頭したのであるが、
光秀は本能寺の変に際して京都を封鎖しておらず、直接襲撃された信長はともかく、信忠に関しては京都から脱出できる可能性があり((実際、信長の弟である織田有楽斎や、信忠の嫡男である織田三法師等は脱出に成功している))、
信忠が脱出せず敢えて戦いを挑んだからこそ自刃に追い込むことができたのであり、織田家のツートップ((1576年に信長から織田家の家督を譲られている。本能寺の変時点では織田家の家督は信忠、トップは信長という体制であった))を排除できたのはいわばラッキーである。
事前に二人が図り、織田政権を乗っ取ろうとしていたのであれば確実に信長・信忠父子を殺せるようにして然るべきであり、京都を封鎖せずに本能寺を襲うなど有り得ないだろう。

結局のところ、確かに秀吉は怪しく見えるものの、直接的な証拠がないこと以外にも秀吉は黒幕ではないと判断できる材料も存在しており、
少なくとも「光秀の背後に何者かがいた」という決定的な証拠が出てこない限り、巷でささやかれる俗説の域を脱することはないだろう。


清洲会議では信長の嫡孫、三法師(後の秀信)を後継に推し、その保護者となる事で織田家での地位を高めようとする。ここらで柴田勝家との立場が逆転。
だが当然この露骨な動きに対して、柴田勝家はお市の方と結婚して織田家と血縁関係となる上に領地分配の際に秀吉の領地を受領する等、
秀吉の織田家乗っ取りを警戒して掣肘を加えてきている。
一応最初はお互いの主張を汲んだ形で決着をつけているが、その後も激しい主導権争いが続く。
まあ仇を討った秀吉の方が有利ではあるが。

その為に柴田勝家・織田信孝・滝川一益を撃破。信孝、勝家を自害させる(賤ヶ岳の戦い)。
ちなみにこの時にわずか5時間で約52キロメートルを移動している(美濃大返し)。上記の中国大返しが3日で230キロメートルであったことを考えると驚異的である。
事前に緻密な連絡網を張り巡らせていたり、経路上の村々に松明や炊き出しの準備をさせているなど入念に予定したものであったが、こうした電撃作戦は彼の得意とするところであったのだろう。


また、織田信雄・[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]の連合軍と戦い(小牧・長久手の戦い)、緒戦には破れたものの信雄とは和睦、外交的に勝利し徳川家康の臣従にも成功する。
ただし、この戦い自体は秀吉側にとっては蛇足、アクシデント以外の何物でも無く徳川、織田家に対して配慮を強いられるようになってしまった。
世間的に秀吉に丸め込まれる形で和睦したと取られ、無能扱いされている信雄だが自前の戦力が乏しい現状であり、戦いが続けば織田も徳川も討ち滅ぼされたり泥沼化して他国の大名が介入する可能性もあった。
そういう意味では緒戦で優勢を勝ち取って秀吉側が怯んでいる内に和睦して譲歩を迫るのは決して悪手ではない。
そもそも秀吉側に看破されずに父の同盟相手と言う希薄な繋がり((ただし、信長と家康は敵対することもあったりしたが要所要所で長く苦楽を共にした戦友でもあり、関係性は希薄でも織田家との仲そのものはかなり良かったと思われる))の家康と連合軍を結成して戦いに持ち込めただけでも大したものである。

その後、朝廷から豊臣の姓を賜った上で、太政大臣、関白に就任し、四国は[[長曽我部>長宗我部元親(戦国武将)]]、九州は[[島津>島津義弘(戦国武将)]]を降し、1590年、小田原征伐・奥州仕置により&bold(){天下を統一。}
位人臣を極め、天下人となった彼にとってまさしく絶頂期であった。


しかし、この天運は次第に彼の人生を、そして彼自身を狂わせていく。
脆弱な自身の政治基盤を固める過程で、信用出来る者を自分の周りに置いていくという当たり前の行為によって周囲はイエスマンばかりで固まっていき、
弟・秀長や母の死後、彼の行いは次第に狂気を増していく。
部下から見れば最高の上官と褒め称えて当然と言えるぐらいだったのだが((味方を見捨てたり、下剋上の世とは言え大恩のある主家を乗っ取ったりなどしているので、『部下』ではなく『味方』として見たら……というところも強い))、同時に&font(#ff0000,b){絶対に敵に回したくない人}なので、結果的に見ればこうなるのは当然の流れだった。

まず、息子の拾(後の豊臣秀頼)が生まれる前に自身の後継者として養子にしていた、甥の豊臣秀次を切腹に追い込み、彼の親族や関係者数十人を容赦なく公開処刑する。
理由は諸説あり、有力なものとしては拾を後継者に据えたいがために、既に自身の後継者としての立場を確立しつつあった秀次を邪魔に思って粛清したというものがあるが、
秀次が切腹したにも関わらずその親族・関係者等も処刑するというのは常軌を逸しており、前々から両者の間に確執があり、それが長く続いたが故に最悪の結末を迎えたというものや、
本来秀吉は秀次を高野山に追放するだけでよしとしていたが、彼の意に反して秀次が独断で切腹し、その場所が秀吉の母・大政所の菩提寺として秀吉が寄進した寺だったため、
自分の意に沿わないばかりか、当てつけのように母の菩提寺で切腹した秀次に激怒した秀吉が、その怒りのままに彼の一族郎党・関係者を処刑したというものもある((最新の学説を取り入れることが時折見られた大河ドラマ『真田丸』でも、秀次事件は細部は異なるながらもこれらの説を参考にしたような顛末で描かれ、秀吉と秀次のすれ違いが最悪の結末を招いたように描かれている。))。
なお、公開処刑された者の中には、側室に迎え入れられたばかりで秀次とろくに会ったこともなかった最上家の娘・駒姫もおり、
この事件をきっかけに、[[最上義光>最上義光(戦国武将)]]や秀次と懇意であった諸大名は家康との関係を深め、一気に反秀吉急進派となっている。

さらにその後、長年相談役及び茶の指南役として重用していた千宗易(千利休)と仲違いするや、言い掛かりめいた罪状で切腹を命じる。
死罪を命じるにしても、武士ではなく商人である宗易に、武士の作法に基づく切腹を命じるのは本来有り得ないことであり、常軌を逸した振る舞いであった。

秀吉のストッパーとなっていたのは肉親のみで、家臣は全員が成り上がりの過程で雇ったサラリーマンの様なものだった。
天下人となった後、肉親が亡くなっていってどんどん歯止めが効かなくなったのは、ある意味彼の不幸と言えよう。
また、晩年になってやっと生まれた実子((父親別人疑惑は後世になって出た説))に跡を継がせることに執着したがあまり、
十分な後継者育成や周辺環境を整えることができなかったのも豊臣氏が一代で勢力を失い、豊臣家がほぼ断絶する原因となってしまった。
そもそも自分が死亡する直前に生まれた子供に全てを継がせようというのが無理であったのだ。

なお織田氏も一代で勢力を失ったが、これは信長の後継者である信忠が本能寺の変で討ち死にしたことが最も大きい。
信長は後継者に指名した信忠に天下人となるための十分な教育を行っており、信忠は君主として十分な器量を持っていたと考えられている((暗愚説は松平信康切腹事件の原因探しで生まれた仮定の一つでしか無く、冷静に比較されたものではない))。
更に信忠の死後に秀吉が割り込む形で権力を奪い取ったという流れなので、言わば内紛の延長で滅びたとも言える豊臣家とは話が異なる。
また、『織田家』というネームバリューは豊臣家や徳川家が天下を取った後もしっかりと残っている。

そして彼の晩節を汚したとも言われ、国力の浪費と共に日朝間に禍根を生んだのが

&bold(){「朝鮮出兵」}(日本正式名:文禄・慶長の役、現地名:壬辰・丁酉倭乱)である。

これは明侵略の先駆けに李氏朝鮮領内の通過と助勢を依頼したが断られた、とされている。

しかし実際は国内に分譲可能な領地が減少し、失業寸前で特に不満の強かった武断派武将の反乱を抑える為の「公共事業」として戦を行った側面もある。
天下統一の傷も癒えない頃合い、しかも自身の寿命に焦ったのか文治派と武断派の調整も取らず無謀な戦略で始まった戦は泥沼化。
戦の内容は諸説あるが、上陸後あっという間に進軍出来すぎて補給線が伸びきってしまったこと、当時の朝鮮半島には略奪して軍を賄うほどの食料がなく補給に困ったことが挙げられている。
なお、海路~釜山まではそれほど補給に困っておらず、慶長の役になるとその時の経験からか補給線を維持出来ている。

しかしながら結果としては多大な犠牲を出すだけで、秀吉の死と共に終結した。
余談だがこの時秀吉と戦った李舜臣(イ・スンシン)は韓国の国民的英雄として知られているが、色々と盛られている模様((まあ、古今東西よくある話である))。

このときのいざこざが原因で、後に武断派七将の[[三成>石田三成(戦国武将)]]襲撃事件が起きる。

晩年は信長の幻影に怯えて失禁するなどの奇行が目立ち、「盛者必衰」の如く栄華を誇った天下人とは思えないほど惨めな晩節だったと言われる。
そして今際の際には家康ら五大老に秀頼の今後だけを一心に頼み、亡くなったという。

以降、[[石田三成>石田三成(戦国武将)]]と家康の対立は深まり、[[関ヶ原の戦い>関ヶ原の戦い(戦国時代)]]に繋がっていく。


**逸話

彼には逸話が多いがその殆どは小瀬甫庵「絵本太閤記」などの後世の創作の可能性が高く、彼の実像を知る術になるとは限らない。

信長に重宝され、確かな戦果を残し、天下人として生存中は権力を握り続けることが出来たため、
戦術・戦略・施政のいずれも才能があったことだけは確かだと言える。
また、いくら切実な理由があったとは言え戦略や実子の件を鑑みるに自己中っぷりが周囲からも透けて見えた(敵対者からすると好かれることはまずない)という欠点も確かだろう。

-親が遺した一貫文を元手に行商を行なった。携帯性が良い針を売っていたようである。
-蜂須賀小六(正勝)に一時期仕え、後に織田家に小六を推挙した。
--尚、出会ったのは矢作川の橋の上と有るが、この時代矢作川に橋は無い。
-今川家臣・松下之綱に仕えていた事もあり、後に大名にしている。
-信長の草履取りをしていた。ある寒い朝、信長が草履が暖かいのに気がつき草履を尻に敷いていたのではないか、と疑ったが秀吉は懐で温めていた。
-信長に小便を引っ掛けられた。「小便を掛けられて怒鳴ってみたら信長様だった。」な、何を言って(ry
-清洲城の崩れた石垣を割普請(チーム毎に担当区域を分け、早く仕上がったところには賞与すると明言)で三日間のうちに修復。
-美濃攻略の際には墨俣に「一夜城」を築いたとされる。川上で木を伐採、パーツの形状に加工して川を下り拠点で組み立てたという。
-[[竹中半兵衛>竹中半兵衛(戦国武将)]]に三顧の礼を取る。
--ただしこれは三国志演義の[[劉備]]と[[諸葛亮]]を参照した創作の可能性が高い。
-信長の命令に背いて謹慎中、芸者を呼んで大騒ぎ。これは鬱々してると怪しまれるという読みから。
-鳥取城では米価の操作(米の買占め)後の兵糧攻め、備中高松城では堤防工事による水攻めとバラマキ型の政治、攻城戦が得意。
-真夏の戦でぐったりする兵のために傘を大量に買い集め、敵味方関係なく被せて回るなど、特に若い頃は「人蕩し」と言われるほど他人の心の機微を読んだ振る舞いが得意だった。
-無学だが、勉強熱心。歌の腕前も悪くは無いし、素朴な字を書く。ちなみに秀吉の残した書の文字を見て、かの北大路魯山人も「上手い」と称賛している。
--いわゆる有職故実も最初は疎かったが後に公家のもとで徹底的に学んだ((逆に織田信長はいつまで経っても覚えなかったようである。これを「革命児」「破壊者」と見る向きもあるが、信長の他の行動から見るにただ単に覚えなかっただけのようである))。
-地元には年貢を免ずる代わりに野菜を届けさせた。好きだったんだろう。
-元々武士ではなかったためか、当時の武将の嗜みとされた男色を敬遠していたとされる。&br()そのことを危惧した家臣達が、家中でも一番の美男子と呼ばれる小姓を呼んで秀吉の傍に置かせたのだが、秀吉はその小姓に対し「お前に姉か妹はおるか?」と聴いただけで、決して手を出さなかったという。
--しかし小姓の有用性は認めており、森蘭丸らに対する礼は尽くしていたとか。
-寺を訪れて湯を求めた秀吉に対して、お茶を出す時に細かい気遣い((最初はぬるく薄い茶をたっぷりと出し、だんだんと出す茶の温度を上げて濃くし、量を減らしていった。まずはぬるい茶で喉の渇きを潤してもらい、その上で熱く濃い茶を楽しんでもらおうという心遣いである。))を見せた茶坊主を勧誘。この茶坊主が後の[[石田三成>石田三成(戦国武将)]]である。
--なお武断派の武将からはこの逸話も嫌われる理由となった模様。
-自らの生まれに対するコンプレックスからか、女性の趣味は高貴な生まれの上淫好みだった。好色家でもあり、貴族や武士の娘によるハーレムを築いていたという。
--尤も、ハーレム自体は珍しいことでもなかったようで、家康等も作っている。現代と比べれば成人前に死ぬ子どもが多かったため、戦国武将が跡取り確保のために側室を持つのは当たり前であったのだ。
--晩年の耄碌を腎虚とする説もある。
-奇形の一種である、多指症((手の指が六本))だった説があり、親指が二本あることを信長にからかい半分に褒められた記録が残っている((成人に至るまで切り落とさず残しているとは見上げた奴だ))。
--肖像画では隠されているあたり、本人にコンプレックスがなかったわけではないようだ。


**彼を取扱った作品

・小説
吉川英治「太閤記」
司馬遼太郎「新史 太閤記」
加藤廣「秀吉の枷」
山田風太郎「妖説太閤記」

・漫画
「センゴク」シリーズ
「[[へうげもの]]」
「信長の忍び」

・ゲーム
[[戦国無双]]シリーズ
[[戦国BASARA]]シリーズ
太閤立志伝シリーズ
その他、多くの歴史ゲーム


・彼にあやかった人物
相澤秀禎(サンミュージック創業者 本名は「相澤與四郎」)
羽柴誠三秀吉(実業家、選挙マニア 本名は「三上誠三」)


#center(){&bold(){&color(GOLDENROD){露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢}}}((訳:露のようにこの世に生まれ、また露のようにはかなく消え去っていく我が身であることだ。大阪城(浪速)で過ごした栄華の日々も、夢のなかの夢のようにはかないものだった。))


追記・編集宜しくお願い致します。

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