星野仙一

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&font(#6495ED){登録日}:2010/10/08(金) 02:35:14
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星野仙一は元[[プロ野球]]選手、野球指導者、野球解説者、監督である。ポジションは投手。
現在は[[楽天>東北楽天ゴールデンイーグルス]]の監督を努めている。



【現役時代】
14年間の選手生活を[[中日ドラゴンズ]]一筋で過ごす。
通算成績は146勝121敗34セーブ。実はセ・リーグ最初のセーブ王である。と同時に沢村賞。

新人の時に[[巨人>読売ジャイアンツ/読売巨人軍]]に入団する約束を反故にされたことでアンチ巨人・打倒巨人を全面に出し闘志をむき出しに投げる「燃える男」のキャラクターで人気を博した。

しかし同じ中日の同僚だった[[板東英二>板東英二(タレント・プロ野球選手)]]は「闘志あふれる男と言われるがあれは星野の実像ではない。交代も自分から替えてくれと言った方が多いのではないか。ホントは気の小さい男なのだ。」と話しており、
投手コーチだった故・稲尾和久氏も「自分で『代えてくれ』と言ったはずなのにマウンドを降りる時さも悔しそうにグラブを叩きつけた」「後で問いただすと『わたしは弱気なところを見せられんのです』と弁解した」と作り物のキャラであったと言われている。
 
 

【中日監督として】
引退後は二期、合わせて11年間にわたって中日ドラゴンズの監督を務める。

ロッテの[[落合博満]]を牛島和彦らとの4対1トレードで獲得するなど大胆な補強を行った。

指導方針は徹底したスパルタと愛情。
指導のためなら鉄拳制裁も行い、情実的・感情的な選手起用も特徴であった。

中でも一番の被害者とされる捕手の中村武志は&font(#ff0000){顔面が変形してマスクをかぶれないほど}殴られたという。
あまりの酷さに打席に入った相手チームの打者も、それを見て思わず同情したという話もある。
しかしそれと引き換えにどんなミスをしようと優先的に試合で起用し続け、それに応えるように中村自身も着実に実力を付け、FAで谷繁が移籍してくるまで中日の不動の捕手であり続けた。要は&font(#ff0000){アメとムチ}である。

若手投手が打ち込まれると制裁を行うことでも知られる。
主な被害者は川上や朝倉辺りか。
特に川上は1999年に消化試合ながら日本シリーズを控えた登板で7回14失点を記録した。
このかいがあってなのか違うのか、川上は後に中日のエースに、朝倉も好成績を挙げている。
 
中日では二度のリーグ優勝を成し遂げ、2001年にBクラス転落とともに「健康上の理由」で退団。涙ながらにグラウンドを去った……


&font(#ff0000){と思いきや}



【阪神の監督に】
中日ファンに別れを告げた舌の根も乾かない2001年オフ、なんと&font(#ff0000){阪神タイガースの監督}に就任。

前任監督だった野村克也の「今の負け癖のある阪神を立て直せるのは熱血指導の西本さんか星野だ」という推薦もあって実現した。

補強では金本憲、伊良部、久慈、下柳、中村、ウィリアムスらを獲得。
同じくして今岡、赤星ら若手も伸びてきたの事もあり、2003年にリーグ優勝を果たした。

ダメダメダメダメ虎を猛虎に立ち直らせたと、一躍センセーションを巻き起こした。

この年の日本シリーズ前に&font(#ff0000){「健康上の理由」}で勇退を表明、阪神SDとなり指導者としては一線を退いた。

中日時代にもこの「健康上の理由」で二度退いている。
中日時代一期目に関してはこれは表向きで、1997年に亡くなった夫人の白血病発症が大きく関係しているとされる。
阪神時代に関しては、星野の患っている高血圧症の持病のためであり、どれも決して適当な事を言って辞めているわけではない。
え? じゃあ中日二期で辞めた健康上の理由はなんだって? それは&font(#ff0000){お察しください。}



【星野JAPAN】
2007年、北京五輪日本代表監督に選ばれる。
SDとしての血が騒いだのか、監督に就任してすぐに&font(#ff0000){『星野JAPAN』を商標登録した}とか。

ベストメンバーを揃え、目指すは金メダルのみと騒がれたが、結果は4位に終わりメダルを逃した。

星野は中日、阪神監督時代でもリーグ優勝は何度も成し遂げたが、日本一には一度もなったことはない。
この事から、采配なのかそれともそういう天命なのか&font(#ff0000){「星野は短期決戦では弱い」}と決定付けられる一因になった。

にも関わらず2009年のWBC日本代表監督に内定が報じられ、非難が殺到、あえなく就任辞退に追い込まれたという経緯もある。

ちなみに星野本人はやる気満々だったらしいが、[[イチロー]]の「最強チームを作ると言いながら現役監督を排除するのはいかがなものか」と言う発言が引導を渡したとか。
 

 
【楽天監督就任】
2011年より、ブラウン監督に代わり楽天の新監督に就任した。

いきなり岩村、[[松井稼>松井稼頭央]]らメジャー帰国選手を獲得し、東日本大震災の発生もあって「がんばろう東北」を掲げ、必勝を誓ったが5位に終わる。

前述の二人が特に目立った成績(同じにするのも松井に失礼だが)だったのもあって、2012年に大きな補強はフェルナンデスの出戻りくらいと財布の紐が固くなってしまった。
そんな事もあってか、デーブをコーチに招聘し最凶タッグを結成。

若手の育成に取り組み、有力選手が呪いにかかったように離脱していく中、これをカバーするように、投げては美馬釜田らルーキーが、打っては枡田銀次らぶっちゃけクビになりかけだった若手が急成長。
前半戦を2位で折り返す快進撃で、他球団どころか自球団のファンまで仰天させた。

しかし、若手だらけなだけもあって夏場になり急ブレーキ。
一時は8連敗で5位に転落したが終盤までAクラス争いを繰り広げ、最終的には勝率5割の4位でシーズンを終えた。
 


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- 遂に現役時代からの悲願であろう日本一を達成。おめでとうございます  -- 名無しさん  (2013-11-05 14:48:19)
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