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星野仙一

登録日:2010/10/08 Fri 02:35:14
更新日:2026/08/09 Sun 07:53:38
所要時間:約 5 分で読めます




選手をここまで信じてきてよかったなと、つくづく幸せな男だと思います。

星野仙一(ほしのせんいち)とは日本プロ野球選手・監督、野球解説者、タレント、コメンテーター。
ポジションは投手。
現役時代は中日ドラゴンズで活躍、引退後は中日・阪神タイガース東北楽天ゴールデンイーグルスの3球団で監督を務めた。
また晩年は株式会社楽天野球団取締役副会長をしていた。


プロフィール

生年月日:1947年1月22日
没年月日:2018年1月4日(70歳没)
出身地:岡山県児島郡福田村(現:倉敷市
身長:180cm
体重:80㎏
ポジション:投手
投打:右投右打
プロ入り:1968年ドラフト1位
経歴:倉敷商業高校→明治大学
選手歴:中日ドラゴンズ(1969~1982)
監督歴:中日ドラゴンズ(1987~1991・1996~2001)→阪神タイガース(2002~2003)→東北楽天ゴールデンイーグルス(2011~2014)
主な獲得タイトル:最多セーブ1回(1974)、沢村賞1回(1974)、正力松太郎賞2回(2003,2013)
通算成績:現役14年、500登板、146勝121敗34セーブ、2128、2/3投球回、1225奪三振、防御率3,60

来歴

現役時代

1947年1月22日に岡山県児島郡福田村(現在の倉敷市水島地区)で生まれたが、自身の誕生前に父親が病死したため、姉2人とともに母親に女手一つで育てられた。倉敷商業高校時代は高身長から繰り出される快速球を武器にエースとして活躍するも甲子園には出場できなかった。
高校3年生だった1964年には広島カープから勧誘されるも、大学に進学させたい母の意向から、1965年4月に明治大学へ入学、「御大」と呼ばれた当時の明大野球部監督・島岡吉郎の下でエースとして活躍した。大学時代の通算成績は65試合登板、22完投、8完封、23勝24敗、投球回372イニング2/3、199奪三振、93与四死球、79自責点、防御率1.91。
1968年のドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。以来、1969年から1982年まで中日一筋で14年間の選手生活を送り、1974年と現役最終年の1982年にはそれぞれセ・リーグ優勝を経験した。
大学時代は東京六大学屈指の本格派・速球派投手であり、プロ入り直後も速球派投手と評されていたが、プロ入り語は度重なる故障から球速が低下していき、その衰えを投球術や駆け引きなどでカバーしつつ、先発とリリーフの双方で高い成績を残した。
通算成績は500試合登板、146勝121敗34セーブ、1225奪三振、防御率3.60。500登板のうち先発は半分に満たない243試合、リリーフが過半数の257試合であり、4年目の1972年には48試合に登板したが、1試合も先発では登板していない。逆に1976年と1981年は全登板が先発である。
実はセ・リーグ最初のセーブ王(1974年)であり、同時に沢村賞を受賞している。
沢村賞は先発完投型の賞なのにセーブ王と同時受賞であることに違和感を抱く方もいるかもしれないが、これは当時沢村賞の投票は現行のような受賞歴のあるOBたちによる選考委員によるものではなく記者投票であったこと、当時はエース級の投手がリリーフとしても登板することが珍しくなかったこと*1、そんな中で同年の星野は先発とリリーフの双方でフル回転して高い成績を残し、巨人のV10阻止&中日の20年ぶりリーグ優勝に貢献したことが高く評価されたためである。
入団後に故障に悩まされたのは(チームの先輩である権藤博のころから幾分は改善されてはいただろうが)先発・リリーフ双方での登板過多が一因にあると思われ、その実力を踏まえると先発中心で起用されていれば通算200勝も十分可能だったのではないかと評する声もある。

ドラフト会議の時に読売ジャイアンツ(巨人)に入団する約束を反故にされたことで、
アンチ巨人・打倒巨人を全面に出し闘志をむき出しに投げる「燃える男」のキャラクターで人気を博した。
ドラフトで巨人に指名されなかった理由は、ドラフト直前になって星野に故障疑惑が持ち上がったからだという事が、本人の著書『闘将』で明らかになっている。

しかし同じ中日の同僚だった板東英二は、
「闘志あふれる男と言われるがあれは星野の実像ではない。交代も自分から替えてくれと言った方が多いのではないか。ホントは気の小さい男なのだ。」と話しており、
投手コーチだった故・稲尾和久氏も「自分で『代えてくれ』と言ったはずなのにマウンドを降りる時さも悔しそうにグラブを叩きつけた。」
「後で問いただすと『わたしは弱気なところを見せられんのです』と弁解した。」と作り物のキャラであったと言われている。

中日監督として

引退後は1987年-1991年と1996年-2001年の2期、合わせて11年間にわたって中日の監督を務める。

ロッテオリオンズ落合博満を牛島和彦らとの4対1トレードで獲得するなど大胆な補強を行った。

指導方針は徹底したスパルタと愛情。
指導のためなら鉄拳制裁も行い、情実的・感情的な選手起用も特徴であった。

中でも一番の被害者とされる捕手の中村武志は顔面が変形してマスクを冠れない程殴られたという。
あまりの酷さに打席に入った相手チームの打者も、それを見て思わず同情したという話もある。
しかし、それと引き換えにどんなミスをしようと優先的に試合で起用し続け、それに応えるように中村自身も着実に実力を付け、
FAで谷繁元信が移籍してくるまで中日の不動の捕手であり続けた。要は飴と鞭である。
今やれば非難の嵐であり、間違いなく暴行の刑事罰に問われてしまう事だろう。
だが当時はまだ体罰が許される風潮の社会であったことや、どんなに厳しくても決して愛情を失わなかったことを忘れてはならない。
良くも悪くも古い人間なのだ。

若手投手が打ち込まれると制裁を行うことでも知られた。
主な被害者は川上憲伸や朝倉健太、野口茂樹辺りか。
野口はオープン戦で四球を連発した事で星野の怒りを買い、何と試合中にグラウンドで正座させられていた。
また川上は1999年に消化試合ながら日本シリーズを控えた登板で、序盤から打ち込まれたにもかかわらず懲罰目的で交代させて貰えず、7回14失点を記録した。
この甲斐があってなのか違うのか、野口と川上は後に中日を代表するエースに、朝倉も好成績を挙げている。
あまりにもあんまりだったためか、当時中日で主軸を務めていたA.パウエル*2が「選手を殴りたければ毎回オレを殴ればいい」「自分のケガを恐れて殴らない選手を決めるくらいなら、全員殴らないほうがいいんじゃないですか?」と制止する一幕もあったと伝わっている。
(ただし当のパウエルは阪神への移籍後、星野監督と言う人物について問われた際に「誰よりも勝利に飢えた、良い監督だった」と答えており、星野の意向自体には肯定的だったのには留意するべきでもある)

ただし選手のタイプによっては接し方を変えることもあり、一例として野球エリートであった立浪和義には甘く接するなど人心掌握に長けるタイプでもあった。
その立浪が監督になった際の評判を考えると「立浪こそ殴って性格を矯正しておくべきだったんじゃないか」という仮説も成り立ってしまうのがなんともはや…

中日では1988年、1999年と二度のリーグ優勝を成し遂げ、2001年にBクラス転落とともに「健康上の理由」で退団。涙ながらにグラウンドを去ったのだが、

阪神の監督に

中日ファンに別れを告げた舌の根も乾かない2001年オフ、なんと阪神タイガースの監督に就任。

…というのも当初はNHK解説者への復帰が決まっていたのだが、自身の退任後に阪神の監督だった野村克也が妻の脱税事件が原因で辞任してしまい、野村の「今の負け癖のある阪神を立て直せるのは熱血指導の西本さんか星野だ」という推薦もあって実現した。

この年のオフに、日ハムからFAで片岡篤史、オリックスからジョージ・アリアス、新外国人投手としてトレイ・ムーアを補強、この補強と既存の選手達も活躍したことで、2002年は5年ぶりの最下位を脱出し4位まで浮上。長きに渡る阪神暗黒時代を脱出した転換点となる年であった。

そして2002年シーズン終了直前に星野は全選手に『井川と今岡以外は全員トレード要員なので覚悟しておくように』と更なる補強を示唆。その宣言通り同年オフに、金本知憲、伊良部秀輝、下柳剛、野口寿浩、久慈照嘉、中村豊、後の岡田監督時代に藤川球児と久保田智之とトリオを組むことになるジェフ・ウィリアムスらを獲得する大型補強を敢行。約チームの1/3にあたる26人を入れ替える血の入れ替えとなった。

その甲斐もあり、同じくして野村との確執があり干されていた今岡誠*3、反骨心が強かった赤星憲広ら若手も伸びてきたの事もあり、2003年に1985年以来18年ぶりのリーグ優勝を果たし、日本シリーズではダイエーに3勝4敗で敗れたものの、ダメダメダメダメ虎を猛虎に立ち直らせたと、一躍センセーションを巻き起こした。

この年の日本シリーズ前に「健康上の理由」で勇退を表明、阪神SDとなり指導者としては一線を退いた。

中日時代にもこの「健康上の理由」で二度退いている。
中日時代一期目に関してはこれは表向きで、1997年に亡くなった夫人の白血病発症が大きく関係しているとされる。
阪神時代に関しては、星野の患っている高血圧症の持病のためであり、どれも決して適当な事を言って辞めているわけではない。
え? じゃあ中日二期で辞めた健康上の理由はなんだって? それはお察しください。

余談だが、星野のネタとして有名な「わしが育てた」は、このSD時代にトークショーで行った発言である
「大半の(中日の)選手は私が育てたんだもの、力のある連中ばかりだよ」
と言うのが元ネタ。なお星野の一人称はプライベートでは「俺」、人前では「私」「僕」のいずれかであり、「儂」と言う事はない。

星野JAPAN

2007年、北京五輪日本代表監督に選ばれる。
SDとしての血が騒いだのか、監督に就任してすぐに『星野JAPAN』を商標登録したとか。

ベストメンバーを揃え、目指すは金メダルのみと騒がれたが、結果は4位に終わりメダルを逃した。

星野は中日、阪神監督時代でもリーグ優勝は何度も成し遂げたが、日本一には一度もなったことはない。
この事から、采配なのかそれともそういう天命なのか「星野は短期決戦では弱い」と決定付けられる一因になった。
金田正一はこのことについて「驕りが過ぎるから勝てない。星野や金田みたいな人物は代表監督に相応しくない(要約)。」と評している。

にもかかわらず2009年のWBC日本代表監督に内定が報じられ、非難が殺到、あえなく就任辞退に追い込まれたという経緯もある。

ちなみに星野本人はやる気満々だったらしいが、
イチローの「最強チームを作ると言いながら現役監督を排除するのは如何なものか。」と言う発言が引導を渡したとか。 

楽天監督就任

2011年より、ブラウン監督に代わり東北楽天ゴールデンイーグルスの新監督に就任した。

楽天での指導方針として、時代の風潮に合わせ鉄拳制裁を止めている。
そして選手の妻にお歳暮などを送るなど上手く取り入り、その政治力でもって選手を御している。
また、何故かベンチ裏のコーヒーメーカーがボコボコにされていることがよくあったという。やっぱり怖い。

いきなり岩村明憲、松井稼頭央らメジャー帰国選手を獲得し、東日本大震災の発生もあって「がんばろう東北」を掲げ、必勝を誓ったが5位に終わる。

前述の二人が特に目立った成績(同じにするのも松井に失礼だが)だったのもあって、
2012年に大きな補強はフェルナンデスの出戻りくらいと財布の紐が固くなってしまった。
そんな事もあってか、デーブをコーチに招聘し最凶タッグを結成。

若手の育成に取り組み、有力選手が呪いにかかったように離脱していく中、
これをカバーするように、投げては美馬釜田らルーキーが、打っては枡田銀次らぶっちゃけクビになりかけだった若手が急成長。
前半戦を2位で折り返す快進撃で、他球団どころか自球団のファンまで仰天させた。

しかし、若手だらけなだけもあって夏場になり急ブレーキ。
一時は8連敗で5位に転落したが終盤までAクラス争いを繰り広げ、最終的には勝率5割の4位でシーズンを終えた。

2013年は、序盤こそ伸び悩むものの5月以降は復調。アンドリュー・ジョーンズ・ケーシー・マギーという二人のバリバリの大リーガーが加入したことで打線が安定し、エースの田中将大が開幕から24連勝無敗と言う前代未聞のプロ野球記録を樹立。
見事リーグ優勝を成し遂げる。そして、日本シリーズでは4勝3敗で宿敵巨人を倒して悲願の日本一を達成した。

2014年はピッチャー陣が炎上、新外国人ユーキリスも不振で開幕から低空飛行が続き4月終了時にはBクラスへ。
また最下位がかかった(楽天が勝てば埼玉西武ライオンズが35年ぶりの最下位)シーズン最終戦で負けてしまい、最下位が確定。
本人の腰の難病もあり、今シーズン限りでの勇退を表明。

2014年11月9日、楽天のシニアアドバイザー就任。
2015年9月、株式会社楽天野球団取締役副会長に就任。

しかし、ニュースによれば2017年末に体調を崩し、癌で闘病していたため、2018年1月4日に死去した。70歳没。

創作物での星野仙一

打倒・星飛雄馬の為に父・一徹により助っ人外国人として中日に入団したアームストロング・オズマに対し、当初あった傲慢な所を直すのを目的に板東英二・山中巽とともに対決する投手として登場。

  • 勝利投手
梅田香子原作の小説で後にアニメ映画化もされた女性プロ野球選手が主人公の作品。中日の監督として登場。演者は土師孝也。

  • ミラクルジャイアンツ童夢くん
中日の監督として登場。主人公・新城童夢の魔球「スノーミラージュボール」の対策の為にあらゆる手を尽くそうと奮闘する。声優は大塚明夫

彼をモデルにしたとされる「ホシノ監督」として登場。現実以上により凶暴で短気な性格として描かれており、時には勢い余って自ら再びマウントに上がった事も…。
所属チームや髪の白髪の割合自体は史実準拠で、『キヨハラくん』12巻で一端監督引退回が描かれるも『マツイくん』3巻から復帰し、殆どの時期で中日ドラポンズの監督だったが、『マツイくん』末期の10巻に板神タイガンスの監督となる。


この項目はワシが追記・修正した。

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最終更新:2026年08月09日 07:53

*1 特に中日は12球団の中でもいち早く投手分業制の走りになっており、1974年にセーブ制度が制定される以前から板東や星野のようなエース級投手をリリーフで起用することも多かった。

*2 主だった成績面の活躍として、3シーズン連続で首位打者獲得など

*3 因みに立浪同様PL学園出身。