&font(#6495ED){登録日}:2010/06/08(火) 22:34:04 &font(#6495ED){更新日}:&update(format=Y/m/d D H:i:s) &new3(time=24,show=NEW!,color=red) &font(#6495ED){所要時間}:約 6 分で読めます ---- &link_anchor(メニュー){▽}タグ一覧 &tags() ---- 今年の夏、海水浴場の監視員のアルバイトをしていた。 DQNカップルに向かって 危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」 DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱www」 とか言って聞き入れなかった その後、突然の嵐にDQN共は沖に流されその姿を見たものはいない。 後鳥羽天皇 1180年8月6日~1239年3月28日 平家と共に西に落ちた安徳天皇に代わり即位。 第82代目の天皇。 時は1183年、木曾義仲率いる源氏の軍勢に京を追われた平家は「安徳天皇」を連れ西へと落ち延びる。 翌年後白河法皇は、当時五歳の尊成を即位させ「後鳥羽天皇」とし、当人は摂政として実権を握った。 この時、天皇の即位に必要な「三種の神器」は平家によって持ち出されており、神器は正当な天皇の手に必ず戻ってくるという事にして、事後承諾的に神器がないまま天皇に即位することとなった。 結局、三種の神器のうち「草薙の剣」は平家とともに海中に消えることとなり、天皇としての正当性を保証されない存在となってしまった。 ちょっと不徳をやらかすと「まあ、神器ない天皇だしねぇ…」みたいなイヤミを言われてしまうようになってしまったのである。 この事が彼の人格とその後の人生に大きな影を落とすこととなる。 しかし、1192年に後白河が死去すると当時の関白であった「九条兼実」が政権を握る。 とはいえ、この時は兼実の側が次第に「源頼朝」ら鎌倉幕府との関係が悪化。1196年には兼実の郎党が追放される。 1198年、後鳥羽天皇は当時三歳であった息子の為仁に位を譲り「土御門天皇」とし、自身は院へと移り院政を開始。その後三代に渡り政務を取り仕切ることとなった。 三代将軍源実朝との関係は良好であったが、源実朝落命後には鎌倉幕府との関係が急速に悪化する。 幕府との関係上、心優しい土御門天皇では厳しいと考えた上皇は、1210年に土御門を退位させると新たに「順徳天皇」を据え、 1221年には「仲恭天皇」を推戴し鎌倉幕府倒幕の準備を進める。(もっとも、幕府を倒すというよりは執権の北条義時を倒して幕府の状況を変えたかっただけと言う説もある) 同年1221年、遂に準備を終えた上皇は鎌倉方に挙兵。 朝廷の権威をもってすれば、武士はみんな味方に付くだろうという打算があった。 …が、当の朝廷内部ですら鎌倉方と仲の良い者もいれば、これでは勝てないと諫める者がいる状態。息子の土御門上皇すら反対していた。 幕府も朝廷の権威がどれほどのものか測りかね、動揺したのは事実であったが、結局大半の武士は鎌倉方についた。 北条政子の頼朝の恩を謳った大演説は、歴史の授業で聞いた人も多かろう。((政子の作った文面を別の武士が代読したという記録もある。)) 一旦幕府軍が勝ちそうとなれば、様子をうかがっていた勢力もどんどん幕府軍についていくのは理の当然であった。 最終的には兵力にも大幅に劣る朝廷軍は各戦線で連戦連敗。 助けを求めた比叡山延暦寺の僧兵にも普段の政策が災いしてそっぽを向かれ、京都を守る最後の防衛戦も突破されてしまう。 そしてこの場に及んで後鳥羽上皇が取った対応は… ・幕府軍に使者を送って「&bold(){義時追討の院宣は取り消します。というかあれは一部の佞臣の企てで言わされたもので、決して自分の本意じゃないんです。私は関与してません!}」 ・一緒に戦うことを求めて御所にやってきた主要な武士を門を閉じて追い返したどころか、&bold(){彼らを逮捕するように幕府側に院宣を出す}。 ・必死になって上皇を止めていたが、上皇に逆らえず院宣の文章を作った部下を「反乱の張本人」として鎌倉に突き出す。もちろんその部下は結果として死刑に… かなりクズである。 だがここまでやらかしておいて言い逃れできるはずもなく、結局捕らえられた後鳥羽上皇は隠岐へと流罪。 また、関わりある者等も連座して方々へ流された。 息子の土御門上皇は「自分は関与してないけど、自分だけ京都にいるのも辛い…」ということで結局自分も京都を離れた。((幕府も土御門上皇は罪人ではないので現地に宮殿を作るなど相応に配慮している。)) 隠岐へと流されても挫けた様子はなく、都との連絡を頻繁に取り赦免運動と趣味である和歌の編纂等にいそしんでいたが、1239年崩御する。 都への帰還が絶望的になった後、「万一にもこの世の妄念にひかれて魔物となることがあれば、この世に災いをなすだろう。 我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との未練と無念さをにじませた文を残している。 崩御と前後して、北条泰時や四条天皇といった幕府と朝廷の要人の死が相次ぎ、怨霊になったとも噂される。その怨霊を鎮めるため諡号は顕徳院とされた。 承久の乱で六波羅探題が設置され、朝廷は事実上幕府に従属し、後鳥羽上皇自身どころか朝廷権力全般が凋落してしまった。 後に天皇の位を継げる皇統が後鳥羽上皇の子孫しかいない事態となってしまったため、天皇の先祖が怨霊ではまずかろうということで後鳥羽院へと改諡され、ある程度は復権している。 とはいえ、即位した後嵯峨天皇は、後継者争いを引き起こした末に&bold(){次の天皇の決定を幕府に丸投げする}というとんでもない行為をやらかし、その結果皇統が持明院統と大覚寺統の2つに分断される。 こうして東国武士のための政権だった鎌倉幕府は、名実ともに日本政府という立場と責務を押し付けられてしまった。 それから半世紀、正当な天皇の後継者が成長するまでの中継ぎとして即位した後醍醐天皇が今度こそ幕府を滅ぼす事ととなる。 とはいえ、その間に武士の力が高くなっていく一方、後醍醐天皇に政治力はなく、結局政権は武士の手に戻ってしまう。 その後武士から朝廷に権力が戻ったのは19世紀の大政奉還を待たなければならなかった。 一流の歌人・文化人としても有名であり、「新古今和歌集」の編纂を命じるなどし、[[小倉百人一首]]にもその名を遺した。 歌人との親交も深く、歌人としても有名な源実朝が生きている間は、後鳥羽上皇も幕府にはむしろ好意的なくらいであった。 朕は歌人の追記・修正を命じる #include(テンプレ2) #right(){この項目が面白かったなら……\ポチッと/ #vote3(time=600,12) } #include(テンプレ3) #openclose(show=▷ コメント欄){ #areaedit() - この頃になると、朝廷を支えてた御師や傀儡子やら鎌倉方についてそうだから、上皇さんの支持者って限られてたろうな &br()鎌倉武士たちは論外だし -- 松永さん (2013-03-26 20:57:33) - DQNの切り返しすごいな。超承久の乱って…上級者だな。 -- 名無しさん (2013-11-19 17:55:05) - DQNの知能レベルの高さが無駄に高い。 -- 名無しさん (2013-11-19 18:06:08) - 崇徳さんとデュエットしたら? -- 名無しさん (2013-11-19 18:11:06) - たしかにタトバ天皇とか居ても語感的には違和感ないなw -- 名無しさん (2014-01-24 22:19:31) - 最初のDQNに草不可避w -- 名無しさん (2014-01-24 22:21:56) - 御堀川帝とその后、摂政藤原教実の死は後鳥羽帝の生霊。三浦義村、北条時房、泰時、四条帝の死は怨霊だって考えられてる。これもあって歴代天皇で唯一贈名が「顕徳院」から「後鳥羽院」に変えられている -- (2014-01-24 22:22:30) - しかし院政ってなんだろうな。天皇退位してから本番とか言う感じなのがなあ。 -- 名無しさん (2014-07-13 21:29:21) - 天皇は政治を行うというより神事や宮廷行事を執り行うことが中心で自由がないからな。帝の地位を退いたほうが元天皇である面からも色々と自由にできるからな。それに治天の君ともなればその力は絶大だろうし。 -- 名無しさん (2015-02-04 02:44:18) - タグがカッコいいと思った(小並感)。 -- 名無しさん (2015-03-07 23:10:24) - 上皇のイメージが強すぎて天皇と書かれると一瞬戸惑う -- 名無しさん (2015-03-07 23:21:10) - ↑同意。教科書じゃ、「上皇」の肩書で掲載されてたしね。 -- 名無しさん (2015-03-07 23:53:08) - 菊一文字もこの人の時代だっけ(本当に菊の紋を入れされたかどうかわからんけど) -- 名無しさん (2015-03-07 23:59:58) - 高野山に住んでいた智行上人という僧侶が見た夢では、天照大御神に「このまま隠岐の地で死にゆくのは耐えられない。だから私は天下を滅ぼそうと思うのでそのことを大神に伝えに参った」と話す上皇の姿を見た、らしい -- (2015-04-06 02:29:31) - 妙にインテリなDQNだな -- 名無しさん (2015-04-06 03:00:19) - 承久の乱で負けて部下たちが屋敷に来て一緒に戦いましょうと申し出ると「俺しーらね。勝手に逃げれば?」「あ、幕府さん?うちの佞臣が暴走しちゃってさー」と言い逃れ。タダの夜郎自大だったっぽい。 -- 名無しさん (2017-04-24 20:10:18) - ↑なのに死後は怨霊として妖怪になって祟るんだから性質悪い -- 名無しさん (2017-08-06 09:31:02) - うちの恩師は「実朝の事は後鳥羽は結構気に入ってたんですよ、北条が嫌いなだけで」つってたな まあこの恩師「日本の文化は地味と派手の谷と山が続きます。東山文化の次を見なさい。安土桃山文化はド派手ですね。作った人は信長と秀吉。日本史上DQNベスト3の1位と2位です。3位は高師直」とか言ってたような人だったからなあ… -- 名無しさん (2018-01-31 17:30:53) - ↑2 隠岐に流された頃は「自分は崇徳院のように怨霊にはなりたくない」と書き残したりはしてたんだけどな -- 名無しさん (2018-06-16 01:40:29) - 息子の土御門天皇が最も不憫だな(´;ω;`)。3歳で後鳥羽天皇から譲位され、15歳で上皇へ (またしても後鳥羽上皇の口)、自身は鎌倉に対して反抗するべきではないと言っていたが後鳥羽上皇の暴走。後鳥羽上皇流罪のときは、自らに責任はないのに自ら進んで土佐へ流れた・・・ -- 名無しさん (2021-03-05 18:29:49) - 土御門天皇もよくわからん人だよね、自分から流罪になりたがるってよほど家族仲良かったのか -- 名無しさん (2021-03-06 08:51:14) #comment #areaedit(end) }