後鳥羽天皇

登録日:2010/06/08(火) 22:34:04
更新日:2021/03/06 Sat 16:54:17
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今年の夏、海水浴場の監視員のアルバイトをしていた。
DQNカップルに向かって「危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!」って注意したら

DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱www」
とか言って聞き入れなかった。

その後、突然の嵐にDQN共は沖に流されその姿を見たものはいない。


後鳥羽天皇
1180年8月6日~1239年3月28日

平家と共に西に落ちた安徳天皇に代わり即位。
第82代目の天皇。

時は1183年、木曾義仲率いる源氏の軍勢に京を追われた平家は「安徳天皇」を連れ西へと落ち延びる。
天皇不在のままでは政務が滞ることを危惧した後白河法皇は、翌年当時五歳の尊成親王を即位させて「後鳥羽天皇」とし、当人は摂政として実権を握った。
この時、天皇の即位に必要な「三種の神器」は平家によって持ち出されており、神器は正当な天皇の手に必ず戻ってくるという事にして、事後承諾的に神器がないまま天皇に即位することとなった。
天皇が二人いる(安徳天皇は退位していなかったため)というこの異例の状況は、二年後の1185年に安徳天皇が「壇ノ浦の戦い」で平氏一門と共に崩御するまで続いた。

しかし、三種の神器のうち、「草薙剣」のみ回収が叶わずに平氏や安徳天皇と共に海中に消えてしまったため、
三種の神器が揃わないことで後鳥羽天皇の天皇としての正当性は保証されず、少しでも不徳をすれば「まあ、神器が揃ってない天皇だしねぇ…」等の嫌味を言われたりしており、
後鳥羽天皇自身もこれをコンプレックスと感じていたようで、何度か宝剣探索を行わせているが、結局壇ノ浦に沈んだ「草薙剣」は見つからなかった*1
この事が彼の人格とその後の人生に大きな影を落とすこととなる。

後鳥羽天皇が在位してからは後白河法皇が院政を敷いており、後白河法皇が崩御してからは当時の関白であった「九条兼実」が政権を握り、
後白河法皇が忌避していた「源頼朝」の征夷大将軍就任が認められたことで、史上初の武家政権である「鎌倉幕府」が誕生する。
しかし、兼実と頼朝及び鎌倉幕府の関係は次第に悪化し、1196年に起きた政変で兼実の郎党が朝廷から一掃されている。

それから二年後の1198年、後鳥羽天皇は当時三歳であった息子の為仁親王に位を譲って「土御門天皇」とし、自身は院へと移り院政を開始。
その後三代に渡り、上皇として政務を取り仕切ることとなり、1202年に朝廷で権勢をふるった土御門通親が急死し、九条兼実も出家したことで名実ともに「治天の君」となった。
鎌倉幕府には強硬な姿勢を崩さなかったが、和歌などに造詣が深い源千幡が三代目将軍となった時には上皇自ら「源実朝」の名乗りを認め、
実朝を朝廷側に引き込んで鎌倉幕府内への影響力を強めようとする後鳥羽上皇と、実子のいない実朝の後継ぎに皇族を据えようとする鎌倉幕府は互いの思惑もあって一時期良好な関係となるが、
源実朝が甥の公暁に暗殺される事件が起こるとその関係は終わりを告げ、急速に関係は悪化していくこととなった。

幕府との関係上、心優しい土御門天皇では厳しいと考えた上皇は、1210年に土御門を退位させると新たに「順徳天皇」を据え、
1221年には「仲恭天皇」を推戴し鎌倉幕府倒幕の準備を進める(もっとも、幕府を倒すというよりは執権の北条義時を倒して幕府の状況を変えたかっただけと言う説もある)。


同年1221年、遂に準備を終えた上皇は鎌倉方に挙兵。
朝廷の権威をもってすれば、武士はみんな味方に付くだろうという打算があった。
…が、当の朝廷内部ですら鎌倉方と仲の良い者もいれば、これでは勝てないと諫める者がいる状態。
息子の土御門上皇すら反対しており、この見通しは正直甘かったと言わざるを得ない。

一方の鎌倉幕府も、朝廷の権威がどれほどか測りかねて動揺したのは事実であったが、結局大半の武士は鎌倉方についた。
北条政子の頼朝の恩を謳った大演説は、歴史の授業で聞いた人も多かろう*2

兵力で大幅に劣る朝廷軍は各戦線で敗戦を重ね、最終的に朝廷軍は幕府軍に大敗を喫することとなった。
助けを求めた比叡山延暦寺の僧兵にも普段の政策が災いしてそっぽを向かれ、京都を守る最後の防衛戦も突破されてしまう。

事ここに至って、後鳥羽上皇が取った対応は…
  • 幕府軍に使者を送って「義時追討の院宣は取り消します。というかあれは一部の佞臣の企てで言わされたもので、決して自分の本意じゃないんです。私は関与してません!
  • 一緒に戦うことを求めて御所にやってきた主要な武士を門を閉じて追い返したどころか、彼らを逮捕するように幕府側に院宣を出す
  • 必死になって上皇を止めていたが、上皇に逆らえず院宣の文章を作った部下を「反乱の張本人」として鎌倉に突き出す。もちろんその部下は結果として死刑に…
と、部下に責任を擦り付けて自分は責任を逃れようとする、なんとも身勝手なものであった。

当然ここまでやらかしておいて言い逃れできるはずもなく、結局捕らえられた後鳥羽上皇は隠岐へと流罪。関わりある者等も連座して方々へ流された。
元々側近以外の貴族からは(前述の三種の神器の件も含めて)後鳥羽上皇の評判はあまり良くなかったこともあり、
承久の乱で敗北し失脚した後鳥羽上皇への視線は冷ややかなものが大半であり、『愚管抄』などにも「自業自得」と書かれている。

後鳥羽の挙兵に反対していた息子の土御門上皇も「自分は関与してないけど、自分だけ京都にいるのも辛い…」と京都を離れたが、
承久の乱に関与しておらず、罪人でもない土御門上皇に関しては、幕府も上皇が居を移した地に宮殿を作るなど相応に配慮している。


当の後鳥羽上皇は隠岐へと流されても挫けた様子はなく、都との連絡を頻繁に取り赦免運動と趣味である和歌の編纂等にいそしんでいたが、1239年崩御。
都への帰還が絶望的になった後、「万一にもこの世の妄念にひかれて魔物となることがあれば、この世に災いをなすだろう。
我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との未練と無念さをにじませた文を残している。

崩御と前後して、北条泰時や四条天皇といった幕府と朝廷の要人の死が相次いだため、怨霊になったとも噂される。その怨霊を鎮めるため諡号は顕徳院とされた。


なお、「承久の乱」で六波羅探題が設置されたことで、朝廷は事実上幕府に従属し、後鳥羽上皇自身どころか朝廷権力全般が凋落してしまった。
後に天皇の位を継げる皇統が後鳥羽上皇の子孫しかいない事態となってしまったため、天皇の先祖が怨霊ではまずかろうということで後鳥羽院へと改諡され、ある程度は復権している。
とはいえ、即位した後嵯峨天皇は、後継者争いを引き起こした末に次の天皇の決定を幕府に丸投げするというとんでもない行為をやらかし、その結果皇統が持明院統と大覚寺統の2つに分断される。
こうして東国武士のための政権だった鎌倉幕府は、名実ともに日本政府という立場と責務を押し付けられてしまった。

それから半世紀、正当な天皇の後継者が成長するまでの中継ぎとして即位した後醍醐天皇が今度こそ幕府を滅ぼす事ととなる。
とはいえ、その間に武士の力が高くなっていく一方、後醍醐天皇に政治力はなく、結局政権は武士の手に戻ってしまう。
その後武士から朝廷に権力が戻ったのは19世紀の大政奉還を待たなければならなかった。


一流の歌人・文化人としても有名であり、「新古今和歌集」の編纂を命じるなどし、小倉百人一首にもその名を遺した。
歌人との親交も深く、歌人としても有名な源実朝が生きている間は、後鳥羽上皇も幕府にはむしろ好意的なくらいであった。



朕は歌人の追記・修正を命じる

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最終更新:2021年03月06日 16:54

*1 平氏一門が京都から「三種の神器」を持ち出す前月に伊勢神宮から後白河法皇に献上された宝剣を「草薙剣」と見なすことで、一応「三種の神器」の体裁は整えられていた。

*2 政子の作った文面を別の武士が代読したという記録もある。