安楽死

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安楽死 - (2021/04/22 (木) 00:35:22) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2011/01/31(月) 00:28:48
更新日:2024/04/28 Sun 16:54:52
所要時間:約 5 分で読めます




安楽死とは、植物状態になる以前の患者の意思により、患者の生命維持装置をはずしたり、
激しい痛みに苦しむ患者に劇薬を投与したりすることによって、患者が死ぬこと。
普通前者を「尊厳死」、後者を狭義の安楽死として区別するが、後者は未だ必ずしも合法とは認められていない(新明解第六版)。




要は不治や末期、苦痛という条件下のもと、医師が積極的あるいは消極的手段によって、患者を死に至らしめること。
辞書も明言しているように、現在の日本では「安楽死」という行為は厳密には「医師の手によって行われる殺人行為」である。もしくは自殺幇助。



積極的安楽死がいわゆる自殺幇助にあたる。患者の自発意思と一定条件のもと、医師が薬物投与によって殺害することが、積極的安楽死にあたる。
尊厳死とほぼ同義で使われる。




消極的安楽死は医療行為の中断のことで、意図的に患者の死期を早めることを指す。


また、苦痛を取り除くためにモルヒネなどの薬物を投与し、結果として死期を早めることを「間接的安楽死」ともいう。





現在も法律で安楽死を認めてはいないが、かつて名古屋安楽死事件というものがあり、
そのときの名古屋高裁ではある要件を満たさない限り違法として扱うとしたため、
いつの時代も黙認というグレーゾーンに位置していると思われる。なお、当時の要件は以下のとおり。

1,死期が切迫していること。
2.耐えがたい肉体的苦痛が存在すること。
3.苦痛の除去、緩和が目的であること。
4.患者が意思表示していること。
5.医師の手によって行われること。
6.倫理的妥当な手段を用いること。

ちなみに、名古屋安楽死事件をかいつまんで説明すると、体を動かす度に激痛を訴えるため実質的に体を動かせない状態で、
「殺してくれ」と度々叫ぶ父親を、息子が有機燐殺虫剤を混入させた牛乳で毒殺した、というもの。
医師でないものが倫理的に妥当でない手段を用いたことで有罪判決になった。


さきほどの安楽死要件を見ればわかるが、実に穴だらけである。
本人の意思がとれなければ? 倫理的妥当性とは? すべて最高裁の判断に委ねなければならないのか?


しかし、その33年後に安楽死要件が変更された。変更に至った事件の内容は、多発性骨髄腫を患った男性が入退院を繰り返していたが、あるとき悪化。
家族が医師に対し強く安楽死を求め続けた結果、医師が独断で致死量の塩化カリウムを投与し、殺害したというもの。裁判でこの医師は有罪判決を受けた。

この事件の問題点は、患者自身に病名を告知していなかったことと、ある医師の独断で行われたことによるのだが、
ここでは言及せずにこの裁判で提示された新たな要件をあげる。

まず、消極的安楽死についての要件が、

死が目前であり、回避不可であること。
患者の明確な意思、それが不可能ならば本人の意思を推定できる程度の家族の意思、あるいは書き置きのようなものがあること。

となっている。
間接的安楽死については、

死期が切迫していること。
耐えがたい肉体的苦痛があること。
医療上の代替手段がないこと。
患者の明確な意思、あるいは推定的意思があること。

としている。
最後に、積極的安楽死では間接的安楽死とほぼ同じだが、「本人の明確な意思があること」のみを条件としている。
意思を表示できるほどの意識がなければ、痛みなんぞあるものか、という考えから積極的安楽死は患者の明確な意思のみになった。

また安楽死を権利として認めるべきだという団体がいることに対して、当然のごとく生存権を脅かすものとして警戒する団体もまた、存在する。
安楽死を認めれば、人を死なせる権利を認めることになるので、生命軽視への雪崩現象を生むのではないか、というわけだ。

この点について問題なのは、「死ぬことが権利なのか」ではないだろうか。

安楽死要件にあるとおり、安楽死とはつまり苦痛から逃れるための手段として用いるものであり決して権利としているわけではない。
日本では、自殺しようとしている人の自殺を助ければ、それだけで自殺ほう助として犯罪になる。
自殺ほう助が犯罪でなければ、患者がOKを出している件である限り、医師が罪に問われることもないのである。

そもそも、死ぬことは絶対であり、権利ではない。死は誰にでも平等であるが、訪れる時期が違うものである。
極論すれば、殺人ですら死を訪れる時期を早くしているのに過ぎない。
同様に生存権も、果たして権利なのか疑わしい。生存権とはつまり社会的価値観に基づいた「人間らしさ」を保持するためのものであり、
種の保存という意味で人間が生きることは、権利などという行為、不行為の自由選択などではなくもっと根本的なことであるはずだ。

安楽死はつまるところ道具でなければならない。避けがたい死が目前ではあるが、そこに至るまでに痛みを覚える必要はない。そのための安楽死ではないか。

だが、安楽死の場合、治療代を払う家族などが「安楽死にかこつけて死なせてください」となってしまう危険性も小さくない。
また病人の場合意識自体も怪しい。
例え地獄の苦痛に苦しもうと、最後まで生きようとしている人を死なせるのは問題外である。
結果として安楽死が「死にそうな病人を殺す権利」に代わってしまうリスクも決して小さくない。

これらのメリット・デメリットはいずれも悩ましい問題だというしかなく、うまい落としどころが見つからないまま何となく運用で認められているというのが実情である。
もちろん、一歩間違えば医師は殺人罪に問われるため、その運用はものすごくリスキーである。





余談ではあるが、予後不良や殺処分も安楽死として扱われることもある。
後者は特に動物愛護法に従って行われた場合、安楽死とされるため、柔らかい表現として度々使われる。

食用のために殺す場合は屠殺、屠畜と表現することが多い。





ナチスではT4作戦という名称で、障害者に「恩寵の死」を与えた。

明治の文豪・森鴎外も『高瀬舟』で安楽死をテーマにした。

漫画『ブラック・ジャック』には、安楽死専門の医者ドクターキリコが登場する。

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