新見錦

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新見錦 - (2015/10/12 (月) 06:54:15) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2011/05/25 (水) 03:32:30
更新日:2021/09/21 Tue 14:17:47
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新見錦 (1836年~1863年)は水戸藩出身の新選組隊士。号は錦山。



時期は不明だが岡田助右衛門に剣術を学び、神道無念流免許皆伝となる。
芹沢鴨とは同郷で同門、一説には玉造組(天狗党の前身)の同志。


1863年2月、新見は浪士組に参加、三番組小頭となる。
2月29日に清河八郎(浪士組の発案者)が尊王攘夷の先鋒として江戸へ帰還することを宣言すると、新見は芹沢、近藤勇らとともに反対。
3月8日、浪士組取締役の鵜殿鳩翁は残留希望の浪士の取りまとめを殿内義雄と家里次郎に任せる。
3月10日、芹沢や近藤、新見らは連名で会津藩に嘆願書を提出。
3月12日、京に残留した浪士は会津藩御預かりとなる。
同日、芹沢と近藤は清河の暗殺を決定。
芹沢隊と近藤隊の二手に分かれ清河を待ち伏せる。新見は芹沢隊として参加。
しかし、山岡鉄太郎(のちの山岡鉄舟)らが浪士組募集の朱印状を首から下げた状態で清河の護衛についていたため未遂に終わる。


3月25日に殿内を粛清、家里を逃亡(のちに切腹)に追い込んだ芹沢、近藤は壬生浪士組を掌握、局長に就任。新見も局長となった。
4月2日、大坂の平野屋で金子を借用した際、新見は芹沢、近藤とともに署名。
局長としての数少ない活動であった。
6月、新見は副長に降格
以降、新見の活動は確認できない。


伝わるところによると、新見は芹沢や近藤の説得にも耳を貸さず、遊蕩に耽って隊務を怠り、強請りを働き、法令を犯したという。
9月13日、新見は遊蕩先の料亭で近藤、土方に一連の暴挙について詰問され、切腹。
新見の死後、芹沢と平山五郎が暗殺され、新選組の水戸派は壊滅した。


新見には謎が多い。
新見は壬生浪士組の局長であったにもかかわらず、活動実績がほとんど伝わっていない。
芹沢の側近とされることが多いが、芹沢が起こした有名な騒動である大坂力士乱闘事件や大和屋焼き討ち事件に参加した記録がない。
(記録を見る限り、新見より平山が側近に近い働きをしている)
また、新見は尊王攘夷志士を祀るための霊山護国神社に祀られている。
(新選組関係者で祀られているのは新見のみ)


水戸出身で芹沢と接点があることから、新見は水戸で芹沢と行動を共にしていた新家粂太郎と同一人物であるという説がある。
また、新見は田中伊織という変名を用いていたのではないか、という説もある。
西村兼文の著書『新撰組始末記』には田中伊織という隊士が9月13日に粛清されたことが記されている。
新選組隊士が眠る壬生寺には、田中伊織の墓はあるが、新見錦の墓はない。


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