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竹中半兵衛(戦国武将) - (2014/02/13 (木) 16:11:58) の編集履歴(バックアップ)
登録日: 2009/11/23(月) 14:20:02
更新日:2021/06/24 Thu 11:46:18
所要時間:約 3 分で読めます
※ピンポーン※
この項目では戦国時代の人物として
の竹中重治について記述します。
他のメディアでの竹中重治について、
この項目に追記するか、別に項目を
立てるかは各人の判断に御任せ致し
ます。
合戦を好み、戦を嫌う男。
その男は、「合戦」をしたかった。
竹中重治(1543?~ 1578?)は戦国時代の武将である。
別名、半兵衛。通称、今孔明。
美濃(岐阜県)は菩提山城に生まれ、斎藤家に仕えた。しかし、3代・龍興以下家臣も若輩重治をあざ笑い、小便をかけたともされる。
重治は稲葉山城内に留め置かれた弟と示し合わせ、弟の見舞いと称して城を訪れ、17名で稲葉山城を陥落させた。
これは再三美濃を攻めた尾張の大名、織田信秀や、その息子信長をもってしても出来なかった大事件である。
その手腕を買った信長に厚遇を約束され、城の引き渡しを要求されるも丁重に断り、城を龍興に返還、自身は隠居した。
斎藤家の滅亡後は意外と知られて居ないが、浅井家に身を寄せて居た。
1570年の姉川以降に、堀直寄らと共に織田に帰参したとされる。そして、羽柴秀吉の与力となった。
竹中重治を有名にしたのは、その軍略であ る。主君不在の中、僅か100の手勢で数百の敵を撃退したり、敵の作戦を迅速に見抜いたりと逸話には事欠かない。
しかし、生来病弱であったようで三木城攻防戦の最中、肺病が悪化し死亡した。
良く黒田孝高(官兵衛)と豊臣の二兵衛と評される。重治は純粋な軍師なのに対し、孝高は野心と共に戦場を見る軍略家と対比出来る。そのため、重治の方が格上と見られることが多い。
【逸話】
息子が重治の戦略講義中に手洗いへ。帰って来たのを一喝し、話を聞けとおもらしプレイ要求。
武士の子なら戦の話の方が自分の生理的欲求より大事と言う事。
官兵衛が雇われたばかりの事。官兵衛は秀吉から「行く末にはもっと加増するよ」という御墨付きの書状を貰ってホクホク。それを見ていた重治、なんといきなり書状を火の中へ。
「そんなものを持っていると君臣の間がギクシャクするだろう。」
官兵衛これには涙を流して謝る。
官兵衛が謀反を起こした家臣の説得に向って行方不明に。信長は裏切りと判断。
「人質を殺せ」と長男の処刑を命令。重治は密かに匿い続け、世を去る。敵の城から救い出された官兵衛は重治の心遣いに感謝したと言う。
官兵衛の長男、後の黒田長政である。
重治の息子重門は後に「豊鑑」という歴史書を執筆した。
信長から家臣になることを誘われた際、交渉に来た、秀吉から三顧の礼を受けた為、その熱意に感激して信長より秀吉に仕えることを選んだという。
【彼を扱った作品】
高橋和島「竹中半兵衛」
三宅孝太郎「竹中半兵衛」
宮下英樹「センゴク」
宮下英樹「センゴク天正記」
※重治に関連のある作品
中里融司「戦国竜虎伝」
ゲーム
追記、修正宜しくお願い致します。
- 官兵衛の一件は
明らかに重大な軍規違反なのに、お咎め無しとは 水と油な 織田信長さんからも妙に信頼されたっぽいな
明智光秀といい 信様は美濃人に弱い? -- 松永さん (2013-07-10 14:46:50)
- あの人わりと身内に甘いからな -- 名無しさん (2014-02-13 16:07:47)
- 信長様は基本優しい。かわいさ余って憎さ1000倍なだけで -- (2014-02-13 16:11:58)