登録日:2009/11/23 Mon 14:20:02
更新日:2025/03/12 Wed 21:04:06
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※注意※
この項目では戦国時代の人物としての竹中半兵衛について記述します。
他のメディアでの竹中半兵衛についてこの項目に追記するか、
別に項目を立てるかは各人の判断に御任せ致します。
合戦を好み、戦を嫌う男。
その男は、「合戦」をしたかった。
竹中半兵衛(1544~1579)は戦国時代の武将である。
本名、竹中重治。通称、今孔明。
美濃(
岐阜県)は菩提山城に生まれ、斎藤家に仕えた。しかし、3代・龍興以下家臣も若輩半兵衛をあざ笑い、小便をかけたともされる。
半兵衛は稲葉山城内に留め置かれた弟と示し合わせ、弟の見舞いと称して城を訪れ、17名で稲葉山城を陥落させた。
これは再三美濃を攻めた尾張の大名・織田信秀や、その息子信長をもってしても出来なかった大事件である。
その手腕を高く評価した信長に厚遇を約束した上で稲葉山城の引き渡しを要求されるも、丁重にそれを拒否。
しばらくしてから城を龍興に返還、自身は隠居した。
斎藤家の滅亡後は意外と知られて居ないが、浅井家に身を寄せて居た。
1570年の姉川以降に、堀直寄らと共に織田に帰参したとされる。そして、羽柴秀吉の与力となった。
竹中半兵衛を有名にしたのは、その軍略である。
主君不在の中、僅か100の手勢で数百の敵を撃退したり、敵の作戦を迅速に見抜いたりと逸話には事欠かない。
しかし、生来病弱であったようで三木城攻防戦の最中、肺病が悪化し死亡した。
良く
黒田孝高(官兵衛)と豊臣の二兵衛と評される。
半兵衛は純粋な軍師なのに対し、官兵衛は野心と共に戦場を見る軍略家と対比出来る。そのため、半兵衛の方が格上と見られることが多い。
【逸話】
息子が半兵衛の戦略講義中に手洗いに行くために席を立ち、帰って来たのを一喝。
講義中に席を立つなど言語道断と、話が終わるまでは漏らしてでも座っているように叱りつけた。
武士の子なら戦の話の方が自分の生理的欲求より大事と言う事。
かつて秀吉に「いずれは大きく加増する」というお墨付きの書状をもらいながら、その後まったく音沙汰がなかった事に腹を立てた黒田官兵衛。
その書状を持って秀吉に直談判しに行くと、その場にいた半兵衛にその書状を破り捨てられ、火の中に投げ込まれた。
驚く官兵衛に対し、半兵衛は
「こんなものがあるから不満を覚えるのだ。貴殿のためにならない」
と官兵衛を窘め、官兵衛もその言い分に納得したという。
ちなみに当の半兵衛も、その功績を称えようとした秀吉に同じように加増の約束をしたためた書状を渡されたが、
この書状がいずれ後を継ぐ息子や秀吉の家中に災いをなす可能性を秀吉に告げ、その場で破り捨てたと伝わっている。
織田信長が存命の頃、謀反の疑いがある家臣・荒木村重の説得に向かった官兵衛がそのまま消息を絶ってしまった時のこと。
信長は官兵衛が裏切ったと判断を下し、人質に出されていた官兵衛の長男を殺すように半兵衛に命令を下した。
しかし半兵衛は何かを悟ったのか、信長には「殺した」と報告しながら実は人質の長男を匿い、その死後も部下に命じて匿い続けさせた。
やがて、官兵衛は裏切ったのではなく謀反を起こした村重に幽閉されていたことが発覚。
官兵衛の忠義を疑い、その息子まで殺させてしまったと恥じ入る信長に、人質を匿っていた部下が真実を伝えると、
信長は大喜びで半兵衛の命令違反を不問にし、官兵衛も半兵衛の心遣いに感謝したと伝わる。
ちなみにこの時助けられた長男こそ、後の黒田長政である。
半兵衛の息子重門は後に「豊鑑」という歴史書を執筆した。
信長から家臣になることを誘われた際、交渉に来た秀吉から三顧の礼を受けた為、その熱意に感激して信長より秀吉に仕えることを選んだという。
半兵衛は自身の後継者として神子田正治を推した。
神子田正治は期待通りに優れた知恵者であり
羽柴四天王の一角に数えられるほどの逸材であったが、あまりにも放言癖が酷かった。
そしてある時ついに羽柴秀吉の怒りを被り
改易され奉公構処分まで受け、仕官すら叶わなくなった正治は九州征伐の後に帰参を願う。
しかし九州征伐では仙石秀久、尾藤和宣といった秀吉子飼いの武将が大失策を犯しており、秀吉は内心フラストレーションを溜めていたと思われる。
そこに戦功を挙げたわけでもなくただのこのこと現れた正治が許されるわけがなく、その怒りを一身に受けるかのように京都一条戻橋にて「臆病者」の高札と共に首を晒されるという末路を辿った。
【彼を扱った作品】
高橋和島「竹中半兵衛」
三宅孝太郎「竹中半兵衛」
※半兵衛に関連のある作品
中里融司「戦国竜虎伝」
ゲーム
【余談】
「その容貌、婦人の如し」と称されるほどの美少年だった為、数ある作品では中性的な
イケメンとして描かれている。
また早死にしたこともあり基本的に若者、黒田官兵衛はそんな彼の保護者として描かれる事が多いが、実は半兵衛の方が2歳年上である。
追記、修正宜しくお願い致します。
- 官兵衛の一件は
明らかに重大な軍規違反なのに、お咎め無しとは 水と油な 織田信長さんからも妙に信頼されたっぽいな
明智光秀といい 信様は美濃人に弱い? -- 松永さん (2013-07-10 14:46:50)
- あの人わりと身内に甘いからな -- 名無しさん (2014-02-13 16:07:47)
- 信長様は基本優しい。かわいさ余って憎さ1000倍なだけで -- (2014-02-13 16:11:58)
- ↑ほかの大名よか遥かに寛大(能力と功績さえあれば)。姉川で信頼してた浅井に裏切られたのがよほど堪えたらしい -- 名無しさん (2014-03-08 19:43:52)
- ↑何十年使えた佐久間さんは? -- 名無しさん (2014-07-12 01:00:05)
- ↑許した例もあれば許さなかった例もあるだけだ。信長の話は信長の項目でやれ。 -- 名無しさん (2014-07-12 01:38:53)
- 三顧の礼はもちろん、隠居していたのも孔明になぞらえた創作だろうなあ -- 名無しさん (2014-07-25 13:54:59)
- 彼の逸話はほとんどが後の時代の創作らしい 稲葉山城乗っ取りもそう -- 名無しさん (2014-11-01 23:51:34)
- 早死にしたせいか孔明っつーか郭嘉なイメージ -- 名無しさん (2014-11-14 20:40:31)
- 半兵衛って信用置ける資料にはほとんど名前出て来ず実態不明で、チートエピは後世の創作ばっかりなのになんか天才軍師イメージだけ一人歩きしてるのがな。 -- 鯛 (2016-06-30 20:42:52)
- ↑4 孔明は隠居というよりは眼鏡に叶う上司を待ちながら書生やってた感じじゃね -- 名無しさん (2016-08-25 13:50:47)
- ↑2一応秀吉の家臣団の中では実弟の秀長に次ぐ石高で秀吉から重んじられていたのは確からしい。まあ厳密には竹中半兵衛は信長の家臣だから秀吉とは主従関係はないけど -- 名無しさん (2019-07-06 23:01:06)
- ↑8信長は手柄を立てれば許すって言ったのに逃げて追放の道を選んだのは佐久間の方だし しかも当時の佐久間には秀吉や光秀以上の兵力が与えられてて、それでも逃げたのだから割と自業自得 ちなみに佐久間の病没後に息子の方は許されて織田家の家臣に復帰してる -- 名無しさん (2020-04-11 06:12:02)
- いわゆる張良ポジな人、黒田官兵衛は陳平ポジかな。 -- 名無しさん (2021-06-24 11:46:18)
- 英傑大戦では信長がいる軍にいる。秀吉メインのところにはまだいない。。 -- 名無しさん (2024-07-12 00:20:31)
最終更新:2025年03月12日 21:04