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竹中半兵衛(戦国武将)

登録日:2009/11/23 Mon 14:20:02
更新日:2026/07/28 Tue 12:55:55
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※注意※

この項目では戦国時代の人物としての竹中半兵衛について記述します。
他のメディアでの竹中半兵衛についてこの項目に追記するか、
別に項目を立てるかは各人の判断に御任せ致します。







合戦を好み、戦を嫌う男。
その男は、「合戦」をしたかった。


◆概要

竹中(たけなか)半兵衛(はんべえ)(1544~1579)は戦国時代の武将である。
本名、竹中重治。通称、今孔明。

美濃(岐阜県)は菩提山城に生まれ、斎藤家に仕えた。しかし、歳の近かった3代・龍興以下家臣も若輩半兵衛をあざ笑い、小便をかけたともされる。
そんな扱いをされても斎藤家に尽くして軍略面では若い時代から才能を発揮。
美濃に侵攻してきた織田信長の勢力を撃退出来ていたのは彼のおかげでもあった。
そして19歳で竹中家の当主になる。

彼が歴史の表舞台で最初に大きな功績を残したのが当主になってから2年後の21歳のとき。
1564年に半兵衛は稲葉山城内に人質として留め置かれた弟と示し合わせ、弟の見舞いと称して城を訪れ、たった17名で稲葉山城を陥落。
これは再三美濃を攻めた尾張の大名・織田信秀や、その息子信長をもってしても出来なかった大事件である。

予期せぬ下剋上に遭い数名の重臣を殺害された斎藤龍興はもはや何も打つ手が無く、追放されてから半年間逃亡生活をせざるを得なかった。
その手腕を高く評価した信長に厚遇を約束した上で稲葉山城の引き渡しを要求されるも、丁重にそれを拒否。
しばらくしてから城を龍興に返還、自身は隠居した。当時の龍興は放蕩三昧で全然領国の運営をする気が無く、一部の仲の良い家臣以外は適当に扱っていたので、それを戒めるための行動だったと言われている。


が、この美談に見えるエピソードは関係者が全員鬼籍に入り、軍師竹中半兵衛の評判が広まったあとの江戸時代に書かれた書物『甫庵信長記』が初出。半兵衛や龍興ら本人が記録に残した一次資料的な内容は無い。
つまり事実に反して盛っている疑惑がある。

注目すべきなのは、下剋上の参加者16人のなかに半兵衛の義理の父(嫁の父親)安藤守就がいる点。
彼は稲葉良通、氏家直元と共に通称西美濃三人衆と呼ばれる*1斎藤家有力武将で、龍興の代から適当に扱われたうちの1人。
このことから考えて実情は
  • 半兵衛らたった17名で行われた小規模クーデター→半兵衛&守就親子主導のもとに、総数は不明だがガッツリ人数を集めて行われた普通のクーデター
  • 主君の放蕩ぶりを諫めるため心を鬼にして起こした→親子揃ってぞんざいに扱われてブチ切れて復讐した
  • 半年後に檻を見て主君に返還した→龍興も斎藤家の武力を集めて半年間攻城戦をし続けた
なのではないかと言われている。そっちのほうが戦国武将としてリアルだけど、今孔明のイメージと違うって言われそう。

また、専門家によっては思ったほど半兵衛たちに味方する兵が集まらなかったため完全な下剋上にならなかったのではと考察している。
当時、甲斐武田家と美濃斎藤家の間で外交のやり取り担当だった恵林寺住職・快川紹喜は、美濃の禅昌寺に宛てた手紙の中で
「竹中半兵衛なんかに味方したのは忠義も無く恥知らずな奴ら(意訳)」と結構ストレートに批判していて、龍興の評判と裏腹に半兵衛は美濃のリーダーにふさわしくないと民衆が評価していたのがわかる。

稲葉山城返還後は第一線から退いて山で隠遁生活をしていたが、1567年に織田家の美濃攻めで斎藤氏が滅亡すると美濃を去り、近江の浅井領にいる樋口直房の元で生活していた。
その後1年くらい経って近江から美濃へ戻る。


1570年、織田信長は次の侵攻先を越前の朝倉氏に向け、それに反発した娘婿の浅井長政が反旗を翻す。世に言う浅井・朝倉攻めの始まり。
この決定を受けて配下の木下藤吉郎は「美濃斎藤家に仕えていた竹中半兵衛、牧村利貞、丸毛兼利を与力*2にして、共に浅井攻めの先駆けにしたい」と信長に進言し了承を得る。
半兵衛の菩提山城が近江への交通の要衝を抑えていることに加えて、浅井領にいたことも地の利を生かせると踏んだのだろう。
半兵衛も仲間になる旨を了承し、近江の武将と次々に懐柔させていった。龍興と違って秀吉は話通じる人だしね。
ちなみにお世話になった樋口直房も説得してちゃっかり一緒に織田方に連れてきた。

そういった調略面に留まらず、別の戦場に転戦して秀吉が不在の際に攻めてきた浅井軍を自ら兵を率いて撃退するなど武力面でもちゃんと活躍。
1573年に浅井・朝倉攻めが終了し、その所領が秀吉のものとなった頃には彼から絶大な信頼を置かれていた。
一方、樋口直房はこの直後に発生した長島一向一揆で一揆衆と和睦して勝手に戦線から後退したため秀吉にブチ切れられ、裏切者として一族郎党皆殺しにされた。


1577年、中国地方の強豪・毛利氏を調伏する足掛かりを作るため、毛利領と織田領のあいだでどっちつかずの態度を取っていた赤松氏とその庶流がいた播磨へ侵攻する。
総大将に任命されたのが他でもない秀吉で、当然ながら副官的立場の半兵衛も追従。
ここで播磨出身であることから彼等に同行した武将が小寺孝高――黒田官兵衛である。

後年に「両兵衛」と称される神算鬼謀チート将が揃ったため秀吉は大躍進。福原城を攻撃したときなんか1日で陥落させたほど。
おもに秀吉が過剰にやりすぎたせいで播磨の国衆たちがキレてしまい途中途中で反撃を受けつつも戦果を上げつつ進軍。


――が、このとき半兵衛の身体は重い病気*3が蝕んでおり、途中で悪化して三木城攻めの最中に戦線離脱。治療のため一旦京都に戻る。
少しは回復したものの、この時点でもはや末期状態に近い病状であった半兵衛は、武士は床ではなく戦場で立派に死ぬべきという考えから播磨に戻って戦線復帰。
やはりと言うべきか、三木城が陥落する前に病没してしまう。

享年36歳。天才軍師の早すぎる死であった。


◆両兵衛について

竹中半兵衛と黒田官兵衛。生まれた年代が近く名前も近くで軍師才能もあった盟友2人が「両兵衛」「二兵衛」と呼び称えられたことは有名だが、厳密には立場的には対等ではなかった。
具体的に言うと「織田家臣としての立場は黒田よりも竹中が上」となる。

竹中半兵衛は秀吉に与力としてスカウトされた織田直臣。数年にわたって功績を積み上げてきた。
黒田官兵衛は播磨攻めの少し前に、主君の小寺政職が織田家に従属したことで一緒に仲間になった新参者。優秀だが織田家での実績はほぼ無し。

こうなればそりゃあ織田家臣で対等とはならんよねというのが正直な話。
事実、播磨攻めの最中も官兵衛の戦況報告は秀吉に直接ではなく、まず半兵衛に報告してそれを秀吉に伝えてもらうというワンクッション式だった。
ゲーム等の作品描写でイメージされる「秀吉の双腕として並び立つ半兵衛と官兵衛」は厳密には誤り。

とはいえ両兵衛が播磨攻めの短い期間に盟友になっていたのは間違いなく、
荒木村重の説得に向かって消息不明になった官兵衛が裏切ったのではなく監禁されたと判断して手を打ったり、半兵衛没後に彼の嫡男・竹中重門の後見人を官兵衛が務めたりと家同士でも深い繋がりがあった。

さらに数十年後の関ヶ原の戦いでは、西軍側に就いた竹中家を東軍側にいた黒田家が説得し、土壇場で東軍に寝返らせた。
このため黒田家と同様に竹中家も明治維新まで武士として存続し、令和現在でもその血脈が絶えることなく存続している。

東軍側で生き残った重門は後に「豊鑑」という歴史書を執筆。
竹中半兵衛が秀吉の下で有能な活躍をしたと後世に広めて記憶に刻み込むことに大いに貢献した。


◆逸話

天才軍師として歴史に名を残しただけあって、有能さを称える逸話がかなり多い。

息子が半兵衛の戦略講義中に手洗いに行くために席を立ち、帰って来たのを一喝。
講義中に席を立つなど言語道断と、話が終わるまでは漏らしてでも座っているように叱りつけた。
武士の子なら戦の話の方が自分の生理的欲求より大事と言う事。

かつて秀吉に「いずれは大きく加増する」というお墨付きの書状をもらいながら、その後まったく音沙汰がなかった事に腹を立てた黒田官兵衛。
その書状を持って秀吉に直談判しに行くと、その場にいた半兵衛にその書状を破り捨てられ、火の中に投げ込まれた。
驚く官兵衛に対し、半兵衛は
「こんなものがあるから不満を覚えるのだ。貴殿のためにならない」
と官兵衛を窘め、官兵衛もその言い分に納得したという。

ちなみに当の半兵衛も、その功績を称えようとした秀吉に同じように加増の約束をしたためた書状を渡されたが、
この書状がいずれ後を継ぐ息子や秀吉の家中に災いをなす可能性を秀吉に告げ、その場で破り捨てたと伝わっている。

織田信長が存命の頃、謀反の疑いがある家臣・荒木村重の説得に向かった官兵衛がそのまま消息を絶ってしまった時のこと。
信長は官兵衛が裏切ったと判断を下し、人質に出されていた官兵衛の長男を殺すように半兵衛に命令を下した。
しかし半兵衛は何かを悟ったのか、信長には「殺した」と報告しながら実は人質の長男を匿い、その死後も部下に命じて匿い続けさせた。
やがて、官兵衛は裏切ったのではなく謀反を起こした村重に幽閉されていたことが発覚。
官兵衛の忠義を疑い、その息子まで殺させてしまったと恥じ入る信長に、人質を匿っていた部下が真実を伝えると、
信長は大喜びで半兵衛の命令違反を不問にし、官兵衛も半兵衛の心遣いに感謝したと伝わる。
ちなみにこの時助けられた長男こそ、後の黒田長政である。

信長から家臣になることを誘われた際、交渉に来た秀吉から三度も勧誘を受けたことで、その熱意に感激して信長より秀吉に仕えることを選んだという。

半兵衛は自身の後継者として神子田正治を推した。
神子田正治は期待通りに優れた知恵者であり羽柴四天王の一角に数えられるほどの逸材であったが、あまりにも放言癖が酷かった。
そしてある時ついに羽柴秀吉の怒りを被り改易され奉公構処分まで受け、仕官すら叶わなくなった正治は九州征伐の後に帰参を願う。
しかし九州征伐では仙石秀久、尾藤和宣といった秀吉子飼いの武将が大失策を犯しており、秀吉は内心フラストレーションを溜めていたと思われる。
そこに戦功を挙げたわけでもなくただのこのこと現れた正治が許されるわけがなく、その怒りを一身に受けるかのように京都一条戻橋にて「臆病者」の高札と共に首を晒されるという末路を辿った。



まぁこんな感じで彼は有能だ、別格だ、まさに未来が見えているかのように聡明だと大称賛する記録が非常に多いが、
これらは総じて関係者がほぼ亡くなった江戸時代に書かれている記録であるのに注意しておきたい。

半兵衛が直接書いた当時の資料はほぼ現存せず、上述した稲荷山城乗っ取りの際の僧侶の手紙のような直接的評価もそれほど多くない。
豊鑑は正しいと言えば正しいが、あくまで息子が「太閤様に仕えたうちの親父はこんなに凄いんだぜ!!」と書いた身内の主観なので、内容が100%正確とも言い難い。*4

今孔明のニックネームも、彼の病没を嘆き悲しんだ秀吉が「孔明を失ったかのようだ」と評したことが由来であり、
秀吉が三回会いに行った末に感化されて仲間になった逸話も、三国志で劉備が孔明を三回訪ねて仲間にした逸話……いわゆる三顧の礼そのまんま
優れた軍師=諸葛孔明と同様という発想からエピソードを拝借した創作なのがわかる。
実際この逸話や記録が作られた江戸時代に三国志演義の日本語版の出版が始まっており、孔明と半兵衛の重ね合わせが起きたのは確実である。


竹中半兵衛が優れた軍師だったのは間違いないものの、その逸話を全部を全部鵜呑みにしてしまうのは良くない点は留意しておきたい。


◆彼を扱った作品

高橋和島「竹中半兵衛」
三宅孝太郎「竹中半兵衛」

宮下英樹「センゴク」シリーズ(「天正記」まで登場)
重野なおき信長の忍び

※半兵衛に関連のある作品

中里融司「戦国竜虎伝」

ゲーム

戦国無双(3でプレイアブル化)
信長の野望
太閤立志伝
決戦III
戦国BASARA(2でプレイアブル化)
戦国大戦



◆余談

「その容貌、婦人の如し」と称されるほどの美少年だった為、数ある作品では中性的なイケメンとして描かれている。
また早死にしたこともあり基本的に若者、黒田官兵衛はそんな彼の保護者として描かれる事が多いが、実は半兵衛の方が2歳年上である。

まぁ婦人みたいな小綺麗な見た目だったとか、その容姿をバカにされて龍興から小便を引っ掛けられる仕打ちを受けたとかも全部江戸時代に書かれた話なので、
逸話を全部を全部鵜呑みに(ry


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最終更新:2026年07月28日 12:55

*1 厳密にはこの時代ではなく後年になって呼ばれた

*2 戦場で自らの指揮下に入る武士。つまり「信長の部下」と同時に「秀吉の直属部隊」で採用したいという意味

*3 胸のあたりに患っており、いわゆる結核だったのではと言われている

*4 これは太田牛一が著した信長の伝記『信長公記』にも言える