A-1 スカイレイダー

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A-1 スカイレイダー - (2020/04/21 (火) 23:02:20) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2012/01/30(月) 01:12:02
更新日:2022/04/15 Fri 22:41:52
所要時間:約 3 分で読めます




アメリカ、ダグラス・エアクラフト社製の艦上攻撃機。
軍用機が、第二次世界大戦までの主流であるレシプロエンジンから、朝鮮戦争以降の主流であるジェットエンジンに至るまでに活躍した。

開発が始まったのは古く、第二次世界大戦最中の1943年である。
それまで、爆撃機と雷撃機は別々に運用されていたが、アメリカ海軍はそれらを一つまとめにしようと軍用機のメーカーに打診したのだった。

各社の競合の結果、ダグラス社が受注を獲得した。
が、最初に設計したBTD-1は、前任機の欠点を多少改善した程度のものだったため、チーフエンジニアのエドワード・ハイネマン氏は

「これじゃ他社との競争に敗れる…やべえよやべえよ…」

と、BTD-1の契約キャンセル及び、その予算を流用して新しい機体を開発を提案した。

すると海軍はなんと、
「あ、さ、翌朝の9時までに設計図出して。ハイ、ヨロシクゥ!(無茶振り)」
と、とんでもない要求を突き付けた。

しかし、ハイネマンは部下二人とホテルに缶詰になって(決して3Pとか窓シコとかしてたわけではない)一晩で設計図を書き上げ、本当に翌朝に提出した。
レッドブルや眠々打破も無い時代に、よくぞ頑張ったものである。

その後、ハイネマンが長年暖めていたアイデアを元に、兵装の機外装備による機体の大幅な小型軽量化、運用の簡易化などがなされ、太平洋戦争には間に合わなかったものの、1946年12月に、無事に配備が開始された。
上記の経緯から当初はBTD-2というコードが与えられていたが、1946年にAD-1、1952年にA-1に改訂されている。


その後は朝鮮戦争やベトナム戦争で、攻撃の他にへリボーン部隊の護衛や撃墜されたパイロットの捜索・救難任務で活躍した。
機動力の高さから、ジェット戦闘機のMiG-17をも撃墜したことすらあるという、高性能攻撃機なのである。
因みに朝鮮戦争で世界最後の航空雷撃を行った機体でもあり、その目標はダムの水門であった。



また本機は非常に大きなペイロード(搭載量)が特徴であり、最大搭載量は8400ポンド(3810.176kg)にも達した。
B-17や連山のような、レシプロ4発の大型爆撃機に匹敵する量である。
増槽・航空魚雷・2000ポンド爆弾用の兵装架が3箇所、500ポンド爆弾・ロケット弾用の兵装架が12箇所もあり、
AD-6(A-1H)は戦術核兵器の運用能力を確保するため、胴体下の兵装架が最大2400ポンドから3500ポンドまで強化されている。

その搭載兵器を吊す翼下のハードポイントは合計15箇所もあり、現代でもこの数を持つ軍用機はなかなか無い。
整然と並ぶハードポイントは壮観で、A-10と並び攻撃機ファンを興奮させてやまない機体である。

さらに、本機の搭載量を評して「キッチン以外に運べないものはない」というジョークが生まれたが、それを受けて朝鮮戦争時、本当に流し台を搭載して、戦場に投下したということがある。

さらにさらに、時は流れてベトナム戦争時代。
上述の武勇伝から、今度は「最早この機体が搭載したことがないのはトイレくらいのものだ」という二代目のジョークが生まれた。
















ここまで来たならわかるよね?
















載せちゃった☆

ご丁寧に信管まで取り付けてある。

もちろんこちらも実戦で投下した。
こんなもんで攻撃されたベトコンには同情せざるを得ない。

その後、今度は「バスタブ以外に(ry」と言われた事でまたまたバスタブを取り付けようとしたが、今度ばかりは止められ中止となった。





追記・修正は流し台とトイレに信管を詰め込んでからお願いします

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