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旧日本軍全般2 - (2010/10/11 (月) 18:25:01) の編集履歴(バックアップ)



日本軍に狙撃兵っていたんでしょうか?

分隊内で射撃の上手い兵を、狙撃兵と呼んでいました。
外国のような、特別に養成された狙撃兵は居ないようです。
狙撃銃は三八式ベースの九七式狙撃銃と、九九式ベースの九九式狙撃銃というのがありましたが、
これも特別に作られたものではなく、量産した三八式や九九式の中から精度の良い品を選んで、
それにスコープを付けた物を、上記の射撃優秀者に優先的に支給していたそうです。
ただ、米側の記録によると、木の上から撃ち落した日本軍狙撃兵が持っていたのは、
殆どが普通の三八式や九九式だったそうです。
(29:566)

乃木希典の評価って軍板的にはどうなんでしょうか?

不幸な人物、というのが共通した評価です。
部下に大被害を出すことが分かってた旅順攻略戦をやらせるのには、
ちょっと神経が繊細すぎる人物であった、ということでしょうか。

ちなみに軍事板一般の性質として、戦術より戦略に重きを置くという傾向があります。
旅順攻略戦は、極東の小国家が陸軍大国と喧嘩するということの戦略的な無理が集中した部分ですから
第三軍の被害を指弾するときにはまず最初に
そうした無理な戦場を設定してしまった大本営を批判するのがこの板での「物の道理」です。
(32:418)

何故「関東軍」というのでしょうか?名前の由来を教えてください。

万里の長城の東の果て、渤海にめんした地域は山海関といい
古代から中華防衛の要衝でした
この関の東、つまり遼東半島の租借地防衛の軍ですので関東軍だったはずです
日本の関東も箱根の関の東という意味です
(34:613)

旧日本軍に軍刑務所ってあったんですか?

もちろん軍刑務所は存在します。いわゆる軍法会議にかけられた上量刑を決定します。
量刑の内容は死刑・懲役・禁固などでその他に懲罰として
謹慎・譴責・礼遇停止・免官・営倉・降等などがあります。
日本には公式には懲罰部隊というものは存在しません。
(38:305)

日本軍の憲兵隊は陸海軍の一部だったのでしょうか?

日本軍では、平時は憲兵は陸軍大臣に属するということに
なっていて、海軍に憲兵はないです。
ですので海軍軍人も陸軍の憲兵に取り締まられるということになります。

ただ、第2次大戦中の戦時で海軍が軍政を布いていたところでは
「海軍特別警察隊」というものが置かれて憲兵のようなことをしていたようです。
(39:295)

海軍工廠とか陸軍造兵廠とかありますが、「工廠」と「廠」の違いってなんですか

「工廠」は旧陸海軍に直属し、武器・弾薬など軍需品を製造した工場です。
「廠」は主に公的機關の施設に使われる場合が殆どで、
とりわけ軍事関係の各種施設に多用されました。(作業場や倉庫にも廠を使う。)
造兵廠ってのはもともと管理組織で、たとえば陸軍造兵廠本部の下に東京工廠を置いて
陸軍造兵廠東京工廠とか言ってたようです。
昭和14年に兵器行政本部が設置され造兵廠が行なっていた業務を全て担当するようになったので、
各種工廠も「○○造兵廠」と呼ばれるようになったとの事です。
(40:246)

第2次大戦中、日本の陸軍と海軍の予算はどちらが多かったのですか?

予算額だけなら、1940~41年まで陸軍省と海軍省の予算はほぼ拮抗しています。
1940:陸軍省:1,192,469千円/海軍省:1,033,711千円
1941:陸軍省:1,515,250千円/海軍省:1,497,374千円

1942年は陸軍が逆転し、1943年は海軍が逆転しています。
1942:陸軍省:55,847千円/海軍省:22,736千円
1943:陸軍省:677千円/海軍省:1,152千円

とはいえ、ここには数字の絡繰りがありまして、一般歳出予算ではこの金額ですが、
陸海軍の打出の小槌として、臨時軍事費特別会計予算があり、これらは、際限なく
使用できるものです。
陸軍関係は部隊派遣維持、時局即応の兵備改善、作戦資材の応急整備、航空要員の
急速補充、造兵設備の増強、占領鉄道の管理改良経費として、海軍関係では、艦船部
隊の派遣維持、艦船航空兵力と軍需品の急速充実、工作通信補給、施設整備と、南方
物資補給費用として、公債収入と植民地金融機関からの借り入れで、1943年までに、
全体では569億9,464万7,000円に達しています。
これの使い道は軍機と言うことで政府にも報告されませんでした。
(43:眠い人 ◆ikaJHtf2)

憲兵隊による「督戦隊」とはなんですか?

督戦隊が必要なのは、士気が低い軍隊において、恐怖に駆られた兵士が
逃亡すると全戦線が崩壊する危険があった場合です。
特に嫌々兵士にされた場合には必要性があります。

日本軍の場合、徹底的な教育が功を奏して、督戦の必要はありませんでした。
また逃亡した場合は、親兄弟も村八分にされる世論が形成されていました。

二○三高地攻略も同じです。
特に、当時は国民皆兵と言うこともなかったはずなので、兵隊に選ばれるのは
地域や本人にとっても名誉でした。
そこで、敵前逃亡などしようものなら…。
(44:眠い人 ◆ikaJHtf2)
補足しますと日本軍にも「督戦する」という言い方はあったようです。
ただ、意味合いとしては「前線に赴いて現場の将兵に激をとばす」という感じのものです。
御存知の通り、督戦隊はありませんでした。

個人的な感想ですが、職業軍人はともかく、
徴兵された日本の兵士にとっての督戦隊は「銃後」だったのかも。
(44:509)

日本軍は敵前逃亡した恥ずかしい軍だったのですか?

虎頭要塞のように、ソ連軍の進撃を少しでも遅らせるため
最後の一人まで戦死した戦線もあります。
そして関東軍首脳部が尻尾まいて逃げたのも事実。

どちらも「日本軍」です。
(44:367)

祖父ですが、大正2-3年生まれで本職は警視庁の警察官、中国戦線に3回も出兵・・ってのは一体どういう状況でこういうことになったんでしょうか

多分、大陸に於て治安要員または公安要員としての手腕を期待されたのかも知れません。
また、例えば、警察でも何らかの技能を身に付けている(例えば、自動車の運転など)のであれば、
幾度も召集がかけられます。

最初は兵役の時に籤に当たったのかも知れませんし、充員召集(臨時召集ではない)の名簿に掲載
されたのかも知れません。
2度目は日華事変での要員不足ではないか、と。
3度目は治安師団を作る際の要員不足と言ったところでしょうか。
(599:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

賊軍側とされた藩で、明治維新前に生まれていて陸大もないような時代に陸軍大将や陸軍中将になるのは困難なのでしょうか?

またなった人を十人程度ご教示願いたいです。よろしくお願いします。
中将、大将への昇進は難しかった。

立見尚文 桑名、石本新六 姫路、小泉正保 水戸、村岡惇 幕臣、一戸兵衛 弘前、大島久道
秋田、柴五郎 会津、梅沢道治 仙台、中村覚 彦根、大谷喜久蔵 小浜

奥羽越列藩では、無理だよ。
(600:オッチャン ◆UMCByHJxYk)

小倉の奥保鞏を追加ね。賊軍出身者の出世頭
元帥・参謀総長になって、華族にも列されて、
立見よりも出世した。
(601:21)

シンガポールを占領した日本軍の風紀はどうだったんですか?

中公新書の「思い出の昭南博物館」では、英国兵による略奪や地元民による略奪が多かった
様ですが、日本軍については、占領直後は兵士単位としての略奪などは無かった様です。
但し、海軍将校たちによる、南洋域やインド洋地域の海図の持ち出し、陸軍将校たちによる
南洋域や豪州本土の地誌などの持ち出しはあった様です。
(402:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

善通寺に師団があったのはなぜですか?

まず、善通寺は交通の要衝で、此処から四国各地に行くことが出来ます。
一朝事が有れば、即座に対応出来る位置にあります。
また、瀬戸内海に面しているため、外征を行う場合にも、船舶輸送が容易に行える土地になります。
更に、広島、姫路などの各師団との連携が容易に取れます。

また、牙が抜かれたとは言え、高松はかつての朝敵であり、其処に師団司令部を設置する訳にいきません。
徳島はあまりに大阪、姫路に近く、かつては高知に吸収されていました。
香川も同様に、最初は徳島に、次いで愛媛に吸収されていましたが、愛媛に関しては、広島の対岸にあり、
その影響下にあります。
ならば、高知は、と言うと、これも反政府運動の盛んな土地であり、かつては自前の軍事力で暴動を鎮圧した
ことがあり、政府としては疑問の目で見ているところがありました。

これらを勘案すると、いずれも県都に師団を設置するのは難しかった訳です。
善通寺の場合は、京極家自体が勤皇派ですし、地域的に比較的安定していた為、広島鎮台の分営が最初に
設置された流れもあり、次に師団を拡張する際に、この分営を師団に昇格させたと言う形になっています。
(326:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

旧軍では参謀本部の参謀ってどのくらい居たの?

大本営陸軍参謀部(昭和16年12月19日現在)の主要編制(戦史叢書 大本営陸軍部<1>昭和17年4月まで)
 ※ 「海」は海軍からの兼勤、「ケ」は部外からの兼勤、「兼」は大本営内相互又は参謀本部との兼勤
参謀総長 大将(1)、参謀次長(中将1)
総務部 (部長 少将)
 庶務課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(2、兼1)
 第1課 (課長 大佐) 少佐(1、ケ1)
第1部 部長(中将)
 第2課 (課長 大佐) 大佐(海1)、中佐(5、海2)、少佐(6、兼1、海1)、大尉(1)
 第3課 (課長 中佐) 中佐(2)、少佐(7)
 第4課 (課長 大佐) 中佐(海1)、少佐(3)、大尉(1)
第2部 (部長 少将) 部付(兼1)
 第5課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1)
 第6課 (課長 大佐) 大佐(1)、中佐(2)、少佐(3)
 第7課 (課長 大佐) 中佐(1)、少佐(1)
 第8課 (課長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼1)
第3部 (部長 兼 少将)
 第9課 (課長 大佐) 中佐(兼1)、少佐(兼2)
 第10課 (課長 大佐) 中佐(兼2、海1)、少佐(1)
 第11課 (課長 大佐) 中佐(兼1、海1)、少佐(1)
第20班 (班長 大佐) 大佐(兼1)、中佐(1、兼1、海1)、少佐(1、兼1)
研究班 (班長 大佐) 中佐(1、兼1)、少佐(1、兼3)
第18班 (班長 兼 少将) 大佐(1)、中佐(1)
(325:746)

日本軍は、末端将兵が捕虜になることを禁じていたくせに、どうして海軍乙事件ではのうのうと敵の捕虜になった福留参謀長を不問としたんですか?

福留参謀長は捕虜になった際に暗号表を奪われるという失態を犯した。
そのため、「捕虜になった」ことを咎めると、
「本来遭難した時点で処分しなければならなかった暗号表を処分し忘れた上捕虜になって敵の手に渡してしまった」
ことが公になってしまうので、そもそも「捕虜になった」こと自体を「なかったこと」にしてしまったので。

「表向きはそれでもいいけど、責任は取らせるべきだ」という議論はあったが、
とにかく「暗号表を奪われた」ことだけは隠蔽しなければいけなかったため、
一切の処分ができなかった。
(607:904)

旧軍の小銃は一丁一丁手作りで量産に不向きだったといいますが、小銃弾の生産体制や品質はどうだったんでしょうか?

ほぼ、陸軍兵器廠の第一陸軍造兵廠第1製造所で一手に作られ、関東大震災後に
九州小倉に陸軍造兵廠の分工場が作られ、こちらでも銃弾が製造されています。
一般に造兵廠自体は、最先端の生産設備を導入し、その技術は高いものでしたが、
量産技術は余り高いものとは言えず(それでも、民間に比べれば遙かに高い)、
戦時中も、前線からの要求を満たすことはありませんでした。
(497:313,眠い人 ◆gQikaJHtf2)

日本帝国軍では、補給が完全に絶たれた戦線では人肉食もあったとよく聞きますが本当ですか?

またこれは殺しあって共食いという感じだったのでしょうか?それとも死体の肉を漁っていたのでしょうか?
友軍の屍肉は食べちゃいけませんという命令が出た地域があるので
あったのか無かったのかといえばあったのでしょう。
屍肉が基本らしいですが、応用的にどういうことがあったのかは・・・まあ真相は闇の中ですよ。
(360:514)
真っ先になくなるのは尻かももの肉だったようです
グアム島では人肉食によりアメリカの裁判で処刑されていますが、その人の証言では肝臓が旨いとか…
人肉を食った人は動物蛋白を急に採ったせいか肌に艶が出てくるので、何となく食ったのが分かったそうです
ガダルカナルやフィリピンなどて特に報告されています
(360:515)

戦前の軍人や警官の階級って、どんな法律や勅令で規定されてたんですか?

海軍について言えば、1868年に制定された海軍武官官階と言うのが最初に来て、次いで
1872年の海軍武官官階で全階級を設定し、1878年以降は海軍武官官階及海軍卒職階
となっています。
陸軍は、陸軍武官官等表と言うのが、1868年に制定され、1874年に改訂されていっています。
(614:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

統帥権干犯ってどういう意味?

統帥権という用語は、大日本帝国憲法で用いられている言葉。
形式的には、天皇が最高司令官であり、軍隊を統率する権能を持っていることを表した言葉です。
軍人たちが使った「統帥権干犯」というのは、
「神聖なる天皇のみが持つ統帥権を侵害するのか!」てーことですよ。
軍部に批判的な文官や政治家なんかが、軍部の意思決定を覆そうとしたり、批難したりすると、
「お前、それは統帥権干犯だ」という風に言って、それらを封じ込めて来たわけです。
(613:128)

戦前の日本の制度で上官を殴るとどの程度の罰則ですか?

陸軍刑務所行きだろ。立派に前科者の仲間入りです。

陸軍刑法第60条
上官ヲ傷害シ又ハ之ニ対シテ暴行若ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別二従テ処断ス
1 敵前ナルトキハ1年以上ノ有期懲役又ハ禁錮二処ス
2 其ノ他ノ場合ナルトキハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処スル
(創作質問55:471)

戦前の日本には国防省や統合参謀本部を作るべきだという動きは無かったのでしょうか?

軍政組織は1872年に陸軍省と海軍省が設置されるまで、兵部省がいわゆる国防省的な組織と言えたかもしれないぞ。
先の大戦の大本営は、陸軍参謀本部と海軍軍令部を隷下に置く、統合参謀本部的な組織だとも。

まあ、ネタ発言だと取ってくれても構わないけどな。
結局、組織なんてもんは分化と統合を繰り返すもんだし、看板だけっていうのなら、
戦前にも、陸海軍の統合組織はあったぞ…てー話。

なかなか一度できた垣根を取っ払うって難しい。
イギリスだって、1923年に3軍統合の参謀本部委員会を作っちゃいるが、
器作って酒入れずの状態が長いこと続いた。
陸海空軍の各省の上に立つ国防省だって、1940年に西方戦役が勃発して、
チェンバレン内閣が倒れた後に、チャーチルが作るまでなかった。
それさえも当初は、とにかく国防省は作ったが、職掌も決まらずチャーチルが首相兼任で、
内実が伴うのは戦後になってからと言ってもいいくらいだ。

アメリカだって、統合参謀本部の設立が1946年。国防省(国防総省)の発足は47年。

大本営の設置で軍令組織を建前だけ、表面だけにせよ一本化した日本は、先駆的だったかもしれないw
(620:479)

旧日本軍では偵察用のオートバイにハーレーダビッドソンのライセンス生産版の陸王が採用されていたそうですが、国産のキャブトンやメグロは使われていなかったんですか?

メグロ号は、1941年に陸軍の試験に提出しましたが採用となりませんでした。
キャプトン号も同様、宮田製作所のアサヒ号は1940年に早くも見切りを付けて自転車製作に
転業しました。
他に、広島でSSD号というのが試作され、軍用試験に供されましたが、経営的に不成功。

まともに軍で採用されたのは、陸王の他、日本内燃機のくろがね号、岡本工業の能りつ号の
三種類で、後に、97式自動二輪車が、日本内燃機や東洋工業で製作されています。
(622:眠い人 ◆gQikaJHtf2)

第二次世界大戦で日本軍が集団投降した戦いってあったんですか?

表だって公表されているものとしては東部ニューギニア。

有名なものとしては、昭和20年5月3日に第41師団歩兵第239聯隊第2大隊(大隊長中佐以下将校4名、下士官兵37名)
がアポレンガ付近で豪州軍に投降(なお、この大隊長は元山砲兵第41聯隊の大隊長。砲兵聯隊は火砲を全部失ったた
め、昭和19年9月に解体され人員は各歩兵聯隊に編入されていた)。

そのほか、豪陸軍公刊戦史によれば、昭和20年8月10日に大尉以下12名が、同11日に大尉以下16名が投降したとの
記録がある。
(306:49)

戦闘詳報って、どの部隊でも書くんですか?

書きます  戦闘詳報というのは各種情報 人事・情報・訓練(運用)
兵站の部隊情報をまとめたものです。 一日1回程度上級部隊に提出をします。

毎日書くのは「戦闘要報」(海軍では「戦闘概報」)で、「戦闘詳報」は戦闘が終了したときに書くものです。

○戦闘要報
 : 一部の戦闘が終わったとき(又は当日その局を結ぶに至らなかったとき)、日没後速やかに
  各部隊隊長が当面の戦闘経過概要、彼我の態勢、敵情判断及びこれに対する自己の企図、
  彼我の損害概数、弾薬燃料の残余と消費量概数などを報告するもの

○戦闘詳報
 : 一方面の戦闘終了後、各級指揮官が、戦闘の詳細を記録して提出する報告文書
  主要記載事項は、戦闘前の彼我態勢の概要、各時期における戦闘経過、関係部隊の動作。
  彼我の交戦兵力、敵の団隊号・将帥の氏名・編制・装備・戦法、戦闘後における彼我の形勢
  概要、戦訓など

(304:18-39)

日本では統帥の一元化を試みる人物はいなかったのでしょうか?

天皇で一元化してるやん
実際の作戦指導のレベルで、補弼機関としては「大本営」で一元化してないか?
明治28年、日清戦争を控えて戦時大本営条例が制定公布されたが、この制度をめぐ
って陸軍が参謀総長を幕僚長として陸海軍の統一的運用を行うことを主張したことか
ら、海軍との激しい対立が起こった。
その時は陸軍の主張は通ったものの、海軍は海軍軍令部条例を制定、海軍の作戦
については海軍軍令部長の専管事項とすることと定めることで妥協が成立した。
しかし、戦争が終わった後、再び改正をめぐって統帥の一元化を主張する陸軍と陸軍
出身の参謀総長に異質な海軍作戦をゆだねることは出来ないとした海軍の対立が再
燃し、結果、明治38年に陸海軍の両幕僚長を並立することとして改正された。
そのためには陸海軍の対立を調整する機関が必要なため、明治31年、その目的で元
帥府が設置され、同日、元帥府設置の詔が出され、小松宮彰仁親王、山県有朋、
大山巌両陸軍大将、西郷従道海軍大将らが元帥府に列せられた。
しかし、明治35年に西郷従道が亡くなると元帥府に意見調整機能はなくなっていまい、
元帥府は重要軍務について天皇の諮詢に応じる機関となった。
その後、陸海軍の対立は形を変えたが、太平洋戦争終戦まで続いた。
(303:507-614)

大日本帝国が日露戦争以降、国力に見合わない拡大政策を取ったのは何故でしょうか?

内政的には、大国ロシアを打ち破った栄光の軍隊を、戦争が終わったからと言って縮小するなどできなかった。
また日露戦争の辛勝を政府が隠した事が、戦後処理に対する民衆の不満を徒に大きくした。
日清戦争の勝利で莫大な賠償金を得たのに、日露戦争ではそれがなかった、これはおかしい、
「本来戦争ってのはもっと儲かるはずだ。」こんな考えが世間的に広まってきていた。

外政的には、未だロシアの脅威が消えない状況で軍縮などできるはずもなかった。
また世界恐慌に対し他の列強諸国は植民地内で財を循環させるブロック経済方式を取ったが、
植民地らしい植民地を持たなかった日本は新たに財を循環させるべき地を獲得する必要があった。

これら内政的・外政的要因が組み合わさり、拡大政策がとられた。
(戦争板初質スレ3:496)


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