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中国名将録
中国名将百選
燃えるイスラム史
西洋名将百選
以上を大いに参考にしている。
中原とその周辺の武将、軍師、覇王
ここからしばらく中華のターン!
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Jiang Ziya 呂尚(生没年不詳。BC11世紀頃)
いわゆる太公望。周の軍師であり、後に春秋五覇となる斉の建国者。殷王朝に引導を渡したとされる。『六韜』に仮託された人物でもある。
「私が釣りをしているのは、君子の楽しみに似ておる故です」『六韜』
-Yue Yi 楽毅(生没年不詳、BC3世紀頃)
燕の将軍。弱国の燕に仕えてこれを大いに盛り立て、当時の二大強国であった斉を再起不能にまで追い込んだ。劉邦や諸葛亮に深く尊敬されていたとされる。
「古の君子は友との交わりを絶ってもその悪語を口にせず、忠臣は祖国を捨てても見苦しい言い訳をしなかった、これが私の聞くところです」『燕の恵王に報ずるの書』
-Bai Qi 白起(BC?-BC257)
秦の将軍。始皇帝の曽祖父にあたる昭襄王に仕え、趙・魏・楚等を打ち破って秦の興隆に大いに貢献した。当時は珍しくなかったのだが、原則捕虜は取らず降兵は鏖殺している。
「武安君、秦のために戦いて勝ち、攻めてとるところのもの七十余城。南はエン・郢・漢中を定め、北は趙括の軍を禽にす。周・召・呂望の功といえどもこれよりも益さず」『史記』より、武安君白起について
-Han Xin 韓信(BC?-BC196)
前漢創設期の武将。中原を代表する英雄の一人である。劉邦による大抜擢に応えて諸国を次々に降し、遂には垓下で項籍を打ち破って漢の覇権を決定的なものとした。
「韓信は国士無双であり、他の雑多な将軍とは違う」漢の名臣蕭何による評
-Xiang Yu 項籍(BC232-BC202)
秦末期の武将、王侯。項羽とも。人徳も戦略も無しに己の武勇と戦術的勝利のみで楚の「覇王」にまでのしあがった。最終的に敗れはしたものの、その名は中原における武の象徴となっている。
「天が私を滅ぼす、用兵の罪ではない」『史記』より、末期の言葉
-Wei Qing 衛青(BC?-BC106)
漢の将軍。遊牧民族張りの機動力で匈奴を散々に追い回し、これをオルドスにまで追いやる事に成功した。中原史上初めて長城の向こう側に遠征した将軍でもある。
「臣下としては法律を遵奉し、職務に忠実であるだけでよい」『史記』
-Huo Qubing 霍去病(BC140-BC117)
漢の将軍。18歳で初陣を飾り24歳で夭折するまで匈奴との戦いで華々しい戦功を挙げ続けた。傲慢な性格であったが、何故か兵には慕われていたらしい。(*1)
「まだ匈奴が滅びてもいないのに、家を貰ってなどいられません」『史記』より、武帝への返答
-Deng Yu トウ禹(2-58)
後漢創始期の武将。劉秀の旗揚げから付き随い、漢中を平定する等各地で軍功を立て、後漢の成立に大いに貢献。「雲台二十八将」の筆頭に数えられている。
「明公が威徳を天下に広め、私はわずかの功を立てて史書に名を残そうと願うだけです」『史記』
-Ban Chao 班超(32-102)
後漢の将軍。匈奴制圧軍として西域に赴き、以後31年に渡って匈奴の侵略を食い止め続けた。部下の甘英をローマ帝国に派遣しようとした事でも有名。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」『史記』
-Zhou Yu 周瑜(175-210)
後の呉となる孫家に仕えた軍師。「小覇王」孫策の盟友として、また呉の初代大都督として孫家の軍政を一身に担い、赤壁で曹操を破る等の成果を上げて呉の成立を決定付けた。
「先ずは私が孫瑜殿と共に蜀を陥とし、張魯を呑んで漢中に孫瑜殿を置き、馬超と盟を結びます。その後呉に戻った私と殿が襄陽を攻め落とせば、曹操を追い詰める事が出来るでしょう」『呉書』「周瑜伝」、いわゆる「天下二分の計」
-Li Jing 李靖(571-649)
隋唐時代の将軍、宰相。唐の太宗となる李世民の幕僚として縦横無尽の働きを見せ、唐が成った後は突厥や吐谷渾を征服する等、中原史上でも有数の名将に数えられている。
「兵は神速を貴ぶ、機を失うべからず」『旧唐書』「李靖伝」、『孫子』からの引用
-Guo Ziyi 郭子儀(697-781)
唐の将軍。4代の皇帝に仕え、安史の乱を始めとする三度の国難を鎮め、既に斜陽を迎えつつあった唐を支え続けた。当時にしては珍しく、終生皇帝と民に篤く信頼された人物である。
「権は天下を傾けるも朝廷は忌まず。功は一代を蓋いたるも主は疑わず。奢侈は人欲を窮めたるも君子之を罪とせず」『旧唐書』
-Yue Fei 岳飛(1103-1141)
南宗の将軍。元は義勇軍の一兵卒だったが、やがて頭角を現し軍閥の中心人物となる。戦場においては幾度も金を破るものの、秦檜を中心とする和平派の謀略にかかり非業の死を遂げる。
「運用の妙は一心に存す」『十八史略』
-Meng Gong 孟キョウ(1195-1246) ※ 英語版記事無し。代わりに中国語記事を記す。
南宗の将軍。金、そして当時最強の戦闘国家であったモンゴルから南宗を守り通し、オゴタイに南征を諦めさせた守勢の雄。彼と彼の構築した防衛網があったからこそ、死後30年に渡って南宗が存続できたと言われる。
「臣は所詮武辺の士、戦を望み和議を望まず」
-Guo Kan 郭侃(?-1277)
元の漢人将軍。郭子儀の子孫。特に攻城戦を得意とし、イスラム帝国や十字軍を蹴散らしペルシア、シリア、小アジアを飲み込んだ「極西の神人」。彼らによるバクダートの破壊は、イスラム諸国を大いに動揺させた。
「モンゴル軍は鳩の飛行を攻撃する飢えたハヤブサのように都市を貫き、荒れ狂う狼が羊を襲うように市民を襲った」
「敵を欺くものは滅び、軍機には偽り多し。若し彼の計に当らずば、大恥をかかざる事なし」
-Xu Da 徐達(1332-1385)
明創始期の将軍。朱元璋と共に紅巾軍に参加し、以後各地を歴戦。南では軍閥や山越を討って明の成立に貢献し、北ではココ・テムルやトゴン・テムルを破ってモンゴル勢力を中原から叩き出した。
「元都を攻め落とし、ハーンも北へ逃げた以上、窮した敵を追うべきでありましょうか」
-Qin Liangyu 秦良玉(1574-1648)
明の将軍。少数民族出身で、その上女性であるにも関わらず、「白杆兵」と恐れられた兵を率いて清の猛勢に抵抗し続けた。正史に列伝のある女性武将は彼女一人である。(*2)
「私の兄弟二人はみな王事に死し、私は一夫人といえど国家の厚恩を被ること二十年、今不幸にして此処にいたり、しかし敢えて逆賊に余年を生かされることを望まない!」
-Yuan Chonghuan 袁崇煥(1584-1630)
明の将軍。既に並ぶ者のない強勢となっていた後金と戦い、ヌルハチに生涯唯一の敗北を喫させホンタイジをも退けた。中原史上初の砲術家でもある。
「昨日お前を斬ったのは、朝廷の尊い法によるもので、今お前を祭るのは、僚友としての私情である」毛文龍を斬った後、その祭礼にて
-Zhang Zizhong 張自忠(1891-1940)
中華民国の将軍、行政官。日本からも勇将の誉れ高かった人物で、大陸に侵入してきた日本軍を散々に苦しめるも壮絶な戦死を遂げる。
「豊台は中国の領土である」
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Zhu De 朱徳(1886-1976)
中華人民共和国の将軍、政治家。盟友の毛沢東と共にゲリラ戦の基本戦略を確立した事で知られる。日本軍が「点と線しか支配できなかった」のは彼の働きによるところが大きい。
「敵が進めば我は退き、敵が休めば我は撹乱し、敵が疲れたら我は打ち、敵が退けば我は進む」
計20人
…これでも幾人かの例外を除いて絶対に外せない名将中の名将に限定しているつもりである。更に将軍としても優秀だった皇帝(劉秀とか李世民とか朱棣とか)も除外している。(*3)
何という戦闘民族。これは是非とも帝国主義志向の指導者が欲しくなるところだ。武帝なんてどうだろう。
**中原周辺の武将、軍師、覇王 [#k0ccdebe] -
Modu Chanyu 冒頓単于(BC?-BC174)
匈奴の単于、即ち王。父王をクーデターで殺した直後から周辺への侵略を開始し、最終的には漢王朝をも圧迫するほどの遊牧国家を作り上げた。
「天立つる所の匈奴大単于、慎みて皇帝に問う、恙なきや」
-Eulji Mundeok 乙支文徳(生没年不詳。6-7世紀の人)
高句麗の将軍、大臣。当時の超大国であった隋軍を国土の奥まで引きずり込み、補給線が伸びきった所でこれを殲滅。圧倒的な国力の差をひっくり返すと同時に隋滅亡の遠因を作った。
「貴軍の優れた謀は天の理を究め、知略は地の理をも窮めるほどである。戦勝の功績は既に甚だしく、十分なものである事を鑑み、ここで戦いを止められてはどうか?」隋軍への信書。この直後、騙し討ちで隋軍を打ち破る。
-Kim Yushin 金ユ信(595-673)
新羅の将軍。唐の支援を受けつつ百済と高句麗を滅ぼし、その後唐を半島から叩き出す事で朝鮮半島に初の統一をもたらした。
「この国を開いた、忠義に燃えし壮烈なる武を興した者よ」陵墓より
-Wanyan Aguda アグダ(1068-1123)
女真族の族長であり、金の初代皇帝。完顔阿骨打とも。完顔による女真族の統一に貢献し、その後完顔の頭領となると金を建国。更に遼を事実上壊滅させるに至る。
「財を理由に人を殺してはならない。財は人の致す物なのだから」
-Yelu Dashi 耶律大石(1087-1143)
遼の皇族であり、西遼/カラ・キタイの創始者。遼の滅亡に際し西に逃れ、トルキスタンで西遼を建国。その後シルクロードを支配しセルジューク朝等を破って版図を拡大したが、本願であった東征は果たせなかった。
「耶律大石がサンジャルを打ち破った事で、イスラム最大の勢力であるセルジューク朝は瓦解するに至る。その雄姿は西に伝わり、いつの間にか、プレスター・ジョンの伝説となった」
-Batu バトゥ(1207-1256)
ジョチの息子であり、キプチャク・ハン国の創始者。キプチャク草原からハンガリーに至る地域を一代で征服し、東欧を「タタールのくびき」にかけた張本人である。
「わたしどもが旅行の途中にその土地を通ったさい、死者の頭蓋骨と骨とが数え切れぬほど地面に散らばっているのに出くわしました。キーエフは以前は非常に大きく人口過密な町だったのですが、いまではほとんど無に帰してしまいました」
-Bayan バヤン(1236-1294)
モンゴル帝国の将軍。南宗を滅ぼして元の覇権を決定的なものとし、モンゴル高原の反乱を鎮圧して元に復させる等、終生フビライの腹心としてその命を果たし続けた。
「百の眼の怪物が南宋を滅ぼした」『東方見聞録』、「バヤン」は漢字で「百眼」となる
-Tran Hung Dao チャン・フン・ダオ(1228-1300)
大越の王族、武将。陳興道とも。チャンパ軍と共に巧みなゲリラ戦で元軍を翻弄し、最終的にはこれを追撃して殲滅する事に成功。見事に大越の独立を守り抜いた。
「もし降伏するのであれば、まずはじめに私の首を斬ってください。私がいる限り、わが国は絶対に滅びはしません」
-Nurhaci ヌルハチ(1559-1626)
後金の創始者であり、後に清の初代皇帝とされる。女真族を統一して後金を建国し、更に明を攻撃。寧遠城に敗れるまで連戦連勝を続けた。
「倭兵30人で女真1人に敵すべからず」その倭兵に散々苦戦した李如梅の言
-Vo Nguyen Giap ヴォー・グエン・ザップ(1911-)
ベトナムの軍人、政治家。正規の軍事訓練は受けていなかったが、フランス軍を叩き出して独立への道を作り、更に超大国アメリカを泥沼に引きずり込んで消耗させ、ベトナム統一をもたらした。
「ゲリラ戦を維持し、発展させていくためには、必然的に機動戦に行き着かねばならない」『人民の戦争・人民の軍隊』
-Paik Sun-yup 白善燁(1920-)
大韓民国の軍人、外交官、政治家。ロクな訓練を受けていなかった民兵を率いて北朝鮮の正規軍を相手に奮戦、諸々の機を見切って38°線を確保する事に成功する。
「2日間も補給が絶えたのに、よく頑張ってくれた、感謝の言葉もない。だがもう我々には下がる所はない。大韓民国を滅ぼしてはならない気持ちは皆同じである。今から突撃に行こう。私が先頭だ。もし私が気後れを見せたら躊躇せず撃て。支援射撃の最終弾と供に突撃だ。私に続け」
計10人
**イスラム圏の将軍、英君 [#k0ccdebe] -
Abu Muslim アブー・ムスリム(700?-755)
アッバース革命の指導者。通称「ホラーサーンの猛虎」。ダーイー、即ち秘密教宣員として挙兵の準備を整え、いざ挙兵してからは瞬く間にアッバース革命を成立させた。本人は前線には出なかった事でも知られる。
「自分を生かしておけばあなたの敵を倒すだろう」「お前以上の敵がどこにいるものか」マンスールに誅殺される寸前の問答
-Togrul トゥグリル・ベク(993-1063)
セルジューク朝の開祖。遊牧集団を率いてガズナ朝と戦い、ニーシャプールを皮切りにアフガニスタン、ホラーサーンを併呑。史上初めて公式に認められたスルタンとなった。
「最大のスルターンにして、最も栄光あるシャー・ハン・シャー」即位記念通貨の銘
-Zengi ザンギー(1087?-1146)
ザンギー朝の開祖。十字軍と組織的、継続的に戦った最初の武将で、特にエデッサ伯領を攻め落とした事でジハードの口火を切ったと称えられている。
「彼が去ると敵は立ち上がった 生きているときは怖くて抜けなかった剣を掴み」
-Nur ad-Din ヌールッディーン(1118-1174)
ザンギー朝第二代君主。父の戦争を引き継いで十字軍との抗争を続け、更にシリア周辺の諸王を討ち彼の地における体制を固める。
「アッラーよ!私よりもイスラームに勝利を与えたまえ!この犬めが勝利に相応しいとは!」
-Baibars バイバルス(?-1277)
マムルーク朝第5代君主。モンゴルを撃退してその侵略をシリアで食い止め、更に十字軍の都市をも陥落させその橋頭堡を奪った。政治にも功績を残し、今なお名君と称えられている。
「歴史に耳を傾けることは体験に勝るものだ」
-Barbaros Hayreddin バルバロス・ハイレディン(1475-1546)
元は「赤髭」と恐れられた海賊で、後にオスマン帝国の提督となる。プレヴェザでヴェネチア、教皇軍、スペイン海軍の連合軍を敗走させる事で地中海におけるオスマンと海賊の覇権を決定的にした。(*4)
「船列に帰って、俺がやるようにやれ」プレヴェザの海戦に際し
-Aurangzeb アウラングゼーブ(1618-1707)
ムガール帝国第六代皇帝。狂信という皇帝としては致命的な問題を抱えていたが軍人としては優秀で、ムガール帝国における最大版図を築いたのは彼である。(*5)
「…だが老皇帝一人だけは、なおかなりの威厳を持ち純白の衣裳で前線を回る。多くの兵が皇帝を見ようと群れる。だが皇帝は彼らのほうを見ずただ手中の本のみに目をこらす。その本はコーランだった」あるイギリスの外交官
-Nader Shah ナーディル・シャー(1688-1747)
アフシャール朝の創始者、あるいは簒奪者。武威に依って王朝を建て、オスマン帝国とムガール帝国を破ってアナトリアからインドに渡るまでの地域を領有するに至る。そして最期は凶刃に倒れるのだった。(*6)
「それではどこに楽しみを見出せるのか」天国には戦争は無い、と聞いて
-Kemal Ataturk ケマル・アタチュルク(1881-1938)
オスマン帝国の軍人を経て、トルコ共和国の初代大頭領となる。軍人時代にはガリポリで英軍の前進を食い止め、革命政府の首魁となってからは希軍を撃退するなど将軍としても優秀であった。
「全軍へ告ぐ。諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ」
-Ahmad Shah Massoud アフマド・シャー・マスード(1953-2001)
アフガニスタンの政治家、軍事指導者。アフガン戦争において万単位で侵入してくるソ連軍を何度も何度も追い返した局地戦の泰斗であり、「パンジシールの獅子」の異名を持つ。
「私達が戦いを止めればテロリズムは世界に広がっていくだろう」
計10人
**東中欧及びその周辺の将軍、英君 [#k0ccdebe] -
Attila アッティラ(406?-453)
フン族の王。中央アジアから東西ローマ帝国をに至る地域において、思うまま、望むままに侵略、略奪、殺戮の限りを尽くし、「神の災い」「神の鞭」と恐れられた。
「トラキアにいる野蛮なフン族はとても強大になり、数百の都市が奪われ、コンスタンティノープルも危険になり多くの人々が逃げ出した…そしてたくさんの人々が殺され血が流されて、死者の数を数えることもできない」 カリニコス、『聖ヒュパティオスの生涯』
-Alexander Nevsky アレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)
ノブゴロド公であり、後にウラジーミル大公。ドイツ騎士団とスウェーデンの侵攻を跳ね返してロシアと正教を守った事で、英雄、聖人として称えられている。モンゴルへの臣従を貫く等時世を読む力もあった。
「…彼の背は誰よりも高く、声はラッパのようによく響き、顔は古のファラオが自らの後継者に据えんと欲したあのヨセフのようであった」『第二プスコフ年代記』
-Dmitry Donskoy ドミトリイ・ドンスコイ(1350-1389)
第四代モスクワ大公。クリコヴォでママイを破り、タタールのくびきに傷を付けた事でモスクワの武名と覇権を揺るぎないものとした。こちらもロシア史有数の英雄とみなされている。
「大公ドミトリイはロシアの大地とハリストスへの信仰を守る為に、その勇気と軍を以てタタールの悪魔共を打ち破った。今やタタールの弓はロシアの剣に切り裂かれ、そのラッパも声も遠くに失せた。ママイは軍を見捨て、老いた狼のように遠吠え、カッファに逃げ去っていったのだ」『ザドンシチナ』
-Jan Zizka ヤン・ジシュカ(1374-1424)
ボヘミア出身の傭兵で、フス派の総大将。馬車防壁と鉄砲斉射を組み合わせた新戦術を農民達に叩き込み、貴族によって構成される重騎兵団を木っ端微塵に粉砕。戦争の様式そのものを根本的に変えてしまった不世出の天才である。
「フス派は神か、あるいは悪魔の力を得ているに違いない。人間が勝てる相手ではない。彼らは無敵なのだから」
-Vlad III ヴラド・ツェペシュ(1431-1476)
ルーマニアのワラキア公。オスマン帝国からの独立を宣言し、その侵略軍を幾度となく退けている。内外を問わず敵の尽くを串刺しにした事、そしてドラキュラのモデルとなった事で有名。
「輝く地平線を目指す時は今。これを目指して、全ての敵を辱めるのだ。全ての敵を辱めるのだ」ルーマニア国歌より
-Yermak イェルマーク(1532-1585)
コサックの頭領、探検家。ストロガノフ家の命を受け、シベリア植民の尖兵としてシビル・ハン国と対決。その首都を占拠するものの残党の手にかかって戦死した。
「征服…征服…何という言葉だろう! 同じ略奪でも、命令を受け氏名を帯びてやれば、そして大々的にやれば、征服というんだ」バルトス・ヘップナーの小説『コサック軍シベリアをゆく』
-Albrecht von Wallenstein アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(1583-1634)
ボヘミア生まれの傭兵。神聖ローマ皇帝の私兵として各地を駆け巡り、プロテスタント諸国に連戦連勝を重ねる。リュッツェンでは敗北しながらもグスタフ・アドルフを討ち取ってみせた。
「あの人は軍人の国を作ろうとしたのだ。そして世界に火をつけ、世界を燃やして、あらゆることを大胆にやろうとした」シラー著『ヴァレンシュタイン』より
-Stanislaw Koniecpolski スタニスワフ・コニェツポルスキ(1590?-1646)※ 日本語記事は無し。代わりにスウェーデン・ポーランドの項を記す。
ポーランド=リトアニア連合の軍人。グスタフ・アドルフが戦略の人ならこちらは戦術の人で、彼の王との多くの戦いにおいて勝利を収めている。(*7)
「偉大なるグスタフ・アドルフを見よ! 18ヶ月のうちに、彼は最初の戦いに勝利し、2度目に敗北、そして3度目に命を落とした。彼はなんと安価に名声を手に入れただろう! 」 ナポレオンによる言
-Bohdan Khmelnytsky ボフダン・フメリヌィーツィクィイ(1595-1657)
ウクライナ・コサックの頭領。ポーランドに反旗を翻し、討伐軍を破ってウクライナをコサック国家として独立させる事に成功する。と同時に、彼に手を焼いた事がきっかけでポーランドの没落が始まるのである。
「いざ自由がため 臆せず身を奉げよ 汝がコサックが末裔ならば」ウクライナ国歌
-Stefan Czarniecki ステファン・チャルニエフスキ(1599-1665) ※ 日本語記事は無し。代わりに大洪水時代の項を記す。
ポーランド=リトアニア連合の軍人。内憂外患によってズタズタにされたポーランド軍を草の根から立て直し、スウェーデン軍を追い出してポーランドの王権を復活させた。
「チャルニィエツキがポズナンに行ったように スウェーデンとの戦いの後 国を救うため 海を渡って戻ってきた」ポーランド国歌より
-Alexander Suvorov アレクサンドル・スヴォーロフ(1729-1800)
ロシア帝国軍人、貴族。機動力を活かした速攻を得意とし、ポーランド分割、露土戦争、フランス革命戦争等で功績を上げる。世界史上でも稀な文字通りの「不敗」将軍でもある。
「戦争において金銭は尊い。人命はより尊い。それよりもなお時間は尊い」
-Tadeusz Kosciuszko タデウシュ・コシチュシュコ(1746-1817)
ベラルーシ系のポーランド貴族、軍人。ジョージ・ワシントンの副官としてアメリカ独立戦争に参戦し、その後第二次ポーランド分割に抗い叛乱を起こす。
「ポーランド人よ! お前は、このヨーロッパで不運にも自分が耐えしのんでいる苦痛は、明らかに、告訴に値するものであるとみなしているはずである」『民族解放と国家再建によせて』
-Jozef Pilsudski ユゼフ・ピウスツキ(1867-1935)
ポーランド軍元帥、首相。ポーランド独立、軍創設、そしてかのトゥハチェフスキー率いるソ連軍に対する勝利をもたらしたポーランドの英雄である。ヒトラーの危険性も見抜いていたという。
「この2つの条約がある状態というのは、ポーランドが2つの椅子に両脚を乗せているようなものである。こんな状態は長くは続かないだろう。いまやどちらの椅子からひっくり返るか、そしてそれはいつなのか、ということだ」
-Carl Gustaf Mannerheim カール・グスタフ・マンネルヘイム(1867-1951)
フィンランド陸軍元帥、軍最高司令官、後に大統領。横暴なるソ連の侵略に対して果敢に抵抗し、フィンランドの独立を守り抜く事に成功する。ちなみに探検家としても成果を残していたりする。
「自国すら守れない民族を他国が助けてくれるはずがない」
-Mikhail Tukhachevsky ミハイル・トゥハチェフスキー(1893-1937)
ソビエト連邦軍人、元帥。内乱に乗じて攻め込んできた東欧諸国の軍を撃退し、ソ連の成立を確固たるものとした。また烏合の衆だった赤軍を10年で機械化し、縦深戦術理論を構築する等軍政家としての功も大きい。
「我々の銃剣で勤労人類に幸福と平和をもたらす。西欧へ」
計12人
西欧及びその周辺の将軍、英君
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David ダビデ(BC1040-970)
古代エルサレム第二代君主。周辺の民族を打ち倒してエルサレム王権を確立したとされる。旧約聖書を聖典とした文化圏における武力の象徴でもある。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。あなたが私とともにおられますから」詩編、23篇
-Themistocles テミストクレス(BC524?-459?)
アテナイの政治家、軍人。アテナイ海軍の創始者であり、またサラミスにおいてペルシアを破ったギリシャの英雄。更に政略にも秀でていた。
「たとえ国土を喪っても、ここに祖国のために戦う二百隻の艦隊があるかぎり、未だアテナイは滅びてはいない」
-Epaminondas エパメイノンダス(BC420?-362)
テーバイの政治家、軍人。斜線陣を叩き込んだ神聖隊(*8)を率い、当時最強を謳われたスパルタ軍を破ってテーバイに覇権をもたらした。ピリッポス2世の師でもある。
「エパメイノンダスは、味方が勝ったと知らされて、いっそう喜んで死んでいった」モンテーニュによる評
-Pyrrhus ピュロス(BC319-BC272)
エペイロスの王。マケドニアを征服し、また共和制時代のローマと幾度も剣戈を合わせた戦術の天才。ハンニバル曰く、「一にアレクサンドロス、二にピュロス、そして三に自分だ」との事。
「私は商売に来たのではない。戦場で決着をつけよう」
-Philippos II フィリッポスⅡ世(BC383-336)
古代マケドニアの王。マケドニア・ファランクスを創始しスパルタを除くギリシア全土に覇を唱えた。この戦法を更に改良して前代未聞の大遠征を敢行したのが息子アレクサンドロスである。
「ヨーロッパは未だかつてこのような人物を生み出したことはなかった」
-Marcus Agrippa マルクス・アグリッパ(BC63-BC12)
古代ローマの軍人、政治家。軍才のなかったアウグストゥスに代わって彼の軍を率い、ほぼ全ての戦で決定的な役割を演じた。アウグストゥスの業績は彼がいなければ成立し得なかっただろう。
「オクタヴィアヌスの後見人にアグリッパを指名する」 ユリウス・カエサル
-Vespasianus ウェスパシアヌス(9-79)
古代ローマの軍人、後に皇帝としてフラウィウス朝を創始。一年半に渡って続いたローマ帝国の内乱を集束させ、「ウェスパシアヌスによる平和」を成立させた。
「皇帝は立って死なねばならない!」
-Afonso I アフォンソⅠ世(1109-1185)
今なお「国父」と称えられるポルトガルの建国者。オーリッケの戦いでムラービト朝に大勝して建国。更にリスボン攻防戦に参加し、第二回十字軍唯一の勝利を上げてここを首都とした。
「騎士だった父よ 今日は、われらが祝日の前夜だ 与えたまえ、全ての戒めと あなたの全ての力を! 与えよ 新たな異教徒が勝りし、誤りの時に対して 剣のような祝福を 祝福のような剣を!」 フェルナンド・ペソアの詩
-Richard I リチャードⅠ世(1109-1185)
獅子心王と呼ばれたイングランド王。その生涯の殆どを闘争に費やし、第三回十字軍で武名を上げたと思えばノルマンディーでは失地の大多数を回復してみせた。
「プランタジネット家の人々は悪魔の子であり、その獰猛性と喧嘩好きは生まれ持っての性癖である」
-William Wallace ウィリアム・ウォレス(1272?-1305)
スコットランドの勇者。スターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を破り、スコットランド人の勇気を大いに高める。彼自身は処刑されるものの、その志はロバートⅠ世率いるスコットランド人に受け継がれた。
「スコットランド、我々のもっとも大きな誇り、それは決して倒れないことではない。倒れるたびに立ち上がる、それが誇りだ」──スコットランドの詩
-Robert I ロバートⅠ世(1274-1329)
ブルース朝を創始したスコットランド国王。一度は領土の全てを失うものの粘り強いゲリラ戦を展開し、遂にはバノックバーンで三倍の敵を打ち破り、イングランドの野望を挫いた。
「我々が戦うのは、栄光や名誉のためでも、富のためでもなく、ただ自由のためなのだ。この独立のために、高潔な我々は決してあきらめず、そしていかなる犠牲をも怖れない」「アーブローズ宣言」
-Edward,the Black Prince エドワード黒太子(1330-1376)
イングランド王子。当時最新の兵科であった長弓兵を率い、数に勝っていた筈のフランス軍を一方的に蹂躙。特にポワティエではフランス国王ジャンⅡ世らを捕虜にし、その身代金でフランスの財政をも吹き飛ばした(*9)。
「自分の好きな時に大軍を率いて出頭する」
-Bertrand du Guesclin ベルトラン・デュ・ゲクラン(1320-1380)
フランスの軍人。賢明王シャルルⅤ世に見出され、後の傭兵団を彷彿とさせる合理的戦術によって百年戦争で活躍。イギリスに奪われたフランス領の大半を奪い返した。
「デュ・ゲクランの地図の彼方に、王太子シャルルは無限の空間をみつけていた。-これはルネサンス(再生)だ」 佐藤賢一著、『双頭の鷲』より
-Gonzalo de Cordoba ゴンサロ・デ・コルドバ(1453-1515)
「エル・グラン・カピターン」の異名を持つスペインの将軍。後にテルシオとなるコロネリアを組織し、更に塹壕戦を開発する等徹底的な軍政改革を行い、遂には火力を以てフランス重装騎兵を殲滅するに至る。
「良い知らせだ。これこそ勝利の光である」
-Francis Drake フランシス・ドレーク(1543-1596)
イギリスの海賊兼海軍提督。イングランドの歳入を上回る額の財宝を略奪するだけに飽き足らず、アルマダを海に沈めさえしてしまった、スペインにとっての「エル・ドラコ」である。
「海と空気は万人が共同に使うべきもの。いかなる君主も、広い大洋を自由に航行するを妨害できない」エリザベス1世
-Maurice of Nassau マウリッツ(1567-1625)
オラニエ公ウィレムⅠ世の次男、オランダ総督。軍隊の徹底的な合理化、マニュアル化を進め、更に三兵戦術の基礎を確立する等、ヨーロッパにおける「軍事革命」を起こした人物。
「2プラス2は4である」
-Vicomte de Turenne テュレンヌ子爵(1611-1675)
フランスの軍人。ルイ14世の配下として三十年戦争とネーデルランド継承戦争に参戦し、その緻密な戦略を以てフランスに勝利をもたらしている。また、皮肉な事に↓の人物の師ともなった。
「2、3の包囲戦と多くの戦闘」
-John Churchill ジョン・チャーチル(1650-1722)
イギリスのジェントリ、軍人。尋常ではない程の機動力を自慢とし、スペイン継承戦争においてフランス軍を何度も打ち破ってルイの覇権を突き崩した。ちなみにウィンストン・チャーチルのご先祖様でもある。
「早期かつ優れた諜報活動無しに戦争を遂行する事は出来ない」
-Louis-Nicolas Davout ルイ=ニコラ・ダヴー(1770-1823)
フランスの軍人、元帥。「不敗のダヴー」と渾名され、特にアウステルリッツやアウエルシュタットでは決定的な役割を果たしてドイツ戦役の趨勢を決定づけてみせた。
「かの元帥は不滅の武勇の、確固たる意志の、そして第一級の戦士たることの何たるかを体現してみせた」ナポレオン、彼の活躍を嘉して
-Arthur Wellesley ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(1769-1852)
イギリスの将軍、政治家。「鉄の公爵」の異名を持つ。ナポレオンによるイベリア半島への侵入を食い止め、遂にはワーテルローでナポレオンの野望を完全に打ち砕いた。
「恐れを知って、しかもそれを恐れざる者こそ、真の大勇者である」
-Giuseppe Garibaldi ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)
ニース生まれの軍事家。赤シャツ隊を率いて両シチリア王国を滅ぼし、これをサルディーニャに献上する事でイタリア統一に大きく貢献した。また祖国同様に自由も愛する人物で、南米や第三共和制下のフランスでも活躍している。
「我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する」
-Helmuth von Moltke ヘルムート・フォン・モルトケ(1800-1891)
プロイセンの貴族、軍人、軍事学者。その卓越した戦略を以て普丁、普墺、普仏戦争に勝利し、ドイツ統一の原動力となった。鉄道と電信の活用によって軍の機動と命令伝達を迅速化し、中央集権組織の原型を構築した人物でもある。
「計画することがすべてだ、計画書は無意味だ」
-Philippe Ptain フィリップ・ペタン(1856-1951)
フランスの軍人、政治家。軍人としては第一次世界大戦において活躍しており、特にヴェルダンにおけるドイツ軍の攻勢を頓挫させた事で「ヴェルダンの英雄」と呼ばれていた。
「私の信頼するものは愛と歩兵だ」
-Hugh Dowding ヒュー・ダウディング(1882-1970) ※ 日本語記事無し。代わりにバトルオブブリテンの項を記す
イギリス空軍大将。史上初めてレーダー防衛網を確立する等イギリスにおける防空体制の確立に務め、質量共に勝るルフトヴァッフェからイギリスを守り抜いた「バトル・オブ・ブリテン」の功労者である。
「人類の歴史の中で、かくも少ない人が、かくも多数の人を守ったことはない」 チャーチルの言
-Erich von Manstein エーリッヒ・フォン・マンシュタイン(1887-1973)
ドイツ陸軍元帥。「マンシュタイン計画」によってフランスを蹴散らした事で国際的な名声を勝ち取り、以後も「バックハンドブロウ」で赤軍を黙らせる等東部戦線で活躍した。
「敵地における機甲部隊の安全は、移動することにある」
計24人
**南北アメリカ及びカリブの将軍、指導者 [#k0ccdebe] -
John Paul Jones ジョン・ポール・ジョーンズ(軍人)(1747-1792)
アメリカ海軍提督。かのロイヤル・ネイビーを相手に大立ち回りを演じ、イギリスの通商と兵站を破壊。大西洋を跨いで遠征していたイギリス軍の力を削いでアメリカ独立に貢献した。
「こっちはまだ戦いを始めてもいないんだ!」
-Tecumseh テカムセ(1768?-1813)
ショーニー族の酋長。その強烈なカリスマで西部の諸民族を糾合し、米英戦争においてデトロイトを攻略する等の戦果を上げる。彼以降、インディアンが大連合を組む事は遂になかった。
「土地というものは、かつて分割されたことなどなかったのだ。それは我々インディアンたち全員のものだ」
-Simon Bolivar シモン・ボリバル(1783-1830)
ベネズエラ生まれの革命家、政治家、思想家。ベネズエラ・コロンビア・パナマ・エクアドル・チリ・ペルー・ボリビアを独立させた、ラテンアメリカの「解放者」である。
「歴史上最大の馬鹿者三人は、イエス・キリストとドン・キホーテと私だ」
-Ulysses S.Grant ユリシーズ・グラント(1822-1885)
アメリカの将軍、後に第18代大統領(*10)。南軍に勝る北軍の物量を正しく活かし、リー率いる南軍を消耗戦に引きずり込んで壊滅させた。
「私はかつて、平和の手段としての方法以外に戦争を主張したことがない」
-Thasunke Witko タシュンケ・ウィトコ(1840-1877)
クレイジーホースとも呼ばれたオグララ族の戦士。本名は「タ・シュンカワカン・ウィトコ(彼の奇妙な馬)(*11)」。その名の通り騎馬の駿足を生かした機動力を持ち味とし、特にリトルビッグホーン(*12)では合衆国軍を一方的に撃滅している。
「常に弱きものを助け、分け与えよ」
-Chester W.Nimitz チェスター・ニミッツ(1885-1966)
アメリカ海軍提督。癖のある部下達を上手く使いこなして、太平洋戦線、特にミッドウェーにおける勝利を引き出した。無制限潜水艦作戦で日本軍の兵站を引き裂き、継戦を困難にしたのも彼である。
「海軍に関する限り、良き戦争だった」
-William Halsey ウィリアム・ハルゼー(1882-1959)
アメリカ海軍提督。「猛牛」と呼ばれる程の勇猛な指揮に定評があり、いくつかのポカもやらかしたがそれ以上の戦果を上げて太平洋戦線の趨勢を決めた。
「海軍は理想的な軍隊だ 船に乗って撃ち合っている限り、市民に迷惑をかけることがない」
-Raymond A.Spruance レイモンド・スプルーアンス(1886-1969)
アメリカ海軍提督。合理的且つ冷静な指揮で知られる。ハルゼーの代役としてミッドウェー海戦の指揮を取り、日本軍に対して決定的な勝利を収めた。以後もニミッツの参謀長となり、多くの戦果を上げている。
「諸君、私は諸君の一人ひとりについて、いささかの不安の念も持っていないということを、先ずはっきりさせておきたい。もし一人でもそうでない人物がいたら、ビル・ハルゼーが君達をこのままにしておくはずがないからだ」
-Henry H.Arnold ヘンリー・アーノルド(1886-1950)
アメリカ陸軍、空軍元帥。第二次大戦への参戦に備えて航空隊の増強に力を注ぎ、後の空軍創設に大きく貢献した。なお米空軍元帥に叙されたのは現在に至るまで彼一人のみである。
「今日では、ある国が他の国を打ち負かすことはできない。そうした考え方は、広島とともに死滅した」
-Che Guevara チェ・ゲバラ(1928-1967)
アルゼンチン生まれの革命家。並ぶ者無きカリスマとして反乱軍の精神的支柱となり、遂にはキューバ革命を現実のものとした。その姿は世界一「格好いい」(*13)共産主義者として、今なお尊敬を集めている。
「ここにいるのは英雄ではない。ただ一人の男だ。撃て!臆病者め!」
計10人
合計86人
…こうなるから自重したんだろうなぁ、制作者は。
元々居る44人や指導者の十数人、更に君主やら予言者やらなので上げなかった方々を含めれば140近くになってしまう。
でもまだ忘れている人もいるかもしれない。
**追加したい方がいればここにどうぞ [#k0ccdebe] -
Chanakya カウティリヤ(BC350-283)
マウリヤ朝マガダ国の宰相であり軍師。チャンドラグプタの側近として冷酷なまでの辣腕を揮い、マウリヤ朝建設の礎となる。今日では「インドのマキャベッリ(*14)」と呼ばれ、『アルタ・シャーストラ(実利論)』の作者ともされる。
「臣民を法により守る王が自己の義務を遂行することは、彼を天国に導く。王が守護せず不正な刑罰を科する場合は、逆の結果となる。何となれば、王が息子にも敵にも罪に応じて公平に刑罰を科すれば、かかる刑罰のみこの世と他の世とをよく守るから」 『アルタ・シャーストラ』
-Stilicho スティリコ(365-408)
西ローマ帝国の軍人。テオドシウスの元で頭角を現した半蛮族の将軍であり、暗君ホノリウスによって処刑されるまで崩壊寸前のローマを支え続けた。塩野七生女史曰く「最後のローマ人」との事。
「あなたが示した崇高さは、太陽が完全に消え去ることはないのと同じように、人間の心から消え去ることはないだろう。あなたが人々に与えた贈物は、陽光があまねく照らすのと同じに、ローマ世界のすみずみにまで届いたのだ」 ルティリウス・ナマティアヌス 『帰郷』より
-Heraclius ヘラクレイオス(575?-641)
ヘラクレイオス朝初代皇帝。疲弊の極みにあった東ローマ帝国を立て直してササン朝を討ち、帝国東方と「聖なる十字架」を奪還。が、直後イスラムに敗北し東方を失う。その後は小アジアに防衛線を構築し、帝国防衛の基礎を作った。
「陛下、我々のために貧困に甘んじ苦難を受けられた救主が、謙遜に己れが肩に負われた十字架は、華やかで美しい衣を着て負うものではありません」 エルサレム総主教ザハリヤ
-Amr ibn al-As アムル・イブン・アル=アース(583-664)
イスラーム草莽期の将軍、政治家。パレスチナとエジプトの征服者であり、特にエジプトではたった四千騎で万単位の東ローマ帝国軍を打ち破っている。今日のカイロとなるフスタートの生みの親でもある。
「汝にエジプトから引き返すように命令する書簡が、エジプトのどこかに侵入する前にとどいたときは引き返せ。しかし汝が余の書簡を受け取る前にその地に踏み込んでいたときは、前進してアッラーの援けを乞え」 ウマル・イブン・ハッターブ
-Muhammad Ibn Abi Aamir ムハンマド・イブン・アビー・アーミル(938-1002) ※ 日本語記事無し。代わりに「レコンキスタ」を記載
後ウマイヤ朝の宰相、侍従、将軍。幼年の王を擁立して国政を掌握した上で、ベルベル人の私兵を編成して北方に侵攻。キリスト教勢力の尽くを臣従させ「アル・マンスール(勝利者)」と称えられ、また恐れられた(*15)。
「しかし遂に、神の慈悲は瓦礫の上に示され、キリスト教徒に頭を上げる事を許された。それから十二年後にマンスールは偉大なる都市メディナの手にかかり、彼の地に居座る悪魔によって地獄に引きずり込まれた」 当時は怖くて語れなかった『沈黙の歴史』
-Basileios II バシレイオス2世(958-1025)
マケドニア朝第九代皇帝。ブルガリア王国を滅ぼし「ブルガロクトノス(*16)」と呼ばれた軍人皇帝であり、周辺の敵を尽く平らげ、更に民に対しては善政を敷き、東ローマ帝国の最盛期を現出させた。
「もしあなたがふつうに皇帝と会ったとしたら、別に他の人と何も変わらないように思うことだろう。しかし馬上の彼の姿は、まったく比べようのないものである。他の騎兵と並んで馬上にある彼の姿は、まるで偉大な彫刻家の手によって造られた彫像のようであった」 ミカエル・プセルロス『年代記』
-Cnut the Great クヌーズ1世(995-1035)
デンマーク王スヴェン1世の子。戦死した父王の跡を継いでイングランドで勢力を拡大し、1016年にその王となる。その後デンマーク王を継承し、更にノルウェーやスウェーデンにも侵攻して北海に覇を唱えた。
「毎朝のように、上機嫌な戦女神がテムズの崖に転がる血塗れの武具を嘉している。オーディンの眼たるカラスは、戦に餓えしデーン人の王が、その勇猛なる剣でイングランド人の鎧を滅多打ちにする様を愉しむ事だろう」 『クニートリング・サガ』
-Baldwin IV ボードゥアン4世(1161-1185)
第四代エルサレム国王。重度の皮膚病に侵されているとは思えぬ勇猛果敢な戦を持ち味とし、あのサラディンが率いる軍とも互角に渡り合った。理想としての十字軍を体現していた希有な人物の一人。
「弱者のうちに力を現す神が、病気持ちの王を鼓舞したもうた。王は馬から降り、大地に跪き、十字架の前にひれ伏して、涙ながらに祈りあげた。そのさまを見て、すべての将兵は感きわまり、この期におよんでは、一歩も引かぬこと、馬首をめぐらすものは、だれでも裏切り者と見なすことを誓った。将兵は馬にまたがり、突撃に出た」
-Osman I オスマン1世(1258-1326)
オスマン帝国初代皇帝。ルーム・セルジューク王朝からの独立を果たし、小アジアにオスマン朝を打ち立てる。その後も東ローマ帝国等と戦い領土を広げ、大帝国の基盤を作り上げた。
「息子よ! 他のあらゆる義務を遂行する前に、神の問題を解決するのだ。神の教訓は強固な国を造り上げる。…学者、高潔な者、芸術家、文学者は国家創立の原動力となる。厚意と名誉を以て彼らをもてなせ。…そなたの民を敵の侵略と非道から守るのだ。誰に対しても不公平で道理の通らぬ真似をしてはならぬ。民を満足させ、彼らの望み全てを助けよ」息子オルハンへの教訓より
-Yi Seong-gye 李成桂(1335-1408)
高麗の武官であり、李氏朝鮮王朝の創設者。紅巾軍や元の将である納哈出を撃退する事で武名を上げ、最終的には落ち目の高麗と元を見限り武力で李氏王朝を樹立した。
「平壌城では火が燃えさかり、安州城の外では煙が立ちこめている。平壌と安州の間を往復する李将軍よ、願わくは蒼生を救いたまえ」 李成桂の開京入城を称える歌
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Skanderbeg スカンデルベグ(1405年5月6日~1468年1月17日)
本名、ジェルジ・カストリオティ(Gjergj Kastrioti)。スカンデルベグはトルコ語のアレクサンダーを意味するイスカンダル・ベイにちなむ。幼少からオスマン帝国の元に人質として出され、ムスリムに改宗するが、父の死後、領土の相続を認められ、ムラト2世の元でオスマン軍の一員として戦う。しかし1443年にオスマン帝国に反旗を翻しキリスト教に再改宗する。強力なカリスマ性で豪族が群雄割拠するアルバニア北部をまとめ上げ、ムラト2世、そしての子のメフメト2世、そして休戦中はヴェネツィア共和国やアルバニアの小豪族などを相手に戦い続け、25年にわたりアルバニアの独立を維持した。1万人~2万程度の手勢で常に倍以上のオスマン帝国と戦い勝利し続けたアルバニアの民族的英雄である
「私が自由をもたらしたのではない。自由は元々貴方達の中にあって、私はそれを見出したのだ。」 1443年クルヤにて蜂起する時に
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Hunyadi Janos フニャディ・ヤーノシュ(1409-1456)
トランシルヴァニア総督。ポーランドやヴェネツィアと同盟を結び、東ローマ帝国を滅ぼし勢いに乗るオスマン帝国の侵攻を阻止。ハンガリー王国中興の基礎を確立した。
「護り抜いてくれ、友よ、キリスト教の世界とハンガリーの王国を、あらゆる敵から…。互いに争いあってはならぬ。諸君らが内乱で力を失えば、我らの国を納める墓穴を掘るだけではなく、諸君ら自身の運命を閉ざす事になるのだから」 ベオグラードでの遺言
-Lapu-Lapu ラプ=ラプ(1491-1542)
マクタン島の領主。他の部族長がマゼランに屈する中で頑としてその要求を撥ね除け、更に激怒して上陸してきた侵略者達を返り討ちにする。(*17)
「私はどの王にも頭をさげる気はない。私が忠誠を誓う相手は、私の村の人間だけだ」 彼の記念祭で上演される野外劇より
-Giovanni dalle Bande Nere 黒隊長ジョヴァンニ(1498-1526)
イタリアの傭兵隊長。メディチ家の傍流であり、教皇レオ10世の元で軍人としての教育を受け、弱冠20歳にして教皇軍の指揮官となる。その疾風迅雷のような戦いぶりから「大魔王」とも呼ばれていた。
「おまえは戦争についてえらそうな本を書いているが、ひとつ実践してみてはどうだ」 マキャヴェッリへの言
-Yi Sun-sin 李舜臣(1545-1598)
朝鮮王朝の将軍。質量共に劣り士気すらも無い朝鮮水軍を率い、焦土戦術を含むありとあらゆる戦術を尽くして果敢に日本軍に抵抗。最終的には戦死するものの今日において英雄と称えられている。
「死を覚悟して闘えば生きるだろう、生きるために闘えば死ぬだろう」
-Granny Nanny グラニー・ナニー(?-1733)
ジャマイカの反乱指導者。第1次マルーン戦争において逃亡奴隷の町「ナニータウン」を組織し、イギリス軍の度重なる攻撃を全て撥ね除ける。この奮闘が、マルーン達に土地と自由をもたらす事になった(*18)。
「丘を見下ろす者は 紫のローブをまとい 敵の歯を腕輪にして 足首に纏うは 象牙色の骨の輪」グレース・ニコルズの詩
-Toussaint Louverture トゥーサン・ルーヴェルチュール(1740?-1803)
ハイチの独立指導者。イギリス軍の将校としてフランス軍を叩く事で奴隷解放宣言を引き出し、その後はフランスの力を利用しつつイギリス、スペインを追い出しイスパニョーラ島の奴隷を全て解放した。
「兄弟と友よ、私はトゥーサン・ルヴェルチュールである。名前は恐らく君たちのお陰で知られるようになった。私は我が人種への復讐を果たそう。私はサン=ドマングに自由と平等に拠る統治を望む。私はこれを実現させよう。兄弟たち、私と共に闘う者たちよ、集まれ。奴隷制の木を根刮ぎにしよう」
-Gerhard von Scharnhorst ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト(1755-1813)
プロイセンの軍人。史上初めて参謀本部を創設し、平民に士官学校の門を開くなどプロイセン軍の刷新に貢献。諸国民解放戦争において戦死するが、彼の作戦がナポレオンを打ち破っている。
「我が軍の士官は指揮のなんたるかを知らなかった。なんらかの働きをしたものはあまりにも少なかった。多数の要塞は理由もなく降伏して高級将校たちの恥ずべき実態をさらけ出した」 イエナ・アウエルシュタットへの述懐
-Carl von Clausewitz カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780-1831)
プロイセンの軍人、軍事学者。軍人としての功績には目立つものは無いが『戦争論』によって軍事科学史に不滅の名声を築いた。なおシャルンホルストの弟子であり大モルトケの師でもある。
「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」 『戦争論』
-Rani Lakshmibai ラクシュミー・バーイー(1835?-1858)
インドの小王国ジャーンスィーの王妃。23歳で戦死するまでイギリス軍に頑強に抵抗し続けた、インド大反乱の象徴とも言える「インドのジャンヌ・ダルク」である。
「我がジャーンスィーは決して放棄しない」
-Pancho Villa パンチョ・ビリャ(1878-1923)
メキシコの革命家、義賊。元は山賊だったがアブラハム・ゴンサレスの薫陶を受け改心。以後は義勇軍を率いて、混乱するメキシコで民衆の為に戦い続けた(*19)。
「ビリャはチワワ州の軍政官を名乗り、30万人のための新政権を、知力をかたむけて創設するという途方もない実験―なぜなら彼はそんなことに何の知識もなかったのだから―を開始した」 ジョン・リード
-Leon Trotsky レフ・トロツキー(1879-1940)
ウクライナ出身の革命家、思想家。単なる一揆でしかなかった赤軍を厳しい規律でまとめ上げ、内外の障害を排除してロシア革命を成立せしめた。悪名高い政治将校の生みの親でもある。
「最もすぐれた兵士とは、赤軍においては断じて、最も従順で不平を言わない兵士のことを指すのではない。逆に、最もすぐれた兵士とは、何事においても、他の兵士よりも鋭く、注意深く、批判的な兵士だろう」
-Karl Donitz カール・デーニッツ(1891-1980)
ドイツ海軍元帥。群狼作戦を編み出した潜水艦戦術のスペシャリストであり、一時は実質Uボートだけで大西洋を制圧してみせた。ヒトラー死後は降伏交渉の総責任者も務めている。
「海戦はUボートの戦いだ。あらゆるものが、この主目的に従属する」
-Josip Broz Tito ヨシップ・ブロズ・チトー(1892-1980)
ユーゴスラビアのパルチザン指導者、後に大統領。ネレトバ等で示された巧みなゲリラ戦術によって独力でユーゴ解放を成し遂げる。政治家としての能力も傑出したものであった。
「私の治める国には2種類の文字3種類の言語4つの宗教があり6つの共和国の中に5つの国籍と8つの少数民族が存在する。さらに我が国は7カ国と国境を接している」
-Kim Suk-won 金錫源(1893-1978)
大韓民国、及び大日本帝国軍人。自ら前線に立つ勇猛果敢な猛将であり、日中戦争では抜群の働きで民族の誇りを見せつけ、朝鮮戦争でも他国籍軍による反撃を引き寄せ韓国を護った。
「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。よろしい。日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやりましょう」 マッカーサーの司令官着任に際し
-Bai Chongxi 白崇禧(1893-1966)
中華民国の将軍であり、広西軍閥の長。北伐においては北京への一番乗りを果たし、抗日戦線では総力戦を指揮して日本軍を撃退、更に国共内戦で唯一の勝利を上げる等、「小諸葛亮」の渾名に恥じぬ名将である。
「敵を撃退し中国から追い出す、これが徹底抗戦の意味です」
-Fidel Castro フィデル・カストロ(1926-)
キューバの革命家、軍人、後に国家元首。蜂起時の仲間は十数人しかいなかったにも関わらず、わずか二年で市民の意思を掌握。バティスタを追放してキューバ革命を現実のものとした。
「私を断罪せよ!それは罪ではない。歴史は私に無罪を宣告するであろう」
-
[name> 名前(生没年)
寸評。
「逸話、名言、後世の評価、史書の記述等々」