アットウィキロゴ
ダンゲロスSS上海
掲示板 掲示板 ページ検索 ページ検索 メニュー メニュー

ダンゲロスSS上海

陰と陽

最終更新:

dangerousss_shanghai

- view
管理者のみ編集可

前回までのあらすじ

狐の面を被る武人、拳狐(チュアンフー)は上海大賽を勝ち進みながら、強者を炙り出す自らの企みを進めた。
その舞台は、上海蟹ランド。
幻覚の騎士クラム・ハードシェルが守る、貴婦人のダイヤを巡る戦いである。
復讐者とその相棒、強欲な海賊、謎の中国人。
さまざまな魔人が争う騒動の末、拳狐はクラムとカニデレラ城で対峙し、これに勝利した。
だが、拳狐はクラムから貴婦人のダイヤを奪わず、代わりにダイヤを奪ったという噂を流布して現在に至る。

一方、上海の民間組織『清海』に所属する海圻(ハイチ)は、ダイヤの欠片を身に宿した金剛シグリを護衛しながら、ある依頼を遂行した。
その依頼とは、地下大放水路に仕掛けられた時限爆弾の解除である。
海圻は槌唄塔也をはじめとする仲間たちと協力しながら難敵を退け、時限爆弾の在処へと到達した。
最後に牙を剥いたのは、シグリと同じくダイヤの欠片の力を使う蘇絲織とその部下、雷雅忠。
激戦の末、海圻たちは蘇と雷に勝利し、その身柄を拘束した。
しかし、ダイヤの欠片がいかなる存在であるかは、まだ謎に包まれたままである。

上海全域で数々の騒乱が起こる中、次なる運命は両者をグランドスラムへと誘う……。

設定を採用するSS一覧

以下は、本SSを書くにあたって設定を採用するSSである。
下記の内容全てを確認する必要はないが、イタリック体で書かれた「前提となる情報」を把握しておくと、本SSをよりスムーズに読み進められるだろう。
複数のSSから設定を採用しているため、設定間の齟齬が生じる可能性があるが、多少の矛盾には目をつぶっていただきたい。
また、『虚と実』以外のSSから採用された設定は、最終戦で修正される可能性がある。

SSの内容を完全に採用する(基本の正史)。

前提となる情報――拳狐は上海蟹ランドでクラム・ハードシェルに勝利し、貴婦人のダイヤを奪った(ように見せかけた)。また、そのことを謎の中国人『R』や情報屋を通じて、上海全域に噂として流布した。

SSの内容を全体的に採用する。
ただし、蘇絲織らとは戦闘になり、最終的に『清海』が昏睡状態で身柄を拘束したものとする(白髪黒羽による説得シーンはなかったこととする)。
また、金剛シグリと日ノ御子神楽が同級生である設定は採用しない。

前提となる情報――海圻と金剛シグリは、槌唄塔也ら複数の魔人と共に、地下大放水路の爆破を阻止した。

対蘇&雷戦の描写を一部採用する。
蘇絲織はダイヤの欠片の力を使って戦い、海圻らに敗れた後は昏睡したものとする。

前提となる情報――金剛シグリ以外にもダイヤの欠片を持つ者がいた。また、ダイヤの欠片は使用者の精神に対して何らかの影響を与える可能性がある。蘇絲織と雷雅忠は昏睡し続けており、話を聞ける状態ではない。

SSの内容を全体的に採用する。
ただし、清王朝のダイヤの仕様について、そのまま採用するかは最終戦まで未定とする。
現時点では、劉炎嵐が何らかの形で清王朝のダイヤを所持していることのみを確定する。

前提となる情報――上海大賽で、拳狐と劉炎嵐は危なげなく連勝している。劉炎嵐が清王朝のダイヤを所持しているという情報が上海全域に広く知られた。

SSの内容を全体的に採用する。
ただし、ダイヤに関する設定(麒麟の涙)は採用せず、爬・巳・狸・魔都によるダイヤの説明は別の内容に置き換わる(具体的な内容は最終戦まで未定とする)。

前提となる情報――張三と林希美による『破幇同盟』は、貧民街において魔幇の幹部であるカリー・魔幣を撃破した。林希美は本人も知らないうちに、ダイヤの欠片をその身に宿している。

SSの内容を全体的に採用する。

前提となる情報――屋台街における騒動を通じて、双喜のダブル・ハピネス・キャンペーンがより広く知られるようになった。上海全土における清王朝のダイヤへの関心は、さらなる高まりを見せている。

SSの内容を全体的に採用する。
ただし、冒頭部分の「清王朝のダイヤ」を「ダイヤの欠片」に書き換える。

前提となる情報――新作映画発表会場がアマゾンと化す事件が発生した。桃猫は、ダイヤの欠片がもたらす力の暴走によって異形と化した存在である。

  • 鞍馬山を戦場とする1回戦SS
設定の採用について、最終戦まで判断を保留する。

前提となる情報――鞍馬山で何が起きたのか、現時点で知る者はいない。

本SSにおける文字の表記

キャラクター説明などで簡体字となっている中国語を、繁体字で表記する場合がある。

本SSにおける主要人物の一人称

以下は、本SSに登場する主要な人物の一人称である。
台詞を喋っているキャラクターが誰であるか、判別しやすくするため記載する。
  • 拳狐 ― (おれ)
  • 海圻 ― 俺
  • 金剛シグリ ― おれ
  • 華甲 ― 私
  • 陽堂堂 ― オレ
  • 叩頭卿 ― (わし)

グランドスラム。
魔都上海に存在する規格外のスラム街。
上海で最も治安が悪い地域がどこかと問われれば、まず名前の挙がる場所と言って良いだろう。
魔幇ですら全てを支配しきれていないと言われる闇深き街。
その街の中を、海圻と金剛シグリは進んでいた。

視線の先には廃墟としか思えぬ建築物が立ち並び、陽光が差す小道には瓦礫が散乱している。
かと思えば、崩れかけた家屋を出来合いの材料でこれでもかと増築した異様な建物が顔を出すのだ。
暴力の衝突による破壊と、歪ながらたくましい再生が同居する街。
それが、今回の任務の舞台である。

()ラァ!舐めてんのか!」

()ャッハー!金目の物を寄こしやがれーっ!」

()ヒャー!吾輩の勝率は99.99パーセントですよォォ!」

()ンピラ、()ヒカンザコ、()ヒャリスト。
突然現れた三人の男が、海圻へと襲い掛かる。
上海の他の場所であれば話にならない三下も、ここグランドスラムでは一段上を行く。
その呼び名とは裏腹に、油断すればすぐさま命を落とすこととなるだろう。

「はァッ!」

だが、いくら一段上を行くと言えども、万全の状態にある海圻の敵ではない。
気を巡らせた右脚が男達を薙ぎ、文字通り一蹴した。

「よいしょっと」

横からシグリが《金剛糸繰》を使い、気絶した男達にダイヤの糸を放つ。
たちまちダイヤの糸は絡みつき、見事捕縛に成功する。
目覚めたとしても、しばらくは身動きは取れないはずだ。

「シグリ、さっきも言ったがここではあまり能力は使うなよ」

海圻はシグリにそう忠告した。
能力を使う機会が増えるほど、シグリがダイヤの欠片を持つという情報はバレやすくなる。
もしダイヤの欠片に関する情報が魔幇の耳に入れば、シグリの身の安全は揺らぎ、『清海』の立場も危うくなるだろう。

二人が今、グランドスラムにいる理由は、反抗勢力の鎮圧のためである。
魔幇によれば、反抗する魔人達が徒党を組み、グランドスラム外への侵攻を企てているのだと言う。
『清海』が無関係の人間を魔人同士の争いから遠ざけることを理念とする以上、魔幇からの依頼を断る理由はなかった。
それに加えて、魔幇に協力する姿勢を見せておくという意味もある。

任務の依頼者が魔幇である以上、魔幇の息がかかった者に遭遇する可能性は普段より高い。
さらには、蘇絲織らが昏睡し続けているため、ダイヤの欠片の暴走についても何ら情報を得られていない。
不必要に能力を使うことは避けた方が良いと、海圻が考えるのも当然と言えた。

「海圻は心配性だな~。気絶してから使えば問題ないって!しっかり縛っておかないと、いくら倒してもきりがないよ」

シグリの言い分にも理がない訳ではない。
二人がグランドスラムに足を踏み入れて以降、何度も今のような賊に襲われている。
それらの賊は、反抗勢力と関わりがあるようには見えなかった。
つまり、素の治安の悪さということになる。
手軽に再戦を防げるという面で、《金剛糸繰》による捕縛は実に有用と言えた。

「それはそうだが、油断は禁物だ。華甲(ファージャ)さん、モニタリングは順調か?」

『ええ。今のところ、通信を妨害される気配はないわ。魔幇から指定されたポイントまではまだかかりそうだけどね』

海圻は通信用の端末を通じて、オペレーターの華甲と連絡を取った。
無秩序に成長したグランドスラムの構造は、まるで来訪者を迷わせるために作られたかのようだ。
広大な迷路の中を進むにあたって、適切なガイドは欠かせない。

「了解。このまま警戒しつつ、ポイントを目指す」

そう返答した海圻は《四霊随身》を使い、周囲を自身の気で満たす。
《四霊随身》は身中の気を増幅させ、自他に影響を及ぼす海圻の能力である。
空間を気で覆えば、その中の状況を見聞きしたように把握することも可能だ。
いつ誰に襲われるか分からぬグランドスラムで、シグリを護衛しながら無理なく進めるのも、この《四霊随身》あってのことと言ってよい。

「とりあえずもう危険はなさそうだな。シグリ、足元には気を付けろよ」

「海圻、心配しなくても大丈夫だって。おれだって、道を歩くぐらい……うわ、おっとっと」

海圻に視線を向けながら歩くシグリは小さな瓦礫に足を取られて、バランスを崩しそうになる。

「言ったそばから……」

海圻は若干呆れつつも、気の領域を展開したまま前を歩く。
こちらを窺う影は幾つかあるが、襲い掛かってくる様子はない。
金品を奪い取れる相手かどうか、品定めをしていると言ったところだろう。
加えてそれらの影が発する気に、こちらを呑み込むような圧はなかった。
仮に襲ってきたとしても、返り討ちにすることは難しくあるまい。

この調子なら、指定のポイントに到達するまでそれほど苦労はなさそうだ。
しばらく歩き続けて、そんな考えが海圻の頭によぎった頃である。
突如、火花のような感覚が海圻の中を走った。
本能的な危機察知だ。

海圻とシグリの進む方向に、血に濡れた死体がいくつも転がっている。
そして、その死屍累々の場でたたずむ男が一人。
白い狐の面を纏った顔が、静かにこちらを向いた。

「今すぐ下がるんだ、シグリ!」

海圻は思わず叫んでいた。
視線の先に死屍累々の光景が見えたからではない。
《四霊随身》の領域が狐面の男に触れた瞬間、恐ろしいほど鋭い気がこちらを刺してきたからだ。
山中で音のした方向に視線を向けたとき、茂みの中に潜む猛獣と偶然目が合ってしまった。
例えるなら、そういう感覚に近い。

「え、なに何?」

シグリは戸惑いながらも海圻の言葉にしたがい、後方へと退く。
困惑の中でも自然と身体が動いてしまうだけの気迫が、海圻の叫びにはあった。

「――掌握」

海圻は意識を集中し、狐面の男の力量を読み取ろうと試みた。
《四霊随身》で増幅した気は、海圻にとって身体感覚の延長に近しい。
手に力を込めれば物を握れるのと同様に、注力すれば対象の状態をつぶさに把握できる。

鍛え抜かれた肉体、全身に巡る豊潤な気。
さらに羽織ったコートの下には、いくつもの武器の気配がある。
気を通じて伝わる情報は、狐面の男が強者であることをまざまざと示していた。

(強いな……)

狐面の男が放つ闘志が、濁流のごとき勢いで押し寄せる。
その勢いに圧されながらも、海圻は冷静に状況を分析した。

(幸い、まだ距離はある)

海圻の選択は、後の先。
《四霊随身》による探知で敵の動きを見極め、カウンターで一撃を当てる戦法だ。
狐面の男はコートの下に、縄鏢のような投射武器も隠し持っている。
だが武器の射程から考えて、直ちに脅威となるようなものではあるまい。
攻めの起こりを見てからでも十分対応は間に合う、そういう算段であった。

対する狐面の男は、顔を海圻に向けたまま不動を貫いていた。
必然、戦いは睨み合いとなる。
しかし、戦況の変化は不意に訪れた。

「ぐおッ……」

狐面の男が放った右拳が、海圻の鳩尾に突き刺さっていた。
先刻まで遠くに見えていた白い面は、今まさに海圻の目の前に在る。
テレポートでもしたかのように、狐面の男はその位置を変えていた。

(何が起こった?!)

海圻は痛みに悶えながら、目の前で起きた現象に混乱する。
《四霊随身》による探知は、攻めの起こりを何一つ伝えていなかった。
まるで時間が吹き飛ばされたかの如く、唐突に拳が当たった。
海圻の視点から見れば、起きた事象はそのような説明になる。

だが海圻もまた、数々の修羅場を潜り抜けてきた猛者だ。
混乱しつつも、その肉体は危機的状況を凌ぐべく無意識に動く。
探知のために展開した気を自らへと引き戻し、全身に巡らせた。

《四霊随身》の使い道は、周辺の探知ばかりではない。
増幅した気を全身に流せば、驚くべき身体強化をもたらす。
元々鍛え抜かれた海圻の肉体は、銃弾をも止めうる堅固な鎧となる。
続けざまに狐面の男が繰り出した二撃目を、海圻の身躯はしかと受け止めた。
痛みは生じるものの、一撃目と比べれば物の数ではない。

「四霊、我が身に来たれ――」

狐面の男の攻撃を受けるや否や、海圻は素早く技の仕掛けに入った。
堅固な鎧を成す気を攻めに転じれば、鋼鉄をも砕く強力な武器となる。

「掌勁―――『玄武打』」

膨大な気を纏った左の掌が、狐面の男の肚を打つ。
点ではなく、面で攻める波濤の衝撃。
その一撃は見事命中するも、致命打とはならない。
敵を吹き飛ばすに留まった。

(手応えがおかしい……内功で弾かれたか……?)

海圻は左の掌より伝わる感覚に、若干の戸惑いを覚えた。
敵が自らの気を以て、こちらの気を相殺したということはありうる。
しかし、それだけでは説明が付かない違和感のようなものがあった。
当たり所をずらされた、とでも言うべきだろうか。

『海圻。今戦っているその男、上海大賽出場者の拳狐よ。画像データを比べてみたけど、まず間違いないわ』

「拳狐?!」

華甲からの通信に、海圻は驚きを隠せない。
現在、上海大賽には優勝候補を次々と打ち破り、上海覇者の本命と目される二人の男がいる。

一人は『紅虎(ホンフー)(リュウ)炎嵐(ホェンラン)
上海随一の実力を誇る解決屋として知られる男。
怒りっぽいのが玉に傷だが、善性溢れる熱き格闘者だ。
海圻がいつか手合わせ願いたいと考えているうちの一人である。

もう一人が『拳狐』。
号名のみを名乗り、表舞台に突如現れた謎の武術家。
仮面で隠された素顔を見た者はおらず、出自も全くもって不明な男だ。
しかし、次々と猛者をなぎ倒したその強さだけは疑うべくもない。

海圻は元来、武をぶつけ合うことに喜びを覚える男である。
シグリの護衛と爆弾解除の依頼に専念していたとは言え、上海大賽に興味関心がない訳ではない。
試合の映像を見てはいないが、注目の選手の名ぐらいは承知していた。
もっとも、拳狐が狐の面を被っているとは知らなかったが。

その拳狐がなぜ今、グランドスラムにいるのか。
当然の疑問が海圻の頭を駆け巡る。

「如何にも。己の名は拳狐――」

海圻の驚きに応えるように狐面の男、拳狐は名乗った。

「しかし、なかなかの気の練りよ。その点においては、己を上回るかもしれぬ」

拳狐は、海圻が全身に巡らす気を率直に褒め称えた。
だが、それは単なる称賛ではない。
その点以外で負けるつもりはない、と宣言しているに等しい。

『魔人としての能力は、静止した時間に応じて加速する《為逸速的一息(いっそくがためのいっそく)》よ。拳狐本人が、勝利後のインタビューでそう公言しているわ。試合映像を見る限り、嘘ということはなさそう』

華甲からの通信を聞いた海圻は、すぐさま拳狐へと接近した。
静止時間が加速をもたらすなら、睨み合いは相手を利することになる。
そう理解したからだ。
先ほどの攻撃が不発に終わった理由も、おそらくは後方への加速によるものだろう。

海圻は、気を籠めた両の拳で連打を放つ。
一発あたりの威力は低くとも、避ける隙を与えないことを優先した。

対する拳狐は両腕を十字に組み、受けの姿勢に徹していた。
不動の構えで耐えながら、反撃の機会を窺っているように見える。
海圻の連打が拳狐の守りを崩すのが先か、拳狐の静止が海圻を屠るに足るのが先か。
戦いは、我慢比べの様相を呈していた。

「はっ」

しかし、その状況は一変する。
突然地面から瓦礫が飛び上がり、海圻の胴にぶつかった。
《為逸速的一息》。
拳狐は、左足で瓦礫を軽く蹴り上げていた。
足元で静止していた瓦礫は尋常ならざる速度を得て、海圻の身体を宙へと浮き上がらせる。

(っ…!加速できるのは自分の肉体だけじゃないって訳か!)

瓦礫の衝突によるダメージは、先ほど喰らった拳と比べればごく軽いものだ。
だが、浮き上がった海圻の位置は、拳狐が右拳を繰り出すのに絶好の場所。
拳狐が十字の構えを解いて拳打を放てば、悶絶必至と言う他はない。

「胆より出づる雷風も、金堅固なればこれを断つ!」

海圻は即座に全身の気を操り、次なる拳打に備えて守りを固めた。
拳狐の称賛を素直に信じるなら、気の総量においては海圻が上を行く。
即ち気を全て防御に回して備えれば、拳狐の攻撃に耐えうるということだ。
仮に拳狐が気で勝るとしても、相殺してダメージを抑えられる。
どちらに転んでも損はない。

拳狐が構えを解く。
しかし、次の動きは海圻の予想と違っていた。
気付けば拳狐の手が、海圻の手首と肘を掴んでいる。

拳狐の選択は、投げ。
宙に打ち上げた勢いそのままに、海圻の腕を取って投げ飛ばそうというのである。

(やられた)

海圻の胸中に焦りが走る。
投げられること、それ自体は問題ない。
地面に叩き付けられたとしても、衝撃は全身を満たす気で和らげられる。
だが、姿勢を崩した状態で拳狐に“上”を取られるのはまずい。
マウントポジションを取られての連打、頭蓋への踏み付け、動きを制する関節技。
いずれにしても勝負が決まりかねない。

(それならこうだ)

海圻は自身の気を噴出し、投げの勢いをあえて加速した。
気を自らから切り離し、気弾として放つのは至難を極める。
だが、単に身体の外へ噴出するのみであれば、支障はない。
海圻の身体は素早く回転し、そのまま地に足が着く。
たちまち両者の立場は逆転し、今度は海圻が投げる側となった。

無論、これを黙って見ている拳狐ではない。
すかさず海圻の腕を掴んだ手を放し、ふわりと宙に舞う。
軽やかな着地は、水鳥のそれを思わせた。

「ふむ。どこの誰か、名を聞いておく価値はありそうだ」

拳狐は、愉快そうに尋ねた。
口元には笑みが浮かんでいる。
相手と戦うのが楽しくて仕方ない、そういう笑みであった。

「俺は『清海』の海圻だ」

海圻は拳狐の問いかけに対し、素直に名乗った。
『清海』は、秘密組織ではない。
海圻の素性に辿り着くには、少し情報を調べるだけで済む。
あえて隠す意味もなかろう。

「『清海』……?」

海圻の名乗りを聞いて、拳狐は怪訝な表情を浮かべた。
表情と言っても、口元とわずかに見える瞳の動きのみではあるが。

そのときであった。

「海圻、やっぱりおれも手助けするよ!」

後方に退いていたシグリがいきなり現れ、拳狐に向けてダイヤの糸を放った。
拳狐は難なくこれを躱し、シグリの方に視線を向ける。

(まずい!)

海圻の心に再び焦りが生じる。
これまで拳狐と渡り合えていたのは、一対一の状況であったからだ。
もしシグリを庇いながら戦うとなれば、拮抗状態は崩れる可能性が高い。
シグリの《金剛糸繰》を計算に入れても、不利になることは間違いなかろう。

「……おぬしら、もしや謀られた側か?」

だが、シグリの乱入に対する拳狐の反応は、意外なほど冷静なものだった。
先ほどまで滾っていた闘志は露と消え、気は穏やかに凪いでいる。

「どういう意味だ?」

海圻は、拳狐に問い返した。

「人を罠にかけようという輩が、こんなひよっ子を連れてくるとは思えぬ。ましてや『清海』に属すると聞いてはな」

「ひよっ子っておれのこと?」

拳狐の言葉に対して、シグリが無邪気に問うた。

「おぬし以外に誰がいる。敵を絡めとろうとするときに、全ての糸を敵に放ってどうする。せめて、避ける先に数本糸を置いておけ」

二人のやりとりは、武術を教える師匠とその弟子を思わせる。
もはや拳狐に戦おうという意志は感じられない。

「……とりあえず、矛を収めるということで良いか?」

海圻はそう確かめた。
拳狐の話には、まだよく分からぬ点もある。
しかし相手が紛れもない強者である以上、対話で解決できるなら、その方が良いだろう。

「うむ。もうすぐ昼飯時だ。何かつまみながら話すとしよう」

そう言うと拳狐は振り返り、おもむろに歩き始めた。
右手を上げ、クイックイッと指を動かす。
ついてこい、ということらしい。

『拳狐の進行方向は、指定ポイントへのルートと一致しているわね。ひとまず、ついていっても問題はないと思うわ』

「なんか思い違いがあったみたいだし、行ってみようよ海圻」

「……行くか」

そういうことになった。

グランドスラムに点在する()ラックマーケット。
そこは裏市場の枠を越えた、上海随一の取引場所である。
()ストル、()ラッグ、()ミテーション。
取り扱われる違法(いほう)な品は、一見阿呆(あほう)に思えても一段上の質を持つ逸品ばかりだ。

人が住まう場所である以上、当然飲食物を扱う店もある。
崩れかけた廃墟(ビル)に店を構えた居酒屋(バル)の中、海圻たちは一つの卓を囲んでいた。
通信をオープンにした華甲も含めれば、四人の席ということになる。
卓上には、拳狐が勝手に注文した()こ焼きが並んでいる。

「え~と、これ食べても大丈夫なやつ?」

目の前で湯気を立てる()こ焼きを、シグリは怪しい物を見る目つきで眺めている。
それもそのはず、ソースのかかった生地の中から極彩色の具がはみ出ていた。

「見た目はあれだが、味は美味いぞ。入っている具は、海の底にいる魚という話だ。少なくとも食い物に関しては、まあ外れの心配はない」

拳狐はそう言いながら、毒見とばかりに()こ焼きに爪楊枝を刺し、口へ運んだ。

「だが、ここで酒を買うのは止めておけ。(さけ)飲ん(のん)だが最後、その場で転け(こけ)て永久にねん(ねん)ねということになりかねん」

依存者向けの商売は阿漕だからな、と拳狐は笑う。

「それで拳狐。あんたがさっき言っていた、謀られた側というのはどういう意味だ?」

少し食が進み、落ち着いたところで、海圻が拳狐に問いかけた。
拳狐がなぜ矛を収めたのかという疑問は、まだ解消されていない。
さらに謀られたという言葉の響きには、未だ知らない危機の気配が感じられる。

「ふむ。その問いに答える前に、一つ確認しておきたいことがある。おぬしら、なぜこのグランドスラムに足を運んだ?」

「反抗勢力がグランドスラムの外への侵攻を計画しているらしい。その対処に手を貸すためにやって来た。探知能力を持つ人間が足りないという話だ」

問い返された海圻は、偽ることなく自らの任務を明かした。
下手にごまかすよりも正直に話した方が良いと、拳狐の雰囲気を見て判断したからだ。
拳狐が反抗勢力に与する者という可能性もあったが、反応を見る限りその心配はないらしい。

「依頼者は魔幇絡みか?」

「ああ」

「ならば、やはりおぬしらは謀られた側ということになるな」

拳狐が語るには、こうだ。
グランドスラムに反抗勢力は確かに存在するが、外部への侵攻を企てる動きは今のところない。
現在、騒ぎの中心となっているのは、清王朝のダイヤに関わる者たちである。
ダイヤを持つと噂される者、ダイヤの情報を売ったと言われる者、ダイヤの強奪を狙う者。
そういった者たちが、魔幇の謀略によってグランドスラムに集められている。

「つまり、此処はダイヤを求める魔幇の(かり)場というわけよ。怪しい奴をまとめて(おり)に入れ、一網打尽を企んでいる」

あくまでも己が集めた情報から推測すればだが、と拳狐は付け加えた。

「えっ!じゃあ、おれのこと、もうバレバレってこと?!」

『もし魔幇がシグリ君の情報を知っているなら、不味いわね』

「ああ。『清海』の拠点に攻撃を仕掛けてくる可能性もある」

清王朝のダイヤを探す魔幇の立場からすれば、ダイヤの情報を秘匿した『清海』は反抗勢力の一つということになるだろう。
無論、その叛逆は『清海』のリーダーであるガングートも承知の上だ。
しかし、実際に情報が流れているとなれば危険度は段違いとなる。

「いや。その可能性は低かろう」

焦る海圻たちを前に、拳狐は落ち着いた声でそう言った。

「魔幇の関心事は、何と言ってもダイヤの行方だ。ダイヤの捜索以外に回す余力は、それほどあるまい。『清海』を潰すにしても、確かな証が揃ってからにするだろうよ」

いくら魔幇と言えども、公に知られる組織を潰すにはそれなりの建前が必要だ。
シグリの身柄が奪われない限り、『清海』には弁解の余地がある。
極端な話、海圻が独断でやったことにしてしまえば、ある程度の時間は稼げるはずだ。

「……一理あるな」

海圻は、急いた心を落ち着かせた。
どちらにせよ、今グランドスラムにいる海圻にできることは少ない。
であれば、シグリを守ることに集中するべきだ。

『こちらはリーダーに連絡して、最悪の事態に備えておくわ……ところで、拳狐さん』

「何だ?」

『聞いた話からすると、あなたも騙された側ということかしら?』

回線の先から、華甲は拳狐に問いを投げかけた。

「華甲さん、どういう意味だ?」

『拳狐さんが七色に輝く騎士を倒して、ダイヤを手に入れたという話が出回っているのよ』

海圻が拳狐と戦っている中、華甲は拳狐の情報を集めていた。
拳狐が流布したダイヤの噂を目にしていたのも当然である。

「そこまで噂が広がっていたか。梟は上手く羽ばたいたと見える」

意味ありげに呟いた後、拳狐はこう続けた。

「騙された側かという問いに対する答えは是であり、否でもある。己は罠が仕掛けられていると知りながら、あえて飛び込んだのでな」

拳狐は、海圻たちに自らの策を明かした。
上海大賽に強者を呼び込むため、清王朝のダイヤを利用しようとしたこと。
そのために上海蟹ランドでクラム・ハードシェルを打ち破り、ダイヤを奪ったこと。
ダイヤ強奪の事実を、故意に噂として流布したこと。
その噂を聞き、自分を罠にかけようとする相手の思惑にあえて乗ったこと。
貴婦人のダイヤの真偽は伏せつつも、事の詳細を伝えた。

「強者を呼び込む策については、紅虎の方が上手くやったと言える。上海大賽の場でダイヤを見せつけるとは、奴らしい派手なやり方よ」

拳狐は笑いながら、そう言った。

「だが、己の策も無為ではなかった。まだ見ぬ強者と戦う機会が生じたのだからな」

「じゃあ、さっきのは海圻のことを罠にかけた人と勘違いしたってこと?」

シグリがそう問いかけた。

「然り。死体を見つけた折に、あれほどの気をぶつけられてはな」

「あれはあんたの仕業じゃないってことか」

「当たり前だ。将来の敵手を失うような真似をしてたまるか。己が手を下すとすれば、我欲で他人の命を奪う外道だけよ」

拳狐の言葉を聞いて、海圻は警戒を緩めた。
戦闘狂の類であることは間違いないが、拳狐なりの道理があると知ったからだ。
命を奪わず互いの力量を競い合うということであれば、海圻にもそれを好む心はある。

「それなら、もう海圻と戦う理由はないってことだね」

安心感から笑みを浮かべたシグリが、そう話す。

「まあ正直に言えば、あのまま戦い続けても良かったのだがな。このグランドスラムにひよっ子を一人残していくのは流石に気が引ける」

「拳狐さん、そのひよっ子っていうの止めてくれない?おれには金剛シグリっていう立派な名前があるんだからさ」

「おっと、これは失礼したな。ひよっ子のシグリよ」

拳狐はからかうように、シグリの名を呼んだ。
口元に見える笑みからすると、どうやら面白がっているようだ。

「うわ~ひどいよ拳狐さ~ん」

(案外、シグリと相性が良いかもな)

二人の様子を見ながら、海圻は心の中でつぶやいた。

『海圻、これからどうするつもり?拳狐さんの話を信じるなら、指定ポイントに行くのは危険ってことになるわよ』

「ああ。だけど魔幇の狙いがシグリなら、グランドスラムから安全に出られるとも限らない」

魔幇がダイヤに関わる者を一網打尽にするつもりなら、当然逃げ出す相手への対策もあるはずだ。
グランドスラムの出入口が封鎖されていてもおかしくはない。
さらには魔幇からの依頼を無視することにもリスクがある。

「指定ポイントというのは何処のことだ?」

不意に横から拳狐が口を挟んだ。

『マップデータを出すわ』

拳狐の言葉を受けて、華甲はデータを送信した。
通信端末の画面に、上空から撮影したグランドスラムの写真と、指定ポイントを示すマーカーが表示される。

「ふむ。己を誘った相手が指定した場所もここだな。どうだ、おぬしらも共に来るか」

「拳狐、あんたはこのまま指定されたポイントに行くつもりか?」

「無論だ。罠が仕掛けられているならば、正面から喰い千切ってやれば良い。己は元よりそのつもりで此処にいるのだからな」

拳狐の目的は、強者と戦うことだ。
敵が待ち構えているというのであれば、そこに罠があろうと関係はない。
罠ごと打ち倒してしまえば良い。
拳狐の言葉はそういう闘志で満ちていた。

「一緒に行けば、シグリの護衛に協力してくれるか?」

海圻は、拳狐に共闘の意志があるかどうかを確認した。
拳狐の強さは、先ほどの手合わせで身に染みている。
もし手を貸してもらえるなら、一人でシグリを守りながら脱出を試みるよりも勝算があるだろう。

「まあ、先刻おぬしを殴った分くらいは働くとしよう。それを越えた分の対価は、再び拳を交えるということでどうだ?」

狐面の奥に潜む瞳が、海圻を見つめている。
最初に遭遇したときのような鋭い気が、一瞬だけ海圻を刺した。
拳狐は友好的な態度を見せつつも、獲物を見定める獣の気配をわずかに漂わせている。

「ああ、それで大丈夫だ。事態が収束したら、改めて相手をさせてもらう」

海圻は、拳狐の申し出を承諾した。
拳狐が望むのは殺し合いではなく、純粋に武をぶつけ合う戦いである。
シグリの安全が確保できた後であれば、仕合を受けたとしても問題はないだろう。
また、一介の武人として血が騒ぐことも、否定できない事実だ。

「良し。この辺りには土地勘がある。案内は任せてもらおう」

かくして三人は共に、魔幇の罠へ飛び込むこととなった。

『海圻、そこが魔幇から指定されたポイントよ。座標データも一致しているわ』

海圻たちの目の前には、生産(せいさん)工場の跡地と思しき建築物がある。
いや、錆び付いた看板に残った魚のマークから考えるに、水産(すいさん)工場と呼ぶべきか。
開け放たれた扉の先、工場の残骸が雑然と残る中、一人の男が立っていた。

「おお、来おったか!ふぅむ、上海大賽に出とる拳狐と、『清海』から呼んだ海圻じゃな?」

禿げ上がった頭、白い顎髭、肌に刻まれた深い皺。
風体を見れば、男が老人であることは明らかだ。
だがその体つきは、年老いているとは到底思えぬ。
岩のようにゴツゴツとした印象を与える、筋骨隆々の武人がそこにいた。

「儂は元魔幇四天王、(こう)(とう)(きょう)!その顔つきからして、さては儂らの真の目的に気付いておるな!ならばこちらの思惑を隠す必要もあるまい……さっさとダイヤを渡すが良い!」

叩頭卿と名乗る男は海圻たちを見ると、実に大きな声で言い放った。
工場跡の高い天井まで届きそうなほどに、でかい声の響きである。

「なぁに、悪いようにはせん!儂が口を利いてやる!お前さんたちが責を負わんようにしてやろう!ダイヤを宿した坊主の身の安全もできる限り保証するわい!」

「随分と勝手な言い草だな」

叩頭卿の通告に、拳狐は異を唱えた。
海圻も言葉に出してはいないが、拒絶の意志がありありと顔に浮かんでいる。

「ガハハ!それが一番の解決策だからよ!お前さんたちも痛い目には遭いたくないじゃろう?」

「いや、もっと良い解決策があるぞ」

「ほう?」

「この場でおぬしを倒してしまえば、それで済む」

その言葉と共に、拳狐の姿はかき消えた。
《為逸速的一息》。
加速した肉体が、叩頭卿へ猛然と拳を放つ。

激しい衝突音。
しかし、攻撃を受けた叩頭卿に苦悶の表情はない。
拳狐の拳を真正面から受け止め、平然としている。
見える変化と言えば、衝撃でわずかに後退した位置のみである。

「硬気功か。どうもこのところ、頑丈な相手に縁がある」

拳狐は拳に伝わる感触から、叩頭卿の堅さの理由を知った。
叩頭卿の身を守るものは、魔人としての特殊能力ではない。
鍛錬によって極限まで高められた硬気功である。

「ガハハハハ!儂はそういう若気の至りも嫌いじゃないぞ!良いじゃろう、かつて四天王一と謳われた儂の剛健さをとくと味わえい!」

叩頭卿の身体が宙に浮いていく。
正確に言えば、浮いているのは首から上のみだ。
まず頭部が空中にあり、そこから太い首がたくましい身体を吊り下げている。
これこそ、叩頭卿の特殊能力《孤死首丘》である。

「さて、まずは天より落ちる連撃を喰らってもらうとするか!」

そう言うと、叩頭卿は自らの身体を拳狐に向けて射出した。
《孤死首丘》は、首を高速で伸縮させる力も持つ。
故に首を素早く伸ばして、空中から地面に向けて身体を落とすことも可能だ。
筋肉で満ちた巨体が、拳狐を押し潰さんと迫る。

拳狐は後方に飛び退き、ひらりとこれを躱す。
躱した後、眼前に落ちてきた身体に攻撃を加えようと動く。
だが攻める間もなく、叩頭卿の身体は再び宙へ飛んだ。
叩頭卿が高速で首を縮め、身体を高く持ち上げたのだ。

「連撃だと言うたじゃろうが!攻める隙など与えんぞ!」

叩頭卿は首の伸縮を繰り返し、次々と拳狐に攻撃を仕掛けた。
巨体が地面にぶつかるたび、強い地響きが工場跡を揺らす。
しかし、拳狐はその全てを回避していた。
《為逸速的一息》。
静止時間は十分とは言えぬが、回避に専念すれば問題はない。

さて、この戦いの様子を遠巻きに眺めていたのが、海圻とシグリである。
眺めつつも、二人に行動を起こす気配はない。
強敵と対峙する拳狐に加勢しないのは何故か?

答えは、歌である。
二人の耳には、もの悲しい歌声が聞こえていた。
聞こえはするものの、どこから聞こえるかが判然としない。
頭の中に直接響き渡るように、あるいは周囲全体から届くように、誰かの歌が聞こえてくる。

「この歌、どこから聞こえてきてるんだろ……」

「華甲さん、そっちでも歌声は観測できているか?」

『音声はこちらでもキャッチしているわ。でも、音源がどこかを特定できないの』

海圻たちが困惑する中、歌が途切れた。
叩頭卿が鳴らす地響きの音だけを残し、歌声は消失する。
次の瞬間であった。

「海圻!」

叫ぶシグリが指差そうとした先には、今まで微塵も存在しなかった男の姿がある。
海圻の背後に伸びる影から、短刀を持った男が突然現れていた。
それは、どこか陰のある優男。
驚くほど唐突に出現した男は、無言のまま海圻に短刀を振り下ろす。

「はぁッ!」

海圻は気を纏った拳で短刀を持つ男の腕を打ち、攻撃を逸らす。
歌声に警戒を強めた海圻は、既に《四霊随身》の領域を展開していた。
気を通じて、いきなり登場した男を即座に認識し、素早く守りの動きを取った。
先刻の拳狐との戦闘を経て生じた、奇襲への慣れが功を奏したと言えよう。

「……チッ」

男は舌を打ち、海圻と距離を取る。
その全身から漂う殺気は、凍てつく夜を思わせた。

「遅かったのう、(ヤン)(ドゥン)(ドゥン)!現役の魔幇四天王が遅刻しては、部下に示しがつかんのではないか?!」

「……オレには他にも仕事がある」

叩頭卿の大声に対して、陽と呼ばれた男は静かに応えた。
どことなく、口やかましい先達にうんざりしている雰囲気がある。

(元四天王に加えて、現役の魔幇四天王?!)

海圻は、その肩書に驚きを隠せない。

魔幇四天王。
上海の裏社会を統べる魔幇の首領から、直々に指名を受けた大幹部。
実在が疑われるほど、謎に包まれた存在だ。
対峙した者は全員命を落とす故、名を知られることはないと噂される。
四天王と呼ばれながら、五人以上の働きをするという話さえあるほどだ。
その魔幇四天王の一人が、目の前にいる。

「まあ、良いわ!遅れてきた分、しっかりと働いてもらうぞ!」

「……フン」

叩頭卿に聞こえぬように小声をこぼした陽は、ゆっくりと歌い始めた。
先ほど聞こえていたのと同じ歌声。
今度はどこで誰が歌っているか、はっきり分かる。

陽は歌いながら、工場に残る残骸の影に手を伸ばす。
影に指先が触れた瞬間、陽の姿は消えた。
消えると共に、歌声の出処は再び不明瞭になる。

「シグリ!自分の身を守ることに集中してくれ!」

「わ、わかったよ!」

シグリに声をかけた後、海圻は気を操り、消えた陽の気配を探る。
いない。
どこにもいない。
少なくとも海圻の周囲に、シグリ以外の存在はない。
《四霊随身》による探知は、陽の完全な消失を告げていた。

「っ……!」

再び歌は途絶え、影より短刀が海圻を狙う。
刃が肉を浅く抉り、血が流れる。
しかし、海圻は攻撃を受けながらも、陽に気を流し込むことに成功していた。
多少のダメージは覚悟の上で、陽の情報を掴もうとしたのだ。

「――掌握!」

《四霊随身》で増幅した気が、陽の気を完全に捕捉した。
これからどこに消えようと、見失うことはない。
そのはずだった。

「……」

陽はその場に屈み、歌声を響かせながら海圻の影に触れる。
たちまち陽の姿は海圻の前から消え去った。
その瞬間、捕捉していたはずの陽の気もまた消えた。
まるで、握りしめたコインが消えてしまう手品のようだ。
テレポートや高速移動といった事象では、決して説明できない感覚である。

海圻には、奇妙な確信がある。
今、この世界に陽堂堂は存在しない。
信じがたい事実だが、そう考えるほかはない。

その確信は正しい。
陽堂堂が使う《日陰者の小唄》は影に触れることで、影世界と呼ばれる異空間に入る能力である。
影世界にいる間、何者も陽に干渉することはできない。
たとえ《四霊随身》で増幅した気であろうとも、陽の存在を捉え続けることはできぬ。
さらに陽は認識済みの影を出口として、瞬時に現実世界へと戻れるのだ。
歌を口ずさみ続けるという制約はあるものの、殺し屋にこれほど適した能力もあるまい。

「危ない!」

シグリの影から現れた陽を見て、海圻が叫んだ。
海圻の力量を見て、陽は狙いをシグリに変えていた。
陽の短刀がシグリに鋭く迫る。

「うわっ」

シグリがとっさに振るったダイヤ状の右手が、偶然に刃を弾いた。
《金剛糸繰》を使うとき、シグリの両手両足はダイヤの輝きに染まり、背中にはダイヤ型の翼が生まれる。
本物のダイヤと同様の硬度を持つ右手は、短刀程度では傷付かない。

しかし、それはただ単に弾いただけだ。
当然ながら、陽は二撃目を加えるべく攻めの動きを見せる。

「智高まれば水を成し、鱗を招き木は茂る!」

海圻は両脚に気を巡らせ、一心不乱に駆けた。
《為逸速的一息》による神速とは比べるべくもないが、《四霊随身》の身体強化もまた肉体を加速しうる。
結果、海圻はシグリと陽の間に割り込み、斬撃を止め切った。
それはギリギリのタイミング。
あとわずかに遅ければ、シグリの腕は血で赤く染まっていたかもしれない。

「あ…ありがと、海圻」

シグリは荒い息遣いをしながら、海圻に感謝の言葉をかけた。
その様子を見るに、驚きで心臓が激しく脈打っているらしい。

「陽堂堂!ダイヤを宿した坊主は、殺してはならんのだぞ!」

拳狐に攻撃を仕掛けながら、叩頭卿は陽をたしなめた。
どうやらダイヤの欠片を身に宿した者は、生かしておく必要があるようだ。

「……少し痛めつけてやるだけだ」

陽が、静かに言い返す。
海圻には、陽の魂胆が分かっていた。
シグリを狙うことで、海圻が庇わざるを得ない状況を作る。
そうして生まれた隙を利用して、海圻を始末しようという算段だ。
海圻の目的がシグリを守ることである以上、卑怯ながら有用な策と言える。

「やれやれ、世話の焼ける雛鳥よ」

少し呆れたように拳狐が呟く。
拳狐は叩頭卿の連撃を凌ぎながら、海圻たちへと目を向けていた。
冷静な視点から分析し、陽の能力の特性を概ね看過していた。

「シグリよ!己が一つ、見本を見せてやろう!」

シグリに向かって、拳狐が大きく声を上げた。
声を上げるとすぐに、左腕を天に向ける。
《為逸速的一息》。
コートの下、左腕に固定された縄鏢を加速させ、上方へと射出する。

縄鏢とは、縄の先に鏢と呼ばれる刃物を付けた投射武器である。
特別に長い縄を用いたそれは、天井付近に掛けられたケーブルまでしかと届いた。
その途端、拳狐の身体は縄に引かれ、空に舞う。

いったい何が起きたのか。
答えは、《為逸速的一息》の二段活用である。
《為逸速的一息》で速められる対象は、拳狐が直接触れている物のみではない。
別の物を介して影響を与えられるのであれば、離れた位置にある物も加速しうる。
即ち、縄鏢を介して動かせる天井付近のケーブルも《為逸速的一息》で速められるという寸法だ。

天井付近をよく見れば、縄鏢が触れたケーブルは激しく回転している。
その回転に引き込まれて、縄鏢の縄がケーブルに巻き付いていく。
巻き上げ機構が付いたフックロープのように、縄鏢が拳狐を吊り上げていた。

「……?……あっ、そういうこと?!」

拳狐の意図(いと)を理解したシグリが、(あと)に続く。
縄鏢を射出した拳狐のように、ダイヤの糸を天井に向けて放った。
《金剛糸繰》によって生じる糸は、ダイヤの堅さだけでなく、伸縮自在のしなやかさも併せ持つ。
剛と柔を兼ね備えた煌めく糸は、シグリの身体を軽やかに持ち上げ、空中に留めた。

そう、空中には影世界からの出口にできるだけの大きさを持つ影はない。
シグリが空中にいる限り、影からの奇襲を恐れる必要はなくなる。

そもそも空に浮かぶ相手を攻撃する手段自体が限られるのだ。
攻撃自体が不可能というわけではないが、選択肢は少なくなるだろう。
《孤死首丘》という選択肢を持つ叩頭卿は、拳狐が抑える形となっている。
つまり、海圻が気兼ねなく戦える状況が整ったのである。

一方、宙に浮いた拳狐はどうなったか。
激しく回転したケーブルは、火花を散らして千切れ落ちた。
必然、縄鏢という支えを失った拳狐の身体も落下し始める。
だがこれも拳狐の計算の内。
落下の勢いそのままに、拳狐は叩頭卿の首へと蹴り(けり)繰り(くり)出した。

伸びた叩頭卿の首に、拳狐の蹴りが直撃する。
しかし、叩頭卿の表情に変化はない。
拳狐の脚へと伝わる堅さは、先ほど拳で感じたもの以上だ。

「ガハハハ!無駄じゃ、無駄じゃ!儂の首と頭は、身体より堅いぞ!」

叩頭卿は再び首を縮め、首から下を呼び寄せる。
急上昇する動きに合わせて膝を出し、蹴りを放った後の拳狐を狙った。
《孤死首丘》の高速伸縮と、練度の高い硬気功。
速さと堅さの合わせ技が、拳狐を襲う。

だが、拳狐は次の手を打っていた。
右腕からいつの間にか射出された二つ目の縄鏢が、別のケーブルを捉えている。
縄鏢の縄が少しだけ拳狐を引き上げ、叩頭卿の膝は空を掠めた。
拳狐はそのまま振り子のように叩頭卿から離れ、危なげなく着地を決める。

「ふむ。見事な守りと言っておこう。攻めの方は少々物足りぬがな」

腕に括りつけられた縄鏢を外しながら、拳狐はそう言い放った。

「ガハハハ!言ってくれるわい!」

叩頭卿は高らかに笑った。

海圻と陽は一進一退の攻防を続けていた。

奇襲への察知に優れる海圻に対して、陽の攻撃は決め手を欠く。
幾度か海圻の読みを外して斬り付けるも、致命傷には至らない。
陽は、殺しを生業とする暗殺者だ。
正面切っての戦いでは、魔幇四天王の中でも劣る。
奇襲の効果が十分でなければ、その真価は発揮されない。

一方で、海圻も攻めあぐねていた。
影世界への侵入は、陽に尋常ならざる回避という結果をもたらす。
影に触れるという条件があるとは言え、大技を仕掛ける隙がない。
カウンター狙いの一撃も、探知に振り分ける気が減る分、リスクが高い。
必然、両者の戦いは拮抗状態となっていた。

「……埒が明かん。叩頭卿、あれをやる」

「儂に力を貸せと言うか!いいじゃろう!」

陽は叩頭卿に声をかけると、拮抗状態の戦いから離脱した。
叩頭卿は地に降り立ち、海圻から距離を取った陽と合流する。
陽が歌いながら叩頭卿と足元の影に触れると、すぐさま二人の存在は消失した。

《日陰者の小唄》が作った影世界に入れるのは、陽本人のみではない。
抵抗の意思がなければ、陽が触れた生物もまた影世界へと侵入できる。
現実世界には陽と一緒に戻るしかないが、好きな影を出口にできることに変わりはない。
即ち次の攻撃は、陽の奇襲性と叩頭卿の剛健さを併せ持つだろう。

「影に潜めるのは自分だけじゃないのか……!シグリ、攻撃がそっちに行くかもしれない。注意してくれ」

海圻はシグリにそう言いつつも、攻撃の矛先は自分か拳狐だろうと予測していた。
叩頭卿の口ぶりからして、わざわざシグリを狙うとは考えにくい。

「おっけい!」

「……」

拳狐は沈黙して、敵の動きを窺っている。
その構えは不動。
いつでも《為逸速的一息》を発動できる状態だ。

工場跡に歌声だけが響き渡る。
緊張の時間が過ぎていく。

歌が途切れると共に、影世界から帰還した叩頭卿が頭部を発射した。
叩頭卿の視線が向く先は、拳狐。
禿げ上がった頭が、拳狐の足元目がけて一直線に飛んでいく。
それと同時に、陽は再び影世界へと潜った。

「……」

無言のまま拳狐は後方へ跳び、叩頭卿の攻撃を躱した。
拳狐の選択は当然ながら《為逸速的一息》。
死角からの攻撃であろうと、その加速が回避を成功させる。
叩頭卿の頭部は、虚しく拳狐の前を通過した。

だが、攻撃は終わっていない。
通過する叩頭卿の頭部、その影から陽が奇襲を仕掛けた。
《日陰者の小唄》の出口とする影は、能力発動時に視界に入れておく必要がある。
さらに影世界へ入った後、形が大きく変化した影は出口として選べない。
しかし、位置が変わるだけなら何の問題もない。

拳狐は《為逸速的一息》を脚に対して既に使用している。
不動の上半身を速めようとも、地に足の着かぬ状態では手打ちの拳打となろう。
位置を変えうる縄鏢も既にない。

「……死ね」

顔色を変えることなく、陽は短刀を振り下ろす。
その刃が狙うのは、拳狐の心の臓。
研ぎ澄まされた暗殺者の技が決まれば、いくら拳狐とて命はない。

「ぎゃッ」

だが、苦痛の声を上げたのは拳狐ではなかった。
その場に陽はうずくまり、左目を抑えている。
眼球に突き刺さっているのは、ありふれた爪楊枝だ。

「取るに足らぬ楊枝(ようじ)でさえ、有事(ゆうじ)の際には助けとなる。腹ごしらえをしておいた甲斐があると言うものよ」

拳狐は爪楊枝を口に含み、舌の上に固定していた。
そうして静止させた爪楊枝を、陽の奇襲に合わせて吹き付けた。
もちろん《為逸速的一息》で加速して、だ。
言わば、即興の吹矢である。

「……なぜわかった」

怒りで声を震わせながら、陽は拳狐に問うた。
陽が出口とした影は、叩頭卿の攻撃によって生まれたもの。
事前に予想しえぬ場所からの奇襲だったはずだ。
陽の実行した作戦を、全て読んでいたとでも言うのか。
そう言いたげな問いであった。

「知れたこと。おぬしが必ず影より出てくるなど、己は元より信じておらぬ。何処から来てもおかしくない、そう思っていただけよ」

これまで影から現れていたからと言って、次も影から現れるとは限らない。
影から出てくるものだと思い込ませた後、影以外から攻撃を仕掛けて相手の虚を突く。
そういう敵もいることを、虚の拳を用いる拳狐は知っている。
拳狐はいかなる攻めが来ようと凌げるように、備えていたに過ぎぬ。
言ってみれば無駄な深読みだが、今回はそれが幸いした。

「してやられたのう、陽堂堂!儂はまだまだやれるが、その眼の様子ではちいと辛かろう!ここはいったん退いておくか!」

「……チッ」

左目から血を流しながら、陽は《日陰者の小唄》を発動する。
陽と叩頭卿の姿は、再び消えた。
しかし、その消失は攻撃の始まりを意味しない。
歌声は少しずつ遠ざかり、やがて音は消えた。

グランドスラム内、拳狐の()ーフルーム。
入口が隠蔽されたその部屋で、海圻たちは休息を取っていた。
()ーフルームと言っても、高度な()キュリティなどありはしない。
壁に掛けられた数々の武具を除けば、何の変哲もない簡素な小部屋である。

「まさか魔幇四天王が出てくるとは……」

工場跡での激戦を思い出しながら、海圻はそう言った。
海圻は全身に気を巡らせ、陽堂堂によって斬りつけられた傷を癒している。

「おれは魔幇についてよく知らないんだけど、四天王ってことは偉いやつなの?」

『魔幇のボスから直接指名された大幹部と言われているわ。もっとも本当にいるかどうかすら、今日まで分からなかったのだけれど』

「魔幇の詳しい内情は分からないが、ボスに次ぐ地位であってもおかしくはない。かなりやばい状況だ」

そう語る海圻の声色は、やや暗い。
魔幇四天王が作戦を指揮しているとなれば、大量の部下を従えている可能性もある。
もしそうなら、グランドスラムからの脱出は困難を極めるだろう。
無論、魔幇四天王と元四天王の二人だけでも危険であることは間違いない。

「いや。四天王があれでは、魔幇ももう長くなかろう」

拳狐の反論には、失望の色が見え隠れする。

「魔幇が滅びるとでも言うのか?確かに清王朝のダイヤが奪われて以降、魔幇もだいぶ混乱しているみたいだが……」

清王朝のダイヤが強奪されて以降、上海は混沌の渦中にある。
その原因は、ダイヤを巡る争いばかりではない。
例えば、清王朝時代の人造魔人が目覚め、人々の欲望を煽っている。
例えば、新作映画の発表会場がアマゾンと化し、出処不明の糞便にまみれた。
数々の事件が起こす混乱が、魔幇の支配体制を弱める可能性はある。
だが、これまで上海で長く暮らしてきた海圻にとって、魔幇の崩壊という事態は想像だにしないものであった。

「『鋼鉄構架(あやつ)』も重い腰を上げ、始まりの座を一つ潰したと聞く。紛れもない破幇の兆しだ。これから上海には魔幇をも焼く大炎が燃え上ろう」

そう語る拳狐の眼は、炎を灯したように揺らめいている。
近い将来巻き起こる戦いに胸躍らせていると言ったところか。

「上海の情勢はともかく、まずはここを切り抜ける方法を考えよう」

海圻は、そう提案した。
ここから魔幇がどうなっていくかは分からないが、グランドスラムから無事に脱出しなければ話が始まらない。

「ふむ。そういうことなら厄介なのは元四天王、叩頭卿の方だな。あれは、なかなかやる」

「拳狐さんのパンチを喰らっても平気な顔してたもんね。あれも魔人の能力なのかな?」

シグリが素朴な疑問を呈する。
魔人になりたてのシグリにとって、特殊能力はまだまだ未知の領域だ。

「いや。己が見るに、あれは鍛錬を重ねた硬気功だ。魔人としての能力が関わるとすれば、堅さを維持しながら首を伸縮できるところだろう」

硬気功の剛と伸縮自在の首の柔。
矛盾する二つの性質を、同時に成立させているのが《孤死首丘》の力である。

「奴の練気は、かなりのものよ。硬気功を崩すには経穴を突き、呼吸を乱すのが常套だ。だが、あの堅固さではまず指を徹すのが難しかろう」

「それについては、俺に策がある」

「ほう」

「俺の能力で、叩頭卿の気を乱してやればいい。師から学んだ技の中に、ちょうど良いのがある」

目には目を、歯には歯を、気には気を。
海圻の練気は、拳狐も認めるところである。
大量の気を以て叩頭卿の気を乱せば、硬気功を封じられる可能性は高い。

「ふむ。では、奴の相手はおぬしに任せるとするか。己は歌う殺し屋で我慢するとしよう」

「なんか意外だな~。拳狐さんってこういうとき『己の獲物を取るつもりか』みたいなこと、言いそうだけど」

「ふっ。まあ、今はおぬしの用心棒をやっているのでな。不足な分は後で海圻に身体で払ってもらうとしよう」

「責任重大だな……」

海圻が苦笑する。

「ちなみにだけど、この部屋に隠れてやり過ごすって言うのは駄目なの?」

「おそらく無駄であろうな。あれだけおとなしく退いたということは、こちらの行方を探る術があると見るべきだ」

『魔幇の人材の層は厚いわ。探知役を連れてきていてもおかしくないわね』

魔幇の構成員は、全員魔人である。
下部組織まで含めれば、運用できる特殊能力の選択肢は実に多彩だ。
位置を特定する能力を持つ魔人の一人や二人、簡単に用意できるだろう。

「清王朝のダイヤの欠片は、シグリから引き離せないからな。俺のようにダイヤの気配を探れるやつがいるなら、すぐ足が付くことになる」

「……海圻よ。一つ疑問があるのだがな」

「何だ?」

「おぬしはなぜ、シグリに宿る力が清王朝のダイヤのそれだと知っている?」

清王朝のダイヤは、謎多き魔幇の至宝だ。
恐るべき価値を持つということ以外に、周知されている情報は少ない。
自らの気で相手の情報を把握できる海圻とは言え、ダイヤの真贋を見極められるかは怪しいだろう。
シグリの身に宿る力が、別のものだという可能性もある。
拳狐の口調には、そういうニュアンスが感じられた。

「ああ、俺は前に一度、清王朝のダイヤを見たことがある。そのときと同じ異質な気を、シグリからも感じたってことだ。もっとも、あれは贋作かもしれないが……」

「……いや、それはおかしい(・・・・・・・)

拳狐は、海圻の言葉に異を唱えた。

「清王朝のダイヤは『実物を誰も見たことがない』宝という触れ込みのはずだ。それを、魔幇の首領が証とするから意味がある。贋作と言えども、軽々しく披露する謂れはない」

十日間にわたる百年節(パーティー)の最終日。
最後に開催されるセレモニーの場で、魔幇の首領が初めて表舞台に姿を現すとされる。
そのとき、首領の証として掲げる予定なのが清王朝のダイヤだ。
それ故、重要なのは神秘性である。
如何なる理由があるとしても、魔幇がダイヤを見世物にするとは考えにくい。

「そう言われればそうか……?俺は何かと勘違いしている……?」

海圻は、清王朝のダイヤについて思い出してみる。
確か、セレモニー的な形で見せられたはずだ。
……思い出せない。
見たという記憶は確かにあるのに、思い出そうとすると何も浮かばない。
頭にもやがかかったように、求める答えが遠のいていく。

「質問と言えば、おれも拳狐さんに聞きたいことがあるんだけど」

頭を悩ます海圻の横から、シグリが拳狐に声をかけた。

「何だ?」

「拳狐さんは、何で狐の面を着けているの?こう、秘められた悲しき過去みたいのがある感じ?」

何の思惑もない率直な疑問を、シグリは拳狐にぶつけた。

「ふっ。グランドスラムでは何事も、頭文字が一段上となる。即ち、(きつね)勝つね(かつね)というわけよ」

「拳狐さん、ゲン担ぎとかするタイプなんだ」

「冗談だ。狐の言うことを全て真に受けていては、命がいくつあっても足りんぞ」

ええ~っというシグリの声を浴びながら、拳狐はこう続けた。

「意味はあるが、それを明かすに値する相手は少ない。せめて己と対等に渡り合えるようになってから問うのだな」

「そう言われてもな~。おれにはダイヤの糸を出すくらいしかできないし」

「なに、勝負などというものは一枚でも手札があれば十分よ。肝要なのは、いかに意味を持たせるかだ」

「拳狐さん、話が難しいって言われない?」

シグリはそう言いながら、頭に疑問符を浮かべている。
拳狐の言い方は実際、遠回しだ。

「まったく困った雛鳥だ。要は、応用法を考えろということよ。例えばだ。糸を編めば紐となり、紐を太くすれば綱となる」

「あっ!おれ、糸で盾を作れるよ!」

「それよ、それ。自分で限界を定めず、手札の使い道を増やしていけ。その積み重ねが強さとなる」

「シグリは巻き込まれた側の人間だ。無理に強くなる必要はないぞ」

ダイヤの記憶を思い出すことを諦めた海圻が、話に入ってくる。

「おぬしら『清海』の理念は知っているがな。シグリの身の安全を第一とするなら、多少鍛えておいて損はない。時には背中を預けた方が良いこともある」

「そうそう。おれも、海圻の役に立ちたいんだからさ!」

意気揚々とシグリがアピールした。
今にもダイヤの糸を放ちそうな様子である。

「無茶だけはしないでくれよ……とりあえず、そろそろ出発しないとまずいか」

『そうね、時間の余裕はあまりないわ』

「どういうこと?」

シグリの頭に再び疑問符が付く。
危険度が上がるタイムリミット、それがシグリには見えていない。

「陽堂堂。あいつの能力が影から影への移動なら、日が沈むとまずいことになる」

「ああ~っ!暗くなったら、どこからでも出てこれるってこと?!」

陽の《日陰者の小唄》は、影を通じて影世界へ出入りする能力。
もし夜の暗闇が影と認識されるのであれば、縦横無尽の移動能力となりかねない。

「ふむ。では、此処から一番近い出口を目指すとするか」

『距離から考えて、西側の橋ね』

グランドスラムの(きわ)は、広い(かわ)に囲まれている。
そのため、外へ出るには掛けられた橋のいずれかを渡らねばならない。
橋に魔幇の兵が配置されていることはまず間違いないが、川を泳ぎ切ろうとする方が危険だ。

「良し。出来るだけ近道を選ぶとしよう」

グランドスラムにおける魔幇との争い、その最終局面が近付く。

叩頭卿は、遥か昔のことを思い出していた。
ボスから直々に魔幇四天王の肩書を授けられ、必死に駆け回った過去の思い出を。

あの頃は良かった。
何も考えずにただ魔幇の敵と戦い、勝てばそれで良かった。
組織内の地位だの、部門同士の争いだの、小難しい話を気にすることもなかった。
ひたすらに強さを求める叩頭卿にとって、この上ない環境だったと言えるだろう。

だが、時が経つにつれ、魔幇はその姿を変えていく。
今思えば、張三大哥が魔幇を去り、カリー大姐が自らの巣へ籠るようになったとき、既に変化は始まっていたのだろう。
当初の志は失われ、魔幇は組織として存続することを優先し始める。

前線から退き、後進の育成に手を付けた理由は、決して武力の衰えばかりではない。
変わりゆく魔幇を見つめ続けることが怖かったからだ。
叩頭卿は失われた光から目を逸らし、自分の心をごまかし続けてきた。

しかし、清王朝のダイヤが奪われたとなれば、話は別だ。
魔幇が姿を変えようとも、ボスの名を汚すことは許されない。
たとえそれが四天王の肩書をくれた、あの頃のボスとは違うとしても。
ここで魔幇の威厳が崩れ去れば、かつての熱情も嘘になってしまう。
そんな気がしていた。

「……奴らが動き出した。行くぞ」

まどろんでいた叩頭卿へ、左目に眼帯を付けた陽堂堂が声をかける。

「…うむ!行くとするか!」

叩頭卿は過去の思い出を振り払い、気を引き締め直す。
今重要なのは、魔幇の手にダイヤを取り戻すこと。
そのためなら、この命すら惜しくはない。

夕陽を浴びるグランドスラム。
海圻たちは、襲い掛かる敵を退けながら脱出ルートを進んでいた。

()ワチャー!有り金全部置いていくアルヨ!」

()ラオラ!おとなしくしやがれ!」

三人を狙う敵は、魔幇の息がかかった者ばかりではない。
()ャイニーズマフィアや()ャングといった連中も、事情を知ってか知らずか次々と押し寄せる。
だが、海圻と拳狐はそれらの敵を事も無げに片付けていた。
シグリはダイヤの糸を放ち、二人のサポートに徹している。

「海圻も凄いけど、拳狐さんも凄いなあ。ほとんど相手を見ずに、よく倒せるね」

「こんなものは慣れだ。敵意が迫れば、己の身体は勝手に動く。たとえ寝床にあったとて、己を殺めることは叶わん」

ナイフで斬りつけようとして来た男の腕をひねり、投げ飛ばしながら拳狐は言った。

「海圻、武術家の人ってそういうものなの?」

「言わんとしていることはわかるが、実際にやれるかは別だ。俺も能力なしでやれるかと言われたら、微妙だぞ」

「なに、能力を要すると言えど、やれるならまあ問題はあるまい。おぬしにはおぬしの戦い方があろう」

実際、拳狐と海圻が敵を察知する手法は異なっている。
即応性という点では拳狐に軍配が上がるが、把握できる情報量では海圻が勝ることは間違いない。
重要なのは、それをいかに活用するかだ。

そうしているうちに、グランドスラムと上海市内をつなぐ橋の姿が見えてくる。
シグリを連れた脱出行の終わりは近い。
だが、ダイヤを求める魔幇が三人を黙って見逃すわけはない。
ドスンと大きな音がして、目の前の大地が大きく揺れた。
海圻たちの前に空中から降り立ったのは、元魔幇四天王、叩頭卿である。

「ガハハハ!そんなに急いでどこに行く!」

「やはり、俺たちを見逃してはくれないか」

さらにどこからか歌声が聞こえてくる。
ほどなく木陰の中から陽堂堂が現れ、一直線に拳狐の首を狙う。

「……貴様はオレが殺す」

陽の右目は、拳狐に対する殺意で溢れていた。
迫る短刀の刃を、拳狐は冷静に回避する。

「ガハハハ!どうやらお前さんにやられた左目が疼くらしくてのう!お前さんと戦うと言って聞かぬのだ!」

叩頭卿は、拳狐に大声で言い放った。
その声に反応することもなく、拳狐は陽との戦いを始めている。
影を考慮した位置取りと読み合いが二人だけの空間を作り始め、その位置は海圻たちから離れていく。
当然、海圻とシグリは叩頭卿と対峙する形となった。

「念のためもう一度聞くとするか!その坊主を魔幇に渡す気はないか?!このまま追われる身となるより、その方が良いはずじゃ!」

叩頭卿は海圻に向かって、シグリを渡す気があるかと問いかけた。

「さっきも言うたが、身の安全もできる限り保証しよう!安心せい!この叩頭卿、徒に人を殺めたことは一度もない!」

その叩頭卿の言葉に欺瞞はない。
元魔幇四天王とは言え、おそらくは気の良い人物なのだろう。
だが。

「断る。あんたがいくら保証したとしても、あんたの上がそうとは限らないからな」

「そうそう。海圻がそう言うなら、魔幇なんて信頼できないよ!」

叩頭卿はシグリの身の安全を保証するというが、あくまでもそれは叩頭卿自身の約束である。
実際にシグリを引き渡したとき、魔幇がどのような動きに出るかは分からない。
できる限り、と付け加えていることから叩頭卿もそれは承知の上だろう。

「ガハハ!まあ、そう答えるか!良いじゃろう、良いじゃろう!力ずくで言うことを聞かせてやるわい!」

海圻の返答を聞き、叩頭卿は構えを取る。
にわかに叩頭卿の身体を巡る気が増し、海圻たちを威圧した。

「まずは一発!こいつを喰らってもらうかのう!」

《孤死首丘》によって、叩頭卿の頭部が発射される。
その弾丸の大きさとスピードは、映画に出てくる海賊船の砲弾を思わせた。
硬気功で守られた質量が、速度を以て海圻を襲う。

「炎駒が纏う火によって、皮毛を守る金も溶く!」

叩頭卿の攻撃を、海圻は真正面から受け止めた。
《四霊随身》で高めた気を防御に回し、衝撃によるダメージを軽減する。
硬気功と硬気功のぶつかり合い。

しかし、海圻の技はそれだけではない。
接触した瞬間にわずかな気を流し、叩頭卿の気を探る。
拳狐に語った勝利の策の、言わば試し打ちである。

(よし……タイミングを合わせれば問題はなさそうだ)

気を通じて伝わった感触に、海圻は確かな手応えを感じる。
あとは上手く隙さえ突ければ、堅固な城塞も崩れ去るだろう。

「ガハハ!お前さん、気の扱いが上手いのう!いっそのこと、儂の弟子にならんか?!」

「断る。俺の師は、後にも先にも唯一人だ」

「ガハハハ!その心根も気に入った!ますます言うことを聞かせたくなってきたわい!」

そう言うと、叩頭卿は首を縮めて元の構えへと戻った。

「ならば、次はこいつと行くか!若人よ、天より降る攻撃を喰らうがいい!」

叩頭卿の頭部が空に昇り始める。
しかし、その動きを咎めるものがあった。

「っさせない!」

ダイヤの糸が、叩頭卿の首を捉えていた。
シグリは叩頭卿に対して、ダイヤの糸を直接放ったわけではない。
伸びた首に合わせて配置したダイヤの糸を、叩頭卿自身が首を縮めるうちに絡めとっていた。
拳狐への攻撃の失敗から学んだ結果である。

「ガハハ!この程度、儂にとっては何にもならん!簀巻きにでもされない限り、儂を捕らえることはできんぞ!」

叩頭卿は無理やりダイヤの糸を引き千切り、空へと高く飛び上がる。
シグリの糸はダイヤの硬さを持つ糸だ。
しかし、ダイヤと言っても糸はあくまで糸。
尋常ならざる硬さを持つ叩頭卿の筋肉に対して、糸数本では心許ない。

「え~?!」

叩頭卿は空中から、自らの身体を海圻に向けて射出した。
先ほど拳狐に対して放った連撃と同じ技。
海圻には、脚に気を巡らせて、拳狐と同じように身を躱すという選択肢がある。
だが、それは攻撃の機会を失うことに等しい。
故に海圻は、再び受けの形を選択した。

「ぐッ……」

横方向からの攻撃と違い、上方向からの攻撃には衝撃を逃がす空間がない。
地面から返る反作用の衝撃が、海圻を苦しめる。
《四霊随身》で巡らせた気の守りのため、決定打とはなりえない。
しかし、ダメージが少しずつ蓄積することもまた事実だ。

「海圻!」

そのとき、シグリが叫んだ。
シグリの声を聞いた海圻は、すぐさまその意図を理解する。
短い間とは言え、共に困難を乗り越えてきた仲だ。
続く言葉を聞かなくとも、シグリが何を言いたいのかが分かった。

(避けて、だ)

「ばりばり行っちゃうぞ~!」

シグリの背中に生えた翼が、まばゆい輝きを放つ。
煌めく両手から、大量のダイヤの糸が伸びていく。
だが、ただの糸ではない。
シグリは両手から繰り出す糸に意味(いみ)を持たせ、巨大な(あみ)を作り出していた。
生き物のように踊るダイヤの網は、宙に浮かぶ頭部のさらに上から叩頭卿を捕らえる。

「ガハハ!網ならば儂を捕らえられると思うたか!もう一度引き千切ってやるわい!」

叩頭卿は糸を引き千切ったときと同様に、力ずくで網を抜けようとする。
しかし、結果は違った。
《金剛糸繰》のダイヤの糸は、剛と柔を兼ね備える。
シグリは先刻のように無理やり引き止めようとせず、しなやかさを以て網を操った。
上からだけではなく、全方向から網を投げかけ、叩頭卿の身体を包んだ。
巨大な魚が漁師の網にかかったかのように、叩頭卿の動きは制限される。

「何じゃと!」

ダイヤの網が叩頭卿へダメージを与えることはないが、その位置を変えることは可能だ。
ネットに包まれたスイカを振り回すように、シグリは叩頭卿の全身を動かす。
叩頭卿は抗おうとするも、地面に叩き付けられた。
目の前には、海圻の姿がある。

「四霊、我が身に来たれ――」

《四霊随身》。
全身を巡る気が高まっていく。

「攪拳―――『青龍操』」

海圻は、叩頭卿に対して拳を放った。
拳が当たると同時に、膨大な気を流し込む。
自らの気を以て、敵の気を乱す大技。
荒れ狂う龍の如く、増幅した海圻の気が叩頭卿の中で暴れた。

「ぐおおおおお!」

硬気功を成す叩頭卿の練気が乱れていく。
その身を守る鎧は、もはや風前の灯火だ。

(行ける!)

海圻に確信が走る。
そのときであった。

「清王朝のダイヤはぁぁぁ!魔幇の手の中にぃぃぃ!」

拳から、叩頭卿の気が海圻に逆流してくる。
《四霊随身》の探知を介して、海圻はその気の正体を理解した。
叩頭卿は自らの命を燃やして気を放っている。
修行に修行を重ねた者だけが辿り着ける、命がけの練気。

(くっ)

気の逆流を受けつつも、海圻の技はまだ有効だ。
互いの気が、互いの中で暴れ合う戦い。
例えるならそれは、嵐の中での我慢比べ。

(まずい……!)

海圻は、自分が徐々に押されつつあることを理解していた。
このまま行けば、叩頭卿の硬気功を封じたとしても、攻撃を加える余裕がない。
今すぐ拳を離せば身を守れるが、勝ちの目を失う。

「海圻!」

海圻のことを心配するシグリの声が聞こえる。
ふと、()ーフルームでの会話が蘇った。

『時には背中を預けた方が良いこともある』

『そうそう。おれも、海圻の役に立ちたいんだからさ!』

海圻に一つの発想が生まれた。
シグリにとどめを任せる。
それが、勝利に辿り着く唯一の選択肢だ。

守るべき相手に運命を委ねる。
『清海』の理念にはそぐわない考え方と言えるだろう。

しかし、シグリは友である。
出会ってから日は浅いが、信頼に足る友である。
友を信じずして、いったい何を信じると言うのか。

「……シグリ!後は任せた!」

海圻はそう言い残すと、渾身の気を叩頭卿へ流し込んだ。
もはや自身の守りは考えぬ、攻め一辺倒の操気。
我武者羅な海圻の気は、命を賭けた叩頭卿の気を喰い破った。
同時に海圻は気を失い、その場にドサリと崩れ落ちる。

「……ガハハ……やって…くれるわい……」

硬気功を失った叩頭卿が立ち上がる。
未だダイヤの網に捕らえられたままだが、瞳は闘志を失っていない。
不屈の視線が、シグリを捉えた。

シグリは、両手を叩頭卿に向けている。
背中の翼はさらに輝きを増し、唸りを上げていた。

「……坊主。ダイヤの欠片が持つ力を使い過ぎれば、身を滅ぼすぞ。果てには、人の形を保てなくなるかもしれぬ」

叩頭卿は、シグリを諭した。
自分の命が惜しいからではない。
命ならば、既に燃やし尽くしている。

「それでもお前さんは、その力で戦うというのか……?」

「海圻は、おれに任せると言ったんだ。おれに助けを求めてくれたんだ。だから……おれがどうなろうと気にするもんか!」

その言葉に、叩頭卿は理解する。
自分にはもう、この若人のような熱はない。
魔幇のために再び働こうとしたことも、わずかな残り火でしかなかったのだと。

もはや叩頭卿の愛した魔幇は存在しない。
それを認められずに、此処まで来てしまった。
もしもっと早くそれに気付いていれば、あるいは何かが変わったのかもしれぬ。
だが、もう遅い。

「儂の負けじゃな」

シグリの放ったダイヤの糸の奔流が、叩頭卿の意識を刈り取った。

陽堂堂は、グランドスラムに来るたび思い出す。
この故郷で過ごしていた幼い日々のことを。

小さい頃から、陽は歌うことが好きだった。
何もかもが奪い去られるこの街で、(うた)は自分がここに居た(いた)と訴える唯一の方法だった。
だが往来で高らかに歌う子供を、微笑ましく見守る大人などここにはいない。
馬鹿にされ、蹴り付けられ、時には場所代さえ要求された。

次第に陽は日陰で歌うようになる。
大人の目の届かない、暗い小道。
それは、唯一心置きなく歌える舞台。
やがて陽は、魔人として目覚めた。
陽堂堂という名とは正反対の《日陰者の小唄》という能力を身に付けて。

その能力に目をつけた魔幇が、陽を暗殺者として雇うまでに長い時間はかからなかった。
影から迫る短刀は、幾つもの命を奪い取った。
殺して、殺して、また殺して。
そうやって、陽は魔幇四天王の地位まで上り詰めた。

しかし、陽にスポットライトが当たることは決してない。
魔幇四天王とは、名を知られざる存在。
その真価を知る敵は、全て命を落とす宿命にある。

だからオレは今日も日陰から、陽の光が当たる場所を見つめている。

これからもオレが表舞台に立つことはないだろう。
だが、それで構わない。
光が輝き続けるなら、オレは刃を振るう影となろう。
魔幇の邪魔をする敵は、オレが全て殺す。

十一

「……チッ」

短刀の刃が、空を切った。
既に日は沈み、空には月が顔をのぞかせている。

拳狐と陽堂堂の戦いは、一方的なものとなっていた。
月光の下、出入口とできる影は潤沢である。
普通に考えれば、陽に有利な戦場と言えるだろう。
しかし、戦いが始まって以降、陽が拳狐を脅かした場面はない。
他方、陽は幾度も拳狐の細かな攻めを喰らっていた。

「どこまで行っても、所詮おぬしは殺し屋よ。殺そうとする意志が先に立ち過ぎている」

陽の本業は、暗殺者である。
《日陰者の小唄》を用いた殺しの技は、まず一撃必殺と言って良いだろう。
だが、必殺の技を持つ故に、ぶつかり合いにはそれほど慣れていない。
相手の体力を削って勝利する、そういう発想を要する戦いには弱い。
左目を失った影響を考えれば、なおさらだ。

加えて拳狐の着込んだコートは、防刃の機能を持つ。
通常であれば決定打となる攻撃も、切れ味を殺され、いなされる。
かと言って剥き出しの急所を狙えば、待ち構えたかのような反撃を喰らうのだ。

「……貴様、なぜダイヤを隠し持つ。素直に渡せば、褒美を得られるというのに」

陽は、たどたどしい口調で拳狐にそう言った。

「魔幇なぞにせっかくの種火を渡してどうする。くだらぬ褒美など、犬に食わせてやれば良い」

「……魔幇を愚弄するか」

下郎(げろう)愚弄(ぐろう)して何が悪い。首領ともども鏡を見てみろ。間抜け面が揃っているぞ」

拳狐はからかうように言い放つ。
陽の心には、沸々と怒りが込み上げていた。
しかし、同時にある疑問も湧き上がってくる。
魔幇が支配するこの上海で、なぜあえて魔幇に逆らうのか。

「……その仮面、素性を隠す復讐者か?」

拳狐が着ける白い狐の面に視線を向け、陽は問いを投げかけた。
仮面で素顔を隠すということは、素性を知られてはまずいということに違いない。
魔幇への恨みを果たすべく素顔を隠しているというなら、ダイヤを渡さぬことにも納得できる。

「はっ。魔幇四天王ともあろう者が、ひよっ子と同じ発想とはな。いや、シグリのやつが案外大物という可能性もあるか?」

顎に手を当て、嘲るように拳狐が笑う。

「……何を言っている」

「見当違いということよ。語るべき遺恨はない。隠すべき素性もない。己はただ戦いを求める一匹の獣に過ぎぬ」

拳狐の言葉に偽りの気配はない。
狐面の奥に潜む瞳は、純粋に戦いを求めている。

「……ではなぜ魔幇に逆らう」

「気に入らぬからだ。このグランドスラムで殺しをやっているのは、おぬしであろう?」

拳狐が言っているのは、海圻と衝突する直前に見つけた数多の死体のことである。
いや、それだけではない。
グランドスラムに入って以降、拳狐は陽の仕業と思しき死体を何度も目撃している。

「……ああ。魔幇に逆らった者にかける慈悲などない」

抑揚のない声で陽はそう告げる。
ダイヤを持つと噂される者は、魔幇にダイヤを渡さぬ反逆者。
ダイヤの情報を売ったと言われる者は、魔幇にダイヤの情報を寄こさぬ反逆者。
ダイヤの強奪を狙う者は、魔幇の邪魔をする反逆者。
いずれも、陽にとっては殺すべき対象であった。

「それ故、おぬしらは己の敵となるのだ。将来の敵手となりうる者を殺すなら、己に喧嘩を売ったも同じこと」

「……貴様、狂人の類か」

「そう思うなら、それも良し。だが殺し屋という役割は、相手の“次”を恐れるからこそ生まれるものよ。臆病者に何を言われようと、己の心は動かぬ」

「……」

そのとき、月に厚い雲がかかった。
月光は消え、暗闇が辺りを包んでいく。
陽が待っていたのは、このタイミングだ。
夜闇の中、影が支配する時間。
《日陰者の小唄》が猛威を振るうとすれば、この時をおいて他にない。
この瞬間を待つために、陽は慣れぬ問答を繰り返していた。

陽は歌い、影世界へと入る。
雲が晴れるにはまだしばしの時がかかろう。
短刀の刃が拳狐の命を奪うのに、十分な時間が残っている。

(……殺す)

陽は影世界から現実へと戻り、殺しの技を仕掛ける。
その身体は闇に紛れ、周囲と一体化している。
短刀の刃先が拳狐の肌に当たり、血が滲み始めた。
拳狐が命を落とすまで、もはや一刻の猶予もない。
陽は、自らの勝利を確信した。

然し。

攻撃を喰らったのは、陽であった。
雲がわずかに晴れ、ほのかな月光が二人を照らす。
拳狐の右拳が陽の胸元に突き刺さっている。
いったい何が起きたのか。

答えは、至極単純である。
拳狐は短刀の刃が当たった瞬間に《為逸速的一息》を発動した。
暗闇の中で陽の位置を特定し、必殺の拳を放つための理想的な動きをなぞる。
回避と反撃。
言葉にすれば、ただそれだけである。
だが、暗闇の中でいつ何処から来るか分からぬ敵に反撃を仕掛けるなど、人間にできる芸当なのだろうか?

できる。
できるのだ。
この男にはそれができる。

陽が影世界へと入るのに合わせて、拳狐は思考を止めていた。
精神を無の領域に置き、危機への対応を肉体に任せた。
殺意が迫るとき、必ず身体が心を目覚めさせると信じていなければできない決断。
思考を対象とした《為逸速的一息》。

結果、短刀の刃先が触れた瞬間、静止していた拳狐の思考は爆発的に加速する。
脳に重い負荷がかかる故、連発はできぬが、一撃で決めれば問題はない。
思考はわずかな情報を組み合わせて敵の位置を特定し、最も効率的に敵を屠る技を選択した。

その動きは、実に理想的な動きであった。
この世のものではないと形容しても良いほどに、美しい動きであった。
月光がほのかに照らすグランドスラムで、()()に昇華する。

だが、拳狐の攻めはこれで終わらない。
握りしめた四指(しし)を加速し、指の関節を陽の肉に刺し(さし)入れる。
的確に突かれた経穴が、陽の吐血を誘発した。

「ぐはッ」

陽はその場に崩れ落ちる。

「終わりだ」

拳狐は踵を返し、立ち去ろうとする。
その後ろ姿は、もう陽に興味はないと言っているようであった。

(ふざけやがって!)

陽は力を振り絞り、小さく歌いながら影に触れた。
たちまち陽の視界は、影世界のそれへと変化する。

(油断したその背中に刃を突き立ててやる)

全身を貫く怒りが、陽を動かしていた。
だが悲しいかな、既に決着はついている。
強い胸の痛みが陽を襲った。
肺は悲鳴を上げ、酸素の供給を拒絶する。

(い、息が……)

もう歌声は聞こえない。
《日陰者の小唄》には、制約がある。
歌を途切れさせたとき、現実世界へと帰れなくなるという制約だ。
それ故、陽堂堂は影世界という棺桶で永遠に眠ることとなるだろう。

「経穴を突き、呼吸を乱す。相手は違うが、言う通りになったな」

誰に聞かせるでもなく、拳狐が呟く。
拳狐の拳は、陽から呼吸を奪っていた。
文字通り、陽の息の根を止めたのだ。

「おぬしの技で褒められるのは、歌声ぐらいのものよ。殺し屋などせず、酒場でジャズでも歌っていれば良かったものを」

拳狐は振り返りもせず、足早に去って行く。
何も語らぬ月だけが、戦いの結末を目撃していた。

十二

「……」

海圻は、声を上げることもなく静かに目を覚ました。
全身に疲れが残っているが、命に別状はない。

「わっ、目を覚ました!良かったよ、海圻~」

海圻の目覚めに気付いたシグリは、勢い良く海圻に抱きつく。

「おおっと……シグリ、無事だったか」

「無事、無事。海圻におれの活躍を見せたかったな~」

「叩頭卿はどうなった?」

「おれの糸でぐるぐる巻きだよ!どう頑張ったって、抜け出せないと思う!」

自信満々にシグリは、捕縛した叩頭卿を指差す。
もはや巨大なダイヤと言ってもよいほどに、ダイヤの糸を巻き付けられた元四天王がそこにいた。
捕縛されているだけでなく、糸を使ってその場に固定されてもいる。
顔を見るに、今は眠っているらしい。

「起きたか、海圻」

白い狐の面が、海圻の顔を覗き込む。
無論、それは拳狐だ。

「拳狐、陽堂堂はどうなった?」

「始末した」

拳狐は、実に短く告げた。
その言葉の意味するところを、海圻はすぐさま理解する。

「そうか」

海圻は、ただそう答えた。
シグリの前であえて言葉にする必要もないだろう。

「さて、海圻よ。おぬしが目覚めたのなら、もはや手助けは要らぬな。『清海』の手の者もこちらに向かっているという話だ」

『ええ、もうすぐ回収班が着くところよ。叩頭卿のことは任せてもらっていいわ』

通信端末から華甲の声が届く。
海圻が目覚めるまでの間に、シグリは状況を事細かに伝えていた。

「そうか。拳狐、世話になったな」

「なに、大したことはしておらぬ。だが、己との約定を忘れてもらっては困るぞ」

「ああ、分かっている。シグリの件が片付いたら、立ち会わせてもらおう」

「まあ、おぬしは『清海』の者だ。断れようとも、騒ぎを起こせば寄ってくるに違いない」

冗談めかして、拳狐はそう言った。
海圻は苦笑せざるを得ない。
確かに無関係の人間を巻き込む大騒ぎが起これば、海圻もそこへ向かうことになるだろう。

「拳狐さん、もう行っちゃうの?」

「ああ。ひよっ子の用心棒もこれで終わりだ。おぬしとは、これで何の関係もなくなるな」

せいせいするといった身振りをしながら、拳狐はシグリに告げた。

「グランドスラムでは、頭文字が一段上になる。用心(ようじん)棒の拳狐さんは、もうおれたちの友人(ゆうじん)だよ!」

「ふっ。己の友となりたくば、少しは身体を鍛えるのだな。ひよっ子に横へ座られては、子守で心の休まる暇がない」

「ええ~?今の台詞、良い感じに決まってなかった?」

笑む拳狐に、シグリが抗議する。
会心の一言を流されたのが、少し悔しいらしい。

「縁があれば、また会うこともあろう。どんな形になるかは分からぬがな」

そう言い残して、拳狐はその場を去った。
瞬く間に消え去った、という方が正しいかも知れぬ。

「俺たちもここから出る準備だな。華甲さん、橋の上は問題なさそうか?大丈夫そうなら、橋から直接脱出する」

『ええ、大丈夫よ。今のところはね』

「よーし、敵が来ないうちに早く行こうよ海圻!」

海圻とシグリは、グランドスラムと上海市内をつなぐ橋へと向かっていく。
淡い(つき)の光が、二人の知己(ちき)が進む旅路を優しく照らしていた。

十三

魔都上海に、いくつもの炎が燃えている。

万人を救わんとする怒りの炎。
過去を清算しようとする強き炎。
悲しき恋にまだ気付かぬ若き炎。
数多の欲望を呼ぶ愉快な炎。
弱きものを守らんとする気高き炎。
さらには、まだ見ぬ炎が燻っている。

それらの炎はやがて混ざり合い、紅蓮の嵐となって上海を呑み込むだろう。
血沸き肉躍る騒乱の中で、何を失い、何を得るのか。
運命の行く末を知る者はまだいない。

だが一つだけ言えることがある。
蒼い狐火は、燃え盛る紅い炎より熱い。
狐の面を被った男の魂は、今も静かに燃えている。

(了)
記事メニュー
最近更新されたスレッド
ウィキ募集バナー