前編:
格式高い家柄故の礼儀作法は身についていたが、自己表現をする事が苦手だった。
引っ込み思案な少女にとって、決められた事を正確に実行することが、唯一の周囲からの自己評価を得る手段だった。
勉強と、規則正しい寮生活。
シルバニア初等錬成院の優等生であり模範生。
学院開設以来の錬成の天才。
努力を積めば、自分の評価が高まることが、心の支えであった。
その反面、一度周囲の評価が崩れれば、自分には何も残らないことを自覚していた。
今にして思えば、思春期の初めに誰もが通る‘自分の居場所’探しを、周りより少しだけ早く、そして少しだけ必死にやっていたのかもしれない。
そんな少女にとって、初等錬成院に巡回講義に来たアニエスとの出会いは衝撃であった。
大講堂の壇上に立った美しい錬金術師協会最高導師は、こう言った。
『人は過ちを犯す生き物です』
整然と聴講する全学院生の前に、美しい声が毅然と響き渡った。
『ですが、人は過ちを省みることで学び、前に進むことが出来る生き物です』
アニエスは、講壇上に割れた花瓶と枯れた花を取り出した。
『皆さんが学んでいる錬金術は、人間の可能性を広げてくれる学問です。過ちの修正も、前への前進も錬金術は助けてくれるでしょう』
アニエスの白い右手が、流れるような動きで錬成印を紡ぐと、講壇を淡い光が包んだ。
光が収まると、修復された花瓶に枯れた花が添えられていた。
『ですが、錬金術が万能ではありません。錬金術でも、元に戻せないもの、前に進ませることが出来ないものがあることを知っていてください』
聴講している生徒に見えるようにアニエスは花瓶を持ち上げた。
白い簡素な花瓶に、茶色く枯れた花が添えられているのを見たとき、少女の胸が揺れた。
アニエスの柔らかい言葉に添えられた意味を敏感に感じ取り、動揺した。
今の自分のことを言われているようで、心臓の鼓動が自分でも分かるほど早くなる。
『アニエス様、教えてください。過ちを犯したことで、元に戻せないもの、前に進めることが出来ないことがあるなら、最初から過ちを犯す可能性を慎むことが必要なのでしょうか?』
錬金術師教会の最高指導者に公演中であるのにも関わらず、少女は席を立ち、質問をぶつけた。
多忙であるアニエスの負担を軽くするため、質問は禁じられていたが、高まる胸の鼓動を抑えきれなかった。
学院一の優等生であり模範生の、思いもよらぬ行動に、周囲はざわめいた。
『確かに、行動を起こさなければ、過ちを犯すことは、ありません。』
少女に着席を促す学院指導者を、右手を上げて制すると、アニエスは少女に視線を向けた。
『ですが、世界を構成する要素は、過ちよりも幸福のほうが多いのです。失敗を恐れないで下さい。・・・錬金術は、創造と知識の術。これからの研究と活用次第で、まだまだ人間を豊かに、そして幸福にします。正しい知識と飽くなき探究心、そして皆さん一人一人の健全な精神が、錬金術の未来を担うのです』
アニエスの言葉が終わると、大講堂の天井は万籟の拍手で揺れた。
少女も拍手をし、そして自分が震えている事に気がついた。
アニエスの言葉は、少女の胸を暖かな充実感で満たしていた。
『私も、質問をしていいかしら?』
拍手が鳴り止む頃に、アニエスは少女に対して呼びかけた。
『はい!?』
予想していなかったアニエスの呼びかけに、裏返った少女の声が、大講堂中に響き渡った。
『いい返事ね』
アニエスの微笑みながらの言葉に、学院生達が笑い、少女も頬を染めながら、笑った。
もう、周囲の評価も、決められたことしか出来ないでいる自分も、遠い過去の事だ。
先ほどの震えは、今までの自分の殻を破り、外の世界へ続く大人への道を登り始めた産声だ。
『あなたの名前を教えてもらえないかしら?』
アニエスの優しい視線が向けられる。
鼓動が高まるのを感じながら、少女は名を告げる。
『キスリング・ラッセンマイヤーです』
『いい名前ね』
アニエスはゆっくりと頷いた後、微笑んだ。
『‘賢者の塔’でまっているわよ、キスリング』
「うっ・・・」
顔を打つ冷たい雨の感覚で、薄れていた意識が現実へと引き戻される。
濡れた山道に横たわった体を動かしてみる。
落馬の衝撃による痛みはあるが、なんとか動く。
朦朧とした頭を振り、立ち上がろうとしたキスリングの体面に位置する山肌が槍のように盛り上がった。
大地の槍は大人の身長ほどに伸びると、キスリングに向かって射出された。
―あの槍に、馬を射抜かれた―
キスリングが眼前に迫る槍に対し、そのことを思い出すのが精一杯だった。
槍は闇夜を切り裂き、そして倒れたままのキスリングの後方から飛び出した黒い人影によって砕かれた。
「気がついたか」
イルドルフは、意識を取り戻したキスリングに呼びかけた。
「は、はい」
背後でキスリングが頷いたようだ。
落馬の衝撃で気を失っていたが、命には別状はないと分かっていた。
幸い大した怪我もしていないようだ。
「そうか、ならば少し下がっていなさい」
イルドルフは、右腕に握った短杖を構えなおしながら言った。
‘マトレイヤの紋章’は使用していないが、銀水晶との戦闘で限界まで開放した反動で、動かすだけで右腕から全身に衝撃が走る。
「えっ?」
「大丈夫だ。すぐに、‘No7’は片付ける」
そして、再び、大地の槍が伸びた。
切り立った岩の上に立ったローブの男、‘No7’の狙いは、イルドルフ一人のようだった。
キスリングに向けて放たれた槍も、回避を続けるイルドルフをおびき出すための陽動攻撃だったようだ。
遮蔽物のない空間に引き釣り出されたイルドルフを、連続して男が放つ‘錬金術’が襲った。
キスリングが見ても、イルドルフの動きは悪い。
回避を続けるのも、時間の問題のように思えた。
「私が、足手まといになっている」
濡れた全身を起こしながらキスリングは呟いた。
第二階位国家錬金術師であり、‘賢者の塔’の四導師の一人
当然のように上位錬金術も使用できる。
戦闘を想定した中で錬金術を使用する実技訓練は、同士となった現在も継続している。
しかし、満足な実戦経験はない。
その経験の有無が、命のやり取りをする上でどれ程重要かは、落馬による痛みと、震えの止まらない手足がいやと言うほど教えてくる。
まして、対峙している相手は‘異端者’であり、一年前法王庁中心部にまで襲撃をかけた‘逆十字団死徒’だ。
対面するだけで、死を意識せざるを得ない恐怖感が背筋を走る。
しかし、とキスリングは、自分に言い聞かせる。
相手は‘異端者’であり‘逆十字団死徒’であるが、同時に‘錬金術師’でもある。
‘錬金術師’である以上、最大の攻撃手段は‘錬金術’だ。
先ほど瞬時に放った‘大地の槍’も、発動の瞬間は見逃したが、術の効果からどのような錬成印が使用されたか推測できた。
ならば、やれるはず。
多分、いや、きっと。
「縮製公式による元素練成の簡略化と、練成時間短縮の為の星秤複合錬成!」
不安を自信に変えるため、キスリングは推測を声に出す。
公演に訪れたアニエスに質問したあの日のように、震えが止まらない。
しかし、創造と知識の術である‘錬金術’で、イルドルフを殺される訳にはいかない。
「ふむっ?」
切り立った岩の上で、フードの男がうなった。
「上級技術であるけれど、単一元素を組み合わせは、こういう使い方もあるのをご存知かしら?」
イルドルフが、大きく距離をとるのを確認すると、キスリングは毅然と背筋を伸ばし、錬成印を組む。
「‘疾風の始原、禍流の産声、制鎖原理に基づき、鋭き閃光となれ!」
詠唱と供にキスリングの右腕が、ワズグレイ式錬成印を描く。
集中した精神が脳裏に紡いだ幾何学的な錬成印を、指先がトレースするのと同時に、術が発動する。
「ぬう!」
前方に迫った‘水と風の槍’をフードの男は、無音詠唱により略式錬成印を組む。
かざした右腕の先に出現させた‘石の盾’により、‘No7’は‘水と風の槍’の直撃を防ぐ。
相殺しきれなかった疾風と水の礫が、‘No7’のフードを切り裂いた。
「どうやら、無礼を詫びなければならないようだ」
フードと供に切り裂かれた頬から流れる血を拭うと、‘No7’は紳士然とした顔立ちに神妙な表情を浮かばせた。
男の手の甲には、錬金術行使の際の精神負担を軽減する‘魔唱石’が埋め込まれている。
「実戦経験が無いという理由だけで、甘く見ていた。シルバニア初等錬成院、ヴァルニ高等錬成院を主席で卒業し、アカデミー入学後最短で国家錬金術師資格を取得、アニエス最高導師の側近を四年間務めた才女を見くびっていた。
無礼を許されよ、第二階位国家錬金術師キスリング・ラッセンマイヤー導師よ」
「無礼を詫びるのは、私相手ではなく、イルドルフ司祭に対してではないのかしら?」
キスリングは、早鐘のように鳴る心臓の鼓動を抑えながら、深く頭を下げた‘No7’に対して言い放った。
既に恐怖はさっている。
心臓の鼓動は、別の理由だ。
この男は自分を知っている。
そして、自分もこの男の素性を推測する手がかりが十分に与えられている。
「私たちを襲撃する事にどれだけの意味があるのか」
喋りながら、推測が急速にまとまる。
「理由が答えられて?元錬金術師協会顧問官レイルズ・マティス!!」
キスリングの言葉に、‘No7’は大柄に頷いて見せた。
直接の面識はなかった。
だが、キスリングがアカデミー入学時に‘アニエスの後継者’の一人に数えられながら、突如協会を脱退し、行方をくらました元‘協会顧問官’の名は、十分すぎる程知っている。
「今は、‘彷徨える逆十字団’の‘銘醒錬金術師’と呼ばれている。・・・強いて言うなら、それが理由だ」
「それだけ・・」
‘異端’の身分を平然と言ってのけたレイルズの態度に、キスリングは絶句と供に怒りを覚えた。
‘賢者の塔’の中枢を担い、アニエスにまで目を掛けられた男の変貌に、錬金術そのものを侮辱された思いであった。
「・・・イルドルフ様」
だから、キスリングは、はっきりと言った。
「ここは私にまかせて、麓へ先に向かって下さい。・・・この男の相手は、わたし一人で十分です」
後半
『先ほど、紅茶を入れたばかりでしてな』
聖都ロンバルディアの下町の集合住宅の一室。
相応な建築年数を経過している事を示すように壁は黒く汚れているが、整然と片付けられた部屋は手狭な印象は与えない。
白磁の陶器を手に取りながら、部屋の主である男は、窓の外の降りしきる雨空を見上げる。
『雨の日は嫌いではありません。自分の時間を有効に活用出来ますからな。しかし外出には不向きなこんな日に我が家の扉を叩くのは、どんな物好きかと思えば・・・』
品格のある香りに満ちたティーカップを小さなテーブルに並べると、男は来訪者の正面に座った。
『まさか、アニエス最高導師がお越しいただいたとは。‘賢者の塔’の最高責任者にお越しいただくとは、どのようなご用件があるのですかな?』
『言わなければ分かりませんか、錬金術師協会顧問官レイルズ・マティス?』
金髪に柔らかい光を放つ雨粒を宿らせたまま、アニエスは簡素な椅子に座っていた。
端正な容姿のアクセントとなっている眼鏡の奥から、含みのある笑みを浮かべているレイルズへ、静かな視線を向ける。
『今月の協会顧問会を無断欠席したことですかな?前回出席した際に、‘正当な職務を果せないと判断されれば、いつでも除名して構わない’と議長に対し、言ってあるはずですが』
『あなたは、自分に関する噂を知っていますか?』
手にしたティーカップを悠然と口元に運ぶレイルズに、アニエスは静かに質問する。
大きく笑みを浮かべた後、レイルズは答えた。
『はい、もちろん。・・・‘錬金術の才能を鼻に掛ける気取り屋’‘錬金術協会の発展よりも、個人の興味を優先する偏屈な個人主義者‘賢者の塔内に与えられた国家錬金術師専用研究室を使用しないのは、他人に知られたくない研究を手がけている証拠’‘既に‘禁呪研究’に手を染め、異端に身を落としている’。・・・さすが顧問会に集う方々は、凡若とは一味違う。自己保身を図りながら組織の中で立ち回るには、他者への的確な評価が必要ということでしょうな。』
レイルズの浮かべた笑みは、自分の評価に満足しているからこそ、自然にこぼれたものだ。
『さて、アニエス導師。私の今の発言を根拠にこの身を協会から追放した後、‘異端錬金術師’として法王庁に身柄を引き渡すことも可能ですぞ。最も‘自信過剰で自己を過大評価させる虚言癖のある男’ですからな。あなたに敢えてそうさせる事で、何かを企んでいる可能性もありますが』
レイルズの左手が、頬髭を撫でる。
自然体で丁寧な手つきに合わせて、頬髭の下で自尊心が見え隠れする。
『‘知的でユーモアに富み、紳士的’‘独自性を貫く事を誇りとする’‘現状に満足せず、常に高みを目指す努力家’・・・』
アニエスが静かに語った言葉に、レイルズが浮かべた笑みが、僅かに曇らせた。
『・・・なんの話です?』
『若い錬金術師や、あなたの講義を受けた錬成学院の生徒達は、レイルズ・マティスに対し、そのような印象を抱いています』
『アニエス最高導師ともあろうお方が、つまらぬ作り話を・・・』
『私の‘趣味’は、あなたも知っているはずではなくて?』
反論を試みたレイルズだが、アニエスの‘趣味’を思い出し、沈黙する。
錬金術師協会最高指導者としての激務の合間に、初等錬成院の生徒を招いたり、自ら公演に出向いたりして対話を行うことが、アニエスの何よりの楽しみだ。
『・・・レイルズ顧問官。あなたが、国家錬金術師となってから十五年の間、錬金術の発展に貢献してくれた事を、私は誇りに思っています。これまで錬金術全体のために使っていたあなたの才能を、これからは自分のために使うというのであれば、私は止めることはしません。ただ・・・』
アニエスが、静かに紡ぐ言葉をレイルズは黙って聴いている。
その顔からはいつもの自身に満ちた笑みは消えていた。
ただ、真摯な光が目の奥に浮かんでいる。
その光をアニエスはしっかりと捉えながら、諭すように言葉を続ける。
『私の質問に答えて頂けないかしら、レイルズ・マティス?・・・貴方は第二の‘縛鎖の錬金術師’を目指すつもりかしら?』
アニエスの言葉に、レイルズの顔色が僅かに朱に染まる。
瞳に一瞬激情が灯り、頬髭が動き何かを言いかけたが、それだけだった。
ティーカップの隣に置いた煙管に火を点すと、紫煙と供にいつもの自信に満ちた笑みが満ちていた。
『長い間お世話になりました、アニエス最高導師。このレイルズ・マティス、本日を持って、錬金術師協会を脱会させて頂きます。協会より与えられた‘銀枝の印’と‘黒詰襟のローブ’、そして脱会に必要な書類は、後日協会に届けさせましょう。・・・ここも明日には引き払うとしましょう』
立ち上がると同時に翻ったローブの裾は、アニエスにいかなる質問も許さないと言っているようだった。
『・・・錬金術師協会に属さず、‘はぐれ錬金術師’となると言うのですか?練成書を含む所持品、術の使用が、法により厳しく制限され、協会からも援助は受けられなくなります。・・・研究環境も激変します。あなたの求めるものへの道のりは・・・』
『さほど変わりませぬな。・・・協会の援助は我が身にとって、子供の手ほども役に立っておりませぬからな』
立ち上がったレイルズは、アニエスに対し優雅に一礼をする。
『数々のご無礼が許されるとは思っておりません。今の我が身は未熟ゆえ、いずれアニエス導師に対し満足する答えを示せると判断したとき、改めてご挨拶に伺います』
頭を下げたまま発せられた声は、レイルズが錬金術師協会入会以来見守り続けたアニエスが、初めて聞く真剣さを含んでいた。
アニエスは短く息を吐くと、席を立つ。
『その時は、今度は私が紅茶を用意しておくとしましょう。・・・これはあなたと私の約束よ、いいわね?』
アニエスの言葉に‘親心’を潜ませたことを、レイルズは察し、もう一度一礼をした。
『‘錬金術は、大衆のためにある’』
一礼の姿勢のままもレイルズの前を通過する際、ほつれ髪の下から広遠の湖面のような瞳を向けた。
『決して忘れてはいけませんよ、レイルズ・マティス』