2-1 「小話:異端審問」
例示:
アーキタイプ:異端審問官、神蹟記録官
「ひっ、人でなし!」
今日何度目の罵声だろうか。
目の前でそう喚く女を横目で眺めながら、俺は今日五本目の煙草を上着の内ポケットから引き出した。
禁制品が堂々と吸えるありがたみなどこれっぽっちも感じてはいないが、煙草自体のありがたみはいつもしみじみと感じている。
思えばこの世界にこいつはなんと馴染まないモノか。
というのも、こいつを吸ってさまになるやつってのは、つまるところ俺のような半端者、法王庁の教えをハナからわかってねえ野郎だからだ。
俺はその吸い口を歯で噛みちぎりながら、薄汚い樫のテーブルの上にある薄汚い歪みだらけのカンテラのフタを開け、そこから火をもらう。
じっくりと燻る。
その間、部屋にはしばし静寂があった。──女のひゅうひゅうというかすれた息の音以外は。
火が十分に通ったところで煙草を咥える。
肺に溜めると、胸のむかつきにどっしりとした落ち着きが戻ってくる。
ある男に薦められて吸い始めたころは、ただの重りでしかなかったが。
吐き出した煙の向こうに視線がいった。元の美形が想像できないほど腫れ上がり変形した黒髪の若い女の顔があった。
たこのようにめくれた唇の間にところどころ欠けた歯並びが見える。その隙間から息が漏れていた。
鼻はすでに潰れ血と鼻水でふさがっており、用をなしていない。舞踏会用の赤と白を基調としたドレスはその白い部分をもう残していない。
それでもこちらは原型を大いにとどめていて、必要以上に肌を露出させたりはしていない。
「・・・・で」
俺は言った。
「まとめると、その計画にあんたは触れていないんだな」
「最初からそう言ってるじゃないの!」
ひどいだみ声だ。
これが第三教区いちの歌姫と呼ばれた女の声か。
「それなのに、どうしてこんな・・・・」
「われらも神ならぬ人の子なれば、その言葉の真偽を知るのに“手間”を惜しむわけにはいかないのです」
後ろから声がした。
神父服を着た巨躯の男。
後ろに束ねた総髪、落ち窪んだ眼窩、いつも両端を下にゆがめている口元、すべてが彼の存在に不吉の影を嗅ぎ取るだろう。
オルタ・ヴィエラヴィーチェ──特任神蹟記録官。
神蹟記録官のなかでも、とくに慎重になるべき貴重かつ重要な奇跡の調査のために派遣されるエリートだが、彼にとっての肩書きというのは実はなんでもよかった。
この間は異端審問補佐官、その前の去年の夏あたりは聖騎士団随伴戦闘記録官、おととしいっぱいは錬金術協会付罪人世話係という、いずれも仕事をどうにでもとれそうな妙な役割を与えられていた。
「いつ来た?」
俺は聞いた。
入ってきたことすら気づかなかった。
「いまですよ。ドアは開いていましたが?」
「ドアのことは聞いていないがね」
「・・・・これは、失礼」
ドアはかぎをかけて閉めていた。
それがもしなかったとしても、この古びた地下室の蝶番(ちょうつがい)はどれもその年季にふさわしい嫌な音を出す。
それもなしに入ってくること自体、ひとつの奇跡だ。
男の手には公文書用の便箋とインク壷があったが、この場の記録をとる気などさらさらない。
彼の職業にふさわしい格好というやつを再現してみただけのことだろう。
彼はそれとは別に彼のやりたいことがあってきたのだろう。
「しかし、これはずいぶんと“試練”をお与えになったものだ」
ヴィエラヴィーチェは俺の隣に立つと、女を眺めながら静かに首を振った。
「俺も心の中で祈ったよ。この“試練”は彼女のみならず俺に与えられたものでもあってね。つまり、彼女がこの試練を乗り越えられると信じつづけねばならないという試練だったわけだ」
「嘘よ!」
女の声──やはり耳障りだ。
しかし、俺はのどに“試練”を与えたつもりは少しもなかったのだが。
「信じられないわ。わたしが、聖騎士キンダーエイク卿の庇護にあるわたしが、こんな目に合わされるなんて! あなたたち、そのことをわかっているの!?」
こんな状態でよくしゃべる。
まあ、俺が与えた“試練”は外見こそひどくなるし、それなりに肉体的な苦痛も生じるが、精神に達するほどのものはなにひとつないのだから、当然と言えば当然だ。
そんなことをしてしまえば、ほんとうに聞き出さねばならないものも聞き出せなくなってしまう。
俺はいちど煙草を口から離した。
また少し、長いおしゃべりをするためだ。
「わかっていますとも、歌姫。そしてその聖騎士さまが、その神の主に隠れて罪深き交わりを繰り返していたこともね」
「え・・・」
「まあ、その罪の重さがいかほどのものか──こっちの男の言葉を借りれば、神らなぬ人の子の身ゆえ、そこまでは知らないがね」
そのとき、それまで石壁にもたれかかるようだった女の背筋が伸びた。
「それが、まさか、・・・・さっきあなたが言っていた“計画”?」
「さて、ね」
俺は薄く笑ってみせた。
ついでに煙草を少し吸い、煙を吐いてみせた。
「実はこの話とは別に、あなたが彼の罪深き行いにかかわっている、という情報があったんだよ。そしてそれとは別に、われわれはこの“計画”の話を手に入れた」
「む・・・・むちゃくちゃだわ」
女は震えていた。
「というと?」
「なんなの、その罪って。わたしはただ、あの方と一緒に暮らしただけ──」
「おや」
ヴィエラヴィーチェが口を挟んだ。
「卿にはすでに奥様がいたはず」
「だからそれは──」
女は口篭もった。
しかし観念したような顔をし、言った。
「あの方が、あの方がわたしを求めたの・・・奥様とは別に。それが罪だというのなら、ええ、そうよ。たしかに主の教えとは反するわ。
でも、それが・・・・それがこれほどの罰なの?」
「罰?」
妙なことを言う女だ。
俺は少し、この女に幻滅してもいた。
聖騎士なんてしょうもない連中と懇ろになる女などそれこそろくなもんじゃない。
だから、その少しの幻滅ぶん、声も荒げて言ってやった。
「これが罰のわけがないだろう。言ったはずだ、試練だと」
「そ、そんな」
「じゃなきゃ、あんたにとってこんな無意味な話はないだろう?」
「む、む、無意味って、わたし、だって」
俺の言葉を理解したのかどうか、女はただ震えながら歯を鳴らしていた。
「ともかくあんたは知らなかったわけだ。いや、ほんとうに手間をかけてしまった。しかしあんたはこの試練を乗り越えた。すばらしいことだ」
「どうなるの、わたし」
「もちろんお帰りいただく──ただし」
俺は隣の男を見た。
その言葉のあとを次いで、ヴィエラヴィーチェが言った。
「その前に、今度はわたくしの仕事にしばしご協力いただきたいのです」
「え、」
いや、という声はなぜか押し殺された。
威圧感。
巨体の神父がいつのまにか前に出ていた。
「あなたとかの聖騎士殿がいかなる奇跡のもとに結ばれたのか。それをこの特任神蹟記録官たるわたくしにお教えいただきたい。できれば実演もしていただきたい。
もちろん、不肖このわたくしも未熟ながらその再現の手助けをさせていただきますよ」
「ひ・・・・」
女はあとずさる。
そのぶん、神父が前に出る。
俺は背を向け、ドアのほうに歩いていった。
仕事が終わったからだ。
結局“計画”についてはまた空振りだった。
これだけの大規模な襲撃を手引きする人物──それが一人であるはずがない。
であればこそ、その中の誰かは捕まえられるはずだ、そう踏んでいたのだが。
仕方ない。
とりあえずあの女をネタに踏み込んでみるか、かの聖騎士殿の館へ。
13課すら身を置いておけなかった俺たちでも、この胸の異端審問官の証は一応まだ有効らしいからな。
後ろ手にドアを閉めようとする。
やはり、蝶番からひどい音がした。
しかしそれ以上に耳障りな音はあった。
「やめて、やめろ、やめ、・・・・あ・・・やあ、嫌・・・」
あの女の声。
神蹟記録官殿が親身になって彼女の奇跡の再現を試みているのだろう。
ドアが重く、ゆっくりと閉まっていく。
しまる直前、
「この、人でなし」
小さくつぶやく声が聞こえた。