2-4.1 小話「老騎士 ブルクハルト」
ルジン=ルシールの店と言えばこの辺りでは場末も場末で通っている。
まがりなりにも繁華街の一角に位置しているにもかかわらず、近所の旦那衆の利用はほとんどない。柄の悪い客があまりに多いためである。
その客層とは、実は地下闘技場に集う有象無象の連中であった。
主催関係者や奴隷売買人はもう少し品の良いところで飲み、ここではもっぱらその参加者──なかにはいっときの自由を得た剣奴も含まれる──が集う。
そういった客の一人に、ニールがいた。ある貴族付の剣士である彼は、いま、ある男への復讐のためにこの闘技場で剣を振るっていた。
盛り場が嫌いというわけではなかったが、いまの生活に入って以来、どうも行く気にならないでいた。
それがここにいるのは、復讐の対象についての情報を集めるためでもあったが、それ以前に、いわゆる気紛れのためであった。
室内には酒と体臭とそれを打ち消すための強い香料が充満し、眼を開けているとそれだけでそこが酔ってしまいそうな雰囲気がある。
辺りを見回せば、すでに夜魔の出歩く時間ということもあり、満員の店内は非常な活気を帯びている。
カウンターで一人飲んでいることにいちいち眼を向ける者はない。
ニールとしてもこの喧騒を眺めているだけで飽きることがなく、内に入りがちな気分もまぎれるようだった。
都市部の酒場としても十分広い部類に入る店内は非常に簡素なつくりになっていた。
カーク材で作られたひたすら固いだけのラウンドテーブルは、床にしっかり打ち付けられて外れないようになっている。
椅子ばかりは動かせるが、これも頑丈で異常に重い。
カウンターはさすがに店の顔なのでどこぞの職人に飾り彫りを入れさせているが、その側面には角材を格子状に組んだ衝立のようなものがまるで城壁のようにしつらえてある。
中にはこの店のオーナーの片方──ニールはどちらがルジンでどちらがルシールかまだ知らなかったが──が入っている。
子供が既にひとり立ちしたであろう、黒髪の壮年の女性である。
客の前ではエプロン姿の典型的な平民女性といった振る舞いだが、ときどき妙に艶かしい。
壁面も含め、木材が使用されている箇所は総じて汚れがしみ込んで黒ずんでいる。
こういう汚れをニールはよく知っている。成分は主に酒と料理とそれらでできた吐瀉物とそして血である。
照明は屋内用のランタンである。暗くはない。
流行のガスランプを使わないのは照明と言うのはこの店で三番目によく壊れる品物であり、ガスだと万一の危険を考えるととても入れられそうにないためだ、と以前別の客が教えてくれた。
ちなみによく壊れる品の一番と二番はグラスと皿である。
武器の類は帯びることを禁止されているため、なにかの争いの際にはこれらが真っ先に頼れる相棒となるためだ。
この店の開店以来唯一無事なのは歴代の闘技場覇者の肖像画である。
けっして出場の事実が表に出る事のない地下闘技場のなかでも、彼らだけは別格として扱われるのだ。
そういった偉大な先人たちに思いを馳せてか、そうでないのか、ともかく雑多な男たちが方々で気炎を上げている。それも尋常ではない盛り上がり方である。
地下闘技場はいわゆる武術を競う場ではない。どこまでも殺し合いの場である。
実際にはどちらかが戦闘不能になった時点で勝敗がつけられるのだが、そういった判断が下されるのは闘技場でも人気の選手か、貴族などのお抱えあるいはお気に入りの剣士の場合がほとんどであった。
だからそこに関わる人々の生き様は自然、消尽と放蕩を常とするようになる。ニールはそのことをなんとなしに理解していた。
その人々のなかに、ニールは知った顔を見つけた。
銀色の総髪に布を丸めた被り物をした老年の男性である。
ほかの客の身体の間から見える上半身には身体の線に近いつくりの薄褐色の長袖付上着を着ている。
首周りにされている刺繍は簡素だが質がいい。
おそらく古ぼけて見せさせているあの被り物や上着も、それなり布を使っているだろう。
ニールは立ち上がり、老人のいるテーブルに近づいていった。
目的の人物は、別の小柄な人物と対面で食事を採っていた。
そちらは彼と上着と同じ色のフード付ローブをかぶっており、手がきゃしゃで小さいことから、相当若いことが想像された。
テーブルには五つ席があったが、その空いている一つの前に立ち、ニールは言った。
「この席、よろしいですか」
おお、と老人が振り返る。その顔は彫りが深く、口の周りに豊かな髭を貯えていた。
「どちらかな、と思ったが、見たことのある顔だな」
挨拶と自己紹介をしようとした矢先、ニールは自分がこの老人に知られているということに一瞬戸惑いを覚えた。
「戦いぶりを例の場所で見させてもらったのだ。ええと──まあ、とりあえず座りなさい」
「ありがとうございます」
向かいの人物があわてて自分の皿やグラスを動かす。
「お気遣いなく」
「あ、はい」
返ってきた声は予想以上に幼かった。ニールは気にせず、二人に対して軽く会釈する。
「私はラ──ニールと申します。クレッペル公にお引き立ていただき、かの地下闘技場で拙い剣を振るっております」
我ながらずいぶん下に出たものだ、とニールは思った。
しかし相手はそれだけの人物なのである。
「お目にかかれて光栄です、リヒャルト・ドイセン=ブルクハルト卿」
老人は目を細めた。同時に髭が揺れたが、恐らく笑っているのだろうと思われた。
「我輩のような老いぼれを知っておる者がいたとはな」
「わたしの幼少時、聖騎士ブルクハルトといえば、いまでいう‘聖衣聖騎士’エウゼリオのような存在でした。龍退治譚は古今にありますが、現実のもので有名なのはやはりあなたの物語でしたから」
老人はそれ自体は否定しないようだったが、その代わり
「そうして無垢なる少年たちに、抱かんでよい夢を抱かせてしまったのだがな。その話からすると、まさか貴公もその一人ではあるまいな?」
と言ってさらに笑って見せた。
ニールが抱いていた気骨ある老騎士という想像は外れた。
そこにいたのは、枯れた好々爺といった風の男であった。
その通りですよ、と言おうとすると、
「それで、お師匠になんの御用ですか、ニール様」
と割り込む声があった。
対面の人物である。フードに隠れていまいち表情が見えない。
「これ、ジャンヌ。久しぶりにお前以外に飲む相手が来たというに、そのような言い方はないだろう」
女の名。
この人物は女なのか。
しかも机上に声を張り上げてはいるが相当に若い。
幼いと言ってもいい。
それがブルクハルトを師と呼んでいる。
ともあれ──
「いえ、そちらの仰るとおり」
とニールは言った。
「敬愛する卿のご尊顔を拝謁しに参った──というのはたしかに目的の一つですが、それとは別にもう一つ」
「それは」
「ある男の情報を探しております。見聞広き卿にその男についてなにかお教えいただければと」
ブルクハルトは地元の果物酒を勧めながら、
「何者かね」
と言った。
「現在地下闘技場で第一位に座する男です」
老人の表情が険しくなった。
かと思うと、それはすぐに緩んだ。
「なるほど。ではまず、その最初の目的の方をしっかりと果たそうか。もう一つはそれからだ」
「お師匠様!」
ジャンヌと呼ばれた女性はなぜか食い下がったが、ブルクハルトはかまわず、給仕に新しい酒と料理を頼んだ。
ニールには聞きなれない名がつづいたが、おそらくこの店独特の料理なのだろうと思った。
その脇でジャンヌは不満げにフードをさらに下げた。もともと見えにくい顔がいっそう見難くなる。
ニールはとりあえず彼女にはかまわないことにした。
どのみち子供は苦手だった。
ふたたび目の前に野菜を中心とした料理が並んでいく。
老若二人の剣士は互いに乾杯を交わした。
話題はニールがさきほど気にしたこの辺りの料理や酒についてからはじまった。
しかしニールははやくもう一つの話題に移りたかった。
憧れの人物と面会かなった感動も「それはそれ」である。
「ところで卿、先日のクォンタルとゴライアスの試合をご覧になりましたか。勝者はクォンタルでしたがあの者、女ながらかなりの使い手のようでした。聞けばほかの地域では名うての賞金稼ぎとか」
いったい"あの男"と比べてどれほどの強さでしょうな。
そうニールは言いたかった。
しかしブルクハルトはそれを言う前に巧みに別の話題にすり替えていく。
「在野にはそのような者もいるだろう。我輩もつねに無名の戦士にこそ警戒せよと教えられたものだ。ところでゴライアスという剣士のほうだが、あれはもとは第七教区のリッチュル伯爵のところにいたそうだな。リッチュルと言うと先代のマグヌートが有名だが、あれも一時期聖騎士団にいたという。知っておるかね」
「たしか新派の支援者だった方でしたか」
「うむ。聖騎士団を辞めたのもイシュバルツに傾いたのがきっかけだということだったがな、我輩が団に入った頃は別の話を聞かされたものだ。それはこういうことだ。昔・・・」
何気ない話し振りのなかに、騎士として、というよりも、上流階級の一員として強靭に鍛えられた教養や会話術が見え隠れする。
ニールもその手の技術をもたないわけではなかったが、所詮血なまぐさい世界に身をおいている方が性に合っているような男だった。
だから、それが聖騎士として聖と貴と俗と卑を渡ってきた男を前にして座の主導権を持つなど、無理な話なのかもしれなかった。
しばらくすると、すっかり場のペースは相手にあった。
しかもニールは柄にもなく飲んでしまっており、もはや元に戻れそうもない。
「我輩ほどの身になると、気楽に話をしてくれる相手もおらんでな」
そんなことを言いながら、ブルクハルトは場にさまざまな話題をめぐらしていく。
その一つ一つがこれまで復讐のために生きてきたニールに万華鏡の如き世界を見せる。
いったい、自分が剣においてこの老人より強いということでなければ、ほかに何をもって彼に秀でるものがあるだろうか。
若さすら、この男の前ではなんの自慢にもなるまい。
ニールはそう思いはじめていた。
逆に言えば、剣の腕においては絶対の自信を持っている。
そうでなければ、あの男に復讐などできようはずもない。
「そういえば」
ニールは思いつきを口にした。
「卿はどのような件でこちらに」
「おお、そうそう」
ブルクハルトはそれを先に言わねばならなかった、と豪快に笑った。
すでにビンで両手に余るほどの酒を空けている。
そこでニールは気付いた。
──この男、あれだけ飲んだのに、顔色一つ変えていない。
「実はな」
老人は右手のグラスを揺らしながら、心底楽しそうに言った。
「貴公の出ているアレに、我輩も出場しようと思うのだ」
なんだって。
「アレというのは──」
「地下闘技場に決まっておる」
一瞬、ニールはこの老人の冗談をどう切り返せば良いものかと思った。
いつの間にか、ブルクハルトの表情から笑みが消えていた。
そして、その姿からは信じられないような張りのある声で言った。
「地下闘技場に出ると言っているのだ。この元聖騎士リヒャルト・ブルクハルトが」
その声は店中に響いた。
何事かと思った客がこちらを振り返る。
「卿、それは──」
「おい、じじい」
ニールより先に、隣のテーブルで飲んでいた男が声をあげた。
みすぼらしい皮服を着た、やたらとがたいのいい男である。
そのテーブルの同席者も似たようなものであった。
男はブルクハルトの脇にやってきて、その被り物を見下ろした。身体の節々に鋲を打った革帯を巻いているが、ニールの見立てでは、それは単なる伊達や洒落っ気によるものではなさそうだった。
「いま、なんて言った」
からかうようであり、怒りを含んでいるようでもあった。
顔が真っ赤になっているところからすると、いずれの感情も酒でごちゃごちゃになっているのであろう。
「なにとは、なんだ」
老人はまるで動じていない。
男は身をかがめ、相手の顔にその息を吹きかけるようにして言った。
「俺の耳にこう聞こえたもんでな。『地下闘技場に出る』ってよ。なんだ、聖騎士様だって?」
「なるほど、いかにもそう言った」
「いかにも、じゃねえ!」
男は吼えた。
「あそこはなあ、てめえの命をうすっぺらい金貨に張れるやつらが来る場所なんだぜ」
「うむ?」
「てめえみてえな老骨、出られても賭けになりゃしねえんだ。迷惑なんだよ」
客たちはにやにやしながら見守っている。
熱弁を振るうこの男も含め、みな闘技場の選手か関係者であろう。
話の中身はどうでもよかった。
連中は乱闘のきっかけを待っているのである。
「なぜ賭けにならんと思う。我輩は聖騎士だと言ったはずだ。腕は保障できる」
「信じるわけねえだろう。聖騎士がこんな場所に来るか」
「実際来ているではないか。我輩が」
「このいい加減に!──えッ」
男は恐らく胸倉を掴もうとしたのだろう。
しかしその腕が相手の胸に届く前に、ブルクハルトの持つナイフが男の喉に当てられていた。
その程度の芸当はニールでもできる。が、ニールには、ブルクハルトがいまさっき持っていたグラスをいつの間にナイフに持ち替えていたのか、そしてそのナイフがいつの間に男の喉下に伸びていたのか、まるで見えなかった。
男の激昂に乗じて騒ぎを起こそうとしていた連中が眼に見えて静かになった。
おそらく誰一人いまのブルクハルトの動きを見えてはいまい。
ただ結果だけが彼らの野蛮を萎えさせていた。
「たしかに役不足かもしれん──お主ごときにこれだけ言われてしまうんだからのう」
ブルクハルトは真面目な顔でそう言うと、ナイフを男に突きつけたまま、ニールのほうを向いた。
「ニール殿。たしかあそこの規則では、武器はなにを持ち込んでもいいのでしたな」
「たしか弓矢、銃器の類を除けば」
「うん? そうだったかな」
そのはずである。
たとえばニール自身は剣型アーティファクト"シルフィード"を主武装としているが、それも認められている。
「お師匠様」
ジャンヌがおずおずと口を開く。
「刀剣類、竿状武器、接続武器、投擲武器、盾、鎧兜など、直接人力で用いる武器のみが認められています」
「アーティファクトはどうだ?」
「形状次第で。もともと己の精神の消費をもって発動するものですから、威力に対してハンデたりえていると──まさか、お師匠様?」
「うむ。となれば、あれを持ってくれば、誰の眼にも賭けが成立するであろう」
ニールはそのとき彼の意図を理解した。しかし、それは──
「ブルクハルト卿。賭けは成立しません」
「なぜかね」
「卿はじゅうぶんにお強い。それは私が証明する」
客の間で小さく声が上がった。
ニールだ。あの"重戦鬼"アーディを一撃で倒した男だ。
「それはありがたいが」
「それともう一つ──"あれ"は、あんな小さい場所で使用すべき類のものではありません。仮にも聖騎士の持ち物ならば」
言いながらニールは己の言葉に戦慄していた。
生きた伝説である聖騎士ブルクハルトが、その武器も含めた能力のすべてをたった一人の人間に向けたらどんなことになるか。
もはや実力に関しても疑いようがない以上、目の前にいるのは復讐を前にした新たな、そして巨大な壁であった。
元聖騎士は深くうなずいた。謙遜も自尊もない。
すべてそのままの事実だというように。
「もっともだ、ニール殿。では、こうしよう」
言いがかりをつけてきた男の喉からナイフを外すと、ブルクハルトはニールを正面から