2-4.2 小話「老騎士 ブルクハルト:改訂」
ルジン=ルシールの店と言えばこの辺りでは場末も場末で通っている。
まがりなりにも繁華街の一角に位置しているにもかかわらず、近所の旦那衆の利用はほとんどない。
柄の悪い客があまりに多いためだ。
その客層とは、実は地下闘技場に集う有象無象の連中であった。
主催関係者や奴隷売買人はもう少し品の良いところで飲み、ここではもっぱらその参加者──なかにはいっときの自由を得た剣奴も含まれる──が集う。
そういった客の一人に、ニールがいた。ある貴族付の剣士である彼は、いま、ある男への復讐のためにこの闘技場で剣を振るっていた。
いまいち気分が乗らないせいで、グラスの中の安エールがなかなか減らない。
室内には酒と体臭とそれを打ち消すための強い香料が充満し、眼を開けているとそれだけでそこが酔ってしまいそうな雰囲気がある。
辺りを見回せば、すでに夜魔の出歩く時間にもかかわらず、店内は満員だった。
ある者はさきの戦いの顛末をあることないこと加えて盛大に語り、ある者は未来の闘技場覇者への野望に気炎を吐き、ある者は死を賭すであろう次の仕合に向けて覚悟を決め、あるいは英気を養おうとする。
元来ニールの好む雰囲気ではない。
といって普通の酒場には足が向くわけもなかった。
そこは色々な意味で幸せな連中の居場所で、自分のような人間には害だとすらニールは思っている。
要するにここしか飲める場所がないのだ。
酒は、"あの日"以来心の中にかかっているどす黒い霧をいっときの間払ってくれる。
だがその霧をほんとうに晴らすためには、ただ剣を振るい続ける以外にない。
そのことは彼自身が十分承知している。
だから酒場にいるとき、彼はこれが小休止に過ぎないことを自分に言い聞かせながら、一人で飲むようにしている。
どうせ一緒に飲むような連れもいない。
──いや。
この男にも、かつてはいた。
しかしそういった存在は永久に失われたものと、彼自身は思っている。
「見た顔だの」
後ろから声がかかったのは、ガラリア地方産のエールの二杯目に口をつけようというときだった。
振り向くと、立っていたのは銀色の総髪に布を丸めた被り物をした老年の男だった。
口の周りには豊かな髭が手入れされて垂れている。
「例の闘技場で見たような気がするのだが、そうかね」
老人は言った。
ニールはちらりと男の装束を眺めた。身体の線に近いつくりの薄褐色の長袖付上着を着、すそを折りたてたやや古い流行りの股引きしている。
首周りにされている刺繍は簡素だが乱れやほつれがない。一見して上流の出の者と知れる。
「どちらかな」
「旅の年寄りである」
口調からしてそうは思えない。
「貴殿の仕合を拝見させてもらったのだが、感銘と言えば大げさだがそのようなものを感じての。もしよければ、おごらせて欲しい」
「いや、俺は──」
タダ酒なんか結構だ。
特に見知らぬ年寄りなんぞには。
そう言おうとしたが、察したのか、老人がそこに割り込んだ。
「代わりに」
老人は言った。
「あの闘技場のことを少々教えていただけまいか。興味が沸いた」
そういうことか。
「悪いが、そういうことだったら別のヤツにあたってくれないか。俺も新人なんでね」
「貴殿の口からだから良いのだ」
老人は隅のテーブルを指差した。
フードをかぶった小柄な人物がぽつりと座っている。
「あのローブを着たののいるテーブルだ」
それだけ言うと、老人はニールの返事を待たずにテーブルの方に歩いていった。
(面倒なこった──だから来なきゃよかったんだ)
ニールは自分の気紛れを呪う。
酒飲みってヤツは、見ず知らずの相手でも容赦なく自分の領域に踏み込んでくる。
それがいまの彼には心底わずらわしかった。
(帰ろう)
立ち上がったとき、カウンターの中のルシールから声がかかった。この店の女主人だ。
カールした黒髪が艶かしい30半ばの女だが、格好はそこらの食堂の給仕と大差ない。
色気を求められるような場所ではないからだ。
「お兄さん。つきあってやんな」
「一人のときの辛気臭さだけで十分なのに、年寄り臭いのもきたんじゃたまらない」
懐から小銭入れを出しながら、ニールはそう答えた。
「暗いこと言うね、あんた。いけないよいい男がさ」
「客にかける言葉じゃないな。もう来ないぜ」
「おやおや」
ルシールは動揺した様子もなく、ただ肩をすくめてみせた。
「それならなおさら今日はしっかり飲んできなよ。聖騎士さまを相手にさ」
金を探っていた手が止まる。
それを目の端にとらえながらルシールは続ける。
「腰巻に挿していた短剣にさ、上冠後光付十字の意匠が見えたんだよ。しかも年代ものさ。あれは買ったり盗んだりしたもんじゃないね。というのもね、お兄さん」
女はもったいぶって間をおいたあと、
「あのお爺さん、それがあんまりにも似合ってるんだよねえ」
と言った。
「くだらない話だ」
言いながら、ニールは聖騎士という言葉に考え込む自分に気付いた。
自他共に認める半島の守護者、それが聖騎士だ。
かつて黄昏の時代に君臨した龍や巨人、狂戦士たちと戦い、これに勝利したとされる最強の戦士たち。
彼らの中で最も位の低い者でさえ在野の騎士団の上位の者と同等の技量をもつといわれ、加えて、彼らが聖務として動くときは聖剣をはじめとした強力なアーティファクトを携帯する。
外敵不在の現在においても、それは神の威光の一翼を担う存在として未だ存在感を失っていない。
それがこんなところに? ──まさかな。
と、ニールはもう一つのことに気付いた。
(俺はいま──背後をとられていた)
酒が入っていたとはいえ背後の気配はすべて感知しているつもりでいたのが、あの老人だけはそれをさせなかった。
しかも相手は武器を持っていた。
この酒場では武器を帯びることは基本的に禁じられていた。
ただでさえ荒くれ者どもが大挙してやってくる場所だからだ。
しかし身分を証明する最低限の装備、たとえばさきほどの意匠付短剣のような程度のものは黙認されている。
いずれにせよ武器は武器だ。
このことは彼のような人間には肝に銘じても銘じたりないくらい重要なことである。
ニールは皮袋から銀貨を数枚つまみ、カウンターに置いた。
「お兄さんてば」
ルシールが抗議の声を上げた。
「これから飲む代金は、あっち持ちだ」
ニールは口の端を歪めながら、そう言った。
店内は、割合簡素なつくりになっていた。
カーク材で作られたひたすら固いだけのラウンドテーブルは、床にしっかり打ち付けられて外れないようになっている。
椅子はさすがに動かせるが、これも頑丈なうえ異常に重い。
壁面も含め、木材が使用されている箇所は総じて汚れがしみ込んで黒ずんでいる。
こういう汚れをニールはよく知っている。成分は主に酒と料理と吐瀉物とそして血だ。
照明は屋内用のランタンを使う。
暗くはない。
流行のガスランプでないのは照明が乱闘によって(正確には乱闘の際の皿やグラスやナイフやフォークその他の投擲物によって)壊されることがしばしばあるためだ。
ガスだと万一の危険を考えてとても入れられそうにない。
その光がやや陰る店の隅のテーブルに、三人の人物がいた。
ニールと彼を誘った老人が向かい合い、脇に老人の連れの女性が座っている。
ラウンドテーブルの上には小料理を乗せた皿が数枚、取り皿が人数分、それにこの店では二番目に高い酒を注いだグラスが二つと、果汁の飲み物を入れた木杯が一つ乗っていた。
老人はニールと軽くグラスを合わせたあと、
「我輩はドイセンという。このジャンヌと見聞を深める旅をしておる」
と言った。
彼は田舎貴族の末の生まれで、これまで辺境で警備隊の小隊長の地位をあてがわれていたが、引退を機に外の世界を見ようと思ったのだという。
「はじめまして」
灰色のフードをかぶった女性が頭を下げた。
フードが目の辺りまでかかっているので全体の表情がつかめない。
ただその小柄さと顎の作りからして、実はかなり若いのではないかという気がする。
ドイセンは彼女を死んだ甥の娘と紹介した。
ニールは頷きながら、聖騎士に関する記憶に『ドイセン』『ジャンヌ』という名がないか探ってみる。
とりあえずはない。
(まあ、いい)
「俺のことは、ラ──ニールと呼んでいただきたい。ドイセン殿のご承知のとおり、いまは当地のクレッペル公爵の元で、闘技士として剣を振るっている」
「ニール殿か。ありがとう」
感謝の意味がわからず、ニールは少し当惑する。
それを察してか、ドイセンと名乗る老人は続けた。
「良い仕合を見せてもらったのにその戦士の名を知らぬというのは恥ずべきことだからな」
(なるほど)
とニールは思った。
物言いだけ聞けば、確かに騎士かそれにかぶれた人間には違いない。
しかし──
「良い仕合と言ったが、どの仕合のことかな。俺も来てまだ間もないんだ。自分で言うのもなんだが、ましな相手とやりあった覚えはない」
髭が揺れた。
「強い敵とやる仕合が良い仕合か。ニール殿も案外、育ちは良いようだ」
「──どういう意味だ」
「しっかり客に魅せたではないか。ランキングだけなら上位の相手を力でねじ伏せた。相手は全力でかかってきたのを、貴殿は返り討ちにしたのだ。穴狙いの客は大喜びだ」
「・・・」
そんなつもりで剣を振るっているわけではない。
すべては彼の復讐のための過程にすぎない。
だが、言われてみればドイセンの理屈も正しい。
こちらの心情など観客には関係がないのだから。
「まあ、要はその強い相手がいれば貴殿も客も喜ぶわけなのだろうがな」
老人はグラスに一口つけ、続けた。
「我輩が特に貴殿に聞いてみたかったのも、そのことだ」
「というと」
「あの闘技場には、貴殿並に──いや、貴殿以上に強い闘技士はおるかな」
しわに隠れていた老人の目が見開かれていた。
(この爺さん──)
ニールはその瞳の輝きを受け流しながら答える。
「実際に闘技場を見たんだろう。その印象で判断すればいい」
「我輩、貴殿のほかには少ししか見ていないのだ。皆下位の仕合だった。情けないが旅の空の身、賭ける金もあまりないのでな、また行くとなると──」
「おし──おじいさま」
それまで黙々と料理を頬張っていたジャンヌが、そこで始めて口を開いた。
「初めてお目にかかる方に身持ちのことなど仰らないでください」
老人は長い眉毛の端を少し困ったように下げながら言った。
「しかし、事実なのは仕方ない」
「事実かどうかが問題なのではありません。仮にも──」
言いながらジャンヌはニールの視線に気付き、最後の言葉を濁した。
「失礼しました。お続けください」
「仮にも、なんだって」
「いえ、こちらのこと」
ジャンヌはもはや視線を合わさず、ふたたび元の調子で料理に手をつけはじめた。
(ふん、そうかい)
聖騎士でないにしろ、訳ありなのはもはや間違いない。
彼らが何を隠しているのか、ニールは少しだけ知りたくなった。
ニール自身は気付いていないが、彼は他人に無関心を装いながら、ときどきこういう詮索欲が頭をもたげることがある。
そのたびに貧乏くじを引いてきたと彼は思っているのだが、実はその性格が彼をぎりぎりのある一線に留めている。
その線とは、人間と悪魔を隔てる線だ。
ともあれ、ニールはドイセンに向き直った。
「ドイセン殿。俺は貴殿が、なぜそう問われるのかお聞きしてみたくなった」
「そうとは」
「なぜ強い闘技士の有無を知りたがるのか、ということだ」
ううむ、と唸りながら、老人は一瞬沈黙した。
それからグラスの残り少ない中身を干し、
「年寄りの冷や水というやつだ」
と言った。笑っていた。
「生涯の大半をかけて磨いてきた剣の腕をな、また試してみたくなったのだ」
「出る気か──地下闘技場に」
「ふふ」
しかし否定もしない。
生き生きしてきたじゃないか、とニールは心の中で苦笑した。
ほんとうは最初からその気だったに違いない。
ジャンヌは傍らで沈黙を保っていた。
喋らないときはまるで人形のようだが、しかしこれは確かに人間だった。
ドイセンが少し身を乗り出すようにして言った。
「さあ、貴殿の問いには答えたぞ。我輩の問いには、どうだ」
そうだった。
もちろん、答え自体は考えるまでもなかった。
「──いる」
老人は目を細めた。
「たとえば?」
「少なくとも、あの闘技場において第一位に座する者は強い」
言いながら、ニールはその男の姿を思い浮かべていた。
そしてそのたびに、彼の心には新しい黒い霧が──灼熱の黒い霧が立ち込める。
「それは──」
どんな男かね、とドイセンが言いかけたとき、店の入り口で大きな物音がした。
酒場のドアが開き、数人の男が入ってくる。
全員麻布の平民服を身に着けているが、一様にがたいがいい。
露出している肌に見える大小の傷跡は、彼らもまた闘技士であることを匂わせていた。
一団が立ち止まると、先頭にいる頭髪の禿げ上がった男が、
「ニールってやつはいるか!」
と叫んだ。明らかに殺気立っている。
(やれやれ)
ニールは立ち上がった。やはりもうこの酒場には来るまい。
「ここにいる」
男はてめえか、と睨みつけながら、
「こっちへ来い」
と言った。
「用向きがあるなら、お前が来い」
「察しが悪いぜ。ここじゃ言えない用だってんだ」
最初の男の後ろにいたやや背の高い男がにやにや笑いながら返す。
周囲の客が小声でつぶやくのがニールの耳に入った。
──あいつら、アーディの仲間だ。
ニールは合点がいった。
先日倒した闘技士の敵討ちか。
(仲の良いこった)
しかしニールは彼らのことを笑う気はなかった。
彼もまた、そのためにこの闘技場に身をやつしている。
復讐の相手を目の前に引きずり出すために。
「待て」
声を発したのは、同席のドイセンだった。
「彼はいま、我輩の客人である。用向きはそれからにしてくれ」
「じじい。俺たちゃもう一分たりとも待てねえんだよ」
いらいらしたように先頭の男が言う。
「だって自分の兄貴の敵が目の前にいるんだからよ。ええ、わかるか。肉親も同然の人間を殺されたヤツの恨みをよ」
「だそうだ」
ニールは椅子を引き、ドイセンを見下ろした。
「取り合う必要はない。貴殿は我輩の客人だと言ったろう」
「お気持ちは嬉しいが、俺もこういうことは待てない性分なんでね」
「早く来い!」
ふたたび男が叫んだ。