違和感に気付いたのは、酔客で賑わう一階の酒場を抜け、自室へと続く階段を昇る途中だった。
いつもと同じ酒場となっている一階には、サシュミアンが帰宅するこの時間には、仕事終わりの労働者達が集い、馬鹿騒ぎが初まっている。
数年前までは二階を宿泊施設として開放していた‘飼葉亭’だが、経営者の高齢化に伴い、現在では酒場一本に絞っている。
サシュミアンが空き部屋となっていたその一部屋に、格安家賃で住み着いてから三ヶ月が立つ。
住み始めた当時は、事実上の無一文であり、家賃を支払う目処もなかったく、文字通り先の見えない生活であった。
その頃を思えば、先月から働き始めた町外れの教会で、子供たちに文字と計算を教える‘教師’のような職に就き、ようやく滞納していた家賃をようやく一か月分だけ払えた。
‘黙る’‘座る’‘人の話を聞く’という行為を欠損した下町の悪ガキ達を相手に‘教師’を勤めるのは極めて困難な作業だが、同時に‘うまくはいかなくても、何とかはなる’という事をサシュミアンに教えてくれた。
サシュミアンは手にした荷物を静かに階段上に下ろすと、再び昇り始めた。
二階の自室から、‘自然体に気配を消した’が漏れていた。
素人ではない、相当の訓練を積んでいる相手だ。
‘飼葉亭’に住み着いて、酔客同士の喧嘩の仲裁や追剥強盗相手に捕物の真似事をやったことはあるが、‘本物’を相手にするのは三ヶ月振りだ。
全身の毛穴が引き締まる感覚が、腰帯に挟んだ短剣の柄のザラついた感触が、サシュミアンの‘剣感’を呼び起す。
自室に向かう際、気配も足音も敢えて消すことはしない。
短剣しか所有していない以上、間合いが限定される屋内での刃を交えるほうが望ましい。
部屋の内側の気配も僅かに変化した。
相手も‘こちらが気付いた’という事に気付いたらしい。
ならば、話が早い。
サシュミアンは短剣を抜くと、薄い扉の正面に自然体で立った。
「俺はいつでもいいぞ」
‘開始の合図と共に、内側から暴力的な勢いで開かれる。
同時にサシュミアンの胴体を薙ぐ軌道で、棍の一撃が見舞われた。
右足を踏み込む体勢でサシュミアンがしゃがみ込むと、頭上を横殴りに通過した棍が、襟足の髪を逆なでる。
同時に、踏み込んだ右足を‘軸足’とすると、サシュミアンは短剣のよる‘突き’を襲撃者に見舞う。
自分の部屋の狭さは自覚している。
回避の間合いは極端に制限され、攻撃直後の体勢では受けることもままならないはずだ。
だがサシュミアンの予想を裏切り、襲撃者は後方へ大きく跳び、腹部を抉るはずだったサシュミアンの‘突き’を回避した。
開け放たれていた窓を自分の間合いの一部とし、窓枠に着地する。
痛みの激しい木造の窓枠は、僅かに軋みをあげただけだ。
「世俗に身を窶しても腕までは落ちていないようだな、‘剣帯長’サシュミアン・バーデル」
昇り始めたばかりの月光が、襲撃者の皮肉めいた笑いを浮かべる横顔を照らす。
長身を包む尼僧服。
頭巾からこぼれる紅い髪。
手にした棍の先端には、月光に鈍く輝く二重の輪。
そして、尼僧服を内側から盛り上げる豊かな胸の上には、銀鎖によって吊るされた‘異端審問印’。
「何の用だ、アルデ・ステルリア。‘二度と俺の前に現れるな’と貴様の相棒に前回伝えておいたはずだが?」
‘腕試し’の結果に満足したのか、アルデからは闘争の気配は消えていたが、サシュミアンは短剣の切っ先を鋭い眼光と共にアルデに突きつけたまま詰問する。
「固いことは言うなよ。お前向けの‘仕事’を持ってきてやったんだぜ」
「断る。仕事なら間に合っている。そもそも他人の部屋に平気で不法侵入をするような、恥知らずな人間の頼みごとを聞く義理はない」
「そういう説教じみた事は、この部屋の家賃を払ってから言えよ。それとも、あんたの中では‘家賃滞納’は‘恥’のうちに入らないのかい?」
それまで突き放すような口調のサシュミアンの顔が、瞬時に赤く染まった。
「なぜそれを!? 強権を使用し、個人情報を入手するとは、相変わらずやり口が汚いぞ、‘異端審問官’!」
「アタシがここに来るとき、一階の婆さんが話してくれたんだよ。‘あんたの友達だから部屋に上がらせてくれ’と頼んだら、‘家賃立て替えてくれ’と言われたぞ」
「・・・」
サシュミアンはそれ以上何も言わず、無言で短剣を鞘に戻した。
「ようやく話ぐらいを聞く気にはなったようだな。気をつけろよ、仮にも貴族扱いのバーデル家をお前の代で潰したくないだろう」
「やかましい!貴様に心配されたくはないわ!」
サシュミアンの曽祖父は、‘統一戦争’で活躍した騎士であり、その功績により爵位と領地、そして統治権を授与された。
領地といっても、辺境の森といくつかの村が中心で所謂‘田舎貴族’であり、領民共々平穏な暮らしを送ってきたが、領内で希少鉱物の鉱脈が発見されてから、状況は一変した。
政治的駆け引きとは無縁の一族だったため、父の代では鉱物の採掘権を、そしてサシュミアンの代になってからは、領地そのものを失った。
父の遺産整理の際、莫大な借金が明らかになり、屋敷と領地を差し押さえられたのである。
かろうじて爵位は残っており、‘名代’を氏名することで、家名の没収は避けているが、借金返済の目処が立たない以上、それも時間の問題だ。
「‘壁’になる奴が二、三人必要なんだ。報酬は五千プラス出来高払い」
アルデは窓枠に腰を下ろすと足を組み、腰袋から乾燥豆を取り出し、皮を剥き始めた。
多少の長期戦は予想していたのか、腹ごしらえをしながら話を続けるらしい。
「相手は?」
「人間と人間以外。具体的に言うと、錬金術師と番犬代わりに飼育されている‘危険指定一級魔獣’がごろごろ」
「話にならん。お前たち、異端審問院で何とかしろ」
サシュミアンは憮然とした態度で返答した。
‘さっさと帰れ’と言わんばかりだ。
「何が不満だい?金か?それとも‘壁’になることか?」
「大儀」
「ぶっ!」
サシュミアンの即答に、アルデは口に含んだばかりの乾燥豆を噴出す。
「‘我が武力は領民の為の武力である’。曽祖父の代から伝わる、我が血筋の家訓だ」
「・・・お前なぁ」
「件の錬金術師が、どのような事をしたのかは知らないが、事の収拾は錬金術師協会がつけるのが筋。‘異端に関与したのであれば、異端審問院がつけるのが筋だ。我が家が出る幕ではない」
駆け引きもナニもあったものではない。
豪胆な性格で力押しを好むアルデにも、サシュミアンが領地を差し押さえられた顛末は容易に理解できる。
「まあ、いいさ。集合は明日の朝六時、西門の前だ」
立ち上がったアルデは、尼僧服の裾を翻し、窓枠に足をかける。
「待て! 俺は引き受けるとは一言も言ってないぞ!」
「それとたまには洗濯くらいしろ。一人暮らしとでも、溜めていい限度がある」
「なっ!」
狭い部屋の壁一面に積まれた洗濯物を指摘されて、サシュミアンは再び言葉を詰まらせた。
教会での仕事が忙しくなり、共同洗濯場に行く暇が減少した。
さすがにと思い、洗濯屋に持っていったが運悪く休みであった。
「全く・・・」
言い返すまもなく、窓から姿を消したアルデに対し、悪態をつく。
さすがに自分でも、‘どうか’と思っていただけに、必要以上に腹が立った。
「まさか」
洗濯物の下に手を突っ込むと、硬い手ごたえがあった。
手が掴んだものは、ハーデル家の紋章が刻まれた長騎剣であった。
「前回の報酬のつもりか。・・・今頃、どうして」
借金の方に差し押さえられた愛剣は、今なお手に馴染んだ。
「だが、どうせ正規の手続きを踏まえて取り戻したものではあるまい。本人に確認せねばな。・・・確か、明日の六時に西門と言っていたか」
サシュミアンは、愛剣を腰に吊るすと空高く上った月を見上げた。
夜明けまではまだ時間がありそうだ。