ベートの街。
アスガルド北部の典型的な中規模地方都市。
防壁で囲まれた周囲には綿畑が広がり、紡績を主産業とする。
一年を通して経済的・環境的変化の少ない安定した街。
その街が今、過去に無い大騒動に巻き込まれていた。
街の人口、二千五百人。
その全てが、街からの強制退去を強いられた。
理由は、街を訪れた異端審問官達。
その一人が掲げた『異端審問執行許可章(マグノリア)』。
表情を変えることなく、銀細眼鏡の異端審問官は、強制退去を命じた。
街の住民は居住地区別に三組に分けれた。
最低限の家財を荷物とし、街の東、西、南門から指定された近隣の街を目指す。
「宿泊場所と食料は確保してある」との事だが、住民達に不安の色は濃い。
不安は行動を鈍らせる
午前中より始まり、夕刻が迫った現在も続いていた。
フィリス・ワーレイスは、南門で住民の誘導を担当していた。
銀髪を振り乱し、住民の間をすり抜ける。
手にしているのは、退去する住民の名簿。
背中の袋にはイルドルフより支給された木製の割符。
退去する一人一人の名前と住所を聞き、番号を振った割符を渡す。
割符は住民がベートの街へ戻った際の生活の保障を裏付ける証書、と説明している。
同時に、割符を渡した住民の名簿には印をつける。
当初は一人づつ、割符を渡し、印をつけていたフィリスだが、南門からは最多の千人超が退去する予定だ。
やがて、名前を聞き、割符を渡す作業のみに専念する。
聞いた名前は記憶し、後でまとめて印をつける。
その方が作業効率が遥かにいい。
記憶力には自信がある。
数十人単位を一くくりに、作業を進める。
南門の内側に溢れていた群集が、やがて整然とした列を成し、速やかに退去する。
「私はね、フィリスはお医者様に向いていると思うの」
カナン・ヨハナンが声を掛けてきたのは、名簿の八割に印がついた頃だ。
既に、列は無くなり、準備に時間が掛かっていた者が散発的にやってくる。
カナンは、朝から南門の最前列で誘導を行っていた。
十分な説明も無く、不安を抱え、退去作業の遅れの中で、群集は暴徒と化す危険を孕んでいた。
その最前列で、カナンは臆する事なく声を張り上げていた。
『私達は、あなた達を守る為にやってきた』
『一度、この街を離れてもらうことが、守る事になる』
『一番いい方法ではないかもしれないけど、約束は必ず守る。あなた達を守る』
『私を信じて』
要約すると、この程度の事しか言っていない。
だが、群集の混乱は次第に収まり、退去は速やかに行われた。
カナンはその間、子供に笑いかけ、年寄りを励まし、男に発破をかけ、女に頷いていた。
フィリスは思う。
特別な能力がある訳ではない。
だが、カナンの言動には、人を惹きつける何かがある。
人は‘本物’と理解すれば、無条件でその価値を認める。
過酷な聖務をこなし、尚も失われない天性の明るさが、カナンを‘本物’にしたのかもしれない。
「・・・何の話?」
「だから、今回の聖務で、フィリスは自由になるでしょ?
それからの話よ」
カナンは屈託なく、笑う。
フィリスはかつて暗殺者組織に属していた。
やがて捕らえられ有罪判決、膨大な年数の懲役が科せられた。
だが、その技能を異端審問官の元で役立てる事で、功績に応じて懲役が免除される。
いわゆる‘罪人’である。
カナンと出会い、何度と無く聖務に同行することで、フィリスの懲役は残り僅かになっていた。
「フィリスは薬草に詳しいでしょ?
何時だって冷静だし、難しい本を読んでも寝ないし」
「この名簿だってすごいわよ。
私だったら絶対途中で訳わかんなくなって、グチャグチャになってる
間違いない、絶対フィリスはお医者さんに向いている」
薬草学は、毒物知識の一環として暗殺者時代に仕込まれたものだ。
必要最低限の感情以外排除するように教育された性格は、冷静と言えるかもしれない。
難しい本を読んで寝るか否かは、個人の習性の問題だ。
第一簡単に言うが、医師免許を取得するにはそれなりの手続きと勉強が必要だろう。
「私が、医者に?」
「そう。それにフィリスは美人だし。
‘町の美人女医’の噂が広まれば、絶対繁盛するって。
私も怪我ばっかりしてるから、一番の患者になるからね。
料金は普通に請求してもいいけど、支払いは三ヶ月まで待ってね。
あと、苦い薬は絶対ださないでね」
カナンは楽しげにしゃべり続ける。
‘暗殺者’以外の何者でも無かった自分を、カナンは随分人間らしくしてくれた。
幼い頃の記憶はない。
訓練以外の記憶はない。
人殺しを行っていた罪は消えない。
同年代の人生と比べて、決して誇れるものではない。
だけど。
カナンと共に過ごした時間も消えない。
共に笑い、自分の為に泣き、自分の代わりに怒ってくれたカナンと過ごした時間は消えない。
フィリスにとって、初めて出来た誇れるものだ。
カナンは、優しい母であり、厳しい姉であり、頼れる友であり、そして憧れの初恋の人だ。
だから言おう。
カナンが心配する事はない。
自分の‘これから’はしっかり考えている事を。
「カナン、私は・・・」
「あっ!あの人、あんな大きな荷物持って、走ってくる。
おおい!まだ時間はありますから、急がなくても大丈夫ですよ~!」
フィリスが自分の考えを告げようとした瞬間、カナンは大手を振って叫んでいた。
「ゴメンね、また後で話しよう!」
「うん、また後で」
黒髪を揺らし、走っていくカナンを見送りながら、フィリスはその背中に呟く。
―私は異端審問官になる。
貴女の様な皆に愛される存在にはなれないけれど、貴女の傍で、貴女を守る為に異端審問官になる。
まぶしい貴女が翳らない様に、精一杯、貴女を支える。
待っててね、カナン。