男は、暗闇の中、覚醒した。
どことも分からぬ、漆喰で塗り固めた部屋。
通風孔から僅かに吹き込む空気。
小さなテーブルの上で灯るロウソク。
場所の把握は困難だった。
さらに状況を確認しようとして、理解した。
全身の傷により、動く事さえままならない。
僅かに動くのは首と、右腕。
左腕で上体を浮かし、首を傾け、‘惨状’を確認する。
左足はごっそりとえぐれ、骨の半分が露出している。
脇腹は穴が開き、上下の脇骨まで削れている。
左肩は、食いちぎられたかのような痕があり、腕と肩が剥き出しの骨でからうじて繋がっている。
特に深刻なのは、胸の中央を貫いた刺し傷。
心臓の真横を抜け、背骨まで届いている。
いずれの傷も‘死なない程度’の治療が施されている。
だが、重症とも言うべき傷に対して、痛みは小さい。
薬が何かが自分の身体に投与されているのか。
そして、自分が生きている、いや、生かされている意味を考える。
自分が‘彼ら’の手に落ちたのは間違いない。
だが、何故生かす?
あの瞬間、確実に殺せたはずの自分を何故生かす?
「気分はどうかしら?」
部屋の片隅から、女が現れ、声を掛けた。
最初から居たようでもあり、幻の様に突如現れたようでもある。
冷たい月の様な美貌。
深い湖底のような瞳。
艶かしく輝く唇。
ロウソクの光を浴び、淡く輝く銀の髪。
男は、その女の名前を知っている。
「ひゅ・・」
‘銀水晶’と呼ぼうとしたが、男の喉からは潰れた空気が漏れただけだった。
「あなたを、‘逆十次団’に迎えたいの」
‘銀水晶’は、少しの間を置いて切り出した。
やはり、と男は思った。
つまらぬ質問に、つまらぬ回答。
決して、交わる事のない問答。
どれだけの苦痛も、幾程の時間も自分を誘い込むには何の意味もなさない。
地獄は、幾つも越えてきた。
今更、死や苦痛を恐れはしない。
ただ一つ、恐れるのは、信念を曲げてしまった自分だ。
自分の半生は、あの日に生まれた信念と共にあった。
「私の‘銀爪芽’は、あなたの傷ついた身体を元通りにする事が出来るわ。
・・・いえ、元以上の身体にする事ができる」
‘銀水晶’は、銀色に輝く爪を見せた。
聖典に記された‘楽園のリンゴ’のようだ。
蛇の誘惑にのり、知恵の実を食べ、最初の人間は楽園を追われる。
だが、この程度の誘惑に屈するとでも思っているのか?
「いいわよ、どのように思っても。
だけど、貴方は必ず‘逆十次団’に入る」
理由がない。
「いえ、あるわ」
男の胸中を呼んだかのように、‘銀水晶’は即答する。
滅ぼす理由なら幾らでもあろう。
だが、貴様等の仲間にある理由は、一つもない。
「でも、あるのよ。なぜなら・・・」
‘銀水晶’は微笑む。
まるで、慈悲深い聖女のように。
「貴方の本質は、‘悪’だからよ」
・・・‘悪’だと?
「そう、欲望の為に動く‘悪’など、足元にも及ばない真の‘悪’。
欲望の‘悪’は、世界を滅ぼさない。
なぜなら、世界があってこその欲望だから。
だけど、真の‘悪’は、世界を滅ぼし・・・」
‘銀水晶’は、静かに近づく。
「そして、世界を救う」
どういう・・・
男の思考は、途中で途切れた。
銀水晶が、動けぬ男に唇を重ねた。
「見れば、分かるわ。私の心を。
そして、誰も知りえなかった真実を」
男の目に、銀水晶の瞳が写る。
深く、暗く、そして冷たい瞳。
男の意識に、別の映像が流れ込む。
それが、銀水晶の思考と記憶だと理解するまで、時間は掛からなかった。
― ◇ ― ◇ ― ◇ ―
・・・そういう事か
どれだけの時間が経過した後か、男は呻いた。
「理解してもらえたかした。私の本当の目的が?」
・・・‘世界を、救う’事。
「そう。かつての逆十次団では成し遂げる事が出来なかった、逆十次団の本当の目的。
かつての‘No1’には知らせる事が不可能だった、真の理由。
最強の死徒であった‘全てを知る者’ですら、辿り着けなかった最後の目的地。
なぜなら、‘世界を救う事’は・・・」
・・・真の‘悪’でしか、成し得ない。
「貴方の為に、最強の‘逆十次団’を準備したわ。
目的は別、だけど‘逆十次団’に全てを捧げた純真で可愛い坊や達よ。
最強にして、最後の‘逆十次団’。
・・・これから‘No1’とお呼びしてもよろしいかしら?」
男は答える代わりに、僅かに動く右腕で、銀水晶を抱き寄せた。
銀水晶の爪を自らの胸に押し当てながら、男は自問する。
・・・‘悪’か。
‘銀爪芽’を受け入れ、肉体が再生する躍動に身を任せながら、男は思う。
仲間達の顔を思い出す。
先に逝った戦友たちを思い出す。
決断をした事を詫びるつもりはない。
非難は甘んじて受け止めよう。
刃を向けられるのも当然だ。
だが、自分は信念を曲げることは出来ない。
あの日生まれた信念と共に生き、そして死ぬ。
信念の先に‘世界を救う’事があると知ってしまった以上、死ぬ訳にはいかない。
世界を救った後、罪を償う。
死という形であろうとも。
だから、行く。
逆十次団死徒として。
異端者として。
お前たちと戦う。
‘異端審問官’と戦う。
「・・・私と貴方は似ている」
変貌を続ける、男の身体を見ながら、憧憬に似た呟きを銀水晶は漏らした。
「・・・貴方は、奇跡を起せた私よ」
「・・・お前は、奇跡が起せなかった俺だ」
肉体の再生が終盤に差し掛かり、声を出し、再生具合を確認する。
以前と、代わりがない身体。
だが、言いようのない力強さが漲っている。
自然と、口調も変わる。
「貴方以外に、誰も私の気持ちを理解できない」
「お前以外に、誰も俺の信念を理解できない」
男は、静かに立ち上がる。
「先代‘No1’は、生前の名は忌み名として捨てました。
貴方の事は、なんと呼べばいいかしら?」
「変わらないさ。
俺は、俺として、法王庁と、異端審問官と戦う。
今まで通りの名で呼べ」
銀水晶は、厳かに頷く。
ついにこの瞬間が来た。
長く続いた戦いの、最終章が幕を開ける瞬間が。
幾つもの戦いを。
無数の荒野を。
数え切れる年月を、彷徨い続けた逆十次団。
等々、終止符を打つ瞬間が、近づいてきている。
銀水晶は、その全てをもたらす‘No1’を見つめる。
再生した胸には巨大な逆十次が刻まれている。
そして右腕には、彼にしか扱えぬ鮮やかな紋章が浮かんでいる。
「では、行きましょう、‘世界を救う’戦いに。‘紋章官 イルドルフ’様」