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アウグスとイルドルフ

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『法王聖下はお変わりないか?』 
それが、公式文書に残されているアウグス・フォルケンスの最後の言葉であった。 


法王庁大聖堂南端に位置する小部屋。 
現在は空き部屋になっているこの部屋は、七年前まで『奉献物記録室』という表札が張られていた。 
各教区から法王庁に輸送される木材と石炭を管理するのが職務ないようであるが、木材は労働奉仕局が、石炭は陸運局が別途管理しており、 
『奉献物記録室』により輸送日・数量・配送先が記載された帳簿は、使用されることは無かった。 
事実上の閑職である。 
ただ、ある一人の男を法王庁が監視するために作られた肩書き。 
事実、『奉献物管理室』はその男の室長赴任に伴い発足し、七年前の病死と共に解体されている。 
男の名はアウグス・フォルケンス。 
‘賢人’と呼ばれた先代異端審議長であった。

イルドルフとアウグスの出会いは20年前に遡る。 
その日、17歳のイルドルフは‘見習い’の身分から正式な‘異端審問官’に昇格し、神父として聖職位を授与されるため大聖堂を訪れた。 
大聖堂前の聖母像に向かい静かに祈る老人、それがアウグスだった。 
イルドルフの目に映ったその後姿は、これまで目にしてきたどの聖職者よりも峻厳であり、孤独であった。 
―この人は、 
ただ無心に祈るその姿に、イルドルフは老人の背負っている責務を感じ取った。 
―誰よりも自分に厳しい人だ。 
だからこそ、祈る。 
イルドルフは自然とアウグスの脇に歩を進め、老人を支えるかの如く祈った。 

長い時間が経過した後、アウグスは祈りを終え、イルドルフに顔を上げるように促した。 
「よく来た、‘マトレイヤの少年’」 
錆を含んだ重厚な声と共に、老いた獅子のような静かだが鋭い視線がイルドルフに向けられた。 
「僕をご存知なのですか?」 
「もちろんだ、イルドルフよ。異端審問局が持て余していた遺失AF‘マトレイヤの紋章’と適合し、異端者の襲撃から‘光の聖女サーシャ’を守りぬいた事は、審議会では知らぬ者はいない。 
審議会が君を正式な異端審問官に任命するには、十分な理由だ」 
「その件ですが・・・」 
イルドルフは、アウグスの獅子の眼光を受け止めたまま言葉をさえぎった。 
「正異端審問官就任の件は辞退させて頂きたくて、今日は大聖堂に来ました」
「・・・辞退する、だと?」 
「はい」 
迷い無く、イルドルフは返答した。 
「サーシャさん、・・・いえ聖女様が異端者から襲撃を受けた際には、自分の未熟さが原因で、お怪我を負わせてしまいました。 
同僚のライナスの加勢がなければ、サーシャ様の命にまで危害が及んだかもしれません」 
「・・・」 
「それに‘マトレイヤの紋章’も、偶然が重なった上での所有となったもの」 
修道服の右袖をめくり、上腕部に刻まれた‘マトレイヤの紋章’を見せる。 
「未熟の身でありながら、恵まれた仲間と重なった幸運により得た功績で正異端審問官の身分を授与させて頂いては、 
これまで命を張って異端審問官の責務を果たされてきた諸先輩方にも、これから未来を担う後輩たちにも申し訳ありません。 
だから・・・」 
右袖をおろすと、毅然と背筋を伸ばし、頭を下げる。 
「今回の推薦の旨は、辞退させて下さい」 
 
平伏するイルドルフの前にし、アウグスは厳かに応えた。 
「確かに、‘マトレイヤの紋章’と‘光の聖女護衛’は、審議会が君を推薦する大きな理由だ。 
審議官の中には、君に大きな期待を寄せる者もいる。 
・・・だが、私が‘異端審議長’として推薦の決議を可決としたのは、別の理由があるからだ」 
「別の理由、ですか?」 
イルドルフは思わず頭を上げ、アウグスを見つめた。 
‘賢人’アウグス・フォルケンスに評価されるような善行を積んだ覚えはない。

「覚えているか、イルドルフ。三年前、修練院の‘試練の儀’の事を?」 
「あっ、あの時の、‘試練の儀’ですか?」 
思わず、高い声が漏れた。 
「・・・忘れるはずがありません。 
僕が修練院の訓練についていけず、一度除名となった日ですから」 
「そうだ。通常‘試練の儀’で弾かれた訓練生は、異端審問官となるのを諦め、別の道を歩む。 
修練院の厳しい訓練が、別の生き方を考えざるを得なくさせるからだ。 
だが、君は更に一年後、新たな入門生としてもう一度、修練院の門を叩き、‘異端審問官・見習い’の地位を勝ち取った」 
「・・・ヴォルフラム教官には、今でも言われます。『折角死ぬ前に追い出してやったのに、‘死ぬ思いをして死にに帰ってくる’馬鹿は初めてだ』と。 
実際、なんども死にかけました」 
イルドルフの表情が笑みによって崩れた。 
笑うと、年齢より押さなく見える笑顔だ。 
「・・・でも、異端審問官となり、ほんの少しでも誰かの力になる事は僕の目標でしたので、諦める訳にはいきませんでした」 
「君を異端審問官に導いたのは、‘マトレイヤの紋章’でも‘聖女の護衛’でもない。 
絶対の困難に直面した際に、正面を向き歩き続けた事が、君をここまで導いたのだ」 
アウグスの細い指が、イルドルフの胸を指し、続けて大聖堂に向けられた。 
「正‘異端審問官’になることで、見習いとは比較にならないほど担う責務は増える。 
だが、君なら逃げずに、負けずに歩み続けると信じている」 
アウグスの言葉が大聖堂に朗々と響く。 
イルドルフの全身に身震いが走った。 

「私からの質問だ。 
イルドルフよ。異端審問官の最も大切な責務は何と心得る?」 
イルドルフは僅かに考えた。 
様々な答えが浮かんでは消える。 
‘異端を狩る’。 
‘法王庁の教義を広める’。 
どれも異端審問官に課せられた大切な責務だ。 
だが、イルドルフにとっての‘異端審問官’は更に別の意味がある。 
だが、それを言ってもいいのか? 
‘異端審議長’アウグス・フォルケンスを前にして言ってもいいのか?」

「アスガルド半島で暮らす全ての人々を守る事です」 
一度口にしてしまえば、迷いは消えた。 
「・・・アスガルド半島には、多くの人が暮らしている。 
貧民、悪人も、‘異端者’もな」 
「どんな人でも、その環境に身を置いているのは、理由があったからだと思います。 
だから、その環境から抜け出すのも、何か理由があれば・・・。 
その、上手く言えないんですが、僕が動くことで、‘理由’をその人たちが掴むきっかけになれたら、と」 
「・・・人は死ぬ。 
だが、死ぬまでの間は懸命に生きる。 
善人も、悪人も。 
富者も貧民も。 
英雄も平民も。 
その人生で行われた全ての出来事は尊い」 
「人の死は悲しまなければならない。 
人の生は尊ばなければならない。 
救える事を喜ばなければならない。 
それは、強さよりも、信仰も大事な事だ」 
一言一句が、胸に刻まれていく。 
アウグスの言葉をイルドルフはただ聞き入った。 
「なぜならそれは‘正義’だからだ」 
イルドルフは頷いた。 
「それが分かれば、君は良い異端審問官になる」 
その時、イルドルフは生涯に一度だけ、アウグスが笑う所をみた。 
不器用で、無防備な笑顔だった。 

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