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小話 前夜

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「襲撃前のとある夜 アニエスとイルドルフ」


扉をノックする音に、女性の涼やかな声が、入室を許可した。
部屋に入って来たのは神父服を着た中年の男だった。
「こちらに居る事の方が多いのですね、アニエス導師」
低い男の声だが、それは威圧感よりも安心感を与える。
「アカデミーの若い子たちに囲まれていた方が、気持ちが高揚するもの。
ようこそ、『マトレイヤの少年』イルドルフ君」
手にしていた書類を机上に降ろしながら、いたずらっぽい口調でアニエスが笑う。
「……照れますね。アニエスさんの前では、ほとんどの者が子供扱いされますよ」

何も知らない第三者が居れば、それはおかしな会話に思えただろう。
入室した男、イルドルフ司祭は、年齢のわりには鍛えられ引き締まった体をしていても、少年などと呼ばれる年齢ではない。
薄茶色の髪にはわずかに白髪が混じっているが、それは『衰え』よりも『成熟』を感じさせる。
その完成された立ち居振る舞いは、彼の肩書きを知れば誰しもが納得するであろう。
法王庁のエリートである『異端審問局 第7課課長』。
最難関と言われる異端審問官の、その彼らを束ねる課長である。

そして彼を少年と呼んだ女性、アニエスは20代の中頃に見える美しい女性だ。
くせのある金髪を軽く掻き上げ、眼鏡をかけ直す様はどう見てもイルドルフよりも若い。
彼女は男に椅子を勧め、自らはもてなしの準備をする。
「何にする? ブレカーニ製の紅茶があるけれど」
楽しそうな様子で、金髪の麗人は茶の準備をし始める。
「では、それを戴きます」
答える客の男は、無表情だ。
だが、親しい者が見ればいくらか和んでいる表情だと分かるかもしれない。

アニエスは、国家錬金術師である。
それも最上級である『第一階位』であり、アカデミーの校長をも兼任している。
彼女がその気になれば茶の準備など、両手ほどの数の者たちに任せる事も可能だ。
だが、彼女はそれを他人には任せない。
『私の気分転換を邪魔しては駄目よ。それに、もてなしは技術よりも心なのだから』
と微笑み、頑(かたく)なに自ら淹れる。

「……………」
出された紅茶を飲み、イルドルフは安堵にも似た溜め息をつく。
アニエスも優雅にカップを傾け、最高傑作に満足するように、うんうんと頷いている。
「それで………やはり話にくい事なのね。その理由も、私を気遣ってかしらね」
かちゃり、とカップが音を立てる。
彼女の表情は、イルドルフからしても変化が伺えない。
この年になっても、まだまだ修行が足りないと男は思う。
イルドルフの心の迷い、気遣い、ここに来た理由のほとんどを看破されたのだから。
「……先日、第四教区パナコスの砦が襲撃されました。その場に残された血文字です」
アニエスは静かに報告書に目を通す。
ただそれだけでも、まるで完成された一枚の絵画のようだ。
「……………」
彼女の表情は変わらない。
だが、それが逆にアニエスへの衝撃の大きさを物語っている。
常の彼女は、不自然なまでに表情豊かであるから。


『親愛なる 姉へ

止まった世界を動かしましょう
9本の逆十字と、無数の装飾逆十字によって

止まった時を動かしましょう
永い時を歩いてきた数少ない子供たちの手で』


アニエスは軽く溜め息を吐くと、書類を戻す。
「実は同様の報告が、第10教区『アストリテ教会』でもあってね……」
彼女は別の書類を、イルドルフへと渡す。
その報告書はなんの飾りも無い味気ないものだ。
だが、その内容は簡潔かつ要領を得ている。
報告作成は……法王庁第8課。
「そう、ライナス君もほんのちょっと前にそれを送ってくれたわ。
 忠告もされた。……ふふっ、皆いつまでも子供じゃないものね」
「あいつは昔から、子供じゃありませんでしたよ。……別格でした」
懐かしい記憶の甘さと苦さを噛みしめながら、イルドルフは呟いた。
「……………」
同様の台詞をライナスも漏らしていたのだが、アニエスはただ黙っている。
他人である彼女が口を出すべきでは無いと思っているからだ。

『アニエス姉さん』

銀髪の妹だった存在を思い出し、男と同様に過去の味を噛みしめる。
だがそれは、表情には微塵も表れない。
長い経験による長所とも短所とも言える。
変わらぬ微笑のまま、軽い自己嫌悪に陥る。
「警戒レベルを1段階上げましょう。それ以上は必要無い……犠牲者が増えるだけだから」
紅茶はすでに冷め、酸味が強く感じられた。


「それでは失礼します。『アニエスさん』」
「ええ、またね。『イルドルフ君』」
出会った頃の呼び名で、二人は別れた。
後に片方は、これが二人の最後の挨拶であった事を思い出すことになる。
聖都ロンバルディアを見下ろす錬金術師協会本部『賢者の塔』。
月光に照らされた屋上には、その白銀を照り返すような髪を持つ女性が一人。
「ふふっ……ふふふふふっ…………」
彼女の笑い声が夜風に流れる。
漆黒の闇の中を、人々の生活の光が宝石のように輝く。
街を巡回し終えた冷たい夜風に、彼女の銀髪が舞い上がる。
「醜いわね」
聖都ロンバルディアの夜景は、『価値が付けられないほどの高価な芸術品』と評する者がいるほどだが、銀髪の女性、ラニエル・ベルザインは逆の評価を下す。
くせ一つない手入れされた髪を掻き上げるだけで、それは完成された女の美しさを醸し出す。
甘い女の声は、その声色とは逆の言葉を発する。
「虚飾に満ちている偽善の都。本音、本心を包み隠し摩耗するだけの日常。
 偽りの平和、虚偽の教え、強者に従順な豚どもを作り上げる柵の中の景色………
 あなたは、そう思わない? アニエス?」
振り向いたラニエルの微笑は、世のほとんどの男を魅了するであろう。
それほどまでに美しく、完成された美貌。
「……戦乱で無為に散っていく命を美しいと思うのならば、この都は醜く見えるかもしれない。
 けれど、間違いながらでも必死に生きていこうとする人たちを、彼らが作った都を、私は美しいと思うわ。ラニエル」
塔の屋上には、二人の女性の姿がある。
銀髪の艶やかな髪を踊らせ、微笑を浮かべるラニエル。
金髪のくせのある髪を靡かせ、ゆっくりと歩むアニエス。
「待ったわ……この日を待った。
何百、何千の太陽と月とがこの腐った世界を照らす日々を過ごした。
ベルザイン父様が居なくなった無味乾燥の世界の終わりを願った。
そして………あなたをこの手で殺すこの日が来るのを待ちわびたわ、アニエス」
まるで愛しい家族に再会したような、美しい微笑でラニエルが告げる。
殺意が膨らみ、熟成され、それは『愛憎』と呼ぶべきものにまで昇華されたのかもしれない。
彼女の微笑みは美しく、そして殺意に満ちている。
「さあ、始めましょう! 終わりの始まりを!」
ラニエルの言葉を合図にしたかのように、彼らは、9本の逆十字は動き出した。
 

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