八課の1シーン①
法王庁西区画、鳳(おおとり)の庭園。
広大な敷地を誇る法王庁の中では中規模の庭園には、晩秋の冷たい風が吹き込んでいた。
アスガルド半島の高山植物を中心に植えられた庭には、数箇所に大小の池が作られ、清浄の光景となっている。
散策者にとっては心休まる光景にもなるが、この場所に足を踏み入れる者は、法王庁広しといえども殆どいない。
静寂に包まれた鳳の庭園の中心部に存在する天候観測のための小屋こそが、法王庁異端審問局第八課課長ライナス・バルグの実質的な執務室であるからだ。
第八課異端審問官ルシアーノ・ベルティは、その上背を沈みかけた夕日に晒していた。
水面を抜ける秋風は冷たく乾いていたが、観測小屋の前に起立するルシアーノが纏った異端審問官制服の裾を乱すだけで、ルシアーノ自身は微塵も震える事はなかった。
『日照から日没までの間、執務室周辺の見張り』。
それがライナス・バルグより言い渡されたルシアーノの今日の任務だった。
異端審問官に任命され二年、‘聖務’に同行する機会は増えたが、‘異端審問官’として直接役に立っている実感は薄い。
異端者に対峙した際の自分の行動が、第八課の他の審問官と比較して、明らかに未熟であることはルシアーノ自身が痛感していた。
ジャンルイジの直接戦闘能力。
エスピノーザの遠距離戦闘能力。
ジュノイの情報分析と作戦立案能力。
いずれも際立っている反面、‘異端審問官としての品格が問われる’程の強硬な姿勢は、法王庁内外から批判の対象となっている。
ルシアーノ自身、八課配属当初は感じていたことだが、‘異端は必ず裁く’という八課の理念の下で結果を出し続ける彼らに対し、自身も結果を出さなければ意見することも変革を求めることも不可能だと気づいた。
ルシアーノにとっては、たかが‘見張り’と言えども、ライナスより与えられた任務である事には変わりはない。
制服の下には鍛鉄縫いこまれた帷子を着込み、右手には手甲型AF‘フェンリルの牙’を装着し、直立不動の姿勢のまま、夕暮れの中立ち続ける。
そのルシアーノが中庭に近づく二つの人影に気づいたのは、夕陽が水面に溶け込む寸前の時間帯だった。
長身の男と、細身の女。
男は簡素な聖職衣に紫布の肩掛けを纏い、背筋を伸ばした歩き方からは揺ぎ無い自身と威厳が感じられた。
落ち着いた眼差しを宿すよく整えられた頬髯と皴に包まれた表情から判断すると、年齢は50歳前後か。
重厚な威圧感さえ感じる。
傍らの女は、対照的に印象は‘軽い’。
尼僧服姿ではいるものの、襟元には派手な金刺繍が施されており、茶黒色の頭髪は頭巾を被らず、無造作に後部で束ねられている。
好奇心を隠そうともしない瞳と、何かを期待するような微笑を浮かべた表情から年齢を判断するのは難しいが、二十代半ばから後半といったところか。
「第八課所属異端審問官ルシアーノ・ベルティの名に於いて警告します。この先は異端審問局第八課の管理地となります。立ち入るには、異端審問局発行の許可証が必要になります」
姿勢を正し、規定に沿った詰問をするルシアーノを頬髯の男が足を止め、凝視した。
「ライナス・バルグ殿はおいでか?」
深く重厚な声が、ルシアーノに向けられる。
威圧感はないが、人を従わせるのに適した威厳を伴った声だった。
礼節と親しみを含んだ口調から判断すると、ライナスの客人の可能性が高い。
だが、例え直属の上司の客人であっても、ルシアーノには果たすべき役割があった。
「許可証がなければ、その質問にもお答え致しかねます。面会のお約束があれば、まずは許可証の提示をお願いいたします」
「あんた、さ」
傍らに控えていた女が、ルシアーノの詰問を遮る。
「異端審問官よね? 異端審問官が、あたし達が誰だか分からないの?」
女の声には、哀れみと嘲笑が含まれていた。
多少腹立たしくはあったが、融通の利かない性格をからかわれるのはいつもの事だ。
それに記憶力は悪いほうではないが、この二人と過去にあった覚えはない。
ルシアーノ改めて二人の服装を見直す。
儀礼ただしい神父服に、着崩した尼僧服。
いずれも、聖職位を示すような装飾品はつけてはいない。
だが、異端審問官の正装で、かつ‘異端審問印(マグノリア)’が刻まれた聖印まで下げたルシアーノと対峙しても、物怖じしない態度から判断すると、別の課の所属である異端審問官である可能性が高い。
「申し訳ありませんが、存じません」
「あっそう」
女は拍子抜けしたかのように呟いた後、僅かに身を屈める姿勢をとり、再度問いかける。
「ねえ、あんた、ここの当直だよね」
「そうですが」
答えながらもルシアーノは僅かな違和感を覚える。
「少しは‘使える’の?」
何が‘使える’のかは、ルシアーノには分からない。
先ほどより、違和感は増していた。
だが、自分で何に違和感を覚えているのかが、理解できない。
短く息を吐き、精神を落ち着かせる。
「‘使える’かって聞いているんだよ、あたしは?」
再度、質問を浴びせながら女は庭園に足を踏み入れる。
「やめなさい、フェルメノ」
頬髯の男が、無作法を咎める様に歩を進める女を呼び止める。
「いいじゃない、ローフェルマルス。第八課異端審問官がどれ程‘使える’か、試してやるのさ」
ローフェルマルス、フェルメノ、どこかで聞いた名前だった。
だが、ルシアーノにはそれを思い出している余裕はなかった。
違和感の正体が、フェルメノと呼ばれた女から発せられていた微量の殺気だと分かったからだ。
枯れ草を踏みながら近づいてくる女は、今は殺気を隠していない。
むき出しの殺気を向ける女に対して、ルシアーノは右手に装着した‘フェンリルの爪’を構える。
「最後の警告です。許可証の提示を・・・」
「まだ気づかないのかなぁ」
AFを向けられてなお、悠然と近づくフェルメノの横顔に、肉食獣めいた笑みが広がる。
「あたしはあんたと戦いたいのさ。これだけあたしがその気になっているのに、まだ気づかないの?それとも気づかないふりをしているの?」
「それに、君はもう一つ気づいていない事がある」
ローフェルマルスと呼ばれた男の立ち位置は先ほどと変わっていない。
だが、全身から発せられる威圧感が格段に増していた。
「我々は、ライナス・バルグ殿の客人ではない」
不適な色を宿した眼光がルシアーノを捕らえる。
「-侵入者だ」
直後、ルシアーノの全身を凄まじい衝撃が襲った。
一瞬で詰まる間合い。
斜め下方から心臓目掛けて突き上げられた拳。
いずれも、一片の躊躇もない。
ルシアーノを殺すという目的に対して、簡略にして最適化された動きであった。
「ふうん」
自信があった一撃だけに、‘フェンリルの爪’により受け止められたフェルメノは、感嘆めいた微笑を浮かべる。
一方のルシアーノには、冷汗が奔る。
‘フェンリルの爪’を手甲型から盾型へ形状変化させたため、防御行動が間に合ったものの、眼前で微笑を浮かべる女が高速の一撃を放ちながらも、まだ余力を残しているのは明らかだった。
さらに、一切の武器を使用せず、素手での一撃だ。
素手でありながら、AFを第一段階まで展開させた自分を遥かに陵駕する力量を秘めている。
「この程度なら受けられるんだ」
フェルメノの微笑が、嘲笑に変わる。
獲物を吟味する肉食獣のような視線が、ルシアーノの顎から腹に掛けての体幹をなぞる。
「・・・侵入者は排除する」
だが、格闘戦であればルシアーノは‘接近戦最強’と謳われるジャンルイジと毎日のように模擬戦をこなしている。
先ほどの高速の一撃も軌道を‘視る’ことが出来た。
‘視る’ことが出来れば、戦いようはある。
「じゃあ、これはどう?」
喜色を帯びた声と共に、フェルメノの右腕が動く。
先ほどより更に早い速度で、拳がルシアーノの胸部に迫る。
ほぼ密着状態の間合いだ。
避せない。
次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を奔った。
衝撃は胸から背面に抜け、内臓を揺さぶり、背骨を軋ませ、腰から膝を砕く。
鍛鉄で補強した帷子が、衝撃に耐え切れず審問官制服の内側から吹き飛ぶ
意識が遠のき、暗転する視界の中、ルシアーノは模擬戦でのジャンルイジの言葉を思い出す。
あれは確か、ジャンルイジに触れる事も出来ず、卒倒させられた時だ。
なおもしつこく食い下がるルシアーノに対して、ジャンルイジが語りかけた。
『攻撃を当てるコツ、教えましょうか?』
-あるんですか、そんなの
『簡単です。相手が‘守る’意識の時より、‘攻める’意識の時を狙って下さい。
先ほどルシアーノさんは、どうにかして僕に攻撃を当てようとしていた。
意識が‘攻め’に偏っていました。』
-だからジャンルイジさんは自分に攻撃を与えられた?
『後は、相手の‘攻め’の意識を見極めれば、決まりです。
この辺は経験も必要ですが、それ以上に必要なものがあります。
むしろ八課で異端審問官をやる以上、一番必要と言えるかもしれません』
-なんですか、その必要なものとは?
『それは・・・』
「やっぱり、物足りなかったかな」
長髪をなびかせると、フェルメノは踵を返した。
「お待たせ、ローフェルマルス。行きましょうか、ライナス・バルグの所に」
「・・・もう少し、待つとしよう」
振り返ったフェルメノは、瞬殺劇を見せ付けたローフェルマルスの眼光が先ほどより鋭くなっている事に気づく
「えっ?」
「・・・まだ終わりではないようだ」
「・・・第八課異端審問官にとって、必要なもの」
夢遊病者の呟きの如く不明瞭な声が、フェルメノの背に追いすがる。
「なるほど、頑健さだけは認めるわ」
振り返りもせず、フェルメノは苦笑をもらす。
背後のルシアーノからは、‘死に損ない’だ。
勝負はついているが、頑健さだけが取り柄の相手に仕留めそこなった不愉快さがあった。
「だけど、しつこいんだよ」
三度、拳を振るいながらフェルメノが叫ぶ。
頭蓋を砕けば、流石におとなしくなるだろう。
雷鳴のような一撃だ。
不愉快さを消し払うための一撃であり、‘死に損ない’が反撃することなど、微塵も考えてはいなかった。
「それは・・・」
眼前に迫る拳に対し、ルシアーノは無心で笑う。
ジャンルイジの言った通りだ。
今なら、こちらの攻撃は当たる。
‘フェンリルの爪’放爪機能、解除。
「‘覚悟’だ!」
ルシアーノが叫ぶと同時に、濃厚な霧が‘フェンリルの爪’より放たれる。
「ぬう」
‘霧’が放たれた瞬間、ローフェルマルスは聖職衣の端を眼前にかざした。
直後に拡散する‘霧’。
‘レニスの赤布’を準拠に織られた法衣を通しても、冷気が奔る。
「これは・・・」
法衣を解いたローフェルマルスの眼前に広がっていたのは、完全なる白い世界だった。
庭園の草が、池が、樹木まであらゆるものが、ルシアーノを中心に凍結している。
超冷気の完全なる全方位放出。
「不覚をとりましたな、フェルメノ」
氷ついた庭園に足を踏み入れたローフェルマルスは、ルシアーノの前に蹲るフェルメノに声を掛ける。
「つまらないわね」
尼僧服を凍らせた霜を払いながら、フェルメノが立ち上がる。
‘レニスの赤布’と同様の対呪効果を持つ聖衣だが、流石に振りかざした右手は放出された冷気に晒された。
凍傷により赤黒く変色した右拳は、しばらくは使い物にならないだろう。
「ここまでやりながら、もう終わりだなんて」
フェルメノは眼前のルシアーノを見つめる。
自身のAFが放った冷気に直接さらされた体は、右半身が氷に覆われている。
流石に意識はないようだ。
「もう少し、遊んでもよかったのに」
「・・・なら、続きは私が相手となろう」
「!?」
氷ついた庭園の観測小屋の扉が、内側から斬り跳ばされる。
黒衣の男が立っていた。
痩身長躯。
銀製縁の眼鏡を奥から放たれる猛禽めいた眼光。
「これは、これは直接お声掛け頂けるとは、感激の至り」
「いつもあたし等がきても門前払いの癖に、今日は出迎えに来てくれるの?」
慇懃に礼をとるローフェルマルスと、挑発的な視線を向けるフェルメノに対し、黒衣に包まれた体を冷気の中へと進ませながら男は答える。
「このライナス・バルグに何のようだ。第十課課長ローフェルマルス、十一課課長フェルメノ」
「用件は、簡単です」
ライナスの射抜くような眼光を受け流しながらローフェルマウスは頬髯の下に笑みを浮かべた。
「ケルビウ産87年産の葡萄酒を手に入れましてね。
この年は日照時間が長く小雨でしたから、芳醇な香りをご一緒に楽しみたいと思って
お誘いに来たのですよ」
温厚な笑みを浮かべ、ローフェルマウスは腰袋から古びたラベルの貼られた小瓶を取り出す。
「あたしは、まあ暇つぶし、かな。
久しぶりに投庁してみたら、ローフェルマルスがあんたを飲みに誘うって言うから付いて来た」
「生憎、酒の肴は持参しておりませんので・・・」
頬髯の下の笑みが、僅かに深くなる。
「三日後の‘異端審議会’の話題などもさせて頂ければ、よい肴になるかと思います」
「・・・お誘い頂いて、感謝する」
対するライナスのローフェルマルスに向ける眼光は鋭くなる。
異端審問局第十課課長ローフェルマルス。
粗暴な戦闘集団として悪名高い第十課を束ねる‘断絶公’異名を持つ偉丈夫である。
異端審問局の課長の中でも指折り政治的手腕を誇り、法王庁の内外を問わずその才能を発揮している。
異端に対する強硬な姿勢はライナス率いる第八課と同じであるが、異端の殲滅と同時に自らの利を優先し、他者を出し抜く狡猾さも備えている。
ライナス自身、半年前の‘ザッシュ・ネイビスの反乱’事件の際には、審議会にて不要な責を糾弾された経験がある。
そのローフェルマルスが、政治的関心は皆無な第十一課課長フェルメノを同席させ、ライナスに‘審議会’の話題を持ちかけている。
その姿は、毒餌を晒して猛獣を従えようとする猟師を連想させる。
「手狭な執務室だが、お招きいたしましょう」
ライナスは同意する。
毒餌には興味は無いが、審議会を前にローフェルマルスの本意を掴んでおく事で、手札を増やすのも悪くない。
「その前に・・・」
ライナスは半身を自らのAFが放出させた氷に閉ざされたルシアーノに近ずく。
「‘特例稽古’をつけて頂いた未熟な部下に一喝を入れても構わぬか?」
「もちろん。‘紅蓮腕’フェルメノ・キルスに手傷を負わせるとは、優秀な部下をお持ちですな」
法王庁無許可による立ち入りと戦闘行為を盾に、ローフェルマルスに圧力を掛ける掛ける事も出来なくはなかった。
だが、そうなったら直接戦闘に関与したフェルメノとルシアーノに責任を負わせるだけだろう。
愚直に聖務をこなすルシアーノと、挑発と戦闘行為をこよなく愛するフェルメノ。
騒ぎになれば、八課と十一課に責任を負わせ、わが身は被害者を装う。
「機会があれば、もう一度立会いを見学させてもらいたいものですな」
ローフェルマルスは快活に笑ってみせ、同意を求めるように傍らのフェルメノに視線を移す。
「まあ、あたしの十一課の連中と比べたら、前座みたいなものだけどね」
僅かに強がりの混ざる返答をするフェルメノには、ローフェルマウスの算段は気づいていないだろう。
他人の思惑など気にもせず、我道を進むのがフェルメノだ。
追随を許さぬ戦闘力で、二十六歳という若さで課長の地位まで上り詰めた。
ローフェルマルスとは間逆のタイプだが、こちらはこちらでやり難い。
「ジュノイ、私だ」
ライナスは懐から取り出した通信管で、支持を出す。
「ルシアーノが‘特務稽古’中に負傷した。火草種と強心剤を持って私の執務室まで頼む」
ライナスが通信を着る頃には、既に夕陽は秋空を残して沈んでいた。
長い夜になりそうだ。