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与茂七の帰藩
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与茂七の帰藩
山本周五郎
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[#6字下げ]上の竹刀[#「上の竹刀」は大見出し]
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
金吾三郎兵衛は「白い虎」と呼ばれている。
三河ノ国岡崎藩の大番頭の三男に生まれ、昨年の春との彦根藩の金吾家へ婿に来た。金吾五郎左衛門は四百石の御具足奉行で男子が無かったため、一人娘の松子に三郎兵衛を迎えたのである。
然し直ぐ婿の気質を見て取った五郎左衛門は、
――当分のあいだ二人で暮すが宜かろう。
と云って、城へは少し遠かったが、松原の湖畔にある別屋敷を夫婦の住居に与えてやった。
其処には僅《わず》かな召使しかいなかったし、殆《ほとん》ど近所との往来も無かったので、一年余日は極めて暢気《のんき》に新婚生活を送ることが出来たのであった。
三郎兵衛の風貌はどちらかというと女性的であった。色白で眉が細くて、躰つきもすんなりしている。殊に睫《まつげ》の長い眼許や、いつも油を附けているような艶々とした髪などは、通りすがりの人眼を惹《ひ》くほど美しかった。……ところがその艶冶《えんや》な風貌とは凡そ反対に、彼の性格はひどく粗暴で峻烈《しゅんれつ》だった。
無論そう云っても、ただ訳もなく粗暴なのではない。彼は中村流の半槍を熟《よ》くするし、また一刀流の剣を執っては、彦根へ来て半年も経たぬうちに藩の道場「進武館」の筆頭の席を占めたくらいであるが、その半槍も刀法も極めて荒く、どんな段違いの相手に向っても遠慮とか加減とかいうものがない。
――武道に手加減があって堪るか。
理窟は正にその通りだが、彼の峻烈さはその道理を遥《はるか》に越していた。
進武館の筆頭となってからは、儕輩《さいはい》を押えているという感じから来る一種の驕慢《きょうまん》さが、どうしようもなく彼の態度に表われた。近頃の彼は道具を着けず、素面《すめん》素籠手《すごて》で道場へ出るようになった。
彼が袴《はかま》の股立を取らず、竹刀に素振をくれながらまん中へ出て来て、
――さあ誰か来い、稽古をつけてやる。
と喚《わめ》く姿は実に颯爽《さっそう》たるもので、綽名《あだな》の「白い虎」という意味がぴったり当っていた。
――高慢な面だ。
――新参者の分際でのさばり過る。
――いちど音をあげさせてやれ。
そういう嫉視と反感が集って幾度か腕力|沙汰《ざた》があった。然しその度に辛き目をみるのは挑んだ方の連中で、三郎兵衛はその強さと、胆の太さで益々藩士たちを圧倒して行く許りだった。
斯《か》くて湖畔に初夏が訪れて来たとき、藩士たちが手を拍って喜ぶ事件が起った。
其日。……三郎兵衛が進武館の道場へ出て、竹刀を取ろうとすると、筆頭であるべき自分の物が一段下にさげられ、昨日まで自分のがあった場所に見慣れぬ竹刀が架けてあるのをみつけた。
「誰だ、こんなことをしたのは」
彼は振返って叫んだ。
「金五郎、この竹刀はどうしたんだ。……なぜ黙ってる、誰がしたんだ」
「そ、……それで宜いんですよ」
門人たちの雑用する少年が怖々《こわごわ》と答えた。
「なに、是で宜いんだと、馬鹿め、貴様なにを寝|呆《ぼ》けているんだ、十六歳にもなって竹刀の順序も知らんのか、それとも……」
「そうだよ」
滝川伝吉郎が意味ありげに立って来た。そして態《わざ》と三郎兵衛の耳に口を寄せながら、
「それで宜いんだよ金吾、その上の竹刀はそっと置くがいい」
「判《はっ》きり云え、どうしたというんだ」
「その竹刀には触らぬ方がいい」
「そうだ、そうだ」
向うに並んでいる連中も、それに附けて一斉に云った。
「その竹刀に手を附けてはいけないぞ」
「手を触れば手、足を触れば足が飛ぶ」
「それだけはそっとして置くがいい」
三郎兵衛はぐるっと見廻した。……みんな何か意味ありげな擽《くす》ぐったそうな眼つきをしている、今までに感じたことのない空気だった。
「訳を云え、この竹刀がどうかしたのか」
「帰って来たんだよ」
伝吉郎がさも秘密なことを明すように、耳へ口を寄せて囁《ささや》いた。
「与茂七が帰って来たんだ」
「……何者だと?」
「与茂七だ、斎東与茂七が江戸から帰って来たんだ。貴公がいま『虎』と云われているように、彼は三年前まで進武館の『野牛』と云われていた、乱暴者で喧嘩早くて、高慢で癇癪《かんしゃく》持で、いちど怒らしたら血を見るまでおさまらぬという男だ。……いいか金吾」
伝吉郎は一層その声をひそめて、
「その竹刀は彼のだ、それに触ってはいけない、また彼が出て来たら温和《おとな》しくするんだ、与茂七には構うんじゃないぞ」
「……そうか」
三郎兵衛はにやりと頷《うなず》いた。……そして与茂七のだという竹刀を取ると、道場のまん中へがらがらと抛《ほう》出して叫んだ。
「誰でもいいから、与茂七という男が来たら拙者に知らせて呉れ、……それから、その竹刀に手を附ける奴は許さんからそう思え」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「会うことは出来ぬと仰せられます」
「どうしたんだ、御機嫌ななめか」
与茂七がけろりとした顔で云うのを、家の仁右衛門老人は気の毒そうに見て、
「御立腹ですぞ、なにしろ江戸の事は一々こちらへ通知が来て居りますからな、一時は叔父|甥《おい》の縁を切るとまでお怒りでございました」
「誰がそんな余計な世話をやいたんだ。江戸ではずいぶん慎んでいた積りだがなあ」
「貴方の慎むは当になりません。軽部様の腕を折ったり、御老職の玄関で三日も居据わったり、町人共と喧嘩をして七人も怪我をさせたり、牢役人に金を掴ませて罪人の首を斬ったり、……この仁右衛門が伺っただけでも、まだまだ数え切れぬほどございますぞ。是では困ります、是では御立腹が当然でござります」
「ちょッ、誰がそんな、そんな詰らぬ事を一々告げ口し居ったんだ、……備後か」
「誰でも差支えございません。彦根に置いては駄目だ、江戸へ出して広い世間を見せたら、行状を改めるであろうという思召でなすった事が、江戸へ出ても同様どころか輪を掛けたお身持ではござりませぬか、こんな有様では」
「いいよいいよ、もう沢山だ」
与茂七は手を振りながら刀を引寄せた。
「仁右衛門の小言を聴いたって仕様がない、御立腹なら押してお眼にもかかれまいが、……ではおまえから宜しく申上げて置いて呉れ、またお怒りの解けた時分に参上仕ると」
「貴方さえ御素行をお慎みになれば、お怒りは直ぐに解けまする」
「己だけ慎んだって仕様がないさ」
与茂七は又けろりとして云った。
「己だって山猫でも狼でもないから、相手なしに暴れる訳じゃないんだ、幾ら己が謹慎していようと思っても、側から馬鹿共が来て突つきたてるんだから仕様がない、それでも叱られるのはいつも己と決ってる、いつも己だ、……小さい時分からそうだった、誰かが泣くとそら与茂七、誰かが木から墜ちるとそら与茂七、赤ん坊が泣いても己が腕でも捻上《ひねりあ》げたと思ってる。……是では迚《とて》も凌《しの》ぎがつかないぞ仁右衛門」
「……なるほど、貴方様はいつも、お部屋に凝乎《じっ》としておいでなされましたからな」
「全くいつもいつもお机の前で、膝に手を揃えて御書見ばかりあそばしていましたからな、そんな事を云う世間は怪《け》しからぬ次第です」
「もう宜いよ、饒舌《しゃべ》っただけ損をした」
与茂七は立上って、尚も繰返して意見をする仁右衛門と共に玄関へ出た。
門を出て、さてどうしようかと迷っていると、いま登城するところと見えて、旧友の榊市之進が、下郎を従えて此方へ来るのをみつけた。
白く乾いた道に、陽はもうぎらぎらと強くなっている、市之進は扇を額に翳《かざ》しているので、側へ近づくまで知らずにいた。
「やあ帰ったか、いつ?」
「昨夜だ、遅かったので何処へも挨拶に出なかったんだ。いま此処へ来たんだが、……到頭お出入り差止めを食った」
「そうだろう」
市之進は笑いもせずに頷いた。
「作左衛門殿は一徹人だし、貴公はまた、……いや、こんな話を今更したところで仕方がない、今日は早く下城するから拙宅へ来て呉れ」
「よし、鶏を二三羽つぶして行こう、江戸の不味《まず》い鶏には弱ったよ、酒を頼むぞ」
「相変らずだな」
別れようとして市之進がふと、
「是は念のために云って置くのだが、金吾の松子さんに婿が来たのを知っているか」
「……松子に婿が」
与茂七の額がすっと白くなった。……市之進はその白くなった額から眼を外《そ》らして、
「岡崎の大番頭の三男で三郎兵衛という、来てから一年とちょっとになるが、今では、すっかり進武館の筆頭を押えている、少し烈し過ぎるが頭も良いし、……金吾殿も松子さんも満足のようだ」
「そうか、……それは、良い婿がみつかって、宜かったな」
「貴公も祝ってやるべきだな」
そう云って市之進は別れた。
与茂七は射しつける日光が眩しいのであろう、眉の上へ手を翳しながら、暫く途方に暮れたような足取りで歩いていた。
日に焦けた健康そのもののような頬に、髭の剃り跡が青々としている、眉太く鼻大きく、ひき結んだ唇は強情我慢を絵に描いたようだ。
斎東の家は彦根藩でも出頭の家柄であった、彼は父茂右衛門の末の子であったが、上の兄姉が三人とも夭折したので、ひどく我儘に甘やかされて育った。そのためばかりでもあるまいが、もう四五歳の頃から腕力では群を抜き、「斎東の悪童」と云って、彦根中の親たちから眼の敵にされ始めた。
[#6字下げ]虎と野牛と[#「虎と野牛と」は大見出し]
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
九歳のとき母を喪い、十三で父を亡くした彼は、十一歳の秋まで叔父の当麻作左衛門に引取られて育った。
然しそうした境遇に在りながら、彼の持って生まれた明けっ放しな性格と、その不屈な負けじ魂とは些かも変らず、寧ろ益々増長する許りだった。
彼は力が強く、また武芸には天才的な才能を持っていた。なにしろ十八の年から二十五歳で江戸へ去るまで、進武館の筆頭として代師範を勤め通したくらいであるが、その反面には「斎東の悪童」と呼ばれた本領を遺憾なく発揮して、良い意味にも悪い意味にも、彦根藩の圧倒的存在になった。
当麻作左衛門はずいぶん骨を折って甥の性格を撓《た》め直そうとしたが、結局は違った世間を見せて、詰りもっと烈しい人生の風に当ててやるより仕方がないと考え、彼を江戸詰にしたのである、けれど其処でも彼の奔放な性格を抑えつけるものはなかった。寧ろ狭い池から海に放たれた鯱《しゃち》のように、羽を伸ばして存分に暴れ廻ったのである。
三年のあいだに「御叱り」を受けること四度、謹慎を命ぜられること五度という、活のいいところを見せ、再び帰って来たのであった。
「さて、……」
与茂七は辻へ来てふと立止った。
「それでは金吾へは行けずか、……叔父殿御立腹で当麻は門止めと来た、といつは帰来風雪厳しというやつだぞ。……仕様がないから進武館でも見舞うか」
彼は辻を右へ曲った。
進武館では竹刀の音が元気に響いていた。……彼は別棟になっている師範の住居を訪れ、恩師鈴木中通に帰藩の挨拶を述べた後、道場へ出掛けて行った。……其処では三十人ほど稽古をしていたが、与茂七が来たのを見ると、みんな一斉に止めて、面を脱《と》りながら脇へ居並んだ。
「やあ、みんな暫くだな」
与茂七は無造作に手をあげて、
「また帰って来たから宜しく頼むぞ。山越どうだ、幾らか上達したか、芹沢はどうだ、赤ん坊も三年経てば三つになる、少しは物になりそうか、どうだ楯岡。……ひとつ久し振りにぐるっと揉んでやろう。金五郎」
「はい」
「ほう……貴様大きくなったな、幾つだ」
「十七です」
とび出して来た金五郎は、照れたように顔を赤くした。与茂七はその頭をひょいと押してやりながら、
「もう元服だ、確《しっか》りしなくちゃ駄目だぞ、己の道具を持って来い、手入れはちゃんとしてあるだろうな」
「ええちゃんと綺麗にして置きました」
金五郎と一緒に去った与茂七は、稽古道具を着けて出て来ると、竹刀を取ろうとして近寄った。……然し当然そこにあるべき自分の竹刀が無い。
「おい、己の竹刀はどうした」
与茂七が振返って叫ぶと、……二三間離れた処で、さっきから凝乎と彼の動作を見|戍《まも》っていた三郎兵衛が、
「貴公の竹刀なら、彼処にある」
と云って脇の方へ顎をしゃくった。
与茂七が見ると、隅の方に見覚えのある自分の竹刀が抛《ほう》りだしてあった。
「誰だ、己の竹刀を抛りだしたのは」
「……拙者だ」
三郎兵衛が答えた。
みんな驚破《すわ》とばかり息をのんだ。
与茂七は投げ出してある竹刀と、門人たちの異様な視線と、それから相手の顔を見た。
三郎兵衛の白皙の顔は、嘲りと侮蔑と、明らさまの挑戦の意を表白している。彼は足を踏開いて立ち、竹刀を右手にのしかかるような構えで与茂七を睨んでいる、正に「心|驕《おご》れる虎」といった姿だ。
与茂七の太い眉がきりきりと吊上り、ひき結んだ唇がぐいと歪んだ。
二十八年の今日まで、彼は一度もこんな立場に廻った例《ため》しはない、彼は常に覇者《はしゃ》であり、征服者であった。敢《あえ》て戦を挑んだ者があったとしても、それは凡て畏惧《いぐ》と恐怖を伴ったものであった。……然るに今、眼前に傲然と立っている男はどうだ、その端麗な顔にも、柔軟な線を持った女性的な躰にも、与茂七を恐れる色は微塵《みじん》もない、寧ろそこには剃刀の刃のように冷たく且つ峻烈な敵意と軽侮の念が溢れている。……彼は与茂七のものと知って竹刀を抛りだし、
――己がしたのだ。
と、真正面から挑んで来た。
与茂七の大きな眼は相手の眼を見た、それから、のしかかるような身構えを見た。……それが終ったとき彼はにっと微笑しながら、
「うん、なかなか骨がありそうだな」
と静かに云った。
「斎東与茂七の前でそれだけ云えるのは頼母《たのも》しいぞ、……だが貴様の顔には見覚えがない、新参者か。まだ拙者を知らないのだな」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「知っている、熟く知っているよ」
「……本当に知っているのか」
「野牛と呼ばれた乱暴者だそうな、彦根の小さい井戸からはみ出た蛙だそうな」
与茂七はずかずかと行って竹刀を拾った。そして大股に戻って来ると、ぴゅっとそれに素振りを呉れながら、「よし、蛙の手並を見せてやる。名乗れ」
「待兼ねた。……拙者は金吾三郎兵衛」
名乗りながら、三郎兵衛は、さっと二三間うしろへ跳退った。然しその名を聞いた刹那、与茂七はあっと眼を瞠《みは》った。
「金吾……金吾、三郎兵衛、……貴様が」
「来い、そこらの木偶《でく》とは少し違う、岡崎の人間には胆玉があるからその積りで来い」
与茂七は答えなかった。
答えない許りでなく、満面に血を注いだまま凝乎と三郎兵衛の顔を瞶《みつ》めていたが、急に外向くと、竹刀をそこへ抛りだし大股に支度部屋の方へ立去って行った。
「斎東、どうした」
三郎兵衛は片手をあげながら叫んだ。
「試合は止めか、逃げるのか、この三郎兵衛が恐ろしくなったのか、……卑怯者」
然し与茂七は去ってしまった。
余りにも意外な結果である。門人たちはまるで化かされたような気持で、然しそれにしても、このまま無事に済む筈はないという期待で、暫くは黙って立尽していたが、やがて与茂七が進武館から逃げるように出て行くのを見ると、……急にざわざわと驚愕《きょうがく》の囁きを交わし始めた。
「あれが野牛か」
三郎兵衛は冷笑しながら叫んだ。
「あれがみんなの怖れていた与茂七という男か、その竹刀に触るなと云ったのは滝川だったな、伝吉郎……おまえ人違いをしたんだろう」
「い、いや、いや慥《たしか》に」
「人違いじゃないと云うのか、ふん」
三郎兵衛はぴゅっ、ぴゅっと憤懣《ふんまん》を遣るように竹刀を振って叫んだ。
「何方でもいいが彼奴は逃げたぞ、みんな今の恰好をよく覚えて置くんだ。さあ来い、……詰らぬ事で暇を潰した、稽古を続けよう」
そういう結果に成ることは、むろん三郎兵衛も予想してなかった。最後に、
――卑怯者。
と叫んだ時には、理由の如何に拘わらず相手は引返すものと思ったし、事に依ると勝負に命を賭《と》さなければならぬと覚悟した。……然し相手は引返して来なかった。武士なら聞流すことの出来ぬ言葉を、相手は耳にもかけず去ってしまった。
――評判ほどにもない奴だ。
彼は満足した感じで嗤《わら》った。
それは他に一種の満足感であった。ふだん喜怒を色に出さない彼が、家へ帰るなり出迎えた妻の松子に、
「やあ、今日はおめかしでばかに美しいな」
と上機嫌に声をかけて狼狽させた。
「珍しく御機嫌が宜しゅうございますこと」
「そう見えるか」
「なにか御首尾のよい事でもございましたか」
「首尾はいつでも上々だ、なにしろ今日は」
と云いかけたが、遉《さすが》にそのあとは口に出なかった。同時にふいと、
――いい気になっている。
という感じが来た。
不愉快な感じだった。……するとその不愉快さの底から其時まで考えもしなかった疑惑が頭を擡《もた》げて来た。それは、与茂七が彼を怖れて逃げたのではなくて、寧ろ彼を無視したのではないかという疑いである。
――そうだ、それを考えなかった。
彼の満足感は惨めに傷つけられた。そして、いちど頭を擡げたその疑惑は、彼の心に蛇の如く絡《から》みつき、ざらざらした胴でいつまでも神経を撫であげて来た。
急に不機嫌になった良人の眼から、若い妻は逃げるように次の間へ去った。
――慥めてやる。
彼は妻の姿が襖《ふすま》の彼方に去るのを見|戍《まも》りながら、呟いていた。
――そいつを慥めなければならん、彼奴の頭を眼前に垂れさせぬうちは。
三郎兵衛のような男がそう覚悟した以上、それを実行に移す場合は極めて執拗だし、又思い切ったものである、……彼はその翌日、御殿下にある斎東の家を訪れて面会を求めた。
家士はいちど奥へ取次いだ後、
「折角ですが、主人は他出中でございます」
と明らかに居留守を使った。
「では御帰宅まで待たせて貰おう」
「それが、帰藩の挨拶に諸方へ廻りますので、戻りはいつになるやら知れません。失礼ながら又お訪ね下さるよう」
「そうか。……では斯う伝えて呉れ」
三郎兵衛は冷笑しながら云った。
「昨日の勝負をつけに金吾三郎兵衛が参ったと、よいか。然し留守を使われては致方がない。向後は出会ったところで遣るから、充分に覚悟をしていて貰いたい。……分ったか」
「左様申伝えます」
家士は噛みつきそうな眼をしていた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
与茂七は彼の前に姿を見せなかった。
明らかに避けているらしい、三郎兵衛は出来るだけ会いそうな機会を狙いつつ、一方では嘲弄と侮蔑の言葉を撒きちらした。
そうでなくても、家中の者たちは与茂七と三郎兵衛とを対立させて考えていた。白い虎と野牛とがどう闘うか、何方が勝つか、これは与茂七に抑えられ三郎兵衛に手を焼いていた人々にとって、最も興味のある、そして見|遁《のが》すことの出来ぬ好主題であった。
何方が勝ち何方が負けてもいい、然し必ず二人は闘わなくてはならぬ、そして何方かが覇者の冠を叩き落さなければならないのだ。
――きっとやるぞ!
――やらずにいるものか。
みんな眼を瞠って待っていた。
然し期待していた事は次第に怪しくなって来た。先ず進武館での出来事が伝わり、居留守の件が伝わり、三郎兵衛の放つ悪声が止度《とめど》もなく家中に弘まるのに、当の与茂七は熟《う》んだとも潰れたとも云わないのだ。……帰藩の挨拶廻りが終わると共に、与茂七はひっそりと音を殺してしまった。
――どうしたんだ、斎東は生きてるのか死んだのか。
――虎が嘯《うそぶ》いているのに野牛は穴籠か。
――野牛は角を折ったらしいぞ。
華々しい勝負を予期していた人々は、そろそろ待ち草臥《くたび》れたかたちで、頻りに与茂七の下馬評を始めた。評判は悪くなる一方である、……然し依然として何事も起らず、二十日ほど経って六月三日が来た。
毎月三日は礼日で、藩主は江戸在府中であったが、家中総登場の日である。
三郎兵衛は此の日を待っていた。与茂七は当時無役であったが礼日の総登場を欠くことは出来ない、城中衆人環視の中で、退引《のっぴき》ならぬところを抑えてやろうと決めたのである。
彼は早く登場をして遠侍に待構えていた。
人々は直ぐにそれを見て取った。
「おい見ろ、虎が今日こそやるぞ」
「なるほど牙が鳴ってるな」
「与茂七も今日は逃げを打てまい」
「みんな遠巻にして離れるな」
そんな言葉が耳から耳へ囁《ささや》かれた。眼という眼がいつか遠侍の広間に集った。
与茂七が登城したのは九時近くであった。……そら来たという人々の無言のざわめきも感じない様子で、彼は静かに嘉礼を言上しに上り、間もなく下って来たが、そのまま長廊下を退出して行こうとした。
三郎兵衛はすばやく立ち、
「斎東氏お待ちなさい」
と呼びかけながら、小走りにやって来て行手へ立|塞《ふさが》った。
――そら始まるぞ。
待兼ねていた人々は鳴りをひそめ、耳と眼とを一斉にこの二人へ集中した。……与茂七は立止って静かに相手を見た、三郎兵衛は昂然と右の肩を突き上げながら、
「過日、進武館の勝負が預りになっている、再三会いたいと念じているが、居留守を使ったり逃げ廻ったり、遂に今日までその機を得ないで来た、……今日こそ片をつけるからそう思って貰いたい、これから同道しよう」
「その必要はない」
与茂七は眼を伏せたまま答えた。
「あの勝負は拙者の負だ、今更……」
「いやいかん、勝ち負けは立合った上でなくては分らぬ。まして世間には、貴公が立合わぬのはこの三郎兵衛を取るに足らぬ相手と見ているのだという風評もある、このままでは拙者の武道が立たん、今日は是非とも勝負をするのだ」
「どういう風評があるかも知らぬが、このように満座の中で負だと申す以上、貴公の勝はもう確実だ。……通して貰いたい」
「通さぬ、通さんぞ!」
三郎兵衛は両手をひろげた。
「貴公に若し武士の面目があるなら立合え、口先で百万遍負けたと云っても事実の証しにはならん、先ず事実だ、出よう」
「なんと云われても拙者には無用だ」
「無用だと、斎東、貴公この三郎兵衛をそれほど軽侮する気か」
「軽侮ではない、ただ無用だというのだ」
「無礼者!」
三郎兵衛は叫びながら詰寄った。
「無用とはなんだ、拙者は物乞いをしているのではないぞ、貴様は武士の作法を知らんのか、武道の立合を挑まれて応ずることも出来ず、臆面もなく無用などとは、貴様……それでも両刀に恥じないのか」
「待て金吾」
榊市之進であった、彼は見兼ねたのであろう、とび出して来るとそう叫びながら三郎兵衛を羽交い絞めにして、
「場所柄を考えろ、城中だぞ」
「放して呉れ、彼奴……」
「鎮まれ、話がある、金吾、見苦しいぞ」
強引に絞めあげながら、連れ去った。……与茂七は静かに退出して行ったが、人々は彼の拳がわなわなと震えているのを見逃さなかった。
[#6字下げ]夜霧[#「夜霧」は大見出し]
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
その日の灯点《ひとも》し頃に、三郎兵衛の妻松子が与茂七の家へ訪れて来た。……意外な人の訪問である、与茂七は些か狼狽した様子で、会ったものかどうかと暫く考えていたが、やがて客間へ通して相対した。
「三年ぶりですな、ようこそ」
「御無沙汰申上げて居ります。お変りもなく」
「手前こそ、取紛れてお祝いにも上らず失礼していました。後ればせながらお目出度う、お父上もさぞ御|安堵《あんど》のことでしょう」
「有難う存じます」
まぶた松子は重たげな眼蓋《まぶた》を僅かに染めた。
あの頃からとびぬけて美人というのではなかった。どこもかしこもふくらみかかった蕾のような重たげな羞《はじら》いに満ちた乙女であった、表へ現われる美しさは無かったが、その重たげな羞いの裡側《うちがわ》にひそんでいた。
三年ぶりで会った彼女は、もう人の妻として一年余日を過している、年齢ももう二十二になっている筈だ、けれどあの頃からそうだった腫れぼったい目蓋を、僅かに赤らめながら俯向《うつむ》いた姿には、裡側にひそんでいた少しも損なわれない美しさが溢れていた。
「して、なにか御用でも……」
「はい、……三郎兵衛から申付かりまして、是をお渡し申上げるようにと」
松子は一封の書面を差出した。
与茂七は目礼して封を切った、……書面は思い切って辛辣な句々で埋っていた。「榊市之進より仔細のこと聞き取り候」という書きだしである、要点を記すと斯うだ。
あれから市之進の話を聞いた。
貴公は予て妻松子に心を寄せていたのだそうな。だから、拙者が挑戦しても応じなかったのは卑怯未練からではなく、松子に不測の歎きを与えまいがためだったという。……話は分った、拙者は松子を離別する。松子にはこの手紙を届けてから金吾の父の許へ帰れと申付けた、当人は知らぬが離別の手紙を持たせてある。
是で二人の間の邪魔者は除かれた、貴公も今こそ存分に立合えるだろう。……松原の湖畔「亀形の丘」にて待つ。
与茂七は文面を篤と読終ってから、静かに巻納めて顔をあげた。
「貴女はこれから鞘町へお廻りですか」
「はい、なんですか二三日父の元へ行って居れと申しつかりましたので……」
「手紙をお持ちですね」
「なにか書いてございまして?」
「鞘町へはおいでにならなくとも宜しい、その手紙を渡して下さい、いや大丈夫、金吾は承知なんです」
「でも、……父の名宛でございますが」
「それがもう無用になったのです、その手紙を持って拙者が是から金吾のところへ行くことになったのですよ。だから貴女は、そう……後から直ぐ家へ帰って下さい」
「それで宜しいのでしょうか」
「帰っていれば分ります」
そう云って、与茂七は、松子から手紙を受取ると共に立った。
彼は手早く身仕度をすると、家士に命じて、松を四五本用意させ、その一本に火を点じて家を出た。……もう暮れていた、湖の方から濃い霧が流れて来て、街の灯を朦朧《もうろう》と暈《ぼ》かしていた。
与茂七は懸命に怒を抑えていたが、一歩行く毎に我慢の緒が切れて来た。髭の剃り跡の青々とした顎は、歯を食いしばるために歪み、大きな眼は燃えるように光を放った。……彼は真直に松原の湖畔へ出ると、指定された丘の上へ砂を踏みしめながら登った。
三郎兵衛は既に来ていた、彼は霧の中からくっきりと白い汗止を見せつつ進み出て、
「よく来た、待兼ねたぞ」と喚いた。
すっかり身支度をして、そう喚くなり左手に提げていた大剣を抜き、鞘を傍《かた》えの松の根方へ置いた。……与茂七は答えなかった、そして無言のまま、五本の松に火を点じ、それをよきところに組合せて立てた。……濃霧がその焔を映して赤い光暈《こううん》を作った。
それが済むと、与茂七は静かに袴の股立を絞り、襷と汗止をした後、履物を脱いで向直った。……そして初めて相手へ眼をあげた。
三郎兵衛は苛だった調子で、
「……いいか!」と叫んだ。
与茂七は、
「よし」と答えて右手を柄《つか》に当てた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
三郎兵衛は青眼にとった。
与茂七は右手を柄にかけたままである。
松の焔がぱらぱらとはぜ、霧がしまをなして渦巻き流れた。なんの物音もない、時々どこかで微かに砂がはねるのは、松葉からこぼれる霧の滴であろう。
時にして約十分。
呼吸と気合とが次第に充実し、両者の闘志が抑制の最後の膜をひき裂いたと思われる刹那、絶叫と剣光とが濃霧を截《たち》割った。……そしてそのまま元の静寂が四辺を包んだ。
三郎兵衛は半身になったまま大剣を下ろして反っている、与茂七の剣の切尖が、三郎兵衛の鼻梁の真上に、ぴったりと吸着しているのだ。どう動いてもその切尖を遁れる術はないだろう。
「……金吾、斬って来い」
与茂七は静かに云った。
「決して怪我はさせない、だから安心して掛って来い。……動けないのか」
「……」
「貴様の腕はそれきりか」
与茂七の籠手《こて》が僅に動いた。
再び絶叫が起り、剣光が弧を描いた、然しその次の刹那には与茂七が三郎兵衛を組敷き、拳をあげて殴りつけていた。無言のまま殴った。三郎兵衛が反抗を止めて動かなくなるまで、殴って殴って殴りぬいた。
「馬鹿野郎、貴様は大馬鹿野郎だぞ」
罵りながら与茂七は身を起した。……そして倒れたまま喘いでいる三郎兵衛の姿を、上から暫く見戍っていたが、やがて汗止を外しながら下りて行った。
水の滴る汗止を持って与茂七が戻って来たとき、三郎兵衛はまだ地上に伸びていた。
与茂七は側へ行って抱起しながら、
「さあ水だ、綺麗にして来たから啜《すす》れ」
「……無用だ」
「己の科白《せりふ》を取るな、喉を潤したら話があるんだ、痩せ我慢はぬきにしてお互いにさっぱりしよう、さあ」
三郎兵衛は音高く水を啜った。
与茂七は自分の襷を外すと、相手の物もすっかり脱ってやり、相対してどっかりと腰を据えた、そして両手の掌を外らせて膝を抱え、
「第一は松子さんだ」と呼吸を鎮めながら云った。
「市之進が話したのは嘘ではない、己は曽て松子さんを自分の妻に申受けようと思ったことがある、市之進にそんな意味を洩らしたことがあるかも知れないが、もうよく覚えていない。恐らく洩らしはしなかったろう、市之進がそう気付いていただけだろうと思う、……だから、こんな誤解が生じたのだ、肚を割って云うが、当人の己が江戸詰め三年のあいだにすっかり忘れていたんだ、帰って来て、貴公の入婿を聞いたときはじめて、忘れていたことに気付いたくらいだ」
「……」
「聞いているだろうな、金吾」
そう云って与茂七は続けた。
「だから、松子さんのために挑戦に応じなかったというのは嘘だ、市之進の解釈は誤っている、あの男は文字に明るいからむやみに小説じみたことを考えるんだ」
「ではどうして、どうして逃げたんだ」
「第二の問題はそれだな。……云ってしまうから気を悪くするなよ」
与茂七はひと息ついて云った。
「己は少年時代からこの彦根で餓鬼大将だった、自分の腕力を恃《たの》んでのし廻った、世間のやつらがみんな馬鹿のように見え、大手を振って横車を押し通して来た。……二十八歳になる今日までそうだった、ところがあの日。……進武館で貴公に出会ったとき、肩を突上げて仁王立ちになっている貴公の恰好を見たとき、己は……自分の姿をまざまざと見たのだ」
「……」
「道場のまん中に立って、傲然と肩を怒らしている、その心驕ったさま、我こそはという増長慢、……それはそのまま与茂七の姿なんだ、二十八年のあいだ己は、そっくりそのままの恰好でのし廻っていたんだ。……なんという滑稽な、道化た姿だ、生唾の湧く気障っぽさだ。……己は恥ずかしくなった、そして逃げだした。自分では遂に分らず、貴公の上に自分の愚な恰好を見出して初めて……己は眼が覚めたのだ」
与茂七は言葉を切って頭を垂れた。
松の焔がどよみあがり、既に半ばまで燃えた一本が崩れると支えが破れて一時にみんな倒れかかると、ぱちぱち樹皮がはぜ、美しく火の粉が飛んだ。……そして渦巻き流れる濃霧をぱっと赤く焦がした。
「是は燃してしまえ」
暫くして与茂七が、封を切ったのと切らぬのと二通、ふところから取出して渡した。……三郎兵衛は黙って受取り、身を伸ばしてそれを焔の中へ投込んだ。
与茂七はにこっと笑いながら、三郎兵衛の肩を叩いた。……三郎兵衛は腕で顔を隠すと、急においおいと泣きだした。はじめはそうでもなかったが終いには子供が泣くように、おーんおーんと明けっ放しで泣きだした。
「……おい」
与茂七は笑いながら、
「泣くだけ泣いたら知らせろよ、己は少し横になる。……ああいい心持だ」
そう云ってごろっと仰反《あおむけ》に寝ころんだ。……ひんやりと濡れた砂が、単衣の背に快く感じられた。彼は両手を頭の下にかった。
三郎兵衛の泣声はなかなか止らない、二人のあいだには、重要な言葉はまだなにも語られていないようだ、けれど三郎兵衛の泣く声は、どんな言葉よりも鮮かに、凡てを諒解したことを証している。……松の火は既に落ちかかり、赤い光暈《こううん》は濃い霧の帷《とばり》と共にじりじりと円を縮めつつあった。
「おい、……金吾」
「……」
「是で彦根から野牛と虎がいなくなるなあ。うん、城下は厄介払いをするだろう。うん、明日からさっきの手を教えてやる、あれは柳生の秘手だ。うん、己は二年かかって」
独りで話し独りで答えながら、いつか与茂七の頬を涙が流れていた。……なんの涙ぞ。
底本:「修道小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年10月15日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算11版)
底本の親本:「講談倶楽部」
1940(昭和15)年5月号
初出:「講談倶楽部」
1940(昭和15)年5月号
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山本周五郎
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[#6字下げ]上の竹刀[#「上の竹刀」は大見出し]
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
金吾三郎兵衛は「白い虎」と呼ばれている。
三河ノ国岡崎藩の大番頭の三男に生まれ、昨年の春との彦根藩の金吾家へ婿に来た。金吾五郎左衛門は四百石の御具足奉行で男子が無かったため、一人娘の松子に三郎兵衛を迎えたのである。
然し直ぐ婿の気質を見て取った五郎左衛門は、
――当分のあいだ二人で暮すが宜かろう。
と云って、城へは少し遠かったが、松原の湖畔にある別屋敷を夫婦の住居に与えてやった。
其処には僅《わず》かな召使しかいなかったし、殆《ほとん》ど近所との往来も無かったので、一年余日は極めて暢気《のんき》に新婚生活を送ることが出来たのであった。
三郎兵衛の風貌はどちらかというと女性的であった。色白で眉が細くて、躰つきもすんなりしている。殊に睫《まつげ》の長い眼許や、いつも油を附けているような艶々とした髪などは、通りすがりの人眼を惹《ひ》くほど美しかった。……ところがその艶冶《えんや》な風貌とは凡そ反対に、彼の性格はひどく粗暴で峻烈《しゅんれつ》だった。
無論そう云っても、ただ訳もなく粗暴なのではない。彼は中村流の半槍を熟《よ》くするし、また一刀流の剣を執っては、彦根へ来て半年も経たぬうちに藩の道場「進武館」の筆頭の席を占めたくらいであるが、その半槍も刀法も極めて荒く、どんな段違いの相手に向っても遠慮とか加減とかいうものがない。
――武道に手加減があって堪るか。
理窟は正にその通りだが、彼の峻烈さはその道理を遥《はるか》に越していた。
進武館の筆頭となってからは、儕輩《さいはい》を押えているという感じから来る一種の驕慢《きょうまん》さが、どうしようもなく彼の態度に表われた。近頃の彼は道具を着けず、素面《すめん》素籠手《すごて》で道場へ出るようになった。
彼が袴《はかま》の股立を取らず、竹刀に素振をくれながらまん中へ出て来て、
――さあ誰か来い、稽古をつけてやる。
と喚《わめ》く姿は実に颯爽《さっそう》たるもので、綽名《あだな》の「白い虎」という意味がぴったり当っていた。
――高慢な面だ。
――新参者の分際でのさばり過る。
――いちど音をあげさせてやれ。
そういう嫉視と反感が集って幾度か腕力|沙汰《ざた》があった。然しその度に辛き目をみるのは挑んだ方の連中で、三郎兵衛はその強さと、胆の太さで益々藩士たちを圧倒して行く許りだった。
斯《か》くて湖畔に初夏が訪れて来たとき、藩士たちが手を拍って喜ぶ事件が起った。
其日。……三郎兵衛が進武館の道場へ出て、竹刀を取ろうとすると、筆頭であるべき自分の物が一段下にさげられ、昨日まで自分のがあった場所に見慣れぬ竹刀が架けてあるのをみつけた。
「誰だ、こんなことをしたのは」
彼は振返って叫んだ。
「金五郎、この竹刀はどうしたんだ。……なぜ黙ってる、誰がしたんだ」
「そ、……それで宜いんですよ」
門人たちの雑用する少年が怖々《こわごわ》と答えた。
「なに、是で宜いんだと、馬鹿め、貴様なにを寝|呆《ぼ》けているんだ、十六歳にもなって竹刀の順序も知らんのか、それとも……」
「そうだよ」
滝川伝吉郎が意味ありげに立って来た。そして態《わざ》と三郎兵衛の耳に口を寄せながら、
「それで宜いんだよ金吾、その上の竹刀はそっと置くがいい」
「判《はっ》きり云え、どうしたというんだ」
「その竹刀には触らぬ方がいい」
「そうだ、そうだ」
向うに並んでいる連中も、それに附けて一斉に云った。
「その竹刀に手を附けてはいけないぞ」
「手を触れば手、足を触れば足が飛ぶ」
「それだけはそっとして置くがいい」
三郎兵衛はぐるっと見廻した。……みんな何か意味ありげな擽《くす》ぐったそうな眼つきをしている、今までに感じたことのない空気だった。
「訳を云え、この竹刀がどうかしたのか」
「帰って来たんだよ」
伝吉郎がさも秘密なことを明すように、耳へ口を寄せて囁《ささや》いた。
「与茂七が帰って来たんだ」
「……何者だと?」
「与茂七だ、斎東与茂七が江戸から帰って来たんだ。貴公がいま『虎』と云われているように、彼は三年前まで進武館の『野牛』と云われていた、乱暴者で喧嘩早くて、高慢で癇癪《かんしゃく》持で、いちど怒らしたら血を見るまでおさまらぬという男だ。……いいか金吾」
伝吉郎は一層その声をひそめて、
「その竹刀は彼のだ、それに触ってはいけない、また彼が出て来たら温和《おとな》しくするんだ、与茂七には構うんじゃないぞ」
「……そうか」
三郎兵衛はにやりと頷《うなず》いた。……そして与茂七のだという竹刀を取ると、道場のまん中へがらがらと抛《ほう》出して叫んだ。
「誰でもいいから、与茂七という男が来たら拙者に知らせて呉れ、……それから、その竹刀に手を附ける奴は許さんからそう思え」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「会うことは出来ぬと仰せられます」
「どうしたんだ、御機嫌ななめか」
与茂七がけろりとした顔で云うのを、家の仁右衛門老人は気の毒そうに見て、
「御立腹ですぞ、なにしろ江戸の事は一々こちらへ通知が来て居りますからな、一時は叔父|甥《おい》の縁を切るとまでお怒りでございました」
「誰がそんな余計な世話をやいたんだ。江戸ではずいぶん慎んでいた積りだがなあ」
「貴方の慎むは当になりません。軽部様の腕を折ったり、御老職の玄関で三日も居据わったり、町人共と喧嘩をして七人も怪我をさせたり、牢役人に金を掴ませて罪人の首を斬ったり、……この仁右衛門が伺っただけでも、まだまだ数え切れぬほどございますぞ。是では困ります、是では御立腹が当然でござります」
「ちょッ、誰がそんな、そんな詰らぬ事を一々告げ口し居ったんだ、……備後か」
「誰でも差支えございません。彦根に置いては駄目だ、江戸へ出して広い世間を見せたら、行状を改めるであろうという思召でなすった事が、江戸へ出ても同様どころか輪を掛けたお身持ではござりませぬか、こんな有様では」
「いいよいいよ、もう沢山だ」
与茂七は手を振りながら刀を引寄せた。
「仁右衛門の小言を聴いたって仕様がない、御立腹なら押してお眼にもかかれまいが、……ではおまえから宜しく申上げて置いて呉れ、またお怒りの解けた時分に参上仕ると」
「貴方さえ御素行をお慎みになれば、お怒りは直ぐに解けまする」
「己だけ慎んだって仕様がないさ」
与茂七は又けろりとして云った。
「己だって山猫でも狼でもないから、相手なしに暴れる訳じゃないんだ、幾ら己が謹慎していようと思っても、側から馬鹿共が来て突つきたてるんだから仕様がない、それでも叱られるのはいつも己と決ってる、いつも己だ、……小さい時分からそうだった、誰かが泣くとそら与茂七、誰かが木から墜ちるとそら与茂七、赤ん坊が泣いても己が腕でも捻上《ひねりあ》げたと思ってる。……是では迚《とて》も凌《しの》ぎがつかないぞ仁右衛門」
「……なるほど、貴方様はいつも、お部屋に凝乎《じっ》としておいでなされましたからな」
「全くいつもいつもお机の前で、膝に手を揃えて御書見ばかりあそばしていましたからな、そんな事を云う世間は怪《け》しからぬ次第です」
「もう宜いよ、饒舌《しゃべ》っただけ損をした」
与茂七は立上って、尚も繰返して意見をする仁右衛門と共に玄関へ出た。
門を出て、さてどうしようかと迷っていると、いま登城するところと見えて、旧友の榊市之進が、下郎を従えて此方へ来るのをみつけた。
白く乾いた道に、陽はもうぎらぎらと強くなっている、市之進は扇を額に翳《かざ》しているので、側へ近づくまで知らずにいた。
「やあ帰ったか、いつ?」
「昨夜だ、遅かったので何処へも挨拶に出なかったんだ。いま此処へ来たんだが、……到頭お出入り差止めを食った」
「そうだろう」
市之進は笑いもせずに頷いた。
「作左衛門殿は一徹人だし、貴公はまた、……いや、こんな話を今更したところで仕方がない、今日は早く下城するから拙宅へ来て呉れ」
「よし、鶏を二三羽つぶして行こう、江戸の不味《まず》い鶏には弱ったよ、酒を頼むぞ」
「相変らずだな」
別れようとして市之進がふと、
「是は念のために云って置くのだが、金吾の松子さんに婿が来たのを知っているか」
「……松子に婿が」
与茂七の額がすっと白くなった。……市之進はその白くなった額から眼を外《そ》らして、
「岡崎の大番頭の三男で三郎兵衛という、来てから一年とちょっとになるが、今では、すっかり進武館の筆頭を押えている、少し烈し過ぎるが頭も良いし、……金吾殿も松子さんも満足のようだ」
「そうか、……それは、良い婿がみつかって、宜かったな」
「貴公も祝ってやるべきだな」
そう云って市之進は別れた。
与茂七は射しつける日光が眩しいのであろう、眉の上へ手を翳しながら、暫く途方に暮れたような足取りで歩いていた。
日に焦けた健康そのもののような頬に、髭の剃り跡が青々としている、眉太く鼻大きく、ひき結んだ唇は強情我慢を絵に描いたようだ。
斎東の家は彦根藩でも出頭の家柄であった、彼は父茂右衛門の末の子であったが、上の兄姉が三人とも夭折したので、ひどく我儘に甘やかされて育った。そのためばかりでもあるまいが、もう四五歳の頃から腕力では群を抜き、「斎東の悪童」と云って、彦根中の親たちから眼の敵にされ始めた。
[#6字下げ]虎と野牛と[#「虎と野牛と」は大見出し]
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
九歳のとき母を喪い、十三で父を亡くした彼は、十一歳の秋まで叔父の当麻作左衛門に引取られて育った。
然しそうした境遇に在りながら、彼の持って生まれた明けっ放しな性格と、その不屈な負けじ魂とは些かも変らず、寧ろ益々増長する許りだった。
彼は力が強く、また武芸には天才的な才能を持っていた。なにしろ十八の年から二十五歳で江戸へ去るまで、進武館の筆頭として代師範を勤め通したくらいであるが、その反面には「斎東の悪童」と呼ばれた本領を遺憾なく発揮して、良い意味にも悪い意味にも、彦根藩の圧倒的存在になった。
当麻作左衛門はずいぶん骨を折って甥の性格を撓《た》め直そうとしたが、結局は違った世間を見せて、詰りもっと烈しい人生の風に当ててやるより仕方がないと考え、彼を江戸詰にしたのである、けれど其処でも彼の奔放な性格を抑えつけるものはなかった。寧ろ狭い池から海に放たれた鯱《しゃち》のように、羽を伸ばして存分に暴れ廻ったのである。
三年のあいだに「御叱り」を受けること四度、謹慎を命ぜられること五度という、活のいいところを見せ、再び帰って来たのであった。
「さて、……」
与茂七は辻へ来てふと立止った。
「それでは金吾へは行けずか、……叔父殿御立腹で当麻は門止めと来た、といつは帰来風雪厳しというやつだぞ。……仕様がないから進武館でも見舞うか」
彼は辻を右へ曲った。
進武館では竹刀の音が元気に響いていた。……彼は別棟になっている師範の住居を訪れ、恩師鈴木中通に帰藩の挨拶を述べた後、道場へ出掛けて行った。……其処では三十人ほど稽古をしていたが、与茂七が来たのを見ると、みんな一斉に止めて、面を脱《と》りながら脇へ居並んだ。
「やあ、みんな暫くだな」
与茂七は無造作に手をあげて、
「また帰って来たから宜しく頼むぞ。山越どうだ、幾らか上達したか、芹沢はどうだ、赤ん坊も三年経てば三つになる、少しは物になりそうか、どうだ楯岡。……ひとつ久し振りにぐるっと揉んでやろう。金五郎」
「はい」
「ほう……貴様大きくなったな、幾つだ」
「十七です」
とび出して来た金五郎は、照れたように顔を赤くした。与茂七はその頭をひょいと押してやりながら、
「もう元服だ、確《しっか》りしなくちゃ駄目だぞ、己の道具を持って来い、手入れはちゃんとしてあるだろうな」
「ええちゃんと綺麗にして置きました」
金五郎と一緒に去った与茂七は、稽古道具を着けて出て来ると、竹刀を取ろうとして近寄った。……然し当然そこにあるべき自分の竹刀が無い。
「おい、己の竹刀はどうした」
与茂七が振返って叫ぶと、……二三間離れた処で、さっきから凝乎と彼の動作を見|戍《まも》っていた三郎兵衛が、
「貴公の竹刀なら、彼処にある」
と云って脇の方へ顎をしゃくった。
与茂七が見ると、隅の方に見覚えのある自分の竹刀が抛《ほう》りだしてあった。
「誰だ、己の竹刀を抛りだしたのは」
「……拙者だ」
三郎兵衛が答えた。
みんな驚破《すわ》とばかり息をのんだ。
与茂七は投げ出してある竹刀と、門人たちの異様な視線と、それから相手の顔を見た。
三郎兵衛の白皙の顔は、嘲りと侮蔑と、明らさまの挑戦の意を表白している。彼は足を踏開いて立ち、竹刀を右手にのしかかるような構えで与茂七を睨んでいる、正に「心|驕《おご》れる虎」といった姿だ。
与茂七の太い眉がきりきりと吊上り、ひき結んだ唇がぐいと歪んだ。
二十八年の今日まで、彼は一度もこんな立場に廻った例《ため》しはない、彼は常に覇者《はしゃ》であり、征服者であった。敢《あえ》て戦を挑んだ者があったとしても、それは凡て畏惧《いぐ》と恐怖を伴ったものであった。……然るに今、眼前に傲然と立っている男はどうだ、その端麗な顔にも、柔軟な線を持った女性的な躰にも、与茂七を恐れる色は微塵《みじん》もない、寧ろそこには剃刀の刃のように冷たく且つ峻烈な敵意と軽侮の念が溢れている。……彼は与茂七のものと知って竹刀を抛りだし、
――己がしたのだ。
と、真正面から挑んで来た。
与茂七の大きな眼は相手の眼を見た、それから、のしかかるような身構えを見た。……それが終ったとき彼はにっと微笑しながら、
「うん、なかなか骨がありそうだな」
と静かに云った。
「斎東与茂七の前でそれだけ云えるのは頼母《たのも》しいぞ、……だが貴様の顔には見覚えがない、新参者か。まだ拙者を知らないのだな」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「知っている、熟く知っているよ」
「……本当に知っているのか」
「野牛と呼ばれた乱暴者だそうな、彦根の小さい井戸からはみ出た蛙だそうな」
与茂七はずかずかと行って竹刀を拾った。そして大股に戻って来ると、ぴゅっとそれに素振りを呉れながら、「よし、蛙の手並を見せてやる。名乗れ」
「待兼ねた。……拙者は金吾三郎兵衛」
名乗りながら、三郎兵衛は、さっと二三間うしろへ跳退った。然しその名を聞いた刹那、与茂七はあっと眼を瞠《みは》った。
「金吾……金吾、三郎兵衛、……貴様が」
「来い、そこらの木偶《でく》とは少し違う、岡崎の人間には胆玉があるからその積りで来い」
与茂七は答えなかった。
答えない許りでなく、満面に血を注いだまま凝乎と三郎兵衛の顔を瞶《みつ》めていたが、急に外向くと、竹刀をそこへ抛りだし大股に支度部屋の方へ立去って行った。
「斎東、どうした」
三郎兵衛は片手をあげながら叫んだ。
「試合は止めか、逃げるのか、この三郎兵衛が恐ろしくなったのか、……卑怯者」
然し与茂七は去ってしまった。
余りにも意外な結果である。門人たちはまるで化かされたような気持で、然しそれにしても、このまま無事に済む筈はないという期待で、暫くは黙って立尽していたが、やがて与茂七が進武館から逃げるように出て行くのを見ると、……急にざわざわと驚愕《きょうがく》の囁きを交わし始めた。
「あれが野牛か」
三郎兵衛は冷笑しながら叫んだ。
「あれがみんなの怖れていた与茂七という男か、その竹刀に触るなと云ったのは滝川だったな、伝吉郎……おまえ人違いをしたんだろう」
「い、いや、いや慥《たしか》に」
「人違いじゃないと云うのか、ふん」
三郎兵衛はぴゅっ、ぴゅっと憤懣《ふんまん》を遣るように竹刀を振って叫んだ。
「何方でもいいが彼奴は逃げたぞ、みんな今の恰好をよく覚えて置くんだ。さあ来い、……詰らぬ事で暇を潰した、稽古を続けよう」
そういう結果に成ることは、むろん三郎兵衛も予想してなかった。最後に、
――卑怯者。
と叫んだ時には、理由の如何に拘わらず相手は引返すものと思ったし、事に依ると勝負に命を賭《と》さなければならぬと覚悟した。……然し相手は引返して来なかった。武士なら聞流すことの出来ぬ言葉を、相手は耳にもかけず去ってしまった。
――評判ほどにもない奴だ。
彼は満足した感じで嗤《わら》った。
それは他に一種の満足感であった。ふだん喜怒を色に出さない彼が、家へ帰るなり出迎えた妻の松子に、
「やあ、今日はおめかしでばかに美しいな」
と上機嫌に声をかけて狼狽させた。
「珍しく御機嫌が宜しゅうございますこと」
「そう見えるか」
「なにか御首尾のよい事でもございましたか」
「首尾はいつでも上々だ、なにしろ今日は」
と云いかけたが、遉《さすが》にそのあとは口に出なかった。同時にふいと、
――いい気になっている。
という感じが来た。
不愉快な感じだった。……するとその不愉快さの底から其時まで考えもしなかった疑惑が頭を擡《もた》げて来た。それは、与茂七が彼を怖れて逃げたのではなくて、寧ろ彼を無視したのではないかという疑いである。
――そうだ、それを考えなかった。
彼の満足感は惨めに傷つけられた。そして、いちど頭を擡げたその疑惑は、彼の心に蛇の如く絡《から》みつき、ざらざらした胴でいつまでも神経を撫であげて来た。
急に不機嫌になった良人の眼から、若い妻は逃げるように次の間へ去った。
――慥めてやる。
彼は妻の姿が襖《ふすま》の彼方に去るのを見|戍《まも》りながら、呟いていた。
――そいつを慥めなければならん、彼奴の頭を眼前に垂れさせぬうちは。
三郎兵衛のような男がそう覚悟した以上、それを実行に移す場合は極めて執拗だし、又思い切ったものである、……彼はその翌日、御殿下にある斎東の家を訪れて面会を求めた。
家士はいちど奥へ取次いだ後、
「折角ですが、主人は他出中でございます」
と明らかに居留守を使った。
「では御帰宅まで待たせて貰おう」
「それが、帰藩の挨拶に諸方へ廻りますので、戻りはいつになるやら知れません。失礼ながら又お訪ね下さるよう」
「そうか。……では斯う伝えて呉れ」
三郎兵衛は冷笑しながら云った。
「昨日の勝負をつけに金吾三郎兵衛が参ったと、よいか。然し留守を使われては致方がない。向後は出会ったところで遣るから、充分に覚悟をしていて貰いたい。……分ったか」
「左様申伝えます」
家士は噛みつきそうな眼をしていた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
与茂七は彼の前に姿を見せなかった。
明らかに避けているらしい、三郎兵衛は出来るだけ会いそうな機会を狙いつつ、一方では嘲弄と侮蔑の言葉を撒きちらした。
そうでなくても、家中の者たちは与茂七と三郎兵衛とを対立させて考えていた。白い虎と野牛とがどう闘うか、何方が勝つか、これは与茂七に抑えられ三郎兵衛に手を焼いていた人々にとって、最も興味のある、そして見|遁《のが》すことの出来ぬ好主題であった。
何方が勝ち何方が負けてもいい、然し必ず二人は闘わなくてはならぬ、そして何方かが覇者の冠を叩き落さなければならないのだ。
――きっとやるぞ!
――やらずにいるものか。
みんな眼を瞠って待っていた。
然し期待していた事は次第に怪しくなって来た。先ず進武館での出来事が伝わり、居留守の件が伝わり、三郎兵衛の放つ悪声が止度《とめど》もなく家中に弘まるのに、当の与茂七は熟《う》んだとも潰れたとも云わないのだ。……帰藩の挨拶廻りが終わると共に、与茂七はひっそりと音を殺してしまった。
――どうしたんだ、斎東は生きてるのか死んだのか。
――虎が嘯《うそぶ》いているのに野牛は穴籠か。
――野牛は角を折ったらしいぞ。
華々しい勝負を予期していた人々は、そろそろ待ち草臥《くたび》れたかたちで、頻りに与茂七の下馬評を始めた。評判は悪くなる一方である、……然し依然として何事も起らず、二十日ほど経って六月三日が来た。
毎月三日は礼日で、藩主は江戸在府中であったが、家中総登場の日である。
三郎兵衛は此の日を待っていた。与茂七は当時無役であったが礼日の総登場を欠くことは出来ない、城中衆人環視の中で、退引《のっぴき》ならぬところを抑えてやろうと決めたのである。
彼は早く登場をして遠侍に待構えていた。
人々は直ぐにそれを見て取った。
「おい見ろ、虎が今日こそやるぞ」
「なるほど牙が鳴ってるな」
「与茂七も今日は逃げを打てまい」
「みんな遠巻にして離れるな」
そんな言葉が耳から耳へ囁《ささや》かれた。眼という眼がいつか遠侍の広間に集った。
与茂七が登城したのは九時近くであった。……そら来たという人々の無言のざわめきも感じない様子で、彼は静かに嘉礼を言上しに上り、間もなく下って来たが、そのまま長廊下を退出して行こうとした。
三郎兵衛はすばやく立ち、
「斎東氏お待ちなさい」
と呼びかけながら、小走りにやって来て行手へ立|塞《ふさが》った。
――そら始まるぞ。
待兼ねていた人々は鳴りをひそめ、耳と眼とを一斉にこの二人へ集中した。……与茂七は立止って静かに相手を見た、三郎兵衛は昂然と右の肩を突き上げながら、
「過日、進武館の勝負が預りになっている、再三会いたいと念じているが、居留守を使ったり逃げ廻ったり、遂に今日までその機を得ないで来た、……今日こそ片をつけるからそう思って貰いたい、これから同道しよう」
「その必要はない」
与茂七は眼を伏せたまま答えた。
「あの勝負は拙者の負だ、今更……」
「いやいかん、勝ち負けは立合った上でなくては分らぬ。まして世間には、貴公が立合わぬのはこの三郎兵衛を取るに足らぬ相手と見ているのだという風評もある、このままでは拙者の武道が立たん、今日は是非とも勝負をするのだ」
「どういう風評があるかも知らぬが、このように満座の中で負だと申す以上、貴公の勝はもう確実だ。……通して貰いたい」
「通さぬ、通さんぞ!」
三郎兵衛は両手をひろげた。
「貴公に若し武士の面目があるなら立合え、口先で百万遍負けたと云っても事実の証しにはならん、先ず事実だ、出よう」
「なんと云われても拙者には無用だ」
「無用だと、斎東、貴公この三郎兵衛をそれほど軽侮する気か」
「軽侮ではない、ただ無用だというのだ」
「無礼者!」
三郎兵衛は叫びながら詰寄った。
「無用とはなんだ、拙者は物乞いをしているのではないぞ、貴様は武士の作法を知らんのか、武道の立合を挑まれて応ずることも出来ず、臆面もなく無用などとは、貴様……それでも両刀に恥じないのか」
「待て金吾」
榊市之進であった、彼は見兼ねたのであろう、とび出して来るとそう叫びながら三郎兵衛を羽交い絞めにして、
「場所柄を考えろ、城中だぞ」
「放して呉れ、彼奴……」
「鎮まれ、話がある、金吾、見苦しいぞ」
強引に絞めあげながら、連れ去った。……与茂七は静かに退出して行ったが、人々は彼の拳がわなわなと震えているのを見逃さなかった。
[#6字下げ]夜霧[#「夜霧」は大見出し]
[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
その日の灯点《ひとも》し頃に、三郎兵衛の妻松子が与茂七の家へ訪れて来た。……意外な人の訪問である、与茂七は些か狼狽した様子で、会ったものかどうかと暫く考えていたが、やがて客間へ通して相対した。
「三年ぶりですな、ようこそ」
「御無沙汰申上げて居ります。お変りもなく」
「手前こそ、取紛れてお祝いにも上らず失礼していました。後ればせながらお目出度う、お父上もさぞ御|安堵《あんど》のことでしょう」
「有難う存じます」
まぶた松子は重たげな眼蓋《まぶた》を僅かに染めた。
あの頃からとびぬけて美人というのではなかった。どこもかしこもふくらみかかった蕾のような重たげな羞《はじら》いに満ちた乙女であった、表へ現われる美しさは無かったが、その重たげな羞いの裡側《うちがわ》にひそんでいた。
三年ぶりで会った彼女は、もう人の妻として一年余日を過している、年齢ももう二十二になっている筈だ、けれどあの頃からそうだった腫れぼったい目蓋を、僅かに赤らめながら俯向《うつむ》いた姿には、裡側にひそんでいた少しも損なわれない美しさが溢れていた。
「して、なにか御用でも……」
「はい、……三郎兵衛から申付かりまして、是をお渡し申上げるようにと」
松子は一封の書面を差出した。
与茂七は目礼して封を切った、……書面は思い切って辛辣な句々で埋っていた。「榊市之進より仔細のこと聞き取り候」という書きだしである、要点を記すと斯うだ。
あれから市之進の話を聞いた。
貴公は予て妻松子に心を寄せていたのだそうな。だから、拙者が挑戦しても応じなかったのは卑怯未練からではなく、松子に不測の歎きを与えまいがためだったという。……話は分った、拙者は松子を離別する。松子にはこの手紙を届けてから金吾の父の許へ帰れと申付けた、当人は知らぬが離別の手紙を持たせてある。
是で二人の間の邪魔者は除かれた、貴公も今こそ存分に立合えるだろう。……松原の湖畔「亀形の丘」にて待つ。
与茂七は文面を篤と読終ってから、静かに巻納めて顔をあげた。
「貴女はこれから鞘町へお廻りですか」
「はい、なんですか二三日父の元へ行って居れと申しつかりましたので……」
「手紙をお持ちですね」
「なにか書いてございまして?」
「鞘町へはおいでにならなくとも宜しい、その手紙を渡して下さい、いや大丈夫、金吾は承知なんです」
「でも、……父の名宛でございますが」
「それがもう無用になったのです、その手紙を持って拙者が是から金吾のところへ行くことになったのですよ。だから貴女は、そう……後から直ぐ家へ帰って下さい」
「それで宜しいのでしょうか」
「帰っていれば分ります」
そう云って、与茂七は、松子から手紙を受取ると共に立った。
彼は手早く身仕度をすると、家士に命じて、松を四五本用意させ、その一本に火を点じて家を出た。……もう暮れていた、湖の方から濃い霧が流れて来て、街の灯を朦朧《もうろう》と暈《ぼ》かしていた。
与茂七は懸命に怒を抑えていたが、一歩行く毎に我慢の緒が切れて来た。髭の剃り跡の青々とした顎は、歯を食いしばるために歪み、大きな眼は燃えるように光を放った。……彼は真直に松原の湖畔へ出ると、指定された丘の上へ砂を踏みしめながら登った。
三郎兵衛は既に来ていた、彼は霧の中からくっきりと白い汗止を見せつつ進み出て、
「よく来た、待兼ねたぞ」と喚いた。
すっかり身支度をして、そう喚くなり左手に提げていた大剣を抜き、鞘を傍《かた》えの松の根方へ置いた。……与茂七は答えなかった、そして無言のまま、五本の松に火を点じ、それをよきところに組合せて立てた。……濃霧がその焔を映して赤い光暈《こううん》を作った。
それが済むと、与茂七は静かに袴の股立を絞り、襷と汗止をした後、履物を脱いで向直った。……そして初めて相手へ眼をあげた。
三郎兵衛は苛だった調子で、
「……いいか!」と叫んだ。
与茂七は、
「よし」と答えて右手を柄《つか》に当てた。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
三郎兵衛は青眼にとった。
与茂七は右手を柄にかけたままである。
松の焔がぱらぱらとはぜ、霧がしまをなして渦巻き流れた。なんの物音もない、時々どこかで微かに砂がはねるのは、松葉からこぼれる霧の滴であろう。
時にして約十分。
呼吸と気合とが次第に充実し、両者の闘志が抑制の最後の膜をひき裂いたと思われる刹那、絶叫と剣光とが濃霧を截《たち》割った。……そしてそのまま元の静寂が四辺を包んだ。
三郎兵衛は半身になったまま大剣を下ろして反っている、与茂七の剣の切尖が、三郎兵衛の鼻梁の真上に、ぴったりと吸着しているのだ。どう動いてもその切尖を遁れる術はないだろう。
「……金吾、斬って来い」
与茂七は静かに云った。
「決して怪我はさせない、だから安心して掛って来い。……動けないのか」
「……」
「貴様の腕はそれきりか」
与茂七の籠手《こて》が僅に動いた。
再び絶叫が起り、剣光が弧を描いた、然しその次の刹那には与茂七が三郎兵衛を組敷き、拳をあげて殴りつけていた。無言のまま殴った。三郎兵衛が反抗を止めて動かなくなるまで、殴って殴って殴りぬいた。
「馬鹿野郎、貴様は大馬鹿野郎だぞ」
罵りながら与茂七は身を起した。……そして倒れたまま喘いでいる三郎兵衛の姿を、上から暫く見戍っていたが、やがて汗止を外しながら下りて行った。
水の滴る汗止を持って与茂七が戻って来たとき、三郎兵衛はまだ地上に伸びていた。
与茂七は側へ行って抱起しながら、
「さあ水だ、綺麗にして来たから啜《すす》れ」
「……無用だ」
「己の科白《せりふ》を取るな、喉を潤したら話があるんだ、痩せ我慢はぬきにしてお互いにさっぱりしよう、さあ」
三郎兵衛は音高く水を啜った。
与茂七は自分の襷を外すと、相手の物もすっかり脱ってやり、相対してどっかりと腰を据えた、そして両手の掌を外らせて膝を抱え、
「第一は松子さんだ」と呼吸を鎮めながら云った。
「市之進が話したのは嘘ではない、己は曽て松子さんを自分の妻に申受けようと思ったことがある、市之進にそんな意味を洩らしたことがあるかも知れないが、もうよく覚えていない。恐らく洩らしはしなかったろう、市之進がそう気付いていただけだろうと思う、……だから、こんな誤解が生じたのだ、肚を割って云うが、当人の己が江戸詰め三年のあいだにすっかり忘れていたんだ、帰って来て、貴公の入婿を聞いたときはじめて、忘れていたことに気付いたくらいだ」
「……」
「聞いているだろうな、金吾」
そう云って与茂七は続けた。
「だから、松子さんのために挑戦に応じなかったというのは嘘だ、市之進の解釈は誤っている、あの男は文字に明るいからむやみに小説じみたことを考えるんだ」
「ではどうして、どうして逃げたんだ」
「第二の問題はそれだな。……云ってしまうから気を悪くするなよ」
与茂七はひと息ついて云った。
「己は少年時代からこの彦根で餓鬼大将だった、自分の腕力を恃《たの》んでのし廻った、世間のやつらがみんな馬鹿のように見え、大手を振って横車を押し通して来た。……二十八歳になる今日までそうだった、ところがあの日。……進武館で貴公に出会ったとき、肩を突上げて仁王立ちになっている貴公の恰好を見たとき、己は……自分の姿をまざまざと見たのだ」
「……」
「道場のまん中に立って、傲然と肩を怒らしている、その心驕ったさま、我こそはという増長慢、……それはそのまま与茂七の姿なんだ、二十八年のあいだ己は、そっくりそのままの恰好でのし廻っていたんだ。……なんという滑稽な、道化た姿だ、生唾の湧く気障っぽさだ。……己は恥ずかしくなった、そして逃げだした。自分では遂に分らず、貴公の上に自分の愚な恰好を見出して初めて……己は眼が覚めたのだ」
与茂七は言葉を切って頭を垂れた。
松の焔がどよみあがり、既に半ばまで燃えた一本が崩れると支えが破れて一時にみんな倒れかかると、ぱちぱち樹皮がはぜ、美しく火の粉が飛んだ。……そして渦巻き流れる濃霧をぱっと赤く焦がした。
「是は燃してしまえ」
暫くして与茂七が、封を切ったのと切らぬのと二通、ふところから取出して渡した。……三郎兵衛は黙って受取り、身を伸ばしてそれを焔の中へ投込んだ。
与茂七はにこっと笑いながら、三郎兵衛の肩を叩いた。……三郎兵衛は腕で顔を隠すと、急においおいと泣きだした。はじめはそうでもなかったが終いには子供が泣くように、おーんおーんと明けっ放しで泣きだした。
「……おい」
与茂七は笑いながら、
「泣くだけ泣いたら知らせろよ、己は少し横になる。……ああいい心持だ」
そう云ってごろっと仰反《あおむけ》に寝ころんだ。……ひんやりと濡れた砂が、単衣の背に快く感じられた。彼は両手を頭の下にかった。
三郎兵衛の泣声はなかなか止らない、二人のあいだには、重要な言葉はまだなにも語られていないようだ、けれど三郎兵衛の泣く声は、どんな言葉よりも鮮かに、凡てを諒解したことを証している。……松の火は既に落ちかかり、赤い光暈《こううん》は濃い霧の帷《とばり》と共にじりじりと円を縮めつつあった。
「おい、……金吾」
「……」
「是で彦根から野牛と虎がいなくなるなあ。うん、城下は厄介払いをするだろう。うん、明日からさっきの手を教えてやる、あれは柳生の秘手だ。うん、己は二年かかって」
独りで話し独りで答えながら、いつか与茂七の頬を涙が流れていた。……なんの涙ぞ。
底本:「修道小説集」実業之日本社
1972(昭和47)年10月15日 初版発行
1979(昭和54)年2月15日 新装第七刷発行(通算11版)
底本の親本:「講談倶楽部」
1940(昭和15)年5月号
初出:「講談倶楽部」
1940(昭和15)年5月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ