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寝ぼけ署長03一粒の真珠
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寝ぼけ署長
一粒の真珠
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)訪《たず》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|疋《ぴき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
我が寝ぼけ署長が貧民街の人たちに慕われていたことは、初めにちょっとお話ししました。じっさい金花町から富屋町いったいの住民たちの署長に対する信頼と敬愛の情はたいへんなもので、本署へも官舎へも署長を訪《たず》ねて来る彼等の姿のみえない日はないと云ってもいいくらいでした。うす汚《ぎた》ない婆さんが手作りの牡丹餅《ぼたもち》を持って来たり、魚屋のかみさんが「わたしが拵《こしら》えたんですよ、とっても美味《うま》いから署長さんの弁当のお菜にしてあげて下さいな」と云って鯵《あじ》の干物を三枚届けて来たり、赤ん坊を負《おぶ》った女の子が野花を束にして署長室へあらわれたりしました、いつかなんぞ七つばかりの男の子が三人で、川蟹《かわがに》をバケツに一杯持って来ましたっけ。
「こいつはもくぞう[#「もくぞう」に傍点]蟹、これは清水蟹」と彼等は署長に説明しました、「そいからこっちは弁慶、これは躰操蟹《たいそうがに》だよ、ほらね、はさみ[#「はさみ」に傍点]をこうやって上げたり下げたりするんだ、面白いだろう署長さん」
「うん、面白いな、坊や」
「これみんなあげるよ」彼等はきまえよくこう云いました、「面白くなくなったら茹《ゆ》でて喰《た》べればいい、美味いよ署長さん」
「これ食えるのかい」
「食えなくってさ」一人の子供が昂然《こうぜん》と肩をあげました、「ちゃんが仕事にあぶれた時なんか、うちじゃいつでもこいつをごはんのおかずにするよ、知らないのかい」
「う、うん」署長はすっかりまごついたようすでバケツの中から一|疋《ぴき》摘《つま》みあげ、「これが弁慶蟹かい」などとばつを合わせようとしましたが、いきなり大きなはさみ[#「はさみ」に傍点]で強《したた》かに指を挾《はさ》まれ、びっくりして椅子からとびあがりました。
こんな贈り物ばかりではありません、仕事が無くて困るとか、家主が因業だとか、亭主が喧嘩《けんか》ばかりするとか、酒屋で酒に水を割るとか、娘が云うことを肯《き》かないとか、学校の先生がえこひいきをするとか細ごました苦情や相談を持ち込む者も絶えませんでした。いつでしたか、荷馬車|曳《ひ》きの鉄という男が薬壜《くすりびん》を一つ持って、ひどく昂奮《こうふん》してやって来ました。それは「いぼコロリ」という薬で、三日つければどんな頑固《がんこ》ないぼ[#「いぼ」に傍点]でもころりと落ちる、そういう意味の効能書が貼《は》ってありました、彼はもう十日もつけているがいぼ[#「いぼ」に傍点]はびくともしないと云うのです。
「荷馬車曳きをしていたって字ぐらい諦めまさあ」彼はこう云いました、「わっちはこの効能書を信用したから買ったんで、署長さんのめえですがわっちは売薬にはちょっと眼を持っているほうでやして、耳だれとか腹下《はらくだ》しとか、脳が病める立眩《たちくら》みがするなんという者には、あれを試《ため》してみろ是れが利《き》くだろうと教えてやるくらいでやす、わっちら貧乏人はおめえさんうっかり医者にもかかれねえ、またかかるにしたところでちょいと脈をみて診察料五十銭なんてえばかけた金を取られるより、たいていな病気は売薬でけっこう治《なお》るもんでやす、「胃ケロリ」てえ薬じゃあ十年も病んでた伝六|爺《じい》さんの胃病がまったくけろりと治りやした、尤《もっと》もその年の彼岸《ひがん》あけに爺さんは癌《がん》で死にやしたがね、胃癌と胃病とは別ものなんで、まあ余病が出たというわけでやしょう、詰るところわっちらにとっちゃあ売薬は医者と病院を兼ねたようなもんでやす、それがおめえさん効能書の三日を十日つけても治らねえ、たかがいぼ[#「いぼ」に傍点]くれえだと云うかも知れねえが、もしこれが肺病とか心臓なんということになれば人権|蹂躙《じゅうりん》でやす、わっちは断然この会社を摘発するでやす」
鉄さんをなだめて帰したあと、署長はながいことなにか考え耽《ふけ》っていました。それから一年ほどして栄町の無料診療所が出来たのですが、これはいま関係のないことですから省きましょう。彼等の署長に対するこのような信頼は、もちろん理由なしではありません。そうなるまでには五道署長の大きな愛と撓《たゆ》まざる努力が積まれているのです。じっさい貧しい人たちに対する署長の愛は底無しでした。着任するとすぐから、毎週一回は私服で貧民街へでかけてゆき、殆んど半日がかりで極貧者や病人のある家を見舞ったり、不平や苦情を聞いてやったりするのです、私はいつもそのお伴をしましたが、どんな無頼漢にも対等で話しかけ、乞食《こじき》小屋のような処《ところ》へも平気で坐りにゆく署畏の態度には、幾たびも心から頭を下げたことを忘れません。この習慣は転任して去るまで、一回の休みもなく続きました。……そしてこれからお話しする事件にもこうした署長の気持がよく現われていると思います。
二月十五日のことでした。これは事件が紀元節に起こったのでよく覚えているわけですが、十五日の朝みすぼらしく痩せた四十五六になる女が、半纒着《はんてんぎ》の若者といっしょに署長を訪ねて来ました。金花町の者だというのです。署長はちょうど事務を執っていましたが、ペンを措《お》いてすぐに会いました。
「わたしは森田みき[#「みき」に傍点]と申しまして、今こちらの御厄介になっているお杉の親でございます」その女はこう云いました、「それからここにいるのは文《ぶん》さんといって、お杉と夫婦約束のできてる人です、お杉を帰して頂きたいと思いまして、こうしていっしょにお願いにあがりました」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「お杉さんというのがどうかしたのかね」
「はい、お屋敷でお嬢さんの頸飾《くびかざ》りを盗んだという疑いで留められているんでございます、あれに限ってそんな事をする筈《はず》がございませんし、留められてからもう四日にもなりますので、どうか署長様のお計らいで帰らして頂きたいと思いまして」
そんな事があったのかねと署長は私のほうへ振向きました、そして私がありましたと答えると、では太田君を呼んで呉れと云います、司法主任はすぐやって来ましたが、はいって来たとたん、そこにいる文さんという若者を見て妙なこえをあげました。
「よう、ぎっちょの文次じゃないか、久しぶりで会うな」主任はこう云って若者の肩へ手をやりました、「おまえに用があるんで呼びにゆこうと思っていたところだ、あとでちょっと刑事部屋へ来て呉れ」
「私がなにかしたっていうんですか」文次という若者が赫《あか》くなり、ついで紙のように蒼《あお》くなりました。左の肩をつきあげ、主任を見あげた眼が急に鋭い反抗の色をあらわしたのに驚きました、「私はすっかり量見をいれ替えた人間です、こんどの事だってなんにも知っちゃあいません、変な疑いはよして下さい」
「こんどの事で疑われたということがよくわかるな、おれはただ用があると云っただけだぜ」主任は冷笑しながら離れました、「なんでもいいからあとで刑事部屋へ来るんだ、真人間になったのならなにも恐れることはないだろう」
署長は見て見ない振りをしていました。そして主任が椅子に掛けるのを待って、森田お杉の件を精《くわ》しく聞かせて呉れと云いました。主任はそこにいるみき[#「みき」に傍点]のほうを睨《にら》みつけてから、次のように事件の始末を語りました。
この市には旧幕時代からの名門が十二軒あります。名門というだけで、たいてい落魄《らくはく》した家ばかりですが、なかに旧藩主の満田家と、中沢、沖原という三軒は富豪でもあり、政治的にも市の有力者に数えられています。事件は中沢万三郎氏の邸宅で起こったのですが、当時の市長は沖原忠造氏で、その前年の市長選挙に激しい逐鹿戦があり、以来両者の仲がうまくいっていないという評判のある時でした。……事件というのはこうです。十一日の紀元節には市の公会堂で祝賀の舞踏会が催されます。これは市長主催で毎年やるのですが、沖原市長になって初めての会ですから、東京からバンドを呼ぶとか、商工会議所でシャンパンを寄付するとか、なんとかいう歌舞伎役者の一座が余興を演《や》るとか、色いろ派手な噂《うわさ》がとんでいました。そのころ中沢家に由美子という令嬢がいました。たしか二十三くらいだったでしょう、二番めの娘で、長女の樹美《きみ》という人にはもう婿が来て、子供も二人ほどあったと思います。……中沢万三郎氏は、沖原市長の主催だというので、舞踏会へ出ることは禁じたそうですが、由美子嬢はどうしても出る積りで、母親にも内証でひそかに支度をしていました。その支度のなかに問題の頸飾りがあったのです。百四十九|顆《か》の真珠をつらねた時価九万何干円とかいうみごとな品だったそうです。令嬢は土蔵の金庫からtれを取出して来て、自分の部屋にある用箪笥《ようだんす》の、貴金属や宝石類を入れる抽出《ひきだし》へ納《しま》って置いた。そして十一日の夕方になり、すっかり支度ができて、いざ掛けようと抽出をあけてみると、ケースばかりで頸飾りが無くなっていた。さすがに令嬢は慌《あわ》てました、できるだけ捜したがみつからないので、もう内証にしてはおけなくなり、母親にうちあけたのです。もともと令嬢は自分の部屋へ人のはいるのを嫌い、でかける時には必ず鍵《かぎ》を掛けるという風で、殆んど人の出入りというものがない、殊にその数日は小間使のお杉の他《ほか》にそこへ近寄った者もないので、疑いはまずお杉にかかりました。そしてよくある事ですが、三人立会いのうえでお杉の持物を検《しら》べたのです。
「すると行李《こうり》の中から」と太田主任が続けました、「小さな真珠が一粒だけ出て来たのです、紛れもなく頸飾りの中から取外したものに相違ありません、そこで色いろ問い詰めたのですが、ただなにも知らないど答えるだけで、頸飾りのあり処《どころ》も云わず、その一粒の真珠の出所も云わない、やむを得ず本署へ電話を掛けて捜査を依頼されたというわけなんです」
署長は例のように眼をつむり、なかば眠ったような姿勢で聞いていました。そして主任がそこまで云うと静かに咳《せき》ばらいをし、森田みき[#「みき」に傍点]のほうへ振返りました。
「森田さん、どうもこれは少しむずかしいな、折角だが今日すぐお杉さんを帰してあげるというわけにはいきそうもない」
「そんな情けないことを仰《おっ》しゃらないで下さいまし、お杉のことは親のわたしがよく知っています、あれに限ってそんな大それた事をする筈がありません、なにかって云えばすぐ貧乏人が疑われるけれど、署長様は貧乏人の味方じゃあございませんか、どうかよく調べて下さいまし、そうすればお杉でないということがすぐわかる筈ですから」
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
「私は誰の味方でもないよ、森田さん」署長は困惑したように云いました、「そして正しい人間には味方なんか要らないものだ、なぜかと云えば、正しいということがなにより強い大変な味方だからな、……然《しか》しお杉さんのことは私がひきうけて調べよう、たいして日数もかかるまいが、今日すぐというわけにはいかないから、とにかくいちどお帰んなさい、きっといい知らせを持っていってあげるから」
みき[#「みき」に傍点]は納得しました。文次のことでちょっとごたつきましたが、太田主任がどうしても留めるというので、結局みき[#「みき」に傍点]は独《ひと》りで帰っていったわけです。……みき[#「みき」に傍点]が去り、文次を捜査主任に預けてから、太田主任は署長室へ戻って来ました。主任はもうこの事件の見通しをつけているようすで、すらすらと次のように説明をしました。
「だいたい杉の犯行だと思うのですが、理由は三つあるのです、杉の家庭は男親が五年前に死んで、子供が六人もあり、母親のみきの内職と十五になる長男一郎が町工場の職工をし、それに杉の給金を合わせてようやく暮しているのですが、もちろんかつかつの生活で、細ごました借金がだいぶ溜《た》まっているようです、……もう一つはあの文次です」
若者の名は西山文次という、十歳前後で孤児になり、富屋町の表通りに店のある建具職の家で育てられた、親方は鈴木秀吉といい、文次にはずいぶんめをかけて仕込んだし、当人も左利《ひだりき》きが難だったけれど手の性が良く、十六七になると一人まえの仕事をするようになった。ところがそれがあやまりのもとで、年もゆかぬ身が一人まえの手間賃を取ることから世間を甘くみる癖がつき、それからぐれだして親方の家も逐《お》われ、ついには「ぎっちょの文次」などと云われる不良の徒に落ちてしまった。
「それから五六年というものは札付のやくざで、留置所の味も知るようになりましたが、一昨年の夏でしたか、こんどこそ改心すると泣いて誓い、それ以来おとなしく建具屋の手間取をして来たようです」主任はそう説明を続けました、「……中沢家へ捜査にまいった時でした、令嬢の話で杉に縁談があり、この夏の初め頃には結婚をするということを云っていたし、十日の夜にもその若者が訪《たず》ねて来て、三十分ばかりなにか話していった、こういうことを開きました、それから調べてみると縁談の相手というのが文次であり、彼は杉と結婚するために、建具屋の店を持とうとしてだいぶあせっているという事実がわかったのです」
現に行李の中から一粒ではあるが真珠が出て来ている。頸飾《くびかざ》りのなかの一|顆《か》に間違いはないという、そして家庭にそういう事情があるとすれば、太田主任ならずともお杉の犯行とみるのが当然でしょう。
「たぶん十日の夕方お杉と会ったとき、頸飾りは彼の手に渡っていると思います、品が品ですからまだ売ってはないでしょう、文次を叩《たた》けばきっと出て来ると信じます」
「お杉を呼んで呉れないか」主任の説明が終るとすぐ、署長が沈んだ調子でこう云いました、「ちょっと話したいことがあるから」
「なにかお見込みでもあるんですか」主任はどうやら不満そうでした、「もしそうでなかったらこの事件は任せて頂きたいんですが」
「君には頼むことがあるんだ、……由美子さんのことを急いで調べて呉れ給え、女学校時代から最近までの素行、恋愛関係の有無、できるだけ精《くわ》しいほうがいい」
「然し令嬢は被害者なのですが」
「いや、犯人がわかるまでは、どちらが被害者とも定《き》められはしない、急いで頼むよ」
主任が出ていって間もなく、捜査課の刑事がお杉を伴れて来ました。十九だというがふけてみえました。あれは小麦色というのでしょうか、肌理《きめ》の密《こま》かい引緊《ひきしま》った膚の、どっちかというと背の低い躯《からだ》つきで、顔はちょっとおでこですが、顎《あご》のくくれた眉の濃い、利巧そうな面《おも》ざしでした。署長は刑事をさがらせ、お杉を招いて自分の側にある椅子に掛けさせました。
「さっきおっ母さんが来たよ」署長はうちとけた調子でこう云いました、「お杉さんのことを心配してね、文次という人が一緒だった、しっかりした好い人間のようだね」
お杉は俯向《うつむ》いたまま身動きもしません。署長はそのようすを温かいまなさしで見やりながら、まるで親類の娘でも労《いたわ》るような調子で云い継ぎました。
「文次君はまえにいちどぐれたそうだ、然し人間はたいていいちどはぐれるものだよ、おそいか早いかの違いでね、……早くぐれた者はそれだけ早く堅くなる、一緒になればきっと稼《かせ》きやの亭主になるだろう、お杉さんさえ本当に愛していればね」
「…………」
「さて」と署藁は例のように眼を閉じました、「そこで一つ二つ訊《き》きたいことがあるんだ」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「お杉さんは、頸飾りの無くなったことで、なにか知っていることはないかね」
「……存じません」
「これが怪しいというくらいのことでもいいんだよ」
「……なにも存じません」お杉はびっくりするほどけんめいな声で云いました、「わたくしなんにも存じませんし、なにも申上げられません」
「云えない」署長は眼を閉じたままです、「云えないというと、なにか知っているんだね」
「いいえ、いいえ違います」
そしてなおなにか叫びそうにしたまま、お杉は喉《のど》に物でも詰ったように絶句してしまいました。署長はしずかに眼をあいて、かなりながいことお杉の顔を見まもっていました。
「ではもう一つ、お杉さんの行李から、真珠が一粒出て来たそうだね、それに就いてなにか知らないかね」
「……存じません」
「君でないことはたしかだね」
「……はい」
「然し誰がしたかは見当がつく、そうだろう」
お杉は一瞬ぐっと身を固くしました。頭から足の尖《さき》まで、電気にうたれでもしたように、ぐっと固くなるのが私にもわかりました。尤《もっと》もそれはごく短い瞬間のことで、彼女はすぐ顔をあげ、さっきと同じようなひどくけんめいな調子で叫びました。
「いいえ存じません、いいえ、わたくしなにも存じません」
署長はくいいるようにお杉の表情を見ていました。それからゆっくり頷《うなず》くと「もう二三日辛抱していて貰うよ」と云いながら、卓子の上の呼鈴を押しました。……先刻の刑事が来てお杉を伴れ去りますと、署長は椅子の背に凭《もた》れ、深い溜息《ためいき》をつきながら眼をつむり、腕組みをしてなにか考えこむようすでした。……静かになった部屋の中で、ストーブの燃える音が急にはっきり聞えだす、雪もよいに重たく曇った日のことで、窓硝子《まどガラス》の寒ざむとした光りがなんともものがなしい気持を唆《そそ》るのでした。
「貧乏は哀《かな》しいものだ」署長がふと独《ひと》り言《ごと》のように云いだしました、「さっきみき[#「みき」に傍点]というかみさんの云ったとおり、こんなときまず疑われるのは貧乏人だから、然し、貧乏はかれらひとりの罪じゃない、貧乏だということで、かれらが社会に負債《おいめ》を負う理由はないんだ、寧《むし》ろ社会のほうでかれらに負債を負うべきだ、……本当に貧しく、食うにも困るような生活をしている者は、決してこんな罪を犯しはしない、かれらにはそんな暇さえありはしないんだ、……犯罪は懶惰《らんだ》な環境から生れる、安逸から、狡猾《こうかつ》から、無為徒食から、贅沢《ぜいたく》、虚栄から生れるんだ、決して貧乏から生れるもんじゃないんだ、決して」
署長の調子にはまるで訴えるような沈痛な響きがありました、そして暫く経ってから、やっぱり眼をつむったままで、更にゆっくりと次のように続けました。
「裏長屋の暮しをみ給え、かれらは義理が固い、単なる隣りづきあいが、どんな近い親類のようにも思える、他人の不幸には一緒に泣き、たまに幸福があれば心からよろこび合う、……それはかれらが貧しくて、お互い同志が援《たす》け合わなければ安心して生きてゆけないからだ、間違った事をすれば筒抜けだし、そうなれば長屋には住んでいられない、そしてかれらが住居を替えることは、そのまま生計の破綻《はたん》となることが多いんだ、なるべく義理を欠かないように、間違ったことをしないように、かれらはその二つを守り神のように考えて生きているんだ、かれらほど悪事や不義理を憎むものはないんだよ」
それからなお貧乏論は続きましたが、もう覚えてもいませんし、必要もないでしょうから省きましょう。こうして私の口から伝えると、平凡な詰らぬ説になってしまいますし、説そのものはなんの奇もありませんが、そのときの署長のようすと声の調子とは忘れがたいものでした。私は云いようのない温かい感動をうけ、人生がひろく深いこと、どんな貧窮のなかにもそれぞれ生きた生活のあること、そんな風な、漠然《ばくぜん》としたよろこばしい空想に耽《ふけ》ったことを覚えています。
その日の午後、捜査主任が来まして、西山文次を帰したこと、同時にその家宅捜索をしたが、頸飾りは出て来なかったという報告をしました。
「留置しなかったのは太田さんの意見で、放しておけば盗品の始末をするだろうという見込みです、張込を二人つけて置きました」
署長はそうかとも云わず、「太田君に頼んだことを至急にと伝えて呉れ給え」と念を押しただけでした。そして時間とおりに退署しました。
太田主任から調査書が届いたのはそれから四日後のことてした。それに依《よ》ると、由美子嬢は、東京のさる贅沢な女学校を卒業し、音楽学校を中途でやめて帰郷しています、中退の理由は濁してありますが、恋愛事件のようで、新聞にまで出たとかいうことが、級友の一人から聞きだしてありました。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
帰郷してから二年半ばかりになりますが、かなりな美貌《びぼう》と、頭のよいのと勝ち気と、そしてずばぬけて派手な行動とで、市の上流社会の中心的な存在となり、音楽会にも、庭球試合にも、バザーにも、舞踏会にも、多くの青年たちに取巻かれた彼女の姿の見えないことはなかったし、乗馬|倶楽部《クラブ》では唯一人の女性メムバーとして、障害跳《しょうがいと》びに、ポロに、隣県への遠乗りに、いつも颯爽《さっそう》とした手綱《たづな》さばきを見せているという。こういうわけで、彼女の周囲には常に青年たちが集まるし、華やかな噂《うわさ》も少なくないのですが、恋愛関係のようなものは無いらしい、唯ひとつ、沖原市長の令息に忠雄という青年があり、これとはかなり深入りしているのではないかという評判があった、「あった」というのは、例の市長選挙からこっち両家の交際が絶え、それにつれて由美子と忠雄との交際も……少なくとも表面では……遠のいているからです。然《しか》し二人はときおりひそかに逢っているようだ、と主任の調査書には書いてありました。
署長は読み終ったものを私に見せながら、大急ぎで沖原忠雄の現状を調べて呉れと云いました、「中沢嬢とのことはどっちでもいい、現在なにをしているか、交友関係と素行、それだけをなるべく早く調べて呉れ」もちろん私はすぐ立とうとしました。するとそこへ、若い巡査と押し問答をしながら、一人の少年がとひこんで来ました。九つか十くらいでしょう。身状《みなり》恰好で貧民街の子だということはすぐわかったし、どこかに見覚えがあるように思えました。珍しいことではないので、ひき戻そうとする巡査に「よしよし」と手を振り、署長は、その子のほうへ笑顔を向けました。
「やあ、なにか用かい、坊や」
「……ああ」少年はたいそうけしきばんでいました、なにやら敵意のある眼で署長を見ながら、「署長さん僕を覚えてるかい」と云います。
「覚えてるよ、だが、そうさ、誰だっけね」
「忘れたんだ」少年は下唇を噛《か》みました、「忘れたんなら云ってあげるけど、いつかみんなで蟹《かに》を持って来てあげたんだよ」
「ああそうだった、覚えているよ坊や」と署長は大きく頷《うなず》きました、「あのときはたくさん蟹を貰《もら》ったっけな、弁慶蟹だのもくぞう[#「もくぞう」に傍点]だの」
「あの蟹……返してお呉れよ」
「あの蟹をどうするんだって」
「返してお呉れって云うんだよ」少年はしんけんな声で叫びました、「署長さんは好い人だっていうから、僕みんなを集めて、蟹を取って来てあげたんだ、でも署長さんは好い人じゃないじゃないか、僕あげるの厭《いや》んなったんだよ、あの蟹みんな返してお呉れ」
「蟹はねえ」署長は面白いほど当惑し、寧《むし》ろへどもどしてしまいました、「……その、あの蟹は、喰《た》べてしまったよ、もちろんすぐ喰べたんじゃない、みて面白いうちは見ていたさ、坊やたちがそう云ったからね、ごめんよ、そういうわけで返すことはできないんだがね、坊や、でもどうして小父さんが好い人じゃないっていうんだね、なにか小父さんが悪いことでもしたのかい」
「僕の姉さんを連れてっちゃって帰らして呉れないじゃないか」少年は手の甲でぐいと眼をこすりました、「僕の姉さんなんにも悪いことなんかしやしないよ、和田さんとこへ子守《こもり》にいってたときなんか、五円もお金を拾って、その人んとこへ届けてお礼も貰わなかったくらいなんだ、あんな正直者はないって、みんなが云ってるよ、嘘だと思うなら長屋のみんなに聞いてごらんよ」
「それじゃあ、坊やはお杉さんの弟なんだね」
「そうで無くってさ、だから蟹が返せないんなら姉さんを帰らしてお呉れよ、小父さんはここでいちばん偉い署長さんじゃないか」
署長はぎゃふんとまいったかたちでした。そしてなお云いつのる少年の前に、黙って暫く頭を垂れていましたが、やがてふと顔をあげ、坊や幾つだと訊《き》きました。
「十だよ、金花小学校の三年だよ」
「そうか、それではな」署長は卓子の上へ紙と鉛筆をとりだしながら、「小父さんが君の姉さんを早く家へ帰れるようにくふうするから、君も小父さんの手助けをして呉れないか」
「僕がかい、僕にできることかい」
「ああできるとも」署長は紙へなにか書きながら頷きました、「……この手紙を届けてね、なにか呉れる物があったら、大事に、持って来て呉れればいいんだ」
「どこへ届けるの」
「御殿町という処《ところ》を知ってるだろう」
どうやら少年は、うまくはぐらかされたようです、私は笑いながら、「では調べにいって来ます」と挨拶《あいさつ》をし、なにやら仔細《しさい》らしく、頭を捻《ひね》り捻りなにか書いている署長を残して、沖原忠雄の調査にとでかけました。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
私の調査は極めて楽にできました。本町通りに香蘭社というクラブがあります。今でもそうですが市の上流社交場で、そこのマネージャーをしている青田勇作というのが私の将棋《しょうぎ》がたきなんです。私は彼に会いました。社交クラブのマネージャーなどというものは、スキャンダルの貼込帳《はりこみちょう》と同様です、その代り口も固いですが、事情に依《よ》っては話もしないことはありません。私は二時間ばかりで必要なことを聞きだしました。……それによると、忠雄は東京の某私立大学の法科の出で、あまり成績の良いほうではない。年は二十八歳、一人っ子ですが父親の忠造氏が無類の厳格家であるため、指折りの富豪であり市長の子でありながら、小遣《こづか》いにも不自由するというお気の毒な生活を送っている、ところがよくあることで、あまりたちのよくない仲買人に取巻かれて、二年ばかりまえから株に手を出しました。これがどんな結果になるかは云うまでもないでしょう。近頃ではかなり多額な借りができて、よくクラブで深酒をやっているということでした。それからもう一つ、東京遊学ちゅうに、中沢由美子さんと恋愛関係のあったというのは忠雄君で、こっちへ帰ってからもかなりながいこと関係が続いていたらしい。そういう話まで聞きました。
「最近は逢っていないのかね」
「逢わないようですね、昨夜もみえて酒場でひどく酔ってましたが、なんでも近いうち東京へ出るんだとか話してたようですよ」
私はもう充分だろうと思って署へ帰りました。
私が署へ帰ったとき、ちょうどお杉が弟だというあの少年といっしょに帰ってゆくところでした。太田主任が付添いで、署長が門まで送りだしていました。
「おっ母さんに宜《よろ》しく云ってお呉れ」署長は娘にそう云っていました、「近いうち私が御挨拶にゆくってね、そのときにはお杉さんにもお詫《わ》びのしるしを持ってゆくよ」
「僕もまた蟹を持って来てあげるよ」と少年が云いました、「夏になったらだよ、署長さん、僕もう返して呉れなんて云わないからね」
お杉は黙っておじぎをし、弟の手をひいて、太田主任といっしょに去ってゆきました。……署長室へ戻ると私は「あの娘の嫌疑《けんだ》は晴れたんですか」と訊きました、署長はそんなことは云うまでもないという風に手を振り「そっちの報告を聞こう」と促しました。私は青田から聞いたことを話しました。まるで予期していたとおりだとでもいうように、署長は黙ってしまいまで聞き終りましたが、そして例のように深いもの思いに沈むようすでしたが、やがて溜息《ためいき》をつきながらこう呟《つぶや》くのでした。
「一時間ほどまえに、頸飾《くびかざ》りの件はだいたい、解決のみとおしがついた、あとは仕上げだけだ、然し、君に調べて来て貰ったのもむだじゃあなかった、さもないと、僕は仕上げでやり過ぎをしたかも知れない、……不正や狡猾《こうかつ》をみると、人間は忿怒《いかり》を感ずる、けれども、警察官はそれだけではいけない、泥棒にも三分の理、ということを認めなければ、警察官は単なる検非違使《けびいし》に堕《だ》してしまう、……こんどの出来事は、ごくありふれた悪企《わるだく》みだ、子供だましのような狡猾だ、然しそれが、弱い、無力な者を犠牲にしているので、僕は怒った、今日ほど怒ったことはないかも知れない、それでつい今しがたまで、ひじょうに暴《あら》あらしい仕上げを、考えていたんだ」
署長はそこで両の肱《ひじ》を卓子に置き、両手で顔を挾《はさ》んで、暫く声をひそめました、「悪企み」なとという古風な表現や、「僕は怒った」なとという云い方が、まるて中学生のように聞えて、失敬なはなしですが私は笑いたくなったくらいです。だがそのとき署長の頭では一流の「仕上げ」が練られていた、人間を愛する、我われが想像する以上に深く人間を愛する署長には、例に依って事件の始末より、関係者を事件から救うことのほうが、早くも重要な問題になっていたわけです。
「代価はもう支払われた」間もなく署長はこう呟きました、「それだけの物は得なければならない、支払いに価するだけの物はな」
三時頃でしたろう、署長は「魚市場へいって来る」と云って独《ひと》りでどこかへ出てゆきました。帰って来たのは五時頃でした、魚市場は例の遁辞《とんじ》に定《きま》っているし、どこでなにをして来たかもわかりませんが、どちらにしろ、計画はうまくいったらしく、すっかり機嫌がよくなって、いつもの明るいのんびりしたようすにかえっていました。
「青田君というのはなかなか好い人物だね」
「……青田ですって」私にはちっともわかりませんでした。
「香蘭社の主事さ、青田勇作君だよ」
「ああ彼ですか、あそこへいらしったんですか」
「明日なにかうまい物を喰《た》べさせて貰おうと思ってね、君にもつきあって貰うよ、あそこのべネディクティンはすばらしいじゃないか」
私は黙って署長の顔を見ていました。
明くる日の午前十一時頃、署長と私は私服に着替えて香蘭社へでかけました。青田勇作は百年の知己でも迎えるような態度で、まめまめと署長の外套《がいとう》や帽子を受取り、こぼれるばかりの愛想をみせながら、食堂へ案内しました。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
食堂は二百人の会食に使える広いもので、正面にスタンド酒場があり、右側には特別室のブースが五つ並んでいます。これは厚い暗色の垂帷《カーテン》で入口を塞《ふさ》ぎ、中にいる客の姿を外から見られないようになっている。婦人伴れの客とか、邪魔をされずに呑んだり話したりしたい客のための部屋でしょう、青田は署長と私をその部屋の一つに導き入れました。
「支度はできているかね」
「はいすっかり用意いたしました」
「ためしてみる必要はないか」
「私共でためしてみました」こう云って青田は隣室との仕切りの最も奥に当る処《ところ》を署長に見せました、「ここをこれだけ明けてみたのですが、もちろん気付かれないでしょうし、かなり低い声でもよく聞えます」
そう云われて見ると、マホガニーの仕切り板の、壁に接する部分が三寸ほどずらせてあるのです、署長は頷《うなず》きながら腕時計を見て、
「ではひとつ食事をさせて貰おうかね」と云いました。……野鴨《のがも》の鍋焼《なべや》きが主菜で、スープも揚げ物もすばらしく美味《うま》い昼食が運ばれました。私はこれからなにが起こるかという興味と好奇心の、ために、おちついて味わうゆとりもありませんでしたが、署長はいっぱし美食家のように、葡萄酒《ぶどうしゅ》の赤を注《つ》いだり白を啜《すす》ったりしながら、いかにも美味そうに一皿ひとさらを楽しんでいました。
食後の珈琲《コーヒー》が終ると、いわゆる「すばらしい」ベネディクティンが運ばれました、D・O・Mです。給仕の置いていった銀盆の上には、酒壜《さかびん》の他にリキュール・グラスが四つありました。私は署長の顔を見ました。するとちょうどそのとき、青田に導かれて一人の中老の紳士がはいって来たのです、背の低い、固肥《かたぶと》りの、眼の鋭い、白い口髭《くちひげ》を生《は》やした、ひどく頑固《がんこ》そうな容貌《ようぼう》の人です、署長は立って「これは中沢さんようこぞ」と奥の椅子をすすめました、「どうぞこちらへ、どうぞ」紳士は私のほうへじろりと一瞥《いちべつ》をくれ、黙礼をしながらその椅子に掛けました。それは中沢万三郎氏だったのです。そして署長がひと言話しかけたとき、青田がまた一人同じ年配の紳十を案内して来ました。……こんどはかなり長身の、眼鏡をかけた神経質らしい顔だちの人で、つとめて威厳を保とうとするような挙措が眼だちました。私にはそれが市長の沖原忠造氏だということがすぐにわかりました。
沖原氏は室内をひと眼見るなり、「私は部屋を間違えたようですな」
そう云ってひき返そうとしました。むろんそこに中沢氏のいるのを見たからでしょう。然《しか》し署長は「いや此処《ここ》です沖原さん」と静かに呼びかけました。静かでしたがその声には冷やかな威圧と、反対を許さない厳《きび》しい響きがありました。
「どうぞこちらへお掛け下さい、理由はすぐにわかります、どうぞ」
沖原氏はちょっと躊《ためら》うようすでしたが署長の態度に圧倒されたのでしょう。中沢氏のほうへは眼を向けずに、いちばん奥の、ちょうど中沢氏と差向いの席に就きました。署長は四つの杯に酒を注ぎ、自分でみんなの前に配ってから、「とりあえずひと言だけ申上げて置きます」と冷やかに云いました。
「今日のお招きは私ひとりの考えで、沖原さんはもちろん、中沢さんも御存じのないことであります、たぶんお二人とも御不快であろうと存じますが、これは単に私の酔狂から出た催しではなく、どうしてもお二人に揃《そろ》って頂く必要があったのです、なぜかということはもう間もなく……」署長は腕時計を見ました、「さよう、遅くとも三十分以内にはおわかりになるでしょう、それまでどうか御不快を辛抱して頂きたい、そして私がお願いしましたら、どのような事があっても沈黙を守って頂きたいのです、お二人にとっては、かなり意外なことが起こるだろうと思うのですが、黙ってしまいまで見ていて頂きます、これだけをお願い致します」
そこで初めて毎《いつ》もの調子にかえり、「いかがです、このドムはなかなかいけるじゃありませんか、アペリチフということでどうぞ」あいそよくそう勧めるのでした。……私にとっては、絶交状態にある両氏を一緒に招いたことだけでもずいぶん面喰《めんくら》いましたが、これから更に何事か始まると聞いて、好奇心は強くなるばかりでした。沖原氏も中沢氏も同様だったでしょう、杯にはかたちだけ口をつけたまま、お互いに無視し合いつつじっと「その時」の来るのを待っているようすでした。
二十分も経ったでしょうか、垂帷が引いてあるので姿は見えませんが、給仕に案内されて隣りのブースへ客が一人はいって来ました。署長は声をひそめて「黙って、物音をさせないで下さい」と囁《ささや》きました。中沢氏は腕組みをし、沖原氏は椅子の背に凭《もた》れました。私も全身の神経を耳に集め、かたずをのんで隣室のようすに聞きいりました。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
「ええ珈琲だけでいいわ」隣室から若い娘の声が聞えて来ました、「まだ誰も私を尋ねて来た方はなくって?」
「はあ、まだどなたもおみえになりません」
「来たらここへお願いしてよ」
これだけの会話がはっきり聞えました。そして署長がつど手を伸ばして中沢氏の腕を押えたので気づきましたが、氏は大きく眼を瞠《みは》りながら、椅子を立とうとするところでした。然しすぐにおちついてまた腕組みをしました。
隣りのブースからは椅子の軋《きし》る音や、大きい溜息《ためいき》が幾たびも聞えて来ます、ひじょうに苛《いら》いらしているらしい、間もなく給仕が珈琲を持って来ましたが、それに手をつけるようすもなく、依然として立ったり掛けたりする音が続きました。
こうして更に二十分もしたでしょうか、やがて給仕の案内で、新しい客がはいって来たようすです、給仕が去るまでなんの声もせず、それから二十秒ほど息詰るような沈黙がありました、若い人間のよけいな想像力からでしょうが、私には隣りのブースで激しく抱擁し合う男女の姿が見えるように思いました。
「こんなところで逢って、君は大丈夫なの」若い男がそう云いました、「もし誰かにみつかりでもしたら……」
こんどは沖原氏が、殆んど椅子から立ちあがりました。然し署長がすばやくそれを制し、静かに席へ就かせたとき、隣室からは次のような対話が聞えて来たのです。
「そう思ったけれど他《ほか》に適当な場所がないし、あなたのほうがお急ぎだというから……」
「僕が急ぐって、なにを急ぐの」
「あらこれよ」そう云うのと同時に、卓子の上へなにか取出す音がしました、「あの頸飾《くびかざ》りだけはないかも知れないけれど、とにかくこれだけ持って来たわ、お母さまに隠れてだからいちどには出せなかったのよ」
「これ、……これ、なんの意味だい」
「なんの意味って?」
「どうしてこんな物を持って来たのさ、僕にはまるでわけがわからない、ぜんたいなんのために」
「だって忠雄さん、あなた昨日……」
「僕が昨日どうしたのさ」
「ああ」と娘の恐怖の声が聞えました、「あなたじゃなかった、忠雄さんじゃなかったのね、ああどうしよう」
「由美ちゃん、なにか間違いがあったのか」
「私たちみつかったのよ」娘の声は哀れなほどうわずっていました、「誰かが私たちのことをみつけたんだわ、きっとそうよ、でも誰でしょう、いったい誰でしょう」
そのときです。署長は静かに立つと、靴音を忍ばせて出てゆきました。そして娘の問いに答えるかのように、「それは私ですお嬢さん」そう云いながら、隣りのブースへはいるのが聞えました。もちろん青年は沖原忠雄、娘は中沢由美子です。私は沖原氏と中沢氏を見張りながら、じっと隣りの会話に聞きいりました。
「君は誰です」忠雄君の声でした、「許しもなく他人の席へはいって来るなんて失敬じゃあないか、出て呉れ給え」
「話を簡単にするために云いましょう、僕は当市の警察本署長で五道三省という人間です、少し個人的に話したいことがあって邪魔をしました、個人的というのはむろんあなた方にとっての意味です、どうかお二人とも椅子に掛けて下さい」警察署長という言葉が決定的だったのでしょう。二人は椅子に掛けたようすでした。署長はすぐに続けてこう云いました。
「私が此処《ここ》へ来たという丈で、あなた方には話の内容はおわかりだろうと思う、然し順序としていちおう私の云うことを聞いて貰いましょう、問題は中沢さんの家で真珠の頸飾りが盗まれた件です、……これまでの経過では、お杉という小間使の行李《こうり》の中から、その頸飾りの中の真珠が一粒出て来て、お杉が盗んだというかたちになっている、もちろんこれは嘘で、頸飾りはまったく別人の手にあります、はっきり云ってしまえば、由美子さんの手から忠雄君の手に渡っている筈《はず》です」
このとき沖原、中沢の両氏はひじょうな驚愕《きょうがく》にうたれました。
「これはそうする必要があったのでしょう、云ってみれば忠雄君が頸飾りを始末するまで、他の人間へ疑いを向けて置く、というような必要が、……僕にもそれはわかるし、同情すぺき点もあると思う、然しお嬢さん、あなたはどうしてその人間を小間使に選んだのです、あなたにすれば最も手近で、然も利用し易《やす》かったからでしょう、だがお杉は弱い人間ですよ、あなた方には名門の権力と富がある、例《たと》えこんな間違いがわかったとしても、中沢家、沖原家という家柄がものを云って、新聞へも出されず表沙汰《おもてざた》にもならんでしょう、闇から闇へもみ消されてしまう、……けれどもお杉にはそんな庇護《ひご》は爪《つめ》の先ほどもない、あとで嫌疑が晴れたにせよ、警察の留置所へはいったというだけで一生ぬぐうことのできない傷を受ける人間です、貧しい人間は哀れなくらい無力です、あなた方はそういう気の毒な者を犠牲にした、そして自分たち二人の幸福の設計をした、だがそれで幸福が得られると思いますか」
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
「幸福は他の犠牲に依《よ》って得られるものじゃない」署長はこう続けました、「そのために誰かが不幸になり、犠牲になるような幸福は、それだけですぐ滅ひてしまう、僕はあなた方に同情したいと思うが、あの弱い無力な小間使を利用した点で、どうしても同情したり許したりする気持になれないんだ、忠雄君、由美子さん、どうかひとつ説明して下さい、どうしてもお杉を使わなければならなかったという、その理由を僕に説明して下さい、それに依ってはあなた方が名門の令息令嬢であろうとも、僕は断じてこの事件を」
「待って下さい、僕すっかり云います」忠雄潜の悲鳴に似た声が聞えました、「みんな僕が悪かったんです、由美子さんに罪はない、僕の責任です」
「いいえ悪いのは私です、忠雄さんはなんにも知ってはいませんわ、みんな私が……」
「まず忠雄君の説明を聞きましょう」
「こうなんです」かたんと椅子の音がしたのは、恐らく忠雄君が立上ったのでしょう、それに続いて泣くような調子の、切迫した声が聞えて来ました、「僕たちは東京の学校にいた頃から、……愛し合っていました、こんな云い方を許して下さい、本当に心から愛し合い、将来を誓っていたんです、けれど由美子さんの級友の一人が、寄宿していた家の主人とスキャンダルを起こし、それがきっかけで僕たちのことも或る一流新聞に書かれました、根も葉もないというより、醜く、歪《ゆが》められた悪意で書かれた記事でした、……それで由美子さんは音楽学校を中途で退いたのですが、この事件が僕の父と由美子さんのお父さんを怒らせ、それが市長選挙とからんで、中沢さんと沖原は徹底的な絶交状態になってしまったんです、……僕たちの将来は絶望でした、どう考えてみても二人の結婚は許されないでしょう、然《しか》しそれで諦《あきら》めるには、僕たちはもう精神的にも肉躰《にくたい》的にも深入りし過ぎていたんです、……方法を考えなければならない、どんな困難を排しても二人が結婚するために、……それには僕が生活の土台を造ることでした、それさえあったら家を出ても結婚できますから、僕は焦《あせ》りました、そして」
「そして、株に手を出したんですね」絶句した青年の言葉を促すように、署長が低くそう云いました。
「そうです、騙《だま》されたということはあとで知りました、そして僕のちからでは、どうにもならない多額の借財ができてしまったのです」
「頸飾りは私から差上げたんです」由美子嬢が耐えきれないという風に云いだしました、「忠雄さんは受取らないと云ったんですけれど、期日までにお金を入れなければ、仲買人がお父さんのととろへゆくと云うんです、私もう夢中でした、ただこの急場だけ凌《しの》げばいいと思って、むりに忠雄さんに頸飾りを取って貰ったんです、なにもかも夢中でした、なにもかも……お杉が警察へ連れてゆかれてから、初めて私は自分のした事の恐ろしさに気がついたんです、幾晩も幾晩も眠れないで、泣いて心のなかでお杉に詫びを云い続けました、でもとても……」
由美子嬢の言葉はそこで激しい泣き声に変りました。それは本当になにかがひき裂けるような悲痛な泣き声でした。……署長が私たちのブースへはいって来ました、そして中沢氏と沖原氏とに「どうぞいらしって下さい」と云い、ご人をつれて隣室へ戻ってゆきました、もちろん私も跟《つ》いていったのです。……相抱《あいいだ》くようにして泣いていた忠雄君と由美子さんは、とつぜん現われた父親たちを見て、身ぶるいをしながら椅子から立ちました。署長は両氏に向って二人の姿をさし示し、ちからの籠《こも》った低い声でこう云いました。
「お聞きのとおりです、沖原さん、中沢さん、あなた方が今なにをなさらなければならないか、おわかりでしょうな」
両氏は署長の前に頭を垂れました。そしてすぐ、中沢万三郎氏が決然と面をあげ、沖原氏のほうへ歩み寄って手をさし出しました。沖原氏はそれを両手で受けました、それと同時でした、「忠雄さん」と叫んで、泣きながら由美子嬢が青年の胸へとびついたのは、こんどは歓《よろこ》びにおののく泣き声をあげながら、……署長はゆっくり大きく頷《うなず》きました。
「それで結構です、御両家の幸福を祈って私はひきさがりましょう、ただ一つ、御両家の幸福をたしかなものにするために、私から一つお願いがあります、小間使のお杉には許婚者《いいなずけ》があって、それが建具屋の店を出すのといっしょに結婚する約束だそうです、どうか御両家で二人を後援してやって頂きたい、金はいけません、金に対する貧しい人間の考え方ほど潔癖なものはありませんから、その他の方法で援助をお願いします、……これで私は失敬しますが、あちらに四人分の食事の支度を命じて置きましたから、みなさんでゆっくり召上って下さい、どうぞ御心配なく this time it's on the house. 」
そして署長と私はそこを去りました。……命じてあったのでしょう、待っていた自動車で香蘭社を出ると、私は早速《さっそく》「まるで芝居の四幕目という感じでしたが、いったいどうしてあんな場面が出来あがったのですか」と訊きました。署長はふんと鼻を鳴らし、上衣《うわぎ》の内隠しから一枚の紙片を出してよこしました。
「種《たね》はこれさ」と云うのです。そこには鉛筆のひどい走り書きで、
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頸飾りは売れない、他の物を急いで都合して下さい。
[#ここで字下げ終わり]
こう書いてあり、その次へペンの女文字でこれもかなり急いだ筆つきで、
[#ここから2字下げ]
明日午後二時香蘭社の特別室で、由、
[#ここで字下げ終わり]
と書いてありました。
「初めの鉛筆のほうは署長さんの字ですね」
「あのときお杉の弟に持たせてやったのがそれさ」署長はのんびりと退屈そうに云いました、「ものは試《ため》しだと思ってね、僕には令嬢のやった事だという直感があったからね……午後二時香蘭社、この七字で万事解決だったわけさ」
署長は腹の上で手を組み、うしろへ凭《もた》れかかりながら眼をつむりました。
「お杉は感づいていた、あの子にも愛する者があったから、愛を知る者の敏感さで、令嬢の苦しい恋を知っていた、だから、感づいていても云えなかったんだ、……お杉こそ、本当に一粒の真珠だよ」
云い終るとすぐ、われらの寝ぼけ署長はこころよさそうに、軽くすうすうと寝息をたてて眠りだしました。
底本:「山本周五郎全集第四巻 寝ぼけ署長・火の杯」新潮社
1984(昭和59)年1月25日 発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
一粒の真珠
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)訪《たず》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|疋《ぴき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
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[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]
我が寝ぼけ署長が貧民街の人たちに慕われていたことは、初めにちょっとお話ししました。じっさい金花町から富屋町いったいの住民たちの署長に対する信頼と敬愛の情はたいへんなもので、本署へも官舎へも署長を訪《たず》ねて来る彼等の姿のみえない日はないと云ってもいいくらいでした。うす汚《ぎた》ない婆さんが手作りの牡丹餅《ぼたもち》を持って来たり、魚屋のかみさんが「わたしが拵《こしら》えたんですよ、とっても美味《うま》いから署長さんの弁当のお菜にしてあげて下さいな」と云って鯵《あじ》の干物を三枚届けて来たり、赤ん坊を負《おぶ》った女の子が野花を束にして署長室へあらわれたりしました、いつかなんぞ七つばかりの男の子が三人で、川蟹《かわがに》をバケツに一杯持って来ましたっけ。
「こいつはもくぞう[#「もくぞう」に傍点]蟹、これは清水蟹」と彼等は署長に説明しました、「そいからこっちは弁慶、これは躰操蟹《たいそうがに》だよ、ほらね、はさみ[#「はさみ」に傍点]をこうやって上げたり下げたりするんだ、面白いだろう署長さん」
「うん、面白いな、坊や」
「これみんなあげるよ」彼等はきまえよくこう云いました、「面白くなくなったら茹《ゆ》でて喰《た》べればいい、美味いよ署長さん」
「これ食えるのかい」
「食えなくってさ」一人の子供が昂然《こうぜん》と肩をあげました、「ちゃんが仕事にあぶれた時なんか、うちじゃいつでもこいつをごはんのおかずにするよ、知らないのかい」
「う、うん」署長はすっかりまごついたようすでバケツの中から一|疋《ぴき》摘《つま》みあげ、「これが弁慶蟹かい」などとばつを合わせようとしましたが、いきなり大きなはさみ[#「はさみ」に傍点]で強《したた》かに指を挾《はさ》まれ、びっくりして椅子からとびあがりました。
こんな贈り物ばかりではありません、仕事が無くて困るとか、家主が因業だとか、亭主が喧嘩《けんか》ばかりするとか、酒屋で酒に水を割るとか、娘が云うことを肯《き》かないとか、学校の先生がえこひいきをするとか細ごました苦情や相談を持ち込む者も絶えませんでした。いつでしたか、荷馬車|曳《ひ》きの鉄という男が薬壜《くすりびん》を一つ持って、ひどく昂奮《こうふん》してやって来ました。それは「いぼコロリ」という薬で、三日つければどんな頑固《がんこ》ないぼ[#「いぼ」に傍点]でもころりと落ちる、そういう意味の効能書が貼《は》ってありました、彼はもう十日もつけているがいぼ[#「いぼ」に傍点]はびくともしないと云うのです。
「荷馬車曳きをしていたって字ぐらい諦めまさあ」彼はこう云いました、「わっちはこの効能書を信用したから買ったんで、署長さんのめえですがわっちは売薬にはちょっと眼を持っているほうでやして、耳だれとか腹下《はらくだ》しとか、脳が病める立眩《たちくら》みがするなんという者には、あれを試《ため》してみろ是れが利《き》くだろうと教えてやるくらいでやす、わっちら貧乏人はおめえさんうっかり医者にもかかれねえ、またかかるにしたところでちょいと脈をみて診察料五十銭なんてえばかけた金を取られるより、たいていな病気は売薬でけっこう治《なお》るもんでやす、「胃ケロリ」てえ薬じゃあ十年も病んでた伝六|爺《じい》さんの胃病がまったくけろりと治りやした、尤《もっと》もその年の彼岸《ひがん》あけに爺さんは癌《がん》で死にやしたがね、胃癌と胃病とは別ものなんで、まあ余病が出たというわけでやしょう、詰るところわっちらにとっちゃあ売薬は医者と病院を兼ねたようなもんでやす、それがおめえさん効能書の三日を十日つけても治らねえ、たかがいぼ[#「いぼ」に傍点]くれえだと云うかも知れねえが、もしこれが肺病とか心臓なんということになれば人権|蹂躙《じゅうりん》でやす、わっちは断然この会社を摘発するでやす」
鉄さんをなだめて帰したあと、署長はながいことなにか考え耽《ふけ》っていました。それから一年ほどして栄町の無料診療所が出来たのですが、これはいま関係のないことですから省きましょう。彼等の署長に対するこのような信頼は、もちろん理由なしではありません。そうなるまでには五道署長の大きな愛と撓《たゆ》まざる努力が積まれているのです。じっさい貧しい人たちに対する署長の愛は底無しでした。着任するとすぐから、毎週一回は私服で貧民街へでかけてゆき、殆んど半日がかりで極貧者や病人のある家を見舞ったり、不平や苦情を聞いてやったりするのです、私はいつもそのお伴をしましたが、どんな無頼漢にも対等で話しかけ、乞食《こじき》小屋のような処《ところ》へも平気で坐りにゆく署畏の態度には、幾たびも心から頭を下げたことを忘れません。この習慣は転任して去るまで、一回の休みもなく続きました。……そしてこれからお話しする事件にもこうした署長の気持がよく現われていると思います。
二月十五日のことでした。これは事件が紀元節に起こったのでよく覚えているわけですが、十五日の朝みすぼらしく痩せた四十五六になる女が、半纒着《はんてんぎ》の若者といっしょに署長を訪ねて来ました。金花町の者だというのです。署長はちょうど事務を執っていましたが、ペンを措《お》いてすぐに会いました。
「わたしは森田みき[#「みき」に傍点]と申しまして、今こちらの御厄介になっているお杉の親でございます」その女はこう云いました、「それからここにいるのは文《ぶん》さんといって、お杉と夫婦約束のできてる人です、お杉を帰して頂きたいと思いまして、こうしていっしょにお願いにあがりました」
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
「お杉さんというのがどうかしたのかね」
「はい、お屋敷でお嬢さんの頸飾《くびかざ》りを盗んだという疑いで留められているんでございます、あれに限ってそんな事をする筈《はず》がございませんし、留められてからもう四日にもなりますので、どうか署長様のお計らいで帰らして頂きたいと思いまして」
そんな事があったのかねと署長は私のほうへ振向きました、そして私がありましたと答えると、では太田君を呼んで呉れと云います、司法主任はすぐやって来ましたが、はいって来たとたん、そこにいる文さんという若者を見て妙なこえをあげました。
「よう、ぎっちょの文次じゃないか、久しぶりで会うな」主任はこう云って若者の肩へ手をやりました、「おまえに用があるんで呼びにゆこうと思っていたところだ、あとでちょっと刑事部屋へ来て呉れ」
「私がなにかしたっていうんですか」文次という若者が赫《あか》くなり、ついで紙のように蒼《あお》くなりました。左の肩をつきあげ、主任を見あげた眼が急に鋭い反抗の色をあらわしたのに驚きました、「私はすっかり量見をいれ替えた人間です、こんどの事だってなんにも知っちゃあいません、変な疑いはよして下さい」
「こんどの事で疑われたということがよくわかるな、おれはただ用があると云っただけだぜ」主任は冷笑しながら離れました、「なんでもいいからあとで刑事部屋へ来るんだ、真人間になったのならなにも恐れることはないだろう」
署長は見て見ない振りをしていました。そして主任が椅子に掛けるのを待って、森田お杉の件を精《くわ》しく聞かせて呉れと云いました。主任はそこにいるみき[#「みき」に傍点]のほうを睨《にら》みつけてから、次のように事件の始末を語りました。
この市には旧幕時代からの名門が十二軒あります。名門というだけで、たいてい落魄《らくはく》した家ばかりですが、なかに旧藩主の満田家と、中沢、沖原という三軒は富豪でもあり、政治的にも市の有力者に数えられています。事件は中沢万三郎氏の邸宅で起こったのですが、当時の市長は沖原忠造氏で、その前年の市長選挙に激しい逐鹿戦があり、以来両者の仲がうまくいっていないという評判のある時でした。……事件というのはこうです。十一日の紀元節には市の公会堂で祝賀の舞踏会が催されます。これは市長主催で毎年やるのですが、沖原市長になって初めての会ですから、東京からバンドを呼ぶとか、商工会議所でシャンパンを寄付するとか、なんとかいう歌舞伎役者の一座が余興を演《や》るとか、色いろ派手な噂《うわさ》がとんでいました。そのころ中沢家に由美子という令嬢がいました。たしか二十三くらいだったでしょう、二番めの娘で、長女の樹美《きみ》という人にはもう婿が来て、子供も二人ほどあったと思います。……中沢万三郎氏は、沖原市長の主催だというので、舞踏会へ出ることは禁じたそうですが、由美子嬢はどうしても出る積りで、母親にも内証でひそかに支度をしていました。その支度のなかに問題の頸飾りがあったのです。百四十九|顆《か》の真珠をつらねた時価九万何干円とかいうみごとな品だったそうです。令嬢は土蔵の金庫からtれを取出して来て、自分の部屋にある用箪笥《ようだんす》の、貴金属や宝石類を入れる抽出《ひきだし》へ納《しま》って置いた。そして十一日の夕方になり、すっかり支度ができて、いざ掛けようと抽出をあけてみると、ケースばかりで頸飾りが無くなっていた。さすがに令嬢は慌《あわ》てました、できるだけ捜したがみつからないので、もう内証にしてはおけなくなり、母親にうちあけたのです。もともと令嬢は自分の部屋へ人のはいるのを嫌い、でかける時には必ず鍵《かぎ》を掛けるという風で、殆んど人の出入りというものがない、殊にその数日は小間使のお杉の他《ほか》にそこへ近寄った者もないので、疑いはまずお杉にかかりました。そしてよくある事ですが、三人立会いのうえでお杉の持物を検《しら》べたのです。
「すると行李《こうり》の中から」と太田主任が続けました、「小さな真珠が一粒だけ出て来たのです、紛れもなく頸飾りの中から取外したものに相違ありません、そこで色いろ問い詰めたのですが、ただなにも知らないど答えるだけで、頸飾りのあり処《どころ》も云わず、その一粒の真珠の出所も云わない、やむを得ず本署へ電話を掛けて捜査を依頼されたというわけなんです」
署長は例のように眼をつむり、なかば眠ったような姿勢で聞いていました。そして主任がそこまで云うと静かに咳《せき》ばらいをし、森田みき[#「みき」に傍点]のほうへ振返りました。
「森田さん、どうもこれは少しむずかしいな、折角だが今日すぐお杉さんを帰してあげるというわけにはいきそうもない」
「そんな情けないことを仰《おっ》しゃらないで下さいまし、お杉のことは親のわたしがよく知っています、あれに限ってそんな大それた事をする筈がありません、なにかって云えばすぐ貧乏人が疑われるけれど、署長様は貧乏人の味方じゃあございませんか、どうかよく調べて下さいまし、そうすればお杉でないということがすぐわかる筈ですから」
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
「私は誰の味方でもないよ、森田さん」署長は困惑したように云いました、「そして正しい人間には味方なんか要らないものだ、なぜかと云えば、正しいということがなにより強い大変な味方だからな、……然《しか》しお杉さんのことは私がひきうけて調べよう、たいして日数もかかるまいが、今日すぐというわけにはいかないから、とにかくいちどお帰んなさい、きっといい知らせを持っていってあげるから」
みき[#「みき」に傍点]は納得しました。文次のことでちょっとごたつきましたが、太田主任がどうしても留めるというので、結局みき[#「みき」に傍点]は独《ひと》りで帰っていったわけです。……みき[#「みき」に傍点]が去り、文次を捜査主任に預けてから、太田主任は署長室へ戻って来ました。主任はもうこの事件の見通しをつけているようすで、すらすらと次のように説明をしました。
「だいたい杉の犯行だと思うのですが、理由は三つあるのです、杉の家庭は男親が五年前に死んで、子供が六人もあり、母親のみきの内職と十五になる長男一郎が町工場の職工をし、それに杉の給金を合わせてようやく暮しているのですが、もちろんかつかつの生活で、細ごました借金がだいぶ溜《た》まっているようです、……もう一つはあの文次です」
若者の名は西山文次という、十歳前後で孤児になり、富屋町の表通りに店のある建具職の家で育てられた、親方は鈴木秀吉といい、文次にはずいぶんめをかけて仕込んだし、当人も左利《ひだりき》きが難だったけれど手の性が良く、十六七になると一人まえの仕事をするようになった。ところがそれがあやまりのもとで、年もゆかぬ身が一人まえの手間賃を取ることから世間を甘くみる癖がつき、それからぐれだして親方の家も逐《お》われ、ついには「ぎっちょの文次」などと云われる不良の徒に落ちてしまった。
「それから五六年というものは札付のやくざで、留置所の味も知るようになりましたが、一昨年の夏でしたか、こんどこそ改心すると泣いて誓い、それ以来おとなしく建具屋の手間取をして来たようです」主任はそう説明を続けました、「……中沢家へ捜査にまいった時でした、令嬢の話で杉に縁談があり、この夏の初め頃には結婚をするということを云っていたし、十日の夜にもその若者が訪《たず》ねて来て、三十分ばかりなにか話していった、こういうことを開きました、それから調べてみると縁談の相手というのが文次であり、彼は杉と結婚するために、建具屋の店を持とうとしてだいぶあせっているという事実がわかったのです」
現に行李の中から一粒ではあるが真珠が出て来ている。頸飾《くびかざ》りのなかの一|顆《か》に間違いはないという、そして家庭にそういう事情があるとすれば、太田主任ならずともお杉の犯行とみるのが当然でしょう。
「たぶん十日の夕方お杉と会ったとき、頸飾りは彼の手に渡っていると思います、品が品ですからまだ売ってはないでしょう、文次を叩《たた》けばきっと出て来ると信じます」
「お杉を呼んで呉れないか」主任の説明が終るとすぐ、署長が沈んだ調子でこう云いました、「ちょっと話したいことがあるから」
「なにかお見込みでもあるんですか」主任はどうやら不満そうでした、「もしそうでなかったらこの事件は任せて頂きたいんですが」
「君には頼むことがあるんだ、……由美子さんのことを急いで調べて呉れ給え、女学校時代から最近までの素行、恋愛関係の有無、できるだけ精《くわ》しいほうがいい」
「然し令嬢は被害者なのですが」
「いや、犯人がわかるまでは、どちらが被害者とも定《き》められはしない、急いで頼むよ」
主任が出ていって間もなく、捜査課の刑事がお杉を伴れて来ました。十九だというがふけてみえました。あれは小麦色というのでしょうか、肌理《きめ》の密《こま》かい引緊《ひきしま》った膚の、どっちかというと背の低い躯《からだ》つきで、顔はちょっとおでこですが、顎《あご》のくくれた眉の濃い、利巧そうな面《おも》ざしでした。署長は刑事をさがらせ、お杉を招いて自分の側にある椅子に掛けさせました。
「さっきおっ母さんが来たよ」署長はうちとけた調子でこう云いました、「お杉さんのことを心配してね、文次という人が一緒だった、しっかりした好い人間のようだね」
お杉は俯向《うつむ》いたまま身動きもしません。署長はそのようすを温かいまなさしで見やりながら、まるで親類の娘でも労《いたわ》るような調子で云い継ぎました。
「文次君はまえにいちどぐれたそうだ、然し人間はたいていいちどはぐれるものだよ、おそいか早いかの違いでね、……早くぐれた者はそれだけ早く堅くなる、一緒になればきっと稼《かせ》きやの亭主になるだろう、お杉さんさえ本当に愛していればね」
「…………」
「さて」と署藁は例のように眼を閉じました、「そこで一つ二つ訊《き》きたいことがあるんだ」
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
「お杉さんは、頸飾りの無くなったことで、なにか知っていることはないかね」
「……存じません」
「これが怪しいというくらいのことでもいいんだよ」
「……なにも存じません」お杉はびっくりするほどけんめいな声で云いました、「わたくしなんにも存じませんし、なにも申上げられません」
「云えない」署長は眼を閉じたままです、「云えないというと、なにか知っているんだね」
「いいえ、いいえ違います」
そしてなおなにか叫びそうにしたまま、お杉は喉《のど》に物でも詰ったように絶句してしまいました。署長はしずかに眼をあいて、かなりながいことお杉の顔を見まもっていました。
「ではもう一つ、お杉さんの行李から、真珠が一粒出て来たそうだね、それに就いてなにか知らないかね」
「……存じません」
「君でないことはたしかだね」
「……はい」
「然し誰がしたかは見当がつく、そうだろう」
お杉は一瞬ぐっと身を固くしました。頭から足の尖《さき》まで、電気にうたれでもしたように、ぐっと固くなるのが私にもわかりました。尤《もっと》もそれはごく短い瞬間のことで、彼女はすぐ顔をあげ、さっきと同じようなひどくけんめいな調子で叫びました。
「いいえ存じません、いいえ、わたくしなにも存じません」
署長はくいいるようにお杉の表情を見ていました。それからゆっくり頷《うなず》くと「もう二三日辛抱していて貰うよ」と云いながら、卓子の上の呼鈴を押しました。……先刻の刑事が来てお杉を伴れ去りますと、署長は椅子の背に凭《もた》れ、深い溜息《ためいき》をつきながら眼をつむり、腕組みをしてなにか考えこむようすでした。……静かになった部屋の中で、ストーブの燃える音が急にはっきり聞えだす、雪もよいに重たく曇った日のことで、窓硝子《まどガラス》の寒ざむとした光りがなんともものがなしい気持を唆《そそ》るのでした。
「貧乏は哀《かな》しいものだ」署長がふと独《ひと》り言《ごと》のように云いだしました、「さっきみき[#「みき」に傍点]というかみさんの云ったとおり、こんなときまず疑われるのは貧乏人だから、然し、貧乏はかれらひとりの罪じゃない、貧乏だということで、かれらが社会に負債《おいめ》を負う理由はないんだ、寧《むし》ろ社会のほうでかれらに負債を負うべきだ、……本当に貧しく、食うにも困るような生活をしている者は、決してこんな罪を犯しはしない、かれらにはそんな暇さえありはしないんだ、……犯罪は懶惰《らんだ》な環境から生れる、安逸から、狡猾《こうかつ》から、無為徒食から、贅沢《ぜいたく》、虚栄から生れるんだ、決して貧乏から生れるもんじゃないんだ、決して」
署長の調子にはまるで訴えるような沈痛な響きがありました、そして暫く経ってから、やっぱり眼をつむったままで、更にゆっくりと次のように続けました。
「裏長屋の暮しをみ給え、かれらは義理が固い、単なる隣りづきあいが、どんな近い親類のようにも思える、他人の不幸には一緒に泣き、たまに幸福があれば心からよろこび合う、……それはかれらが貧しくて、お互い同志が援《たす》け合わなければ安心して生きてゆけないからだ、間違った事をすれば筒抜けだし、そうなれば長屋には住んでいられない、そしてかれらが住居を替えることは、そのまま生計の破綻《はたん》となることが多いんだ、なるべく義理を欠かないように、間違ったことをしないように、かれらはその二つを守り神のように考えて生きているんだ、かれらほど悪事や不義理を憎むものはないんだよ」
それからなお貧乏論は続きましたが、もう覚えてもいませんし、必要もないでしょうから省きましょう。こうして私の口から伝えると、平凡な詰らぬ説になってしまいますし、説そのものはなんの奇もありませんが、そのときの署長のようすと声の調子とは忘れがたいものでした。私は云いようのない温かい感動をうけ、人生がひろく深いこと、どんな貧窮のなかにもそれぞれ生きた生活のあること、そんな風な、漠然《ばくぜん》としたよろこばしい空想に耽《ふけ》ったことを覚えています。
その日の午後、捜査主任が来まして、西山文次を帰したこと、同時にその家宅捜索をしたが、頸飾りは出て来なかったという報告をしました。
「留置しなかったのは太田さんの意見で、放しておけば盗品の始末をするだろうという見込みです、張込を二人つけて置きました」
署長はそうかとも云わず、「太田君に頼んだことを至急にと伝えて呉れ給え」と念を押しただけでした。そして時間とおりに退署しました。
太田主任から調査書が届いたのはそれから四日後のことてした。それに依《よ》ると、由美子嬢は、東京のさる贅沢な女学校を卒業し、音楽学校を中途でやめて帰郷しています、中退の理由は濁してありますが、恋愛事件のようで、新聞にまで出たとかいうことが、級友の一人から聞きだしてありました。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
帰郷してから二年半ばかりになりますが、かなりな美貌《びぼう》と、頭のよいのと勝ち気と、そしてずばぬけて派手な行動とで、市の上流社会の中心的な存在となり、音楽会にも、庭球試合にも、バザーにも、舞踏会にも、多くの青年たちに取巻かれた彼女の姿の見えないことはなかったし、乗馬|倶楽部《クラブ》では唯一人の女性メムバーとして、障害跳《しょうがいと》びに、ポロに、隣県への遠乗りに、いつも颯爽《さっそう》とした手綱《たづな》さばきを見せているという。こういうわけで、彼女の周囲には常に青年たちが集まるし、華やかな噂《うわさ》も少なくないのですが、恋愛関係のようなものは無いらしい、唯ひとつ、沖原市長の令息に忠雄という青年があり、これとはかなり深入りしているのではないかという評判があった、「あった」というのは、例の市長選挙からこっち両家の交際が絶え、それにつれて由美子と忠雄との交際も……少なくとも表面では……遠のいているからです。然《しか》し二人はときおりひそかに逢っているようだ、と主任の調査書には書いてありました。
署長は読み終ったものを私に見せながら、大急ぎで沖原忠雄の現状を調べて呉れと云いました、「中沢嬢とのことはどっちでもいい、現在なにをしているか、交友関係と素行、それだけをなるべく早く調べて呉れ」もちろん私はすぐ立とうとしました。するとそこへ、若い巡査と押し問答をしながら、一人の少年がとひこんで来ました。九つか十くらいでしょう。身状《みなり》恰好で貧民街の子だということはすぐわかったし、どこかに見覚えがあるように思えました。珍しいことではないので、ひき戻そうとする巡査に「よしよし」と手を振り、署長は、その子のほうへ笑顔を向けました。
「やあ、なにか用かい、坊や」
「……ああ」少年はたいそうけしきばんでいました、なにやら敵意のある眼で署長を見ながら、「署長さん僕を覚えてるかい」と云います。
「覚えてるよ、だが、そうさ、誰だっけね」
「忘れたんだ」少年は下唇を噛《か》みました、「忘れたんなら云ってあげるけど、いつかみんなで蟹《かに》を持って来てあげたんだよ」
「ああそうだった、覚えているよ坊や」と署長は大きく頷《うなず》きました、「あのときはたくさん蟹を貰《もら》ったっけな、弁慶蟹だのもくぞう[#「もくぞう」に傍点]だの」
「あの蟹……返してお呉れよ」
「あの蟹をどうするんだって」
「返してお呉れって云うんだよ」少年はしんけんな声で叫びました、「署長さんは好い人だっていうから、僕みんなを集めて、蟹を取って来てあげたんだ、でも署長さんは好い人じゃないじゃないか、僕あげるの厭《いや》んなったんだよ、あの蟹みんな返してお呉れ」
「蟹はねえ」署長は面白いほど当惑し、寧《むし》ろへどもどしてしまいました、「……その、あの蟹は、喰《た》べてしまったよ、もちろんすぐ喰べたんじゃない、みて面白いうちは見ていたさ、坊やたちがそう云ったからね、ごめんよ、そういうわけで返すことはできないんだがね、坊や、でもどうして小父さんが好い人じゃないっていうんだね、なにか小父さんが悪いことでもしたのかい」
「僕の姉さんを連れてっちゃって帰らして呉れないじゃないか」少年は手の甲でぐいと眼をこすりました、「僕の姉さんなんにも悪いことなんかしやしないよ、和田さんとこへ子守《こもり》にいってたときなんか、五円もお金を拾って、その人んとこへ届けてお礼も貰わなかったくらいなんだ、あんな正直者はないって、みんなが云ってるよ、嘘だと思うなら長屋のみんなに聞いてごらんよ」
「それじゃあ、坊やはお杉さんの弟なんだね」
「そうで無くってさ、だから蟹が返せないんなら姉さんを帰らしてお呉れよ、小父さんはここでいちばん偉い署長さんじゃないか」
署長はぎゃふんとまいったかたちでした。そしてなお云いつのる少年の前に、黙って暫く頭を垂れていましたが、やがてふと顔をあげ、坊や幾つだと訊《き》きました。
「十だよ、金花小学校の三年だよ」
「そうか、それではな」署長は卓子の上へ紙と鉛筆をとりだしながら、「小父さんが君の姉さんを早く家へ帰れるようにくふうするから、君も小父さんの手助けをして呉れないか」
「僕がかい、僕にできることかい」
「ああできるとも」署長は紙へなにか書きながら頷きました、「……この手紙を届けてね、なにか呉れる物があったら、大事に、持って来て呉れればいいんだ」
「どこへ届けるの」
「御殿町という処《ところ》を知ってるだろう」
どうやら少年は、うまくはぐらかされたようです、私は笑いながら、「では調べにいって来ます」と挨拶《あいさつ》をし、なにやら仔細《しさい》らしく、頭を捻《ひね》り捻りなにか書いている署長を残して、沖原忠雄の調査にとでかけました。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
私の調査は極めて楽にできました。本町通りに香蘭社というクラブがあります。今でもそうですが市の上流社交場で、そこのマネージャーをしている青田勇作というのが私の将棋《しょうぎ》がたきなんです。私は彼に会いました。社交クラブのマネージャーなどというものは、スキャンダルの貼込帳《はりこみちょう》と同様です、その代り口も固いですが、事情に依《よ》っては話もしないことはありません。私は二時間ばかりで必要なことを聞きだしました。……それによると、忠雄は東京の某私立大学の法科の出で、あまり成績の良いほうではない。年は二十八歳、一人っ子ですが父親の忠造氏が無類の厳格家であるため、指折りの富豪であり市長の子でありながら、小遣《こづか》いにも不自由するというお気の毒な生活を送っている、ところがよくあることで、あまりたちのよくない仲買人に取巻かれて、二年ばかりまえから株に手を出しました。これがどんな結果になるかは云うまでもないでしょう。近頃ではかなり多額な借りができて、よくクラブで深酒をやっているということでした。それからもう一つ、東京遊学ちゅうに、中沢由美子さんと恋愛関係のあったというのは忠雄君で、こっちへ帰ってからもかなりながいこと関係が続いていたらしい。そういう話まで聞きました。
「最近は逢っていないのかね」
「逢わないようですね、昨夜もみえて酒場でひどく酔ってましたが、なんでも近いうち東京へ出るんだとか話してたようですよ」
私はもう充分だろうと思って署へ帰りました。
私が署へ帰ったとき、ちょうどお杉が弟だというあの少年といっしょに帰ってゆくところでした。太田主任が付添いで、署長が門まで送りだしていました。
「おっ母さんに宜《よろ》しく云ってお呉れ」署長は娘にそう云っていました、「近いうち私が御挨拶にゆくってね、そのときにはお杉さんにもお詫《わ》びのしるしを持ってゆくよ」
「僕もまた蟹を持って来てあげるよ」と少年が云いました、「夏になったらだよ、署長さん、僕もう返して呉れなんて云わないからね」
お杉は黙っておじぎをし、弟の手をひいて、太田主任といっしょに去ってゆきました。……署長室へ戻ると私は「あの娘の嫌疑《けんだ》は晴れたんですか」と訊きました、署長はそんなことは云うまでもないという風に手を振り「そっちの報告を聞こう」と促しました。私は青田から聞いたことを話しました。まるで予期していたとおりだとでもいうように、署長は黙ってしまいまで聞き終りましたが、そして例のように深いもの思いに沈むようすでしたが、やがて溜息《ためいき》をつきながらこう呟《つぶや》くのでした。
「一時間ほどまえに、頸飾《くびかざ》りの件はだいたい、解決のみとおしがついた、あとは仕上げだけだ、然し、君に調べて来て貰ったのもむだじゃあなかった、さもないと、僕は仕上げでやり過ぎをしたかも知れない、……不正や狡猾《こうかつ》をみると、人間は忿怒《いかり》を感ずる、けれども、警察官はそれだけではいけない、泥棒にも三分の理、ということを認めなければ、警察官は単なる検非違使《けびいし》に堕《だ》してしまう、……こんどの出来事は、ごくありふれた悪企《わるだく》みだ、子供だましのような狡猾だ、然しそれが、弱い、無力な者を犠牲にしているので、僕は怒った、今日ほど怒ったことはないかも知れない、それでつい今しがたまで、ひじょうに暴《あら》あらしい仕上げを、考えていたんだ」
署長はそこで両の肱《ひじ》を卓子に置き、両手で顔を挾《はさ》んで、暫く声をひそめました、「悪企み」なとという古風な表現や、「僕は怒った」なとという云い方が、まるて中学生のように聞えて、失敬なはなしですが私は笑いたくなったくらいです。だがそのとき署長の頭では一流の「仕上げ」が練られていた、人間を愛する、我われが想像する以上に深く人間を愛する署長には、例に依って事件の始末より、関係者を事件から救うことのほうが、早くも重要な問題になっていたわけです。
「代価はもう支払われた」間もなく署長はこう呟きました、「それだけの物は得なければならない、支払いに価するだけの物はな」
三時頃でしたろう、署長は「魚市場へいって来る」と云って独《ひと》りでどこかへ出てゆきました。帰って来たのは五時頃でした、魚市場は例の遁辞《とんじ》に定《きま》っているし、どこでなにをして来たかもわかりませんが、どちらにしろ、計画はうまくいったらしく、すっかり機嫌がよくなって、いつもの明るいのんびりしたようすにかえっていました。
「青田君というのはなかなか好い人物だね」
「……青田ですって」私にはちっともわかりませんでした。
「香蘭社の主事さ、青田勇作君だよ」
「ああ彼ですか、あそこへいらしったんですか」
「明日なにかうまい物を喰《た》べさせて貰おうと思ってね、君にもつきあって貰うよ、あそこのべネディクティンはすばらしいじゃないか」
私は黙って署長の顔を見ていました。
明くる日の午前十一時頃、署長と私は私服に着替えて香蘭社へでかけました。青田勇作は百年の知己でも迎えるような態度で、まめまめと署長の外套《がいとう》や帽子を受取り、こぼれるばかりの愛想をみせながら、食堂へ案内しました。
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
食堂は二百人の会食に使える広いもので、正面にスタンド酒場があり、右側には特別室のブースが五つ並んでいます。これは厚い暗色の垂帷《カーテン》で入口を塞《ふさ》ぎ、中にいる客の姿を外から見られないようになっている。婦人伴れの客とか、邪魔をされずに呑んだり話したりしたい客のための部屋でしょう、青田は署長と私をその部屋の一つに導き入れました。
「支度はできているかね」
「はいすっかり用意いたしました」
「ためしてみる必要はないか」
「私共でためしてみました」こう云って青田は隣室との仕切りの最も奥に当る処《ところ》を署長に見せました、「ここをこれだけ明けてみたのですが、もちろん気付かれないでしょうし、かなり低い声でもよく聞えます」
そう云われて見ると、マホガニーの仕切り板の、壁に接する部分が三寸ほどずらせてあるのです、署長は頷《うなず》きながら腕時計を見て、
「ではひとつ食事をさせて貰おうかね」と云いました。……野鴨《のがも》の鍋焼《なべや》きが主菜で、スープも揚げ物もすばらしく美味《うま》い昼食が運ばれました。私はこれからなにが起こるかという興味と好奇心の、ために、おちついて味わうゆとりもありませんでしたが、署長はいっぱし美食家のように、葡萄酒《ぶどうしゅ》の赤を注《つ》いだり白を啜《すす》ったりしながら、いかにも美味そうに一皿ひとさらを楽しんでいました。
食後の珈琲《コーヒー》が終ると、いわゆる「すばらしい」ベネディクティンが運ばれました、D・O・Mです。給仕の置いていった銀盆の上には、酒壜《さかびん》の他にリキュール・グラスが四つありました。私は署長の顔を見ました。するとちょうどそのとき、青田に導かれて一人の中老の紳士がはいって来たのです、背の低い、固肥《かたぶと》りの、眼の鋭い、白い口髭《くちひげ》を生《は》やした、ひどく頑固《がんこ》そうな容貌《ようぼう》の人です、署長は立って「これは中沢さんようこぞ」と奥の椅子をすすめました、「どうぞこちらへ、どうぞ」紳士は私のほうへじろりと一瞥《いちべつ》をくれ、黙礼をしながらその椅子に掛けました。それは中沢万三郎氏だったのです。そして署長がひと言話しかけたとき、青田がまた一人同じ年配の紳十を案内して来ました。……こんどはかなり長身の、眼鏡をかけた神経質らしい顔だちの人で、つとめて威厳を保とうとするような挙措が眼だちました。私にはそれが市長の沖原忠造氏だということがすぐにわかりました。
沖原氏は室内をひと眼見るなり、「私は部屋を間違えたようですな」
そう云ってひき返そうとしました。むろんそこに中沢氏のいるのを見たからでしょう。然《しか》し署長は「いや此処《ここ》です沖原さん」と静かに呼びかけました。静かでしたがその声には冷やかな威圧と、反対を許さない厳《きび》しい響きがありました。
「どうぞこちらへお掛け下さい、理由はすぐにわかります、どうぞ」
沖原氏はちょっと躊《ためら》うようすでしたが署長の態度に圧倒されたのでしょう。中沢氏のほうへは眼を向けずに、いちばん奥の、ちょうど中沢氏と差向いの席に就きました。署長は四つの杯に酒を注ぎ、自分でみんなの前に配ってから、「とりあえずひと言だけ申上げて置きます」と冷やかに云いました。
「今日のお招きは私ひとりの考えで、沖原さんはもちろん、中沢さんも御存じのないことであります、たぶんお二人とも御不快であろうと存じますが、これは単に私の酔狂から出た催しではなく、どうしてもお二人に揃《そろ》って頂く必要があったのです、なぜかということはもう間もなく……」署長は腕時計を見ました、「さよう、遅くとも三十分以内にはおわかりになるでしょう、それまでどうか御不快を辛抱して頂きたい、そして私がお願いしましたら、どのような事があっても沈黙を守って頂きたいのです、お二人にとっては、かなり意外なことが起こるだろうと思うのですが、黙ってしまいまで見ていて頂きます、これだけをお願い致します」
そこで初めて毎《いつ》もの調子にかえり、「いかがです、このドムはなかなかいけるじゃありませんか、アペリチフということでどうぞ」あいそよくそう勧めるのでした。……私にとっては、絶交状態にある両氏を一緒に招いたことだけでもずいぶん面喰《めんくら》いましたが、これから更に何事か始まると聞いて、好奇心は強くなるばかりでした。沖原氏も中沢氏も同様だったでしょう、杯にはかたちだけ口をつけたまま、お互いに無視し合いつつじっと「その時」の来るのを待っているようすでした。
二十分も経ったでしょうか、垂帷が引いてあるので姿は見えませんが、給仕に案内されて隣りのブースへ客が一人はいって来ました。署長は声をひそめて「黙って、物音をさせないで下さい」と囁《ささや》きました。中沢氏は腕組みをし、沖原氏は椅子の背に凭《もた》れました。私も全身の神経を耳に集め、かたずをのんで隣室のようすに聞きいりました。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
「ええ珈琲だけでいいわ」隣室から若い娘の声が聞えて来ました、「まだ誰も私を尋ねて来た方はなくって?」
「はあ、まだどなたもおみえになりません」
「来たらここへお願いしてよ」
これだけの会話がはっきり聞えました。そして署長がつど手を伸ばして中沢氏の腕を押えたので気づきましたが、氏は大きく眼を瞠《みは》りながら、椅子を立とうとするところでした。然しすぐにおちついてまた腕組みをしました。
隣りのブースからは椅子の軋《きし》る音や、大きい溜息《ためいき》が幾たびも聞えて来ます、ひじょうに苛《いら》いらしているらしい、間もなく給仕が珈琲を持って来ましたが、それに手をつけるようすもなく、依然として立ったり掛けたりする音が続きました。
こうして更に二十分もしたでしょうか、やがて給仕の案内で、新しい客がはいって来たようすです、給仕が去るまでなんの声もせず、それから二十秒ほど息詰るような沈黙がありました、若い人間のよけいな想像力からでしょうが、私には隣りのブースで激しく抱擁し合う男女の姿が見えるように思いました。
「こんなところで逢って、君は大丈夫なの」若い男がそう云いました、「もし誰かにみつかりでもしたら……」
こんどは沖原氏が、殆んど椅子から立ちあがりました。然し署長がすばやくそれを制し、静かに席へ就かせたとき、隣室からは次のような対話が聞えて来たのです。
「そう思ったけれど他《ほか》に適当な場所がないし、あなたのほうがお急ぎだというから……」
「僕が急ぐって、なにを急ぐの」
「あらこれよ」そう云うのと同時に、卓子の上へなにか取出す音がしました、「あの頸飾《くびかざ》りだけはないかも知れないけれど、とにかくこれだけ持って来たわ、お母さまに隠れてだからいちどには出せなかったのよ」
「これ、……これ、なんの意味だい」
「なんの意味って?」
「どうしてこんな物を持って来たのさ、僕にはまるでわけがわからない、ぜんたいなんのために」
「だって忠雄さん、あなた昨日……」
「僕が昨日どうしたのさ」
「ああ」と娘の恐怖の声が聞えました、「あなたじゃなかった、忠雄さんじゃなかったのね、ああどうしよう」
「由美ちゃん、なにか間違いがあったのか」
「私たちみつかったのよ」娘の声は哀れなほどうわずっていました、「誰かが私たちのことをみつけたんだわ、きっとそうよ、でも誰でしょう、いったい誰でしょう」
そのときです。署長は静かに立つと、靴音を忍ばせて出てゆきました。そして娘の問いに答えるかのように、「それは私ですお嬢さん」そう云いながら、隣りのブースへはいるのが聞えました。もちろん青年は沖原忠雄、娘は中沢由美子です。私は沖原氏と中沢氏を見張りながら、じっと隣りの会話に聞きいりました。
「君は誰です」忠雄君の声でした、「許しもなく他人の席へはいって来るなんて失敬じゃあないか、出て呉れ給え」
「話を簡単にするために云いましょう、僕は当市の警察本署長で五道三省という人間です、少し個人的に話したいことがあって邪魔をしました、個人的というのはむろんあなた方にとっての意味です、どうかお二人とも椅子に掛けて下さい」警察署長という言葉が決定的だったのでしょう。二人は椅子に掛けたようすでした。署長はすぐに続けてこう云いました。
「私が此処《ここ》へ来たという丈で、あなた方には話の内容はおわかりだろうと思う、然し順序としていちおう私の云うことを聞いて貰いましょう、問題は中沢さんの家で真珠の頸飾りが盗まれた件です、……これまでの経過では、お杉という小間使の行李《こうり》の中から、その頸飾りの中の真珠が一粒出て来て、お杉が盗んだというかたちになっている、もちろんこれは嘘で、頸飾りはまったく別人の手にあります、はっきり云ってしまえば、由美子さんの手から忠雄君の手に渡っている筈《はず》です」
このとき沖原、中沢の両氏はひじょうな驚愕《きょうがく》にうたれました。
「これはそうする必要があったのでしょう、云ってみれば忠雄君が頸飾りを始末するまで、他の人間へ疑いを向けて置く、というような必要が、……僕にもそれはわかるし、同情すぺき点もあると思う、然しお嬢さん、あなたはどうしてその人間を小間使に選んだのです、あなたにすれば最も手近で、然も利用し易《やす》かったからでしょう、だがお杉は弱い人間ですよ、あなた方には名門の権力と富がある、例《たと》えこんな間違いがわかったとしても、中沢家、沖原家という家柄がものを云って、新聞へも出されず表沙汰《おもてざた》にもならんでしょう、闇から闇へもみ消されてしまう、……けれどもお杉にはそんな庇護《ひご》は爪《つめ》の先ほどもない、あとで嫌疑が晴れたにせよ、警察の留置所へはいったというだけで一生ぬぐうことのできない傷を受ける人間です、貧しい人間は哀れなくらい無力です、あなた方はそういう気の毒な者を犠牲にした、そして自分たち二人の幸福の設計をした、だがそれで幸福が得られると思いますか」
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
「幸福は他の犠牲に依《よ》って得られるものじゃない」署長はこう続けました、「そのために誰かが不幸になり、犠牲になるような幸福は、それだけですぐ滅ひてしまう、僕はあなた方に同情したいと思うが、あの弱い無力な小間使を利用した点で、どうしても同情したり許したりする気持になれないんだ、忠雄君、由美子さん、どうかひとつ説明して下さい、どうしてもお杉を使わなければならなかったという、その理由を僕に説明して下さい、それに依ってはあなた方が名門の令息令嬢であろうとも、僕は断じてこの事件を」
「待って下さい、僕すっかり云います」忠雄潜の悲鳴に似た声が聞えました、「みんな僕が悪かったんです、由美子さんに罪はない、僕の責任です」
「いいえ悪いのは私です、忠雄さんはなんにも知ってはいませんわ、みんな私が……」
「まず忠雄君の説明を聞きましょう」
「こうなんです」かたんと椅子の音がしたのは、恐らく忠雄君が立上ったのでしょう、それに続いて泣くような調子の、切迫した声が聞えて来ました、「僕たちは東京の学校にいた頃から、……愛し合っていました、こんな云い方を許して下さい、本当に心から愛し合い、将来を誓っていたんです、けれど由美子さんの級友の一人が、寄宿していた家の主人とスキャンダルを起こし、それがきっかけで僕たちのことも或る一流新聞に書かれました、根も葉もないというより、醜く、歪《ゆが》められた悪意で書かれた記事でした、……それで由美子さんは音楽学校を中途で退いたのですが、この事件が僕の父と由美子さんのお父さんを怒らせ、それが市長選挙とからんで、中沢さんと沖原は徹底的な絶交状態になってしまったんです、……僕たちの将来は絶望でした、どう考えてみても二人の結婚は許されないでしょう、然《しか》しそれで諦《あきら》めるには、僕たちはもう精神的にも肉躰《にくたい》的にも深入りし過ぎていたんです、……方法を考えなければならない、どんな困難を排しても二人が結婚するために、……それには僕が生活の土台を造ることでした、それさえあったら家を出ても結婚できますから、僕は焦《あせ》りました、そして」
「そして、株に手を出したんですね」絶句した青年の言葉を促すように、署長が低くそう云いました。
「そうです、騙《だま》されたということはあとで知りました、そして僕のちからでは、どうにもならない多額の借財ができてしまったのです」
「頸飾りは私から差上げたんです」由美子嬢が耐えきれないという風に云いだしました、「忠雄さんは受取らないと云ったんですけれど、期日までにお金を入れなければ、仲買人がお父さんのととろへゆくと云うんです、私もう夢中でした、ただこの急場だけ凌《しの》げばいいと思って、むりに忠雄さんに頸飾りを取って貰ったんです、なにもかも夢中でした、なにもかも……お杉が警察へ連れてゆかれてから、初めて私は自分のした事の恐ろしさに気がついたんです、幾晩も幾晩も眠れないで、泣いて心のなかでお杉に詫びを云い続けました、でもとても……」
由美子嬢の言葉はそこで激しい泣き声に変りました。それは本当になにかがひき裂けるような悲痛な泣き声でした。……署長が私たちのブースへはいって来ました、そして中沢氏と沖原氏とに「どうぞいらしって下さい」と云い、ご人をつれて隣室へ戻ってゆきました、もちろん私も跟《つ》いていったのです。……相抱《あいいだ》くようにして泣いていた忠雄君と由美子さんは、とつぜん現われた父親たちを見て、身ぶるいをしながら椅子から立ちました。署長は両氏に向って二人の姿をさし示し、ちからの籠《こも》った低い声でこう云いました。
「お聞きのとおりです、沖原さん、中沢さん、あなた方が今なにをなさらなければならないか、おわかりでしょうな」
両氏は署長の前に頭を垂れました。そしてすぐ、中沢万三郎氏が決然と面をあげ、沖原氏のほうへ歩み寄って手をさし出しました。沖原氏はそれを両手で受けました、それと同時でした、「忠雄さん」と叫んで、泣きながら由美子嬢が青年の胸へとびついたのは、こんどは歓《よろこ》びにおののく泣き声をあげながら、……署長はゆっくり大きく頷《うなず》きました。
「それで結構です、御両家の幸福を祈って私はひきさがりましょう、ただ一つ、御両家の幸福をたしかなものにするために、私から一つお願いがあります、小間使のお杉には許婚者《いいなずけ》があって、それが建具屋の店を出すのといっしょに結婚する約束だそうです、どうか御両家で二人を後援してやって頂きたい、金はいけません、金に対する貧しい人間の考え方ほど潔癖なものはありませんから、その他の方法で援助をお願いします、……これで私は失敬しますが、あちらに四人分の食事の支度を命じて置きましたから、みなさんでゆっくり召上って下さい、どうぞ御心配なく this time it's on the house. 」
そして署長と私はそこを去りました。……命じてあったのでしょう、待っていた自動車で香蘭社を出ると、私は早速《さっそく》「まるで芝居の四幕目という感じでしたが、いったいどうしてあんな場面が出来あがったのですか」と訊きました。署長はふんと鼻を鳴らし、上衣《うわぎ》の内隠しから一枚の紙片を出してよこしました。
「種《たね》はこれさ」と云うのです。そこには鉛筆のひどい走り書きで、
[#ここから2字下げ]
頸飾りは売れない、他の物を急いで都合して下さい。
[#ここで字下げ終わり]
こう書いてあり、その次へペンの女文字でこれもかなり急いだ筆つきで、
[#ここから2字下げ]
明日午後二時香蘭社の特別室で、由、
[#ここで字下げ終わり]
と書いてありました。
「初めの鉛筆のほうは署長さんの字ですね」
「あのときお杉の弟に持たせてやったのがそれさ」署長はのんびりと退屈そうに云いました、「ものは試《ため》しだと思ってね、僕には令嬢のやった事だという直感があったからね……午後二時香蘭社、この七字で万事解決だったわけさ」
署長は腹の上で手を組み、うしろへ凭《もた》れかかりながら眼をつむりました。
「お杉は感づいていた、あの子にも愛する者があったから、愛を知る者の敏感さで、令嬢の苦しい恋を知っていた、だから、感づいていても云えなかったんだ、……お杉こそ、本当に一粒の真珠だよ」
云い終るとすぐ、われらの寝ぼけ署長はこころよさそうに、軽くすうすうと寝息をたてて眠りだしました。
底本:「山本周五郎全集第四巻 寝ぼけ署長・火の杯」新潮社
1984(昭和59)年1月25日 発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ