harukaze_lab @ ウィキ
湖底の秘密
最終更新:
Bot(ページ名リンク)
-
view
湖底の秘密
山本周五郎
山本周五郎
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)諏訪湖《すわこ》
(例)諏訪湖《すわこ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)県|諏訪湖《すわこ》
(例)県|諏訪湖《すわこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
[#3字下げ]スケートの朝[#「スケートの朝」は中見出し]
新しい年が訪れて五日めの朝――。
ここ長野県|諏訪湖《すわこ》の氷上はスケートを楽しむ人たちで色とりどりの賑《にぎわ》いを見せている。岸寄りの人混みから離れて、さっきから見事なフィギュアをやっていた孝三《こうぞう》は、思いもかけず、
「おーい、緒方《おがた》君」
と後から呼びかけられて振返った。はるかの向うから、純白のジャケツに無帽の少年がすばらしい速力《スピード》でやって来る。
「あッ、欣一《きんいち》君だ」
近寄ってきたのは牧野欣一と云《い》って、東京府立一中の二年生、孝三とは同級の親友であった。
「やあ、君も来ていたのか」
「僕あ休暇になると直《す》ぐ来たんだ。君には未《ま》だ話してなかったけど――実はちょっと面白い探検に来ているんだよ」
「何だい探検って?」
「ここじゃあ話せない、今日夕方から僕のところへ来ないか、下諏訪の東《あずま》ホテルという旅館に泊っているんだ」
「そう、じゃあ六時頃行くよ」
「是非|来給《きたま》え、とても面白い話があるんだから」
欣一は秘密ありげに微笑して、又すばらしい速力《スピード》で遠ざかっていった。
孝三はその日、夕食をすましてから、約束の時間より少し早めに東ホテルを訪ねた。出迎えたのは欣一の妹で、美枝《みえ》という美しい少女。
「いらっしゃいませ、兄さんがお待ちかねよ」
「やあ、美枝さんも来ていたの?」
「ええ、あたし兄さんの看視役なの」
「なに? 看視って……」
「ほほほほあとで分るわ」
美枝はいそいそと孝三を二階へ案内した。
欣一は、三人ばかりの髯《ひげ》むしゃの男たちと、卓子《テーブル》を囲んで何か話していたが孝三の入って来るのを見ると、男たちを次の間へ去らせて椅子《いす》をすすめた。
「よく来たね、寒かったろう」
「平気だよ。それより昼間の話を早く聞かせてくれないか、何だか秘密の話らしいんで気にかかるよ」
「話すとも、――まあ火の傍《そば》へ寄らないか」
欣一はゆったりと椅子にかけ直して話しだした。
「君は無論――武田信玄を知ってるね」
「なんだい、藪《やぶ》から棒に」
「いや、この話は武田信玄から始まるんだ。――この諏訪湖畔にずっと昔から一つの伝説がある。それは、武田信玄が死ぬときに、畳一畳ほどの石棺《せっかん》を造らせ、その中へ愛用の一個の兜《かぶと》と、源家《げんけ》直流の白旗《しらはた》一|旒《りゅう》、それに黄金五十万両を秘めて、この諏訪湖へ沈めた――というのだ。何故《なぜ》そんなことをしたかと云うと、信玄は武田家が間もなく滅亡するだろうと予測していた。そこでこれ等の秘宝を湖底へ沈め、やがて子孫の中から英雄傑士の出たとき、この石棺を発掘して武田家再興の資にさせよう……と云う、深謀遠慮に依《よ》った仕事だと云われてるんだ」
「その伝説なら僕も聞いたことがある」
欣一は頷《うなず》いて、
「今から十五年ばかり前に、ここの県庁の学務課が主になって、一度諏訪湖の底を探検したことがあるんだ、そのことは当時の新聞に報道されて全国の評判にもなったそうだ、――しかし結局失敗して、伝説は嘘《うそ》だということに世評がきまってしまったんだ。ところが……量らずも僕は、最近|或《あ》る秘密を発見したのさ」
欣一は生々《いきいき》と瞳《ひとみ》を輝やかしながらつづける。
「それはこうだ、この湖の対岸に地獄淵《じごくぶち》という所がある。湖畔の人々はその淵へ行くと魔に憑《つ》かれると云って決して近寄らない、――この前の探検の時にも、県庁の人々は知らなかったが、実は人夫たちが、わざとその地獄淵には手をつけなかったんだぜ」
「分った、君はそこを探検しようと云うんだな?」
「そうだ。――僕は東京から腕っこきの潜水夫を三人|伴《つ》れて出掛けて来たんだ、さっき君が入って来たときここにいたのがそれさ」
「すると、君が独力でやるのかい」
「そうさ、初めは父さんも承知しなかったが、妹を監視役につけて、危険なことはしないと云う約束で、やっと許して貰《もら》ったよ」
「それで――いつから始めるの?」
「昨夜《ゆうべ》、第一回の潜水をやって大体の調査も済んだから、今夜十二時に第二回を決行するつもりなんだ、君も行ってみないか」
「行くとも、是非行くよ」
「まあ嬉《うれ》しい、緒方さんが来て下さればあたしも安心だわ」
美枝が側《そば》で手を拍《う》ちながら叫んだ。
ここ長野県|諏訪湖《すわこ》の氷上はスケートを楽しむ人たちで色とりどりの賑《にぎわ》いを見せている。岸寄りの人混みから離れて、さっきから見事なフィギュアをやっていた孝三《こうぞう》は、思いもかけず、
「おーい、緒方《おがた》君」
と後から呼びかけられて振返った。はるかの向うから、純白のジャケツに無帽の少年がすばらしい速力《スピード》でやって来る。
「あッ、欣一《きんいち》君だ」
近寄ってきたのは牧野欣一と云《い》って、東京府立一中の二年生、孝三とは同級の親友であった。
「やあ、君も来ていたのか」
「僕あ休暇になると直《す》ぐ来たんだ。君には未《ま》だ話してなかったけど――実はちょっと面白い探検に来ているんだよ」
「何だい探検って?」
「ここじゃあ話せない、今日夕方から僕のところへ来ないか、下諏訪の東《あずま》ホテルという旅館に泊っているんだ」
「そう、じゃあ六時頃行くよ」
「是非|来給《きたま》え、とても面白い話があるんだから」
欣一は秘密ありげに微笑して、又すばらしい速力《スピード》で遠ざかっていった。
孝三はその日、夕食をすましてから、約束の時間より少し早めに東ホテルを訪ねた。出迎えたのは欣一の妹で、美枝《みえ》という美しい少女。
「いらっしゃいませ、兄さんがお待ちかねよ」
「やあ、美枝さんも来ていたの?」
「ええ、あたし兄さんの看視役なの」
「なに? 看視って……」
「ほほほほあとで分るわ」
美枝はいそいそと孝三を二階へ案内した。
欣一は、三人ばかりの髯《ひげ》むしゃの男たちと、卓子《テーブル》を囲んで何か話していたが孝三の入って来るのを見ると、男たちを次の間へ去らせて椅子《いす》をすすめた。
「よく来たね、寒かったろう」
「平気だよ。それより昼間の話を早く聞かせてくれないか、何だか秘密の話らしいんで気にかかるよ」
「話すとも、――まあ火の傍《そば》へ寄らないか」
欣一はゆったりと椅子にかけ直して話しだした。
「君は無論――武田信玄を知ってるね」
「なんだい、藪《やぶ》から棒に」
「いや、この話は武田信玄から始まるんだ。――この諏訪湖畔にずっと昔から一つの伝説がある。それは、武田信玄が死ぬときに、畳一畳ほどの石棺《せっかん》を造らせ、その中へ愛用の一個の兜《かぶと》と、源家《げんけ》直流の白旗《しらはた》一|旒《りゅう》、それに黄金五十万両を秘めて、この諏訪湖へ沈めた――というのだ。何故《なぜ》そんなことをしたかと云うと、信玄は武田家が間もなく滅亡するだろうと予測していた。そこでこれ等の秘宝を湖底へ沈め、やがて子孫の中から英雄傑士の出たとき、この石棺を発掘して武田家再興の資にさせよう……と云う、深謀遠慮に依《よ》った仕事だと云われてるんだ」
「その伝説なら僕も聞いたことがある」
欣一は頷《うなず》いて、
「今から十五年ばかり前に、ここの県庁の学務課が主になって、一度諏訪湖の底を探検したことがあるんだ、そのことは当時の新聞に報道されて全国の評判にもなったそうだ、――しかし結局失敗して、伝説は嘘《うそ》だということに世評がきまってしまったんだ。ところが……量らずも僕は、最近|或《あ》る秘密を発見したのさ」
欣一は生々《いきいき》と瞳《ひとみ》を輝やかしながらつづける。
「それはこうだ、この湖の対岸に地獄淵《じごくぶち》という所がある。湖畔の人々はその淵へ行くと魔に憑《つ》かれると云って決して近寄らない、――この前の探検の時にも、県庁の人々は知らなかったが、実は人夫たちが、わざとその地獄淵には手をつけなかったんだぜ」
「分った、君はそこを探検しようと云うんだな?」
「そうだ。――僕は東京から腕っこきの潜水夫を三人|伴《つ》れて出掛けて来たんだ、さっき君が入って来たときここにいたのがそれさ」
「すると、君が独力でやるのかい」
「そうさ、初めは父さんも承知しなかったが、妹を監視役につけて、危険なことはしないと云う約束で、やっと許して貰《もら》ったよ」
「それで――いつから始めるの?」
「昨夜《ゆうべ》、第一回の潜水をやって大体の調査も済んだから、今夜十二時に第二回を決行するつもりなんだ、君も行ってみないか」
「行くとも、是非行くよ」
「まあ嬉《うれ》しい、緒方さんが来て下さればあたしも安心だわ」
美枝が側《そば》で手を拍《う》ちながら叫んだ。
[#3字下げ]深夜の地獄淵[#「深夜の地獄淵」は中見出し]
そこで、再び潜水夫たちを呼んで、万端の打合せをした後、支度をととのえて宿を出たのが午後十一時半、――一行は欣一少年を先頭に、スケートで湖上を快走しながら対岸の目的地へ到着した。岸には欝蒼《うっそう》と常緑木《ときわぎ》が茂り、その背後《うしろ》は深い森林――。地獄淵というのは、その森林を前にした小さな入江で、湖底から湧《わ》く温泉のため、一ヶ所だけ中央に氷の溶けたところがある。欣一は薄氷《うすごおり》の上に渡した組板の上に立って、潜水の指揮にかかった。氷の上に、手早く空気を送るポンプが備えつけられて、木村という潜水夫が先《ま》ず第一に沈むことになった。
「ポンプ始め」
欣一の声が、しんと静まり返った辺りに木魂《こだま》して凜然《りんぜん》と響く、ポンプは動きだした。
木村潜水夫は重い兜《ヘルメット》からぶくぶくと気泡《あわ》をたてながら、深夜の地獄淵へ沈んで行った。命綱は伸びて行く、三メートル、五メートル、七メートル――やがて十メートル、十五メートル。
「底へ着きました」
連絡用の電話で、湖底の木村から通信が始まった、欣一は一語も聞きのがすまいと受話器をしっかり耳へ押当てる。
「水が濁っています、電燈《でんとう》の光がよく届きません、しかし場所はたしかです、――昨夜《ゆうべ》の目印をみつけました、おや……」
木村の声がふいに変った。
「どうした?」
「――いま妙な影が藻《も》のあいだに見えたように思ったんですが……眼の誤りでした。もう少し綱を伸ばして下さい。ばかに暗いなア、水がすっかり灰色に濁っています、おや……何かありました」
「何だ、何があったんだ」
「いま、藻を刈り除《の》けます。砂がもりあがっているんです、ああ……ありました、石です、石の蓋《ふた》です」
「石の蓋? たしかに石の蓋か?」
「間違いありません。あっ! きゃーッ」
突然、木村の悲鳴が受話器を顫《ふる》わせて聞えた、「は、早く、早くあげて下さい、殺されるッ!」
「おい、命綱を巻けッ」
欣一が叫ぶと同時に、
「あーッ、化物《ばけもの》※[#感嘆符二つ、1-8-75]……」
けたたましい木村の断末魔の声が響いてあとは森閑《しん》と何の音も聞えなくなった。綱は必死に巻上げられる……やがて、ぽかりと木村の体が浮いた。手早く兜《ヘルメット》を脱がせると――氷の上へさっと飛び散った鮮血! みよ……胸をひと刺し、鋭い刃物でやられているのだ。
「あっ、これは……」
とみんなが面《おもて》を蔽《おお》った時――間近の水面が不意にもっくりと動いて、奇怪な一個の首がにゅっと現われたのである。
「きききききき」
首は歯を剥出《むきだ》して笑った……ぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような声――ぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような首。頭いちめんにぬるぬるした藻が冠《かぶ》さり、大きな白い眼が闇の中で光った。そして――再び高く水音をたてながら、怪物は湖の底へ沈んで行った。
「ポンプ始め」
欣一の声が、しんと静まり返った辺りに木魂《こだま》して凜然《りんぜん》と響く、ポンプは動きだした。
木村潜水夫は重い兜《ヘルメット》からぶくぶくと気泡《あわ》をたてながら、深夜の地獄淵へ沈んで行った。命綱は伸びて行く、三メートル、五メートル、七メートル――やがて十メートル、十五メートル。
「底へ着きました」
連絡用の電話で、湖底の木村から通信が始まった、欣一は一語も聞きのがすまいと受話器をしっかり耳へ押当てる。
「水が濁っています、電燈《でんとう》の光がよく届きません、しかし場所はたしかです、――昨夜《ゆうべ》の目印をみつけました、おや……」
木村の声がふいに変った。
「どうした?」
「――いま妙な影が藻《も》のあいだに見えたように思ったんですが……眼の誤りでした。もう少し綱を伸ばして下さい。ばかに暗いなア、水がすっかり灰色に濁っています、おや……何かありました」
「何だ、何があったんだ」
「いま、藻を刈り除《の》けます。砂がもりあがっているんです、ああ……ありました、石です、石の蓋《ふた》です」
「石の蓋? たしかに石の蓋か?」
「間違いありません。あっ! きゃーッ」
突然、木村の悲鳴が受話器を顫《ふる》わせて聞えた、「は、早く、早くあげて下さい、殺されるッ!」
「おい、命綱を巻けッ」
欣一が叫ぶと同時に、
「あーッ、化物《ばけもの》※[#感嘆符二つ、1-8-75]……」
けたたましい木村の断末魔の声が響いてあとは森閑《しん》と何の音も聞えなくなった。綱は必死に巻上げられる……やがて、ぽかりと木村の体が浮いた。手早く兜《ヘルメット》を脱がせると――氷の上へさっと飛び散った鮮血! みよ……胸をひと刺し、鋭い刃物でやられているのだ。
「あっ、これは……」
とみんなが面《おもて》を蔽《おお》った時――間近の水面が不意にもっくりと動いて、奇怪な一個の首がにゅっと現われたのである。
「きききききき」
首は歯を剥出《むきだ》して笑った……ぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような声――ぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような首。頭いちめんにぬるぬるした藻が冠《かぶ》さり、大きな白い眼が闇の中で光った。そして――再び高く水音をたてながら、怪物は湖の底へ沈んで行った。
[#3字下げ]あっ! 綱が切れた[#「あっ! 綱が切れた」は中見出し]
ああそも湖底から浮上《うきあが》り、そしてまた湖底へ沈んだ怪物の正体は何であろうか?――一行はこの謎《なぞ》を残したままその夜は一先《ひとま》ず宿へ帰った。
すぐに医者が呼ばれた。木村の傷は右の肺に届くほど深かったが、幸い生命《いのち》に別状はなかった。――しかし、仲間のこうした惨《むごた》らしい有様を、眼の前に見た他の潜水夫たちは、急に尻《しり》ごみしだした。あんな怪物の棲《す》む魔の淵へ入るのは御免だ、いくら金を貰っても、生命《いのち》には代えられぬから、直《す》ぐに東京へ帰らせてくれと云って肯《き》かないのだった。
「よし、帰り給え!」
欣一はきっぱりと即座に承知して、
「君たちが厭《いや》なら僕が入る、湖底の石棺のあるところが分ったのにこの儘《まま》指を銜《くわ》えて引込めるか」
兄の言葉を聞いて美枝は吃驚《びっくり》した。
「いけませんわ、お兄さまが入るなんて、もしものことがあったら、それこそお父さまに……」
「いや止めても駄目だ、僕は断然やるよ!」
欣一は断乎《だんこ》として叫んだ、「僕は伝説の正体をつきとめる為《ため》に来たんだ、石棺の中を検《しら》べない限り誰が何と云ったって止《よ》さないよ。みんな怖《おそろ》しいなら帰り給え、僕一人でやる!」
「君がそこまで決心しているなら、僕が送気ポンプを引受けよう」
孝三は欣一の意気に打たれて叫んだ。
――こうなると潜水夫たちも、今更自分たちだけ帰る訳にもゆかない。それでは明晩一晩だけと云う条件で同行することになった。
翌《あく》る日の夜、五人が支度をととのえて、地獄淵へやって来たのが深夜十二時。欣一は、頻《しき》りに止める妹の手を振払うようにして、手早く潜水服に身をかためると、
「この武器を見ろ」
と右手に固く握った一|挺《ちょう》の拳銃《ピストル》を高々とかざして云った。
「舶来の水中|拳銃《ピストル》だ、これさえあれば怪物が出ても安心なものさ」
「しかし、軽はずみは止した方が宜《い》いぜ、怪物が見えたらすぐに上る方が安全だぞ」
「安心してろい、さあ……ポンプ」
元気に叫んで、欣一はヘルメットを冠《かぶ》る。
美枝は恐ろしさと不安に、ぶるぶる慄《ふる》えながら、孝三の腕に縋《すが》りついて、沈み行く兄の姿を見守っている。――深夜の闇《やみ》の中を、魔物|棲《す》む地獄淵へ欣一は沈んで行く、三メートル、五メートル、十メートル……。
「底へ着いた」
欣一から電話が来た。「今夜は水が澄んでいる、いま電燈をつけたところだ、綱をもう少し伸ばしてくれ給え」
「大丈夫か、気をつけろ」孝三が叫ぶ。
「心配するなよ、僕は元気いっぱいだ、おやおや、砂が乱れているぞ、ばかに藻が茂っているんで見透《みとおし》しが利《き》かないや」
「怪しいものは見えないか」
いまにも怪物が現われはすまいかと、気が気でない。十分ほど経《た》った。すると――、
「みつけた、あったぞ、石棺だ!」
「其処《そこ》が危ないんだ、気をつけろ」
「待て、いま調べる……ひどく砂が掻廻《かきまわ》されているよ、昨夜《ゆうべ》木村が掘返《ほりかえ》した跡だな、――もう少し綱を伸ばして」
そこまで云った時不意に命綱が強く曳《ひ》かれたと思うと、欣一のすさまじい喚《わめ》き声が聞えた。
「あっ、出た、畜生!」
「欣一君ッ――」
「はやく、早く綱を……」
水中の欣一と、水上の孝三が同時に叫ぶ。
潜水夫たちは勿論《もちろん》、美枝までが夢中で命綱を巻きにかかった。三メートル、五メートル、七メートル十メートル。あともう五メートルだ、がこの時、どうしたことか、ぶすっ! 命綱が断《き》れたのだ。
「あっ、綱が切れたぞ!」
驚愕《きょうがく》と絶望の悲愴《ひそう》な叫び――。
「牧野ッ! 欣一君――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
孝三が必死に電話器を叩《たた》く、と意外や、電話線までが切断している……水の中も、上も、しばしば無気味な沈黙だ。綱をあげてみると、あと五メートルのところから鋭い刃物で切られている。昨夜《ゆうべ》、あの木村を刺したのと同じ刃物にちがいない。
「お兄さま!」
美枝は絶入るように湖畔の闇に絶叫した。
すぐに医者が呼ばれた。木村の傷は右の肺に届くほど深かったが、幸い生命《いのち》に別状はなかった。――しかし、仲間のこうした惨《むごた》らしい有様を、眼の前に見た他の潜水夫たちは、急に尻《しり》ごみしだした。あんな怪物の棲《す》む魔の淵へ入るのは御免だ、いくら金を貰っても、生命《いのち》には代えられぬから、直《す》ぐに東京へ帰らせてくれと云って肯《き》かないのだった。
「よし、帰り給え!」
欣一はきっぱりと即座に承知して、
「君たちが厭《いや》なら僕が入る、湖底の石棺のあるところが分ったのにこの儘《まま》指を銜《くわ》えて引込めるか」
兄の言葉を聞いて美枝は吃驚《びっくり》した。
「いけませんわ、お兄さまが入るなんて、もしものことがあったら、それこそお父さまに……」
「いや止めても駄目だ、僕は断然やるよ!」
欣一は断乎《だんこ》として叫んだ、「僕は伝説の正体をつきとめる為《ため》に来たんだ、石棺の中を検《しら》べない限り誰が何と云ったって止《よ》さないよ。みんな怖《おそろ》しいなら帰り給え、僕一人でやる!」
「君がそこまで決心しているなら、僕が送気ポンプを引受けよう」
孝三は欣一の意気に打たれて叫んだ。
――こうなると潜水夫たちも、今更自分たちだけ帰る訳にもゆかない。それでは明晩一晩だけと云う条件で同行することになった。
翌《あく》る日の夜、五人が支度をととのえて、地獄淵へやって来たのが深夜十二時。欣一は、頻《しき》りに止める妹の手を振払うようにして、手早く潜水服に身をかためると、
「この武器を見ろ」
と右手に固く握った一|挺《ちょう》の拳銃《ピストル》を高々とかざして云った。
「舶来の水中|拳銃《ピストル》だ、これさえあれば怪物が出ても安心なものさ」
「しかし、軽はずみは止した方が宜《い》いぜ、怪物が見えたらすぐに上る方が安全だぞ」
「安心してろい、さあ……ポンプ」
元気に叫んで、欣一はヘルメットを冠《かぶ》る。
美枝は恐ろしさと不安に、ぶるぶる慄《ふる》えながら、孝三の腕に縋《すが》りついて、沈み行く兄の姿を見守っている。――深夜の闇《やみ》の中を、魔物|棲《す》む地獄淵へ欣一は沈んで行く、三メートル、五メートル、十メートル……。
「底へ着いた」
欣一から電話が来た。「今夜は水が澄んでいる、いま電燈をつけたところだ、綱をもう少し伸ばしてくれ給え」
「大丈夫か、気をつけろ」孝三が叫ぶ。
「心配するなよ、僕は元気いっぱいだ、おやおや、砂が乱れているぞ、ばかに藻が茂っているんで見透《みとおし》しが利《き》かないや」
「怪しいものは見えないか」
いまにも怪物が現われはすまいかと、気が気でない。十分ほど経《た》った。すると――、
「みつけた、あったぞ、石棺だ!」
「其処《そこ》が危ないんだ、気をつけろ」
「待て、いま調べる……ひどく砂が掻廻《かきまわ》されているよ、昨夜《ゆうべ》木村が掘返《ほりかえ》した跡だな、――もう少し綱を伸ばして」
そこまで云った時不意に命綱が強く曳《ひ》かれたと思うと、欣一のすさまじい喚《わめ》き声が聞えた。
「あっ、出た、畜生!」
「欣一君ッ――」
「はやく、早く綱を……」
水中の欣一と、水上の孝三が同時に叫ぶ。
潜水夫たちは勿論《もちろん》、美枝までが夢中で命綱を巻きにかかった。三メートル、五メートル、七メートル十メートル。あともう五メートルだ、がこの時、どうしたことか、ぶすっ! 命綱が断《き》れたのだ。
「あっ、綱が切れたぞ!」
驚愕《きょうがく》と絶望の悲愴《ひそう》な叫び――。
「牧野ッ! 欣一君――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
孝三が必死に電話器を叩《たた》く、と意外や、電話線までが切断している……水の中も、上も、しばしば無気味な沈黙だ。綱をあげてみると、あと五メートルのところから鋭い刃物で切られている。昨夜《ゆうべ》、あの木村を刺したのと同じ刃物にちがいない。
「お兄さま!」
美枝は絶入るように湖畔の闇に絶叫した。
[#3字下げ]友を救いに[#「友を救いに」は中見出し]
この時突然、――孝三が予備のもう一着の潜水服を掴んで立った。潜水夫たちは驚いて、
「何をなさる!」
「放せ、欣一君を救うんだ!」
孝三は叫んだ、「欣一君は湖底で怪物のために殺されようとしているのだ、美枝さん兄さんはきっと僕が救います。貴女《あなた》は早く町へ行って医者を呼んで来て下さい」
「緒方さん、ありがとう!」
美枝はグッと孝三の手を握りしめた。
「大丈夫、安心していらっしゃい!」
孝三は気もそぞろに潜水服を着ると、大型ナイフを右手に掴んだ。そして、深夜の湖上を町の方へ滑って行く美枝の姿を見定めながら静かに水の中へ沈んでいった。水はよく澄んでいた。ヘルメットの前についている電燈が綾《あや》のように透いて、夢を驚かされた小魚たちの、すばしこく逃げ廻るのや、長い藻草のゆらゆらと揺れているのが、映画のように展開してゆく、――と孝三の足が湖底へ着いた時だった。紗《さ》をすかして見るような眼前の水中に、ひらりと黒い影が、まるでいもりのように身を飜《ひるが》えすのが見えた。
「――来たな!」
突嗟《とっさ》に右手のナイフを握り直す。と、その影はすっと藻の中へ隠れた、孝三は油断なく辺りを見廻しながら、二三歩すすんだ。とたんに右手から、さっきの黒い影が、殆《ほとん》んどすれすれに横切ってひらり[#「ひらり」に傍点]と腹を見せた。
「うぬ――!」
と叫んで孝三が、ナイフを逆手にかまえた刹那《せつな》! ぐっと呼吸がつまった、振仰ぐと今一つの黒い影が、送気管《パイプ》にしっかとしがみついている。
「あっ、それを切られては!」
仰天してナイフを突上げる、とたんに、今度は前から来た奴《やつ》が、ぐっと孝三の喉《のど》へ両腕でとびかかる。しまった! と懸命に振り放し、逃げようとする奴を左手で抱込んだ孝三、いきなり片手で相手の脇腹《わきばら》へ
「これをくらえ!」
とばかりナイフを突刺《つきさ》した。この時又しても背後から、恐ろしい力で引倒《ひきたお》そうとする奴がある、脊中《せなか》には重い鉛板《なまりいた》を負《にな》っているから、倒されたらそれまでだ。
「くそっ!」
左手を廻して小脇を掴むと、満身の力をふるって引寄せ、もがき狂うのを、そのままぐいぐいと底の砂地へ押伏せる。右手のナイフを持直して、ただひと突きとばかり、振下そうとした時、孝三の右手へぐいと獅噛《しが》みついた者がある、見ると……濁った水の中にもそれと分る、半ば裸体の少女だった。
「どうぞ、その人を刺さないで……」
と云わんばかりに哀願する眸《ひとみ》、――孝三があまりの意外さに、思わず手をゆるめると、少女はすばやく、孝三の手を取ってぐいと引いた。とたんに送気管《パイプ》がぶつり[#「ぶつり」に傍点]! と切れ、孝三の体は、恐ろしい力で横さまに押流される。
「畜生――計られたか」
呻《うめ》いたが、渦巻く水に巻かれて立直るひまもない、と、いきなりどしん[#「どしん」に傍点]と体がどこかへ叩きつけられた。そして不意に水の流れが止まったと思うと、孝三はうす暗い石造の部屋の中に、半分水びたしになって横《よこた》わっているのだった。
「こ、これはどうしたんだ」
重なる意外に、なかば夢心地で立上ると、同時に眼の前へ、さっきの怪しい少女が、弱ってぐったりしている怪物二人を抱えながらすっくと立った。
「何をなさる!」
「放せ、欣一君を救うんだ!」
孝三は叫んだ、「欣一君は湖底で怪物のために殺されようとしているのだ、美枝さん兄さんはきっと僕が救います。貴女《あなた》は早く町へ行って医者を呼んで来て下さい」
「緒方さん、ありがとう!」
美枝はグッと孝三の手を握りしめた。
「大丈夫、安心していらっしゃい!」
孝三は気もそぞろに潜水服を着ると、大型ナイフを右手に掴んだ。そして、深夜の湖上を町の方へ滑って行く美枝の姿を見定めながら静かに水の中へ沈んでいった。水はよく澄んでいた。ヘルメットの前についている電燈が綾《あや》のように透いて、夢を驚かされた小魚たちの、すばしこく逃げ廻るのや、長い藻草のゆらゆらと揺れているのが、映画のように展開してゆく、――と孝三の足が湖底へ着いた時だった。紗《さ》をすかして見るような眼前の水中に、ひらりと黒い影が、まるでいもりのように身を飜《ひるが》えすのが見えた。
「――来たな!」
突嗟《とっさ》に右手のナイフを握り直す。と、その影はすっと藻の中へ隠れた、孝三は油断なく辺りを見廻しながら、二三歩すすんだ。とたんに右手から、さっきの黒い影が、殆《ほとん》んどすれすれに横切ってひらり[#「ひらり」に傍点]と腹を見せた。
「うぬ――!」
と叫んで孝三が、ナイフを逆手にかまえた刹那《せつな》! ぐっと呼吸がつまった、振仰ぐと今一つの黒い影が、送気管《パイプ》にしっかとしがみついている。
「あっ、それを切られては!」
仰天してナイフを突上げる、とたんに、今度は前から来た奴《やつ》が、ぐっと孝三の喉《のど》へ両腕でとびかかる。しまった! と懸命に振り放し、逃げようとする奴を左手で抱込んだ孝三、いきなり片手で相手の脇腹《わきばら》へ
「これをくらえ!」
とばかりナイフを突刺《つきさ》した。この時又しても背後から、恐ろしい力で引倒《ひきたお》そうとする奴がある、脊中《せなか》には重い鉛板《なまりいた》を負《にな》っているから、倒されたらそれまでだ。
「くそっ!」
左手を廻して小脇を掴むと、満身の力をふるって引寄せ、もがき狂うのを、そのままぐいぐいと底の砂地へ押伏せる。右手のナイフを持直して、ただひと突きとばかり、振下そうとした時、孝三の右手へぐいと獅噛《しが》みついた者がある、見ると……濁った水の中にもそれと分る、半ば裸体の少女だった。
「どうぞ、その人を刺さないで……」
と云わんばかりに哀願する眸《ひとみ》、――孝三があまりの意外さに、思わず手をゆるめると、少女はすばやく、孝三の手を取ってぐいと引いた。とたんに送気管《パイプ》がぶつり[#「ぶつり」に傍点]! と切れ、孝三の体は、恐ろしい力で横さまに押流される。
「畜生――計られたか」
呻《うめ》いたが、渦巻く水に巻かれて立直るひまもない、と、いきなりどしん[#「どしん」に傍点]と体がどこかへ叩きつけられた。そして不意に水の流れが止まったと思うと、孝三はうす暗い石造の部屋の中に、半分水びたしになって横《よこた》わっているのだった。
「こ、これはどうしたんだ」
重なる意外に、なかば夢心地で立上ると、同時に眼の前へ、さっきの怪しい少女が、弱ってぐったりしている怪物二人を抱えながらすっくと立った。
[#3字下げ]石棺の秘密[#「石棺の秘密」は中見出し]
「お怪我《けが》はありません?」
少女は美しい声で云った。
瞳が微《かす》かに笑っている。
「さぞびっくりなさいましたでしょう、でも、もう危険はありませんから御安心下さい。あなたのお友達も御無事でここにいますわ」
「え? 欣一君が無事で……」
「いま睡《ねむ》ってらっしゃいますの、御案内致しますわ、どうぞ……」
言葉つきと言い物腰まで、どこの令嬢かと思われる上品な様子だ。孝三はまだ夢心地で、潜水服を脱ぎ、少女の導くあとから石段を登って行った。
樫造《かしづく》りの引戸を明けると、中は城塞《じょうさい》のような構えの部屋で、片隅に仕切った炉には赤々と火が燃えている。その炉端に横《よこた》わっているのは、友の牧野欣一だった。
「おお欣一君……」
思わず走り寄ると、欣一はむっくと振返って、
「あ、緒方か――」
「よく生きていてくれた!」
孝三はぎゅっと欣一の手を握った、欣一は思わずはらはらと涙を落しながら、
「君こそ、よく来てくれた、ありがとう!」
「必ず君を助けると美枝さんに約束して来たんだが、本当は、生きて再び君の手を握れようとは思わなかった」
「――その人が、救ってくれたんだよ」
欣一は静かに少女の方を指し示した。――少女はにこやかに微笑《ほほえ》んで、
「お二人ともさぞお疲れでしょう、わたくしあの男たちの傷の手当をして参りますから、暫《しばら》くここでお休み下さいませ、――あとで何もかもお話し申しますわ」
そう云って部屋を出て行ったが、二十分もすると着物を換え、濡《ぬ》れた髪毛《かみ》を包んでしとやかに戻って来た。孝三は待兼《まちか》ねたように質問の矢を放った。
「いったい貴女はどう云う方なんですか、あの怪物は何者なんです?」
「あの男たちは、わたくしの家来ですの」
「では人間ですね?」
「はあ……可哀《かわい》そうに、今ではあんな姿になって了《しま》いましたけれど、忠義の為《ため》には生命《いのち》を惜《おし》まぬ男たちです、でもこう申上げただけではお分りになりませんでしょう?」
少女は古風な椅子に腰をかけて、静かに語りつづける。
「貴方《あなた》がたは石棺の秘密をたしかめにいらしったのですから、多分御存じでございましょう――武田信玄公がこの湖底へ、家宝の旗と兜と黄金五十万両を沈めたという伝説を――」
「では、あの話嘘ではなかったのですね?」
「石棺を沈めたのは事実です。そしてその石棺を沈めるに当って、永代人の手を触れさせてはならぬ――と云う厳重なお言いつけがございました、そのために――武田家の忠臣|和田兵之介《わだへいのすけ》という武将が、郎党と共にこの湖畔へ隠れて、ひそかに石棺を守護することになったのです」
それ以来三百五十余年、その人の子孫は誓約を守って湖畔に隠棲《いんせい》し、伝説をしたって石棺の所在を探りに来る人があれば、何処からともなく現われて邪魔をし、場合に依れば殺してまでも石棺の秘密を護《まも》って来たのである。
「この家《うち》は、湖底の石棺を護るために造られたもので、裏口は加多山《かたやま》の中腹へぬけ、前には玻璃《はり》を張った部屋が水中に出ていて、その石棺を見張る仕掛けになっているのです。そして誰か近づくのを見ると、あの男たちが水槽室から出て行って邪魔をするのです。あの男たちはまるで河童《かっぱ》のように泳ぎ廻ることが出来るのです。何代ものあいだ、殆ど水の中で暮して来たために、今では体つきまでが、河童のような畸形《きけい》なものになってしまったのです」
少女は美しい声で云った。
瞳が微《かす》かに笑っている。
「さぞびっくりなさいましたでしょう、でも、もう危険はありませんから御安心下さい。あなたのお友達も御無事でここにいますわ」
「え? 欣一君が無事で……」
「いま睡《ねむ》ってらっしゃいますの、御案内致しますわ、どうぞ……」
言葉つきと言い物腰まで、どこの令嬢かと思われる上品な様子だ。孝三はまだ夢心地で、潜水服を脱ぎ、少女の導くあとから石段を登って行った。
樫造《かしづく》りの引戸を明けると、中は城塞《じょうさい》のような構えの部屋で、片隅に仕切った炉には赤々と火が燃えている。その炉端に横《よこた》わっているのは、友の牧野欣一だった。
「おお欣一君……」
思わず走り寄ると、欣一はむっくと振返って、
「あ、緒方か――」
「よく生きていてくれた!」
孝三はぎゅっと欣一の手を握った、欣一は思わずはらはらと涙を落しながら、
「君こそ、よく来てくれた、ありがとう!」
「必ず君を助けると美枝さんに約束して来たんだが、本当は、生きて再び君の手を握れようとは思わなかった」
「――その人が、救ってくれたんだよ」
欣一は静かに少女の方を指し示した。――少女はにこやかに微笑《ほほえ》んで、
「お二人ともさぞお疲れでしょう、わたくしあの男たちの傷の手当をして参りますから、暫《しばら》くここでお休み下さいませ、――あとで何もかもお話し申しますわ」
そう云って部屋を出て行ったが、二十分もすると着物を換え、濡《ぬ》れた髪毛《かみ》を包んでしとやかに戻って来た。孝三は待兼《まちか》ねたように質問の矢を放った。
「いったい貴女はどう云う方なんですか、あの怪物は何者なんです?」
「あの男たちは、わたくしの家来ですの」
「では人間ですね?」
「はあ……可哀《かわい》そうに、今ではあんな姿になって了《しま》いましたけれど、忠義の為《ため》には生命《いのち》を惜《おし》まぬ男たちです、でもこう申上げただけではお分りになりませんでしょう?」
少女は古風な椅子に腰をかけて、静かに語りつづける。
「貴方《あなた》がたは石棺の秘密をたしかめにいらしったのですから、多分御存じでございましょう――武田信玄公がこの湖底へ、家宝の旗と兜と黄金五十万両を沈めたという伝説を――」
「では、あの話嘘ではなかったのですね?」
「石棺を沈めたのは事実です。そしてその石棺を沈めるに当って、永代人の手を触れさせてはならぬ――と云う厳重なお言いつけがございました、そのために――武田家の忠臣|和田兵之介《わだへいのすけ》という武将が、郎党と共にこの湖畔へ隠れて、ひそかに石棺を守護することになったのです」
それ以来三百五十余年、その人の子孫は誓約を守って湖畔に隠棲《いんせい》し、伝説をしたって石棺の所在を探りに来る人があれば、何処からともなく現われて邪魔をし、場合に依れば殺してまでも石棺の秘密を護《まも》って来たのである。
「この家《うち》は、湖底の石棺を護るために造られたもので、裏口は加多山《かたやま》の中腹へぬけ、前には玻璃《はり》を張った部屋が水中に出ていて、その石棺を見張る仕掛けになっているのです。そして誰か近づくのを見ると、あの男たちが水槽室から出て行って邪魔をするのです。あの男たちはまるで河童《かっぱ》のように泳ぎ廻ることが出来るのです。何代ものあいだ、殆ど水の中で暮して来たために、今では体つきまでが、河童のような畸形《きけい》なものになってしまったのです」
[#3字下げ]河童族の最後[#「河童族の最後」は中見出し]
「では、石棺の中の宝物は今どうなってるんです?」
「御覧に入れましょう」
少女はそっと立上った。
「三百五十年のあいだ、誰の眼にも触れなかった石棺の中を、今こそ貴方がたにお見せ致します」
欣一と孝三は、少女のあとについて部屋を出た。
少女は片手に小さな手提龕灯《てさげがんどう》を持って、天井の低い廊下を暫く進んだが、やがて右側に岩の露出しているところへ来ると、そこにぽっかりと口を明いている洞窟《どうくつ》の中へ入っていった。脊を跼《かが》めなければ歩けないほどの低さ、――三人は息をひそめて、十メートルばかり進むと、間もなく洞窟は行止まった。
「これが石棺です!」
少女は龕灯を差《さし》つける。
そこには、苔《こけ》むした、長さ二メートル、幅一メートルあまりの石棺が安置してあった。欣一はつかつかと近寄って、ぐいと蓋《ふた》を持上げた。ぷんと鼻をつく名香の匂《におい》――同時に
「あっ……」
と覗《のぞ》きこんだ孝三が叫んだ。石棺の中には鎧《よろい》と兜に身を固めた人骨が、右手に源家《げんけ》直流の白旗を握ったまま横《よこた》わっていたのである。
「――こ、これは……?」
「武田信玄公の遺骸《いがい》です」
少女の声は厳かにひびく。
「石棺の中には信玄公御自身の亡骸《なきがら》が納めてあったのです」
二人は、しばらく驚愕の為《ため》口も開けない様子だったが、やがて声を揃《そろ》えて訊《たず》ねた。
「では、あの湖底にある石棺は何なのです」
「この石棺の写しです。万一の場合を考えて、わたくしの父が写しを造って、あすこへ沈めて置いたのです」
「貴女のお父さんって誰です」
「父は和田兵之介の十代の孫|三郎兵衛《さぶろうべえ》でございます。わたくしはその娘で千代姫《ちよひめ》……」
ここまで云いかけた少女は、突然「あッ」と悲鳴をあげた。
「なにをするの、おまえ達お待ち!」
「やってしまえ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 覚悟しろ小童《こわっぱ》ども」
兇暴《きょうぼう》に喚く声に、二人はびっくりして振返る。見るとあの河童《かっぱ》のような怪人二人が、白刃《はくじん》をふるって斬《き》りかかってきたのであった。少女がひらりと身を飜えして二少年を庇《かば》う、同時に、白刃はむざんにも少女の胸へぐさと突刺さった。
「きゃっ!」
悲鳴と共に倒れる少女を尻目にかけて、怪人は狂人のように叫んだ。
「石棺の秘密を知らせたからは、姫とても生かしては置けぬのだ」
「それ、あとの二人も逃がすでないぞ」
喚《おめ》いて踏込む、危機一髪。欣一はとっさに水中|拳銃《ピストル》を取出して射《う》った。がん[#「がん」に傍点]! がん[#「がん」に傍点]! 耳を劈《つんざ》く銃声に、きゃあ! と叫んで二人の怪人は折重なって倒れた。
「早く、緒方君、この少女を伴《つ》れて逃げるんだ」
「よし!」
二人はさっと少女の体を担《かつ》ぎあげるや、洞窟の外へとび出した。
少女は担がれたまま、苦痛を耐《こら》えて道を教える。
「そこを左へ曲って、石段をあがって、ああその壁を押して下さい。そこが加多山の出口です」
不意に三人は杉林のある山の中腹へ出た。と、少女は二人の肩から辷《すべ》り下りて、
「早く、早くお逃げなさい」
「いや貴女も一緒に――」
「駄目です――駄目です」
少女は傷口を抑えながら、
「この傷ではとても生命《いのち》はありません……どうせ死ぬなら、やはり亡《な》き父の側《そば》で死にたいと思います。どうか貴方がただけ逃げて下さい。外へ出ている者が帰ってたらおしまいです。その道を右へ行くと真直《まっすぐ》に湖へ出ます。どうぞお二人とも――何時《いつ》までもお達者で……」
そう云って、千代姫と呼ばれる美しい少女は淋《さび》しげに微笑んだ。
胸の重い傷をしっかり抑えた両の手が心なしかわなわなふるえている。痛みをこらえる健気《けなげ》さ。だが、その顔からは刻々血の色が失われて行くようだ。
「だけど……」
痛々しい、この少女をこのまま見捨てて帰れぬ二人だった。そう云いかけたのを、
「いえ、いえ、私はこれでいいのです。どうぞ、どうぞお構いなく早く早く」
ためらう二人を急《せ》き立てて、淋しげに最後の微笑《ほほえみ》を投げると、つと隠れ家の中へ姿を消してしまった。
あとには夜明けの風に、梢《こずえ》を鳴らす杉のそよぎばかり、欣一と孝三は固く手を握りあったまま、暫らくは茫然《ぼうぜん》と立《たち》つくしていた。
それ以来、地獄淵には怪しい噂《うわさ》が絶えてしまったが、恐らくそれはあの奇怪な河童族が、あの夜の事件で滅亡した為ではなかろうか。
「御覧に入れましょう」
少女はそっと立上った。
「三百五十年のあいだ、誰の眼にも触れなかった石棺の中を、今こそ貴方がたにお見せ致します」
欣一と孝三は、少女のあとについて部屋を出た。
少女は片手に小さな手提龕灯《てさげがんどう》を持って、天井の低い廊下を暫く進んだが、やがて右側に岩の露出しているところへ来ると、そこにぽっかりと口を明いている洞窟《どうくつ》の中へ入っていった。脊を跼《かが》めなければ歩けないほどの低さ、――三人は息をひそめて、十メートルばかり進むと、間もなく洞窟は行止まった。
「これが石棺です!」
少女は龕灯を差《さし》つける。
そこには、苔《こけ》むした、長さ二メートル、幅一メートルあまりの石棺が安置してあった。欣一はつかつかと近寄って、ぐいと蓋《ふた》を持上げた。ぷんと鼻をつく名香の匂《におい》――同時に
「あっ……」
と覗《のぞ》きこんだ孝三が叫んだ。石棺の中には鎧《よろい》と兜に身を固めた人骨が、右手に源家《げんけ》直流の白旗を握ったまま横《よこた》わっていたのである。
「――こ、これは……?」
「武田信玄公の遺骸《いがい》です」
少女の声は厳かにひびく。
「石棺の中には信玄公御自身の亡骸《なきがら》が納めてあったのです」
二人は、しばらく驚愕の為《ため》口も開けない様子だったが、やがて声を揃《そろ》えて訊《たず》ねた。
「では、あの湖底にある石棺は何なのです」
「この石棺の写しです。万一の場合を考えて、わたくしの父が写しを造って、あすこへ沈めて置いたのです」
「貴女のお父さんって誰です」
「父は和田兵之介の十代の孫|三郎兵衛《さぶろうべえ》でございます。わたくしはその娘で千代姫《ちよひめ》……」
ここまで云いかけた少女は、突然「あッ」と悲鳴をあげた。
「なにをするの、おまえ達お待ち!」
「やってしまえ※[#感嘆符二つ、1-8-75] 覚悟しろ小童《こわっぱ》ども」
兇暴《きょうぼう》に喚く声に、二人はびっくりして振返る。見るとあの河童《かっぱ》のような怪人二人が、白刃《はくじん》をふるって斬《き》りかかってきたのであった。少女がひらりと身を飜えして二少年を庇《かば》う、同時に、白刃はむざんにも少女の胸へぐさと突刺さった。
「きゃっ!」
悲鳴と共に倒れる少女を尻目にかけて、怪人は狂人のように叫んだ。
「石棺の秘密を知らせたからは、姫とても生かしては置けぬのだ」
「それ、あとの二人も逃がすでないぞ」
喚《おめ》いて踏込む、危機一髪。欣一はとっさに水中|拳銃《ピストル》を取出して射《う》った。がん[#「がん」に傍点]! がん[#「がん」に傍点]! 耳を劈《つんざ》く銃声に、きゃあ! と叫んで二人の怪人は折重なって倒れた。
「早く、緒方君、この少女を伴《つ》れて逃げるんだ」
「よし!」
二人はさっと少女の体を担《かつ》ぎあげるや、洞窟の外へとび出した。
少女は担がれたまま、苦痛を耐《こら》えて道を教える。
「そこを左へ曲って、石段をあがって、ああその壁を押して下さい。そこが加多山の出口です」
不意に三人は杉林のある山の中腹へ出た。と、少女は二人の肩から辷《すべ》り下りて、
「早く、早くお逃げなさい」
「いや貴女も一緒に――」
「駄目です――駄目です」
少女は傷口を抑えながら、
「この傷ではとても生命《いのち》はありません……どうせ死ぬなら、やはり亡《な》き父の側《そば》で死にたいと思います。どうか貴方がただけ逃げて下さい。外へ出ている者が帰ってたらおしまいです。その道を右へ行くと真直《まっすぐ》に湖へ出ます。どうぞお二人とも――何時《いつ》までもお達者で……」
そう云って、千代姫と呼ばれる美しい少女は淋《さび》しげに微笑んだ。
胸の重い傷をしっかり抑えた両の手が心なしかわなわなふるえている。痛みをこらえる健気《けなげ》さ。だが、その顔からは刻々血の色が失われて行くようだ。
「だけど……」
痛々しい、この少女をこのまま見捨てて帰れぬ二人だった。そう云いかけたのを、
「いえ、いえ、私はこれでいいのです。どうぞ、どうぞお構いなく早く早く」
ためらう二人を急《せ》き立てて、淋しげに最後の微笑《ほほえみ》を投げると、つと隠れ家の中へ姿を消してしまった。
あとには夜明けの風に、梢《こずえ》を鳴らす杉のそよぎばかり、欣一と孝三は固く手を握りあったまま、暫らくは茫然《ぼうぜん》と立《たち》つくしていた。
それ以来、地獄淵には怪しい噂《うわさ》が絶えてしまったが、恐らくそれはあの奇怪な河童族が、あの夜の事件で滅亡した為ではなかろうか。
底本:「周五郎少年文庫 木乃伊屋敷の秘密 怪奇小説集」新潮文庫、新潮社
2018(平成30)年11月1日発行
底本の親本:「新少年」
1936(昭和11)年1月号
初出:「新少年」
1936(昭和11)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2018(平成30)年11月1日発行
底本の親本:「新少年」
1936(昭和11)年1月号
初出:「新少年」
1936(昭和11)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ