harukaze_lab @ ウィキ
木乃伊屋敷の秘密
最終更新:
Bot(ページ名リンク)
-
view
木乃伊屋敷の秘密
山本周五郎
山本周五郎
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)由井《よしい》
(例)由井《よしい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)急|来《きた》
(例)急|来《きた》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
[#3字下げ]一 死の長文電報[#「一 死の長文電報」は中見出し]
「小西君、二三日ひま[#「ひま」に傍点]があるのかね」
帝大の考古学研究室で、教授の由井《よしい》博士が研究生の小西次郎にそう呼びかけた。
「はあ、何か御用ですか」
「鎌倉の先生からこんな電報が来たんだ」
由井教授は一通の長文電報を示した。それには左《さ》のような意味が記してあった。
――余《よ》ハ恐ルベキ死ニ当面シツツアリ、生前貴下ニ托《たく》スベキ事アレバ、至急|来《きた》レ、至急ヲ要ス。厩川《うまやかわ》。
鎌倉の先生とは厩川|攻亮《よりすけ》博士のことで、由井教授の恩師に当る考古学の泰斗だった。半生を『蒙古《もうこ》地方に於《お》ける先史民族の研究』に捧《ささ》げ、七年以前に学界を退いたが、それからも何度か蒙古入りをして史跡踏査を続けている。現に半年ほどまえ何度めかの踏査を了《お》えて帰って来たばかりで、今は七里ヶ浜にある別邸で、瀧川《たきがわ》文学士を助手に、殆《ほとん》ど世間とは交際もせず研究に没頭しているのだ。
「何でしょう、恐るべき死というのは」
「分らんね、とにかく何か普通でない事が起っているに相違ない。直《す》ぐ行きたいんだが君も一緒に来てくれんか」
「悦《よろこ》んでお供しましょう」
小西青年は厩川博士に会えるだけでも嬉《うれ》しかったのである。
二人が鎌倉へ着いたのは日暮ま近のことだった。厩川博士の別邸は七里ヶ浜の丘蔭《おかかげ》に在って欝蒼《うっそう》たる森に囲まれた石造の古びた建物である。そこは一番近い人家からでも十|丁《ちょう》あまり離れた寂しい場所で、厩川博士は下男二人(蒙古人)と老炊事婦と、助手の瀧川文学士の五人で暮らしている。
蔦《つた》の絡《から》んだ玄関へ入ると、陰険な眼つきをした蒙古人の下男がいて博士の部屋へ案内をした。――厩川博士はがらんとした暗い書斎で、大きな革椅子《かわいす》に凭《もた》れ、書物卓子《かきものテーブル》に向って何か書いていたが、由井教授を見ると力のない手つきで近くの椅子を示した。
「掛け給《たま》え。――その青年は?」
「私の秘蔵弟子で、小西次郎と云《い》う研究生です。電報の様子では何か重大な事が起っていると思ったものですから伴《つ》れて参りました」
「秘密は守れるだろうね」
「私と同様にお思い下さい」
厩川博士は憔悴《しょうすい》した顔に鋭い眼を光らせて、眤《じっ》と小西青年の顔を凝視《みつ》めた。――そこへ別の蒙古人が黙々と入って来て、灯《ひ》のついた洋燈《ランプ》を卓子《テーブル》の上へ置き、また黙々と出て行った。この家では電燈《でんとう》は一切用いないのである。
「一体どうなすったのですか、先生」
「由井君、――儂《わし》は呪《のろい》に憑《つ》かれたのだ」
博士は呟《つぶや》くように云った。
「仰有《おっしゃ》る事がよく分りません」
「君は信じないかも知れない、まあ聞いてくれ。――儂は去年の春、内蒙古へ例の学術踏査に行った。その時、実に意外な発見をしたのだ。君も知っている通り、今まで人類学上の謎《なぞ》とされていた『蝎族《かつぞく》』の王の墳墓を発見したのだ。土民たちから神域として尊崇され、もしそれを荒らすと、蝎族の亡霊に憑殺《とりころ》されると云われていたものがそれだった。然《しか》し……儂は或《あ》る暴風雨の夜、助手の瀧川と蒙古人の下男二人に手伝わせてこの墓を発掘してしまったのだ。そこには果して蝎族の王の棺《ひつぎ》があり、その他にも多くの武器や什物《じゅうぶつ》が有った。そして、儂はそっくりそれを運び出して来たのだ」
博士は息をついてから静かに続けた。
「手を附けても憑殺《とりころ》されるという神域から、勿論《もちろん》それは学術のためではあったが、儂は墓を発《あば》いて王の棺や什物を取出した。半年まえに帰って来てから、この家に引籠《ひきこも》ったのも、それを専念研究したかったからだった。――ところが、土民たちの伝説が事実となって現われて来たのだ」
「と仰有ると、どう云う風にですか」
「蝎族の亡霊が現われるのだ」
博士は呻《うめ》くように云った。眉間《みけん》にはまざまざと苦悶《くもん》の皺《しわ》が刻まれている。
「発掘して来た棺の中には、王の遺骸《いがい》が納められてあった。その遺骸の木乃伊が、夜な夜な棺からぬけ出て歩き廻るのだ」
「――信じられません」
「そう、多分君には信じられぬだろう。然し事実はどうしようもない。――気付いたのは五十日ほど前のことだ」
博士は息をついで、
「夜中にふと眼がさめて水を呑《の》もうと水差《みずさし》を取ると……慥《たしか》に寝る時入れさせた水が一滴もない、変だ思って見ると、コップが濡《ぬ》れている」
「先生が御自分でお呑みになって……」
「忘れたと云うのだろう?――儂も初めはそう思った。然しその翌《あく》る晩も同じ事が起ったのだ。あまり変だから次の夜、僕は水差に印をつけて試してみた。若し儂が夢中で呑んだら手へ墨が附くように、――次の夜も水差の水は無くなっていた。そして儂の手には何も附いていなかった」
厩川博士はぶるると身慄《みぶる》いをした。
帝大の考古学研究室で、教授の由井《よしい》博士が研究生の小西次郎にそう呼びかけた。
「はあ、何か御用ですか」
「鎌倉の先生からこんな電報が来たんだ」
由井教授は一通の長文電報を示した。それには左《さ》のような意味が記してあった。
――余《よ》ハ恐ルベキ死ニ当面シツツアリ、生前貴下ニ托《たく》スベキ事アレバ、至急|来《きた》レ、至急ヲ要ス。厩川《うまやかわ》。
鎌倉の先生とは厩川|攻亮《よりすけ》博士のことで、由井教授の恩師に当る考古学の泰斗だった。半生を『蒙古《もうこ》地方に於《お》ける先史民族の研究』に捧《ささ》げ、七年以前に学界を退いたが、それからも何度か蒙古入りをして史跡踏査を続けている。現に半年ほどまえ何度めかの踏査を了《お》えて帰って来たばかりで、今は七里ヶ浜にある別邸で、瀧川《たきがわ》文学士を助手に、殆《ほとん》ど世間とは交際もせず研究に没頭しているのだ。
「何でしょう、恐るべき死というのは」
「分らんね、とにかく何か普通でない事が起っているに相違ない。直《す》ぐ行きたいんだが君も一緒に来てくれんか」
「悦《よろこ》んでお供しましょう」
小西青年は厩川博士に会えるだけでも嬉《うれ》しかったのである。
二人が鎌倉へ着いたのは日暮ま近のことだった。厩川博士の別邸は七里ヶ浜の丘蔭《おかかげ》に在って欝蒼《うっそう》たる森に囲まれた石造の古びた建物である。そこは一番近い人家からでも十|丁《ちょう》あまり離れた寂しい場所で、厩川博士は下男二人(蒙古人)と老炊事婦と、助手の瀧川文学士の五人で暮らしている。
蔦《つた》の絡《から》んだ玄関へ入ると、陰険な眼つきをした蒙古人の下男がいて博士の部屋へ案内をした。――厩川博士はがらんとした暗い書斎で、大きな革椅子《かわいす》に凭《もた》れ、書物卓子《かきものテーブル》に向って何か書いていたが、由井教授を見ると力のない手つきで近くの椅子を示した。
「掛け給《たま》え。――その青年は?」
「私の秘蔵弟子で、小西次郎と云《い》う研究生です。電報の様子では何か重大な事が起っていると思ったものですから伴《つ》れて参りました」
「秘密は守れるだろうね」
「私と同様にお思い下さい」
厩川博士は憔悴《しょうすい》した顔に鋭い眼を光らせて、眤《じっ》と小西青年の顔を凝視《みつ》めた。――そこへ別の蒙古人が黙々と入って来て、灯《ひ》のついた洋燈《ランプ》を卓子《テーブル》の上へ置き、また黙々と出て行った。この家では電燈《でんとう》は一切用いないのである。
「一体どうなすったのですか、先生」
「由井君、――儂《わし》は呪《のろい》に憑《つ》かれたのだ」
博士は呟《つぶや》くように云った。
「仰有《おっしゃ》る事がよく分りません」
「君は信じないかも知れない、まあ聞いてくれ。――儂は去年の春、内蒙古へ例の学術踏査に行った。その時、実に意外な発見をしたのだ。君も知っている通り、今まで人類学上の謎《なぞ》とされていた『蝎族《かつぞく》』の王の墳墓を発見したのだ。土民たちから神域として尊崇され、もしそれを荒らすと、蝎族の亡霊に憑殺《とりころ》されると云われていたものがそれだった。然《しか》し……儂は或《あ》る暴風雨の夜、助手の瀧川と蒙古人の下男二人に手伝わせてこの墓を発掘してしまったのだ。そこには果して蝎族の王の棺《ひつぎ》があり、その他にも多くの武器や什物《じゅうぶつ》が有った。そして、儂はそっくりそれを運び出して来たのだ」
博士は息をついてから静かに続けた。
「手を附けても憑殺《とりころ》されるという神域から、勿論《もちろん》それは学術のためではあったが、儂は墓を発《あば》いて王の棺や什物を取出した。半年まえに帰って来てから、この家に引籠《ひきこも》ったのも、それを専念研究したかったからだった。――ところが、土民たちの伝説が事実となって現われて来たのだ」
「と仰有ると、どう云う風にですか」
「蝎族の亡霊が現われるのだ」
博士は呻《うめ》くように云った。眉間《みけん》にはまざまざと苦悶《くもん》の皺《しわ》が刻まれている。
「発掘して来た棺の中には、王の遺骸《いがい》が納められてあった。その遺骸の木乃伊が、夜な夜な棺からぬけ出て歩き廻るのだ」
「――信じられません」
「そう、多分君には信じられぬだろう。然し事実はどうしようもない。――気付いたのは五十日ほど前のことだ」
博士は息をついで、
「夜中にふと眼がさめて水を呑《の》もうと水差《みずさし》を取ると……慥《たしか》に寝る時入れさせた水が一滴もない、変だ思って見ると、コップが濡《ぬ》れている」
「先生が御自分でお呑みになって……」
「忘れたと云うのだろう?――儂も初めはそう思った。然しその翌《あく》る晩も同じ事が起ったのだ。あまり変だから次の夜、僕は水差に印をつけて試してみた。若し儂が夢中で呑んだら手へ墨が附くように、――次の夜も水差の水は無くなっていた。そして儂の手には何も附いていなかった」
厩川博士はぶるると身慄《みぶる》いをした。
[#3字下げ]二 開《あ》かぬ棺《ひつぎ》[#「二 開かぬ棺」は中見出し]
「それ以来、儂は夜中になると必ず恐怖のために眼が覚める。――すると廊下を誰かが歩いて来る、音もなく扉《ドア》が明く……儂は怖《おそ》ろしさに眼を明けることも出来ず、凝乎《じっ》と蒲団《ふとん》の中に息を殺している。――奴《やつ》は近寄って来る、そしてピシャピシャと水差から水をコップへ注《つ》いで呑む……あああの音、あの冷たい嘲《あざけ》るような音」
「先生! 先生※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「由井君、そして儂は見たのだ。或る夜、――奴が水を呑み終って去る時、そっと蒲団の隙《すき》から見たのだ。ああ、なんという怖ろしい姿だったろう。果して奴は木乃伊だった。そして儂の方へ振返って……笑った」
そこまで云うと力尽きたか、厩川博士はくったりと椅子の上へ気絶して了《しま》った。――丁度そのとき扉《ドア》が明いて、助手の瀧川|駿一《しゅんいち》が入って来た。彼はその様子を見ると、口髭《くちひげ》を剃込《そりこ》んだ端麗な顔を顰《しか》めながら走り寄って、
「おや、また先生が発作を起しましたね」
と援《たす》け起し、「この頃よくこういう事があるんです。なに直ぐ恢復《かいふく》しますよ」
そう云って軽々と博士を抱上げ、隅にある寝椅子の上へ横《よこた》えた。
由井教授は瀧川助手が博士の手当をしているあいだ、深く腕組をして凝乎《じっ》と考えこんでいたが、やがて瀧川助手が戻って来ると、
「君が瀧川君だね、僕は先生の門下で由井|弘作《ひろさく》と云う者だ」
「お噂《うわさ》は先生から承わっておりました」
「いま先生から妙な話を聞いたんだが、むろん君も知っているだろうな」
「木乃伊の話ですね。知っています。――然しお断りして置きますが、私はそれに就いて何も御返辞を申上げることは出来ませんです」
「――何故《なぜ》かね」
「つまり。つまり」
瀧川助手は云いにくそうに「実は私自身も、この邸《やしき》から出て行きたいのです」
「では、君も見たと云うのか?」
瀧川助手は答えなかった。――由井教授は暫《しばら》く黙って何か考えていたが、ふと椅子から立上って、
「僕にその王の棺《ひつぎ》を見せてくれ給え」
「――夜は出入禁止なのですが」
「先生には僕がお詫《わ》びをするよ」
由井教授は断乎《だんこ》として云った。瀧川助手は振返って、博士が長椅子の上にすやすやと寝息をたてているのを見ると、意を決したか、
「では御案内致しましょう」
と頷《うなず》いた。教授は小西次郎を見て、
「君も一緒に来給え」
瀧川助手は、洋燈《ランプ》をもって先に立ち右へ折れて十|間《けん》程行った突当りの部屋の前で立止り、
「ここです、――」
と云って扉《ドア》の鍵《かぎ》を明けた。
手提洋燈《てさげランプ》の薄暗い光で照らされた室内は実に奇妙な光景であった。壁間《へきかん》には博士が長い年月を費《ついや》して集めた古代の盾や、石斧《せきふ》や、投槍《なげやり》や、奇怪な面や、人骨や、鎧《よろい》の破片などが所狭きまでに掛列《かけなら》べてあり、部屋の殆ど中央には、幅三尺、長さ六尺ほどの頑丈な筐《はこ》が置かれてある。由井教授はその側《そば》へ近寄って、
「これが王の棺だね?」
「そうです」
「洋燈《ランプ》を見せてくれたまえ」
小西青年は教授の後から覗《のぞ》きこんだ。
棺は鉄で作られている。恐ろしく厳重な細工だ。蓋《ふた》の部分に窓が切ってあって、そこには半透明の硝子《ガラス》のようなものが篏込《はめこ》まれ、中が見えるようになっていた。――洋燈《ランプ》を近づけると、その半透明の窓の下に、無気味に枯渇《こかつ》した木乃伊の横《よこた》わっているのが見えた。全身に白布《しろぬの》を巻着《まきつ》け、顔と手だけは裸で、その手を胸の上に組んでいる。
「蓋は明かないのかね?」
「はあ、それを明けるために先生はこの半年というもの苦心なすっているのですが、どうしても開け方が分りません」
由井教授は頷いて、丹念に棺の周囲を検査してみたが、なるほどどこにも開ける手懸りは得られなかった。最後に蓋の窓に篏込んである半透明の物を叩《たた》いて、
「これは雲母《うんも》だね……」
と云ったが、
「いや有難う、もう出よう」
と起上《たちあが》り、部屋の中をずっと見廻して後、大股《おおもた》に廊下へ出て行った。
「先生! 先生※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
「由井君、そして儂は見たのだ。或る夜、――奴が水を呑み終って去る時、そっと蒲団の隙《すき》から見たのだ。ああ、なんという怖ろしい姿だったろう。果して奴は木乃伊だった。そして儂の方へ振返って……笑った」
そこまで云うと力尽きたか、厩川博士はくったりと椅子の上へ気絶して了《しま》った。――丁度そのとき扉《ドア》が明いて、助手の瀧川|駿一《しゅんいち》が入って来た。彼はその様子を見ると、口髭《くちひげ》を剃込《そりこ》んだ端麗な顔を顰《しか》めながら走り寄って、
「おや、また先生が発作を起しましたね」
と援《たす》け起し、「この頃よくこういう事があるんです。なに直ぐ恢復《かいふく》しますよ」
そう云って軽々と博士を抱上げ、隅にある寝椅子の上へ横《よこた》えた。
由井教授は瀧川助手が博士の手当をしているあいだ、深く腕組をして凝乎《じっ》と考えこんでいたが、やがて瀧川助手が戻って来ると、
「君が瀧川君だね、僕は先生の門下で由井|弘作《ひろさく》と云う者だ」
「お噂《うわさ》は先生から承わっておりました」
「いま先生から妙な話を聞いたんだが、むろん君も知っているだろうな」
「木乃伊の話ですね。知っています。――然しお断りして置きますが、私はそれに就いて何も御返辞を申上げることは出来ませんです」
「――何故《なぜ》かね」
「つまり。つまり」
瀧川助手は云いにくそうに「実は私自身も、この邸《やしき》から出て行きたいのです」
「では、君も見たと云うのか?」
瀧川助手は答えなかった。――由井教授は暫《しばら》く黙って何か考えていたが、ふと椅子から立上って、
「僕にその王の棺《ひつぎ》を見せてくれ給え」
「――夜は出入禁止なのですが」
「先生には僕がお詫《わ》びをするよ」
由井教授は断乎《だんこ》として云った。瀧川助手は振返って、博士が長椅子の上にすやすやと寝息をたてているのを見ると、意を決したか、
「では御案内致しましょう」
と頷《うなず》いた。教授は小西次郎を見て、
「君も一緒に来給え」
瀧川助手は、洋燈《ランプ》をもって先に立ち右へ折れて十|間《けん》程行った突当りの部屋の前で立止り、
「ここです、――」
と云って扉《ドア》の鍵《かぎ》を明けた。
手提洋燈《てさげランプ》の薄暗い光で照らされた室内は実に奇妙な光景であった。壁間《へきかん》には博士が長い年月を費《ついや》して集めた古代の盾や、石斧《せきふ》や、投槍《なげやり》や、奇怪な面や、人骨や、鎧《よろい》の破片などが所狭きまでに掛列《かけなら》べてあり、部屋の殆ど中央には、幅三尺、長さ六尺ほどの頑丈な筐《はこ》が置かれてある。由井教授はその側《そば》へ近寄って、
「これが王の棺だね?」
「そうです」
「洋燈《ランプ》を見せてくれたまえ」
小西青年は教授の後から覗《のぞ》きこんだ。
棺は鉄で作られている。恐ろしく厳重な細工だ。蓋《ふた》の部分に窓が切ってあって、そこには半透明の硝子《ガラス》のようなものが篏込《はめこ》まれ、中が見えるようになっていた。――洋燈《ランプ》を近づけると、その半透明の窓の下に、無気味に枯渇《こかつ》した木乃伊の横《よこた》わっているのが見えた。全身に白布《しろぬの》を巻着《まきつ》け、顔と手だけは裸で、その手を胸の上に組んでいる。
「蓋は明かないのかね?」
「はあ、それを明けるために先生はこの半年というもの苦心なすっているのですが、どうしても開け方が分りません」
由井教授は頷いて、丹念に棺の周囲を検査してみたが、なるほどどこにも開ける手懸りは得られなかった。最後に蓋の窓に篏込んである半透明の物を叩《たた》いて、
「これは雲母《うんも》だね……」
と云ったが、
「いや有難う、もう出よう」
と起上《たちあが》り、部屋の中をずっと見廻して後、大股《おおもた》に廊下へ出て行った。
[#3字下げ]三 笑う亡霊[#「三 笑う亡霊」は中見出し]
夕食の時にはどうやら博士も恢復し、食堂でみんなと卓《テーブル》を共にしたが、眉間《みけん》に刻まれた苦悶の色は消えていなかった。――食事の後で書斎へ引取り、瀧川助手の運んで来た紅茶を啜《すす》りながら、由井教授は、
「先生、暫く何処《どこ》かへ静養にいらしたら如何《いかが》ですか、少しお疲れが過ぎます」
「いや駄目だ」
博士は頭を振って、「儂は学術のために死ぬのは決して厭いはせぬ、死ぬまで研究から離れることは出来ない。――もし儂が死んだら、由井君、是非とも儂の研究を受継いでやってくれ、それだけを頼んで置く」
「それは悦んでお受け致しますが」
「ではもう寝よう、否《いや》――君たちの部屋は二階にとらせてある。儂と一緒にいれば君たちにまで呪いが懸るだろう。どうか二階で寝てくれ給え、また明日会おう」
同じ部屋で寝ることを博士はどうしても承知しなかった。――やがて瀧川助手の案内で、由井教授と小西青年は二階へあがった。
寝台へ上ると直ぐ教授は洋燈《ランプ》を消した。戸外は夕方から吹き始めた風で、邸を取巻く密林が物凄《ものすご》い呻声《うめきごえ》をあげている。小西次郎はさっきからの奇怪な話や、無気味な棺の中に見た木乃伊の幻が、今にも眼前《めのまえ》に現われるような気がして、思わず蒲団の中へもぐり込んでいると、凡《およ》そ三十分も経《た》った頃、不意に肩へ触るもの[#「もの」に傍点]があった。
「――あッ」
思わず恐怖の叫びをあげようとした時、――叱《し》ッと由井教授の制する声がした。
「静かに、――起き給え」
「先生ですか」
「そうだ、起きて服を着給え」
小西は唯々《いい》として命《めい》に服した。
「支度が出来たら行こう。――足許《あしもと》に気をつけ給え、洋燈《ランプ》はつけないから」
「どうなさるのですか」
「さっきの部屋へ行くのだ。助手の瀧川まで木乃伊の亡霊を信じているとすると、単に博士の幻覚とは思えない、――今夜はあの棺の側で夜を明かしてみよう」
小西青年は遉《さすが》に驚いたが、勇を鼓して教授と共に暗い廊下へ出た。――由井教授はいつどうして手に入れたのか扉《ドア》の鍵を持っていて、例の部屋の前へ来ると手早く鍵を開けた。
「早く入り給え」
と云って中へ入るなり、再び内から鍵をかけた。そして用意して来た手提|洋燈《ランプ》に火をつけると、大股に棺へ近寄って中を覗きこんだ。
「大丈夫、木乃伊先生は御在宅だ」
気軽に云って振返り、部屋の隅にある古びた椅子にどっかり腰を下した。
厚い石壁を透《とお》して、戸外の風の音は凄《すさま》じく響いて来る。建物の中は森寂《しん》として物の気配もしない。――小西青年はそっと四辺《あたり》を見廻した。部屋の中に在るものは皆、五千年も六千年も昔の物である。白い白骨も曾《かつ》ては活《い》き、闘《たたか》い、笑った時があるのだ。凝乎《じっ》と見ていると、浅ましく乾《ひ》からび、朽果てたそれらの物が、動きだしそうな気味悪さを感ぜずにはいられない。
――小西青年は見ていることが恐ろしくなって、思わず眼を閉じて了った。三十分も経《た》ったであろうか、
「あ――いかん、石油が切れていた」
教授が舌打をして呟いたと思うと、洋燈《ランプ》の燈《ひ》がジリジリと二三|度《ど》瞬《またた》いて、ぼーと消えて了った。
「消えましたね」
そう云った小西青年の声はひどく慄えていた。
「消えた方が宜《よ》いだろう。もし木乃伊先生が動きだすとしたら、暗い方が都合が宜いに違いない」
「然し、本当にそんな事があるでしょうか」
「さあな、科学で説明できるものか……」
云いかけ教授は、不意に、
「――叱《し》ッ」
と自ら制した。
――鼻先も見えぬ闇《やみ》の中に、二人の眼前《めのまえ》数|呎《フィート》のところへ、……ぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と青白く浮びあがったものがあるのだ。――それは正《まさ》に木乃伊の棺のあたりである。
小西次郎は総身へ水を浴びたように、慄然《りつぜん》としながら先生――と呼ぼうとした。するとどうした事か急に舌が動かなくなった。恐怖のあまり椅子から起上ろうとしたが、体が痺《しび》れて身動きも出来ない。あっ[#「あっ」に傍点]と思うとそのまま崩れるように床の上へ転げ落ちた。
由井教授はその物音を聞いた。そしてその方へ手を差出そうとしたが、これもいつか体の自由が利《き》かなくなっている。
「ああいかん」
と思った時は、頭の蕊《しん》が朦朧《もうろう》として来て、小西青年と同じように椅子から崩れ落ちた。
然しそれでもまだ、二人とも眼だけは見ることが出来た。――濃い暗《やみ》がある、……青白い燐《りん》のようなものが見える。――そして、全身を汚《よご》れた白布《しろぬの》で巻き、顔《かお》と手《て》だけを現《あら》わした木乃伊が……棺の側にはっきりと現われたのを――。はっきりと二人は見たのだ。
厩川博士の話は事実だった。木乃伊は棺の側に現われた。そして音もなく由井教授の方へ近寄って来た木乃伊の周囲には、不思議な光が燃えている。そのかすかな光で皮膚の乾《ひ》からびた恐ろしい顔がはっきりと……そして、そのぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような顔で、由井教授を覗きこみながら――白い歯を剥出《むきだ》してへらへらと笑うのだ。
恐怖のあまり小西青年は気を失った。
「先生、暫く何処《どこ》かへ静養にいらしたら如何《いかが》ですか、少しお疲れが過ぎます」
「いや駄目だ」
博士は頭を振って、「儂は学術のために死ぬのは決して厭いはせぬ、死ぬまで研究から離れることは出来ない。――もし儂が死んだら、由井君、是非とも儂の研究を受継いでやってくれ、それだけを頼んで置く」
「それは悦んでお受け致しますが」
「ではもう寝よう、否《いや》――君たちの部屋は二階にとらせてある。儂と一緒にいれば君たちにまで呪いが懸るだろう。どうか二階で寝てくれ給え、また明日会おう」
同じ部屋で寝ることを博士はどうしても承知しなかった。――やがて瀧川助手の案内で、由井教授と小西青年は二階へあがった。
寝台へ上ると直ぐ教授は洋燈《ランプ》を消した。戸外は夕方から吹き始めた風で、邸を取巻く密林が物凄《ものすご》い呻声《うめきごえ》をあげている。小西次郎はさっきからの奇怪な話や、無気味な棺の中に見た木乃伊の幻が、今にも眼前《めのまえ》に現われるような気がして、思わず蒲団の中へもぐり込んでいると、凡《およ》そ三十分も経《た》った頃、不意に肩へ触るもの[#「もの」に傍点]があった。
「――あッ」
思わず恐怖の叫びをあげようとした時、――叱《し》ッと由井教授の制する声がした。
「静かに、――起き給え」
「先生ですか」
「そうだ、起きて服を着給え」
小西は唯々《いい》として命《めい》に服した。
「支度が出来たら行こう。――足許《あしもと》に気をつけ給え、洋燈《ランプ》はつけないから」
「どうなさるのですか」
「さっきの部屋へ行くのだ。助手の瀧川まで木乃伊の亡霊を信じているとすると、単に博士の幻覚とは思えない、――今夜はあの棺の側で夜を明かしてみよう」
小西青年は遉《さすが》に驚いたが、勇を鼓して教授と共に暗い廊下へ出た。――由井教授はいつどうして手に入れたのか扉《ドア》の鍵を持っていて、例の部屋の前へ来ると手早く鍵を開けた。
「早く入り給え」
と云って中へ入るなり、再び内から鍵をかけた。そして用意して来た手提|洋燈《ランプ》に火をつけると、大股に棺へ近寄って中を覗きこんだ。
「大丈夫、木乃伊先生は御在宅だ」
気軽に云って振返り、部屋の隅にある古びた椅子にどっかり腰を下した。
厚い石壁を透《とお》して、戸外の風の音は凄《すさま》じく響いて来る。建物の中は森寂《しん》として物の気配もしない。――小西青年はそっと四辺《あたり》を見廻した。部屋の中に在るものは皆、五千年も六千年も昔の物である。白い白骨も曾《かつ》ては活《い》き、闘《たたか》い、笑った時があるのだ。凝乎《じっ》と見ていると、浅ましく乾《ひ》からび、朽果てたそれらの物が、動きだしそうな気味悪さを感ぜずにはいられない。
――小西青年は見ていることが恐ろしくなって、思わず眼を閉じて了った。三十分も経《た》ったであろうか、
「あ――いかん、石油が切れていた」
教授が舌打をして呟いたと思うと、洋燈《ランプ》の燈《ひ》がジリジリと二三|度《ど》瞬《またた》いて、ぼーと消えて了った。
「消えましたね」
そう云った小西青年の声はひどく慄えていた。
「消えた方が宜《よ》いだろう。もし木乃伊先生が動きだすとしたら、暗い方が都合が宜いに違いない」
「然し、本当にそんな事があるでしょうか」
「さあな、科学で説明できるものか……」
云いかけ教授は、不意に、
「――叱《し》ッ」
と自ら制した。
――鼻先も見えぬ闇《やみ》の中に、二人の眼前《めのまえ》数|呎《フィート》のところへ、……ぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と青白く浮びあがったものがあるのだ。――それは正《まさ》に木乃伊の棺のあたりである。
小西次郎は総身へ水を浴びたように、慄然《りつぜん》としながら先生――と呼ぼうとした。するとどうした事か急に舌が動かなくなった。恐怖のあまり椅子から起上ろうとしたが、体が痺《しび》れて身動きも出来ない。あっ[#「あっ」に傍点]と思うとそのまま崩れるように床の上へ転げ落ちた。
由井教授はその物音を聞いた。そしてその方へ手を差出そうとしたが、これもいつか体の自由が利《き》かなくなっている。
「ああいかん」
と思った時は、頭の蕊《しん》が朦朧《もうろう》として来て、小西青年と同じように椅子から崩れ落ちた。
然しそれでもまだ、二人とも眼だけは見ることが出来た。――濃い暗《やみ》がある、……青白い燐《りん》のようなものが見える。――そして、全身を汚《よご》れた白布《しろぬの》で巻き、顔《かお》と手《て》だけを現《あら》わした木乃伊が……棺の側にはっきりと現われたのを――。はっきりと二人は見たのだ。
厩川博士の話は事実だった。木乃伊は棺の側に現われた。そして音もなく由井教授の方へ近寄って来た木乃伊の周囲には、不思議な光が燃えている。そのかすかな光で皮膚の乾《ひ》からびた恐ろしい顔がはっきりと……そして、そのぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような顔で、由井教授を覗きこみながら――白い歯を剥出《むきだ》してへらへらと笑うのだ。
恐怖のあまり小西青年は気を失った。
[#3字下げ]四 象形文字の謎[#「四 象形文字の謎」は中見出し]
「気分はどうだね」
そう云う由井教授の声に、ふと眼を覚してみると、小西次郎はいつか朝日の清々《すがすが》しくさしている二階の寝室に寝ていた。
「おや、どうして僕は」
と恟《びっく》りしながら起上る。
「驚かなくても宜《い》いよ」
教授は微笑して、「今朝、まだ夜の明けぬうちに僕が運んで来てやったんだ」
「そうでしたか、――まるで、まるで」
「夢のようだと云うんだろう?――全く夢のような眼に会ったからな」
「――先生」
小西はまだ恐怖の去らぬ眼つきで云った。
「ゆうべ見たあれは、……」
「慥《たしか》に木乃伊だった」
「じゃあ、矢張り夢じゃなかったのですね。僕にはなんだか」
「木乃伊だったよ、慥に」
教授はもう一度云った。「あの乾からびた手足、皺《しわ》だらけの恐ろしい顔、あの凄い笑い声は……今でも僕には忘れられない」
「見ました、見ました」
「動きだす木乃伊、――そして君も僕も、木乃伊の呪縛《じゅそ》にかかって気絶した。正に恐るべき呪いだ。然し……」
と云いかけた時、蒙古人の下男が入って来て、食事の支度の出来たことを知らせた。
食卓には昨夜よりも一層衰弱した厩川博士が待っていた。瀧川助手は気遣わしげに、側から博士の介添をする。食事は言葉すくなに終って、一同は博士の書斎へ入った。――博士が昨夜も木乃伊の亡霊に苦しめられた事は、額に刻まれた深い皺でよく分る。由井教授は痛ましげにそれを見やりながら、
「先生――」
と身を乗出した。「是非とも肯《き》いて頂きたいお願いがあるんですが」
「云ってみ給え」
「あの木乃伊の棺の研究を私に任せて下さいませんか、このまま置いては先生のお命が危いと思います」
「それはまだ不承知だよ」
「然し私には見ていられません。それに、実はあの棺の開け方が分りそうなのです」
「なに、あれが開けられる?」
博士は勿論、小西次郎も、側にいた瀧川助手も意外な言葉に眼を瞠《みは》った。
「儂が半年もかかって開けられぬものを、君に開ける事が出来ると云うのか」
「未《ま》だほんのヒントを掴《つか》んだばかりで、もう少ししてみないと分りませんが、多分出来るだろうと思うのです。その方法や説明は完全に分ってから申上げます」
「そうか、――」
博士は頷いて。「宜《よろ》しい、やってみ給え、もし棺が開いたら、あとの研究は君に任せよう」
「有難う存じます。必ず開けてみましょう」
そう云って由井教授は起上《たちあが》った。
二階へ戻って来ると。由井教授は書物卓子《かきものテーブル》の上へ一枚の紙を披《ひろ》げ、ペンを執ってせっせと何か書きつけ始めた。――小西青年が覗いて見ると、教授は紙の上に、古代の象形文字(動物や木の形で文字を表わしたもの)をしきりに書いている。
「先生、それは古代モンゴリア族の使った象形文字ではありませんか」
「いや少し違う。モンゴリア系ではあるが例の『蝎族《かつぞく》』の使ったものさ。だがひと眼でそれが分れば君の頭脳《あたま》も悪い方ではないよ」
「然し――それは何なのですか?」
「あの棺を開ける鍵さ」
「え?――どうしてそれを、いや何処《どこ》からみつけていらしったのです」
「暫く黙っていてくれ給え、この文字を解けば何もかも分るのだ。あの棺の中の秘密も、それから夜中遊行《やちゅうゆうこう》する木乃伊の謎も」
そう云って由井教授はせっせと象形文字の飜訳《ほんやく》を続けた。――それから一時間ほど、少しも休まずに筆を動かしていた教授は、やがて疲れたものか、
「ああ眼が痛い、少し休もう」
と云って椅子から起ち、
「庭の方でも歩いて来ようか」
と煙草《たばこ》に火をつけながら部屋を出た。
昨夜の暴風にひきかえ、今日は気持よく晴れた空に、初夏の太陽が燦々《さんさん》と輝いている。教授は旨《うま》そうに煙草をふかしながら、小西青年を従えて二十分ほど樹間を歩き廻った後、再び元の部屋へ帰って来た。そして、
「さあ、もう直ぐ終るぞ」
と云いながら椅子に掛けようとした時、卓子《テーブル》の上に置いてあった紙片を見て、
「来たな、……矢張りそうか」
と謎のような言葉を呟き、微《かす》かに唇のあたりへにっと薄笑いを浮かべた。
そう云う由井教授の声に、ふと眼を覚してみると、小西次郎はいつか朝日の清々《すがすが》しくさしている二階の寝室に寝ていた。
「おや、どうして僕は」
と恟《びっく》りしながら起上る。
「驚かなくても宜《い》いよ」
教授は微笑して、「今朝、まだ夜の明けぬうちに僕が運んで来てやったんだ」
「そうでしたか、――まるで、まるで」
「夢のようだと云うんだろう?――全く夢のような眼に会ったからな」
「――先生」
小西はまだ恐怖の去らぬ眼つきで云った。
「ゆうべ見たあれは、……」
「慥《たしか》に木乃伊だった」
「じゃあ、矢張り夢じゃなかったのですね。僕にはなんだか」
「木乃伊だったよ、慥に」
教授はもう一度云った。「あの乾からびた手足、皺《しわ》だらけの恐ろしい顔、あの凄い笑い声は……今でも僕には忘れられない」
「見ました、見ました」
「動きだす木乃伊、――そして君も僕も、木乃伊の呪縛《じゅそ》にかかって気絶した。正に恐るべき呪いだ。然し……」
と云いかけた時、蒙古人の下男が入って来て、食事の支度の出来たことを知らせた。
食卓には昨夜よりも一層衰弱した厩川博士が待っていた。瀧川助手は気遣わしげに、側から博士の介添をする。食事は言葉すくなに終って、一同は博士の書斎へ入った。――博士が昨夜も木乃伊の亡霊に苦しめられた事は、額に刻まれた深い皺でよく分る。由井教授は痛ましげにそれを見やりながら、
「先生――」
と身を乗出した。「是非とも肯《き》いて頂きたいお願いがあるんですが」
「云ってみ給え」
「あの木乃伊の棺の研究を私に任せて下さいませんか、このまま置いては先生のお命が危いと思います」
「それはまだ不承知だよ」
「然し私には見ていられません。それに、実はあの棺の開け方が分りそうなのです」
「なに、あれが開けられる?」
博士は勿論、小西次郎も、側にいた瀧川助手も意外な言葉に眼を瞠《みは》った。
「儂が半年もかかって開けられぬものを、君に開ける事が出来ると云うのか」
「未《ま》だほんのヒントを掴《つか》んだばかりで、もう少ししてみないと分りませんが、多分出来るだろうと思うのです。その方法や説明は完全に分ってから申上げます」
「そうか、――」
博士は頷いて。「宜《よろ》しい、やってみ給え、もし棺が開いたら、あとの研究は君に任せよう」
「有難う存じます。必ず開けてみましょう」
そう云って由井教授は起上《たちあが》った。
二階へ戻って来ると。由井教授は書物卓子《かきものテーブル》の上へ一枚の紙を披《ひろ》げ、ペンを執ってせっせと何か書きつけ始めた。――小西青年が覗いて見ると、教授は紙の上に、古代の象形文字(動物や木の形で文字を表わしたもの)をしきりに書いている。
「先生、それは古代モンゴリア族の使った象形文字ではありませんか」
「いや少し違う。モンゴリア系ではあるが例の『蝎族《かつぞく》』の使ったものさ。だがひと眼でそれが分れば君の頭脳《あたま》も悪い方ではないよ」
「然し――それは何なのですか?」
「あの棺を開ける鍵さ」
「え?――どうしてそれを、いや何処《どこ》からみつけていらしったのです」
「暫く黙っていてくれ給え、この文字を解けば何もかも分るのだ。あの棺の中の秘密も、それから夜中遊行《やちゅうゆうこう》する木乃伊の謎も」
そう云って由井教授はせっせと象形文字の飜訳《ほんやく》を続けた。――それから一時間ほど、少しも休まずに筆を動かしていた教授は、やがて疲れたものか、
「ああ眼が痛い、少し休もう」
と云って椅子から起ち、
「庭の方でも歩いて来ようか」
と煙草《たばこ》に火をつけながら部屋を出た。
昨夜の暴風にひきかえ、今日は気持よく晴れた空に、初夏の太陽が燦々《さんさん》と輝いている。教授は旨《うま》そうに煙草をふかしながら、小西青年を従えて二十分ほど樹間を歩き廻った後、再び元の部屋へ帰って来た。そして、
「さあ、もう直ぐ終るぞ」
と云いながら椅子に掛けようとした時、卓子《テーブル》の上に置いてあった紙片を見て、
「来たな、……矢張りそうか」
と謎のような言葉を呟き、微《かす》かに唇のあたりへにっと薄笑いを浮かべた。
[#3字下げ]五 木乃伊の殺人[#「五 木乃伊の殺人」は中見出し]
博士にとって、夜は恐怖そのものであるので、その夜の晩餐《ばんさん》も隠気だった。小西青年も瀧川助手も、避け難い深夜の怪異が思われて、食事の味さえ殆ど分らぬ様子だった。――由井教授だけは平然として、
「先生、一日掛りでようやく棺を開ける法式が解けました。――恐らく間違いないと思いますから明日実験してみましょう」
と云った。博士は、
「それは結構だ。然しどうしてやるのか」
「それは明日実験の時に申上げます。――決して失敗はないと思います。何もかも明日になれば分ります。あらゆる秘密が……」
そう云って由井教授は食卓を起つと、
「瀧川君、済まんが僕たちの珈琲《コーヒー》は二階へ運んでくれませんか、仕事を急ぐから」
「承知しました」
「では先生、また明朝」
と云ってから、改めて、「どうか元気をお失《な》くしにならないで下さい。先生のお苦しみも恐らく今夜で終りますから」
囁《ささや》くように云って食堂を出た。――そのまま直ぐ二階へ戻ると、小西青年が不審そうに、
「先生、本当にあの棺が開くのですか」
「まあ黙って見てい給え、何もかも直ぐ分るんだ。恐らく夜の明けぬ内に……」
「あの木乃伊の亡霊もですか?」
「ああ珈琲が来た」
瀧川助手が珈琲を運んで来た。――教授はそれを受取って、すぐ茶碗《ちゃわん》を取上げたが、瀧川助手が挨拶《あいさつ》をして去ると、口まで持って行った珈琲を呑まずに下へ置いて、
「そうさ、木乃伊の亡霊もね、――ああ君、珈琲を呑むのは止《よ》し給え」
「どうしてですか」
「なに、眠れなくなるといかんからさ」
そう云って教授は大きな伸びをした。
二人は間もなく洋燈《ランプ》を消して寝台へ入った。教授の命令で、……小西青年はいつでもとび出せる用意に、服を着けたままだ。……小西青年には教授が何を考え、何を為《な》そうとしているのか分らなかったが、ただ何かしら異常な事件が迫っているという予想だけはついた。教授の緊張しきった様子にも、歴々《ありあり》とそれが見えていた。
時間は考えられぬくらい遅々と経って行った。階下の大時計が十二時を打った。――何事も起らない、……やがて一時を打った。
「昨夜の今頃だよ、あの亡霊の出たのは、そら――歩いて来る」
由井教授が囁いた。――小西次郎はぶるっ[#「ぶるっ」に傍点]と身慄いをした。まるで教授の言葉に答える如《ごと》く、静かに階段を上って来る跫音《あしおと》が聞えるのだ。
「せ、先生、あれは」
「黙って、――」
教授が制した。――跫音はひそかに近寄って来た。そして……やがてその部屋の前で停ったと思うと、音もなく扉《ドア》が明いた。小西次郎は恐怖の絶頂にいながらも、恐る恐る薄眼をあけて見ると、……闇の中に、白い人影が立っている。
――木乃伊だ。
正に木乃伊である。影のように立って、眤《じっ》と部屋の中を見戌《みまも》っている、小西青年は危く叫びそうになって口を押え、眼を閉じた。
「おい、小西君」
暫くして耳許で由井教授の声がした。
「起き給え」
「然し、先生、木伊乃が……」
「早くするんだ」
教授は小西青年の手を掴んで引起《ひきおこ》した。
靴は穿《は》かず、猫のように跫音を忍ばせながら廊下へ出る、階段を静かに下りると、階下の闇の中にぼんやり浮いて見えたのは木乃伊の影、――すうっ[#「すうっ」に傍点]と例の部屋へ吸込まれるように入って行くのを凝っと見守った。
「先生、やっぱり木乃伊です」
「それは分っているんだ、――静かに、……」
教授はいつか右手に護身用の小型|拳銃《けんじゅう》を握って、そっとその部屋の前へ進んだ。――とその刹那《せつな》であった、部屋の中から、人の胸を引裂くような声で、
「キャ――ッ」
と云う悲鳴が起った。同時に教授は、
「小西、来給え!」
と叫んで部屋の中へ踏込んだ。
「あっ!」「ああっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
教授も小西も、余りに怪奇な光景を見て、同時に呻きながら立竦《たちすく》んだ。
例の棺の蓋が開いて、すくっと[#「すくっと」に傍点]王の木伊乃が立っている、そして棺の前にもう一体の木伊乃が倒れ、これは血まみれになって転げ廻っている。――見ると棺の中に立っている木伊乃の脇《わき》から鋭い剣が突出ていて、それが生々しく血に染《し》んでいた。これらの光景は、床に置いてある手提|洋燈《ランプ》の灯《ひ》に照らされて、形容の出来ぬ凄惨《せいさん》さに揺れていた。
「小西君、手を貸し給え」
教授は決然と叫ぶや、大股に近寄って、苦しげに転げ廻っている木乃伊を引起した。
「見給え、これが厩川先生を苦しめた木乃伊の正体だ」
「――あ、瀧川!」
それは意外にも瀧川助手だった。
「そう、瀧川の奴さ、そして彼にこんな罪を犯させた原因は、――これだ」
そう云って教授は手提|洋燈《ランプ》を取上げ、蓋の開いている棺の中を照した。見ると、――棺は二重底になっていて、木乃伊のはね上ったあとに、燦然《さんぜん》と輝いている無数の宝玉、黄金財宝の類がぎっしり詰っていた。
「先生、一日掛りでようやく棺を開ける法式が解けました。――恐らく間違いないと思いますから明日実験してみましょう」
と云った。博士は、
「それは結構だ。然しどうしてやるのか」
「それは明日実験の時に申上げます。――決して失敗はないと思います。何もかも明日になれば分ります。あらゆる秘密が……」
そう云って由井教授は食卓を起つと、
「瀧川君、済まんが僕たちの珈琲《コーヒー》は二階へ運んでくれませんか、仕事を急ぐから」
「承知しました」
「では先生、また明朝」
と云ってから、改めて、「どうか元気をお失《な》くしにならないで下さい。先生のお苦しみも恐らく今夜で終りますから」
囁《ささや》くように云って食堂を出た。――そのまま直ぐ二階へ戻ると、小西青年が不審そうに、
「先生、本当にあの棺が開くのですか」
「まあ黙って見てい給え、何もかも直ぐ分るんだ。恐らく夜の明けぬ内に……」
「あの木乃伊の亡霊もですか?」
「ああ珈琲が来た」
瀧川助手が珈琲を運んで来た。――教授はそれを受取って、すぐ茶碗《ちゃわん》を取上げたが、瀧川助手が挨拶《あいさつ》をして去ると、口まで持って行った珈琲を呑まずに下へ置いて、
「そうさ、木乃伊の亡霊もね、――ああ君、珈琲を呑むのは止《よ》し給え」
「どうしてですか」
「なに、眠れなくなるといかんからさ」
そう云って教授は大きな伸びをした。
二人は間もなく洋燈《ランプ》を消して寝台へ入った。教授の命令で、……小西青年はいつでもとび出せる用意に、服を着けたままだ。……小西青年には教授が何を考え、何を為《な》そうとしているのか分らなかったが、ただ何かしら異常な事件が迫っているという予想だけはついた。教授の緊張しきった様子にも、歴々《ありあり》とそれが見えていた。
時間は考えられぬくらい遅々と経って行った。階下の大時計が十二時を打った。――何事も起らない、……やがて一時を打った。
「昨夜の今頃だよ、あの亡霊の出たのは、そら――歩いて来る」
由井教授が囁いた。――小西次郎はぶるっ[#「ぶるっ」に傍点]と身慄いをした。まるで教授の言葉に答える如《ごと》く、静かに階段を上って来る跫音《あしおと》が聞えるのだ。
「せ、先生、あれは」
「黙って、――」
教授が制した。――跫音はひそかに近寄って来た。そして……やがてその部屋の前で停ったと思うと、音もなく扉《ドア》が明いた。小西次郎は恐怖の絶頂にいながらも、恐る恐る薄眼をあけて見ると、……闇の中に、白い人影が立っている。
――木乃伊だ。
正に木乃伊である。影のように立って、眤《じっ》と部屋の中を見戌《みまも》っている、小西青年は危く叫びそうになって口を押え、眼を閉じた。
「おい、小西君」
暫くして耳許で由井教授の声がした。
「起き給え」
「然し、先生、木伊乃が……」
「早くするんだ」
教授は小西青年の手を掴んで引起《ひきおこ》した。
靴は穿《は》かず、猫のように跫音を忍ばせながら廊下へ出る、階段を静かに下りると、階下の闇の中にぼんやり浮いて見えたのは木乃伊の影、――すうっ[#「すうっ」に傍点]と例の部屋へ吸込まれるように入って行くのを凝っと見守った。
「先生、やっぱり木乃伊です」
「それは分っているんだ、――静かに、……」
教授はいつか右手に護身用の小型|拳銃《けんじゅう》を握って、そっとその部屋の前へ進んだ。――とその刹那《せつな》であった、部屋の中から、人の胸を引裂くような声で、
「キャ――ッ」
と云う悲鳴が起った。同時に教授は、
「小西、来給え!」
と叫んで部屋の中へ踏込んだ。
「あっ!」「ああっ※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
教授も小西も、余りに怪奇な光景を見て、同時に呻きながら立竦《たちすく》んだ。
例の棺の蓋が開いて、すくっと[#「すくっと」に傍点]王の木伊乃が立っている、そして棺の前にもう一体の木伊乃が倒れ、これは血まみれになって転げ廻っている。――見ると棺の中に立っている木伊乃の脇《わき》から鋭い剣が突出ていて、それが生々しく血に染《し》んでいた。これらの光景は、床に置いてある手提|洋燈《ランプ》の灯《ひ》に照らされて、形容の出来ぬ凄惨《せいさん》さに揺れていた。
「小西君、手を貸し給え」
教授は決然と叫ぶや、大股に近寄って、苦しげに転げ廻っている木乃伊を引起した。
「見給え、これが厩川先生を苦しめた木乃伊の正体だ」
「――あ、瀧川!」
それは意外にも瀧川助手だった。
「そう、瀧川の奴さ、そして彼にこんな罪を犯させた原因は、――これだ」
そう云って教授は手提|洋燈《ランプ》を取上げ、蓋の開いている棺の中を照した。見ると、――棺は二重底になっていて、木乃伊のはね上ったあとに、燦然《さんぜん》と輝いている無数の宝玉、黄金財宝の類がぎっしり詰っていた。
翌る朝|爽《さわや》かな風の吹通るヴェランダの椅子にかけて、由井教授は厩川博士と小西青年に事件の説明をしていた。
「瀧川は、棺の側面に彫りつけてある文字を判断して、二重底の中に『王の財宝』が納めてある事を知っていたのです。それを自分の物にしたいと考えた結果、木乃伊の亡霊の姿をして先生や下男たちを脅かし、誰も近づかないようにしておいて夜毎《よごと》あの部屋へ入り、独りで棺を開ける方法を捜していたのです。――夕食の後で出す珈琲や紅茶には、彼が一種の緩麻睡剤《かんますいざい》を入れて置いたのです。そして麻睡剤が利き始める頃――つまり意識が朦朧となる頃を見計らって木乃伊の姿を見せるのです。それは第一夜、僕と小西君とで経験した通り、あの眩暈《めまい》が始まった時に見るので、亡霊の姿は一層恐ろしく、また怪異に思えるのです」
教授は息をついで続けた。
「――僕は最初の夜、木乃伊の現われるまえ、闇の中に青白いものが光るのを見ました。――小西君も覚えているだろう」
「覚えています」
「――僕は麻睡剤から早く醒《さ》めた。そしてあの青白いもの[#「もの」に傍点]が何であるか検《しら》べたのだ。――すると、それは棺の蓋に篏込んである、あの窓の雲母から放つ光だった。然《しか》もそれは燐《りん》で描《えが》いた象形文字だったのだ」
「象形文字だって?」
博士が驚いて訊《き》いた。
「そうです、その象形文字こそ、あの棺を開ける法式を認《したた》めたものでした。――昼間の光や洋燈《ランプ》の下で探しては絶対に分らない、つまり闇でしか分らない燐で書かれていたのです」
と教授は熱心に語り続ける。「僕は早速その文字を飜訳《ほんやく》しました。しかし最後の一章だけは、故意に抜かして飜訳して置かなかった最後の一章と云うのは、『されどもし汝《なんじ》、この章を読まずして蓋を開くる時は、王の剣を以《もっ》て死に至るべし』と云う象形文字だったのです。つまり盗賊などに襲われた時の用心だったのでしょう。――僕は態《わざ》とその一章を訳さずに置いて庭へ歩きに出ました。先生の前で、棺を開ける方法が分った……と申上げたのも、庭へ散歩に出たのも、この訳した文章を瀧川に読ませたかったからです。果して彼は盗み読みをしました。――その結果はあの通りでした、不用意に開けた刹那、中底が木乃伊と共に跳上り、王の剣であっ[#「あっ」に傍点]と云う間もなく刺されたのです」
語り終って由井教授はほっと太息《といき》をした。なんという明智《めいち》であろう。――小西次郎は始めて、あの珈琲を呑むなと云った教授の言葉が分った。
「――彼を傷《きずつ》けずに捕える法もありました。然し一週間の傷が、却《かえ》って彼の身には心底《しんてい》から耐《こた》えることでしょう。これを機会に彼が善心に戻るなら……と思うのです」
由井教授の声は同情の顫《ふる》えを帯びて響いた。――昨日《きのう》まで死の影に包まれていたこの別邸の上に、初夏の日はいま活々《いきいき》と濃い緑の色をうつしている。
「瀧川は、棺の側面に彫りつけてある文字を判断して、二重底の中に『王の財宝』が納めてある事を知っていたのです。それを自分の物にしたいと考えた結果、木乃伊の亡霊の姿をして先生や下男たちを脅かし、誰も近づかないようにしておいて夜毎《よごと》あの部屋へ入り、独りで棺を開ける方法を捜していたのです。――夕食の後で出す珈琲や紅茶には、彼が一種の緩麻睡剤《かんますいざい》を入れて置いたのです。そして麻睡剤が利き始める頃――つまり意識が朦朧となる頃を見計らって木乃伊の姿を見せるのです。それは第一夜、僕と小西君とで経験した通り、あの眩暈《めまい》が始まった時に見るので、亡霊の姿は一層恐ろしく、また怪異に思えるのです」
教授は息をついで続けた。
「――僕は最初の夜、木乃伊の現われるまえ、闇の中に青白いものが光るのを見ました。――小西君も覚えているだろう」
「覚えています」
「――僕は麻睡剤から早く醒《さ》めた。そしてあの青白いもの[#「もの」に傍点]が何であるか検《しら》べたのだ。――すると、それは棺の蓋に篏込んである、あの窓の雲母から放つ光だった。然《しか》もそれは燐《りん》で描《えが》いた象形文字だったのだ」
「象形文字だって?」
博士が驚いて訊《き》いた。
「そうです、その象形文字こそ、あの棺を開ける法式を認《したた》めたものでした。――昼間の光や洋燈《ランプ》の下で探しては絶対に分らない、つまり闇でしか分らない燐で書かれていたのです」
と教授は熱心に語り続ける。「僕は早速その文字を飜訳《ほんやく》しました。しかし最後の一章だけは、故意に抜かして飜訳して置かなかった最後の一章と云うのは、『されどもし汝《なんじ》、この章を読まずして蓋を開くる時は、王の剣を以《もっ》て死に至るべし』と云う象形文字だったのです。つまり盗賊などに襲われた時の用心だったのでしょう。――僕は態《わざ》とその一章を訳さずに置いて庭へ歩きに出ました。先生の前で、棺を開ける方法が分った……と申上げたのも、庭へ散歩に出たのも、この訳した文章を瀧川に読ませたかったからです。果して彼は盗み読みをしました。――その結果はあの通りでした、不用意に開けた刹那、中底が木乃伊と共に跳上り、王の剣であっ[#「あっ」に傍点]と云う間もなく刺されたのです」
語り終って由井教授はほっと太息《といき》をした。なんという明智《めいち》であろう。――小西次郎は始めて、あの珈琲を呑むなと云った教授の言葉が分った。
「――彼を傷《きずつ》けずに捕える法もありました。然し一週間の傷が、却《かえ》って彼の身には心底《しんてい》から耐《こた》えることでしょう。これを機会に彼が善心に戻るなら……と思うのです」
由井教授の声は同情の顫《ふる》えを帯びて響いた。――昨日《きのう》まで死の影に包まれていたこの別邸の上に、初夏の日はいま活々《いきいき》と濃い緑の色をうつしている。
底本:「周五郎少年文庫 木乃伊屋敷の秘密 怪奇小説集」新潮文庫、新潮社
2018(平成30)年11月1日発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年6月号
初出:「新少年」
1937(昭和12)年6月号
※表題は底本では、「木乃伊《ミイラ》屋敷の秘密」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2018(平成30)年11月1日発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年6月号
初出:「新少年」
1937(昭和12)年6月号
※表題は底本では、「木乃伊《ミイラ》屋敷の秘密」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ