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  • 深川安楽亭

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深川安楽亭

最終更新:2019年11月01日 08:17

harukaze_lab

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深川安楽亭
山本周五郎

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伴《つ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四|帖《じょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#6字下げ]
-------------------------------------------------------

[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]

 その客は初めて来た晩に「おれはここを知っている」と云った。
 人の多い晩で、夕方から若い者がみんな集まっていた。与兵衛、定七、政次、由之助。それから「灘文」の小平が人を伴《つ》れて来ていたし、釜場には仙吉と源三もいた。この安楽亭は、知らない人間ははいれない。「うっかりあの島へはいると二度と出て来られない」といわれているくらいで、その客がはいって来たとき、誰か気がついていたら断わった筈である。だが店が混んでいたために、誰も知らなかった。彼はコの字なりになっている飯台の、いちばん隅に腰をかけ、独りで黙って飲んでいたが、みんなの話がちょっととぎれたとき、ふっと、「おれはここを知っているぜ」と云った。その声はかなり高かったので、みんなそちらへ振向き、初めてそこに、見知らぬ客のいることに気づいた。
 いちばん近くにいた定七は、暫く相手を眺めていて、それからおやじの幾造を見た。幾造は飯台の向うで酒の燗《かん》をしながら、「灘文」の小平と話していたが、その客の言葉は聞えたにちがいない。しかし、定七がうかがうように見ると、幾造は「構うな」というふうに、黙って首を振った。
 次にその客が来たのは、まだ明るい時刻で、店には幾造の娘のおみつ[#「みつ」に傍点]がいた。おみつ[#「みつ」に傍点]は燗鍋《かんなべ》の下の火をもしつけていたが、はいって来た客を見ると、団扇《うちわ》の手を止めて立ちあがり、片手の甲で汗を拭きながら、じっとその客を見まもった。客はこのまえと同じ隅へいって腰をかけ、おみつ[#「みつ」に傍点]に向って「酒だ」と云った。おみつ[#「みつ」に傍点]は客を見まもっており、客は腰から莨入《たばこいれ》を取って、巧みに燧石《ひうちいし》を使いながら、煙草を吸いつけた。
 彼の年は四十から四十五のあいだくらいにみえた。中肉中背であるが、病気でもしたあとのように頬がこけ、ぶしょう髭《ひげ》の伸びた顔は、ひどく疲れて精をきらしたような、乾いた土け色をしてい、眼の色も暗く濁って力がなかった。
「済みませんが」とおみつ[#「みつ」に傍点]がついに云った、「うちでは知らない方はお断わりしているんですけれど」
「そうらしいな」と彼が云った。
 だが、立つようすはなく、黙って煙草をふかしているので、おみつ[#「みつ」に傍点]はうしろの縄暖簾《なわのれん》をくぐって、奥へゆき、父親にその客のことを告げた。縄暖簾の向うは鉤《かぎ》の手になった土間で、煮炊きをする釜場《かまば》があり、それと向き合って四|帖《じょう》半《はん》の小部屋と六帖が続いている。そこは親娘の寝起きするところであるが、幾造は六帖のほうで、若い者たち三人と、賽《さい》ころ博奕《ばくち》をしていた。
「こないだのやつだ」とおみつ[#「みつ」に傍点]の話を聞いて政次が立った、「きっとこないだのやつにちげえねえ」
 政次は土間へおり、いそいで暖簾口から覗《のぞ》いてみて、すぐに戻って来ながら、幾造に頷《うなず》いた。
「どうしよう」と政次が訊《き》いた。
 幾造はおみつ[#「みつ」に傍点]に、「飲ましてやれ」と云った。
「だって」と政次が云った。彼の唇の端がよじれるようにまくれて、歯が見えた、「いぬ[#「いぬ」に傍点]かもしれねえぜ、親方」
「頭を冷やして来い」
 由之助がくすっと笑った。幾造の前には与兵衛と源三と仙吉がいて、他の者は知らぬ顔をしていたが、由之助だけが忍び笑いをした。
「可笑《おか》しいか」と政次が由之助を見た。彼の唇がまたまくれあがった、「おめえなにか知ってるのか」
「ここへはどんないぬ[#「いぬ」に傍点]も来やあしねえ」と幾造が云った、「おみつ[#「みつ」に傍点]、飲ましてやれ」
 そして賽ころの壺を取った。
 その客はおそくまでいた。ほかには誰も人の来ない晩で、定七もいなかった。その客は黙って手酌で飲み、ほかの者には眼もくれなかった。およそ八時ごろだったろうか、由之助は仙吉をつかまえて、いつものお饒舌《しゃべ》りをしていた。与兵衛はむっつりと飲みながら、ときどき口の中でなにか呟《つぶや》いては、同時に左手の指で、呪禁《まじない》でもするように、額を横に撫《な》でていたが、ふと眼をあげて、隅のほうを見た。
 その客が低く笑っていた。――その客は飯台へ凭《もた》れかかり、肱《ひじ》をついた両手で、盃《さかずき》を捧げるように持ったまま、手首のところへ額を押しつけて、く、く、と喉で笑っていた。――政次と源三がそっちを見、幾造が振向き、由之助と仙吉も気がついた。みんなはすぐに、その客が笑っているのではなく、嗚咽《おえつ》しているのだということを知って、互いに眼を見交わした。
 たしかに、その客は嗚咽していた。
 それは異様な、心うたれるものだった。この安楽亭のような店の、うす暗い飯台の片隅で、そのくらいの年配の男が、そんなふうにすすり泣いている姿は、異様であり、人の心をうった。
「おじさん」と政次が呼びかけた、「そこのおじさん、どうかしたのかい」
 幾造が咳《せき》をし、政次に向って「黙れ」という眼くばせをした。次は黙り、まもなくその客は帰ったが、帰りぎわに、客は飯台の上へ、幾らか置きながら「みんなで一杯飲んでくれ」と云った。
「そりゃあいけねえ」と幾造が首を振った、「そういうことはよしてもらおう」
「いや」と客は云った、「金はあるんだ」
 みんな口をつぐんで、客のうしろ姿を見送った。客が橋を渡りきったと思われるころ、政次が、「うん」と溜息《ためいき》をついた。
「いい年をして泣くなんて」と政次は云った、「おかしなやつだが、人間は悪かあねえらしいな」
「おんば(乳母)そだちよ」と云って由之助がくすくす笑った、「いぬ[#「いぬ」に傍点]じゃねえらしいや」
 三度めに来たとき、その客はひどく酔っていた。こんども例の片隅で、独りで十時ごろまで黙って飲んでいたが、帰るちょっとまえに、初めて来た晩と同じようなことを、誰に云うともなく呟いた。
「おれはこのうちのことを知っている」とその客はもつれる舌で云った、「ここがどんな店かってことは、ずっとまえから知ってるんだ」
 定七がそれを聞きつけた。彼はその客のほうへ振向き、ほそめた眼で、相手を見た。
「おめえそれを、本当に知ってるのか」と定七が訊いた。
「おれは近くに住んでたんだ」とその客は云った、「五年まえまでな、このすぐ近辺にいたことがあるんだ」
「それで――どうだっていうんだ」
「なんでもないさ」と云って、その客は酔った眼であたりを眺めまわした、「おれはここが好きなんだ」
「こっちはおめえなんか好きじゃねえぜ」
「怒ったのか、あにい」
「おい」と定七が沈んだ声で云った、「帰ってくれ」
 その客は訝《いぶか》しげに定七を見た。それから、よくまわらない舌で、「帰れっていうのか」と反問した。定七はまた「帰れ」と云った。その客は暫くじっとしていて、やがて、突っかかるように、「どうしてだ」と訊いた。
「どうしていけないんだ、おれがなにか悪いことでもしたのか」とその客は云った、「それとも、おれがいてはなにかぐあいの悪いことでもあるのか」
 定七が立ちあがり、幾造が「定」とするどく制止した。
「親方、――」と幾造はその客に云った、「飲みに来るのは構わねえが、よけいなことは饒舌らねえほうがいいぜ」
 その客はぐらっと頭を垂れた。
「ここへ来るなら、見ず、聞かず、云わずだ」と幾造が云った、「諄《くど》くは云わねえ、それができなかったら来ねえでくれ、わかったか」
「なんでもねえ」とその客は頭を垂れたまま答えた、「わかったよ」
 定七は静かに腰をおろした。
 それから毎晩のようにその客は来た。いつも手酌で飲んでいて、誰にも話しかけず、酔ってくるとよく独り言を云った。泥酔したときには突然「ひっ」というような声をあげたり、飯台に俯伏《うつぶ》して嗚咽したりした。「おしまいだな、うん、おしまいだ」とか、「くたばれ、くたばってしまえ」などという言葉が、しばしば独り言のなかで繰り返された。
「いったいどういう人なんだろう」とおみつ[#「みつ」に傍点]が云った、「堅気のようでもあるし、ぐれているようにもみえるし、見当のつかないような人じゃないの、おかみさんや子供はいるのかしら」
 それは「荷操り」をする晩で、若い者はみんなそこに揃っていたが、おみつ[#「みつ」に傍点]の言葉に答える者はなかった。
「そんなことを気にするな」と父親の幾造が云った、「こっちには縁のねえこった」
 すると由之助がくすくす笑って、「おんばそだちさ」と云った。ほかの者はなにも云わなかった。まったく興味がないというふうに、黙って酒を啜《すす》ったり、低い声で話しあったりしてい、やがて、奥で時計が鳴りだすと、与兵衛が「九つだな」と云い、定七と政次を見て立ちあがった。
「提灯《ちょうちん》が三度だぞ」と幾造が云った。
「二度なら帰って来る」と与兵衛が陰気な調子で云った、「わかったよ」
「気をつけていけ」と幾造が云った。
 そして三人は裏から出ていった。幾造はうしろの掛け行燈を消し、由之助と源三は、仙吉を「おい、寝るんだ」とゆり起こした。飯台に凭れて眠っていた仙吉は、ううと唸《うな》り、首を振って、
「ねむってえよ」とうわ言のように云った。
「これで年は十九だとよ」と由之助が云った、「へっ、笑あせやがる」

[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]

 かれらはその客に馴れ、その客の存在を忘れた。この「島」にいる者は、自分に関係のない限り、他人のことには無関心であった。その客に対しても、初めは疑惑と強い警戒心をもったが、五度、六度と顔を見るうちに馴れてしまい、するとまったく興味を失って、転げている石ころほどにも感じなくなったようであった。
 久し振りに「荷操り」のあった、翌日、――夕方に酒樽《さかだる》がはいり、肴《さかな》の材料がはいり、そして「灘文」の小平が来た。小平は一人で来て、しきりに幾造をくどいていた。幾造は肴を拵《こしら》えながら「若い者しだいだ」と答えていた。
「このまえあんな事があったんでな」と幾造が云った、「正太と安公が死んだんで、みんな縁起をかついでるらしいから」
「こんどの荷は嵩《かさ》がないんだ」と小平が云った、「一人五両ずつで六人、頼むよ親方」
 幾造は「若い者しだいだ」と答え、小平はなおもねばった。
「うるせえな」と幾造は手を止めて小平を睨《にら》んだ、「おれは庖丁《ほうちょう》を使うのが道楽だ、これだけがおれの楽しみなんだ、おれが庖丁を使ってるときにはそっとしといてくれ」
 小平は口をつぐみ、それから「悪かった、済まない」と云って黙った。
 灯をいれるとすぐ、あの客が来て、いつもの隅におちついた。まもなく、若い者たちが集まって来、賑《にぎ》やかに飲みだした。与兵衛だけがみえなかったが、幾造が訊くと、定七が「いろのところだろう」と云った。小平は誰かをくどくつもりらしく、隙をみてはかれらに話しかけるが、誰も相手にする者はなかった。
「なにか話をしよう」と由之助は定七に云っていた、「こないだの話はよかった、おれはああいう話をするのが好きだ、ああいう話をしたあとは、おれは自分がえらくなったような気持がするんだ」
「腹のほうはどうだ、話で腹のほうもくちくなるか」
「どんな話でもいいんだ」と由之助は熱心に云った、「たとえば、どうしてこの世には将軍さまや乞食《こじき》がいるか、ってことなんかさ」
「どうして女がいるか、ってのはどうだ」
「そいつはだめだ、女の話となると、おめえは悪態をつくばかりだから」
「勝手にしろ」と定七は云った。
「いつもそう思うんだが」と由之助は一と口飲んで定七を見た、「どういうわけでそう女の悪口ばかり云うのか、おれにはとんとげせねえんだが、おめえなにか、恨みでもあるのか」
「ふ、――」と定七は肩を竦《すく》めた、「女なんてみんなけだものだ、鼻もちのならねえほど臭えけだものだ、それっきりのこった」
「そうかもしれねえが、それでもこの世に、女ってものがいなければ、人間が絶えちまやあしねえか」と由之助は云った、「おめえだっておふくろさんが女だったからこそ、この世へ生れてきたんじゃあねえのか」
「おふくろはべつだ」
「おふくろさんは女じゃあなかったのか」
「よせ、――」と云って、定七は眩暈《めまい》にでもおそわれたように、眼をつむり、片手で飯台のふちをつかんだ、「それだけは云うな」と彼はしゃがれ声で云った、「おふくろのことだけは云うな」
「よすよ」と由之助は眼をそむけ、自分の盃に酒を注ぎながら、そっと呟いた、「こういうのをムジンっていうんだがな」
「ムジンてなあなんだ」と左側にいた政次が訊いた、「無尽講のことか」
「そんなんじゃあねえ、唐《から》の話だ」と由之助が云った、「ずっと昔、唐にムってえ国とジンてえ国があった、そのムとジンとで戦争をしてみろっていうんだが、ところがおめえムとジンとは、じつはおんなじ国のおんなじ人間なんだ」
「おれにはよくわからねえ」
「こうだ」と由之助は向き直った、「――つまり、ムの国の人間はジンの国をけなすし、ジンの国の人間はムの国をけなした、お互いにこっちが天下一だってえわけよ、そこでなんとかいう意地の悪い皇帝がいて、皇帝ってなあ禁裏さまみてえなもんなんだが、それが、そんならどっちが天下無敵かためしてみろ、戦争をしてみろってお云いなすった」彼はそこでちょっと上眼づかいをした、「うう、たしかそういうことだったろう」
「それで戦争をやらかしたのか」
「できやしねえさ、同じ国の同じ人間なんだから、つまりこうだ」と由之助は政次のほうへ躯《からだ》を曲げ、声をひそめて云った、「定のやつがいま、女はみんなけだものだって云ったろう、そんならてめえのおふくろもけだものの筈だが、それだけはべつだっていうんだ、そんな理屈があるか」
「それがつまりムジンか、話が少しこみいってて、おれにゃあよくわからねえ」
 そのとき与兵衛が帰って来た。
 みんなは飲んでいて気がつかなかったが、与兵衛は誰かを抱えてはいって来た。死んだようにぐったりとなった若者を、殆んど肩でかつぎながら、店をぬけて、土間を奥へとはいっていった。すると、小部屋の四帖半にいたおみつ[#「みつ」に傍点]が気づき、「どうしたの」と呼びかけた。
「う、――」と与兵衛はあいまいに云った、「拾って来たんだ」
「酔ってるのね」
「気を失ってるらしい」と与兵衛は肩をゆりあげた、「踏んだり蹴《け》ったりされていたんで、可哀そうなもんだから」
 おみつ[#「みつ」に傍点]は立って土間へおりた。
「いますぐに灯を持っていくわ」とおみつ[#「みつ」に傍点]が云った、「とっつきの部屋がいいでしょ」
 幾造が暖簾口から、「なんだ」と云って覗いた。おみつ[#「みつ」に傍点]はなんでもないと答えて、行燈に火を移した。親娘の住居とは土間を隔てて、六帖の部屋が四つ並んでいた。四部屋とも土間に面しており、その土間は裏へぬけるのであるが、おみつ[#「みつ」に傍点]が行燈を持って、とっつきの部屋へゆくと、「うーん」という苦痛の呻《うめ》きが聞えた。
 与兵衛は若者を坐らせ、その着物をぬがせていた。若者は泥だらけで、頭から顔まで、乾きかかった血がこびり付いていた。おみつ[#「みつ」に傍点]は行燈をそこへ置き、若者が裸にされるのを見ていた。――若者の肌は白く、なめらかであったが、右の脇腹や、肩や腕に、大きな青痣《あおあざ》が幾ところもできていた。おみつ[#「みつ」に傍点]は顔色も変えなかった。こんなことには馴れているようすで、与兵衛が傷の有無をしらべ、若者が苦痛のためにするどい呻き声をあげても、その眼をそむけようとさえしなかった。
「躯のほうは打身だけね」とおみつ[#「みつ」に傍点]がやがて云った、「その血は頭の傷でしょ」
 与兵衛は「らしいな」と云った。
 おみつ[#「みつ」に傍点]は小部屋から、父の着物と三尺を持って来、それから金盥《かなだらい》に湯を汲んだり、手拭や晒《さら》し木綿や、傷薬などを運んで、「あとはあたしがするからいい」と云った。与兵衛はそこをどいて、おみつ[#「みつ」に傍点]のすることを暫く見ていたが、やがて、「じゃあ――」と云うと、土間へおり、着替えをするために、自分たちの六帖へはいっていった。
 与兵衛が店へ出て、飯台に向って腰をかけると、幾造が、「どうしたんだ」と訊いた、「唯飲みだそうだ」と与兵衛は云った、「仲町に平野っていう小料理屋がある」
「おめえのいろのいる店だ」と定七が口をいれた。
「その平野でやられてたんだ」と与兵衛は続けた、「朝から飲みどおしで、一分幾らとかの勘定に一文なし、そのうえ当人が財布を盗まれたというんで」
「ばかな野郎だ」と仙吉が向うから云った、「岡場所でそんなことを云えば、半殺しにされるのはあたりめえじゃねえか」
「子供は黙ってろ」と由之助が云った、「それでおめえ、助けて来たのか」
「ゆきどころがねえっていうんだ」
「宿なしか」と政次が云った、「やくざだな」
 与兵衛は「お店《たな》者らしい」と云った。
 定七は「灘文」の小平にくどかれていた。小平は、こんどの荷は嵩ばらないとか、手当は一人五両ずつ、ことによったらもう少し色をつけよう、などとくいさがった。定七は「気乗りがしねえな」と云うばかりで相手にならず、しまいには返辞もしなくなった。それで、小平は諦《あきら》めたらしく、「じゃあほかを当ってみよう」と、思わせぶりに腰をあげた。
「しようがない、越中堀か」と小平は聞えるように呟いた、「越中堀の徳兵衛に当ってみるかな」
 だがみんな冷淡な、そ知らぬ顔をしていた。小平はすっかりしょげてしまい、やがて、ぐずぐずと不決断に帰っていった。そのすぐあとで突然「金か」とどなる声がした。いちばん隅にいる、例の見知らぬ客であった。
「金か」とその客はどなった、「金ならあるぜ」
 みんなそっちへ振向き、店の中がいっときしんとなった。政次の唇の端が、よじれるようにまくれあがって、歯が見え、定七の眼が細くなった。定七の眼は、膜でもかかったように鈍い色を帯び、瞳孔《どうこう》が動かなくなって、上の瞼《まぶた》がさがった。そして、定七が立ちあがると、幾造が「定」と云った。幾造は政次と定七を睨み、するどく「政」と云い、「定、――」と云った。政次は動かずにいた。定七は立ったままで、それからゆっくりと、まるで毀《こわ》れ物でもおろすように、ゆっくりと腰をおろした。
「おれはばかだ」とその客は飯台に凭れて、嗚咽した、「おれは畜生だ、おれは畜生にも劣るやつだ」
 みんなはその客から眼をそむけた。
 おみつ[#「みつ」に傍点]が縄暖簾をくぐって出て来、与兵衛の前へいって、「寝かしたわ」と云った。与兵衛は黙って頷いた。
「頭に晒しを巻いて、頬ぺたや顎《あご》には膏薬《こうやく》を貼《は》っといたわ」とおみつ[#「みつ」に傍点]は云った、「よく寝ついたようだから、たいしたことないでしょう」
 そしておみつ[#「みつ」に傍点]は、隅で嗚咽している客をちょっと見てから、「名は富次郎というそうだ」と云った。

[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]

 それから二日めの、午後二時ころ、――二人の男が吉永町の堀端に立って、その「島」を眺めていた。朝から鬱陶しく曇った日で、空は鼠色の動かない雲で掩《おお》われ、底冷えのする風が、堀の水を波立たせていた。この辺はもう深川の地はずれにちかく、貧しい家のたてこんでいる吉永町を、ちょっと東へゆくと、田と葦と沼地とが、砂村新田から中川まで続いていた。
 二人のうち、一人は吉永町の夜番で、勝兵衛という老人であったが、一人は四十歳ばかりの、ひとめで、定廻りの役人と見当のつく男だった。躯は小づくりであるが、固ぶとりで逞《たくま》しく、きれいに剃刀《かみそり》を当てた顔は、鞣《なめ》した革のような色をしていて、細くてすばやく動く眼と、一文字にひき緊めた薄い唇とが、冷酷な、隙のない性格をあらわしているようであった。――男は腕組みをした片ほうの手で、肉の厚い顎を撫でながら、老人のほうは見ずに、「こっちが松平さまだな」と云った。堀の向うの、左側が松平大膳、右側が黒田豊後、いずれも抱屋敷で、塀《へい》はまわしてあるが、建物は見えない。その二つの抱屋敷の中に挾《はさ》まれて、その「島」はあった。
「へえ」と勝兵衛は答えた、「そっちが松平さま、こちらが黒田さまでございます」
「中はどうなっている、人はいるのか」
「中がどんなふうか、よく存じませんが、どちらにも番の方がいらっしゃいます」
 その「島」は、まさしく島というにふさわしかった。左右の屋敷もそうであるが、「島」の四方は堀で、吉永町のほうにだけ橋が架けてあり、ほかに出入りをするみちがなかった。その辺は堀が縦横に通じており、南へぬければ木場であった。
「いい足場だな、誂《あつら》えたような場所だ」と男は呟いた、「中川から荷を入れるにも、ここから荷を出すにも、堀から堀とぬけてゆけるし、人の眼にもつかない、ふん、まったく申し分のない足場だ」
 勝兵衛は「へえ」とあいまいに笑い、横眼で男のようすを見た。男はじっと「島」を見まもった。橋を渡ると、僅かな空地をおいて、軒の低い古びた家があり、その家のうしろに、板葺《いたぶ》き屋根の小屋が見えている。前の家は左右が櫺子《れんじ》窓で、出入り口の油障子に「安楽亭」と書いてあるのが読めた。――約三百坪ばかりの土地に、建物はその二棟だけで、あとは雑草の生えている空地に、白く乾いた毀れ舟が伏せてあったり、放りだされた空樽や、物干し場が眼につくくらいで、いかにも荒涼としたけしきであった。
「あれが安楽亭だな」と男が云った、「――よし、案内しろ」
 勝兵衛は「えっ」といい、そして、身じろぎをしながら、髪の灰色になった頭を横に振った。
「どうした、案内するのはいやか」
「それだけはどうか」と老人は云った、「あそこへはへえれねえことになっているもんですから」
「御用でもか」と男が云った。
 勝兵衛は「へえ」と頭を垂れた。そのとき安楽亭の中から、娘が一人出て来て、干し物をとりこむのが見えた。着物はじみであるが、端折った裾から出ている二布《ふたの》と、かけた襷《たすき》の鮮やかに赤い色とが、荒涼としたけしきの中で、不自然なほど活き活きと、嬌《なま》めかしく眼をひいた。
「あれは安楽亭の女か」
「へえ」と老人が答えた。「おみつ[#「みつ」に傍点]といってあのうちのひとり娘でございます」
 男は娘を見ていて、それから「よし」と勝兵衛に顎で頷き、一人で、ゆっくりと橋を渡っていった。
 干し物をおろして、おみつ[#「みつ」に傍点]が家の中へはいると、そのうしろから、男も静かにはいっていった。特徴のある静かな歩きぶりで、雪駄《せった》をはいているためもあるだろうが、殆んど足音が聞えなかった。男は店の中の土間に立って、あたりを眺めまわした。櫺子窓からさしこむ光りで、店の中は片明りに暗く、コの字なりの飯台も、板壁も柱も、土間の踏み固められた土までも、酒や、煮焼きした物などの、酸敗したしめっぽい匂いが、しみついているように感じられた。
「おい――」と男が呼んだ、「誰かいないのか」
 男は少し待った。奥のほうで人の話すのや、笑う声が聞え、男はもういちど呼んだ。
 奥の話し声がやんで、すぐに、暖簾口からおみつ[#「みつ」に傍点]が覗いた。男はふところから朱房の十手を出し、それをおみ見せて、「主人を呼んでくれ」と云った。おみつ[#「みつ」に傍点]はなに珍しい物でもみつけたように、男の顔と十手とを眺めていて、やがて、「ちょっと待って下さい」と奥へ引込んだ。
 男は飯台のほうへ歩みより、そこへ腰をかけて、十手をこつんと飯台の上へ置いた。まもなく、幾造が縄暖簾をかきわけて出て来、男の向うへ来て立った。彼は四十七になるのだが、年よりずっと老けてみえ、固く肥えているのに、顔は皺だらけであった。
「おまえが幾造だな」男は顎をしゃくった、「奥にいる者に動くなと云え」
「旦那」と幾造が呼びかけた。
「動くなと云うんだ」と男が云った。
「その心配はありません」と幾造がおとなしく云った、「私が許さない限り、あいつらは外へ出るようなことは決してありません、しかし旦那、――」
 男は「かけろ」というふうに顎をしゃくった。幾造は不審そうな、おちつかない眼つきで男をみつめながら、飯台を隔ててさし向いに腰をおろした。
「八丁堀の岡島という者だ」
「旦那だということはわかってますが」と幾造が云った、「ここへおいでになっちゃあまずいんです。近藤の旦那がよく御存じの筈なんだが」
「そうらしいな」と男は云った。その岡島という、八丁堀の同心らしい男は、唇を動かさずに、抑えたような低い声で云った、「ここへは八丁堀の手もはいらなかった。どんな役人もここへ足をいれた者はない、だがそれは今日までのことだ、これからはそうはいかないぞ」
「近藤さまが御存じなんですがね」
「近藤のことは諦めろ、彼はお城詰めになった」と岡島は飯台の上へ片膝をつき、からかうような眼で幾造を見た、「あいつは利巧者だし、いい金蔓《かねづる》があったようだ、相当な金蔓だったらしい、それであいつはうまくのしあがった、ひらりっとな」彼は肱をついたほうの手先をひらっと振った、「あいつはおれより年が下だが、与力にあげられ、こんどはお城詰めになった、おれだっていつまで同心でいたいわけじゃないんだ」
 幾造は振向いて、「おみつ[#「みつ」に傍点]」と呼び、おみつ[#「みつ」に傍点]が暖簾口から覗くと、すばやく眼くばせをした。
「おい、幾造――」と岡島が云った、「近藤はなにを知ってたんだ、あいつはなにを御存じだったんだ」
 幾造はちょっと黙っていて、それから、「ここにいる若いやつらのことです」と云った。岡島は膝をついたまま、手をそっと飯台の上へおろして、「ふん」といった。
「あいつらのことはわかってる」と岡島は指で飯台を叩いた、「ついこのあいだ、さるところで二人を片づけた」
 幾造は眼を伏せた。
「二人とも死んだが、手向いをしたからだ、あいつらは骨の髄からの悪党だ」
「悪党というより、けものに近いやつらです」
 岡島は、「けもの」と云って幾造を見た。
「あいつらは人間じゃあありません、もちろん五|躰《たい》は満足だし、見たところはほかの人間と同じだが、考えることやすることはけものも同様です」と幾造が云った、「――一つだけあげても、あいつらは悪いことをしながら、それが悪いことだとは思わない、どんな悪いことをしても、悪いことをしたとは決して思わねえのです、しかも、親の躾《しつけ》がわるかったとか、まわりの者にそそのかされたとか、飢えていたからとかいうのではなく、初めからそういう性分に生れついているんです」
 育ちや環境のために悪くなったのなら、それを変えれば撓《た》め直すこともできよう。だがかれらはそうではない。かれらには生れつき自制心がなく、衝動を抑える力がない。仕事をしようとする意志も、能力もないし、極度にまで自己中心で、他人と融和することができない、と幾造は云った。――おみつ[#「みつ」に傍点]が酒肴をのせた盆を持って出て来、それを岡島の前へ置いて去った。幾造は燗徳利を持って、「お茶代りに一つ」と云い、岡島は黙って盃を取った。
「云ってみればあいつらは片輪者です」と幾造は続けた、「躯の片輪な者はべつに悪事もせず、世間の人も気の毒がってくれるが、性分の片輪な人間は哀れなものです、世間へ出てもまともに生きることができない、世間でもあいつらを庇《かば》ってはくれないし、あいつらも世間と折合ってゆくことができねえのです」
 しかも、それはかれらの罪ではない。かれらが好んでそういう人間になったのではなく、そんな人間に「生れた」のである。することなすことが世間と抵触するため、かれらは人間をも世間をも信じなくなった。かれらはなかまと寄りかたまる、だが、なかま同志でも決してうちとけない。寄り集まっていながら、一人一人がまったく孤独で、心からうちとけるということがない。愛情には人一倍飢えているが、その愛情でさえも信じないのである、と幾造は云った。
「あいつらはすぐ独りになります」と幾造は岡島に酌をしてやりながら続けた、「いまここでなかまと話していたかと思うと、すっと出ていって、河岸《かし》っぷちに独りでしゃがみこんだまま、じっと水を眺めていたり、草の中に寝ころんで、いつまでも空を見ていたりするんです、――そういうときのあいつらの姿は、ちょうど山のけものが山を恋しがっている、っていうふうに私には思えるんですよ」

[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]

 岡島は手酌で飲んだ。
「あいつらは世間へは出せません」と幾造は続けて云った、「もしもお上でひとまとめにして、どこかの島ででも暮すようにすればいいが、このまま放っておけば世間に迷惑をかけるばかりです」
「それでおまえが面倒をみているというのか」
「近藤の旦那が御存じですよ」と幾造は頷いた、「私があいつらを押えている、世間へ出て悪いことをしないように、私があいつらを引受ける、そう旦那にお約束したんです」
「そして抜荷をやらせるのか」
 岡島の声は低かったが、その調子は剃刀の刃のように冷たく、するどかった。幾造は深く息を吸いこみ、それからゆっくりとその息を吐いた。
「お説教は聞いた、説教は聞いたが、おれは近藤じゃあねえ」と岡島は伝法に云った、「おれはそんな説教を聞いて、はした金を握らされてひきさがるような人間じゃあねえんだ、幾造、おれはみんな知ってるんだぞ」
 幾造は黙っていた。
「中川へ抜荷船がはいる、その荷をおろすのはこのうちのやつらだ」と岡島が云った、「おろした荷はここへ運んで来て、必要なときまで隠しておき、そのときになればここから運び出す、荷主は呉服橋そとの灘文、灘屋文五郎だということもわかっているんだ」
 幾造は首をかしげた、「灘屋というと、公儀をはじめ大名がたの御用達をしている、あの店のことですかい」
 岡島がさっと十手を取った。非常にすばやい動作で、さっと、朱房の十手をつかみ、そして立ちあがった。幾造はそれには眼もくれず、うしろへ振向いて「おみつ[#「みつ」に傍点]」と云った。「はい」と返辞が聞えた、「いま持ってゆきます」
 岡島は十手の尖《さき》を、そっと飯台におろした。こつんという音がし、彼はじっと幾造を見まもったが、すぐに、ひきむすんだ唇がゆるみ、彼はあたりを眺めまわした。
「このうちの本業は」と岡島はちがった声で云った、「縄《なわ》蓆《むしろ》の売買だったな」
「酒と一|膳《ぜん》飯のほうも繁昌してます」
 おみつ[#「みつ」に傍点]が出て来た。燗徳利をのせた盆を持っていて、こっちへ来、岡島の前へ徳利を置いて、黙って奥へ去った。そのとき、奥で時計の鳴る音がした。
「あれは時計だな」と岡島が云った。
「そうだそうです」
「縄蓆と一膳飯でか、――時計は大名道具だぞ」
「預かり物でしてね」と幾造は燗徳利を持った、「熱いのが来ました」
「家の中を見よう」と岡島が云った。
 幾造は静かに頭を振った。
「家の中を見るんだ」と岡島は云った、「それとも、見せることはできないというのか」
 幾造は燗徳利を置いた、「およしなすったほうがいい、危のうございますぜ」
「案内をしろ」
「危のうございますよ」
 岡島は幾造を睨んでいて、それから、土間を奥のほうへまわっていった。幾造が腰かけたまま「定、――」と呼んだ。岡島がはいってゆくと、若い者たちがそこに並んでいた。仙吉だけは見えず、他の五人が、小部屋のあがり框《がまち》に腰をかけていた。岡島は右手に十手を持ったまま、そっちへいって、かれらの前で立停った。五人はまったく無表情に彼を眺め、彼は端から順に、五人を仔細《しさい》に見ていった。
「おい」と彼は与兵衛に云った、「おまえの名を云え、名前はなんというんだ」
 与兵衛は自分の名を告げ、問われるままに年も二十八だと、正直に云った。源三も、政次も、冷やかに名と年齢を答えたが、由之助はとぼけた。
「名前ですか」と由之助は首をかしげた、「よく覚えてねえんだが、みんなは由公っていってますよ」
「どこの生れで、年は幾つだ」
「そいつは難題だ」と由之助は他の四人を見た、「誰か知ってるか」
 政次が「おんば(乳母)育ちさ」と云い、由之助は「ちげえねえ」と頷いてくすくす笑った。すると定七が欠伸《あくび》をして立ちあがり、岡島が「おい」と呼びかけた。定七はゆっくりと振向いた。
「おまえの名はなんていうんだ」
「おれか」と定七がま伸びのした口ぶりで答えた、「名は定七、年は二十六だ、――なにか用か」
 いきなり、岡島は彼に平手打ちをくわせた。一歩前へ出ながら十手を左へ持ち替え、右手をあげて定七の頬を殴った。動作もすばやかったし、力のはいった殴りかたで、ぱしっという高い音と同時に、定七の躯がぐらっとかしいだ。
「御用だぞ、まともな返答をしろ」
 みんなが急に沈黙し、動かなくなった。みんな急に温和《おとな》しくなったようにみえた。与兵衛は静かに顔をそむけ、源三は頭を垂れた。政次の唇がまくれて、白い歯が見え、定七の眼が細くなった。眸子がねむたげに曇り、上の瞼がさがった。暖簾口にいたおみつ[#「みつ」に傍点]が店へ出てゆき、幾造が覗いて、「定」と云った。定七は岡島をみつめたまま、垂れている手の、手先だけ、ゆっくりと幾造に振ってみせた。
「定七」と幾造が云った。
「なんでもねえんだ」と定七が云った、「この旦那がちょっと景気をつけただけさ。旦那、なにか用があるんでしょう、家捜しをするんじゃあねえんですか」
 岡島は冷笑した。幾造は引込み、岡島は定七から他の四人へと、順に眼を移しながら、云った。
「念のために云っておくが、この島へ来るには来るだけの手が打ってあるんだ、油を背負って火の中へとびこむほど抜けちゃあいねえ」そして彼はふところから、紐《ひも》の付いた呼子笛《よびこ》を出して、みんなに見せた、「こいつが鳴るのを待ちかねている人数がある。それを忘れるな」
「ゆき届いた旦那だ」と云って、由之助がくすくす笑った。
「葬式にも手不足はねえさ」と政次が云った。岡島は二人を睨んだ。岡島は塵《ちり》ほどの弱みもみせなかった。鞣《なめ》した革のような色艶《いろつや》の顔は、依然として無表情に冷たく、薄い唇にもするどい眼つきにも、動揺の色は少しもなかった。彼はもういちどあたりを見まわしてから、「案内しろ」と定七に顎をしゃくった。
 岡島は念入りにしらべた。土間に沿って並んだ四つの部屋を、いちいちあがって、押入や納戸の隅までさぐった。とっつきの六帖には、富次郎という若者が寝ていたが、頭を巻いた晒しの木綿や、頬や顎に貼ってある膏薬を見ると、岡島はふんと鼻を鳴らし、「十手をくらったな」と呟いて、「起きろ」と云った。富次郎は怯えたような顔になり、定七を見ながら起きあがったが、岡島は夜具をどけて、その下をしらべると、富次郎には眼もくれずに土間へおりた。――それから、幾造とおみつ[#「みつ」に傍点]の部屋を捜したあと、四人の者に、「動くんじゃあねえぞ」と云って、土間を裏へとぬけていった。裏の戸口から三間ばかりはなれて、低い二階造りの、がっちりとした板張りの小屋が建っていた。二階の左右に、金網を張った窓があり、下の入口の引戸はあけたままで、薄暗いがらんとした土間が、外から見えていた。
 岡島は小屋の周囲をまわった。縦に長い三百坪ばかりのその「島」には、安楽亭の店と小屋のほかに建物はなく、砂礫《されき》や貝殻まじりの空地には、枯れかかった雑草が、ところ斑《まだら》に生えていた、堀端をまわってゆくと、南側に小さな荷揚げ場があって、そこに小舟が三|艘《そう》もやってあるのを、岡島は見た。荷揚げ場は小さいが、石でたたんだ段があり、岸に沿って舟を繋《つな》ぐための、太い杭《くい》が五本ばかり並んでいた。――岡島は振返って、小屋のほうを見やった。荷揚げ場から小屋までの、距離を目測したらしい、定七は黙って眺めていた。
「よし」と岡島は頷いた、「小屋の中を見よう」
 二人は引返した。
 小屋の中は薄暗く、ひんやりしていて、半分は土間、半分は板張りの床になっており、土間には藁屑《わらくず》や、縄の切れっ端などがちらかっていた。岡島は土間の隅ずみを眺め、それから床の上へあがって、床板を踏んで歩いた。あげ蓋でも捜すらしい。そうして、二階へあがる梯子《はしご》を見た。
「荷はこの上にあるのか」
「なんの荷です」と定七が訊き返した。
「中川から積みおろして来た抜荷よ」
 定七がゆっくり答えた、「あがってみたらいいでしょう」
「先へあがれ」
 定七は相手を見、唇で微笑しながら、先に梯子を登っていった。
 二階も板張りに板壁で、左右の窓からはいる光りが、積みあげてある縄束や蓆を、明るく照らしていた。岡島はするどい眼であたりを眺めまわし、そこと見当をつけたのだろう、積んである蓆の側へ歩みより、持っている十手を、その蓆の中へさし込んだ。そのとき、定七がうしろへ忍びよった。猫のように柔軟な動きで、すっと近よってゆき、ふところから右手を出した。九寸五分の匕首《あいくち》がきらっと光り、定七は身を跼《かが》めると、岡島の躯へうしろからぶっつかって、ぐいと強く腰をあげた。両手で、なにかを持ちあげるような動作で、そのまま、岡島の躯を蓆へ押しつけた。岡島は声もあげず、抵抗もしなかった。蓆へ押しつけられたまま、やがて、喉から溜息のような息がもれ、硬直した躯から、しだいに、力のぬけてゆくのが感じられた。定七がはなれると、岡島の躯はずるずると横倒しになり、背中の右の、ちょうど帯のすぐ上のところに、突刺さっている匕首の柄が見えた。
 定七は脇のほうへ唾を吐き、さばさばしたような眼で、暫く岡島の躯を見まもっていたが、やがて岡島のふところをさぐって、呼子笛を取り出すと、窓のところへゆき、外へ向ってするどく、その呼子笛を吹いた。

[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]

 定七は呼子笛を三度吹いて、外のもの音に耳をすました。まもなく、下へ走りこんで来る人のけはいがし、「ここだ」と定七が呼ぶと、政次と由之助が梯子を登って来た。かれらはすぐに、倒れている岡島をみつけ、由之助が「へえ」といいながら近よっていった。
「こいつが呼子笛を吹きゃあがったのか」
「吹いたのはおれだ」
「おめえだって」と政次が定七を見た、「どうしてだ」
「触るな由公」と定七が云った、「匕首はそのままにしておけ」
「もういっちゃってるぜ」
「そっとしておけ、いま抜くと床がよごれるんだ」と云って、定七は持っていた呼子笛を、岡島の頭のところへ放りだした、「――捕方が待っているなんて云やあがって、こんなこったろうと思った」
「それでためしたのか」
「わかってたさ」と云って定七は、さっき殴られた頬へ手をやった、「ふん、あめえ野郎だ」
 三人は下へおりていった。
 店にはあの客が来て、飲んでいた。定七は「手を洗って来る」と云って、表へ出ていった。幾造はちらっと見ただけで、なにも云わずに酒の燗をつけていた。そのとき、――おみつ[#「みつ」に傍点]は釜場で飯を炊いていて、政次と由之助が、小部屋へあがるのを見た。二人は呼子笛の鳴るまで、与兵衛や源三たちと、そこで賽ころ博奕をしていたのである。おみつ[#「みつ」に傍点]は二人を見て、なにか訊きたげに立ちあがったが、そっと首を振っただけで、また竈《かまど》の前に跼んだ。すると、とっつきの六帖の障子をあけて、富次郎という若者が、土間へおりて来た。
「済みません」と彼はおみつ[#「みつ」に傍点]の側へ来て云った、「お世話になりました」
 おみつ[#「みつ」に傍点]は振返り、「どうしたの」と訝しそうに彼を見た。
「いつまでお世話になってもいられませんから」と富次郎は口ごもった、「もうそろそろ、なにしようと思いまして」
 おみつ[#「みつ」に傍点]は竈の火をひいた。釜がふきだしたので、燃えている薪を取り出し、一本ずつ桶《おけ》の水で消すと、燠《おき》のぐあいを覗き、釜の蓋をずらして、立ちあがった。
「どこへ帰るの」おみつ[#「みつ」に傍点]が訊いた、「あんたゆくところがないって云ったじゃないの」
 富次郎は俯向いて、片手を腿《もも》へこすりつけた。おみつ[#「みつ」に傍点]はじっと彼を見て、彼が岡島という同心の来たことで、怯えているのだと推察した。
「どこかゆくところがあるの」
「ええ」と富次郎は聞きとれないくらいの声で答えた、「自首して出ようと思って」
 おみつ[#「みつ」に傍点]はなお、彼の顔をみつめていた。
「いまあんな人が来たからね、そうでしょ」
 俯向いている富次郎の、白い晒し木綿を巻いた頭が、土間の薄暗い光りの中で、かすかに頷いた。
「いったい、なにをしたの」
 彼はおずおずと云った、「主人の金を、遣いこんだんです」
「どのくらい」
「十五両」と彼は低く、呻くように云った、「十五両に少し欠けるだけです」
「どうしてまた」とおみつ[#「みつ」に傍点]が溜息をついた、「――なんでまだそんなに遣っちゃったの」
 彼は答えなかった。なにかわけがあるのね、とおみつ[#「みつ」に傍点]が訊いた。彼は黙っていて、それから重たげに手をあげ、手の甲でそっと眼を拭いた。
「云えないようなわけがあるの」
 富次郎は首を振った。
「あがってらっしゃい」とおみつ[#「みつ」に傍点]が云った、「自首するつもりならいそぐことはないわ、あとであたしにわけを話してちょうだい」
 そして、いまの役人のことなら心配には及ばないと、安心させるように付け加えた。富次郎が部屋へ戻ると、おみつ[#「みつ」に傍点]は釜の蓋を直して、暖簾口から店を覗いた。
 店には定七が帰っており、飯台のところに立って、幾造になにか見せていた。
「裏の堀に落ちてたんだ」と定七は云っていた、「水へ落ちて、ばしゃばしゃやってたんだ、それで揚げ場の石段のところへいって、おれが手をこう出して呼んだら、ばしゃばしゃこっちへやって来たんだ」
「まだこどもだな」と幾造が云った、「満足に飛べなかったんだろう」
「どうして堀なんかへおっこちたんだろう、親はいっしょじゃあなかったのかな、どうしよう、親方」
「おふくろが捜してるよ」と隅にいるあの客が云った、「きっとおふくろが捜してる、きっと気違いみたいになってるぜ」
 おみつ[#「みつ」に傍点]は店へ出ていった。定七は手にのせているものを見せた。彼の手の中で、一羽の子雀が、濡れて毛羽立って、ふるえていた。定七はおみつ[#「みつ」に傍点]にも同じことを話した。おかつは指で、そっと子雀に触ってみながら、「呼んだら来たって、なんていって呼んだの」と訊いた。
「手をこう出して」と定七が云った、「ちょっちょっていったんだ」
「猫を呼ぶみたいじゃないの」
「それでも来たんだ、助けてもらえると思ったんだな、きっと、――ひどくふるえてるが、どうしよう」
「おふくろが捜しに来るよ」と隅にいる客が云った、「庇《ひさし》の上へ目笊《めざる》で伏せておけばいい、きっとおふくろが捜しに来るから、そのとき笊から出してやればいいんだ」
 定七は客のほうへ振向き、それから幾造の顔を見た。そうしてみな、と幾造が頷き、客は「朝になってからだぜ」と云った。定七はおみつ[#「みつ」に傍点]に、目笊を貸してくれ、と云いながら、土間をまわって釜場のほうへいった。
「朝になってからだぜ」と客がうしろから念を押した、「気をつけねえと猫だの鳶なんぞに狙われるぜ」
 そしてその客は頭をぐらぐらさせ、きっとおふくろが捜しに来る、と呟いた。鳥でもけものでも、人間と同じことだ、「母親というものはそういうものだ」と独り言のように呟き、それから、だらしなく飯台へ俯伏してしまった。
 夜の八時ころ、――定七は由之助を伴れて、裏から外へ出ていった。
「潮はひくさかりだ」と出てゆきながら定七が云った、「二つ入《いり》のみお(澪木)で流せばいいだろう」
 おみつ[#「みつ」に傍点]はそれをとっつきの六帖で聞き、あれを片づけにゆくのだなと思った。おみつ[#「みつ」に傍点]は少しまえから、その六帖で富次郎と話していた。――富次郎は芝新網の生れで、今年二十三歳になる。親は小さな下駄屋であったが、彼は十一の年に、日本橋横町の近江屋という質屋へ奉公に出た。彼は六人きょうだいの二男で、末にはまだ七歳の弟がいた。三年まえに父が死んだあと、母と兄とで下駄屋を続け、あと三人の弟と妹とは、それぞれ奉公に出ていた。
「私はあと一年お礼奉公をすれば、暖簾を分けてもらえるんです」と富次郎は云った、「うちへ仕送りをしたので、店を持つほど金は溜《た》まりませんでした、それでも主人が貸してくれるので、戸納質《とだなじち》から始めるつもりだったし、おふくろや兄は、それを頼みの綱のように待っているんです」
 そこへ思わぬことが起こった。
 同じ新網の裏長屋に、幼な馴染のおきわ[#「きわ」に傍点]という娘がいた。父親はきまった職がなく、酒好きの怠け者で、暮しは母の賃仕事で立てていた。母親はおろく[#「ろく」に傍点]といい、躯が逞《たくま》しく、はきはきした性分で、「子供が一人きりだというだけがめっけもんさ」などというほかは、ぐちらしいことも云わずに、よく稼《かせ》いだ。
 富次郎は少年のころからおきわ[#「きわ」に傍点]が好きであった。おきわ[#「きわ」に傍点]のほうでも好きだったらしい、彼が藪入《やぶい》りで帰るたびに、付いてまわって離れず、「あたし富ちゃんのあんちゃんのお嫁になるのよ」などとよく云ったものであった。もちろんそれはごく小さいじぶんのことであるが、育ってゆく彼女を見るにしたがって、富次郎もまた「おきわ[#「きわ」に傍点]を嫁にもらおう」と思うようになった。
「はっきり口に出して云ったことはありませんが、去年の暮にうちへ帰ったとき、年期があけたことと、お礼奉公が済んだら、小さくとも店を出すことができる、と話したんですが、そのときのようすで、私の気持がわかったように思いました」
 そしてつい七日まえ、昏《く》れがたになって、おきわ[#「きわ」に傍点]が近江屋へ彼を訪ねて来た。それまでに三度ほど来たことがあるので、べつに気にもとめず、かかっていた用を片づけてから、勝手口へいってみた。おきわ[#「きわ」に傍点]は暗い庇合に立っていたが、「済みません、ちょっと」と云って路次を出ていった。ようすがいつもと違うので、富次郎もそこにあった下駄をつっかけて、あとを追った。
 おきわ[#「きわ」に傍点]はおちつかない足つきで、外堀のほうへゆき、人けのない堀端で立停った。
 ――どうしたんだ、なにかあったのか。
 富次郎が訊くと、おきわ[#「きわ」に傍点]は前掛で顔を掩って、泣きだした。暫くはなにを訊いてもただ泣くばかりだったが、やがて、「あたし売られるの」と云った。
 ――あたし売られるのよ。
 そう云って、またひとしきり泣き続けた。
 富次郎には知らせなかったが、夏のはじめに母が倒れた。母親のおろく[#「ろく」に傍点]は仕立物を届けにいって、帰る途中で倒れ、戸板で担ぎこまれたが、半身不随になっていた。その母が死んだ。一昨夜の十時ごろ、煎薬《せんやく》を飲むと噎《む》せて、激しく咳きこんだと思ったら、それで急変してあっけなく死んでしまった。
 ――ちっとも知らなかった。
 と富次郎が云った。
 ――けれども、それでどうして、おきわ[#「きわ」に傍点]ちゃんが身を売るんだ。

[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]

 母親が倒れてからも、父の亀吉の怠け癖は治らなかった。ときたま僅かな銭を稼いでは来るが、あとはおきわ[#「きわ」に傍点]に任せきりであった。そのあいだの家賃や、医薬代や、米屋、酒屋などの借金が溜まって、おろく[#「ろく」に傍点]の葬式を出すこともできない始末になっていた。
 そして昨夜、亀吉はおきわ[#「きわ」に傍点]に身売りの相談をした。相談とは口先のことで、すでに女衒《ぜげん》と話が纒《まと》まり、内金として五両受取っていた。
 ――あたし明日、その人につれてゆかれるんです、それでひとめ逢ってゆきたいと思ったものですから……。
 そう云っておきわ[#「きわ」に傍点]は微笑した。泣いたりなんかしてごめんなさい、こんなこと話すつもりではなかったのよ、ただひとめ逢っておきたかっただけよ、とおきわ[#「きわ」に傍点]がいった。富次郎は逆上したようになり、おきわ[#「きわ」に傍点]の肩をつかんで、「そんなことはだめだ」そんなことをさせるものか、金は幾ら
だ、とどなった。
 ――私はおまえを嫁にもらうつもりでいた、だから、もうすぐ店が出せるということも話しにいったんだ、わからなかったのか。
 ――わかってたわ、あたしうれしかったのよ。
 おきわ[#「きわ」に傍点]はまた微笑した。うれしかったけれども、本当にそうなれるような気はしなかった。それまでになにか悪いことが起こるだろう。きっとなにか邪魔がはいって、いっしょになることはできないだろう。そんな気がしていたのだ、とおきわ[#「きわ」に傍点]は云った。富次郎は彼女の肩をつかんでゆすぶり、「金は幾らだ」と訊き続けた。
 ――おまえに身売りなんかさせやしない、金は私が都合する、幾らあればいいんだ。
 おきわ[#「きわ」に傍点]が父から聞いた額は十二両だった。富次郎は「よし」と云った。今夜というわけにもいかないが、明日の、おそくも午までには持ってゆく。必ず持ってゆくから、それまで決して動くな、誰になんと云われても家から出ずにいてくれ、と念を押した。
「そうして、おきわ[#「きわ」に傍点]に別れて店へ戻ると、私はすぐにそのことを主人に話しました」
 主人はものわかりのいい人で、店の者たちにはもちろん、同業者なかまでも徳人といわれていた。しかし、富次郎の話を聞くと、首を振った。そんなたいまいな金は出せない、というのである。富次郎はとりのぼせていたから、「十二年も奉公していて預けた金もある、その金なら渡してもらえる筈だ」と云った。
 ――金ではない、おまえの一生のことだ。
 と主人が云った。質屋というものは、ほかの商売と違って僅かな利息で稼ぐものだ。そんな父親が付いていれば、ここで十二両渡してもそれだけでは済まない。これからさきも必ずせびりに来るだろう、そうなれば夫婦の仲だってうまくはゆかなくなる。世間には幾らでも例のあることだ、その娘のことは諦めるがいい、と主人は云った。
「私には返す言葉がありませんでした」
 主人の云うとおりである。妻が生きているうちは妻に稼がせ、妻が死ねば、三日と経たないうちに娘を売ろうとする。そんな父親の付いた娘をもらって、家がおさまってゆく筈はない。慥《たし》かにそのとおりであるが、それだからこそおきわ[#「きわ」に傍点]が哀れだった。さきのことはともあれ、そんな父親のために、おきわ[#「きわ」に傍点]は身を売られようとしている、「いま売られようとしている」のである。おきわ[#「きわ」に傍点]の一生がいま、めちゃめちゃになろうとしているのだ。
「私は決心しました」と彼は云った、「主人に預けた金は十両にちょっと欠けますが、店を出すときには、溜めただけの金高を、主人からべつに貸してくれることになっているんです、もちろんそれは利を付けて返すのですが、とにかく、私の分として二十両ちかい金がある筈なんです」
 おみつ[#「みつ」に傍点]は黙って頷《うなず》いた。
「私は金を持ち出そうと思いました」
 だが主人も彼の気持を察したとみえて、翌日いっぱい、その隙を与えなかった。富次郎は身を灼《や》かれるような気持で刻を過したが、日が昏れてからまもなく、ほんの僅かな機会に帳場から金を取り出し、そのまま夢中で新網へ駆けつけた。
「おきわ[#「きわ」に傍点]はいませんでした」と富次郎は頭を垂れた、「家には親の亀吉と、知らない男が二人とで酒を飲んでいて、おきわ[#「きわ」に傍点]はもういってしまった、おきわ[#「きわ」に傍点]にちょっかいを出すな、と云うだけなんです」
 彼はおきわ[#「きわ」に傍点]の売られた先を訊《き》いた。女衒の宿も訊いたが、亀吉はなにも知らないの一点張りで、そのうちに男の一人が口をはさみ、「おれは鍾馗《しょうき》の権六という人間だが、いんねんをつけるならおれが相手になろう」と云いだした。
「とてもだめだと思って、私はそれから捜しにかかったのです」と彼は続けた、「近くの神明から始めて、廓、岡場所を次つぎに廻りました、私はそういう場所を知りませんから、駕籠《かご》に乗って、駕籠屋におしえてもらい、組合や会所で訊いてから、それとおぼしい家を訪ねたんです」
「むりだわね」とおみつ[#「みつ」に傍点]が首を振った、「――それですっかりお金を遣っちゃったのね」
「深川へ来たときには、まだ少し残っていたんです」と彼は弱よわしく云った、「まだ一両ちかく持っていた筈なんですが」
「むりだわ、そんなこと」とおみつ[#「みつ」に傍点]が云った、「そんなふうに捜しまわって、たとえその家にぶっつかったところで、ここにいるなんて云いっこないわ」
「じゃあ、ほかにどうしたらいいでしょう」
「遣ったお金は十五両ね」と云って、おみつ[#「みつ」に傍点]はなにか考えるような眼つきをした、「――お店へは帰れないわね」
「自首して出るほうがましです」
「ちょっと待って」とおみつ[#「みつ」に傍点]は眼をあげた、「あんたいま、鍾馗のなんとかって云ったわね」
「権六、たしか鍾馗の権六といいました」
 おみつ[#「みつ」に傍点]は口の中で、その名を繰り返し呟《つぶや》いた。富次郎は俯向き、借り着の袷《あわせ》の褄《つま》を、ふるえる指で撫でた。
「その晒しを取替えましょう」とやがておみつ[#「みつ」に傍点]が立ちあがった、「そしてもう寝るほうがいいわ、もしかするとおきわ[#「きわ」に傍点]さんのいる家がわかるかもしれないから、あんまり気を病まないようにしていらっしゃい」
 富次郎はびっくりしたようにおみつ[#「みつ」に傍点]を見た。
「もしかしたらよ」とおみつ[#「みつ」に傍点]は云った、「――いま晒しと薬を取って来るわ」
 十時ちかくになって、定七と由之助が帰って来たとき、隅にいた見知らぬ客が、いつもの「金はあるぜ」をどなっていた。五十、百の金がなんだ、金なんてくそみてえなもんだ、「欲しけりゃあ呉《く》れてやるぜ」などと喚き、泥酔のあまり土間へ転げ落ちた。――そこには与兵衛と源三、政次と仙吉がい、「灘文」の小平が来ていた。かれらは飯台に向って飲んでいたが、その客には眼もくれなかった。どなる声にも耳を貸さず、土間へ転げ落ちても知らぬ顔でいた。
 小平は次の荷操りを告げに来たもので品書を幾造に渡すとまもなく、定七たちと入れ違いに帰っていったが、帰り際になってから、「荷おろしを頼めないだろうか」と云った。
 こんども誰も返事をしなかった。
「船は三四日うちにはいるんだ」と小平はくどいた、「荷は嵩のないものだから、五人でいけなければ三人でもいいんだ」
「越前堀はどうしたんだ」とからかうように政次が訊いた、「越前堀が請負ったんじゃねえのか」
「ねえ親方、頼むよ」と小平は幾造に云った、「三人でもいいんだ、三人でも五人分の手当を出すがね、どうだろう親方」
 幾造は答えなかった。小平は与兵衛を見、政次を見た。かれらはそっぽを向いたまま飲んでおり、土間にころげている客が、みじめに嗚咽《おえつ》し始めた。小平はしょげて、「じゃあまた、――」と云って出ていった。
 定七と由之助が、奥から手を拭きながら出て来、飯台に向って腰をおろすと、定七が与兵衛を見て、「おめえ権のやつを知ってたな」と訊いた。与兵衛は振向いて定七を見た。
「権、――権六か」
「いまおみつ[#「みつ」に傍点]さんに訊かれたんだ、おめえ知ってたんじゃねえのか」
「知ってた」と与兵衛が云った。
「鍾馗の権六ってんだっけな」
「いやな野郎だ」
「女衒をやってやあしねえか」
 与兵衛は自分の盃に酒を注いだ、「どうだかな、そのくらいのことはやりかねねえ野郎だが、うん、やりかねねえな」
「いどころはわかるか」
「わからねえことはねえだろうが、野郎に用でもあるのか」
「おみつ[#「みつ」に傍点]さんに聞いてくれ」と定七は云った、「おめえの伴《つ》れて来た男、富次郎とかいうあの男のことで、――まあいいや、おみつ[#「みつ」に傍点]さんから聞いてくれ」
 幾造が彼と由之助の前に、酒と肴《さかな》を出してやった。土間にころげている客の、嗚咽の声が、そのまま荒い鼾《いびき》に変っていた。
 明くる朝。定七は店の東側に立って、庇の上を見あげていた。庇の上には、目笊をかぶせた四角な板がのせてあり、その中には昨日の子雀がはいっていた。子雀は小さくふくらんだまま、鳴きも動きもせず、さっきからじっと身をちぢめている。小さな、まだ黄色っぽい嘴《くちばし》のすぐ前に、飯粒の固まりが置いてあるが、それさえ啄《ついば》もうとはしなかった。
「待ってな」と定七は呟いた、「いまにおっ母さんが来るからな、おめえ鳴けばいいんだがな、鳴けばおっ母さんに聞えるんだが、――おめえ鳴けねえのか」
 店から与兵衛とおみつ[#「みつ」に傍点]が出て来た。与兵衛はまっすぐに橋を渡ってゆき、おみつ[#「みつ」に傍点]はごみ箱のほうへ来て、定七をみつけた。

[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]

 おみつ[#「みつ」に傍点]は勝手のごみを捨てると、「あきれた人ね」と云いながら、定七のほうへ近よって来た、「いつまで立って見ているの」
「まだ親が来ねえんだ」と定七は庇の上をみつめたまま云った、「こいつが鳴かねえもんだから、親にわからねえんじゃねえかと思うんだ」
「わかったって人間が側にいたんじゃあ来やしないわよ、はいってらっしゃいな」
 定七は口ごもって云った、「だっておめえ、猫だの鳶なんかが狙うって云ったぜ、あの大きな三毛のやつは悪い猫だからな」
「人間がいちゃあ親は来ないことよ」
「はなれていればいいか」
 定七は独り言のように云うと、足もとから石ころを幾つか拾い、堀端のほうへはなれていって、そこに伏せてある毀れた小舟へ腰をおろした。おみつ[#「みつ」に傍点]は笑って、「あきれた人だ」と云いながら、店の中へはいっていった。
 その夜十時ごろ、与兵衛が帰って来たとき、店の中はがらんとしていた。源三が飲んでおり、おみつ[#「みつ」に傍点]が燗番《かんばん》をしているだけで、いつも隅へ陣どるあの客もみえなかった。
「そうか」とはいって来るなり与兵衛は云った、「今夜は荷操りだったな、もう舟は出ちゃったろうか」
「まだでしょう、お父っさんがまだ裏にいるから」とおみつ[#「みつ」に傍点]が云った、「どうだったの、みつかって」
「うん、あとで話す」
 そう云って与兵衛は裏へ出ていった。
 小屋のところまでゆくと、荷揚げ場のところに提灯の光りと、人の動いている姿が見えた。与兵衛は走っていった。そこには仙吉と政次がいて、政次はこっちへ来ようとするところだった。与兵衛が「定は」と訊くと、小屋で荷を出しているという。与兵衛は政次といっしょに戻り、小屋の中へはいった。幾造と定七は二階で、大きな絨毯《じゅうたん》を包んでいるところだった。
「おそくなっちまった」と与兵衛が云った。
「今夜はおれと政でいいんだ」と定七が云った、「どうかしたのか」
「あいつがみつかったんだ」
「みつかったって、誰が」
「鍾馗の権六だ」と与兵衛が云った、「それから娘のいどころもわかった」
 定七は訝《いぶか》しそうに与兵衛を見た。そして初めて思いだしたように、「そうか」と頷き、包んだ絨毯へ縄をかけた。
「それで相談があるんだ」と与兵衛が云った、「小平の話の荷おろしをやろうと思うんだが、どうだろう」
「危ねえな、危ねえもんだな」と定七は身を起こしながら云った、「正太と安公のときはひどかったぜ、おれはまだあれが眼についてはなれねえんだ」
「おれたちに危なくねえ橋はねえさ」
 定七は与兵衛の顔をみつめた、「なにかわけがあるのか」
「手当の三十両だ」
 幾造は黙って蓆を直していた。荷を出したあとへ、元のように蓆を積みあげ、蓆の端をまっすぐになるように直した。定七はなお与兵衛をみつめたまま、「娘の身の代金か」と訊いた。
「二十両だ」と与兵衛が答えた、「娘はまだ無垢《むく》だった、もう二三日客へ出すなと断わって来たんだ」
 幾造は横眼で定七を見ていた。定七はやがてあっさり頷いた。
「じゃあそう云おう」と定七は云った、「これからいって、小平に会ったら云うよ」
「気がすすまねえんじゃあねえだろうな」
「危なくねえ橋はねえさ」と云って、定七は包を肩へ担いだ、「小平にそう云うよ」
 三人は下へおりた。
 定七と政次は舟のほうへ去り、幾造と与兵衛は家へ戻った。与兵衛が土間をまわって店へゆき、飯台に向って腰をおろすと、仙吉が駆けこんで来て、「腹がへった」と云った。
「腹ばかりへらしてやがる」と源三が珍しく口をきいた、「飯なら向うで喰べろ」
「そして寝ちまえか」と仙吉が云った、「いいつらの皮だ」
 おみつ[#「みつ」に傍点]が酒と肴を持って、与兵衛の向うへ来、酌をしながら、「どうだったの」と訊いた。与兵衛はうんといって、静かに二つ飲み、盃を持ったまま、おみつ[#「みつ」に傍点]を見た。
「権を捜すのに手間がとれた、糸をたぐっていったら、ばかな話でこっちにいやあがった」と与兵衛は云った、「櫓下に瘤金ていう女衒がいるんだが、そこのめしをくってたんだ」
「それでおきわ[#「きわ」に傍点]さんていう娘は」
「本所の安宅《あたけ》だった」
「岡場所なのね」
「岡場所だ」と与兵衛は頷いた、「さんぴんだの折助がはばをきかすところだ」
 おみつ[#「みつ」に傍点]は彼に酌をし、幾造は黙って、酒の燗《かん》をしていた。
 与兵衛はおきわ[#「きわ」に傍点]に会ったこと、その主人に掛合った始末を語った。おきわ[#「きわ」に傍点]はあまりいい縹緻《きりょう》ではない、色が白く、ぼっちゃりしているだけで、気の弱そうな娘だった。親に渡した金は話のとおり十二両だが、雑用《ぞうよう》が出ているので、身の代金は二十両だという。娘はまだ客を取っていないそうだし、足元をみられているから、二十両はやむを得まい。金を持って来るまで、二三日店へ出さずに待っていてくれ、「そう念を押して来た」と与兵衛は云った。
「本当に客を取らせないでおくかしら」
「ここの名を云っといた」と与兵衛は一と口飲んで幾造を見、「――ここの名はあらたかだぜ、おやじ、安楽亭の者だと云ったら、ぎくりとしゃあがった」
「あの人に話して来るわ」とおみつ[#「みつ」に傍点]が云った、「よかったわ、どんなによろこぶかわからないわ」
「あんまり望みをもたせるな」と幾造が云った、「その娘を現に引取るまでは、どうなるかわからねえ、どこでどんな手違いが起こるかわからねえ、かげんして云っとくほうがいいぜ」
 おみつ[#「みつ」に傍点]は頷いて奥へはいった。
「ここの名なんぞむやみに口にするなよ」と幾造が与兵衛に云った、「この島の内なら引受けるが、よその土地で十手をくらっても、おれにはどうにもならねえからな」
「わかってるよ」と与兵衛が云った。
 暫くして、富次郎があらわれた。彼はひきつったような顔つきで、与兵衛の側へやって来ると、ひどく吃《ども》りながら、「ほんとですか」と問いかけた。与兵衛は彼がふるえているのを認め、そして彼のしんけんな眼つきに気づくと、「礼には及ばねえ」と云ってそっぽを向いた。
「本当にあれは無事でしたか」と富次郎はせきこんで訊いた、「当人に会って来て下すったんですか、なにか云いませんでしたか」
「うるせえな」と与兵衛が云った、「おみつ[#「みつ」に傍点]さんに話したほかに云うこたあねえ、あっちへいってくれ」
 富次郎は「済みません」とおじぎをし、それから、もういちどおじぎをして、しょんぼりと奥へ去っていった。
 明くる朝、定七が子雀を庇へあげていると、吉永町の勝兵衛がやって来た。ひどくおずおずしたようすで、定七に挨拶をし、「一昨日あたりここへ誰か来た者はないか」と訊いた。定七は目笊のぐあいを直しながら、誰かとは誰だ、と訊き返した。
「おらあよく知らねえんだが」と老人は口ごもった、「なんでも八丁堀の人らしいんだが」
「八丁堀がどうしたって」
「おらあなんにも知らねえんだ、いま人が来て、訊いて来いと頼まれたもんだから」と老人は云った、「来たか来ねえかだけわかればいいんだ」
「そいつも八丁堀か」と定七が云った、「自分で来いと云ってやれ、自分で来られねえくらいなら、つまらねえ詮索《せんさく》をするなってな、わかったか」
「わかったよ、そう云うよ」と老人は追従するように笑った、「そのとおり云ってやるよ、邪魔をして済まなかった」
 勝兵衛は去った。
「お、今日は元気だな」と定七は子雀に話しかけた、「今日は喰べるじゃねえか、そうだそうだ、喰べなくちゃいけねえ、もうすぐおっ母さんが来るからな、おっ母さんもおめえのことを心配していらあ、ひとりでどこへはぐれちまったかってよ、いまにきっと捜し当てて来るぜ」
 子雀は目笊の中で、しきりに飯粒を啄んでいた。定七は石ころを幾つか拾うと、「おめえ鳴けばいいんだがな」と云いながら、そこをはなれてゆき、堀端の毀れ舟へ腰をおろした。半刻ばかりして、おみつ[#「みつ」に傍点]が洗濯物を干しに来、定七を見て「飽きないわね」と独り言を云いながら首を振った。定七は向う岸を見ていた。吉永町のほうでは、家並の上で雀たちが騒いでいた。やかましく鳴き交わす声も聞えるし、飛び立ったり舞いおりたりするさまが、朝の薄陽の光りの中で小さく見えていた。
「あの中にいねえのかな」と定七は心もとなげに呟いた、「きっといるんだろうが、どうしてこっちへ来ねえのかな」
 食事のときには、定七は子雀を家の中へ入れ、食事が済むとまた庇へのせた。そして日の昏れるまで、石ころを握って、辛抱づよく見張りを続けた。
 翌日も同様で、夕方になり、子雀を自分の部屋へ入れると、店へ来て、「どうしたんだろう親方」と幾造に訴えた。幾造は肴を拵《こしら》えていて、質問の意味がわかると、「いいかげんにしろ」と渋い顔をし、それから、「荷おろしは今夜だったな」と定七を見た。

[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]

「こっちを九つ(十二時)にでかける約束だが、月が心配なんだ」と定七が云った、「おとついの晩も照ってやがったし、いやに天気が続きゃあがるから、――今日は十三夜ぐれえじゃねえかな」
「十三日だ」と幾造が云った。
「中川はだだっ広いから、あんまり月がいいとまるっきり見とおしになっちまう」
「灘文で手を打つさ」
「安公たちのときもその筈だったぜ」と定七が云った、「あのときもちゃんと手が打ってあるって云ってた、ところがあのとおりだ、船番所は出なかったが町方が張ってやがって、正太と安公がいかれちゃったぜ」
「そいつはおめえが片づけたさ」と幾造が云った、「そのとき張ってたのが、このあいだ来た岡島ってえ同心だろう、二人のことを話していたように思うがな」
「あめえ野郎さ」と云って、定七は脇のほうへ唾を吐き、自分の手を見た。
 そこへ与兵衛が出て来た。彼は湯あがりで、艶《つや》つやと血色のいい顔をしてい、定七に向って、「ちょうどいい加減だぜ」と云った。定七はゆっくりと首を振り、「おれは酒にする」と答えた。与兵衛は飯台に向って腰かけ、手拭で額から頸《くび》のまわりを拭きながら、「そうか」と頷いた。
「そうか、おめえは荷おろしのまえには、湯にはへえらなかったっけな」
 定七は屹《きっ》と振向いた、「可笑《おか》しいか」
「――よせよ」と、まをおいて与兵衛が云った、「気に障ったのか」
「なんでもねえさ」と定七は眼をそらした。
 やがて、店が賑やかになってきた。
 あの客が来て、例のとおり隅で飲みだし、政次と由之助と源三が、湯からあがった順に出て来た。仙吉はいちばんあとだったが、ひどくうきうきしたようすで、おまけに、しかつめらしく構えようとしていた。かれらは小部屋で博奕《ばくち》をしていたのだが、仙吉は一人で勝ったし、今夜の「荷おろし」に伴れていってもらえるのである。彼にとっては初めてのことで、ようやくいちにんまえになれる、という自負とうれしさのために、自分で自分を扱いかねているというようすだった。
 定七が半刻ほどして寝にゆくと、与兵衛が富次郎を呼びだして来た。その朝、富次郎は頭の晒し木綿もやめたし、月代《さかやき》を剃り、洗ってもらった自分の袷に角帯をしめて、さっぱりとお店《たな》者らしくなっていた。――与兵衛は自分で呼びだしにゆき、店へ伴れてくると、飯台へ並んで掛けさせて、酒をすすめた。定七が神経を尖《とが》らせていたように、与兵衛も平生とは違ってみえた。いつもはむっつりしている彼が、その夜はよく飲んだし、活溌に話したり笑ったりした。
「おれたちはこんな人間だが、堅気な者の気持だってわかるぜ、堅気ないろ恋っていうやつも悪かあねえ」と与兵衛は繰り返し云った、「一生を棒にふるようないろ恋なんて、話か芝居にしかねえもんだと思ってた、そんなものにぶっつかったためしがねえからな、それでこっちもつんときたらしいや」
「安心しろ、大丈夫だ」と与兵衛は富次郎に酌をしてやった、「金はもうできたも同様だし、あの娘もきれいなままで引取れる、いっしょになったら仲よくやるんだぜ、こういう苦労をして夫婦になったってことを、生涯、忘れるんじゃあねえぜ」
 富次郎はすすめられる酒を、舐《な》めるように啜《すす》りながら、しきりに眼を拭いていた。
「そうだ、忘れるんじゃあねえ」と隅であの客が云った、「この世はみんないっときのまだってことをな――石は泣きゃあしねえんだ」
 由之助が振向いて「石がどうしたって」と訊いた。
「石は泣きゃあしないっていうのさ」
 由之助は「どういう洒落《しゃれ》だ」と訊き返し、客は黙って、頭をゆっくりと右へ左へと振った。
「へ、――」と由之助が呟いた、「よく水を差すようなことばかり云うおやじだ」
 十時ごろに定七が起きて来ると、その客が帰っていった。いつものとおりふらふらに酔っていて、いちど引返して来、油障子をあけて、なにか云いたそうに店の中を眺めていたが、すぐにまた障子を閉めて、帰っていった。――そのあとで、定七と与兵衛が、仙吉を伴れて舟の支度をしに出た。舟は猟舟の小型のもので、水押が高く、櫓が三|挺《ちょう》かけられる。かれらはそれへ蓆や、麻縄や手鉤《てかぎ》などを積み、蓆の中には長脇差を二本隠した。
「雲はあるが、こころぼせえな」定七は気にして幾たびも空を見た、「こころぼせえ雲だ、晴れちまいそうだな」
 与兵衛はだまっていた。
「晴れると昼間みてえになるぜ」と定七は舟から岸へあがりながら云った、「どうしてこう天気が続きゃあがるんだろう、頭の芯《しん》まで乾いちまったような気持だぜ」
 与兵衛は定七を見たが、やっぱりなにも云わなかった。仙吉が岸へあがって、陽気に鼻唄をうたいだすと、定七は「野郎、静かにしろ」と叱りつけ、挙で頭を小突いて、また空を見あげ見あげ、苛《いら》いらした足どりで店のほうへ去った。
 仙吉は舌打ちをして、「定あにいどうかしているぜ」と云った。
「おれだって同じこった」と与兵衛が舟からあがって来て云った、「荷おろしに出るときは誰だってそうだ、てめえにもいまにわかるさ」
「あにいも同じだって」
 与兵衛が云った、「荷おろしのときはな」
 かれらは時計が十二時を打ってからでかけていったが、定七はでかけるまで、子雀のことを諄《くど》くおみつ[#「みつ」に傍点]に頼んでいた。朝になったら庇の上へあげてやってくれ、飯粒はやわらかく煮返すこと、庇へ上げたら猫や鳶に気をつけてくれ、などということを、繰り返しおみつ[#「みつ」に傍点]に頼んだ。
「わかったわ」とおみつ[#「みつ」に傍点]は微笑しながら頷いた、「雀のほうでいやがりさえしなければそのとおりにするわ」
 そして三人は出ていった。
 明くる朝、――おみつ[#「みつ」に傍点]は起きるとすぐに、かれらの部屋を覗《のぞ》いたが、三人は帰っていなかった。それで雀のことを思いだし、外へ出してやろうとすると、その雀は死んでいた。目笊の上に掛けてある風呂敷をとってみると、子雀は両肢を伸ばして横に倒れており、嘴のすぐさきに、ひと固まりの飯粒が乾いていた。
 おみつ[#「みつ」に傍点]は息をひそめた。すると隣りの六帖で「誰だ、定か、――」という政次の声がした。寝床の中にいるらしい、おみつ[#「みつ」に傍点]は「あたしよ」と答え、雀をのせた板を持って、裏へ出ていった。
「怒るわねきっと」とおみつ[#「みつ」に傍点]は独りで呟いた、「どうしようかしら、見るとおもいが残るわ、いっそ見せないほうがいいわね」
 すぐに決心したようすで、棒切れを拾うと、空地の土の柔らかなところを掘り、雀を埋めて、その上へ枯れかかった藜《あかざ》の小枝を挿《さ》した。おみつ[#「みつ」に傍点]は裾を直して跼み、その小さな墓に向って手を合わせたが、ふと自分の子供らしいしぐさが恥ずかしくなったとみえ、いそいで立ちあがって、家のほうへ戻った。釜場《かまば》では父親の幾造が顔を洗っていて、「帰ったようすはないか」と訊いた。
「ええまだらしいわ」とおみつ[#「みつ」に傍点]が答えた、「雀が死んでたんで埋めて来たのよ」
 幾造はぎょっとしたように、濡れた顔のまま娘のほうへ振返った。なにか悪い前兆でも聞いたような眼つきで。だがすぐに、手拭で顔を拭きながら、「そうか」と云った。
 ――荷おろしは失敗した。
 幾造のそう思っていることが、おみつ[#「みつ」に傍点]にはよくわかった。うまくいったとすれば、おろした荷を此処《ここ》へ運んで来る筈である。中川から此処までには、芦田の水路が幾らもあるが、日なかに舟を隠して置けるような場所はなかった。荷おろしは失敗したのだ、失敗することは珍しくはないが、午後になり、日が昏れてからも、三人の帰るようすがなかった。
 政次も由之助も源三も、むろんそのことは察しているらしい。三人の帰らないことも気になっているのだろうが、誰もそのことに触れようとはしなかった。幾造やおみつ[#「みつ」に傍点]はもとより、みんななにごともなかったような態度で、むしろいつもより陽気になり、灯がはいるとすぐ、富次郎まで呼びだして、賑やかに店で飲み始めた。
 あの客の来たのは七時ころであるが、油障子のあいたとたん、みんな急に口をつぐんで、振向いた。賑やかな店の中が突然しんとなり、はいって来た客はたじろいだ。異様なほどの沈黙と、みんなの注目をあびてたじろいだようすだったが、「大きな月が出ているぜ」と誰にともなく云い、土間をまわって、いつもの隅へいって腰をおろした。
「断わっておくが」と幾造がその客に云った、「今夜は肴はなしだぜ」
「いいとも」と客は頷いた、「ごらんのとおりもう酔ってるんだ」
「おじさん」と政次が呼びかけた、「いつも飲んでいられて、いい御身分だな」
「おんばそだちさ」と云って、由之助が笑った。
 それから半刻《はんとき》ほど経ってから、小部屋のほうでおみつ[#「みつ」に傍点]が叫び声をあげ、「お父っさん」と呼ぶのが聞えた。幾造が立ちあがると、政次、源三、由之助たちもとびあがり、先を争うように奥へ走りこんだ。
「置いてきぼりか」と客は云って、残された富次郎に呼びかけた、「こっちへ来てつきあってくれないか、富さんとか聞いたが、金の心配はいらないぜ」
 富次郎はぼんやりした眼で、その客を見まもった。
「金はあるんだ」と客はふところを押えた、「ここに持ってるから大丈夫だ、こっちへ来てつきあってくれないか」
 富次郎は自分の盃を持って立ち、その客のほうへいった。もうかなり飲んでいて、顔が蒼《あお》ざめ、ちょっとふらふらした。
「おまえさんの話は聞いたよ、――まあ一ついこう」客は富次郎に酌をした、「おまえさんのことは聞いた、こっちはいつも酔ってるし、ごくとびとびだったがね、あらましのことは聞いてた、――どうしたんだ、飲まないのかね」
 富次郎は黙って飲んだ。

[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]

 小部屋ではみんなが与兵衛を囲んでいた。
 与兵衛は頭から顔半分と、右の肩から二の腕へかけて晒し木綿が巻いてあり、どちらにも血が滲《にじ》んでいた。血はどす黒く乾いているが、かなりな傷であることは、滲んでいる血痕の大きさで察しがついた。
「番所じゃあねえ、やっぱり町方だ」と与兵衛はひどくかすれた声で、喘《あえ》ぎ喘ぎ云った、「二つ入《いり》のところで待伏せていやがった」
「水を飲まねえか」と由之助が訊いた。
「酒を呉れ、酒を冷で呉れ」
「だめだ、酒はいけねえ」と幾造が云った。
「いいんだ、傷なら心配はねえ」と与兵衛は云った、「手当をするときに見た、焼酎《しょうちゅう》で洗うときにすっかり見てあるんだ」
「手当はどこでした」
「仲町の平野だ」
「おめえのいろのいるうちだな」と政次が訊いた、「あそこのかみさんがやったんだろう、あのかみさんは尻に刺青《いれずみ》があって、その刺青のある尻を捲《まく》って啖呵《たんか》を切るんだ」
 幾造が「政」と云い、政次は黙った。
「傷は大丈夫だから、酒を持って来てくれ」
 幾造はおみつ[#「みつ」に傍点]に頷いた。おみつ[#「みつ」に傍点]は店へいって酒を湯呑に注いで戻った。与兵衛は一と息にそれを呷《あお》った。
「定と奴《やっこ》はだめか」と幾造が訊いた。
「五はいの舟で囲まれた」と与兵衛は湯呑を持ったまま云った、「おれは待伏せをくったと思ったから、とびこんで逃げろとどなった、どなりながらおれは三尺を解き、もういちど、とびこめってどなった」
 仙吉はうろうろしていた。初めてのことでのぼせあがってしまったらしい、与兵衛は着物をぬぐと、仙吉を突きとばしながら、自分もいっしょに川へとびこんだ。
「暫くもぐっていて、それから顔を出して見ると、定のやつが舟の上にいた」と云って、与兵衛は深い息をした、「月がいいから、よく見えた、野郎は肌ぬぎになって、長脇差を抜いて暴れていた、すぐに捕方の舟が取巻いて、姿は見えなくなったが、それでも二度か三度、長脇差を振りまわすのが見えた、ほんのちょっとのまだったが、ぎらっ、ぎらっと光るのが見えた、ほんのちょっとのまだった、そして、捕方のやつらが、刺股《さすまた》や棒でめった打ちに撲《なぐ》りつけ、凄《すご》いような悲鳴が聞えてからも、気ちげえみてえに撲りつけてやがったが、急にばたりと静かになった」
「いかれたんだな」と由之助が呟いた。
 政次の唇が、よじれるようにまくれて、白い歯が見えた。幾造はおみつ[#「みつ」に傍点]に「店へいっててくれ」と云い、おみつ[#「みつ」に傍点]はすなおに店へ去った。
「ところがおれは、自分のことを忘れていた」と与兵衛が続けた、「定のほうに気をとられて、自分のうしろを見なかったが、うしろに捕方の舟がいたんだ、向うのほうが先にみつけたんだろう、ひょいと気がついたときには、髪の毛へ袖搦《そでがらみ》をひっかけられた。それがまたうまくひっかかりやがって、あっというまに引きよせられると、頭のここを、十手で三度ばかり、思いっきりやられた」
 彼は眼が眩《くら》み、頭がぼうとなった。捕方に舟の上へひきあげられ、そこへ放りだされたが、動くこともできずにのびていた。
 ――もう一人いた筈だな、
 ――あっちで押えた。
 捕方たちのそんな会話が聞え、近くの舟から、「痛え、痛えよう」という、仙吉の叫び声が聞えた。定はやられ仙吉も捉《つか》まった、そう思うと、吐きけのするほど怒りがこみあげてきた。怒りというよりも嘔吐《おうと》のこみあげるような気持で、いきなりはね起きると、側にいた捕方の一人にとびつき、その男と折重なって、川の中へとびこんだ。
「すばやくやったつもりだが、とびこむまえに腕を斬られたらしい」と与兵衛は、片肌ぬぎになっている、右の腕を見た、「とびこむときかもしれねえ、いつやられたか気がつかなかったが、あとで見ると、この辺からここまで、ぱっくり口があいてやがった、――たしかに刀傷なんだ」
「小平のちくしょう」と政次が呟いた、「あのちくしょう、生かしちゃあおかねえぞ」
「すっこんでろ」と幾造が云った、「灘文はおれがいいようにする、てめえなんぞの出る幕じゃあねえ」
 与兵衛が幾造を見あげた、「あのお店者、富次郎っていう、あの男のことをどうしよう」
「そんな心配はするな」
「いやそうじゃねえ、約束したんだ」と与兵衛は首を振った、「娘のことは引受けた、安心しろって、おれはあの男に約束した、そのために三十両稼ごうと思ったんだ」
「おめえの罪じゃねえさ」と幾造がまた遮《さえぎ》った、「とにかく横になって休め、その話はあとのことだ」
 与兵衛はなお、「親方」と呼びかけたが、幾造は政次たち三人に、「伴れてって寝かしてやれ」と云い、自分は土間へおりて、店のほうへ出ていった。
 店ではあの客と富次郎が飲んでおり、おみつ[#「みつ」に傍点]が燗番をしていた。幾造はおみつ[#「みつ」に傍点]に代り、おみつ[#「みつ」に傍点]は奥へはいったが、立ちあがったときすばやく、「話しといたわ」と幾造に呟いて、富次郎のほうへ眼をはしらせた。荷おろしが失敗したことを話したのだろう。幾造は頷いただけで、おみつ[#「みつ」に傍点]が去ると、富次郎のようすをそれとなく見まもった。
 富次郎はおちつきを失っていた。顔は蒼ざめて硬ばり、盃を持った手のふるえているのが見えた。酒は飲まず、客の話すのを聞いているが、まったくうわのそらで、あたまをほかのことにとられているのがよくわかった。――そのうちに客は立ちあがり、裏へ手洗いにいって戻ると、「外はいい月だぜ」と云った。
「浮かねえな、富さん」と客は富次郎のうしろへいって肩を叩いた、「ひとつ外へ出て、月を眺めながら飲もうか」
 富次郎はぼんやりと客を見た。客はもういちど彼の肩を叩いて、「元気をだせよ」と覗きこんだ。
「おめえもおれも、ここではよそ者だ」とその客は云った、「よそ者はよそ者同志で飲もう、向うに松の生えてる土堤《どて》があるんだ」そして幾造のほうを見て訊いた、「親方、――あの松の生えてる土堤はまだあのままか」
「あのままだ」と幾造が答えた。
 幾造の眼が鈍い光りを放ち、追っかけて云った、「あそこは月見酒にはもって来いだ」
「なあ、いこう富さん」
「ゆくなら若い者に案内させるぜ」と幾造が云った、「足場が悪いから案内をさせよう、大事な持ち物があったら預かって置くぜ」
「そんな心配は御無用だ」
「だって金を持ってるんだろう、いつもそう云ってたように思うぜ」
「金は持ってる」とその客はふところを叩いた、「ここに、胴巻でしっかり括《くく》りつけてあるさ、ほんとだぜ、親方」
「そいつは預けてゆくほうがいいや」
 幾造は富次郎が振向くのを見た。殆んど怯えたような眼で、振向いて幾造を見た。幾造はその眼に頷いてみせ、客に向って、云った、「少しばかりならいいが、胴巻へ入れるほど持ってるなら預かっておこう、場所が場所だからな、そのほうが安心して飲めるぜ」
「なんでもねえさ」とその客は手を振った、「そんな心配は御無用、――ゆくか、富さん」
 富次郎は口がきけなかった。舌でもつったように、口はあいたが声が出ず、頭で、ぎこちなく頷いた。
「よし、酒を頼むよ、親方」とその客が云った、「肴は、ねえんだっけな、ここに出ているこいつでいいや、この目刺の焼いたのでいいから、ちょっと竹の皮かなにかに包んでくれ」
「酒はもうこれでいいだろう」と幾造は五合徳利を見せた、「盃は湯呑のほうがいいな、――おみつ[#「みつ」に傍点]、竹の皮があったら持って来てくれ」
 富次郎は黙って眺めていた。まったく血のけを失った顔は、仮面のように硬ばり、歯をくいしばるたびに、顎の肉が動いた。――幾造は黙って支度をし、おみつ[#「みつ」に傍点]はそっと奥へ去った。なにかしらぎらぎらするような、一種の気分が店ぜんたいにひろがってゆき、富次郎はその重さに耐えかねたかのように、自分の喉へ手をやりながら、ひそかに喘いだ。
 幾造は酒徳利と、二つの湯呑と、竹の皮包をそこへ出して、「政、――」と奥へ呼びかけた。すると富次郎が、「あ」と声をあげた。
「私がゆきます」と彼は吃りながら云った、「いや、案内はいりません、この人と私と、二人だけで大丈夫です」
「そうだ、案内には及ばない」とその客が首をぐらぐら振った、「場所はおれが知ってるさ、おめえ残りを持ってくれ、富さん」
 客は酒徳利を持った。富次郎がこっちへ来ると、客は徳利のくびに付いている細い縄を指にひっかけ、「いって来るぜ、親方」と云いながら、足もとの危なっかしい足どりで、先に外へ出ていった。
「いいのか」と幾造が富次郎の眼を見た、「おめえで大丈夫か」
「ええ、大丈夫です」と彼は二つの湯呑を袂《たもと》へ入れながら、深い息をして云った、「どうせ同じことですから、自分でやります」
 幾造はじっと彼をみつめ、それから手早くなにかを包んで、「これを持ってゆけ」と飯台の上へ置いた。富次郎は案外しっかりした手つきでそれを取ると、顔をそむけながらふところへ入れ、竹の皮包を持って、客のあとを追った。
 その客は橋の上で待っていた。
「安楽亭か」と客は云っていた、「洒落たおやじだ、ここでどんな事があるか、およそおれは知ってるが、それに安楽亭とは皮肉な名を付けたもんだ、洒落たおやじだぜ」
 そしてふらふらと歩きだした。
 富次郎は客のうしろからついていった。客は暢気《のんき》に鼻唄をうたったり、富次郎に話しかけたりしながら、吉永町の堀端を右へ、ふらふらと歩いていった。吉永町がきれて、――橋を渡ると、土盛りをした更地が一画あり、そこから先には家がなかった。遠くのほうはわからないが、ゆくにしたがって左右がひらけ、月をうつして光る沼地や、芦の繁みや、雑草の伸びた荒地などが続き、やがて向うに、ぼんやりと黒く、横に延びている並木のようなものが見えた。
「あれが土堤だ」と客が指さして云った、「ときに、おれはなんの話をしていたっけかな」
 富次郎は唾をのんで答えた、「この辺のことです、昔よくこの辺へ来たという話ですよ」
 客は喉で笑い、それから云った、「――あいびきにな」

[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]

 二人は松の下の、枯れかかった草の上に腰をおろした。酒徳利を倒れないように置き、竹の皮包をひらき、それぞれ湯呑を手に持った。
 富次郎は飲まなかった。客もそれほど欲しくないのか、ときどき舐めるように啜りながら、また逢曳《あいびき》の話をしていた。富次郎はときどきふところへ右手を入れるが、決断のつかないようすで、その手をそろそろと出し、ゆっくりと深く息を吐いた。松の枝からもれてくる月の光りで、彼の顔は石のように硬く、頬の肉がそぎおとされでもしたように、くぼんで影をつくっているのが見えた。
「そっちを芦田というんだ」客が急に話を変え、前へ顎をしゃくりながら云った、「生えてる芦はいまに刈取って、葭簾《よしず》やなんかに使うんだ、知ってるか」
「ええ、いいえ」と富次郎は首を振った、「知りません」
 土堤の向うには、遠くまでずっと芦が茂っており、それらが月光の下で、畑のようにきちんと、畝《うね》作りになっているのがわかった。その芦の間で、突然ばしゃばしゃと高い水音がし、客はどきんとして「ええ吃驚《びっくり》する」と呟いた。
「吃驚させやがる」と云って、客は湯呑を口へもっていった、「魚じゃあねえな、魚にしちゃあ音が大きすぎる、川獺《かわうそ》だな、きっと川獺だぜ」
「富次郎が顎をひきしめ、右手をすっとふところへ入れた。すると客が「それには及ばねえ」と云った。
「そんな物を出すことはねえ」と客は静かに振返った、「そんなことをしなくっても、金はおまえにやるよ」
 富次郎は息を詰め、がたがたとふるえた。そして恐怖に憑《つ》かれたような眼で、客のすることを眺めていた。客は両手をからふところへ入れ、なにかの結び目を解くと、片方の袖から長い胴巻を抜きだした。そしてそれをくるくると巻いて、両手で重さを計るように、ゆらゆらさせてから、「さあ取ってくれ」と富次郎のほうへさしだした。
「五十両と少しある、取ってくれ」
 富次郎は戸惑いをし、喉にからまるような声で、「だってそんな、そんな大枚なお金をどうして」と吃り吃り云った。
「おれには用がねえからだ」と客は遮って云った、「用がないばかりじゃあない、おれはこの金が憎いんだ、さあ取ってくれ」
 客はまるめた胴巻を、富次郎の手へ押しつけた。富次郎は化かされたような顔で、それを受取ったが、それは重みのために、彼の手から落ちそうになった。
「なにかわけがあるんですね」
「それを聞いてもらいたいんだ」と云って、客は湯呑に酒を注ぎ、ぐっと半分ほど飲んだ、「おれは向うの、木場に勤めていた、さっき話したあいびきの相手、―――おつじ[#「つじ」に傍点]というんだが、それと世帯をもって、紀の国屋という店の帳場をやっていた、……ごく短い話だが、聞いてくれるか」
 富次郎は「ええ」と頷いた。
 世帯をもって五年、子供が三人生れた。生活は楽ではなかったが、おつじ[#「つじ」に傍点]はやりくりがうまく、平板ながら穏やかな暮しが続いた。そのままでいればなにごともなかったが、彼はふと、「妻や子供たちにもう少しましな生活がさせてやりたい」と思い、材木の売買に手をだした。それが初めから思惑はずれだったし、帳場の金に二十両ばかり穴をあけた。彼は紀の国屋に十六年勤めていたのだが、主人が息子の代に替ったあとで、「しめしがつかないから」と暇を出された。家じゅうの物を洗いざらい売り、知人から借り集めた十両ほどの金を入れたが、若い主人は「不足の分もなるべく早く返してくれ」と云うだけであった。
 一家は平野町の裏長屋へ移った。売れる物は残らず売ったあとで、親子五人が、その古長屋の六帖に坐り、壁ひとえ隣りで赤児の泣く声を聞いたとき、彼は口惜しさと絶望のために泣いた。
 ――気を強くもってよ、これからじゃないの。
 妻のおつじ[#「つじ」に傍点]が明るい声で励ました。あたしは平気だ、貧乏には馴れている、あなたといっしょになら、どんな貧乏だって平気だ。お互いにまだ若いし、幸いみんな丈夫だから、やろうと思えばどんなことだってできる。気を強くもって、初めからやり直してみよう、とおつじ[#「つじ」に傍点]は繰り返した。
「女房の云うことをきけばよかった、けれどもおれはきかなかった」と客は云った、「どうしても自分のしくじりを取返して、ひとしんしょう作りたかった、纒《まと》まった金をつかんで世間をもみかえし、女房や子供にもいい暮しがさせてやりたかった、どうにもじっとしていられなかったんだ」
 彼は江戸を出ていった。
 三年のあいだ辛抱してくれ、と彼は妻に頼んだ。金が出来ても出来なくても、三年経ったら帰って来る。苦しいだろうが、三年のあいだ辛抱してくれ、と頭をさげて頼んだ。おつじ[#「つじ」に傍点]は初め反対した。親子、夫婦がいっしょならどんな苦労でもする、お金もたくさんは欲しくないし、いい暮しをしたいとも思わない。どうか思いとまってくれ、と泣きながらくどいた。けれども、彼の決心が動かないと知ると、こんどは思いきりよく承知して、それほどの決心ならやむを得ない、留守のことは引受けようし、三年と限ることもない、これでよしと思うまでやってみるがいい、「あとのことは決して心配はいらないから」と云った。
 そして彼は木曽へいった。
「木場で育ったし、大きく儲《もう》けるには木出しかないと思った」と客は続けた、「木曽から紀州へまわり、また木曽へ戻り、京、大阪ととび歩いた、一年経ち、二年経ったが、元手なしの仕事だから思うようにいかない、もう半年、もう半年と、手紙で延ばし延ばし、とうとう五年経ってしまった」
 今年がまる五年めで、偶然の機会から二百両ちかい金をにぎった。もうひと稼ぎと思ったが、いちど妻子の顔を見るつもりで、江戸へ帰って来た。上方のほうの払いを済ましても、金は百二十両ばかりあった。それを妻に渡して、すぐ引返すつもりだったが、平野町の長屋には妻も子もいなかった。
「裏長屋は人の出替りの多いものだ、こっちは引越してすぐに旅へ出たから、むろん知った顔はなかったが元の家には他人がはいっていて、それも一年まえに移って来たそうで、おれの女房子のことはなにも知らなかった」
 差配を訪ねると、差配も変ってい、元の差配は下谷のほうへ越していったという。長屋じゅうを訊きまわり、家主を訪ねた。そして、家主から元の差配の住所を聞いて、下谷の竹町へとんでいった。
「元の差配はそこにいた」と客はひと息ついて云った、「差配は知っていた、――おつじ[#「つじ」に傍点]のやつは、おと年の暮に、二人の子供を伴れて、大川へ身投げをして、死んだというんだ」
 富次郎は「え」といった。客は坐り直し、両手で膝《ひざ》を抱えて、その膝がしらへ額を押しつけた。
「暮しもひどかったらしい」と客は含み声でゆっくりと云った、「ずいぶん苦しかったようだが、二番めの五つになる娘が、はやり病いで死んでから、すっかり気おちがして、暫くは正気をなくしたようになっていたそうだ、そして十二月の末ちかい或る晩、――残った二人の子といっしょに」
 そこで言葉を切ったまま、かなり長いこと黙っていた。
「金がなんだ、百や二百の金がなんだ」と客は呻くように云った、「女房や子供が死んでしまって、百や二百の金がなんの役に立つ、金なんぞなんの役に立つかってんだ」
 彼は気が狂いそうになり、狂ったように酒浸りになった。彼は自分を呪《のろ》い、その金を呪った。その金が妻子を殺したようなものである、彼がいれば妻子は死にはしなかったろう、彼は側にいなかった。何百里もはなれた遠い土地にいた。生活の苦しさ、幼い娘の死、それを妻はひとりで背負い、背負いきれなくなって死んだ。どんなに辛かったろう、どんなに苦しく、悲しいおもいをしたことだろう。そう考えると、「いっそおれも死んでくれよう」と幾たびか思った。
「どうして安楽亭へゆく気になったか、自分でもよくわからない」と客は顔を伏せたまま続けた、「古くからあの島の噂《うわさ》は聞いていた、いっそ死んでくれよう、という気持が、あそこへゆくきっかけだったかもしれない、そうではなくって、あそこの罪人臭さにひかれたのかとも思う、この金のために、――おれは妻子を殺したも同様だからな」
 客は顔をあげ、月光をあびた芦田のかなたを、暫くのあいだ眺めていた。
「これで話は終りだ」とやがて客が云った、「その金を使ってくれ、娘さんを請け出して、遣いこんだ金をお店へ返しても、少しは余るだろう、ほんの少しだろうが、もしもそれでまにあったら、望みの戸納質を始めるんだ」
 富次郎がなにか云おうとし、その客は首を振って「いやなにも云うな」と遮った。
「おれのことはおれが承知している、また上方へいってやり直すかもしれないし、このままのたれ死にをするかもしれない、どっちにしろ、富さんには縁のないこった、しかしただ一つ、一つだけ断わっておくことがある」そう云って客は富次郎を見た、「――その人と夫婦になったら、はなれるんじゃあねえぞ、どんなことがあっても、いっしょに暮すんだぜ」
 富次郎は固くなって「ええ」と頷いた。
「どんなことがあってもだぜ」
「ええ」と富次郎が云った、「きっと仰《おっ》しゃったとおりにします」
「約束するな」
「約束します」
「よし、――じゃあいってくれ」と客は酒徳利を取りあげた、「おれはもう少しここで飲むから、おめえは先に帰ってくれ」
「私も待っています」
「先に帰ってくれ」と客はするどい声で云った、「ここはおれとおつじ[#「つじ」に傍点]のあいびきをしたところだ、邪魔をしねえでいってくれ」
 そして乱暴に、湯呑へ酒を注いだ。富次郎は不決断に立ちあがり、「それではまた、あとでおめにかかります」と云い、不決断に、そこをはなれて歩きだした。――土堤をおりようとして、ふと、その客の名前さえ知らなかったことに気づき、立停って戻ろうとした。暗い松の樹蔭に、斑な月光をあびて、その客はぽつんと坐っていた。
「あとにしよう」と富次郎は呟いた、「あとで帰ってから訊けばいい、いまはそっとしておこう」
 そして彼は土堤をおりていった。
 明くる日の夕方、――ちょうど灯ともしどろに、富次郎とおきわ[#「きわ」に傍点]が、揃《そろ》ってその島から出ていった。おきわ[#「きわ」に傍点]は背丈も低く、まる顔の、ごく平凡な娘だったが、富次郎にたよりきったようすや、富次郎のこまかい劬《いたわ》りかたは、いかにもつつましやかできれいにみえた。
 安楽亭の表には、幾造とおみつ[#「みつ」に傍点]が見送っていた。与兵衛は寝ており、政次、源三、由之助の三人は、店で飲んでいた。かれらにはもう、富次郎やおきわ[#「きわ」に傍点]のことなど、まるで関心がないようであった。
「あの二人が初めてね」とおみつ[#「みつ」に傍点]が父親に云った、「よそからここへ来て、きれいなままで出てゆくのは、あの二人が初めてよ、――仕合せになれるといいわね」
 幾造はあいまいに「うう」といった。
 あの客は戻らなかった。土堤からどこかへいってしまったらしい、その夜も戻らなかったし、二度と安楽亭へはあらわれなかった。もし誰かが、あの松の生えている土堤へいってみれば、そこに五合の酒徳利と、二つの湯呑が残っているのを、みつけたことだろう。あの客はついに名前も知れず、どこへ去ったかもわからずじまいであった。



底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
   1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「小説新潮」
   1957(昭和32)年1月号
初出:「小説新潮」
   1957(昭和32)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ

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