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妥協
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妥協
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)暗雲《あんうん》
(例)暗雲《あんうん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)初|愛子《あいこ》
(例)初|愛子《あいこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)すら/\
(例)すら/\
海野の結婚は、何の滞りもなくすら/\と進捗して行つた。勿論進捗したのに何の不思議もなかつたが、間へ入つた木村と大野との心持には多少の不安と躊躇がない訳にはいかなかつた。それゆゑ其の縁談は、中途ちよつと低気圧が低迷した形であつたのも是非のないことであつたが、しかし本人同志の意志はそれらの暗雲《あんうん》を切払ふのに十分であつた。
木村と大野は、嫁さんの方《はう》が余り海野を信じすぎてゐはしまいかと云ふ不安を懐《いだ》いてゐた。正直に言ふと、海野の真実《ほんとう》の生活を知らないのが気毒だと云ふ感じがした。海野の側《かは》に立つて見る日になれば、必ずしもそれは総ての条件を具備した新婦だとは言へなかつた。少し年を取りすぎてゐたし、率直にいへばさう美しい人だとも思へなかつた。そんな点では反つて海野に気毒《きのどく》だとも思はれたが、しかし困つたことには、海野の不定な収入によつて与へられてゐる貧しい生活や、人並はづれて疎懶《そらい》で不検束な彼の性質が、彼女の期待をやがて、無慚に裏切りはしまいかと云ふ虞《おそれ》がない訳に行かなかつた。
『あの細君なら、きつと海野を鞭撻してくれるに違ひない。海野もこれから新しい生活に入ることができるかも知れない。』
木村と大野はさうも考へた。と言ふよりも其を希望して休《や》まなかつた。でなければ初めから縁談などに口を利《き》く必要もない筈であつた。
『いくら幾何《いくら》の収入があれば、きつと上手にやつて見せます。強ち収入の多いことは望みません。』
大野の細君が当人から聞いて来たところによると、そんな風に言つてゐるらしい彼女の慾望は、案外穏かなものであつた。
詩人肌の、決して現実主義者でも実行家でもなかつた海野に言はせれば媒介者の木村や大野の収入について言つてゐることは、余りにミニマムすぎるので、何だか吝《けち》くさくて不快であつた。彼の筆法から言へば、彼の収入は事実の五倍若しくは十倍でならなければならない筈であつた。彼は心からの嘘つきでも誇大妄想狂でもなかつたけれど、物質上の問題に限らず、空想的な彼の頭脳は総てに高いところへ附いてゐた。最近有望らしく見えた一つの縁談が、暫らく女と交際してゐるうちに、いつとなし破れてしまつたのも、一つの原因は彼の実生活が、少しづゝ無漸に暴露されて行つた結果に他ならなかつた。木村と大野とはそれを警戒した。殊にも木村は海野の生活を、その毛孔まで知悉《しりつく》してゐた。
終《しま》ひに木村の細君たちの蔭口によつて、ひどく乗気になつてあせつてゐた先方の気勢が、やゝ挫《ひし》がれかゝつて、縁談が停滞したときに、そんな事に世間的の才をもつてゐる海野は、自身出かけて行つて、事柄をぴつたり決めて来た。さうでなくとも、見合をした時から、登志子――女の名――の心はすつかり海野に傾いてゐた。物質上の問題に関しては、大概のことなら自分の方で何うにも出来るといふ自信があつた。
登志子はもと東京の女学校出身であつた。そして縁談を捜すべく、しばらく引込んでゐた田舎から出て来て妹の家にゐた。妹は新しい大学出のちやき/\であつた。そして高商出《かうしやうで》の会社員と幸福な家庭を作つてゐた。単に幸福といふ以上に、彼女は西洋風なその良人によつて敬愛されてゐた。その親愛ぶりを面《まのあた》りに見せつけられてゐる登志子が、結婚を急ぐのに無理はなかつた。彼女は学校を出てから、さうかうしてゐるうちに、疾《とつく》に結婚期をすぎて、もう三十近くになつてゐた。勿論二十六七と云ふ触込であつたが、孰にしても初婚とは思はれない年輩であることは言ふまでもなかつた。
『処女とは思へないね。』木村は大野の細君にそんなことを言つてゐた。
『さうですね。』木村の細君も気乗のしない調子であつた。
勿論この話は、登志子の妹の律子と、大野の細君と懇意なところから生れて来て、それを木村に取次いだのは大野の細君と近所附合をしてゐる木村の細君の愛子であつたのは事実であつたが、しかし其の話が具体化されて来るにつれて、愛子の心に暗い影の差して来たことを木村は見遁すことが出来なかつた。
愛子は強ちそれを否定はしなかつた。その成立のために相当努力もした。しかし努力をしながら、彼女の心は始終不安を感じてゐた。愛子に関して、多少恋愛の経緯《いきさつ》があつたと想像される海野と木村との友情の恢復されたのは、木村と愛子とが同棲してから大分たつてからであつた。海野によつて木村に紹介されたとも言へる愛子が、海野の目の前で木村に征服されてしまつたことは、海野に不快の感を与へたに違ひないと想像された。愛子が海野に対して負目《ひけめ》をもつてゐることは明かであつた。のみならず、愛子の前生活を殆んど残らず知悉《ちしつ》してゐると思はれる海野が、登志子のやうな階級の婦人と、世間並に結婚式を挙げるといふことは、愛子に取つて一種の苦痛でもあり侮辱でもあつた。
愛子が若し強い女だつたら、何等かの方法によつて、この縁談を破壊してしまはないとも限らないのであつた。幸ひなことには彼女は臆病であつた。そして何んな場合にも、自分の意志を直截《ちよくさい》に発表することのできない性質に産れついてゐた。産れついてゐたと云ふよりも、因襲的に然うされてゐたのかも知れなかつた。そこに無自覚な彼女の苦悩と矛盾があつた。
とにかく縁談は進捗した。大野の細君の話によれば、登志子はその家を継ぐために、外に出ることを嫌つてゐた。そして養子の選択をしてゐるあひだに時が流れて、何時か老けてしまつたと云ふのであつた。勿論それに偽があらうとも思はれなかた。彼等はそんな点にかけては、堅い基督教の信者にも比しい紳士淑女であつたからである。
木村は択ばれた或日を期して、礼服を着用して、大野と同列で、海野のために結納の目録をもつて、登志子の妹夫婦の家へ出向いて行つた。
その頃海野は、結婚の準備に忙しかつた。勿論双方の協議で、至極簡短な形式に拠ることにはなつてゐたが、しかし不断から何彼に乏しい述ちであつた彼に取つては、それだけでも然う容易な仕事ではなかつた。彼は二人が結納をもつて行つてゐるあひだ、緊張した気分で、木村の書斎に待つてゐた。そして二人が帰つて来たときには、木村の座を占めて、折ふし来合せてゐた木村の友人と話をしてゐた。
特別の親しみをもつてゐる海野が、自分の座に坐つてゐたからと言つて、それを不快に思ふ理由は少しもないのだと思はれたが、敏感な木村には、それが不思議な衝動を与へずにはおかなかつた。
『愛子は全部木村の所有ではない。』
それが然《さ》う語つてゐるやうに、木村には思へた。
木村は勿論それを理由のない癖《ひが》みだと思つて、自身で打消してゐたが、愛子に対する淡い憎悪が微かに動くのを感じないではゐられなかつた。
『今日はお目出度いんだから、奥さん酒を呑まして下さい。』磊落で剽軽な大野は、愛子を振顧つて揶揄ふやうに言つた。彼は登志子の妹のところで、少しばかりお祝ひの酒を飲んで微醺《びくん》を帯びてゐた。
『いけません。今日は酔つていらつしやるから。』座を起ちかけた愛子は、襖のところで、大野を振顧りながら気むづかしやの良人に気をかねるやうに言つたが、客に酒など出すことを嬉しがる彼女は、少したつてから銚子をつけて、そこへ持つて来た。
愛子は大野の細君の美枝子から、夫婦間の秘密をすら聞かされるくらゐに仲好くしてゐた。それは誰にでもそんな風《ふう》にしないではゐられない、美枝子から接近したのであつたが、時とすると同性《どうせい》の愛といふのは、こんなものを言ふのであらうと思はれるくらゐ、感激的な手紙を、愛子はつい鼻の先きにゐて始終行逢つてゐる美枝子から受けたりした。愛子の口から木村が時々大野の噂を聞されたのは、その頃からであつた。
『お酒を飲んぢや剽軽なことばかり言つてゐる人なのよ。』
愛子はさういつて、彼の東北弁の仮声《こわいろ》などを使ひながら木村に話した。其《それ》は大野夫婦が、郊外にある木村の家の近所へ引越して来てから間もなくであつた。その当初|愛子《あいこ》はつひ自分の部屋から垣根ごしにみえる井戸端へ来て、顔を洗つたり、水を提げて行つたりする彼の褞袍姿や、ハイカラな洋服をつけて、極《きま》つた時間に家《うち》を出て行くのを、屡々門の前で注視した。そして双方の子供たちの交渉から初まつた愛子と美枝子の接触が、段々深くなつて行つた頃、愛子は大野とも親しい口を利きあふやうな関係になつたのであつた。
木村は海野と登志子との結婚談によつて、大野とも親しくなつたのであつたが、美枝子の愛子に対する不思議な親愛ぶりを、何うかすると、愛子の大野に対する心持と結びつけて考へたりして、理由のない淡い寂しさを感ずることすらあつた。
大野は愛子が『一本きりですよ』と、何か特別の親しみをでも感じてゐるやうな調子で持つて来た銚子を取上げて、少しばかりの下物で、独酌《どくしやく》でやりながらいつもの剽軽な罪のない調子で、好い機嫌になつてゐた。木村と海野はそれを傍観してゐた。
木村は好人物の大野のさうした態度を、その陰鬱な表情から想像されるほど苦々しくは思つてもゐないのであつたか、しかし主人の自分を通すことなしに――少くとも彼の意志からではなしに愛子が大野の揶揄半分の要求によつて酒をつけたり、制限を加へたりしたのを、たゞそれだけのことと看過すことはできなかつた。
『やあ、失礼しました。』大野は自分独りで飲んでゐるのを傍《はた》から冷い目で視てゐられるやうな気がして、やがて好い加減《かげん》に酒を切《き》りあげた。
『酒をもつてこないか。』木村はさうなると、自分から愛子に吩附《いひつ》けずにはおけなかつた。
『いや、もう沢山ですよ。あんた方やらんから詰らん。』大野はさう言つて手巾《はんけち》で口を拭つてゐた。
木村と大野は、嫁さんの方《はう》が余り海野を信じすぎてゐはしまいかと云ふ不安を懐《いだ》いてゐた。正直に言ふと、海野の真実《ほんとう》の生活を知らないのが気毒だと云ふ感じがした。海野の側《かは》に立つて見る日になれば、必ずしもそれは総ての条件を具備した新婦だとは言へなかつた。少し年を取りすぎてゐたし、率直にいへばさう美しい人だとも思へなかつた。そんな点では反つて海野に気毒《きのどく》だとも思はれたが、しかし困つたことには、海野の不定な収入によつて与へられてゐる貧しい生活や、人並はづれて疎懶《そらい》で不検束な彼の性質が、彼女の期待をやがて、無慚に裏切りはしまいかと云ふ虞《おそれ》がない訳に行かなかつた。
『あの細君なら、きつと海野を鞭撻してくれるに違ひない。海野もこれから新しい生活に入ることができるかも知れない。』
木村と大野はさうも考へた。と言ふよりも其を希望して休《や》まなかつた。でなければ初めから縁談などに口を利《き》く必要もない筈であつた。
『いくら幾何《いくら》の収入があれば、きつと上手にやつて見せます。強ち収入の多いことは望みません。』
大野の細君が当人から聞いて来たところによると、そんな風に言つてゐるらしい彼女の慾望は、案外穏かなものであつた。
詩人肌の、決して現実主義者でも実行家でもなかつた海野に言はせれば媒介者の木村や大野の収入について言つてゐることは、余りにミニマムすぎるので、何だか吝《けち》くさくて不快であつた。彼の筆法から言へば、彼の収入は事実の五倍若しくは十倍でならなければならない筈であつた。彼は心からの嘘つきでも誇大妄想狂でもなかつたけれど、物質上の問題に限らず、空想的な彼の頭脳は総てに高いところへ附いてゐた。最近有望らしく見えた一つの縁談が、暫らく女と交際してゐるうちに、いつとなし破れてしまつたのも、一つの原因は彼の実生活が、少しづゝ無漸に暴露されて行つた結果に他ならなかつた。木村と大野とはそれを警戒した。殊にも木村は海野の生活を、その毛孔まで知悉《しりつく》してゐた。
終《しま》ひに木村の細君たちの蔭口によつて、ひどく乗気になつてあせつてゐた先方の気勢が、やゝ挫《ひし》がれかゝつて、縁談が停滞したときに、そんな事に世間的の才をもつてゐる海野は、自身出かけて行つて、事柄をぴつたり決めて来た。さうでなくとも、見合をした時から、登志子――女の名――の心はすつかり海野に傾いてゐた。物質上の問題に関しては、大概のことなら自分の方で何うにも出来るといふ自信があつた。
登志子はもと東京の女学校出身であつた。そして縁談を捜すべく、しばらく引込んでゐた田舎から出て来て妹の家にゐた。妹は新しい大学出のちやき/\であつた。そして高商出《かうしやうで》の会社員と幸福な家庭を作つてゐた。単に幸福といふ以上に、彼女は西洋風なその良人によつて敬愛されてゐた。その親愛ぶりを面《まのあた》りに見せつけられてゐる登志子が、結婚を急ぐのに無理はなかつた。彼女は学校を出てから、さうかうしてゐるうちに、疾《とつく》に結婚期をすぎて、もう三十近くになつてゐた。勿論二十六七と云ふ触込であつたが、孰にしても初婚とは思はれない年輩であることは言ふまでもなかつた。
『処女とは思へないね。』木村は大野の細君にそんなことを言つてゐた。
『さうですね。』木村の細君も気乗のしない調子であつた。
勿論この話は、登志子の妹の律子と、大野の細君と懇意なところから生れて来て、それを木村に取次いだのは大野の細君と近所附合をしてゐる木村の細君の愛子であつたのは事実であつたが、しかし其の話が具体化されて来るにつれて、愛子の心に暗い影の差して来たことを木村は見遁すことが出来なかつた。
愛子は強ちそれを否定はしなかつた。その成立のために相当努力もした。しかし努力をしながら、彼女の心は始終不安を感じてゐた。愛子に関して、多少恋愛の経緯《いきさつ》があつたと想像される海野と木村との友情の恢復されたのは、木村と愛子とが同棲してから大分たつてからであつた。海野によつて木村に紹介されたとも言へる愛子が、海野の目の前で木村に征服されてしまつたことは、海野に不快の感を与へたに違ひないと想像された。愛子が海野に対して負目《ひけめ》をもつてゐることは明かであつた。のみならず、愛子の前生活を殆んど残らず知悉《ちしつ》してゐると思はれる海野が、登志子のやうな階級の婦人と、世間並に結婚式を挙げるといふことは、愛子に取つて一種の苦痛でもあり侮辱でもあつた。
愛子が若し強い女だつたら、何等かの方法によつて、この縁談を破壊してしまはないとも限らないのであつた。幸ひなことには彼女は臆病であつた。そして何んな場合にも、自分の意志を直截《ちよくさい》に発表することのできない性質に産れついてゐた。産れついてゐたと云ふよりも、因襲的に然うされてゐたのかも知れなかつた。そこに無自覚な彼女の苦悩と矛盾があつた。
とにかく縁談は進捗した。大野の細君の話によれば、登志子はその家を継ぐために、外に出ることを嫌つてゐた。そして養子の選択をしてゐるあひだに時が流れて、何時か老けてしまつたと云ふのであつた。勿論それに偽があらうとも思はれなかた。彼等はそんな点にかけては、堅い基督教の信者にも比しい紳士淑女であつたからである。
木村は択ばれた或日を期して、礼服を着用して、大野と同列で、海野のために結納の目録をもつて、登志子の妹夫婦の家へ出向いて行つた。
その頃海野は、結婚の準備に忙しかつた。勿論双方の協議で、至極簡短な形式に拠ることにはなつてゐたが、しかし不断から何彼に乏しい述ちであつた彼に取つては、それだけでも然う容易な仕事ではなかつた。彼は二人が結納をもつて行つてゐるあひだ、緊張した気分で、木村の書斎に待つてゐた。そして二人が帰つて来たときには、木村の座を占めて、折ふし来合せてゐた木村の友人と話をしてゐた。
特別の親しみをもつてゐる海野が、自分の座に坐つてゐたからと言つて、それを不快に思ふ理由は少しもないのだと思はれたが、敏感な木村には、それが不思議な衝動を与へずにはおかなかつた。
『愛子は全部木村の所有ではない。』
それが然《さ》う語つてゐるやうに、木村には思へた。
木村は勿論それを理由のない癖《ひが》みだと思つて、自身で打消してゐたが、愛子に対する淡い憎悪が微かに動くのを感じないではゐられなかつた。
『今日はお目出度いんだから、奥さん酒を呑まして下さい。』磊落で剽軽な大野は、愛子を振顧つて揶揄ふやうに言つた。彼は登志子の妹のところで、少しばかりお祝ひの酒を飲んで微醺《びくん》を帯びてゐた。
『いけません。今日は酔つていらつしやるから。』座を起ちかけた愛子は、襖のところで、大野を振顧りながら気むづかしやの良人に気をかねるやうに言つたが、客に酒など出すことを嬉しがる彼女は、少したつてから銚子をつけて、そこへ持つて来た。
愛子は大野の細君の美枝子から、夫婦間の秘密をすら聞かされるくらゐに仲好くしてゐた。それは誰にでもそんな風《ふう》にしないではゐられない、美枝子から接近したのであつたが、時とすると同性《どうせい》の愛といふのは、こんなものを言ふのであらうと思はれるくらゐ、感激的な手紙を、愛子はつい鼻の先きにゐて始終行逢つてゐる美枝子から受けたりした。愛子の口から木村が時々大野の噂を聞されたのは、その頃からであつた。
『お酒を飲んぢや剽軽なことばかり言つてゐる人なのよ。』
愛子はさういつて、彼の東北弁の仮声《こわいろ》などを使ひながら木村に話した。其《それ》は大野夫婦が、郊外にある木村の家の近所へ引越して来てから間もなくであつた。その当初|愛子《あいこ》はつひ自分の部屋から垣根ごしにみえる井戸端へ来て、顔を洗つたり、水を提げて行つたりする彼の褞袍姿や、ハイカラな洋服をつけて、極《きま》つた時間に家《うち》を出て行くのを、屡々門の前で注視した。そして双方の子供たちの交渉から初まつた愛子と美枝子の接触が、段々深くなつて行つた頃、愛子は大野とも親しい口を利きあふやうな関係になつたのであつた。
木村は海野と登志子との結婚談によつて、大野とも親しくなつたのであつたが、美枝子の愛子に対する不思議な親愛ぶりを、何うかすると、愛子の大野に対する心持と結びつけて考へたりして、理由のない淡い寂しさを感ずることすらあつた。
大野は愛子が『一本きりですよ』と、何か特別の親しみをでも感じてゐるやうな調子で持つて来た銚子を取上げて、少しばかりの下物で、独酌《どくしやく》でやりながらいつもの剽軽な罪のない調子で、好い機嫌になつてゐた。木村と海野はそれを傍観してゐた。
木村は好人物の大野のさうした態度を、その陰鬱な表情から想像されるほど苦々しくは思つてもゐないのであつたか、しかし主人の自分を通すことなしに――少くとも彼の意志からではなしに愛子が大野の揶揄半分の要求によつて酒をつけたり、制限を加へたりしたのを、たゞそれだけのことと看過すことはできなかつた。
『やあ、失礼しました。』大野は自分独りで飲んでゐるのを傍《はた》から冷い目で視てゐられるやうな気がして、やがて好い加減《かげん》に酒を切《き》りあげた。
『酒をもつてこないか。』木村はさうなると、自分から愛子に吩附《いひつ》けずにはおけなかつた。
『いや、もう沢山ですよ。あんた方やらんから詰らん。』大野はさう言つて手巾《はんけち》で口を拭つてゐた。
それから結婚式の日取《ひどり》や、嫁さんの品評や、海野の生活などについて、暫く話がつゞいた。
極めて簡短な結婚式の挙げられたのは、それから間もなくであつた。実は海野はその空想家らしい性質から好い意味にも悪い意味にも、とかく誇張的な注文をつけるのが癖であつたところから、結婚式や結婚後の生活などについても、彼の現在の生活が許すよりも、遥《はる》かに高い或物も描《ゑが》いてゐたのであつたが、いきなりな木村の意見や、結婚を急いでゐる先方の希望などに余儀なくされて、是といふ準備なしに、型ばかりの式をすますことにした。それにしても、慌忙しいこの結婚についての海野の努力は大したものであつた。結婚費用だとか、係累の処置だとか、それには又愛子たちが岡焼半分に蔭で噂をし合つてゐるやうに、結婚後の生活が直ぐにも破綻を来すやうな虞《おそれ》があつてもならなかつた。怠けもの以上のづぼらと無精ではあつたけれど、結婚に対する彼の気分は、不思議に緊縮してゐた。彼は何となく忙しげであつた。勿論彼の年齢から来てゐる点もあつたが、結婚は彼に取つては、寧ろ気毒な労苦であつた。
『海野はやつぱり独りでゐた方がいゝんだがな。』木村は愛子に言つてゐた。新婦や、新婦の妹たちの期待を裏切らないだけの努力が、今までの経験から推して、海野に続けられさうには思へなかつた。
『さうですね、お嫁さんが物をもつてゐるから好いやうなものゝ、苦労はしますね。』愛子も言つた。
五月の中頃であつたが、その日は曇つた冷やかな陽気であつた。木村は細君の愛子より一足先きに家を出た。海野は、同じ郊外といつても、まだ開けたばかりの寂しいところにゐた。美枝子の話によると、新婦の登志子は、何かをちやき/\やつて退ける妹と連立つて、新郎の生活振を外から観察するために、その家の居まはりを見に行つたさうであつたが、静寂を好む海野の住居だけあつて、可也落着きの好い高台の一軒家であつた。
木村が行つたときには、海野はまだ為残《しのこ》した仕事があるとみえて、外出してゐなかつたが、近所にゐる彼の友人や妹夫婦などと対してゐるうちに直《ぢき》に帰つて来た。
勝手では赤飯をたくために小豆が煮られたり、仕出屋の荷が持込まれたりしてゐたが、いつもは埃ぶかい二階の座敷にも、彼の友人が持つて来た、愛《め》でたい画がかけてあつたり、式の花が活《いか》つてゐたりした。式の盃もそこに用意されてあつた。木村はそんなものを見てから、下へおりて縁側の日南に寝そべつてゐたが、海野は気忙しさうに少しも下に落着かなかつた。
するうち新婦の荷物が持込まれた。下駄箱だの、傘だの蝙蝠傘だの……それから洗面器、鏡台、箪笥、ズツクの大きな袋に入つた夜具だの。
木村の細君の愛子が、乳呑児を子守に負はせて来たのは、それから間もなくであつたが、四辺がやゝ薄暗くなる時分に、新婦が妹夫婦大野夫婦と一緒になつてやつて来た。
『あなた入《い》らしたんですよ。』
誰かと話に耽つてゐた木村は、細君にさう言はれて、周章《あわて》て玄関ロへ出て行つた。愛子も続いた。そして大野が靴をぬいで上ると、やがて登志子と美枝子が上り、姙娠中らしい登志子の妹が、良人に扶けられて、最後に俥をおりた。せか/\したやうなそんな時の様子を見ても、登志子の性質が率直で単純であることが想像された。
家中に忽ち静粛な混乱が初まつた。そして盛装した新婦たちが暫らく下座敷で休憩してから、手軽な式が初まつた頃には、郊外の森や畑や人家が、しつとりした夜の色につゝまれて、部屋には電燈が輝いてゐた。蓋をするときの登志子の調子は、相変らず卒直であつたが、海野は傍で盃を扱つてゐる愛子を、どこか拒否してゐるやうに、木村には感ぜられた。
とにかく余り厳粛な気分ではなかつたにしても、式は手取早くすまされた。その後で、祝宴が催された。
『やれ/\』と言つた風で、海野は今夜の花婿であると同時に、気骨の折れる世話焼であると云ふ形で、疲れた顔をして床柱にもたれて坐つてゐた。木村はその隣に席を占めて、何となく首《うな》だれてゐたし、愛子はいくらか浮いたやうな表情で、好奇の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]りながら、その次にすわつてゐた。反対の側には、体《からだ》のぢく/\した美枝子が登志子に隣つて、畏まつてゐたが、大野は始終愉快さうな表情をして、猪口を手にしてゐた。ハイカラな妹夫婦が、お上品に、しかし物馴れた調子で、程好く人々と話を交へてゐた。海野の叔父夫婦もそこに居並んでゐた。
下で働いてゐる人たちや、上へ物を運んでくる女たちは、余り気のきいた方ではなかつた。そして端にすわつてゐる愛子が、時々足らないものを下へ取りに行つたり、お銚子を運んだりするために、座を起たなければならなかつた。
『どうです奥さん、今夜は一つ大いに飲うと思ふんですが、お酌をしてもらへませんか。』
少し酔が出て来たところで、大野がお銚子を見《み》に行つた愛子に言ふと、彼女も唆かされたやうに、
『さうですね。お酌しませうか』と、さう言つて、女たちの手が届かぬがちであつたところから、真中へ出て行つた。
『木村君は酒は余りいかないさうですが、奥さん貴女は一つ何うです。』
そして大野は愛子に猪口をさした。
『いゝえ、私不調法です。まあお酌してあげませう。』愛子は調子づいたやうな風で、銚子を取上げた。
『そんなことを仰るもんぢやありませんよ。まあ一つ』などと、大野は揶揄ひながら、酌をしてもらつてゐた。
酔のまはつて来た大野の調子に釣寄せられた愛子の態度は、何うかすると木村の存在を忘れたかのやうに見えた。木村は謹慎な態度でさへあつたら、この場合適度な注意と斡旋とが、必ずしも咎むべきことではないと思ひながらも、彼女の不謹慎を見遁すわけには行かなかつた。或点では可也な怜悧さをもつてゐる彼女が、そんな点では全く謹慎をかいてゐると同時に、人々の前に其の愚かしさを暴露してくれたやうに思はれて、恥辱を感じない訳には行かなかつた。たとひ其が間のぬけがちな座敷の空虚を充さうとした善良な動機から来たことにしても、いくらか脱線してゐることは争へなかつた。
木村は不愉快になつた。彼女の最も悪い癖が、思ひがけなく挑発されたのだと思ふと、肚立しくも情なくも思はれてならなかつた。彼に嫉妬をさへ感じた。
愛子も遉に気がついたらしかつた。そして間もなく折詰や引物《ひきもの》を包むなどの仕事に働いてゐるときには、家庭の用事に働いてゐる時と変らない効々《かひ/\》しい彼女に返つてゐた。
初夏の夜が、静かに更けて行つた。蒸暑い部屋に、冷い夜風が流れて、酒と交渉のない女たちの顔に、疲労の色が見えた。席が白けたところで、蛙の啼声が聞えたりした。
盃盤が撤せられた頃に、愛子は大野に手伝つて、夜具の入つた袋の口を釈いたりしてゐた。
木村は段梯子の中程から、酔つてちろ/\する目をその方へ注いでゐた。いつか酒を過してゐた彼の頭脳は可也哀感的になつてゐた。
極めて簡短な結婚式の挙げられたのは、それから間もなくであつた。実は海野はその空想家らしい性質から好い意味にも悪い意味にも、とかく誇張的な注文をつけるのが癖であつたところから、結婚式や結婚後の生活などについても、彼の現在の生活が許すよりも、遥《はる》かに高い或物も描《ゑが》いてゐたのであつたが、いきなりな木村の意見や、結婚を急いでゐる先方の希望などに余儀なくされて、是といふ準備なしに、型ばかりの式をすますことにした。それにしても、慌忙しいこの結婚についての海野の努力は大したものであつた。結婚費用だとか、係累の処置だとか、それには又愛子たちが岡焼半分に蔭で噂をし合つてゐるやうに、結婚後の生活が直ぐにも破綻を来すやうな虞《おそれ》があつてもならなかつた。怠けもの以上のづぼらと無精ではあつたけれど、結婚に対する彼の気分は、不思議に緊縮してゐた。彼は何となく忙しげであつた。勿論彼の年齢から来てゐる点もあつたが、結婚は彼に取つては、寧ろ気毒な労苦であつた。
『海野はやつぱり独りでゐた方がいゝんだがな。』木村は愛子に言つてゐた。新婦や、新婦の妹たちの期待を裏切らないだけの努力が、今までの経験から推して、海野に続けられさうには思へなかつた。
『さうですね、お嫁さんが物をもつてゐるから好いやうなものゝ、苦労はしますね。』愛子も言つた。
五月の中頃であつたが、その日は曇つた冷やかな陽気であつた。木村は細君の愛子より一足先きに家を出た。海野は、同じ郊外といつても、まだ開けたばかりの寂しいところにゐた。美枝子の話によると、新婦の登志子は、何かをちやき/\やつて退ける妹と連立つて、新郎の生活振を外から観察するために、その家の居まはりを見に行つたさうであつたが、静寂を好む海野の住居だけあつて、可也落着きの好い高台の一軒家であつた。
木村が行つたときには、海野はまだ為残《しのこ》した仕事があるとみえて、外出してゐなかつたが、近所にゐる彼の友人や妹夫婦などと対してゐるうちに直《ぢき》に帰つて来た。
勝手では赤飯をたくために小豆が煮られたり、仕出屋の荷が持込まれたりしてゐたが、いつもは埃ぶかい二階の座敷にも、彼の友人が持つて来た、愛《め》でたい画がかけてあつたり、式の花が活《いか》つてゐたりした。式の盃もそこに用意されてあつた。木村はそんなものを見てから、下へおりて縁側の日南に寝そべつてゐたが、海野は気忙しさうに少しも下に落着かなかつた。
するうち新婦の荷物が持込まれた。下駄箱だの、傘だの蝙蝠傘だの……それから洗面器、鏡台、箪笥、ズツクの大きな袋に入つた夜具だの。
木村の細君の愛子が、乳呑児を子守に負はせて来たのは、それから間もなくであつたが、四辺がやゝ薄暗くなる時分に、新婦が妹夫婦大野夫婦と一緒になつてやつて来た。
『あなた入《い》らしたんですよ。』
誰かと話に耽つてゐた木村は、細君にさう言はれて、周章《あわて》て玄関ロへ出て行つた。愛子も続いた。そして大野が靴をぬいで上ると、やがて登志子と美枝子が上り、姙娠中らしい登志子の妹が、良人に扶けられて、最後に俥をおりた。せか/\したやうなそんな時の様子を見ても、登志子の性質が率直で単純であることが想像された。
家中に忽ち静粛な混乱が初まつた。そして盛装した新婦たちが暫らく下座敷で休憩してから、手軽な式が初まつた頃には、郊外の森や畑や人家が、しつとりした夜の色につゝまれて、部屋には電燈が輝いてゐた。蓋をするときの登志子の調子は、相変らず卒直であつたが、海野は傍で盃を扱つてゐる愛子を、どこか拒否してゐるやうに、木村には感ぜられた。
とにかく余り厳粛な気分ではなかつたにしても、式は手取早くすまされた。その後で、祝宴が催された。
『やれ/\』と言つた風で、海野は今夜の花婿であると同時に、気骨の折れる世話焼であると云ふ形で、疲れた顔をして床柱にもたれて坐つてゐた。木村はその隣に席を占めて、何となく首《うな》だれてゐたし、愛子はいくらか浮いたやうな表情で、好奇の目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]りながら、その次にすわつてゐた。反対の側には、体《からだ》のぢく/\した美枝子が登志子に隣つて、畏まつてゐたが、大野は始終愉快さうな表情をして、猪口を手にしてゐた。ハイカラな妹夫婦が、お上品に、しかし物馴れた調子で、程好く人々と話を交へてゐた。海野の叔父夫婦もそこに居並んでゐた。
下で働いてゐる人たちや、上へ物を運んでくる女たちは、余り気のきいた方ではなかつた。そして端にすわつてゐる愛子が、時々足らないものを下へ取りに行つたり、お銚子を運んだりするために、座を起たなければならなかつた。
『どうです奥さん、今夜は一つ大いに飲うと思ふんですが、お酌をしてもらへませんか。』
少し酔が出て来たところで、大野がお銚子を見《み》に行つた愛子に言ふと、彼女も唆かされたやうに、
『さうですね。お酌しませうか』と、さう言つて、女たちの手が届かぬがちであつたところから、真中へ出て行つた。
『木村君は酒は余りいかないさうですが、奥さん貴女は一つ何うです。』
そして大野は愛子に猪口をさした。
『いゝえ、私不調法です。まあお酌してあげませう。』愛子は調子づいたやうな風で、銚子を取上げた。
『そんなことを仰るもんぢやありませんよ。まあ一つ』などと、大野は揶揄ひながら、酌をしてもらつてゐた。
酔のまはつて来た大野の調子に釣寄せられた愛子の態度は、何うかすると木村の存在を忘れたかのやうに見えた。木村は謹慎な態度でさへあつたら、この場合適度な注意と斡旋とが、必ずしも咎むべきことではないと思ひながらも、彼女の不謹慎を見遁すわけには行かなかつた。或点では可也な怜悧さをもつてゐる彼女が、そんな点では全く謹慎をかいてゐると同時に、人々の前に其の愚かしさを暴露してくれたやうに思はれて、恥辱を感じない訳には行かなかつた。たとひ其が間のぬけがちな座敷の空虚を充さうとした善良な動機から来たことにしても、いくらか脱線してゐることは争へなかつた。
木村は不愉快になつた。彼女の最も悪い癖が、思ひがけなく挑発されたのだと思ふと、肚立しくも情なくも思はれてならなかつた。彼に嫉妬をさへ感じた。
愛子も遉に気がついたらしかつた。そして間もなく折詰や引物《ひきもの》を包むなどの仕事に働いてゐるときには、家庭の用事に働いてゐる時と変らない効々《かひ/\》しい彼女に返つてゐた。
初夏の夜が、静かに更けて行つた。蒸暑い部屋に、冷い夜風が流れて、酒と交渉のない女たちの顔に、疲労の色が見えた。席が白けたところで、蛙の啼声が聞えたりした。
盃盤が撤せられた頃に、愛子は大野に手伝つて、夜具の入つた袋の口を釈いたりしてゐた。
木村は段梯子の中程から、酔つてちろ/\する目をその方へ注いでゐた。いつか酒を過してゐた彼の頭脳は可也哀感的になつてゐた。
二三日してから、木村は結婚を祝福するために、海野を訪問する一人の青年と一緒に、彼を見舞つた。
木村と愛子とのあひだには、その前日から引続きの不快の念がまだ除《と》れなかつた。
勿論彼はその事について、深く愛子を責めやうとは思はなかつたが、しかしやつぱり押黙つてゐるのは苦しかつた。彼は彼女の或期間の生活が彼女にそんな気分を作らせたのだとは思つてゐたが、それを許すほどの寛容と、説いて聴かせるほどの親切を欠いてゐた。それを素直に受容れさせるだけの、理解に基いた愛情をすら持つてゐなかつた。教養のない愛子の表つらだけの負けず気が、それを反撥しなければ措かないことも事実であつた。
『一体お前は少し出過ぎるんだ。席の真中へ出て、大野の猪口を受けるなんか、不謹慎ぢやないか。』
木村は言出した。
愛子はつんとしてゐたが、勿論彼女は心にそれを咎めてゐた。
『誰の場合であるにしても、結婚式なぞは静粛であるべき筈のものだ。田舎なら大騒ぎをして、女も酒くらゐ飲むかも知れないが、そんな場合と違ふぢやないか。』
『わたしお酒なぞ飲みやしませんよ。』
『何うだか、己はよく見てゐなかつたけれど……。』
『お酒なぞ飲みやしません。誰もお酌をする人がなかつたから、何だか間がぬけて為様がないぢやありませんか。ですから……』愛子は答へた。蒼みを帯びた白い彼女の顔が、心持紅くなつてゐた。
『勿論出て行つて、お酌などする必要もないが、それよりも態度や口の利き方が不謹慎だと言ふんだ。』
『何を言つたか判りませんけれど、私別に何にも言つた覚えはありませんわ。』
『何だか分らないが、大野と調子を合せて、だらしのないことを言つてゐたよ。大野の細君が、あんな人の好い、剽軽な女だからいゝやうなものゝ、もつと真面目な女だつたら、あんなふざけた態度を見せられて、怒らずにはゐない筈だ。』
『さうですか。ぢや大野さんの奥さんに聞いてみませう。私がどんなことを言つたか。』
『白《しら》とぼけるのは、お前の悪い癖なんだ。己もはつきり記憶はしてはゐない。けれど随分人を侮辱したものぢやないか。たしかに侮辱した辞だつたんだ。』
『私が何を言つたんでせう。私何にも言やしませんよ。』
木村は肚立しくなつた。どこまでも自分を押通さうとする彼女が憎かつた。
『お前がそれほど言張るなら、海野にきいて見よう。海野だつて、苦々しく思つてゐたに違ひないんだから。そのうへ大野とふざけるなんて、余り乱次《だらし》がないぢやないか。お前は大野の家《うち》でいつもあんな態度で酒くらゐ飲《の》むんだらう。』
『嘘をおつきなさい。いくら莫迦だつて私大野さんの家へなぞ滅多にあがつたこともありませんよ。それに、貴方は大変気をまはして、大野さんと私とのあひだに何か関係でもあるやうに思つていらつしやるやうですけれど、そんなことがあれば、人なかであんな風にはできませんよ。』愛子は緊張した表情で言ふのであつた。
木村の感情は絶頂に荒れて来さうに見えた。
『勿論おれは其を言はうと思つてゐるんだ。大野が結納をもつて行つた晩、酒を要求した調子と、お前が情婦か何かのやうな態度で、酒を燗けて来たなどは、大野に対する心持を十分に証明してゐるんだ。』
『さうですか。ぢや然《さ》うとしてお置きなさい。そんなことが、大野さんの耳へでも入つたら、それこそ怒りますよ。』
『おれは大野にもきかうと思つてゐるんだ。』
『えゝ訊いてごらんなさい。』
『大野を呼んで来い。』木村は嵩《かさ》にかゝつて言つた。
『そんなことを言つて、呼んで来たら何うするんです。』愛子は蒼くなつてゐた。
『勿論大野を呼んでくることを、おれはお前に望んでゐるんだ。早くこゝへつれて来い。』木村は子供のやうに言募《いひつの》つた。
『え、呼んで来ますとも。』
何よりも木村は何処まで突張がつよいか知れない愛子の態度が憎かつた。劇しい争闘のあとで、愛子は裏へ出て行つた。
大野夫婦が、さも迷惑さうな、しかし悲痛な色を目に浮べて入つて来たのは、間もなくであつた。
『何うしたんです。』大野は目をぱち/\させながら、いくらか極悪さうに言つた。
木村は肩すかしを喰つたやうな、拍手ぬけのした感じがした。彼はそんな場合にも、笑ふことも頭を掻くこともできない性分に産れついてゐた。
『私に何か後ぐらいところでもあるやうなお話ですが、飛んでもないことです。』大野は俯き加減に言つた。
『そんなことがあれば、私が黙つてゐません。奥さんがかわいさうですから、どうぞ許してあげて下さいませ。』美枝子も曇んだ目をしよぼ/\させながら言つた。
『そんな単純な話ぢやないのです。総てが彼奴の悪い性癖から来てゐることです。僕にさう思はせることを享楽してゐるんです。』木村は分疏《いひわけ》するやうに言つた。
『貴方もまさか、さう信じてゐる訳でもなかつたでせうな。』大野も気転を利かした。
木村と愛子とのあひだには、その前日から引続きの不快の念がまだ除《と》れなかつた。
勿論彼はその事について、深く愛子を責めやうとは思はなかつたが、しかしやつぱり押黙つてゐるのは苦しかつた。彼は彼女の或期間の生活が彼女にそんな気分を作らせたのだとは思つてゐたが、それを許すほどの寛容と、説いて聴かせるほどの親切を欠いてゐた。それを素直に受容れさせるだけの、理解に基いた愛情をすら持つてゐなかつた。教養のない愛子の表つらだけの負けず気が、それを反撥しなければ措かないことも事実であつた。
『一体お前は少し出過ぎるんだ。席の真中へ出て、大野の猪口を受けるなんか、不謹慎ぢやないか。』
木村は言出した。
愛子はつんとしてゐたが、勿論彼女は心にそれを咎めてゐた。
『誰の場合であるにしても、結婚式なぞは静粛であるべき筈のものだ。田舎なら大騒ぎをして、女も酒くらゐ飲むかも知れないが、そんな場合と違ふぢやないか。』
『わたしお酒なぞ飲みやしませんよ。』
『何うだか、己はよく見てゐなかつたけれど……。』
『お酒なぞ飲みやしません。誰もお酌をする人がなかつたから、何だか間がぬけて為様がないぢやありませんか。ですから……』愛子は答へた。蒼みを帯びた白い彼女の顔が、心持紅くなつてゐた。
『勿論出て行つて、お酌などする必要もないが、それよりも態度や口の利き方が不謹慎だと言ふんだ。』
『何を言つたか判りませんけれど、私別に何にも言つた覚えはありませんわ。』
『何だか分らないが、大野と調子を合せて、だらしのないことを言つてゐたよ。大野の細君が、あんな人の好い、剽軽な女だからいゝやうなものゝ、もつと真面目な女だつたら、あんなふざけた態度を見せられて、怒らずにはゐない筈だ。』
『さうですか。ぢや大野さんの奥さんに聞いてみませう。私がどんなことを言つたか。』
『白《しら》とぼけるのは、お前の悪い癖なんだ。己もはつきり記憶はしてはゐない。けれど随分人を侮辱したものぢやないか。たしかに侮辱した辞だつたんだ。』
『私が何を言つたんでせう。私何にも言やしませんよ。』
木村は肚立しくなつた。どこまでも自分を押通さうとする彼女が憎かつた。
『お前がそれほど言張るなら、海野にきいて見よう。海野だつて、苦々しく思つてゐたに違ひないんだから。そのうへ大野とふざけるなんて、余り乱次《だらし》がないぢやないか。お前は大野の家《うち》でいつもあんな態度で酒くらゐ飲《の》むんだらう。』
『嘘をおつきなさい。いくら莫迦だつて私大野さんの家へなぞ滅多にあがつたこともありませんよ。それに、貴方は大変気をまはして、大野さんと私とのあひだに何か関係でもあるやうに思つていらつしやるやうですけれど、そんなことがあれば、人なかであんな風にはできませんよ。』愛子は緊張した表情で言ふのであつた。
木村の感情は絶頂に荒れて来さうに見えた。
『勿論おれは其を言はうと思つてゐるんだ。大野が結納をもつて行つた晩、酒を要求した調子と、お前が情婦か何かのやうな態度で、酒を燗けて来たなどは、大野に対する心持を十分に証明してゐるんだ。』
『さうですか。ぢや然《さ》うとしてお置きなさい。そんなことが、大野さんの耳へでも入つたら、それこそ怒りますよ。』
『おれは大野にもきかうと思つてゐるんだ。』
『えゝ訊いてごらんなさい。』
『大野を呼んで来い。』木村は嵩《かさ》にかゝつて言つた。
『そんなことを言つて、呼んで来たら何うするんです。』愛子は蒼くなつてゐた。
『勿論大野を呼んでくることを、おれはお前に望んでゐるんだ。早くこゝへつれて来い。』木村は子供のやうに言募《いひつの》つた。
『え、呼んで来ますとも。』
何よりも木村は何処まで突張がつよいか知れない愛子の態度が憎かつた。劇しい争闘のあとで、愛子は裏へ出て行つた。
大野夫婦が、さも迷惑さうな、しかし悲痛な色を目に浮べて入つて来たのは、間もなくであつた。
『何うしたんです。』大野は目をぱち/\させながら、いくらか極悪さうに言つた。
木村は肩すかしを喰つたやうな、拍手ぬけのした感じがした。彼はそんな場合にも、笑ふことも頭を掻くこともできない性分に産れついてゐた。
『私に何か後ぐらいところでもあるやうなお話ですが、飛んでもないことです。』大野は俯き加減に言つた。
『そんなことがあれば、私が黙つてゐません。奥さんがかわいさうですから、どうぞ許してあげて下さいませ。』美枝子も曇んだ目をしよぼ/\させながら言つた。
『そんな単純な話ぢやないのです。総てが彼奴の悪い性癖から来てゐることです。僕にさう思はせることを享楽してゐるんです。』木村は分疏《いひわけ》するやうに言つた。
『貴方もまさか、さう信じてゐる訳でもなかつたでせうな。』大野も気転を利かした。
木村が青年と共に、新婚後の海野をおとづれたとき、彼は新夫人が自分の着古しで作つてくれた羽織などを著て、憔悴してゐた。
三人は部屋でしばらく話してから、新緑を見に外へ出て行つた。
海野と木村のあひだに、あの夜の愛子の批評が出た。
『君の目には、どう云ふ風に見えたかね。』木村はきいた。
彼等は木立の多い丘に上つてゐた。何処を見ても、咽ぶやうな初夏の生気が漲つてゐた。青年は少し離れたところに跪坐《しやが》んで、新刊の雑誌に目をさらしてゐた。
『さあ、まあ別に何うと云ふ感じも起らなかつたね。』海野はいくらか遠慮するやうな、※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45]《とぼ》けたやうな口調で言ふのであつた。
『あの女の悪い一面を、又しても見せつけられたやうな気がするんでね。』
『さう言へば、そんな点もあつたやうだ。』海野は漸《やつ》とそれだけ言つて、暗い目をしてゐた。
木村はわれ知らず首が下つた。やつぱり好い気持はしなかつた。
『おれも明白《はつきり》とは言へないけれど、何だかかう、普通の女が余りやらない手つきをしたやうだね。』海野は何か諷《ふう》するやうに言つた。
木村にはそれがわからなかつた。しかし余りお品のいゝことではないだけは、彼の口吻《こうふん》でもわかつた。
『そんなことは何でもないぢやないか。』木村はさう言つてやりたいやうな気がしたが、しかし海野にさう指摘されるだけでも、十分不愉快であつた。
時々起りがちな、別れ話がその時も、木村の口から出た。
彼の縁談にいくらか支障を与へたといふ点で、海野が愛子《あいこ》を不快に思つてゐることは、木村にも想像された。
『とにかく一旦破壊して見やうと思ふ。僕たちは出発点を誤つてるんだ。だから然うでもしないと、僕たちの救はれる時がない。』
『さあ、それも好いかも知れないね。永久的でないにしても……当分のうち別れてみるのも好いかと思ふ。』海野は言ふのであつた。
『さうだ、断行しよう。』
『幸ひ正雄君もゐることだから、一応相談してみたら何うかね。さう云ふことになつたら、奥さんは僕述預かつてもいゝし、正雄君が一時引取つてもいゝんだからね。』
木村は不安を感じだした。
三人は部屋でしばらく話してから、新緑を見に外へ出て行つた。
海野と木村のあひだに、あの夜の愛子の批評が出た。
『君の目には、どう云ふ風に見えたかね。』木村はきいた。
彼等は木立の多い丘に上つてゐた。何処を見ても、咽ぶやうな初夏の生気が漲つてゐた。青年は少し離れたところに跪坐《しやが》んで、新刊の雑誌に目をさらしてゐた。
『さあ、まあ別に何うと云ふ感じも起らなかつたね。』海野はいくらか遠慮するやうな、※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45]《とぼ》けたやうな口調で言ふのであつた。
『あの女の悪い一面を、又しても見せつけられたやうな気がするんでね。』
『さう言へば、そんな点もあつたやうだ。』海野は漸《やつ》とそれだけ言つて、暗い目をしてゐた。
木村はわれ知らず首が下つた。やつぱり好い気持はしなかつた。
『おれも明白《はつきり》とは言へないけれど、何だかかう、普通の女が余りやらない手つきをしたやうだね。』海野は何か諷《ふう》するやうに言つた。
木村にはそれがわからなかつた。しかし余りお品のいゝことではないだけは、彼の口吻《こうふん》でもわかつた。
『そんなことは何でもないぢやないか。』木村はさう言つてやりたいやうな気がしたが、しかし海野にさう指摘されるだけでも、十分不愉快であつた。
時々起りがちな、別れ話がその時も、木村の口から出た。
彼の縁談にいくらか支障を与へたといふ点で、海野が愛子《あいこ》を不快に思つてゐることは、木村にも想像された。
『とにかく一旦破壊して見やうと思ふ。僕たちは出発点を誤つてるんだ。だから然うでもしないと、僕たちの救はれる時がない。』
『さあ、それも好いかも知れないね。永久的でないにしても……当分のうち別れてみるのも好いかと思ふ。』海野は言ふのであつた。
『さうだ、断行しよう。』
『幸ひ正雄君もゐることだから、一応相談してみたら何うかね。さう云ふことになつたら、奥さんは僕述預かつてもいゝし、正雄君が一時引取つてもいゝんだからね。』
木村は不安を感じだした。
愛子の弟の正雄が、その問題に入つて来たのは、それから木村と海野が、彼をその寄宿舎に訪ねたときに初まつた。
勿論正雄は、親たちの不効《ふがひ》なさから、労苦をなめさせられた姉を憐んでゐた。同時に彼女との結婚に恥を感じないではゐられなかつた。彼は義兄の木村を尊敬しながらも、心から親しむことができなかつた。姉の家庭を訪問する毎に、彼は悩みと不快を感じた。で、また年相当な単純な考から、その問題を極《ごく》の真正面から受容《うけい》れてしまつた。
木村と海野と正雄とは、町へ出て或るカフヱで、その事について、二時間ばかり意見を交換した。
木村は弱味を見せまいとした。
『とにかく愛子は二人に委さう。』彼は悲痛な調子で言つた。
正雄は心から苦しんでゐるらしかつた。
『おれかお預かりしてもいゝがね。』海野が主張した。
『さうですね。私も学校でも出てゐれば、引取りますけれど、何分寄宿にゐるものですから。』
『それは可いさ。君にそんな心配までさしちや気の毒だ。』
『済《す》みません。』正雄は気毒さうに言ふのであつた。そして、木村に向つて、
『兄さんに、ほんとにお気の毒ですから、それぢやそんな事《こと》にでも……。』
三人はやがてそこを出た。
『もつと突詰めたところまで行つてみよう。』木村は思つた。
海野は正雄に、何か連《しき》りに話しながら、少しおくれて歩《ある》いてゐた。
『いづれ明日の午後伺ひます。そして姉によくその話をして、連れてくることにします。』
四辻へ来たとき、正雄は校帽《かうばう》をとつて、さう言つて木村や海野に別れを告げた。
木村は海野と、同じ電車で郊外のステイシヨンまで来て、そこで袂を分つた。
家へかへると、愛子は蒼い顔をして鬱ぎこんでゐた。もう夜であつた。
木村は今の話を摘《つま》んで愛子に聞かせたが、愛子は黙つてきいてゐた。
『おれは海野の心持に疑ひを抱くね。』
木村が言つた。
愛子はうつかり返辞もできなかつた。勿論木村の意味もわからなかつた。
『お前は何《ど》う思ふね。』木村は暫くしてから訊いた。
『さうですね。私にはわかりませんけれども……。』
『勿論お前に解りやうはない。しかし結局二人のことは二人で責任を負ふより外ないんだからな。』木村は言うのであつた。
勿論正雄は、親たちの不効《ふがひ》なさから、労苦をなめさせられた姉を憐んでゐた。同時に彼女との結婚に恥を感じないではゐられなかつた。彼は義兄の木村を尊敬しながらも、心から親しむことができなかつた。姉の家庭を訪問する毎に、彼は悩みと不快を感じた。で、また年相当な単純な考から、その問題を極《ごく》の真正面から受容《うけい》れてしまつた。
木村と海野と正雄とは、町へ出て或るカフヱで、その事について、二時間ばかり意見を交換した。
木村は弱味を見せまいとした。
『とにかく愛子は二人に委さう。』彼は悲痛な調子で言つた。
正雄は心から苦しんでゐるらしかつた。
『おれかお預かりしてもいゝがね。』海野が主張した。
『さうですね。私も学校でも出てゐれば、引取りますけれど、何分寄宿にゐるものですから。』
『それは可いさ。君にそんな心配までさしちや気の毒だ。』
『済《す》みません。』正雄は気毒さうに言ふのであつた。そして、木村に向つて、
『兄さんに、ほんとにお気の毒ですから、それぢやそんな事《こと》にでも……。』
三人はやがてそこを出た。
『もつと突詰めたところまで行つてみよう。』木村は思つた。
海野は正雄に、何か連《しき》りに話しながら、少しおくれて歩《ある》いてゐた。
『いづれ明日の午後伺ひます。そして姉によくその話をして、連れてくることにします。』
四辻へ来たとき、正雄は校帽《かうばう》をとつて、さう言つて木村や海野に別れを告げた。
木村は海野と、同じ電車で郊外のステイシヨンまで来て、そこで袂を分つた。
家へかへると、愛子は蒼い顔をして鬱ぎこんでゐた。もう夜であつた。
木村は今の話を摘《つま》んで愛子に聞かせたが、愛子は黙つてきいてゐた。
『おれは海野の心持に疑ひを抱くね。』
木村が言つた。
愛子はうつかり返辞もできなかつた。勿論木村の意味もわからなかつた。
『お前は何《ど》う思ふね。』木村は暫くしてから訊いた。
『さうですね。私にはわかりませんけれども……。』
『勿論お前に解りやうはない。しかし結局二人のことは二人で責任を負ふより外ないんだからな。』木村は言うのであつた。
翌日木村は正雄のところへ電話をかけた。あの話はしばらく此のまゝ保留しておきたいと――
そしてその午後、木村と愛子とは、どこかへ遊びに出かけてしまつた。[#地付き](大正10[#「10」は縦中横]年7月「野依雑誌」)
そしてその午後、木村と愛子とは、どこかへ遊びに出かけてしまつた。[#地付き](大正10[#「10」は縦中横]年7月「野依雑誌」)
底本:「徳田秋聲全集第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「野依雑誌」
1921(大正10)年7月
初出:「野依雑誌」
1921(大正10)年7月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「野依雑誌」
1921(大正10)年7月
初出:「野依雑誌」
1921(大正10)年7月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ