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ふる年
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ふる年
徳田秋声
徳田秋声
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)然《さ》
(例)然《さ》
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(例)二|月《ぐわつ》
(例)二|月《ぐわつ》
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(例)※[#二の字点、1-2-22]
(例)※[#二の字点、1-2-22]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さう/\
(例)さう/\
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
「それは然《さ》うと、青木《あをき》さんでは、もうお産《さん》があつたんでせうか。」
細君《さいくん》のとし子《こ》が、ふと想出《おもひだ》したやうに言出《いひだ》した。ランプの下《した》で、春着《はるぎ》の襦袢《じゆばん》の襟《えり》か何《なに》かをつけてゐた。
明《あかる》い部屋《へや》には、もう新《あたら》しい年《とし》の影《かげ》か漂《たゞよ》ふてゐる。柱《はしら》には新《あた》らしい匂《にほひ》のするやうな青《あを》い藁《わら》の、小《ちいさ》い輪飾《わかざり》が飾《かざ》られて、隅《すみ》の方《はう》に、真白《まつしろ》い餅《もち》がおいてあつた。美《うつく》しい歳暮《せいぼ》の到来《とうらい》ものが、箪笥《たんす》のうへに積重《つみかさ》ねてあつて、其処《そこ》らに新《あたら》しいお重《ぢう》や、銚子《てうし》、皿小鉢《さらこばち》のやうな者《もの》も見《み》えた。
此夫婦《このふうふ》はまだ世帯《しよたい》の持《もち》たてと見《み》える。
磯田《いそだ》は、火鉢《ひばち》に侍《より》かゝつて、先刻買《さつきか》つて来《き》たばかりの新刊《しんかん》の雑誌《ざつし》を読《よ》んでゐる。
時計《とけい》のか※[#二の字点、1-2-22]つた同《おな》じ柱《はしら》に、暦《こよみ》が30と出《で》てゐる。無論《むろん》あともう一枚《まい》しか余《あま》すところがない。時計《とけい》の針《はり》が、今《いま》二タ廻半《まはりはん》すれば、それが新《あたら》しい年《とし》である。
風《かぜ》のない静《しづか》な晩《ばん》である。でも外《そと》は騒々《さう/\》しい。人通《ひとゞほり》の音《おと》が、此処《こゝ》までも聞《きこ》える。何処《どこ》かで、大《おほき》な声《こゑ》で唄《うた》を調《うた》つてゐる処《ところ》もある。近所隣《きんじよとなり》の門鈴《もんりん》の音《をと》が、引断《ひつきり》なし揺《ゆ》れて来《く》る。世間《せけん》は古《ふる》い年《とし》と、新《あたら》しい年《とし》とが、相追《あひを》ひ、相追《あひを》はれしてゐるやうである。がや/\する物音《ものをと》は、新《あたら》しい年《とし》の関門《くわんもん》へ押寄《おしよ》せやうとする。人々《ひと/\》の闘《たゝかひ》のやうにも思《おも》へる。
磯田《いそだ》も想出《おもひだ》したやうに「フム、然《さ》うだ。」と雑誌《ざつし》を下《した》においた。
「ちやんとお祝《いはひ》のものまで調《とゝの》へてあるのに、如何《どう》したと云《い》ふんでせう。」
細君《さいくん》は、少《すこ》し上気《じやうき》したやうな、薄紅《うすあか》い頬《はう》を撫《な》でた。
「十二|月《ぐわつ》と云《い》ふんですから……と云《い》つても、もう今日明日《けふあす》でせう。大晦日《おほみそか》ぢや大変《たいへん》だわね。」
然《さ》う言《い》はれて見《み》ると、何《なん》だかもう産《うま》れてゐるやうな気《き》もする。古《ふる》い年《とし》の波《なみ》が、今《いま》引《ひ》いて行《ゆ》かうとする今夜《こんや》あたり、綺麗《きれい》な赤子《あかご》が、其《そ》の美《うつく》しい新《あたら》しい目《め》を、此世《このよ》に眸《みひら》いてゐるやうに思《おも》へる。何《なに》も彼《か》も煤《すゝ》け切《き》つた年《とし》の暮《くれ》に、赤子《あかご》はもう、其《その》新《あたら》しい生命《せいめい》の第《だい》一の呼吸《こきう》を為《し》はじめてゐるらしく思《おも》へてならぬ。
「偶然《ひよつ》としたら、通知《つうち》するのを忘《わす》れてゐるかも解《わか》らない、些《ちよつ》と行《い》つて見《み》て来《き》やう。」
磯田《いそだ》は気軽《きがる》に身《み》を起《おこ》した。そ※[#二の字点、1-2-22]ツかしく着物《きもの》を着替《きか》へて、古《ふる》い帽子《ぼうし》を冠《かぶ》つて、外《そと》へ出《で》た。
外《そと》は門並《かどなみ》松《まつ》や竹《たけ》が立《た》つてゐる。燥《はし》やいだ笹《さゝ》の葉《は》が、ざわ/\と夜風《よかぜ》に鳴《な》つて、空《そら》は暗《くら》かつた。道《みち》ぬか[#「ぬか」に傍点]つてゐる。
大通《おほどほり》へ出《で》ると、広《ひろ》い街《まち》には、一|体《たい》に淡蒼《うすあほ》い水蒸気《すゐじやうき》が立罩《たちこ》めてゐた。明《あかる》い店寄《みせより》の片側《かたがは》には、急々《せか/\》と歩《ある》いてゐる人《ひと》の姿《すがた》が、如何《いか》にも慌忙《あわたゞ》しい。向側《むかうがわ》には、時々《とき/″\》通《とほ》る俥《くるま》の影《かげ》が見《み》える。大道商人《だいどうしやうにん》のカンテラが、黒《くろ》い油煙《ゆえん》を挙《あ》げて、漁火《いさりび》のやうに点々《てん/\》してゐる。年《とし》のどん底《そこ》へ追究《おひつ》められた商人《しやうにん》の顔《かほ》には、一|様《やう》に天気《てんき》を気遣《きづか》ふ不安《ふあん》の色《いろ》が見《み》えた。
磯田《いそだ》は三|丁目《ちやうめ》から、電車《でんしや》に乗《の》つた。電車《でんしや》のなかは、人《ひと》が推合《おしあ》ひ圧合《へしあ》ひする位《くらゐ》であつた。窓《まど》ガラスは一|体《たい》に白《しろ》く曇《くも》つて、空気《くうき》は可恐《おそろ》しく濁《にご》つてゐた。
華《はな》やかな町《まち》、暗《くら》い町《まち》、提灯《ちやうちん》の影《かげ》、旗《はた》の影《かげ》、暗《くら》い水《みづ》の浜《ほとり》、長《なが》い土塀《どべい》の蔭《かげ》、其間《そのあひだ》を、磯田《いそだ》は革《かわ》にぶら下《さが》つて通《とほ》つた。
青山《あをやま》まで来《き》た時《とき》、磯田《いそだ》はふと、青木《あをき》が近頃《ちかごろ》転居《てんきよ》した事《こと》を憶出《おもひだ》した。北町《きたまち》から南町《みなみちやう》へ移《うつ》つたことだけは覚《おぼ》えてゐるが、番地《ばんち》五|丁目《ちやうめ》とばかりで……それも如何《どう》やら自分《じぶん》の記臆《きおく》が怪《あや》しいやうに思《おも》はれた。
五丁目《ちやうめ》五十……番地《ばんち》――彼《かれ》はふと然云《さうい》ふやうな気《き》がしたので、左《と》に右《かく》それらしい横町《よこちやう》へ入《い》つて、二三|軒《げん》軒燈《けんとう》を見《み》て行《ある》いた。
此《こ》の区域《くゐき》は、一体《たい》に屋建《やだて》が奥深《をくふか》く出来《でき》てゐる。垣根《かきね》や塀《へい》が、長《なが》く続《つゞ》いて、其方此方《そちこち》にポツ/\薄暗《うすくら》い軒燈《けんとう》の影《かげ》が見《み》える。磯田《いそだ》は大抵《たいてい》漕《こぎ》つける意《つもり》で、ポク/\歩《ある》いた。
暗《くら》い砂利《じゃり》の道《みち》を辿《たど》つてゆくと、先手《さきて》にごちや/\と人《ひと》の住家《すみか》が見《み》える。其明《そのあかり》を辿《たど》つて行《い》つた磯田《いそだ》は、少時《しばらく》経《た》つと、垣根《かきね》で仕切《しき》つた広《ひろ》い空《あ》き地《ち》の隅《すみ》へ陥《お》ちた。
長《なが》い間《あいだ》彼方此方《あちこち》して、彼《かれ》は漸《やうや》く元《もと》の道《みち》へ出《で》た。而《さう》して右《みぎ》の横町《よこちやう》へ入《はい》り、又《また》左《ひだり》の横町《よこちやう》へ入《はい》つた。するうち、彼《かれ》は人家《じんか》の疎《まばら》な、寂《さび》しい町《まち》の尽頭《はづれ》まで来《き》てゐた。先《さき》はもう墓地《ぼち》であらう灯《ひ》の影《かげ》一つ見《み》えない、芒《ばう》とした広場《ひろば》である。一|体《たい》に夜《よる》の海《うみ》の色《いう》を見《み》るやうな、其垠《そのはて》に、ポツと町《まち》の明《あかり》が空《そら》に映《うつ》つてゐた。磯田《いそだ》は、又《また》暗《くら》い道《みち》をトボ/\と後《あと》へ引返《ひつかへ》した。
磯田《いそだ》は疲《つか》れた足《あし》を引摺《ひきず》つて、寂《さび》しい崖下《がけした》を通《とほ》つた。全然《まるで》田舎道《ゐなかみち》のやうな通《とほり》で、赤土《あかつち》の崩《くず》れか※[#二の字点、1-2-22]つた崖《がけ》の上から、高《たか》い樹《き》が枯《かれ》た枝《えだ》を差交《さしかは》してゐる。竹《たけ》や杉《すぎ》なども交《まぢ》つて、下《した》には俥《くるま》の迹《あと》が幾筋《いくすぢ》となく、深《ふか》い泥濘《ぬかるみ》を穿《うが》つてゐた。「往来安全《わうらいあんぜん》」と書《か》いた、瓦斯燈《ぐわすとう》が一つ立《た》つてゐる限《きり》である。
小《ちいさ》い瓦斯燈《ぐわすとう》の光《ひかり》か、ふと一|町程前《ちやうほどさき》の横町《よこちやう》から現《あらは》れた。ジク/\する道《みち》を、急足《いそぎあし》に歩《ある》く草軽《わらじ》の音《おと》も聞《きこ》えた。
近《ちかづ》いたのは郵便《いうびん》の配達《はいたつ》であつた。摺違《すれちが》ひざまに、磯田《いそだ》は、此辺《このへん》に青木《あをき》と云《い》ふ家《うち》がある筈《はず》だが!と尋《たづ》ねた。
間《ま》もなく磯田《いそだ》は元気《げんき》らしく行出《あるきだ》した。先刻《さつき》二|度《ど》も中途《ちうと》まで入《はい》つて見《み》た其横町《そのよこちやう》である。泥濘《ぬかるみ》の深《ふか》い道《みち》を、一|町半《ちやうはん》ばかり行《ゆ》くと、だら/\した坂《さか》の上《うへ》へ出《で》る。坂《さか》の下《した》にある一つの軒燈《けんとう》の影《かげ》が、坂《さか》の上《うへ》の家《いへ》の門《もん》を照《てら》してゐる灯影《ひかげ》が、水《みづ》の底《そこ》に沈《しづ》んで映《うつ》つてゐるとしか見《み》えない。磯田《いそだ》は水濁《みづたまり》のやうに見《み》えた、其坂《そのさか》を下《お》りて、突当《つきあた》つて、左《ひだり》へ曲《まが》つた。左《ひだり》の限《はづれ》に、「青木《あをき》」と記《しる》した軒燈《けんとう》の影《かげ》が、漸《やうや》く目《め》に着《つ》いた。
四下《あたり》は森《しん》としてゐる。横《よこ》も後《うし》ろも空地《くうち》で、雨雲《あまぐも》が、低《ひく》く其垠《そのはづれ》の森《もり》を蔽《おほ》つてゐた。近《ちか》い星《ほし》が二つ三つ、覚束《おぼつか》なげに瞬《またゝ》いてゐた。
青木《あをき》の門《もん》を開《あ》けると、鈴《すゞ》の音《ね》が、湿《しめ》つた静《しづか》な空気《くうき》に、長《なが》い波動《はどう》を引《ひ》いた。
玄関《げんくわん》は真暗《まつくら》である。少時《しばらく》すると、ランプの影《かげ》がさして、女中《ぢよちう》が現《あら》はれて来《き》た。
子供《こども》は昨日《きのふ》の晩《ばん》産《うま》れたと云《い》ふ話《はなし》である。産《うま》れた子《こ》は男《をとこ》で、お産《さん》の時間《じかん》が比較的《ひかくてき》長《なが》かつた。初産《うひざん》の故《せい》でもあらうが、先《ま》づ難産《なんざん》の方《はう》であつたと云《い》ふ、女中《ぢよちう》の話《はなし》である。
主《あるじ》はゐなかつた。
産室《さんしつ》へ通《とほ》ると、産《うま》れた子《こ》も産《う》んだ母《はゝ》も疲《つか》れて寐《ね》てゐた。
産婦《さんぷ》は起《あき》あがつて、蒼《あを》い顔《かほ》に嬉《うれ》しさうな笑《えみ》を浮《うか》べた。青木《あをき》は入口《いりくち》に座《すわ》つたま※[#二の字点、1-2-22]産毛《うぶげ》の柔《やわら》かい産児《さんじ》の小《ちいさ》い頭《あたま》を、不思議《ふしぎ》さうに灯影《ひかげ》に照《てら》して、暫《しばら》く覗《のぞ》いてゐた。[#地付き](明治42[#「42」は縦中横]年1月3日「読売新聞」)
細君《さいくん》のとし子《こ》が、ふと想出《おもひだ》したやうに言出《いひだ》した。ランプの下《した》で、春着《はるぎ》の襦袢《じゆばん》の襟《えり》か何《なに》かをつけてゐた。
明《あかる》い部屋《へや》には、もう新《あたら》しい年《とし》の影《かげ》か漂《たゞよ》ふてゐる。柱《はしら》には新《あた》らしい匂《にほひ》のするやうな青《あを》い藁《わら》の、小《ちいさ》い輪飾《わかざり》が飾《かざ》られて、隅《すみ》の方《はう》に、真白《まつしろ》い餅《もち》がおいてあつた。美《うつく》しい歳暮《せいぼ》の到来《とうらい》ものが、箪笥《たんす》のうへに積重《つみかさ》ねてあつて、其処《そこ》らに新《あたら》しいお重《ぢう》や、銚子《てうし》、皿小鉢《さらこばち》のやうな者《もの》も見《み》えた。
此夫婦《このふうふ》はまだ世帯《しよたい》の持《もち》たてと見《み》える。
磯田《いそだ》は、火鉢《ひばち》に侍《より》かゝつて、先刻買《さつきか》つて来《き》たばかりの新刊《しんかん》の雑誌《ざつし》を読《よ》んでゐる。
時計《とけい》のか※[#二の字点、1-2-22]つた同《おな》じ柱《はしら》に、暦《こよみ》が30と出《で》てゐる。無論《むろん》あともう一枚《まい》しか余《あま》すところがない。時計《とけい》の針《はり》が、今《いま》二タ廻半《まはりはん》すれば、それが新《あたら》しい年《とし》である。
風《かぜ》のない静《しづか》な晩《ばん》である。でも外《そと》は騒々《さう/\》しい。人通《ひとゞほり》の音《おと》が、此処《こゝ》までも聞《きこ》える。何処《どこ》かで、大《おほき》な声《こゑ》で唄《うた》を調《うた》つてゐる処《ところ》もある。近所隣《きんじよとなり》の門鈴《もんりん》の音《をと》が、引断《ひつきり》なし揺《ゆ》れて来《く》る。世間《せけん》は古《ふる》い年《とし》と、新《あたら》しい年《とし》とが、相追《あひを》ひ、相追《あひを》はれしてゐるやうである。がや/\する物音《ものをと》は、新《あたら》しい年《とし》の関門《くわんもん》へ押寄《おしよ》せやうとする。人々《ひと/\》の闘《たゝかひ》のやうにも思《おも》へる。
磯田《いそだ》も想出《おもひだ》したやうに「フム、然《さ》うだ。」と雑誌《ざつし》を下《した》においた。
「ちやんとお祝《いはひ》のものまで調《とゝの》へてあるのに、如何《どう》したと云《い》ふんでせう。」
細君《さいくん》は、少《すこ》し上気《じやうき》したやうな、薄紅《うすあか》い頬《はう》を撫《な》でた。
「十二|月《ぐわつ》と云《い》ふんですから……と云《い》つても、もう今日明日《けふあす》でせう。大晦日《おほみそか》ぢや大変《たいへん》だわね。」
然《さ》う言《い》はれて見《み》ると、何《なん》だかもう産《うま》れてゐるやうな気《き》もする。古《ふる》い年《とし》の波《なみ》が、今《いま》引《ひ》いて行《ゆ》かうとする今夜《こんや》あたり、綺麗《きれい》な赤子《あかご》が、其《そ》の美《うつく》しい新《あたら》しい目《め》を、此世《このよ》に眸《みひら》いてゐるやうに思《おも》へる。何《なに》も彼《か》も煤《すゝ》け切《き》つた年《とし》の暮《くれ》に、赤子《あかご》はもう、其《その》新《あたら》しい生命《せいめい》の第《だい》一の呼吸《こきう》を為《し》はじめてゐるらしく思《おも》へてならぬ。
「偶然《ひよつ》としたら、通知《つうち》するのを忘《わす》れてゐるかも解《わか》らない、些《ちよつ》と行《い》つて見《み》て来《き》やう。」
磯田《いそだ》は気軽《きがる》に身《み》を起《おこ》した。そ※[#二の字点、1-2-22]ツかしく着物《きもの》を着替《きか》へて、古《ふる》い帽子《ぼうし》を冠《かぶ》つて、外《そと》へ出《で》た。
外《そと》は門並《かどなみ》松《まつ》や竹《たけ》が立《た》つてゐる。燥《はし》やいだ笹《さゝ》の葉《は》が、ざわ/\と夜風《よかぜ》に鳴《な》つて、空《そら》は暗《くら》かつた。道《みち》ぬか[#「ぬか」に傍点]つてゐる。
大通《おほどほり》へ出《で》ると、広《ひろ》い街《まち》には、一|体《たい》に淡蒼《うすあほ》い水蒸気《すゐじやうき》が立罩《たちこ》めてゐた。明《あかる》い店寄《みせより》の片側《かたがは》には、急々《せか/\》と歩《ある》いてゐる人《ひと》の姿《すがた》が、如何《いか》にも慌忙《あわたゞ》しい。向側《むかうがわ》には、時々《とき/″\》通《とほ》る俥《くるま》の影《かげ》が見《み》える。大道商人《だいどうしやうにん》のカンテラが、黒《くろ》い油煙《ゆえん》を挙《あ》げて、漁火《いさりび》のやうに点々《てん/\》してゐる。年《とし》のどん底《そこ》へ追究《おひつ》められた商人《しやうにん》の顔《かほ》には、一|様《やう》に天気《てんき》を気遣《きづか》ふ不安《ふあん》の色《いろ》が見《み》えた。
磯田《いそだ》は三|丁目《ちやうめ》から、電車《でんしや》に乗《の》つた。電車《でんしや》のなかは、人《ひと》が推合《おしあ》ひ圧合《へしあ》ひする位《くらゐ》であつた。窓《まど》ガラスは一|体《たい》に白《しろ》く曇《くも》つて、空気《くうき》は可恐《おそろ》しく濁《にご》つてゐた。
華《はな》やかな町《まち》、暗《くら》い町《まち》、提灯《ちやうちん》の影《かげ》、旗《はた》の影《かげ》、暗《くら》い水《みづ》の浜《ほとり》、長《なが》い土塀《どべい》の蔭《かげ》、其間《そのあひだ》を、磯田《いそだ》は革《かわ》にぶら下《さが》つて通《とほ》つた。
青山《あをやま》まで来《き》た時《とき》、磯田《いそだ》はふと、青木《あをき》が近頃《ちかごろ》転居《てんきよ》した事《こと》を憶出《おもひだ》した。北町《きたまち》から南町《みなみちやう》へ移《うつ》つたことだけは覚《おぼ》えてゐるが、番地《ばんち》五|丁目《ちやうめ》とばかりで……それも如何《どう》やら自分《じぶん》の記臆《きおく》が怪《あや》しいやうに思《おも》はれた。
五丁目《ちやうめ》五十……番地《ばんち》――彼《かれ》はふと然云《さうい》ふやうな気《き》がしたので、左《と》に右《かく》それらしい横町《よこちやう》へ入《い》つて、二三|軒《げん》軒燈《けんとう》を見《み》て行《ある》いた。
此《こ》の区域《くゐき》は、一体《たい》に屋建《やだて》が奥深《をくふか》く出来《でき》てゐる。垣根《かきね》や塀《へい》が、長《なが》く続《つゞ》いて、其方此方《そちこち》にポツ/\薄暗《うすくら》い軒燈《けんとう》の影《かげ》が見《み》える。磯田《いそだ》は大抵《たいてい》漕《こぎ》つける意《つもり》で、ポク/\歩《ある》いた。
暗《くら》い砂利《じゃり》の道《みち》を辿《たど》つてゆくと、先手《さきて》にごちや/\と人《ひと》の住家《すみか》が見《み》える。其明《そのあかり》を辿《たど》つて行《い》つた磯田《いそだ》は、少時《しばらく》経《た》つと、垣根《かきね》で仕切《しき》つた広《ひろ》い空《あ》き地《ち》の隅《すみ》へ陥《お》ちた。
長《なが》い間《あいだ》彼方此方《あちこち》して、彼《かれ》は漸《やうや》く元《もと》の道《みち》へ出《で》た。而《さう》して右《みぎ》の横町《よこちやう》へ入《はい》り、又《また》左《ひだり》の横町《よこちやう》へ入《はい》つた。するうち、彼《かれ》は人家《じんか》の疎《まばら》な、寂《さび》しい町《まち》の尽頭《はづれ》まで来《き》てゐた。先《さき》はもう墓地《ぼち》であらう灯《ひ》の影《かげ》一つ見《み》えない、芒《ばう》とした広場《ひろば》である。一|体《たい》に夜《よる》の海《うみ》の色《いう》を見《み》るやうな、其垠《そのはて》に、ポツと町《まち》の明《あかり》が空《そら》に映《うつ》つてゐた。磯田《いそだ》は、又《また》暗《くら》い道《みち》をトボ/\と後《あと》へ引返《ひつかへ》した。
磯田《いそだ》は疲《つか》れた足《あし》を引摺《ひきず》つて、寂《さび》しい崖下《がけした》を通《とほ》つた。全然《まるで》田舎道《ゐなかみち》のやうな通《とほり》で、赤土《あかつち》の崩《くず》れか※[#二の字点、1-2-22]つた崖《がけ》の上から、高《たか》い樹《き》が枯《かれ》た枝《えだ》を差交《さしかは》してゐる。竹《たけ》や杉《すぎ》なども交《まぢ》つて、下《した》には俥《くるま》の迹《あと》が幾筋《いくすぢ》となく、深《ふか》い泥濘《ぬかるみ》を穿《うが》つてゐた。「往来安全《わうらいあんぜん》」と書《か》いた、瓦斯燈《ぐわすとう》が一つ立《た》つてゐる限《きり》である。
小《ちいさ》い瓦斯燈《ぐわすとう》の光《ひかり》か、ふと一|町程前《ちやうほどさき》の横町《よこちやう》から現《あらは》れた。ジク/\する道《みち》を、急足《いそぎあし》に歩《ある》く草軽《わらじ》の音《おと》も聞《きこ》えた。
近《ちかづ》いたのは郵便《いうびん》の配達《はいたつ》であつた。摺違《すれちが》ひざまに、磯田《いそだ》は、此辺《このへん》に青木《あをき》と云《い》ふ家《うち》がある筈《はず》だが!と尋《たづ》ねた。
間《ま》もなく磯田《いそだ》は元気《げんき》らしく行出《あるきだ》した。先刻《さつき》二|度《ど》も中途《ちうと》まで入《はい》つて見《み》た其横町《そのよこちやう》である。泥濘《ぬかるみ》の深《ふか》い道《みち》を、一|町半《ちやうはん》ばかり行《ゆ》くと、だら/\した坂《さか》の上《うへ》へ出《で》る。坂《さか》の下《した》にある一つの軒燈《けんとう》の影《かげ》が、坂《さか》の上《うへ》の家《いへ》の門《もん》を照《てら》してゐる灯影《ひかげ》が、水《みづ》の底《そこ》に沈《しづ》んで映《うつ》つてゐるとしか見《み》えない。磯田《いそだ》は水濁《みづたまり》のやうに見《み》えた、其坂《そのさか》を下《お》りて、突当《つきあた》つて、左《ひだり》へ曲《まが》つた。左《ひだり》の限《はづれ》に、「青木《あをき》」と記《しる》した軒燈《けんとう》の影《かげ》が、漸《やうや》く目《め》に着《つ》いた。
四下《あたり》は森《しん》としてゐる。横《よこ》も後《うし》ろも空地《くうち》で、雨雲《あまぐも》が、低《ひく》く其垠《そのはづれ》の森《もり》を蔽《おほ》つてゐた。近《ちか》い星《ほし》が二つ三つ、覚束《おぼつか》なげに瞬《またゝ》いてゐた。
青木《あをき》の門《もん》を開《あ》けると、鈴《すゞ》の音《ね》が、湿《しめ》つた静《しづか》な空気《くうき》に、長《なが》い波動《はどう》を引《ひ》いた。
玄関《げんくわん》は真暗《まつくら》である。少時《しばらく》すると、ランプの影《かげ》がさして、女中《ぢよちう》が現《あら》はれて来《き》た。
子供《こども》は昨日《きのふ》の晩《ばん》産《うま》れたと云《い》ふ話《はなし》である。産《うま》れた子《こ》は男《をとこ》で、お産《さん》の時間《じかん》が比較的《ひかくてき》長《なが》かつた。初産《うひざん》の故《せい》でもあらうが、先《ま》づ難産《なんざん》の方《はう》であつたと云《い》ふ、女中《ぢよちう》の話《はなし》である。
主《あるじ》はゐなかつた。
産室《さんしつ》へ通《とほ》ると、産《うま》れた子《こ》も産《う》んだ母《はゝ》も疲《つか》れて寐《ね》てゐた。
産婦《さんぷ》は起《あき》あがつて、蒼《あを》い顔《かほ》に嬉《うれ》しさうな笑《えみ》を浮《うか》べた。青木《あをき》は入口《いりくち》に座《すわ》つたま※[#二の字点、1-2-22]産毛《うぶげ》の柔《やわら》かい産児《さんじ》の小《ちいさ》い頭《あたま》を、不思議《ふしぎ》さうに灯影《ひかげ》に照《てら》して、暫《しばら》く覗《のぞ》いてゐた。[#地付き](明治42[#「42」は縦中横]年1月3日「読売新聞」)
底本:「徳田秋聲全集第7巻」八木書店
1998(平成10)年7月18日初版発行
底本の親本:「読売新聞」
1909(明治42)年1月3日
初出:「読売新聞」
1909(明治42)年1月3日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
1998(平成10)年7月18日初版発行
底本の親本:「読売新聞」
1909(明治42)年1月3日
初出:「読売新聞」
1909(明治42)年1月3日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ