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  • こんち午の日

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こんち午の日

最終更新:2019年11月01日 08:01

harukaze_lab

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管理者のみ編集可
こんち午の日
山本周五郎

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)午《ひる》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)草|界隈《かいわい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]
-------------------------------------------------------

[#6字下げ]一[#「一」は中見出し]

 おすぎ[#「すぎ」に傍点]は塚次と祝言して、三日めに家を出奔した。祝言したのが十月八日で、出奔したのは十一日の午《ひる》すぎ、――塚次が売子の伊之吉と、午後のしょうばいに出たあとのことであった。
 娘が「出奔」したことに気ついたのは、母親のおげん[#「げん」に傍点]であった。夜になってもおすぎ[#「すぎ」に傍点]が帰らないので、田原町二丁目の伊能屋へいってみた。伊能屋は仏具師で、おもん[#「もん」に傍点]という娘がおり、おすぎ[#「すぎ」に傍点]と仲よしで、よく泊りにいったり来たりしていた。婿を取って三日めに、まさか泊って来はしまいが、娘の性分ではやりかねないとも思ったのである。だが伊能屋では知らなかった。
「御婚礼の晩に会ったきりよ」とおもん[#「もん」に傍点]は云った、「おすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんどうかしたんですか」
「お午すぎに出たっきりなんだけれど」とおげん[#「げん」に傍点]は途方にくれて云った、「――こんなじぶんまでどこにひっかかっているのか、おもん[#「もん」に傍点]ちゃんに心当りはないかしら」
 おもん[#「もん」に傍点]は知らないと云った。なんとなく当惑したような顔つきで、自分はこの夏あたりからあまり会っていないし、ほかに仲の好い友達があるとも聞かない、と答え、「もういまごろ家へ帰ってるんじゃありませんか」と云った。なにか云いたいことを隠している、という感じだったが、それ以上は訊《き》けずに、西仲町の家へ帰った。おすぎ[#「すぎ」に傍点]はまだ戻らず、婿の塚次が独りで、明日の仕込みをしていた。――おげん[#「げん」に傍点]は、彼の眼を避けるようにして、部屋へはいった。そして初めて、金や品物がなくなっているのを発見した。
 かくべつ疑ったわけではなく、ひょっと調べてみる気になったのであるが、おすぎ[#「すぎ」に傍点]の箪笥《たんす》が殆んど空になっているし、髪飾りや小道具類もなかった。そればかりではない、用箪笥の中の金も、重平やおげん[#「げん」に傍点]の物まで、衣類や小道具などで金目な品は、選りぬいたように、きれいになくなっていた。――おげん[#「げん」に傍点]は足が竦《すく》みそうになり、がたがたと震えた。これだけ思いきったことをする以上、ただごとではない。単に帰りがおそくなったとか、どこかで泊って来るなどというζとではない。おそらく帰っては来ないだろう、「家出したに違いない」とおげん[#「げん」に傍点]は思った。
「どうしよう」とおげん[#「げん」に傍点]はのぼせあがって呟《つぶや》いた、「どうしたらいいだろう」
 良人《おっと》の重平は寝ていた。
 重平は秋ぐちに軽い卒中で倒れ、それから大事をとって寝たままであった。塚次との婿縁組も、そのために繰りあげたくらいで、いまこんな出来事を話していけないことは、(医者にも禁じられたが)よくわかっていた。――おげん[#「げん」に傍点]は思い惑った。これまでおげん[#「げん」に傍点]は、なにもかも良人《おっと》まかせでやって来た。しょうばいの事はもとより、三度の食事の菜から、季節の移り変りには、着物や夜具のことまで、すべて良人に云われてからする習慣であった。
「どうしよう」とおげん[#「げん」に傍点]は自分に呟いた、「他人に相談できることではないし、うちの人に話せば病気に障るだろうし、それに、婿になったばかりの塚次という者がいるし」
 塚次には隠せない、同じ家にいることだし、三年もいっしょに暮して、内情もよくわかっているから、塚次を騙《だま》すことはできない。――それならいっそあれに話してしまおう、とおげん[#「げん」に傍点]は思った。塚次は気のやさしい男である。おすぎ[#「すぎ」に傍点]は蔭で「うちのぐず次」などと云っていたが、田舎そだちの朴訥《ぼくとつ》さと、どんな事でも、黙って先に立ってやるまじめさと、そして疲れることを知らない働き者であった。彼は重平と同郷の生れで、三年まえ奉公に来るまでは、田舎でずっと百姓をしていたが、きまじめで口べたなわりに客受けもよく、またしょうばい物の豆腐や油揚なども、自分でくふうして、いろいろ変った味の物を作るというふうであった。
「塚次に話すとしよう」とおげん[#「げん」に傍点]は自分を励ますように呟いた、「あれなら肚《はら》を立てるようなこともないだろうし、きっと相談に乗ってくれるに違いない」
 明日の仕込みを終って、塚次があがって来ると、おげん[#「げん」に傍点]はその話をした。
 塚次はええと口をあいたが、それほど吃驚《びっくり》したようすはなく、「どこかで泊って来るのではないか」と云った。そこでおげん[#「げん」に傍点]は金や品物のなくなったことを話した。それらはみな昨日まであった物である。衣類や小道具は祝言に使ったし、金も祝言の入費を払ったばかりで、残高もわかっている。いつのまに、どうして運び出したかわからないが、殆んどあらいざらい持出しているし、僅かな時間に、それだけのことが独りでできる筈もない。誰か手を貸したものがいるに相違ないと思う、とおげん[#「げん」に傍点]は話した。塚次は暫く考えていたが、「おとっさんに知らせましたか」と訊き、まだだと聞くと、「ちょっと心当りがあるから、おとっさんには知らせないで待っていてくれ」と云い、着替えもせずに出ていった。
 ――なにかあるのかしら。
 おげん[#「げん」に傍点]は重平の薬を煎《せん》じながら思った。
 重平夫婦は娘をあまやかして育てた。おすぎ[#「すぎ」に傍点]は縹緻《きりょう》よしで、小さいじぶんから人に可愛がられたし、可愛がられることに慣れていた。人にあいそを云われたり、構われたりすることを嬉しがり、そうされないときには、侮辱されたような不満をもった。友達と集まったり、芝居を見たりするのが好きで、娘にしては金使いも荒かった。……小さいうちはそれでもよかったが、十四五になると事情が変ってくる。若者たちが付きまとうようになり、いろいろな噂《うわさ》が立ちはじめた。
 ――おすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんは凄腕《すごうで》だ。
 などというたぐいの蔭口が、しばしば夫婦の耳にはいった。
 重平もおげん[#「げん」に傍点]も信じなかった。おすぎ[#「すぎ」に傍点]は「みんなやきもちよ」とすましていたし、夫婦もそうだろうと思った。下町もこの浅草|界隈《かいわい》の横町などは口のうるさい人たちが多く、金まわりのいい家とか、縹緻のいい娘や若妻など、根もないことを好んで噂のたねにされる。自分たちの娘もその例だと思い、夫婦はべつに疑ってみる気もなかった。
「でも塚次はいま、心当りがあると云った」とおげん[#「げん」に傍点]は呟いた、「そしてすぐに出ていったところをみると、なにかあって、塚次はそれを知っていたのに違いない」
 おげん[#「げん」に傍点]は頭が痛くなり、首を振りながら両のこめかみを強く揉《も》んだ。
 ――いったいなにがあったんだろう、塚次はなにを知っているんだろう。
 同じことを、ただうろうろ思い惑っていると、隣りの部屋で重平の呼ぶ声がした。おげん[#「げん」に傍点]はとびあがりそうになり、「いま薬を持ってゆきますよ」と云いながら、湯気の出はじめた土瓶《どびん》を火の上からおろした。

[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]

 塚次は寒かった。まだ十月の中旬にはいったばかりで、その夜は風もなく、むしろ例年より暖かいくらいだったが、塚次はしんまでこごえるほど寒かった。肩をちぢめ、腕組みをして、前跼《まえかが》みに歩きながら、彼は力なく頭を振ったり溜息《ためいき》をついたりした。
「こういうことなのか」と塚次は口の中で呟いた、「いつもこういうことになるのか、これじゃあ、あんまり可哀そうじゃないか」
 彼は中村喜久寿を訪ねていった。
 猿若町の芝居で住居を訊き、それから山谷へまわっていった。喜久寿は中村座の役者で、年は三十二歳、古くから女形を勤めているが、いまだに役らしい役は付かず、番付などでは名もはっきり読めないくらいだった。彼は八月ごろまで三軒町の裏店《うらだな》にいたが、女出入りのため絶えずごたごたするので、店だてをくって山谷のほうへ移ったのであった。
 喜久寿の住居はすぐにわかった。どこからか下肥の匂って来る、暗くてじめじめした長屋の、端のほうにあるその住居には、年のいった女たちが五六人集まって、酒を飲みながら陽気に騒いでいた。喜久寿のほかにもう一人、これも芝居者らしい男がいて、なにかの狂言の濡場と思われるのを、みだらに誇張した身振りと声色とで、汗をかきながら演じてみせていた。――塚次は黙ってはいり、ちょっと声をかけて、すぐに障子をあけた。おすぎ[#「すぎ」に傍点]を隠されるかと思ったので、さっと障子をあけ、そこにいる女たちを眺めまわした。
「どなた」と喜久寿がこっちを見て云った、「だあれ、……山城屋さんかえ」
 そして立って、こっちへ来た。もう一人の男も、女たちもこっちを見た。部屋の中にこもっている安酒の匂いと、膏《あぶら》ぎったような、重たく濁った温気とが、むっと塚次の顔を包んだ。
「知りませんよ」と喜久寿は云った、「おすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんなんて、このところ半年以上も逢ったことはないわ」
 四十くらいにもみえる渋紙色の、乾いた皺《しわ》だらけの顔や、しなしなした身振りや、つぶれたような作り声など、塚次には胸がむかつくほどきみ悪く、いやらしく思えた。
「隠さないで下さい、知ってるんです」と塚次は云った、「おまえさんとの、一年まえからのことを知ってるんですから」
「それはそんなこともあったけれど、あたしは半年以上も逢っちゃいないわ、ほんとよ」と喜久寿は女言葉で云った、「嘘だと思うんなら、あがって家捜しをしてちょうだい」
 向うから女たちが囃《はや》したて、喜久寿はおすぎ[#「すぎ」に傍点]の悪口を並べたてた。おすぎ[#「すぎ」に傍点]が吝嗇《りんしょく》でやきもちやきで、自分勝手な我儘者《わがままもの》であること、彼はおすぎ[#「すぎ」に傍点]に髪の毛を※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》られたり、ひっ掻《か》かれたり噛《か》みつかれたりして、いつも生傷の絶えたことがなかったし、そのために大事な贔屓筋《ひいきすじ》を幾人もしくじったこと、しかもたまに南鐐《なんりょう》の一枚も呉《く》れれば、小百日も恩に被せられることなど、――恥じるようすもなくべらべらと饒舌《しゃべ》った。すると向うから女の一人が、「噛みつかれたのはあのときのことだろう」とからかい、さらにみんなが徹底した露骨さで、塚次にはよくわからないような、卑猥《ひわい》なことを喚きあい、ひっくり返るように笑った。だが喜久寿はそこで初めて気がついたように、「ちょいと」と塚次に手を振った。
「ちょいとあんた」と喜久寿は云った、「おすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんがどうかしたの、なにか間違いでもあったの」
 塚次はあいまいに首を振り、「帰りがおそいので親たちが案じている、どこにいるか心当りはないだろうか」と訊いた。喜久寿は極めて単純に「そうね」と首を傾《かし》げた。
「なにしろあの人は達者だから、そうだわね」と喜久寿は顎《あご》を撫《な》で、それからふいとまた手を振った、「そうだわ、ことによると長二郎かもしれませんよ、それは」
「やっぱり芝居の人ですか」
「まえには芝居の中売りをしていたの」と喜久寿は云った、「今年の夏までは中売りをしていたけれど、義理の悪いことが溜まって逃げだしたっきり、いまどうしているか知らないわ、でもおすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんはまえっから長二郎におぼしめしがあったようだし、相手のほうでもへんなそぶりをしていたから、なにかあったとすればきっと長二郎ですよ」
 住居がどこか自分は知らないが、森田座に伝造という楽屋番がいる。その爺さんに訊けばわかるかもしれない、と喜久寿は云った。そして、塚次が礼を述べて去ろうとすると、彼はうしろから「にいさん」と作り声で呼びかけた、「どうぞ御贔屓に」それからしゃがれた声であいそ笑いをした。
 塚次は歩きながら唾を吐いた。あばずれた女たちの笑いや、喜久寿の媚《こ》びた身振りや言葉などが、べったりと躯《からだ》じゅうにねばり付いているようで、いつまでも胸がむかむかし、彼は顔をしかめながら、幾たびも睡を吐いた。
「もうおそすぎる」と塚次は呟いた、「森田座は明日にしよう」
 彼は疲れていた。もう寝る時刻を遇ぎていた。朝の三時に起きて、明日の朝も三時に起きなければならない。午後に一時間ほど横になるほかは、躯を休ませる暇がないので、この時刻になると、抵抗できないほど寝たくなるのであった。
「田舎へ帰るんだな」彼は立停って、脇にいる(もう一人の)自分に云った、「こういうことになって、まさか居坐ってるわけにもいくまいし、田舎へ帰るほかはないじゃないか、そうだろう、――帰れば帰ったで、また、なんとか……」
 だが塚次は(もう一人の)自分が首を振るのを感じた。彼は田舎の家と、そこにある生活を思いうかべ、帰っていっても、そこには自分の割込む席のないことを認めた。――彼の家は中仙道の高崎から、東北へ三里ほどいった処で、重平の故郷の隣り村に当っていた。そこには塚次の母と、継父と、継父の母と、九人の弟妹たちがいる。塚次の実父は早く病死して、そのあとへ継父がはいり、八人の弟妹が生れた。去年の春、また妹が生れた、という知らせがあったが、これだけの人数が僅か六七反歩の田畑に、しがみつくようにして生きているのである。それは「生きている」というほかに云いようのない生活であった。――塚次は三年まえ、二十一歳のとき江戸へ出て来た。隣り村に住んでいる重平の兄の世話であったが、江戸へ出たのは、父親の違う弟妹たちとの折合が悪かったためだけではなく、そこにいては、満足に食ってゆけなくなることが、わかってきたからであった。
「洗い場の胡桃《くるみ》、――」と塚次は呟いた、「あれは今年もよく生ったろうな、あの胡桃はよく実がついた、おれが出て来る年には一斗五升も採れたからな」

[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]

 田舎の家の前に小川があり、農具や野菜などを洗う、小さな堰《せき》が作ってある。その傍《かたわ》らに大きな胡桃の木が枝を張っていて、夏には洗い場を日蔭にし、秋になるとびっしり実をつけた。その実が小川へ落ちて流れるのを、塚次はよく親たちに隠れて拾って喰《た》べたものである。胡桃は値がよく売れるから、隠れてでも喰べなければ、彼などの口には入らないのであった。
「胡桃、――」と塚次は首を傾げた、「そうか、あれは胡桃だな、あの蒲鉾《かまぼこ》豆腐は、そうだ、あの味と香りは慥《たし》かに胡桃だ、ふん、それであの胡桃の木のことなんか思いだしたんだな」
 暗い刈田を渡って来る風が、塚次の着物にしみとおり、その膚を粟立《あわだ》たせた。彼は身ぶるいをし、もっと肩をちぢめて歩きだした。
 西仲町の家へ戻ったが、おすぎ[#「すぎ」に傍点]はやはり帰っていなかった。塚次はおげん[#「げん」に傍点]に、「明日もういちど捜しにゆく」と云った。おげん[#「げん」に傍点]はなにか訊きたそうだったが、「おとっさんには伊能屋に泊ったと云っておいたから」と囁《ささや》いただけであった。
 翌日、――朝のしょうばいに出た戻りに、金剛院の台所へ道具を預けておいて、塚次は森田座の楽屋を訪ねた。伝造という老人はいた。老人はいま寝床から起きたというようすで、眼脂《めやに》の溜まった充血した眼をしょぼしょぼさせ、小さな痩《や》せた躯からは、鼻をつくほど酒が匂った。
「あいつはずらかったよ」と老人は首筋を掻きながら云った、「不義理の仕放題をしやあがって、ひでえ畜生だ、もうちっとまごまごしていたら、誰かにぶち殺されたところだろう、おめえ長二郎のなかまかい」
 塚次は「そうじゃない」と首を振った。
「すると騙されたくちか」と老人はまた首筋を掻いた、「もしあいつにひっかけられたのなら諦《あきら》めるこった、あいつはもう二度と江戸へ帰りゃしねえから」
「なにか女のことは聞きませんでしたか」
「女だって、――おめえの女でもどうかされたのかい」
 塚次はまた首を振り、「自分の知っている家の娘が昨日から帰らないが、長二郎という人といっしょではないか、という噂があるので訊きに来たのだ」と云った。
「ふん、――」と老人は鼻を鳴らした、「あいつの女出入りは算盤を置かなくちゃわからねえが、そうさな、そういえば夏じぶんから、あいつにのぼせあがってる娘がいる、っていうようなことを聞いた覚えがあるぜ」
 だが詳しいことは知らない、と老人は云った。誰に訊いても長二郎のことはよくわからないだろう、中村座を逃げだしてからは、寝場所も定まっていなかった。博奕《ばくち》打ちのなかまにでもはいっていたらしいが、自分のことは決して話さない人間だし、親しい友達というものもなかった。したがって、その女のことも、どこへずらかったかということも、知っている者はおそらく一人もないだろう、と老人は云った。
 ――おかみさんにどう話したらいいか。
 楽屋口で老人に別れてから、塚次は思い惑って溜息をついた。伝造の話によると、長二郎という男はよほどせっぱ詰っていたようだ。そうすると、おすぎ[#「すぎ」に傍点]が金や品物を(殆んど)あらいざらい持出したことと符が合っている。おそらく長二郎と逃げたのであろうが、はっきりそうと定めることもできなかった。
 ――いずれにしても、まもなく帰って来るだろう。
 塚次はそう思った。彼の気持の奥には「まもなく戻るに相違ない」という、漠然とした予感があった。おすぎ[#「すぎ」に傍点]はそういう娘であった。おそらく平気で帰って来て、きまりの悪い顔もせずに、ずけずけと自分に用でも頼むだろう、と塚次は思った。
「そうなったとき、おれはどうするだろう」と歩きながら彼は呟いた、「黙って云うなりになってるだろうか、それとも、……いや、たぶんなにも云えないだろう、云えやしないさ、あの女の顔をまともに見ることさえできやしないさ、――どう転んだっておれはおれだ、たいしたことはないや」
 塚次はぼんやりと溜息をついた。
 預けておいた道具を取りに、金剛院へ寄ると、老方丈が庫裡《くり》の縁側から呼びとめた。塚次は鉢巻を外しながらそっちへいった。もう七十三歳にもなるのに、老方丈の小さな躯は固太りに肥え、顔などは少年のような色艶《いろつや》をしていた。
「どうだ塚公」と老方丈が云った、「このあいだの物はわかったか」
「へえ、まあだいたい見当がつきました」
「いや口で云わなくともいい、見当がついたら作ってみろ」と老方丈は云った、「上方の物で、こっちではまだ作らないようだ、うまくゆけば売り物になるぞ」
「へえ」と塚次は云った、「やってみます、二三日うちに作って、持ってあがります」
「どうした」と老方丈が云った、「ばかに元気がないようだが、どうかしたのか」
 塚次は「へえ」と苦笑し、ふと眼をあげて老方丈を見た。彼は方丈さんに話してみようか、と思ったのであるが、しかし、すぐに首を振って、「いいえべつに」と口を濁し、二三日うちに持ってあがります、と云ってそこを去った。
 西仲町ではおげん[#「げん」に傍点]が待ちかねていた。塚次は「だめでした」と囁いた。喜久寿や長二郎のことに触れずに、心当りの処にはいなかったし、ほかにもう捜す当もない。とにかく、暫く放っておいて、ようすをみるほかはないだろう、と云った。店では売子の伊之吉が、せっせと焼豆腐を作っていた。彼はもう、おすぎ[#「すぎ」に傍点]になにかあった、ということを勘づいたらしく、こっちへ向けた背中に、聞き耳を立てていることが、明らかにうかがわれた。おげん[#「げん」に傍点]は塚次を眼で招き、臼台《うすだい》の蔭へまわって、「うちの人にどう云おうか」と囁いた。一と晩はごまかせたが、今日はもうだめだろう。病気に障るのが心配だが、知らせないわけにはいかない。どういうふうに話したらいいだろうか、というのである。塚次は当惑して、自分にはわからない、と答えた。もう二三日待ってみて、勘づかれてから話してもよくはないか、それとも、「伊能屋の娘たちと身延か成田山へでもでかけた」と云ってみてはどうだろう。急のはなしで、重平が眠っているうちにでかけたと云えば、信じるかもしれない、と塚次は云った。
「とてもだめだと思うよ」とおげん[#「げん」に傍点]は溜息をついた、「あたしうちの人には嘘がつけないんでね、うちの人にはすぐみやぶられてしまうんだから、――でもやってみようかね、みやぶられたらみやぶられたときのことにして、とにかくそう云ってみることにするよ」
 そして、もういちどやるせなげに溜息をついた。
 その夜、塚次が仕込みを終ったとき、おげん[#「げん」に傍点]が来て「うちの人に話したよ」と云った。塚次の教えたとおり、身延山へいったと云うと、重平はそっぽを向いたままで、「そうか」と頷《うなず》いたきり、なにも云わなかったということであった。
「すぐに話を変えたけれどね」とおげん[#「げん」に傍点]は云った、「いまにもどなられやしないかと思ってあたしはびっしょり汗をかいちゃったよ」

[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]

 中二日おいて、冷たい雨の降る午後(横になる時刻)に、塚次は金剛院の方丈を訪ねた。前の晩に作った蒲鉾豆腐を、方丈のところへ持っていったのであるが、老方丈は一と口喰べてみて頷いた。
「よくわかった」と老方丈は云った、「少し脂っこいようだが、どういう按配《あんばい》で作った」
「豆腐一丁に剥《む》き胡桃を十の割です」と塚次は答えた、「豆腐の水切りをしまして、煎《い》った胡桃をよく磨ったのへ、塩を加えて、もういちど豆腐と混ぜて磨りあげ、この杉のへぎ板へ塗って形を付けてから、蒸しました」
「胡桃の割が多いようだな」と老方丈は頷いて、もう一と口喰べてみた、「塩のせいかもしれないが、ともかく少し脂気が強いようだな」
 塚次がふいに「あ」という眼つきをした。そして、思いついたことがあるから、明日もういちど味をみてもらいに来ると云い、すぐにそこを立とうとした。すると老方丈は呼びとめて、「まあ坐れ」と云い、不審そうに坐り直す塚次を、じっとみつめた。
「話してみろ」と老方丈は云った、「家付きの嫁が逃げたそうだが、どうしたんだ」
「誰が」と塚次は吃《ども》った、「誰が、そんなことを」
「伊之吉という売子が、昨日来て権助にそう云ったそうだ、どういうわけだ」
 塚次は「へえ」と俯向《うつむ》き、暫く黙っていたが、やがて、こぼした粟粒でも拾うような調子で、これまでの出来事をゆっくり話した。老方丈は塚次の顔を見ながら、しまいまで黙って聞いていた。重平がおげん[#「げん」に傍点]の作り話を聞いたとき、なにも云わなかった、という点が気になったものか、いちど聞き直してから、「ふん」と妙な顔をした。
「知っていたんだな」と老方丈は云った、「寝たっきりの人間には、家の中で起こることはよくわかるものだ、家は広いのか」
「いいえ、奥は六|帖《じょう》が二た間に、長四帖の納戸だけです」と塚次が云った、「納戸は、田舎の人ですから、あとから造り足したんですが」
 人の数も少ない、夏のあいだは売子も三人になるが、寒いうちは伊之吉だけで、彼も住込みではなく、裏の長屋に母親と住んでおり、夕方の仕事が終ると帰ってしまう。――それに、おげん[#「げん」に傍点]や塚次はそれぞれ分担の仕事があって、塚次は売りにも出るし、おげん[#「げん」に傍点]は店にいるほうが多いから、おすぎ[#「すぎ」に傍点]がそれだけの金や品物を運び出すのを、気づかなかったというのも(迂濶《うかつ》ではあるが)頷けないことはない、しかし、寝たっきりの病人が、まったく知らなかったとすれば却《かえ》って不自然である。
「塚公だって」と老方丈は云った、「その役者のことを知っていたんだろう」
 塚次は「へえ、まあ――」とあいまいに口ごもった。老方丈はじれったそうに、知っていてどうして婿になる気になったんだ、と訊いた。それはまあ、そんな人間となが続きがするわけはないと思ったし、自分が眼をつぶって結婚すれば、それでおちつくかもしれないと思った、と塚次は答えた。
「娘に惚《ほ》れてたというわけか」
「私がですか」と塚次は吃驚したような眼つきをし、それから、苦笑しながら首を振った。「私はあの人に、うちのぐず次、って云われていました」
 老方丈はつくづくと塚次の顔を見た。そして、なにやらどなりたそうな表情をしたが、艶のいい顔を手で撫でながら、「ふん」といい、えへんと大きな咳《せき》をした。
「すると、なにか」と老方丈が云った、「塚公はこのままあの家にいるつもりか」
「出るにしても、当はなし」と塚次は俯向いて云った、「いられるだけは、まあいてみるつもりです」
「出るんなら相談に乗るぞ、よその店へ替りたいんなら、世話もしようし請人《うけにん》にもなる、また自分で店を持つという気があれば」
「いいえ、それは」と塚次は遮《さえぎ》った、「それは有難うございますが、いまの主人には恩がありますし、いったん婿入りの盃をして、親子にもなったことですし、またそうでなくとも、寝たっきりの主人をみすてて出るということは、……」
「うん、それは理屈だ」と老方丈は頷いたが、さらにだめ押しをするように云った、「それは正しく理屈だがな、塚公、――もしもその娘が戻って来たらどうする」
 塚次は「へえ」と俯向いた。
「おまえの話を聞いてると、そいつは桁外《けたはず》れのわがまま娘のようだ、いまにきっと戻って来ると思うが、そのときおまえはどうする」
「それは、――」と塚次は低い声で云った、「それは、そのときのことにしようと思います」
 老方丈は庭のほうへ眼をやり、かなり長いこと黙って、なにか考えているふうだったが、やがて、塚次のほうは見ずに、「それはそうだ」と頷き、ではそのときのぐあいで、また相談しよう、と云った。
「へえ、済みません」と塚次が云った、「――ではこの蒲鉾豆腐を、もういちどやり直して伺いますから」
「うん、やってみてくれ」と老方丈は頷いた、「二十一日に檀家が三十人ばかり集まる、よければそのとき注文することにしよう」
 塚次は礼を述べて立ちあがった。彼は広縁から庫裡のほうへゆきながら、ごつごつした指で、すばやく眼を拭いた。
 その夜、――塚次は蒲鉾豆腐をやり直した。豆腐一丁に剥き胡桃五個の割で、蒸しあげるまでは同じだったが、最後に火で炙《あぶ》って、外側に焦目を付けた。もう夜の十一時ころで、奥は寝しずまっていたが、出来あがったのを一ときれ切り、味をみようとしたとき、上り框《がまち》の障子のあく音がした。――塚次が振返って見ると、そこに重平が立っていた。
「――おとっさん」と塚次は口をあいた。
 重平は「黙って」というふうに、ゆっくりと手を振った。彼は四十八になる、痩せた小柄な躯つきだが、膚はたるんで、蒼白《あおじろ》くむくんだような、いやな色をしていた。緊まりのない唇や、瞳孔《どうこう》のひらいた眼や、寝乱れて顔へ垂れかかる髪毛など、暗がりの中で見ると、いかにも頼りなげに、弱よわしく見えた。
「塚次、――」と重平は云った。わなわなふるえる、力のない、低くしゃがれた声でもういちど「塚次」と云い、焦点の狂ったような眼で、じっと塚次を見つめた。塚次はそっちへゆき、ふらふらしている重平の躯へ、手を伸ばして支えようとした。重平は片手で障子につかまっていたが、塚次が伸ばした手を(首を振って)拒み、それからおそろしく重たそうに、両手をゆっくりとあげて、合掌した。
「たのむ」と重平は合掌した手を塚次に向けながら云った、「たのむよ、な、――」
 塚次は「おとっさん」と云った。
 重平の眼からしまりなく涙がこぼれ、合掌した手をだらっと垂らしながら、よろめいた。塚次はとびあがって、重平の躯を両手で支えながら、「おとっさん」ともういちど云った。重平の躯は婿の腕の中へ凭《もた》れかかり、う、う、と、呻《うめ》ぎ声をあげた。

[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]

「大丈夫です、おとっさん」と塚次は重平の耳もとで云った、「私がちゃんとやってゆきます、おすぎ[#「すぎ」に傍点]さんもすぐに帰って来ます、大丈夫だから心配しないで下さい」
「おすぎ[#「すぎ」に傍点]とは、親子の縁を、切った」と重平はもつれる舌で喘《あえ》ぐように云った、「おまえだけが、頼りだ、塚次、よく聞いてくれ、おまえだけが、頼りだぞ」
「わかってます、わかってますから寝にゆきましょう」
「たのむ」と重平は云った、「――たのむぞ」
 塚次は舅《しゅうと》を寝床へ伴《つ》れていった。暗くしてある行燈の光りにそむいて、おげん[#「げん」に傍点]が鼾《いびき》をかきながら眠っていた。
 ――方丈さんの云ったとおりだった。
 店へ戻りながら、塚次はそう思った。
「だがあの夫婦は、娘と縁は切らない」と彼は呟いた、「あんなに底なしに可愛がっていた娘だ、口ではああ云っても、いざとなれは親子の縁を切ることなどできやしない、わかりきったことだ、できるものか」
 そして塚次は力ない溜息をついた。
 おすぎ[#「すぎ」に傍点]からなんの消息もなく、行方も知れないままで二年経った。このあいだに、重平は妻と相談して故郷の家から姪《めい》のお芳を呼んだ。兄の重助の三女で、重助が弟のみまいを兼ねて、自分で娘を伴れて来た。重助は一と晩だけ泊って帰ったが、弟夫婦となにか話があったらしく、帰りがけに塚次を呼んで、「よろしく頼む」と云った。
「おまえの田舎の家も相変らずだが」と重助は付け加えた、「まあ田舎は田舎でやってるからな、おまえはここの婿になったことだし、ひとつ腰を据えてやってくれ」
 塚次は黙って、眼を伏せながら、おじぎをした。
 お芳は縹緻はあまりいいとはいえなかったが、躯の丈夫な、はきはきとよく働く娘で、十七という年にしては、仕事ののみこみも早かった。お芳が役に立つようになると、おげん[#「げん」に傍点]は掛りきりで良人の看病をした。けれども重平の容態にはさして変りがなく、むしろ、手足の痺《しび》れなどは、まえよりひどくなるようであった。
「寝たっきりでいるからだ」と重平はもどかしがった、「これからは少しずつ起きて、歩く稽古をしてみよう」
 だが医者は厳重に禁じたし、重平がむりに試みようとすると、おげん[#「げん」に傍点]は泣いて止めるのであった。二人のあいだでは、おすぎ[#「すぎ」に傍点]のことは決して話されなかった。「身延へいった」という嘘も、嘘のまま忘れられたようで、重平がそのことに触れないのを幸い、おげん[#「げん」に傍点]も黙って、なりゆきに任せていた。
 塚次はよく働いた。焦目を付けた蒲鉾豆腐が好評で、顧客《とくい》さきにもよく売れたし、寄合とか、祝儀や不祝儀に、しばしば大量の注文があった。このほかにも「胡麻揚」とか、「がんもどき」などにも、よその店とは違ったくふうをし、「絹漉《きぬご》し豆腐」なども作った。――こういうものは、たいがい金剛院の老方丈に教えられるか、意見を聞くかしてやったものである。塚次はこれらの品を、客にはっきり覚えてもらうため、軒の吊《つ》り看板に「上州屋」という屋号を入れた。豆腐屋の看板は単に「豆腐」と書くのが一般で、屋号を付けるのはごく稀《まれ》だったが、彼は売子たちにも「上州屋でござい」と云わせ、自分もそう呼んでまわった。
 ――へい、上州屋でござい、自慢の蒲鉾豆腐にがんもどき、胡麻揚に絹漉し豆腐。
 という呼び声であった。
 おすぎ[#「すぎ」に傍点]の出奔がわかってから、塚次はしょうばいに出たさきでよくからかわれた。よその店の売子たちにも、意地の悪い皮肉を云われたし、顧客さきでもたびたび笑い者にされた。田原町二丁目の裏店に。亀造という馬方がいたが、これは真正面から嘲笑《ちょうしょう》した。
「おめえが嫁に逃げられたってえ豆腐屋か」と初めに亀造は云った、「嫁が男をこしらえて逃げたのに、おめえ平気な面で居坐ってるのか、へ、野郎のねうちも下ったもんだな」
「おっ、おめえまだいたのか」と二度めに亀造は云った、「へえ、そりゃあたいした度胸だ、おめえんとこのがんもどきはよそのより厚いってえが、おめえの面の皮もよっぽど厚いとみえるな」
「よう色男」と三度めに亀造は云った、「どうだ、もう嫁さんは帰ったか」
「よさないかね、この人は」と亀造の女房がそのとき奥からどなった、「人の世話をやくより、自分でかみさんに逃げられない用心でもおしよ」
「笑あしゃあがる、かみさんたあ誰のこった」
「自分で自分のかみさんもわからないのかい」と亀造の女房がまたどなった、「わからなければ見ているがいい、そのうちに逃げだしてやるから、いなくなれば誰がかみさんだったかわかるだろうよ」
 そして亀造がなにかやり返すより先に、平気な顔で勝手へ出て来て「賽《さい》の目にして一丁」と云い、「うちのはとんだ兵六玉だから勘弁しておくれよ」と詫《わ》びた。塚次は涙がこぼれそうになり、「へえ、なに、――」と口ごもりながら豆腐を切った。
 亀造の女房はおみつ[#「みつ」に傍点]といい、千住の遊女あがりだそうだが、思いきった毒口をきくわりには、さっぱりした、飾りけのない性分で、その後はまえよりも塚次を贔屓にしてくれた。
 おすぎ[#「すぎ」に傍点]が出ていってから、まる二年に近い秋のことだったが、塚次が午後のしょうばいに出ると、田原町のところで、妙な男に呼びとめられた。古びた桟留縞《さんとめじま》の素袷《すあわせ》に平ぐけをしめ、草履ばきで、肩に手拭をひっ掛けていた。年は二十七八だろう、博奕打《ばくちう》ちかやくざと、一と眼で見当のつく、いやな人相の男であった。道のまん中だが、塚次は「なにをあげます」と答えて荷をおろした。
「買おうってんじゃねえ」と男は云った、「眼障りだからこの辺へ来るなってんだ」
 塚次は男の顔を見た。酒に酔っているらしい、赤い顔をして、口に妻楊枝《つまようじ》を銜《くわ》えていた。塚次はあいそ笑いをし、「御機嫌ですね、親方」と云いながら、おろした荷を担ごうとした。すると男は、塚次の浮いた腰を力まかせに蹴《け》った。冗談とは思えない、力いっぱいの蹴りかたで、塚次は担ぎあげた荷といっしょに転倒した。荷は散らばって、水は飛び、豆腐や油揚など、しょうばい物が道の上へすっかりうちまけられた。
「なにをするんです」と塚次はあっけにとられ、怒るよりも茫然として、起きあがりながら男に云った、「私がお気に障ることでもしたんですか」
「この辺をうろつくなってんだ」と男は銜えていた楊枝を吐きだした、「よく覚えておけ、こんど来やあがったら足腰の立たねえようにしてやるぞ」
 忘れるなよ、と男は喚いた。
 場所がらのことで、すぐまわりに人立ちがした。しかし誰も口をきく者はない、男はみんなを凄《すご》んだ眼で見まわしてから、本願寺のほうへと、鼻唄をうたいながら去っていった。

[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]

 塚次は口惜しさで、涙がこぼれそうになり、集まって来た人たちは、――なかには顧客もいたのだろう、彼に同情したり、暴漢を罵《ののし》ったりした。塚次はうわのそらでそれに答えながら、拾える物は拾おうとして、「いや、それではしょうばいに障るぞ」と気がついた。がんもどきや蒲鉾豆腐などは、土を払えば汚なくはない。しかしそこに集まっている人たちは、道の上から拾うのを見るし、「上州屋ではこういう物を売る」と云うかもしれない。
 ――こういうときが大事なんだな。
 塚次はそう思った。そこで、向うの筆屋の店で草箒《くさぼうき》を借り、ちらばっている物を掃き集めて捨て、空になった荷を担いで、出直すために西仲町へ帰った。そのときは口惜しかったが、酒癖の悪い酔っぱらいに会って、災難のようなものだと諦めた。けれどもそうではなく、明くる日の朝も、田原町の二丁目で、べつの男から同じように威かされた。
「やい豆腐屋、眼障りだぞ」とその男も喚きたてた、「これからこの辺をうろつくな、まごまごすると腰っ骨を踏折っちまうぞ」
 その男は三十がらみで、めくら縞の長半纒《ながばんてん》に鉢巻をしめ、ふところ手をしたまま、塚次の前に立塞《たちふさ》がった。塚次は黙ってあとへ戻り、そのまま伝法院のほうへ廻った。――午後には雷門のところで、翌日は正智院のところで、そのときによって場所も相手も違うが、同じような文句で威しつけ、抗弁でもすれば、すぐにも殴りかねないようすだった。
 ――しょうばい敵のいやがらせだな。
 塚次はそう思った。それというのが、その少しまえから、特に裏店の方面で顧客が減りはじめ、一日おきに買ってくれた家が、三日おき五日おきになるし、ときたまの家では呼ばなくなるという例が、(売子のほうはそれほどでもないらしいが)しだいに眼立って来たのである。――おそらく他の豆腐屋が邪魔をするのだろう、えたいの知れない男たちの乱暴も、しょうばい敵に頼まれたものだろう、と塚次は推察し、「それならこっちにも覚悟がある」と思った。
 九月下旬の或る日、――午後のしょうばいに出た塚次は、花川戸の裏でまた威かされた。相手は初めに田原町で会った男で、よれよれになった双子唐桟の袷を着、月代も鬚《ひげ》も伸び放題の、ひどくよごれた恰好をしていた。相手があのときの男だと知ると、塚次はすばやく荷をおろし、「なんです」と云って天秤棒《てんびんぼう》を手に持った。
「私はちゃんと組合にはいってしょうばいをしているんです」と塚次は云った、「人に文句をつけられる覚えはありません、おまえさんはいったいどなたですか」
「天秤棒を持ったな」と男は云った、「野郎、やる気か」
 男は腕捲《うでまく》りをした。塚次は恐怖におそわれ、救いを求めるように左右を見た。道の上や家並の軒先に、もう七八人立っていたが、誰も出て来るようすはなかった。
「そっちが先に天秤棒を持ったんだぞ」と男は喚いた、「片輪になっても罪はてめえが背負うんだ、野郎やってみろ」
 塚次は「待って下さい」と云った。
「やってみろ」と男は喚いた、「やれねえのか、このいくじなし」
 男は塚次にとびかかった。殴りあいなどはもちろん、塚次はこれまで口争いをしたこともないが、相手は喧嘩に馴れているようすで、とびかかるなり天秤棒を奪い取った。塚次は逃げようとしたが、男はそれよりすばやく、天秤棒で塚次を撲《なぐ》りつけた。肩、腰、足、背中と、容赦なく撲りつけ、塚次が倒れたまま、身をちぢめて動かなくなると、おろしてあった荷を、両方とも蹴返し、道の上にちらばった油揚やがんもどきなどを、草履ばきの足で踏みにじった。
「これで懲りたろう」と男は云った、「てめえで招いたこった、恨むんならてめえを恨め」
「なぜだ」と塚次は倒れたままで、苦痛のために喘ぎながら訊いた、「わけを云ってくれ、なんの恨みがあってこんなことをするんだ」
「眼障りだと云ったろう、てめえは眼障りなんだ」と男が云った、「いいか、命が惜しかったら消えてなくなれ、田舎へいったって豆腐屋ぐらいはできるんだ、早く逃げだすのが身のためだぜ」
 塚次は「あ」と声をあげた。男は「こんどこそ忘れるな」と云い、塚次の前へ天秤棒を放りだした。塚次は苦しげに呻いて、また地面に突伏し、男は、遠巻きに立っている人たちに、冷笑を投げながら、去っていった。
 ――違う、しょうばい敵ではない。
 と塚次は思った。しょうばい敵のいやがらせにしては度が過ぎる、あまりに度が過ぎるといってもいい。これは違う、これはそんなことではない、もっとほかにわけがある筈だぞ、と塚次はもう一人の自分に云い聞かせた。――男が去るのを待っていたように、二人の辻番《つじばん》と、顔見知りの者が三人ばかり近よって来た。かれらは塚次を助け起こし、道具や天秤棒を拾い集め、そうして、辻番の老人のほうが道具を持って、西仲町まで送ってくれた。
 塚次は跛《びっこ》をひきひき、ようやくのことで帰ったが、帰り着くまでに、顔の左半分が眼もふさがるほど腫《は》れあがった。
「あの男に構いなさんな」と送って来た辻番が云った、「あいつはかまいたち[#「かまいたち」に傍点]の長といって、博奕で二度も伝馬町の飯を食ってるし、喧嘩で人を斬ったことも三度や五たびじゃあきかない、いま人殺しの疑いで、駒形の小六親分が洗っているというはなしだから」
「かまいたち[#「かまいたち」に傍点]の……長ですって」
 辻番の老人は耳が遠いらしく、「ああ」と頷いて、小六という目明しが腕っこきであること、あの親分ににらまれたら、どんな、兇状《きょうじょう》持ちでも※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《のが》れっこはないこと、などを、自分で合槌《あいづち》をうちながら、饒舌るだけ饒舌って帰っていった。塚次の顔を見ると、お芳はいきなり笑いだした。眼もふさがるほど腫れあがった顔が、よほど可笑《おか》しく見えたに違いない、塚次は、「かぼちゃの化物かね」と顔をそむけながら、敷居を跨《また》ぐとたんに、あっといって、店の土間へ転げこんだ。丸太を倒すように転げこんで、そのまま苦痛の呻き声をあげた。
「塚次さん」とお芳が駆けよった、「どうしたの、塚次さん」
「騒がないで」と塚次が制止した、「足を挫《くじ》いただけだから、大きな声をださないで下さい」
「またやられたの」とお芳は覗《のぞ》きこんだ、「また田原町のときのように乱暴されたのね」
 塚次は顔をするどく歪《ゆが》め、痛む足を庇《かば》いながら、ようやくのことで立ちあがった。お芳が背中へ手をやると、彼は「痛い」といって身をよじった。肩も背中も腰も、ちょっと触られるだけで、刺すように痛んだ。お芳は初めて唯事でないと感じたらしい、「医者を呼んで来る」と云って駆けだそうとしたが、塚次は激しく遮った。
 そんな大げさなものではない、膏薬《こうやく》を出して来てくれれば自分で手当をする、決して騒ぐほどのことではないから、と云って塚次はお芳をなだめた。

[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]

 塚次はそれから七日ほど寝ていた。
 医者が重平のみまいに来たので、お芳がおげん[#「げん」に傍点]に告げ、むりに診察させた結果、「打身だからそう心配することもないが、十日くらいは休むがよかろう」と云われたのである。実際のところ、片方の足と肩の痛みだけでも、すぐには動きがとれなかったし、二日ばかりは相当に高い熱が出た。
 そのあいだ、仕込みはお芳が手伝って、伊之吉にやってもらった。外廻りもべつに売子は雇わず、仕込みを減らして、伊之吉ひとりだけに廻らせた。
 膏薬は日に一度、夜の仕込みを終ってから、お芳の手を借りて取替えた。うしろ腰と背中は、手が届かなかったからであるが、お芳は全部を自分でやってくれた。――
 或る夜、お芳は膏薬を替えながら、「かんにんしてね」と塚次に囁いた。塚次はお芳を見た。
「あのときいきなり笑ったりなんかして」とお芳は囁き声で云った、「でもあたし、可笑しかったんじゃないのよ」
「あの面を見れば誰だって笑いますよ」
「あたし可笑しかったんじゃないの」とお芳は云った、「あんまり吃驚して息が止りそうになったの、そうしたら知らないうちに笑いだしていたのよ、自分でも知らないうちに、……でも本当は笑ったんじゃないわ、可笑しいなんてこれっぽっちだって思やしなかったわ」
「もうたくさんですよ」と塚次が云った、「私はべつになんとも思っちゃいないんですから」
 お芳は「ごめんなさい」と云い、塚次の背中から寝衣を着せかけると、そこへ坐って鳴咽《おえつ》しはじめた。塚次は三尺をしめながら、「どうしたんです」と振返った。お芳は袖で口を押えているが、襖《ふすま》の向うには重平夫婦が寝ているので、もし聞えたら、と思うとはらはらした。
「ねえ塚次さん」とお芳は鳴咽を抑えながら囁いた、「あんたもう、この家を出るほうがいいんじゃないの」
「この家を、出るって、――」
「あたし金剛院の方丈さまに聞いたわ」とお芳は続けた、「この家を出るなら、どんな面倒でもみてやるって、小さい店くらい持たせてやってもいいって、方丈さまはあたしにそう云ったわ」
「そんなことを、どうしてまた」
「いつか田楽を届けにいったとき、方丈さまに相談することがあったの、そうしたら方丈さまは、まえにこういう話をしたことがある、って仰《おっ》しゃったのよ」
 塚次は首を振った。そういう話はあったが、重平があのとおりだし、自分は夫婦に恩があるから、いまさら出るなどということはできない、と塚次は云った。
「恩とはどんな恩、――」とお芳が訊いた。
「あんたこの家にどんな恩があるの」
「お芳さんにはわからないでしょう」
「五年のあいだ世話になったっていうんでしょ、それがどれほどの恩なの、あんたは遊んでたんじゃない、働いてたじゃないの」とお芳は云った、「あたしお父っさんに聞いて知ってるわ、きまった給銀もなく、叔父さんのお古ばかり着せられて、芝居ひとつ見もしずに人の倍も働くって、それはあたしが自分の眼で、二年もちゃんと見て来たわ」
「お芳さんにはわからない、私が田舎でどんな暮しをしていたか、お芳さんにはわからないんだ」
「あたしだって同じ田舎で育ったのよ」
「違うんだ」と塚次は首を振った、「お芳さんには、私の家がどんな暮しをしているか、わかりゃあしない、決してわかりっこはないんだ、私はこの家へ来て、初めて、人間らしい暮しというものを味わった、初めて、――私のこの気持は、お芳さんばかりじゃない、誰にもわかりゃしないんだ」
「ほんとのことを云ってちょうだい」とお芳は彼の眼を見つめた、「あんたおすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんが好きなんでしょ」
 塚次はぼんやりとお芳を見た。
「そうなんでしょ」お芳はたたみかけた、「おすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんが忘れられなくって、いつかおすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんが帰って来るだろうと思って、それで辛抱しているんでしょ」
 塚次は首を振った。それから暫く黙っていて、やがて「そうじゃない」と悲しげに首を振った。そのとき襖の向うで、重平のなにか寝言を云うのが聞えたが、あとはすぐにまたしんとなった。
「そうじゃないんだ」と塚次は云った、「あの人は私のことを、ぐず次といって嗤《わら》い者にしていたし、私もあの人が好きじゃなかった、そのうえ私は、あの人にいろいろ不行跡のあることも知っていた、男も一人や二人じゃあなかったし、どの男もまともな人間じゃあなかった、あの人はそういう人だったんだ、――いくら私がいくじなしでも、そういうことを知っていて、よろこんで嫁にもらうほど腑抜《ふぬ》けじゃあない、それほど腑抜けじゃあないよ」
 お芳は袖で眼を拭いた。塚次はなおひそめた声で、「私は考えた」と続けた。婿縁組のはなしがあったとき、よく考えてみた。重平は倒れて、再起のほどもおぼつかない、もしおすぎ[#「すぎ」に傍点]が男でも伴れ込んだらどうなる。相手はまともに稼《かせ》ぐような人間ではない、たちまち二人でこの家を潰《つぶ》してしまうだろう。もしも自分が婿に(たとえ名だけにしろ)入れば、そうはさせない、ことによるとそれでおすぎ[#「すぎ」に傍点]がおちつくかもしれないし、そうでなくともこの家を潰すようなことはさせない、それだけは防ぐことができる、と塚次は思った。
「それで、おすぎ[#「すぎ」に傍点]さんが承知なら、――と答えた」と彼は続けた、「おすぎ[#「すぎ」に傍点]さんは承知だった、というのは、そのときもう男と駆落ちをする手筈ができていたんだろう、盃をして三日めに逃げだしてしまった」
「わかったわ、よくわかったわ」
「私はこの家を守る」と塚次は云った、「金剛院の方丈さんにも云われたが、私はやっぱりこの家を守りとおすよ」
 お芳はまた鳴咽しはじめたが、袖で口を押えたまま「もしおすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんが帰ったらどうするの」と訊いた。持出した金や品物がなくなり、暮しに困れば帰って来るだろう。叔父や叔母は「親子の縁を切った」と云っているけれども、帰って来れば家へ入れるに違いない。自分にはそれがはっきりわかっている、その証拠がある、とお芳は云った。
「塚次さんはまだ聞かされていないでしょ」とお芳は俯向いて続けた、「あたしが二年まえにこの家へ来たとき、あたしのお父っさんとここの叔父さん叔母さんとで、塚次さんとあたしをいっしょにして、この家の跡取りにする、っていう約束をしたのよ」
 塚次は口をあいて、吃驚したような眼でお芳を見た。
「こんなこと女のあたしが云うのは恥ずかしいけれど」とお芳は顔をあげた、「あたしはそこにいて聞いたの、この耳でちゃんと聞いたことなのよ」

[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]

 それから二年も経つのに、夫婦はまだ塚次にその話をしない、「あんたまだ聞かないでしょ」とお芳は彼を見た。そして、いつ結婚させるというようすもない。つまり重平夫婦はおすぎ[#「すぎ」に傍点]を待っているのだ、おすぎ[#「すぎ」に傍点]が帰って来れば、この家へ入れるつもりなのだ。塚次さんはそう思わないか、とお芳は云った。
「いや、――」と塚次は静かに答えた、「私もそう思う、おすぎ[#「すぎ」に傍点]さんはいつか帰って来るだろう、あの人はそういう人だし、帰って来れば家へ入れるに違いないと思う」
「じゃあそのとき、塚次さんはどうするの」
「それは、そのときになってみなければ、いまここではどう云いようもありません」
「よければ婿でおちつくのね」
「私は婿じゃあない」と塚次は云った、「まだあの人とは夫婦になっていなかったし、これからだってそうなりっこはありません、だから、もしも、――」
「もしも、なに」とお芳が訊いた。
「もうおそすぎる」と塚次が云った、「朝が早いんだからもう寝て下さい」
 お芳は「塚次さん」と云った。塚次は横になり、夜具を眼の上までかぶった。隣りの六帖で、また重平が寝言を云うのが聞えた。
 塚次は七日めに起きて、まだ荷は担げなかったが、顧客さきをずっとひと廻りまわった。休んだ詫びを兼ねて、ちかごろ買ってくれないわけを(できることなら)聞きだしたいと思ったのである。あの暴漢が他の豆腐屋のいやがらせかどうか、――花川戸のとき、彼はそうではないと直感したが、――どちらであるかわかるかもしれない、そうしたら今後の考えようもある、と思ったのであるが、いざ当ってみると、「どうしてこのごろ買ってくれないのか」と訊くわけにもいかず、休んでいて済まなかったことと、「これまでどおり贔屓にしてもらいたい」と頼むよりほかはなかった。
 田原町二丁目の裏店へまわっていったとき、馬方の亀造の女房に呼びとめられた。おみつ[#「みつ」に傍点]というその女房は、勝手で洗いものをしていたが、塚次の挨拶を聞き終ると、洗いものをやめて振返り、「よけえなことを云っていいかい」と呼びとめた。
「おまえさんとこは勉強するし豆腐もいいけれど、いつも贅沢《ぜいたく》な物を持ってるのがいけないよ」とおみつ[#「みつ」に傍点][#「みつ」に傍点]は云った、「よけえなことだけれど、あたしにはそれがしょうばいの邪魔になると思うんだがね、わかるかい」
 塚次は「へえ」と頭へ手をやった。
「いつも蒲鉾豆腐とか、がんもどきとか胡麻揚なんぞを持って来る」とおみつ[#「みつ」に傍点]は云った、「貧乏人には貧乏人のみえ[#「みえ」に傍点]があるから、持って来られれば三度に一度は買わなければならない、その日ぐらしの世帯で、とんでもない、そんな贅沢ができるものかね、どうしたってみえ[#「みえ」に傍点]を張らずに済むほうを呼ぶよ」
 塚次は「あ」という眼をした。
「ふだんは豆腐だけにして」とおみつ[#「みつ」に傍点]は活溌に続けた、「値の高い物は月になん度と、日を定めて売るほうがいいじゃないか、表通りは知らないけれどね、さもなければ裏店なんぞ当にしないほうがいいよ」
「わかりました、おかみさん」と塚次はおじぎをした、「うっかりして、ついうっかりしていたもんで、ええ、仰しゃるとおりです、おかげでよくわかりました」
 おみつ[#「みつ」に傍点]は「礼なんかよしとくれよ」と手を振った。塚次はなん度もおじぎをし、繰り返し礼を述べてその路地を出た。
「そうだ、そうだろう」と歩きながら、塚次はもう一人の(脇にいる)自分に云った、「てめえが食うや食わずで育っていながら、そこに気がつかなかったという法があるか、あるもんか、迂濶だ、とんでもねえしくじりだ、しかし有難え、有難え人がいてくれた、あのかみさんはいつもおれのことを庇ってくれたっけ、おれを庇って、亭主をやりこめてくれたっけな」
 彼は節くれた指で眼を拭いた。
 まあいい、これでわかった、と歩きながら塚次は思った。云われたとおり日を定めて売ろう、ふだんは店だけで売る、そして定まった日だけ外廻りに持って出る。「今日は冬至だから」とか「今日は甲子《きのえね》だから」とか、そうだ、もの日に当てて売ることにしよう。そうか、もの日がいいか、と彼は首を捻《ひね》った。
「待てよ、まあ待て」塚次は立停って、もう一人の自分に云った、「――お稲荷さまにはよく油揚があがってるが、お稲荷さまの縁日はどうだ、お稲荷さま、……あれはなんの日だ、田舎では初午《はつうま》のお祭が賑《にぎ》やかだったが」
 初午とはその年初めての午の日であろう、午の日、「初午は年に一度だが、午の日は月のうち二度はある、三度ある月もある」と塚次は呟いた。
「そうだ、お稲荷さまと油揚、午の日」と彼は声に出して云った。「これがいい、午の日にしよう、こんち午の日、油揚に、――」
 塚次ははっとわれに返った。そこは伝法院の脇で、眼の前に老人が立っており、「おまえさんいつかの若え衆じゃないか」と呼びかけていた。古びた布子で着ぶくれ、耄碌頭巾《もうろくずきん》をかぶって、寒そうに腕組みをしていた。
「おれだよ、森田座にいたじじいだ」と老人は云った、「道のまん中に立ってぶつぶつ独り言を云ってるから、へんな男だと思ってみたらおめえだった、忘れたかい」
 塚次は「ああ」とおじぎをしながら、相手が森田座の楽屋番で、伝造という老人だということを思いだし、慌ててそのときの礼を述べた。老人は森田座を去年やめて、いま娘の婚家へ引取られていると云った。娘の亭主は人間はやくざだが自分を本当の親のように大事にしてくれる。寝酒も欠かさず飲ませてくれるし、小遣も呉れる。自分のような者にこんなごしょうらくが廻って来ようとは思わなかった。家は元鳥越の天文台のそばだから、「よかったら遊びに来てくれ」と云った。いかにもうれしそうな話しぶりであったが、別れようとしたとき、ふと思いだしたように、「おめえ長二郎を捜していたっけな」と云った。
「慥かあいつを捜してたと思うが、もう会ったかい」
「いいえ」と塚次は首を振った、「こっちにいるんですか」
「秋ぐちに帰って来たそうだ」と伝造は云った、「なんでも上方へずらかったが、そっちにもいられねえで帰って来たんだろう、よくわからねえが人をあやめ[#「あやめ」に傍点]たってえ噂もある。よっぽど悪くなってるようだから、会ったら気をつけるほうがいいぜ」
 塚次は膝《ひざ》がふるえだした。老人は「いちど遊びに来てくれ」と云ってたち去った。
 ――あれだ、やっぱりあの男だ。
 塚次は西仲町のほうへ帰りながら思った。花川戸でやられたとき、辻番が「なんとかの長という男だ」あの男には手を出すな、と云った。それではっきりとした、と塚次は思った。

[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]

 そうとすればわかる、男は「てめえは眼障りだ」とか、「田舎でも豆腐屋はできる」とか、「早く逃げだすほうが身のためだ」などと云った。つまるところ、塚次を逐《お》い出したかったのだ。たぶんおすぎ[#「すぎ」に傍点]もいっしょだろう、塚次を上州屋から逐い出して、そのあとへおすぎ[#「すぎ」に傍点]と二人で入るつもりなのだ。
「そうだ」と塚次は頷いた、「それでわかった、あれは長二郎だ」
 彼は激しい怒りと、それより大きい恐怖におそわれた。田原町と花川戸で、現に自分がやられているし、辻番の老人や伝造の話では、どんな無法なことをするかわからない。辻番の老人は「人殺し兇状の疑いで、駒形の小六親分が洗っている」とさえ云っていた。
「やれるか、あいつを相手に、やれるか」と塚次は(もう一人の)自分に云った、「あのならず者と、やりあえるか」
 塚次はもう一人の自分が首を振るのを感じた。とてもだめだ、できっこはない。あっというまに天秤棒を奪い取られたときの、相手のすばしこさと腕力とが、ありありと思いだされる。かなうものか、と塚次は思った。こんどこそ片輪にされるか、へたをすると殺されるだろう、とても、だめだ、と彼は首を振った。
 塚次は西仲町へ戻った。
 店先にお芳がいて、二人の客の相手をしており、売子の伊之吉は焼豆腐を作っていた。塚次がはいってゆくと、客を帰したお芳が手招きをし、「おすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんよ」と囁いた。
 塚次はそこへ棒立ちになり、大きくみひらいた眼で、もの問いたげにお芳を見た。
「いましがた来たの」とお芳は瞬いた、「叔母さんは泣いてよろこんでたわ」
「一人か」と塚次は吃《ども》りながら訊いた。
「一人よ」とお芳は頷いた、「いま叔母さんと話してるわ」
 塚次は上へあがった。のめるようなかたちで、お芳が「塚次さん」と呼んだが、振向きもせずに奥へとびこんだ。
 おすぎ[#「すぎ」に傍点]はこっちの六帖で、火鉢を挾《はさ》んでおげん[#「げん」に傍点]と話していた。そこには茶と菓子が出してあり、おすぎ[#「すぎ」に傍点]は煙草をふかしていた。――古くなった鼠色の江戸小紋に、くたびれた黒|繻子《しゅす》の腹合せをしめている。躯は肥えてみえるし、顔も肉ついて、そのくせとげとげしく面変りがしていた。
「あら塚次さん」とおすぎ[#「すぎ」に傍点]はしゃがれた声で云った、「暫くね。あんたまだいてくれたんだってね」
 塚次はふるえながら坐った。
「よく辛抱していてくれたわね」とおすぎ[#「すぎ」に傍点]は云った、「あたしまた、とっくに出ていかれちゃったかと思ってたの、いまおっ母さんと話してたんだけれど」
「出てって下さい」と塚次が遮った、躯もふるえているし、声もふるえていた、「この家から出てって下さい。たったいま」と彼はひどく吃った、「たったいま出てって下さい」
「どうしたの、なにをそんなに怒ってるの」とおすぎ[#「すぎ」に傍点]は煙管《きせる》を火鉢ではたき、女持の(糸のほぐれた)莨入《たばこいれ》を取って粉になった葉を詰めながらおちついて云った、「それはあたし親不孝なことをしたわ、それは悪かったと思うことよ、でもあたしはこの家の娘だし、いまもおっ母さんとよく話して」
「いや、だめだ、そんなことは、できない」と塚次はぶきように遮った、「そんな、いまになってそんなことは云えない筈だ」
「あら、なにが云えないの」
「お父っさんが」と彼は吃った、「病気で、お父っさんが倒れているのに、それをみすてて、家の物をあらいざらい持って、ならず者なぞと駆落ちをしておきながら、いまになって」
「いいじゃないの」とおすぎ[#「すぎ」に傍点]が云った、「あたしはこの家の娘だもの、よそさまの物を持出したわけじゃなし、親の物を子が使うのにふしぎはないでしょ、それでも悪かったと思えばこそ、こうしてあやまりに来たんだもの、他人のあんたに文句をつけられる筋なんかないと思うわ」
「他人の、……私が他人だって」
「他人でなければ、なによ」とおすぎ[#「すぎ」に傍点]は煙草をふかした、「あたし親に責められて、あんたと盃のまねごとはしたわ、でも一度だっていっしょに寝たわけじゃないんだから、あんたまさかあたしの婿だなんて云うつもりじゃないでしょうね」
 塚次はおげん[#「げん」に傍点]を見た。おげん[#「げん」に傍点]は肩をちぢめ、小さくなって、ふるえながら顔をそむけていた。それは、怯《おび》えあがった、無抵抗な、小さな兎といった感じだった。その頼りなげな、弱よわしい姿を見たとき、塚次は急に、自分のなかに力のわきあがるのを感じた。
「私は、おまえさんの、亭主じゃない」と塚次は云った、「慥かに、おまえさんとは夫婦じゃあない、けれども、私はこの家の婿だ、それはちゃんと人別に付いてる」
「そんなら人別を直せばいいわ」
「また、――おまえさんは、この家の娘だって云うが、そうじゃあない、おまえさんはこの家の娘じゃあない」と塚次は云った、「お父っさんがはっきり云った、おまえさんとは親子の縁を切るって、それは田舎の伯父さんも、お芳さんも知ってることだ」
「あらいやだ」とおすぎ[#「すぎ」に傍点]は笑った、「そんならおっ母さんがそう云う筈じゃないの、あたしさっきから話してるけど、おっ母さんは一と言だってそんな薄情なこと云やあしなかったわ、そうでしょ、おっ母さん」
 おげん[#「げん」に傍点]は塚次を見た。悲しげな、救いを求めるような眼で、――塚次は頭がくらくらした。二年まえ、同じような眼で見られたことがある。重平が手を合わせて、同じような眼で塚次を見ながら、「たのむ」と云った。舌のもつれるたどたどしい口ぶりで、おまえだけが頼りだ、たのむよ、と云った。
 ――そうだ、おれは頼みにされてるんだ。
 塚次はこう思った。重平もおげん[#「げん」に傍点]も、現におすぎ[#「すぎ」に傍点]が帰ってみれば強いことは云えない。隣りの六帖に寝ているのに、重平がひと言も声をかけないのは(おげん[#「げん」に傍点]と同様に)すっかり気が挫けて、娘をどう扱っていいかわからなくなっているのだ。ここでおれが投げれば、夫婦は娘を家へ入れるだろう、おすぎ[#「すぎ」に傍点]には長二郎という者が付いている。おれが投げだせば、二人でこの家を潰してしまうに違いない。それはできない、重平夫婦のために、それを見逃すことはできない、「おれはこの家を守る」と塚次は肚をきめた。
「おふくろさんに構わないでくれ」と塚次は云った、「おふくろさんは女のことだし、お父っさんは病人だ、いまこの家の世帯主は私だから、家内の事は、私がきめる、それが不服なら町役へでもなんでも訴えるがいい、はっきり云うがおまえさんはこの家と縁が切れた、おまえさんはもうこの家の人間じゃあないんだ」
 おすぎ[#「すぎ」に傍点]は煙管をはたき、「そうかい」と云いながら莨入へしまった。

[#6字下げ]十[#「十」は中見出し]

「わかったよ」とおすぎ[#「すぎ」に傍点]は云った、「そっちがそうひらき直るなら、あたしのほうでもそのつもりでやるよ、但し断わっておくけれど、あたしも昔のおすぎ[#「すぎ」に傍点]じゃあないからね」
 そして立ちあがって、「おっ母さん出直して来ますよ」とやさしく云った。彼女は素足で、その爪が伸びて垢《あか》の溜まっているのを、塚次は見た。おすぎ[#「すぎ」に傍点]が出てゆくと、おげん[#「げん」に傍点]は泣きだした。そして、泣きながら「ねえ塚次」とおろおろ云った。塚次はそれに答えようとしたが、ひょいとなにか気がついたふうで、店へとびだしてゆき、伊之吉を呼んで耳うちをした。駒形に目明しで「小六」という親分がいる、そこへいってこれこれと頼んで来てくれ、と囁いた。そうして、伊之吉が駆けだしてゆくと、すぐに六帖へ引返して、おげん[#「げん」に傍点]の前に坐った。
「お願いだよ塚次」とおげん[#「げん」に傍点]は泣きながら云った、「あれも悪かったとあやまって来たことだし、おまえはさぞ憎いだろうけれどね」
「そうじゃない、そうじゃないんです、おっ母さん」と塚次は手を振った、「おすぎ[#「すぎ」に傍点]さんが本当にあやまって来たのならべつです、本当に悪かったと思いまじめになって帰ったんなら、私だってあんな無情なまねはしません、けれどそうじゃあない。あの人には長二郎という悪い人間が付いてる、人殺し兇状の疑いさえある人間が付いてるんです」
 おげん[#「げん」に傍点]は眼をすぼめて塚次を見た。
 塚次は吃り吃り話した。長二郎が自分を逐い出そうとしたこと、田原町の乱暴から始まって、その後も人を使っては自分を威し、花川戸ではあのとおり兇暴なまねをしたこと、そして、長二郎は博奕で牢にいってるし、喧嘩で人も斬った、上方を食い詰めて江戸へ戻って来たが、そのあいだに人をあやめた疑いがあり、いま駒形の目明しが洗っている、ということなど、吃りながらではあるが、塚次には珍しくはっきりと云った。
「そういうわけですから、もう少しがまんして下さい」と塚次は云った、「おすぎ[#「すぎ」に傍点]さんがその男と手を切り、まじめになって帰るなら、私はこの家をおすぎ[#「すぎ」に傍点]さんに返します、この家をおすぎ[#「すぎ」に傍点]さんに返して私は出てゆきます」
「出てゆくなんて」とおげん[#「げん」に傍点]が云った、「あたしはそんなこと云やしないよ、あたしはただおすぎ[#「すぎ」に傍点]が」
 そのとき店のほうで「塚次さん」というお芳の声がした。異様な声なので、塚次が振向くと、おすぎ[#「すぎ」に傍点]とあの男があがって来た。
 ――かまいたち[#「かまいたち」に傍点]の長。
 塚次はその異名を思いだし、恐怖のためにちぢみあがった。男は花川戸のときと同じようなしけた恰好で、ただもっとうす汚なかったし、尖《とが》った顔には冷酷な、むしろ狂暴な表情がうかんでいた。――彼はふところ手をしたまま、六帖の敷居のところに立って、「おふくろさんですか」とおげん[#「げん」に傍点]に呼びかけた。
「私はおすぎ[#「すぎ」に傍点]の亭主で、長二郎という者です」と男は云った、「これがお初ですが、今後はよろしくお頼み申します」
 塚次は店のほうを覗《のぞ》いた。伊之吉がいるかと思ったのだが、そこにお芳がいて、まっ蒼《さお》な顔で「いません」というふうに首を振った。おすぎ[#「すぎ」に傍点]は長二郎の脇に立って、「そいつだよ」と塚次に顎をしゃくった。
「この家を横領しようとして、おまえのことをならず者だなんて、おっ母さんに告げ口をしたのはその男だよ」
「おや、てめえ、――」と長二郎はわざとらしく塚次を見た、「てめえまだいたのか」
 塚次は反射的に腰を浮かせた。
「おらあ消えてなくなれと云った筈だ」と長二郎は云った、「てめえは眼障りだから、命が惜しかったら出てうせろと云った筈だ、野郎、なめるな」
 長二郎は右手をふところから出した。その手に九寸五分がぎらっと光った。すると――、唐紙がそろそろとあいて、次の六帖から重平が顔を出した。寝衣の裾をひきずり、あけた唐紙の片方へつかまって、やっと身を支えながら、「おまえさん誰だ」ともつれる舌で云った。おげん[#「げん」に傍点]はとびついてゆき、「お父っさんだめですよ」と抱きとめた。おすぎ[#「すぎ」に傍点]はあいそ笑いをしながら、「あたしですよお父っさん」と重平のほうへ寄っていった。
「さっき来たんだけれど、お父っさんはちょうど眠っていたもんで」
「触るな」と重平はふらっと手を振った、「おまえのような女は、おれは知らない、出ていってくれ」重平の眼から涙がこぼれ落ち、口の端から涎《よだれ》が垂れた、「おまえとはもう、親でも子でもない、顔も見たくない、たったいま出てゆけ」
「なんだい父っさん、おめえ病人だぜ」と長二郎が云った、「病人はでしゃばるもんじゃあねえ、そっちへ引込んで寝ているがいい、おれがいまこの家をきれいに掃除して、これからはおすぎ[#「すぎ」に傍点]と二人で孝行してやるから」
「出ていけ」と重平がどなった、「この悪党、この」と重平は手をあげた、「この、人でなし、出ていけ」
 塚次が店へとびだしてゆき、天秤棒を持って戻った。その僅かなまに、長二郎は重平のところへいって、おげん[#「げん」に傍点]を突きとばし、重平の寝衣の衿《えり》をつかんでいたが、おすぎ[#「すぎ」に傍点]が戻って来た塚次を見て、「おまえさん」といって知らせると、振返って、重平の衿をつかんだまま、右手の九寸五分を持ち直した。店からお芳が「塚次さん」と叫び、塚次は天秤棒を槍のように構えながら「放せ」とどなった。
「またそんな物を持出しやがって」と長二郎が云った、「てめえまだ懲りねえのか」
「その手を放せ」と塚次がどなった、「放さないと殺すぞ」
「殺す、――」と長二郎が云った。彼の唇が捲れて、歯が見えた、「笑あせるな、そりゃあおれの云うせりふだ、このどすはな、伊達《だて》でひけらかしてるんじゃあねえ、もうたっぷり人間の血を吸ってるんだ」
「手を放せ」と塚次が叫んだ。
「このどすは人間をばらしたこともあるんだぜ」と云って長二郎は重平を突き放した、「――野郎、生かしちゃあおかねえぞ」
 重平は棒倒しに転倒し、おげん[#「げん」に傍点]が悲鳴をあげながら抱きついた。塚次は逆上した、もう恐怖はなかった。彼は眼が眩《くら》んだようになり、天秤棒を斜に構えて相手に襲いかかった。――おすぎ[#「すぎ」に傍点]が憎悪の叫びをあげ。長二郎が脇のほうへとびのいた。塚次は「殺してやる、殺してやる」と思いながら。夢中で天秤棒を振りまわした。すると店のほうから三人ばかり、見知らぬ男たちがとびあがって来、塚次はうしろから頭を撲られて昏倒《こんとう》した。おすぎ[#「すぎ」に傍点]がのし棒で撲ったのである、――昏倒する瞬間に、塚次は「ああ殺される」と思ったが、そのままなにもわからなくなった。

[#6字下げ]十一[#「十一」は中見出し]

 家の中のざわざわするけはいで、塚次はわれに返った。すぐそばにお芳がいて、仰向きに寝た彼の頭へ、濡れ手拭を当てていた。お芳は彼が眼をあいたのを見ると、硬ばった微笑をうかべながら、頷いた。
「大丈夫よ」とお芳は云った、「もう大丈夫、すっかり済んだわ」
 塚次は左右を見ようとして、頭が破れるほど痛んでいるのに、初めて気づいた。
「お父っさんは」と塚次が訊いた。
「まだ口をきいちゃあだめ」お芳はそっと眼をそらした、「あの男とおすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんは捉《つか》まったわ、伊之さんが呼んで来た、駒形のなんとかいう親分に捉まったの、二人とも縄をかけて伴れてゆかれたわ」
 塚次は眼をつぶった。撲られて昏倒するまえに、店から、男が三人ばかり、とびあがって来るのを塚次は見た。
 ――そうか、あれが小六親分だったんだな。
 と塚次は思った。
 その目明しは二人の子分と来て、裏からはいり、店の隈に隠れていた。塚次が助けを求めて店を見たとき、お芳が首を振ったのは、それを知らせたかったためだという。隠れて待っているうちに、長二郎が「人間をばらした」と云った。それで小六は「泥を吐いたな」と叫びながら踏み込んだということだが、塚次にはそれは聞えなかった。
「自分でいばって啖呵《たんか》を切ったのが、人を殺した証拠になったんですって」とお芳が云った、「いまのせりふを忘れるな、もう※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]れられないぞって、親分が十手で、縛られたあの男の肩を打ったのよ」
「私は誰に撲られたんだ、長二郎か」
「おすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんよ、おすぎ[#「すぎ」に傍点]ちゃんがうしろからのし棒で撲ったの」とお芳が云った、「あの人すごかったわ、駒形の人たちにも、引っ掻いたりむしゃぶりついたり、縛られるまでに大暴れに暴れたわ」
「線香の匂いがするな」と塚次が云った、「お父っさんやおふくろさんは無事でしたか」
 お芳は「ええ」と口を濁した。
 塚次は、ふと耳をすませた。ざわざわしていると思ったのは店のほうで、おげん[#「げん」に傍点]と伊之吉が、誰かよその人と話しているらしい。塚次は「あの長二郎」と思った。いちどこの手で殴ってやりたかった、いちどだけでいい、あいつの頭をいやっというほど、――しかし、塚次は(もう一人の)自分が首を振るのを感じた。だめだ、できるものか。できやしないし、殴ることもない。あいつは捉まった、あいつだって可哀そうなやつなんだ、そうだ、可哀そうなやつなんだ、と塚次は思った。
 店先ではおげん[#「げん」に傍点]が泣き腫らした眼をして、みまいに来た近所の人に挨拶していた。
「ええ、その男に突きとばされて、倒れたときにもうだめだったんです、お医者の話では、倒れるのといっしょだったろうということでした」とおげん[#「げん」に傍点]は云っていた、「――でもそのほうが仕合せでしたよ、娘のいやな姿を見ずに済んだんですからね、これからだってお調べやなんか、いやな事があるでしょうしね、ええ、死んだほうがよっぽど仕合せですよ」
 みまいの人たちがなにか云い、おげん[#「げん」に傍点]は涙を拭きながら首を振った。
「いいえ折角ですけれど」とおげん[#「げん」に傍点]はその人に云っていた、「縄付きを出したばかりですから、みなさんに御遠慮を願ってるんです、お騒がせして済みませんけれど、どうかなんにも構わないで下さい、有難うございました」
 こちらの六帖では、塚次がお芳に話していた。――彼にはおげん[#「げん」に傍点]の挨拶は聞えなかったし、重平の死んだこともまだ知らない。彼はお芳に向って、亀造の女房の云ったことを話していた。しょうばいのむつかしいこと、良い品を作るばかりでなく、売りかたにも按配のあること、「貧乏人には貧乏人のみえがある」というおみつ[#「みつ」に傍点]の言葉で、自分の迂濶さに気がついたことなど、頭の痛みに、ときどき眉をしかめながら、訥々と語っていた。
「ああ、よかった」と彼は太息《といき》をついた、「しょうばいのこつも一つ覚えたし、いやな事もひとまず片がついた、お芳さん」
「あんまり話しすぎるわ」とお芳が濡れ手拭を替えた、「あたし行燈をつけなくちゃならないの、少し眠ってちょうだい」
「お芳さん」と塚次は眼をあげた、「私はいま、聞いてもらいたいことがあるんだ」
 そして、つと右手をさし出した。お芳はそれを両手で握った。お芳の手が、ひきつるようにふるえるのを塚次は感じた。お芳は息を詰め、彼はぶきように口ごもった。
「云ってちょうだい」とお芳がふるえ声で囁いた、「なあに」
「お芳さん」と塚次は吃り、それから突然、妙な声でうたうように云った、「――こんち午の日、蒲鉾豆腐に油揚がんもどき……」
 お芳はあっけにとられた。
「これからこういう呼び声で廻るんだよ」と塚次は、「午の日だけね、いいかい、――こんち午の日、蒲鉾豆腐に油揚……」
 お芳はぎゅっと塚次の手を握りしめた。



底本:「山本周五郎全集第二十六巻 釣忍・ほたる放生」新潮社
   1982(昭和57)年4月25日 発行
底本の親本:「オール読物」
   1956(昭和31)年3月号
初出:「オール読物」
   1956(昭和31)年3月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ

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