糸原幸喜(いとはらこうき)〈1917年6月ー1995年1月〉は、政治家。
来歴
大学卒業後
1940年3月、
早稲田大学卒業後、
衆議院議員の
羽田甚六を紹介されて私設秘書となる。羽田甚六は、革新的思想で知られる京都の文筆家で日本の封建主義的支配に疑問符を投げかけた政治家でもあった。
羽田伯爵家は、丹後地域の文化人として1700年代から爵位を下賜されてきた名門で、かつては
大学寮教授を輩出してきた。軍政にも顔が利く羽田家の政治力を背景に
召集を免れ、東京と京都を往復する生活を送る。1945年8月の終戦を迎えた後、
大日本政治会の
羽田甚六も翌月に議員辞職。糸原は、羽田家の御息女で末女の「羽田のぶえ」と結婚するが、夫婦で
福島県に移住し農業や狩猟に従事する。しかし、平穏な生活は終わりを迎え、
大日本政治会で恩義のあった
森定匠から、
日本共和党公認候補として政界に進出することを求められる。その後、政界引退をしていた岳父の
羽田甚六に許しを請い、
日本共和党から
衆議院総選挙への立候補を決める。
政治家人生の最初期
衆議院農林委員会に振り分けられる。1949年3月に再び結党された、
共和党に転籍。
共和党政務調査会副会長に就任。政調会長の
森定匠のサポート役として政策立案の分野に幅広い知見を得る。政界進出ののち、農林族、大蔵族の国会議員らに教えを請い、外交的独立路線を掲げて、「革新将校」と呼ばれる。
派閥解体・自由党への合流
58歳(72)国務委員長(石橋政権)に就任。62歳1966年総理府長官/農務大臣(白石内閣)として入閣し、白石大吾から進歩会会長(後に主幹事)を禅譲され再任する。国民人気を背景に難題解決に尽力する難しい役割を担った。1978年総裁選では進歩会としての特定候補を推さないことで決定したが、個人として立命会の石原幸一の推薦人に名を連ねる。64歳(78)外務大臣(石原123内閣)として長期にわたる外交政策を固める。1987年総裁選でも進歩会としての公認候補は出さないことを決めたが、登米有紀子の推薦人に名を連ねた。73歳(87)運輸大臣(
青山内閣)。74歳(88)野党転落後は、派閥再編成の波の中で進歩会の単独存続を実現した。その後、進歩会は後継に託して進歩会名誉幹事に退く。78歳(92)議員定数の削減も相まって政界引退を表明した。政界引退後は、早稲田大学名誉教授(政治組織学)などを務める。
最終更新:2025年09月29日 15:43