- 第一巻 表象としての世界の第一考察 根拠の原理に従う表象、すなわち経験と科学との客観
- 第 一 節 世界はわたしの表象である。
- 第 二 節 主観と客観は直かに境界を接している。
- 第 三 節 根拠の原理の一形態としての時間。世界は夢に似て、マーヤーの面紗に蔽われている。
- 第 四 節 物質とは働きであり、因果性である。直観能力としての悟性。
- 第 五 節 外界の実在性に関するばかげた論争。夢と実生活との間に明確な目じるしはあるだろうか。
- 第 六 節 身体は直接の客観である。すべての動物は悟性をもち、動機に基づいた運動をするが、理性をもつのは人間のみである。理性を惑わすのは誤謬、悟性を惑わすのは仮象である。とくに仮象の実例。
- 第 七 節 われわれの哲学は主観や客観を起点とせず、表象を起点としている。全世界の存在は最初の認識する生物の出現に依存している。――シェリング批判、唯物論批判、フィヒテ批判。
- 第 八 節 理性は人間に思慮を与えるとともに誤謬をもたらす。人間と動物の相違。言葉、行動。
- 第 九 節 概念の範囲の組合せ。論理学について。
- 第 十 節 理性が知と科学を基礎づける。
- 第 十一 節 感情について。
- 第 十二 節 理性は認識を確実にし、伝達を可能にするが、理性は悟性の直観的な活動の障害になることがある。
- 第 十三 節 笑いについて。
- 第 十四 節 一般に科学は推論や証明ではなしに、直観的な明証を土台にしている。
- 第 十五 節 数学も論理的な証明にではなく、直観的な明証に基づく。――ユークリッド批判。
- 第 十六 節 カントの実践理性への疑問。理性は善に結びつくだけではなく悪にも結びつく。ストアの倫理学吟味。
- 第二巻 意志としての世界の第一考察 すなわち意志の客観化
- 第 十七 節 事物の本質には外から近づくことはできない。すなわち原因論的な説明の及びうる範囲。
- 第 十八 節 身体と意志とは一体であり、意志の認識はどこまでも身体を媒介として行なわれる。
- 第 十九 節 身体は他のあらゆる客観と違って、表象でありかつ意志でもあるとして二重に意識されている。
- 第 二十 節 人間や動物の身体は意志の現象であり、身体の活動は意志の働きに対応している。それゆえ身体の諸器官は欲望や性格に対応している。
- 第二十一節 身体を介して知られている意志は、全自然の内奥の本質を認識する鍵である。意志は物自体であり、盲目的に作用するすべての自然力のうちに現象する。
- 第二十二節 従来意志という概念は力という概念に包括されていたが、われわれはこれを逆にして、自然の中のあらゆる力を意志と考える。
- 第二十三節 意志は現象の形式から自由である。意志は動物の本能、植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちに盲目的に活動している。意志の活動に動機や認識は必要ではない。
- 第二十四節 どんなに究明しても自然の根源力は「隠れた特性」として残り、究明不可能である。しかしわれわれの哲学はこの根源力のうちに人間や動物の意志と同じものを類推する。――スピノザ、アウグスティヌス、オイラーの自然観。
- 第二十五節 意志はいかなる微小な個物の中にも分割されずに全体として存在している。小さな一個物の研究を通じ宇宙全体を知ることができる。意志の客観化の段階はプラトンのイデアにあたる。
- 第二十六節 合法則的な無機的自然界から、法則を欠いた人間の個性に至るまで、意志の客観化には段階がある。自然の根源諸力が発動する仕方と条件は、自然法則のうちに言いつくされるが、根源諸力そのものは、原因と結果の鎖の外にある。マルブランシュの機会因説。
- 第二十七節 元来意志は一つであるから、意志の現象と現象の間にも親和性や同族性が認められる。しかい意志は高い客観化を目指して努力するので、現象界はいたるところ意志が低位のイデアを征服し、物質を奪取しようとする闘争の場となる。有機体は半ば死んでいるとするヤーコブ・ベーメの説。認識は動物において個体保存の道具として現れる。認識の出現とともに表象としての世界が現れ、本能の確実性は休止し、人間における理性の出現とともに、この確実性は完全に失われる。
- 第二十八節 意志の現象は段階系列をなし、「自然の合意」によって無意識のうちに相互に一致し合う合目的性をそなえている。叡知的性格と経験的性格からの類比。意志は時間の規定の外にあるから、時間的に早いイデアが後から出現する遅いイデアに自分を合わせるという自然の先慮さえ成り立つ。自然の合目的性を証明する昆虫や動物の本能の実例。
- 第二十九節 意志にはいかなる目標も限界もない。意志は終わるところを知らぬ努力である。
- 第四巻
- 第五十七節 人間の生は苦悩と退屈の間を往復している。苦悩の量は確定されているというのに、人間は外的原因のうちに苦悩の言い逃れを見つけようとしたがる。
- 周知のように、われわれの歩行とは、身体が倒れることがたえず阻止されていることにすぎないが、これと同様にわれわれの身体が生きているということは、じつはそれは死ぬことのたえざる阻止、つまり死ぬことがそのたびごとに先へと延期されていることにほかならないのである。おしまいに、われわれの精神に活気があるということも、これと同じように、退屈感がひきつづいて先へ延期されているというだけのことなのだ。一呼吸一呼吸がたえず押し寄せてくる死を防いでいる。われわれはこういう仕方で、刻一刻、死と闘っている。
- これはシャボン玉を、それがいずれは破裂するであろうことを確実に知りながらも、できるだけ永くまたできるだけ大きくふくらませようとしていることと同じようなことである。
- 意欲と努力とが、人間や動物の本質の全部なのであり、それはまったくいやされ得ない渇にも似ている。
- いっさいの生あるものを駆り立てて動かしつづけているものは、生存への努力であろう。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼らはこのさきどうしたらよいか分からなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れ出して、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力なのである。
- 困窮が民衆にとっての休みない鞭であるとしたら、上流社会にとっての鞭は退屈であろう。中流市民の生活では、困窮は六日間の週日が代表していて、退屈は日曜日が代表している。
- ところで人間の生活というものはすべて、終始一貫して願望と達成というこの二つの間を流れつづけているものである。願望はその本性のうえからいって苦痛である。その願望が達成されると今度はたちどころに飽きがくる。目標は見せかけにすぎなかったからである。所有は魅力を奪い去ってしまう。そうするとまたしても願望や欲求が装いを新たにして出現することになるであろう。そうでない場合には、荒涼、空虚、退屈が後を追いかけてくることになるのであって、これに対する闘いは困窮に対する闘いに劣らず苦しい思いをさせるものなのである。
- 第五十八節 われわれに与えられているものは欠乏や困窮だけで、幸福とは一時の満足にすぎない。幸福それ自体を描いた文字は存在しない。最大多数の人間の一生はあわれなほど内容空虚で、気晴しのため彼らは信仰という各種の迷信を作り出した。
- (すなわち)いかなる叙事詩も劇文学も、いつも必ず、幸福を得ようとして格闘し、努力し、戦闘するさまを描くだけで、永続的にして円満なる幸福それ自体を描くものではけっしてあり得ない。これらの文学の主人公にいくたの難関や危険をくぐり抜けさせて目標にまでつれていくが、彼らが目標に達するやいなや、急いで幕を下ろしてしまう。なぜなら主人公がついに幸福を探し当てたと妄想した輝かしい目標といえども、結局彼をからかったにすぎず、目標に達したからといって彼がそれ以前よりもましになったとはいえないのだということを描き出すよりほかに、文学としては今さらなすすべはないからである。
- いずれの人の一生も、もしこれを全体として一般的に眺め渡してそのなかから著しい特徴だけを抜き出してみるなら、本来それはいつも一個の悲劇である。ところがこれを一つ一つ仔細に立ち入って見ていくと、喜劇の性格を帯びてくる。
- 第五十九節 人間界は偶然と誤謬の国であり、個々人の生涯は苦難の歴史である。しかし神に救いを求めるのは無駄であり、地上に救いがないというこのことこそが常態である。人間はつねに自分みずからに立ち還るよりほか仕方がない。
- (これと同じように)かつて歴史の父(ヘロドトス)が引用していることで、爾来一度も反駁されていないことだが、生き延びて明日という日を体験したくないと一再ならず願ったことのないような人がかつて存在したためしがあるだろうか。してみると、人生の短さが嘆かれることはじつにしばしばであるが、ひょっとしたら短さこそが、人生のもっとも善いところではないかと思う。
- 人間は自分で神々を作っておいて、その神々に乞うたり媚びたりしているわけなのだが、こんなことをしても無駄なのは、ただ自分の意志の力によって招来し得るもののみを乞うたり媚びたりしているのにすぎないからである。旧約聖書は世界と人間とがただ一つの神の作り上げたものであるとした。ところが新約聖書は、この世の悲惨さからの救済と贖罪は、ただこの世そのものからしか生じようがないことを教えようとして、なんとしてもその神が人間の姿になるようにさだめざるを得なかったのであった。
- 第 六十 節 性行為とは生きんとする意志を個体の生死を超えて肯定することであり、ここではじめて個体は全自然の生命に所有される。
- 第六十一節 意志は自分の内面においてのみ発見され、一方自分以外のすべては表象のうちにのみある。意志と表象のこの規定から人間のエゴイズムの根拠が説明できる。
- 第六十二節 正義と不正について、国家ならびに法の起源。刑法について。
- 第六十三節 マーヤーの面紗に囚われず「個体化の原理」を突き破って見ている者は、加害者と被害者との差異を超越したところに「永遠の正義」を見出す。それはヴェーダのウパニシャッドの定式となった大格言 tat tvam asi ならびに輪廻の神話に通じるものがある。
- 第六十四節 並外れた精神力をそなえた悪人と、巨大な国家的不正に抗して刑死する反逆者と――人間本性の二つの注目すべき特徴。
- 第六十五節 真、善、美という単なる言葉の背後に身を隠してはならないこと。善は相対概念である。他人の苦痛や不幸を見ることに限りない愉悦を覚える本来の悪、ならびに悪人についての諸考察。良心の呵責をめぐって。
- 第六十六節 徳は教えられるものではなく、学んで得られるものでもない。徳の証しはひとえに行為にのみある。通例「個体化の原理」に仕切られ、自分と他人との間には溝がある。エゴイストの場合この溝は大きく、自発的な正義はこれから解放され、さらに積極的な好意、慈善、人間愛へ向かう。
- 第六十七節 他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。愛はしたがって共苦、すなわち同情である。人間が泣くのは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいである。喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわち同情(慈悲)である。
- 第六十八節 真の認識に達した者は禁欲、苦行を通じて生きんとする意志を否定し、内心の平安と明澄を獲得する。キリスト教の聖徒もインドの聖者も教義においては異なるが、行状振舞いにおいて、内的な回心において唯一同一である。普通人は認識によってではなく、苦悩の実際経験を通じて解脱に近づく。すべての苦悩には人を神聖にする力がある。
- 第六十九節 意志を廃絶するのは認識によってしかなし得ず、自殺は意志の肯定の一現象である。自殺は個別の現象を破壊するのみで、意志の否定にはならず、真の救いから人を遠ざける。ただし禁欲による自発的な餓死という一種特別の例外がある。
- 第 七十 節 完全に必然性に支配されている現象界の中へ意志の自由が出現するという矛盾を解く鍵は、自由が意志から生じるのではなしに、認識の転換に由来することにある。キリスト教の恩寵の働きもまたここにある。アウグスティヌスからルターを経たキリスト教の純粋な精神は、わたしの教説とも内的に一致している。
- 第七十一節 いかなる無もなにか他のあるものとの関係において考えられる欠如的無であり、記号の交換が可能である。意志の完全な否定に到達した人にとっては、われわれが存在すると考えているものがじつは無であり、かの無こそじつは存在するものである。彼はいっさいの認識を超えて、主観も客観も存在しない地点に立つ。
最終更新:2013年10月02日 00:05