オワコンとは、「終わったコンテンツ」の略称である。
この言葉は基本的に、そのコンテンツに対して激烈な好意をもっている”わけではない”者によって使用される。なぜならこの言葉は、そのコンテンツが終わっているという意味にあるが、コンテンツが終わるという現象は厳密にはなく、社会的・通俗的に「世の中の多数の人間がそのコンテンツを過去のものと認識する」ということが、すなわちコンテンツが終わるという意味にあたる。
たとえばサブカルチャーでいえば、エヴァンゲリオンは終わったコンテンツではない、といえる。今(2013年末時点)でも劇場版が公開されたり、それに伴ってコンビニなどで広告が展開される。またネット上での人気――twitterやfacebookなどで情報が交換され、ニュースサイトやまとめブログなどで取り沙汰され、pixivやyoutubeでのアマチュアが制作・編纂した画像や動画がアップロードされる――もある。
逆にいえば、サブカルチャーの一部門であるマンガの世界では古典にすら位置する手塚治虫の作品は、今や上のようなメディア展開は大きくされていない。アニメも放映されたが、すでに過去のことだと、少なくとも僕は思っている。
ここまでの解釈をのべると、エヴァンゲリオンは終わったコンテンツではなく、手塚治虫の作品は終わったコンテンツだと考える――少なくとも、この文章を書いている僕のなかでは。
つまり個々人によって解釈が異なるのである。これはこのオワコンという言葉においてのみならず、おおよその解釈・概念というものは個々人によって異なるのだから、オワコンという言葉が相対的なものであってもなんら変哲なことではない。
さらにいえば、上のようなエヴァンゲリオンと手塚治虫作品を例に挙げてのオワコンという概念の解釈は、僕は「世間の人はそう捉えているだろう」という個人的な解釈なのであり、僕個人のことだけを述べるならば手塚治虫作品は今でもときおり読む。つまり僕自身はエヴァンゲリオンも手塚作品も活性的であるのだが、おそらく僕の解釈する世間のなかでは手塚作品は不活性的なのだろうと考えている、ということである。
以上のように、オワコンという言葉は、個人の解釈によって変わるだけでなく、その個人が見ている世間の輪郭によっても変わってしまう。これを短絡的に述べてしまえば、「実際に経済的にどれだけの収益がかつてあり、今現在も生み出しているかにかかわらず、鑑賞者・消費者という個人の見方によって変わってしまう」というものである。
かつてとある芸人がタクシーに乗った際、「あなた最近TVに出てないですね」といわれて不満に思ったそうな。その人物は芸能界では大御所で、実際に当時もTVに継続的に出演していた。偶然かはわからないが、そのタクシーの運転手が見ている番組にたまたま出ていなかっただけだろう、というのが当の芸人の解釈だった。
さらには「知らないコンテンツ」という考え方も当然あるべきで、これは鑑賞者・消費者の立場でいえば、「メディア展開はされているものの、見たことのないコンテンツ」ともいえる。
僕はエヴァンゲリオンが社会現象として世間を賑わせてから、相当の時間が過ぎた後でそのアニメを見た。だから事実上は「知らないコンテンツ」だったに違いない。しかし僕はその当時から、どんなキャラクターがいるかはだいたい知っていた。もちろん主要キャラのみでサブキャラに至ってはほとんど知らなかったが。そしてエヴァというものに心底打たれてしまっている人を見たこともあったので、そうとう活性化している作品なのだと理解していた。つまり実際には知らないコンテンツでありながら、そのコンテンツがいかに人に影響を与えていたかは知っていた。湯豆腐のようなもので、グツグツ煮えた鍋に入っている豆腐なら、食べてみなくても熱いことがわかるようなものだ。
同様に、僕は今でもガンダムという作品をほとんど知らない。シリーズの1作品すらまともに通して見たこともなければ、キャラのセリフを言い合って笑っている人たちの蚊帳の外といった具合だ。だがガンダムを面白がっている人はいくらでもいるし、やはりどれだけ影響を与えているか目には見えるので、知らないコンテンツだがその熱は多少なりとも知っていた。
しかし最近の頻発される深夜アニメなどは、僕は微塵も見ていない。少しは名の知れた「進撃の巨人」もマンガで興味をくすぐられなかったので途中で読むのをやめて大して憶えていない。進撃の巨人ぐらいであれば、その熱もある程度は目に見えるというものの、取り沙汰されない
アニメについては本当にタイトルすら知らないありさまだ。こういうアニメは、僕にとっては「知らないコンテンツ」どころか、「存在しないコンテンツ」とすらいえる。
このように、個人の感覚を主軸にしてしまえば、実際に1クール放送されていようが、その個人には存在しないとすら解釈できてしまう。もしアニメについてそういう解釈をするのが嫌ならば、小説に代えればいい。東野圭吾は今でも映画やドラマの原作としてしられているが、おおもとの小説を読んでいなくとも、ドラマのガリレオを全話見ていたならそれは「知っているコンテンツ」といえるだろう。逆にいくら教科書で教えられていようが、芥川龍之介や太宰治などが「知らないコンテンツ」だと思っている人はいくらでもいるはずだ。
また「終わる」という言葉の解釈には、サブカルチャーでいえば、「その作品を鑑賞しなくなる」という条件があるだろう。たとえば「らき☆すた」という作品をオンエア以降一度たりとも見ていない人にとっては、あの作品はオワコンだと見なせる。しかし月に1回――その頻度も個々人によって変わるだろうが――見返す人であれば、連載が終わろうともその人のなかでは終わったとは言い切れない。
このように見てみると、「終わった」という言葉は、現実的・社会的な意味と、通俗的・個人的な意味とがある。
前者の現実的・社会的な「終わった」という言葉の意味は、経済的ともいえるが、「今そのコンテンツを発表したところで活性化しない」ものと解釈できる。今「涼宮ハルヒの憂鬱」の続編を出したとして、当時ほど盛り上がるだろうか? おそらく経済的な規模でいえば、もはやあのときほどの熱は与えられないように思う。僕はこれを「即ち終わっている」と早とちりしたいわけではない。これは「かつての程度より熱の供給ができない」という解釈にとどめている。簡単にいえば、新作を発表したとしても雑誌やニュースに取り沙汰されないもの、すなわち『「取り沙汰してもどうにもならない」と判断されてしまうもの』が、この現実的・社会的・経済的な意味での「終わる」ということだといえる。
後者の通俗的・個人的な「終わった」という言葉の意味は、経済的という面に対応させるなら妄想的とでもいってしまうのが早いだろうか、鑑賞者・消費者としての個々人にとって「もうこのコンテンツ飽きた」というのがその最も短絡的な発露であるといえる。一時期はやった「クッキー・クリッカー」は、数日もしないうちに飽きてしまうゲームだった(少なくとも僕と、ネットで見かけた幾人かにとっては)。ネットの上ではいくら取り沙汰されていようと、飽きてしまえば当人にとってはどうでもよくなる。これが通俗的・個人的・妄想的な意味での「終わる」ということだといえる。
さて、ここまではこの2つの意味を別のものと見なしていたが、実際にはごくごく小さな誤差で認識できる人もいることだろう。それを否定はしない。だが、僕を含める大多数の人間は、自分自身の瞬間的な感情を察知するのには敏感でも、世のなかがそれとは違っていてそしてどれだけ違ってどう変遷していくのか、ということには無頓着であるし無知でもある。だからこの2者間の誤差は大きいし、別のものとして解釈しておいたほうが妥当なのだという所以である。
ここで最初に戻るが、このオワコンという言葉は基本的にそのコンテンツに対して激烈な好意をもっている”わけではない”者によって使用される。
オワコンという言葉は、おそらく現実的な「どれだけ世間的にそのコンテンツが賑わっている/いないか」という程度を指摘する言葉ではなく、個人的な「俺/私はこのコンテンツにもう興味をもっていない」という感情・認識の発露でしかないように思う。
もし前者の現実的な意味で話しているのなら、その発言のリソースとなるデータを提示するのが妥当だ。しかしその提示をしない/できないというのは、つまり客観的な発言ではなく主観的な発言であるから、と見なせる。
その上で、もしあなた自身が大好きなコンテンツが、悲しいかな、世間的には飽きられてきてあまりもてはやす人も多くなくなってきた、というときに、「オワコン」という言葉を使うだろうか?
逆にあなた自身が大して好きでもないコンテンツのサービスが終わる、というときには「オワコン」という言葉を使えるだろうか?
この2つの問いに対して、僕は前者にNO、後者にYESという答えを感じたので、これまでの結論にいたった次第である。
もとよりオワコンという言葉には侮蔑の含みを感じていたので、備忘録までに。
追記
先日、Battlefield4が発売された。これによってBattlefield3は終わったと見なせる。制作サイドから見捨てることもありうる。
最終更新:2013年12月10日 12:40