小説の執筆には以下の要素(能力)が含まれる。
語彙は、たとえるなら武器の種類数である。ストリートファイトや格闘技で、どれだけ技を保有しているかということにも似ている。語彙が少ない、言葉を知らないというのは、それだけで致命的である。核の専門家が核の知識に乏しいのが恥で、恥以上に糾弾されることであるように、文章書きが言葉を知らないというのは恥で、恥以上に糾弾されることである。
「巧遅は拙速に如かず」という諺にあるように、遅いく巧いものより拙くとも速いほうがいいという考えがある。云わずもがな、速いながら巧ければ申し分ない。
ちなみに僕は、通常でだいたい2KB/h(時速2キロバイト)ぐらいの速さで、調子がいいと3~4KB/hぐらいである。
読みやすい文章を心がけるなら、論理性が求められる。また推理小説などトリックを含むものでは、論理性が不可欠となる。ときに神秘小説や演出で論理性を砕く表現をすることもあるが、読者に混乱を招くおそれが大きいので、避けるに越したことはない。
推敲がなされていない文章は、それだけで読む気をなくす。作者がその小説に心血を注いでいないと確信できるからである。完成した小説が綺麗に削られた宝石なら、誤字脱字は光の反射を妨げる汚れである。汚れたまま見せるより、さらに磨けばよくなる。
ものごとにはヤル気というものが必須で、いくら有能でも持続力がなければ長編など書けない。1日でどれくらい長く書き続けられるのか、というのも当然だが、継続は力なり、どれだけの期間アマチュアであってもプロであっても作家であり続けられるか、とういのも能力の1つである。
想像力がなくても文章を書くことはできる。しかし読者が求めている文章、現在執筆している箇所でどのような表現が最適か見極める判断、その文章で読者がどんな想像をするか、ということを考えるのも想像力である。
ドラマではカメラが演者を映すことでなりたっているが、小説も実はカメラが存在し、空間を切り取ってある一場面だけを読者に伝えるものである。小説といえども1つのシーンで、複数の場面を叙述することは難しい。その切り取った空間のどこに誰がいて、人物が動けばどう配置が変わるか、また戦闘で右手で相手の腹を殴って、次の瞬間に同じ相手の背中を右手で殴ることは難しい。違和感のない人物の動作を叙述するには、空間把握能力は欠かせない。
いつまでも人のアイディアや昔の作品のマネを続けることはできない。設定やプロットなどで取捨選択を適宜行えなければ、いつまでも似通ったものばかりになったり模倣から抜け出せないままになる。
これは必須というものではない。詩性のかけらもない作品でも賛辞を得ることはあるし、逆に詩性に富んだ作品でも下らないものはある。これも適宜、詩性の求められる場所で発揮できれば作品がなおよくなるというものである。
最終更新:2011年08月06日 07:09