北九州市小倉北区在住の男性Aは2006年10月までタクシー運転手をしていたが、アルコール性肝障害や糖尿病、高血圧などが原因で仕事ができなくなった。
2006年12月7日に生活保護を申請し、同月26日に保護を受け始めた。
2007年1月の段階で、市立医療センターの検診と嘱託医協議で「軽就労可」とされ、福祉事務所のケースワーカーが仕事を見つけて自立するよう指導した。
同年2月にはケースワーカーは症状調査票をもとに「普通就労が可能」と判断し、求職活動をするよう指導した。この際、保護打ち切りもちらつかされた。
だが、主治医は後の検証で、「内臓的な症状は改善されていたが、前年に東京に住む弟が亡くなったことで落ち込み、不眠を訴えていた。鬱症状があると思った。デスクワーク程度の軽い仕事ならできるが、とても普通の仕事ができるとは思えなかった。」と証言している。
病状調査票の就労に関する主治医意見欄では普通に働けるとされていたが、ケースワーカーが勝手に作成したもので、主治医に内容確認を求めていなかった。
事実、Aの日記には生活保護を受けている間から
「亡くなった父や弟の所に行きたい」「なかなか人間って死ねないものだ」
と、明確な自殺願望が露見しており、当時のAの精神が危険な状態であったことは確実だとされている。
しかし、Aに対する「就職しろ」という圧はこれまでよりも険しくなっていった。
3月終盤になると、Aを「自立重点ケース」に位置付け熱心に指導するようになった。
だがこの時期からAは電話に対応しなくなっていった。ようやく受話したAが職員に話したのは「人と会うのがいやだった」というものだった。
4月2日、生活保護費を受け取ろうと事務所を訪れたAに対し、ケースワーカーはまたもや働けと急かした。
しかしながらケースワーカーも数日前からAの精神状態がおかしいのではないかと疑い、精神科への受診を勧めていた。
そしてこの日、Aは生活保護の辞退届を提出した。
ところが、福祉事務所は就職先、収入見込みなどを全く確認しなかった。
当時、生活保護を打ち切る際は就労先や収入見込みについて確認すべしという判決が出たばかりであったが、完全に無視されていた。
第一、人と会うのがいやな状態の人間が勤務できる場所はそうそう無い。Aの前職はタクシー運転手であるが、その仕事に復帰するのであれば人と会えないのは絶望的である。
日記には、
「せっかく頑張ろうと思っていた矢先、切りやがった。生活困窮者は、早よ死ねってことか」
と書かれており、辞退届を強引に書かされたか、指導による精神的苦痛に耐えかねて辞退届を書いたのではないか、とも言われている。
少なくとも、Aがまともに働ける状態ではなかったことに誤りはない。
実際に死ぬまで働かなかったのだ。
けれども、Aが最後にもらった保護費は4月分のみ。
さらに、ガスや水道が止められている上に家もボロボロであった。
その後、福祉事務所との関わりは途切れていた。
7月10日、偶然Aの友人が家を訪ねてきてAの遺体を発見した。
遺体は死後1か月程度が経過し、完全にミイラ化していた。
家にあった日記にはこう書かれていた
<4月5日> 体がきつい、苦しい、だるい、どうにかして
<5月25日> 小倉北のエセ福祉の職員ども、これで満足か。貴様たちは人を信じる事を知っているのか。3月、家で聞いた言葉、忘れ んど。市民のために仕事せんか。法律はかざりか。書かされ、印まで押させ、自立しどうしたんか。
<同日午前2時> 腹減った。オニギリ腹一杯 食いたい。体重も68キロから54キロまで減った。全部自分の責任です。
<5月26日午前3時> 人間食ってなくてももう10日生きてます。米食いたい。オニギリ食いたい。
<6月5日午前3時> ハラ減った。オニギリ食いたーい。25日、米食ってない。
引用元:yomidr. 記事名「貧困と生活保護 (39) 人を死なせる福祉の対応(中) 北九州市の悲劇」 (2016/09/23)
これを最後にAの日記は途絶えていた。
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