検索すると「二又トンネル爆発事故」という事故についての記事がヒットする。

+ 概要
日田彦山線*1の二又トンネルは国鉄彦山駅の南約500メートルの箇所にあった。
釈迦岳の丸山をくりぬいて作られており、全長約100メートル。(当時の日田彦山線は未開通だった。)

沿線付近には多くの軍事施設があったが、そのうち陸軍小倉兵器補給廠山田填薬所*2にあった火薬倉庫の一棟が1944年6月16日の空襲により焼失する。
このため、陸軍の小倉駐屯山田部隊が二又トンネルに火薬を疎開させた。

1944年7月から1945年2月にわたって搬入が行われ、火薬532t,信管*3185kgが収蔵された。
彦山駅まで列車で運ばれてきた火薬類はトロッコによってトンネルに搬入された。主に女性がこの作業にあたった。

しかし、1945年8月15日に日本が降伏し、第二次世界大戦は終結した。それに伴い、戦後引き渡しを受けた米軍がトンネルの火薬を処理することになった。

一行はまず吉木トンネルに到着。火薬類を試験的に焼却し、危険がないと判断して本格的に点火した。こちらはうまい具合に少しずつ燃えてくれたようだ。

その次に二又トンネルの火薬にも点火した。だが、火薬の種類や格納条件が吉木トンネルとは異なったようで、こちらは爆発を引き起こしてしまう。点火から1時間後の4時30分、轟音とともに北口から炎があがる。その威力は100メートル離れた民家に延焼するほどであり、目撃者いわく「入口から吹き出したり引っ込んだりするような炎はまるで龍の舌のよう」だったという。

また、それから45分後の5時15分にトンネル上の山を丸ごと吹き飛ばすような大爆発が発生。 消火救出にあたっていた人も含め、付近の集落は激しい爆風と降り注ぐ土砂で家屋を破壊され、住民の多くが生き埋めになった。

死者146名、重傷74名という空前の被害で、その爆音は別府や福岡にまで届いたという。

ちなみに以前はこの現場の近くには爆発踏切という小さな踏切が存在したが、2021年にBRT化*4によって線路敷がバス専用道に転用され、彦山駅駅舎とともに撤去された。

分類:鬱 真実
危険度:1

コメント

  • 字違いの二「股」トンネルもやばい。見た目からして不気味、国道内の通行止め区間にあってそのうちダムに沈む運命、何より朝鮮人の骨が埋まってるという噂 -- 名無しさん (2024-06-04 00:10:42)
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最終更新:2025年06月02日 08:27

*1 城野駅(実際は小倉駅)と夜明駅(実際は日田駅)を結ぶJR九州の鉄道路線、かつては筑豊地方の石炭・石灰石の輸送で賑わっていた。

*2 現在の北九州市小倉北区にある山田緑地、自然豊かな自然公園であり蛍の名所としても知られる。

*3 弾薬を種類と用途に応じて任意の時間と場所で作動させる装置、手榴弾や爆雷などが有名である。

*4 バスを基盤とした都市大量輸送システムのこと。