「この子が、薫くんだ」
1995年11月某日 オリスタイムス社会面記事
昨夜未明、G県山中で住宅1棟を全焼する火事が起きた。
全焼した住宅は民宿「あさひ荘」の建物で、この日建物には民宿を営む家族と宿泊客の家族1組がいた。
このうち、宿泊していた家族のうち3名と、民宿の家族のうち生後4ヶ月の乳児1名が救出されたが、
宿泊していた家族の乳児1名と、民宿の家族4名の行方がわからなくなっている。
全焼した建物の中には乳児を含む5名の遺体が発見されており、
警察はこの遺体が行方のわからなくなった5名のものとみて捜査をすすめている。
宿泊客の女性が救出された際、女性は民宿の家族の子どもを抱えており、
「民宿の主人が私たちにこの子を託した。私たちの赤ちゃんは死んでしまった、この子は薫くんです」と話した。
この新聞記事は傷ましい事故として世間において捉えられ、関連する記事が後日掲載されることはなかった。
救出された赤ん坊は宿泊していた家族とは別の里親にひきとられた。
成長し、小学校に入学すると同時に施設に入り、そこで暮らしはじめた。
「俺たちの子どもは死んだ。この子が、薫くんだ」
-甲斐谷-
――第10回トーナメント開催数週間前
俺は沫坂と行きつけの喫茶店を訪れた。
町外れの小さな店で、コーヒーは正直うまくないが、そのおかげでというか客も少ないので気兼ねなく話をすることができる。
俺は店のマスターに挨拶をして奥のテーブル席へ座った。
「おまえとここへ来るのはずいぶん久しぶりだな」
注文したコーヒーが届く前に沫坂が言った。
「ああ、ずっと顔出せなかったからな」
「…………」
沫坂が言葉を選んでいるのがわかる。
この男でも、こんな顔をすることがあるのだな。
「まあ……元気出すしかねえだろ? 今度の大会は俺たちが中心ですすめてくんだ、がんばろうぜ」
「ああ、そうだな」
「立会人の中で妻帯者なんておまえくらいだったからよ……俺だけじゃない、悲しんだヤツはたくさんいたよ」
マスターが沫坂の頼んだコーヒーと俺の頼んだ紅茶を運んでくる。
沫坂がカップを手に取り一口すすると、顔をしかめた。
沫坂はこの店のコーヒーの味を忘れていたらしい。
「……なあマスター、チーズケーキくれ」
マスターは黙ったまま頭をさげ、プレートを小脇に抱えてカウンターへ戻った。
「甲斐谷、おまえ久しぶりのわりに覚えてんだな。言ってくれりゃあいいのに」
「はは、まあいいじゃねえか。俺もたまに飲みたくなるぞ、このまずいコーヒー」
「チェッ……ま、それよりよ、今大会の出場者見たか?」
「あ、ああ」
「朝比奈薫……連続殺人鬼なんだってな、このナリでよ」
「お前だっていい歳して学生服着てるくせによ」
「からかうなよ、これは俺のポリシーだッ。……でまあ、コイツだけ他の出場者と比べて異質だ。
立会人の中でも血気盛んなヤツとかいるからな……そういうヤツだろ、朝比奈をリストに入れたのは」
「…………」
「ん? どうした、甲斐谷」
「え、あ……ああ、そうだろうな多分」
朝比奈を招いた人物は、沫坂の言ったとおり残忍なタイプの立会人だろう。
だが沫坂は……気づいていないのだろうな、俺の妻を殺したのが朝比奈だということに。
そして俺が、朝比奈を敵とする小早川を今回のトーナメントに招いたことも。
俺は公正たるトーナメントに私情を挟みこみ、組み合わせにも手を加えた。
だが沫坂は優秀な男だ、すぐに気がつくだろう。
そしてその時、沫坂なら……
「はあ……チーズケーキまだかよ」
「なあ、沫坂」
「んあ?」
「おまえさあ……一番古い記憶って何がある?」
「はあ? なんだ、急に」
「俺は……幼稚園のときなんだよ。砂場で遊んでて、あいつにはたかれて泣かされたんだ」
「…………」
「あれ? 言っただろ、あいつとは幼馴染みだったんだ。まあ、あの時はまさか将来の嫁さんになるなんて思いもしなかったけどよ」
「……なあ甲斐谷」
「ん?」
「今回の仕事が終わったら、しばらく旅行にでも行けよ。気分転換にいいぜ」
「ああ、そうするよ…………」
すまんな、沫坂。
-朝比奈-
記憶……
俺の一番古い記憶は、生まれてから半年にも満たないくらいの頃だ。
そんな時の記憶がある人間は当然珍しいだろう。
もちろん、それには理由があった。
その記憶は、俺が山中の民宿で起きた火事の中にいたときのものだ。
周囲を炎が囲み、真っ黒な煙が立ち込めていた。
炎の起こす轟音と高温の熱は止むことがなかった。
生後4ヶ月だった俺は女の腕に抱きかかえられていた。
なぜ年齢がはっきりわかっているかって?
そう新聞に書いていたからだ。
俺が覚えていたのは、俺を抱えていた女と2歳くらいの子どもを抱えていた男の会話だ。
「おい、こっちだ。こっちから逃げるんだ」
「う、うう……あなた……」
「泣くな、早く来るんだ。俺たちが死ぬわけにはいかないんだ」
「でも私、きっと耐えられない……」
「しっかりしろ。いいか、死んでしまったものはどうすることもできない。ここから後戻りはできないんだ」
「だって……」
ここで、男が女の顔を平手で打った。
「何度も言っただろ、『これで借金が返せるんだぞ』!」
「ううぅ…………」
「そのために、これまで2人で準備してきたんじゃないか。この子と同じくらいの赤ん坊のいる民宿を探して、保険に入って、ほかに客のいないこの時期に泊まりに来て、火を放ったんだ」
「…………そう、だけど」
「俺たちが誰も火傷や怪我をしないのは不自然だと言ったのはお前のほうじゃないか。ここで止めたら本当に死んでしまうぞ」
「だって、私は……私たちは人を、ここの家族を殺したのよ!?」
「じゃあ死ぬのか!? どちらにせよもう俺たちは殺人者だ! 後戻りはできない! 俺は死なんぞ!!」
「ううう…………わかった……わよ」
「おまえ、そんな調子で警察にポロッと本当のこと言うんじゃないぞ」
「…………」
「いいか……おまえの抱えている子は『俺たちの子』じゃあない、『ここの民宿の赤ん坊の薫くん』だ」
「うう、ううううぅぅ……」
女が赤ん坊の俺をぎゅっと抱く。
このときは何も理解していないのだから仕方ないが、この時『母のぬくもりを感じた』自分に腹が立つ。
「いいか、俺たちの子どもは死んだ。この子が、薫くんだ。警察にはそう言うんだ。
俺だって自分の愛する子どもを殺したくない。だからこの民宿の赤ん坊に身代わりになってもらうんだ。
『俺たちの子どもが死んだことにして』、その保険金で借金を返すんだ。それで俺たちはやり直すんだ……」
この会話を俺は一字一句記憶していた。
何かの本で読んだが、自身が危機的状態にあるとき脳や身体は信じられない力を発揮することがあるのだという。
言葉のわからないこの時に俺は無意識のうちに会話を『音』として覚え、それからずっとその会話が頭の中で反復され続けていた。
会話の中の言葉を理解したのは小学校に入ったときの頃、
会話の意味を理解したのは高学年に上がったときの頃だった。
そのとき俺は、本当は民宿の子どもの『朝比奈薫』ではないと悟ったのだ。
俺は、殺人者の子どもだったのだ。
-沫坂-
1回戦の小早川と朝比奈の試合が終わった後、俺は甲斐谷を粛清した。
俺自身の手で。
甲斐谷の行動について、弁解する余地は何一つ無かった。
それをあいつ自身もわかっていただろう。
立会人のルールに基づいて行動したことを俺はひとつも後悔していない。
甲斐谷と一緒に立会人になったとき、そういう世界であることは重々わかっていた。
俺は立会人として当然の行動をとったに過ぎない。
本部へ戻ると俺を出迎えたのは1年先輩の上路立会人だった。
「よ、よおレンちゃん……」
「……先輩」
「残念、だったね」
「何がですか? あいつは立会人として最低のヤツです」
「…………そうかなあ」
「当然です」
「事情は聞いたよ。……朝比奈を推薦したヤツはきっと、甲斐谷の奥さんを殺したのが朝比奈だと知ってて推薦したんだ。
よりにもよって甲斐谷が関わる今大会でね……。ソイツのほうがよっぽど立会人失格だよ」
「それでも、甲斐谷の取った行動は許されるものではありません、立会人として」
「ううん……」
先輩は俺と甲斐谷が立会人になってからずっと世話してくれた人だ。
よっぽど同情してくれているんだろう。
立会人としての俺に同情などいらないのに。
「それより先輩、次の俺の立会いについてですが」
「え? ……ああ、ツライよなあ。朝比奈の2回戦だなんて」
「代わってもらえませんか?」
「え、ええええっ!? な、なんで? ヤダよぉ怖いし」
「……お願いです」
「…………」
「…………」
「……わかったよ、甲斐谷に免じて代わってやるよっ」
「ありがとうございます。……では失礼します」
俺は当然の責務を果たしただけだ。
立会人として、甲斐谷が死んだことには何の感情も湧いていない。
「レンちゃん、今何回『立会人として』って言ったかなあ……」
-朝比奈-
俺の人生が狂いだしたのは、一番古い記憶の日でも、本当の父と母の会話の意味を理解した日でもなかった。
それは俺が中学にあがった頃、住んでいる施設の庭で遊ぶ子ども達の見守り当番をしていた時のことだった。
俺はあの会話の意味を理解してから、そのことを警察はおろか誰にも話していなかった。
言ったところで、生後4ヶ月の記憶など誰も信じてはくれないだろうし、
仮に信じてくれたとしても、結果がどうあれ、これまで育ててくれた施設のかあさん達に迷惑がかかるのは嫌だったからだ。
そう思ってからは、この記憶自体は忘れずとも、それで感情が揺さぶられることは無かった。
だが、その日は突然訪れた。
俺が家の縁側に座っていると、庭の向こうの金網フェンスの奥からこちらを見る女の姿を見つけた。
庭で無邪気に遊ぶ子ども達を微笑ましく見る人はよくいるが、その女の目は明らかに俺を見ていた。
顔がよく見えないので軽く会釈すると、女は口元を手でおさえ、敷地の門のほうへ向かった。
ここで俺が無視していたら、俺の人生は変わっていたかもしれない。
その女が門に立つと、金網でよく見えなかった顔が分かった。
そして俺は戦慄した。
その顔は、俺の一番古い記憶で見た女の顔。朝比奈ではない本当の母親だった。
その女は高そうな洋服と大きなアクセサリーをじゃらじゃらつけており、
その姿からは借金で困っていたあのときの様子は見られなかった。
今更何をしにきた?
生活がよくなったから俺を引き取りに来たか?
あんなペテンに俺を利用しておいて?
俺に他人を装わせておいて?
自分たちだけがいい思いをしておいて?
俺が何を思うか考えなかったのか?
馬鹿女かこいつは?
それともそれはまた保険金を得て買ったものか?
夫やもうひとりの子どもも利用したのか?
俺を引き取ってどうしようというんだ?
また金を得ようとしているのか?
もう一度俺を、殺そうとしているのか?
一度に様々な多くのことが頭に浮かんでは駆け巡る。
それはどれも、忘れていた怒りと憎しみ。
何も知らぬ赤ん坊だった頃に抱くべきだった感情を含めて、胸の奥でふつふつと湧き上がり、
全身の毛穴からどす黒い蒸気となって吹き出ているような気分だった。
俺は縁側から立ち上がり、その女に向かってふらふらと歩き出した。
女は感激の表情を浮かべ、こちらに両手を差し出している。
憎しみはさらに湧き上がった。
手の届く位置に来たときに俺が「殺したい」と思うと、
俺の背後から現れた真っ黒な腕が女の頭を叩き潰した。
断末魔の叫びをあげる間もなく女は絶命した。
俺は立ち尽くしたまま、赤い噴水をあげながら倒れる女を見ていた。
周囲の人間が気づく前に、黒い煙があたりを覆い尽くしていった。
煙は庭からさらに外まで広がり、その中の人間の心を闇に沈めた。
俺は笑った。
黒い煙の中で高らかに、ケタケタと笑った。
女を殺す直前では涙が出そうだったが、このときはすっかり目が乾いていた。
これが、俺が一番最初に殺人を行った出来事であり、
殺人者としての人生への転機だった。
――トーナメント2回戦終了後
美術館の建つ高原に雨が降り出した。
庭の芝生にはクリームヒルドに後頭部を蹴られ気を失った朝比奈が横たわっている。
そこへ1人の男が近づいていた。
「……朝比奈は死なずに敗れた。甲斐谷、おまえにとっては望ましくない結末だな」
現れたのは沫坂蓮介だった。
本来自分が行うはずだったここでの試合の立会いを先輩の上路に託したが、
沫坂は美術館にいたのだ。
ただし立会人としてではなく、甲斐谷の親友として。
雨はいっそう強まっていった。
激しい雨に打ちつけられて朝比奈は気がついた。
目に入った鎮痛剤の痛みはまだ多少残るが、雨に洗われたので目を開けることができた。
よろよろと立ち上がり振り返ると、自分と同じような学生服を来た男が立っていた。
「…………アンタはだれ?」
沫坂が答える。
「おまえに大切な人を奪われた者のひとり……とでも言っておこうか」
「へえ……トーナメント運営以外で俺にたどり着いた人は初めてッスよ。それとも、そのトーナメント運営の人ですかね」
「気にする必要は無い。もうすぐおまえは死ぬのだから」
「…………ふうん」
甲斐谷。
喫茶店に行ったあの日、おまえは様子がおかしかった。
俺は不審に思って、そのあとすぐお前の行った不正をつきとめた。
もしかしたらおまえは、他の誰でもない俺に不正をつきとめてもらいたかったのではないか。
たとえ、立会人として俺に粛清されることになっても……
小早川が負けてしまったら、朝比奈がもし生きてこのトーナメントを去ることになったら、
親友として俺が敵討ちをしてくれると考えて……
たいしたヤツだよおまえは。
いいさ、俺は喜んでおまえに操られよう。
そしてきっと、おまえの思い通りに立ち振る舞ってやるさ。
「……朝比奈薫、おまえにハッピーエンドなど、存在しない」
激しく降る雨の中、沫坂は自身のスタンド『コズミック・ケイオス』を発現し、
朝比奈へ向かって拳を振り下ろした。
クリームヒルドとの戦いでダメージの貯まっている朝比奈には、それをかわす体力は残っていない。
しかし朝比奈のスタンド『ディプレッション&ラジィ』はパワー、スピードともにAクラスを誇るものであるため、かろうじてではあるが沫坂の攻撃をガードした。
「…………はあっ」
防いだとはいえ衝撃は大きく、朝比奈は大きく仰け反って倒れてしまう。
だが、沫坂は深追いせずに距離を置いた。
「……どうしたんですか。俺を……殺すんじゃなかったんですか」
「…………ああ、だが焦る必要は無い。腕をひとつ使えなくすれば、それだけでずいぶんやりやすくなるからな」
「え?」
ぎゅるり、と朝比奈は自分の左手にツネられたような痛みを感じる。
だがそれはツネられるにとどまらず、捻られ、千切れられるような痛みに変わる。
朝比奈が左手を見ると、『コズミック・ケイオス』の攻撃をガードした箇所から腕にかけておおきな渦の模様が現れていた。
その渦は次第に大きく強くなり、朝比奈の左腕の肉を引き裂き骨を砕いた。
「――――ッッ!!」
「腕をひとつ使えなくすればあとは簡単だ」
沫坂は朝比奈からさらに15メートルほどの距離をおいた。
朝比奈の『ディプレッション&ラジィ』のガスが届かないだけの距離だ。
「おまえのスタンド能力およびその射程は今日までの2戦ですべて理解している。
俺はクリームヒルドがやったように、近づかずに戦えばいいだけだ」
沫坂はそう言うと、足元に落ちている「クナイ」を手に取った。
クリームヒルドが先の朝比奈との戦いで使用したクナイである。
「俺の『コズミック・ケイオス』は渦を発生させる能力。ただしそれは直接触れたものにとどまらない……」
沫坂は『コズミック・ケイオス』にクナイを朝比奈めがけ投げさせた。
クナイは朝比奈に向かって一直線に飛んでいく。
朝比奈はそれをかわせず、『ディプレッション&ラジィ』の右腕でガードした。
「……!!」
またも朝比奈は捻り千切られる痛みを感じた。
右腕を見ると、クナイをガードした場所に渦が発生している。
強力が渦が朝比奈の右腕を壊した。
「これでわかったな? おまえに勝機がないということが」
「…………くっ」
「かわす体力も、ガードする腕も動かない。おまえの血に塗れた人生はこれで終わりだッ!!」
「…………」
「おまえが断たれるのは自分勝手なくだらない夢だけではない、おまえの命そのものだ!!」
朝比奈の体が震える。
それは決して雨で体が冷えたからでも、恐怖したからでもない。
「はは…………はははははははは」
「…………」
「はははははははははははははははははははははははははははははははは」
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」
高笑いし続ける朝比奈を見て沫坂の背筋に悪寒が走った。
「そうだよな、うまれてすぐ普通の人生は断たれ、親も殺して殺人者になって、それでも隠し続けて普通の生活を送ろうとしたけど、あんたらにそれを脅かされて、
ちっぽけな望みも断たれ、俺の人生は完全に終わった! あははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
「なん……だ、その顔は…………人の、顔じゃねえ……」
「そうしたら俺に残されているのはこの真っ黒に染まりあがった人生にどう幕を下ろすか、たったそれだけかなあ。
ここであんたに殺されて、あんたひとりの溜飲を下げさせるのが一番いいのかなあ……」
「…………っ!」
「それじゃあちっぽけすぎるよなあ!」
朝比奈が叫んだ直後、『ディプレッション&ラジィ』がとめどない量の黒煙を噴出させた。
あっという間に広がるガスは、大雨の中にも関わらず本来最大の射程であったはずの10mをゆうに超え、
沫坂をも巻き込むほど大きくなった。
(ま、まずいっ……! ヤツの能力……ガスの中を、ヤツのスタンドは自由に移動できる!)
突然の事態に沫坂はついガスを吸い込んでしまう。
気づいてすぐに鼻と口を手で覆うが、すぐに怠惰と憂鬱が身体を襲う。
(くそ…………早く、離れなければ……ガスの外側へ……でないと、ヤツが…………!)
だがいくら歩きいくら離れてもガスから抜け出すことはできない。
どこまで行っても沫坂は黒い煙に包まれていた。
『見つけた』
背後で声がする。
振り返ると『ディプレッション&ラジィ』がすでに拳を引いていた。
「まずいッ、『コズミック・ケイ――――」
防御は間に合わなかった。
『ディプレッション&ラジィ』の拳は沫坂の右目とこめかみの間に打たれ、
沫坂は衝撃と激痛の中で、自分の右目がグシャグシャに潰されたのを感じた。
沫坂の体は吹っ飛び、濡れた芝生にたたきつけられた。
沫坂は動くことができなかった。
だが、朝比奈はそれ以上追撃しなかった。
「さよならだ、立会人さん」
(…………!)
「俺の人生がもはや誰かの恨みのために殺されるということしか残っていないのなら、俺は恨まれることをたくさんしよう。
ひとり殺せば何人が敵討ちに来る? それを全員殺せば何人がさらに来る? 十数人? それからは? 数十人? 数百人?
『それだけの人の恨みを買って俺が殺されるのならば、俺の死はとても価値のあるものになるだろう?』それはそれは最高の幕引きだ」
「………………グ……! ……ふ………ざ…………け……るな…………!」
「あんたを生かすのは、それを伝えてもらうためだ。……俺はもう本性を隠す必要は無い。
どんどん広めて、どんどん敵討ちを仕向けて欲しい。それはあんたにとっても本望だろう?」
「…………………」
「……ああ、気を失ったか。それじゃあ俺は帰りますよ。住所も変えないんで……それじゃあ」
止まない雨の中、朝比奈は美術館を去っていった。
その後、沫坂は上路立会人によって保護された。
沫坂の中で、痛みと悔しさと怒りがこみ上げて交じり合う。
違う色がいくつも混ざって黒く濁っていく絵の具のように生まれた、言葉で言い表せぬこの感情は沫坂の心の中から消えることはないだろう。
だれがこのような事態を予想していただろうか。
沫坂も、甲斐谷も小早川も、
朝比奈を招いた人物にも、
あるいは朝比奈自身でさえも予想していなかったであろう。
沫坂はたったひとつだけ確信する。
「朝比奈薫にハッピーエンドは存在しない」のではない。
「朝比奈薫に関わった人物に、ハッピーエンドは存在しない」のである。
第10回トーナメント外伝:「第三の男」 おわり
出演トーナメントキャラ
No.6136 | |
【スタンド名】 | ディプレッション&ラジィ |
【本体】 | 朝比奈 薫(アサヒナ カオル) |
【能力】 | 怠惰・憂鬱状態にさせるガスを発生させる |
No.6086 | |
【スタンド名】 | スティング |
【本体】 | 小早川 武人(コハヤカワ タケヒト) |
【能力】 | 触れた物を分解し、別の物に再構成する |
No.4783 | |
【スタンド名】 | コズミック・ケイオス |
【本体】 | 沫坂 蓮介(マツザカ レンスケ) |
【能力】 | 拳で触れた対象、または間接的に触れた対象に渦を発生させる |
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