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みんなの新武将/倭・日本(中世)/戦国時代(西日本) - (2017/10/11 (水) 14:35:03) の1つ前との変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
上杉謙信の名馬「放生月毛」、武田信玄の名馬「黒雲」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
&color(red){武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。}アイテム効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/16.html]]。能力効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html]]
こちらで能力値を確認できる戦国武将もいます。ここに載っていない戦国武将について調べる時にもどうぞ
[[三国志12・信長転生>http://goo.gl/cK0bO2]] [[信長の野望シリーズ>http://p.tl/eLYR]] [[太閤立志伝シリーズ>http://p.tl/71Wz]]
*倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
応仁の乱を契機とした内乱は、日本全国に広がり、世に言う「戦国時代」の始まりとなった。
畿内では応仁の乱の結末が尾を引き、[[足利義材>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_958847c9]]と[[足利義澄>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_bae21033]]の両足利将軍が対立、
これに天下の政局を牛耳りながらも永正の錯乱で暗殺された[[細川政元>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_f002c2ab]]の後釜を巡る両細川の乱が発生した。
畿内・地方の諸侯も巻き込まれ、[[朝倉宗滴>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_597dca0b]]ら朝倉家、後に畿内の実力者となる[[三好長慶>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_ec9a682a]]を輩出した三好家、中国の[[大内義興>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_9f8431eb]]ら大内家も参戦。
中国では尼子経久をはじめ尼子氏が台頭、そして後にその両家を滅ぼした毛利家が躍動、[[毛利元就>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_ad0151fc]]が神算鬼謀で一国人にすぎない毛利家を押し上げた。
九州では大内が衰退したのち、大友島津龍造寺らによる三勢力のみつどもえが続き、やがて[[島津義弘>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_720491db]]ら島津家が九州で覇権を握った。
四国では三好家や一条家を押し上げて長宗我部家が勢いを増し、四国全土をわがものとしていた。
そして1568年には15代将軍である[[足利義昭>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_ef667fbc]]が上洛。彼の陣営には、後に天下人となる[[織田信長>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html#id_610ff904]]、[[豊臣秀吉>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html#id_32821d77]]、[[徳川家康>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html#id_99520553]]の姿があった。
[[古代>みんなの新武将/倭・日本]]→[[中世>みんなの新武将/倭・日本(中世)]]→[[近世>みんなの新武将/倭・日本(近世)]]→[[近代>みんなの新武将/倭・日本(近代)]]
[[南北朝時代(日本)>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2779.html]][[戦国時代(東日本)>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2731.html]]戦国時代(西日本)[[江戸時代>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2719.html]][[戦後>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2767.html]]
*織田家・豊臣家・徳川家
[[織田家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F]] [[豊臣家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F]] [[徳川家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F]]
[[近世>みんなの新武将/倭・日本(近世)]]
*【東日本の戦国時代の人物】
[[戦国(東日本)>みんなの新武将/倭・日本(中世)/戦国時代(日本)]]
*【近畿地方】
*朝廷
[[朝廷の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%BB%B7]]
**方仁親王
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|3|5|82|86|99|仁政・祈願・楽奏|C|C|C|C|C|C|1517|1593|冷静|維持・長|3/5|5/5|
【ミチヒトシンノウ】
戦国時代の皇族、天皇。正親町天皇とも言われる。
後奈良天皇の崩御の後、毛利元就の支援を受けて即位。今川義元や織田信長など
戦国大名と積極的に交流を持ち、信長上洛後は彼と擁立する足利義昭を後押しした。
織田信長が本能寺で倒れると台頭してきた羽柴秀吉に接近し、彼に豊臣氏と関白職を授けている。
晩年は孫の和仁親王に譲位し隠棲した。織田信長、豊臣秀吉との関係や交流の程度については、多くの説がある。
**誠仁親王
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|
|2|6|68|71|75|論客・富豪・遁走|C|C|C|C|C|C|1552|1586|織田信長・織田信忠|冷静|維持・長|5/5|2/5|
【サネヒトシンノウ】
戦国時代の皇族。正親町天皇の第五皇子。子にのちの後陽成天皇、秀吉の猶子となった智仁親王がいる。
足利義昭の上洛に伴った織田信長の援助を受けて元服し、織田信長と昵懇な関係を築く。
父の高齢化に伴い、天皇としての事実上の業務を徐々に移行され、晩年は「今上皇帝」と呼ばれるまでになっていた。
本能寺の変の際には二条御所におり、織田信忠の勧めに従い禁裏へ脱出。織田信忠と明智光秀の交渉の結果無事に脱出することに成功する。
その後は天下統一の道をひた走る豊臣秀吉に接近するが、1586年に天皇に譲位されることなく病没。
本能寺の変の朝廷黒幕説には、彼が信長と親しい関係であったことを実父の正親町天皇が警戒したため、という説がもとになっている。
**周仁親王
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|5|7|80|69|84|規律・論客・詩想|C|C|C|C|C|C|1571|1617|猪熊教利|冷静|維持・長|4/5|4/5|
【カタヒトシンノウ】
戦国時代の皇族。誠仁親王の第一皇子。のちの後陽成天皇。
父の誠仁親王の早逝により、同年の1586年に皇祖父の正親町天皇から譲位される形で即位。
関白、太政大臣に就任して天下人となった豊臣秀吉との協調路線を歩み、豊臣政権と朝廷の関係維持、威信存続に貢献した。
秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、古今伝授に通暁する細川幽斎(藤孝)の才を惜しみ、勅命で和議を斡旋して彼を助けた。
だが、関ヶ原の合戦後に徳川家康が天下を取ると、徐々に協調路線が崩れていき、幕府権力の介入を許す。
猪熊事件の措置が幕府主導で行われたことから譲位を決意し、第三皇子の政仁親王に譲位。のち1617年に崩御。
跡を継いだ政仁親王は、のちに即位して後水尾天皇となるが、幕府権力の介入を食い止められず、娘の明正天皇の即位によって将軍家の外戚化を許す。
**山科言継
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|1|3|75|89|94|眼力・論客・解毒|C|C|C|C|C|C|1507|1579|冷静|維持・短|3/5|1/5|
【ヤマシナトキツグ】
戦国時代の公家。藤原北家四条家の分家と言われる。
後奈良・正親町両天皇に仕え、朝廷財政の再建にあたるべく奔走。
足利将軍家や織田家、今川家、結城家など数多くの大名と交流を持ち、朝廷の支持を取り付けることに成功。
晩年は時の権力者であった織田信長と朝廷の仲を取り持ち、朝廷復権や武家との融和に大きく貢献した。
気さくな人柄で、庶民からも人気があったと言われている。
**近衛前久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|8|45|95|94|59|虚実・鬼謀・言毒|C|C|C|C|C|C|1536|1612|冷静|普通・短|2/5|5/5|
【コノエサキヒサ】
戦国時代の公家。平安時代に権勢を誇った藤原氏の子孫。
藤原氏の氏長者として足利家、上杉家などと昵懇の関係を保つが、
一方で権威拡大のために謀略や外交術を駆使し、足利将軍を弑逆した三好家と関係を結んだり、
敵対する足利義昭と、それを支持する織田信長を追い落とすために本願寺を反信長方針に導くなど
時に戦国大名を仲介し、時に戦国大名を翻弄した。そのため京から離れることも多かった。
本能寺の変後は織田信孝などの追及もあって京を離れ、年齢からこの前後に隠棲した。
本能寺の変を唆したのは彼だと言う説もある。
※その他候補となった特技:論客・遁走
**二条昭実
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|3|9|82|77|72|能吏・規律・威圧|C|C|C|C|C|C|1556|1619|近衛信輔|冷静|維持・長|4/5|1/5|
【ニジョウアキザネ】
戦国時代の公家。平安時代に権勢を誇った藤原氏の子孫。父は二条晴良。織田信長の娘婿にもあたる。
足利義昭の偏諱を賜って1568年に元服。若年でありながら要職を歴任し、28歳で左大臣、29歳で関白となった。
しかし、対立していた近衛信輔から関白職を譲るよう強要され、関白相論を引き起こす。結果的に
信輔の父である前久や朝廷貴族の意向もあり、関白職を辞任。かわって関白となったのが近衛家に猶子となった羽柴秀吉であった。
ただ、二条家自身はあくまで武家と親しい関係にあり、昭実自身も秀吉と昵懇であった。秀吉の死後は
天下を取った徳川家康と昵懇になり、猪熊事件後の江戸幕府による朝廷統制にも貢献。禁中並公家諸法度の制定にも関わった。
若年の頃から晩年にいたるまで朝廷と武家の協調関係に貢献し、1619年に死没した。
**吉田兼見
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|
|1|2|66|74|68|詩想・富豪・祈願|C|C|C|C|C|C|1535|1610|明智光秀|冷静|維持・長|3/5|3/5|
【ヨシダカネミ】
戦国時代の公家、神道家。吉田神道の継承者。先祖に「兼好法師」がいる。
細川幽斎の従兄弟にあたり、1570年に家督と官職を継ぐ。同年勢力を伸ばしつつある織田信長と昵懇の関係を築き、
織田信長の比叡山焼き討ちの相談を受けたと伝わる。信長の推挙により「堂上家」の地位を築いた。
のち、天下を取った豊臣秀吉と昵懇な関係を築いた。彼の自著「兼見卿記」は、戦国時代の貴重な史料のひとつと言われている。
明智光秀と仲が非常によく、そのことが朝廷黒幕説の一因に挙げられている。
*足利家
[[足利家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B0%8F]]
**足利義材
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|53|67|30|44|71|遁走・威圧・怒髪|C|C|C|C|C|C|1466|1523|剛胆|尊大|維持・短|2/5|5/5|
【アシカガヨシキ】
室町幕府10代将軍。実父に応仁の乱で将軍候補となった足利義視がいる。「足利義稙」「足利義尹」とも。
9代将軍であった足利義尚が急死したことにより、8代将軍であった足利義政から請われて将軍職に就任。
しかし、日野富子や細川政元と対立を起こし、明応の政変によって将軍職を解任され幽閉された。
管領であった畠山政長の手引で脱出し、以後畠山・朝倉・そして大内の支持を受け続け、
永正の錯乱で細川政元が暗殺されると将軍職復帰を目指して上洛。
大内義興や細川高国の支持を受け、11代将軍となっていた足利義澄を追い落とした。
だが、尼子経久の台頭による大内義興の帰国と、両細川に対する姿勢から細川高国との対立を生み、
最後は細川高国によって追放され、失意のまま阿波で死去。跡目は足利義維が継ぎ、阿波公方となった。
**足利義澄
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|7|6|48|66|79|遁走・名声・能吏|C|C|C|C|C|C|1481|1511|小心|尊大|維持・短|3/5|5/5|
【アシカガヨシズミ】
室町幕府11代将軍。実父は8代将軍である足利義政の異母兄で堀越公方だった足利政知。実兄に伊勢盛時と対立した足利茶々丸がいる。
堀越公方の次男として生まれていたが、後継候補とはなれず、出家して清晃と名乗り、在京していた。
その後、10代将軍であった足利義材が日野富子・細川政元と対立すると、2人によって11代将軍に擁立された。
しかし、富子の死後は細川政元と対立。その政元も永正の錯乱で殺害されると、細川氏同士の内乱に巻き込まれ、
大内義興の大軍を前に近江国へ逃走。以後何度も再起をはかり、足利義稙暗殺まで目論むも全て失敗。
将軍復帰を成就させようとした1511年に早逝。このわずか9日後に船岡山合戦が発生する。跡目はのちの12代将軍である足利義晴が継いだ。
**足利義維
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|28|12|69|76|65|遁走・能吏・名声|C|C|C|C|C|C|1509|1573|小心|尊大|早熟・短|2/5|4/5|
【アシカガヨシツナ】
11代将軍足利義澄の次男とも、庶長子とも言われる。兄弟に12代将軍足利義晴、子に14代将軍足利義栄がいる。
阿波国守護であった細川氏のもとで育ち、三好氏・細川氏が権力を握って足利将軍を追い落とすと、
彼らの元で将軍候補に擁立され、実権を握った。以降、息子の足利義栄を将軍職に定めつつ、
三好氏の庇護を受けて足利将軍とたびたび対立した。一時期大内氏の庇護をうけるが、再び三好家の庇護を受けるようになり、
15代将軍になるべく足利義昭が上洛してきたときは、三好家を援助して、義昭と彼に協力する織田信長と対立した。
しかし、子の足利義栄が死ぬと勢力を衰退させ、1573年阿波で死去した。
**足利義輝
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|37|80|68|59|90|不屈・名声・威圧|A|C|C|C|C|C|1536|1565|猪突|剛胆|早熟・長|2/5|5/5|
【アシカガヨシテル】
室町幕府13代将軍。実弟に足利義昭。実父に足利義晴。
管領であった細川晴元との対立を行っていた父に従い、京と近江を行き来して抗戦。
11歳で将軍に就任し、細川家との和睦によって京に帰還したが、細川家臣の三好長慶が離反するとこれに抵抗。
六角、畠山らの支援を受け、三好長慶の軍と何度も戦い続けたと言われている。武田、上杉、今川ら諸大名との
交渉も続け、将軍親政を目指す一方、強大な権力を持つ三好長慶を疎んじ、水面下で彼の勢力を削ぐ反抗勢力を支援したが、
三好長慶の没後、跡を継いだ三好義継らによって弑逆された。死の間際、自ら剣を奮い奮戦したと言われる。
**足利義昭
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|40|17|90|67|88|遁走・名声・論客|C|C|C|C|C|C|1537|1597|小心|尊大|維持・短|2/5|5/5|
【アシカガヨシアキ】
室町幕府15代将軍。実兄に足利義輝、実父に足利義晴。
兄の足利義輝が将軍職を継承する予定であったため、僧籍に入り覚慶と名乗った。
永禄の変で兄達が殺害されたことを受けて還俗。六角家、朝倉家、織田家などを頼り、織田信長の上洛で15代将軍に就任した。
初めは信長に協力的であったが、徐々に対立。既に反信長連合を組んでいた浅井朝倉や、兄を殺した三好家、そして武田信玄らの協力を仰ぎ、
信長に対抗しようとするが失敗。槇島城を落とされ、京を追放された。その後は毛利輝元の庇護を受け、鞆に本拠地を置いたが勢威は回復することなく、
のちに天下統一事業を継いだ豊臣秀吉と面会して将軍職を辞任。以後は貴人として、豊臣秀吉に遇された。
**野村定常
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|65|81|57|33|74|猛者・精妙・護衛|A|C|B|B|C|C|?|1570|剛胆|剛胆|維持・長|4/5|2/5|
【ノムラサダツネ】
足利家家臣。足利義輝・足利義昭の2代に仕えた。
武者奉行として足利家の軍事行動を支え、足利義輝の死後も足利家に忠誠を尽くした。
本圀寺合戦では襲撃する三好軍の攻撃から足利義昭の身柄を守り、三好軍撃退に功を立て織田信長から激賞された。
のち、和田惟政らとともに足利幕臣として、織田信長と三好家との戦争に従軍するが、
決起した石山本願寺衆の攻撃を受け、戦死した。顕如がその武勇を恐れていたという。
**槇島昭光
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|口調|素質|義理|野望|
|22|9|68|80|56|論客・沈着・祈願|C|C|C|C|C|C|?|?|足利義昭|冷静|丁寧|維持・長|4/5|1/5|
【マキシマアキミツ】
足利家家臣。足利義昭の側近衆。
足利義昭に仕え、1573年の織田信長との抗争の際には義昭を槇島城に迎え入れた。
その後、足利義昭の都落ちにも同道し、鞆幕府における政治の中枢を任されている。
織田信長の死後は畿内で実力をはる豊臣秀吉との融和をすすめ、足利義昭の帰京や豊臣・毛利・島津らの交渉を請け負っている。
足利義昭が亡くなると葬儀を任され、以後は豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた。
**御牧景重
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|78|63|57|31|60|鉄壁・金剛・不屈|A|A|A|C|B|C|?|1582|剛胆|維持・長|5/5|1/5|
【ミマキカゲシゲ(オマキカゲシゲ)】
戦国時代の武将。足利奉公衆の1人。のち明智光秀家臣。御牧三左衛門とも。
伊勢貞興らとともに足利義昭に仕官していたが、義昭追放後は明智光秀の家臣となる。
松永久秀討伐の際には、片岡城を攻略すると言う軍功を立てた。
本能寺の変の際も明智光秀に加担し、山崎の戦いにも参陣する。
戦局が劣勢になった際に明智光秀に撤退を進言し、自ら殿となって羽柴軍を押しとどめた後、戦死した。
後年、秀吉がその功と忠節を惜しみ、彼の弟を馬廻りに推挙している。
*細川家(管領)
[[細川家(管領)の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F]]
**細川政元
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|68|32|92|69|41|捕縛・詭計・名声|B|C|B|C|C|C|1466|1507|冷静|尊大|早熟・長|3/5|4/5|
【ホソカワマサモト】
室町時代の人物。応仁の乱の主要人物である細川勝元を父に持つ。
10代将軍足利義材と対立し、伊勢貞宗らとともに明応の政変を起こし、彼を将軍職から追い落とした。
後に関東・堀越公方である足利政知の息を迎えて還俗させ、足利義澄として将軍職に就任させ、実権を牛耳った。
以降、廃された足利義材と彼に味方する勢力が反発するが、畠山氏や延暦寺など、敵対する勢力を次々と駆逐した。
女性に興味がなかったのか、生涯女人禁制を貫き、養子を3人も迎え入れたが、やがて養子同士の権力争いに巻き込まれ、
養子の1人である細川澄之派の家臣に暗殺された。
**木沢長政
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|56|24|90|72|57|詭計・百出・言毒|B|B|C|B|C|C|1493|1542|小心|小心|尊大|維持・長|1/5|4/5|
【キザワナガマサ】
室町時代の武将。畠山、のち細川家の家臣。河内守護代。
はじめ畠山義尭に仕えていたが、主家の衰退に伴い細川晴元へ接近。細川高国ら反晴元連合と戦い、
その一角である細川尹賢を攻め滅ぼした。また台頭著しい三好元長を危険視して、三好政長や
一向一揆衆と語らい、これを誅滅した。その後、法華衆や一向衆、畠山家細川家を巧みに操り、
独自の勢力を拡大して畿内の盟主たらんとしたが、三好元長の遺児であった三好長慶につけこまれ、
太平寺の戦いで敗死した。遺領は主に細川氏綱らによって引き継がれたが、三好畠山細川らの
内乱は収まるところを知らず、畿内の安寧は織田信長の到来を待つことになる。
*三好家
[[三好家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%B0%8F]]
**三好長慶
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|93|72|75|94|82|威風・楽奏・弓将|S|C|A|C|C|B|1522|1564|冷静|冷静|丁寧|普通・短|3/5|4/5|
【ミヨシナガヨシ】
三好元長の嫡男。父親が殺害された原因となった細川晴元に面従腹背で仕え
やがて主家を下剋上して主君である晴元を追放、勢力をほぼ簒奪する。
以後は13代将軍足利義輝を操り幕政を事実上掌握。朝廷からも重宝され
室町末期における事実上の天下人として君臨した。しかし反三好連合の反抗による弟達の死や
嫡男の夭折を境に心身を憔悴させ、甥で養子でもある三好義継に家督を譲り、しばらくして病没する。
※その他候補となった特技:怒髪・補佐・詩想・槍将
**三好長逸
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|79|67|78|75|52|昂揚・威圧・名声|B|C|A|B|C|C|?|1573?|松永久秀|冷静|冷静|丁寧|維持・短|3/5|5/5|
【ミヨシナガヤス】
三好家一門。三好三人衆の筆頭。
三好長慶・義継の2代に仕え、長慶存命期からその勢力拡大に貢献。三好一族の長として長慶に重用された。
おもに六角・足利との戦いで功をあげ、長慶の嫡男であった義興より先に従四位の官位を得ている。
長慶死後もその影響力は大きく、当主であった義継を纏めていたが、松永久秀の離反、そして主君である義継の猜疑心から
対立を重ね、嫡男を失い、さらに織田信長による介入を招き敗北。信長に敗れ阿波へと逃れた。その後反信長連合の主軸として
織田信長と戦い続けたが、1573年に摂津中嶋城を落とされ、以後消息を絶つ。
**十河一存
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|81|92|64|68|85|槍神・威風・連戦|S|C|A|A|C|B|1532|1561|三好長慶|松永久秀|剛胆|剛胆|豪放|維持・長|5/5|1/5|
【ソゴウカズマサ】
三好家一門。三好元長の四男。三好長慶の弟。「鬼十河」「夜叉十河」と呼ばれた。
讃岐十河氏の家督を継ぎ、三好家の軍事の中枢として数々の合戦で活躍。
父の仇敵にあたる三好政長討伐では先陣を務め、細川家崩壊に大きな功績を残す。
その後は和泉、阿波、京などを転々として三好家を政軍両面で支え、畠山細川を追い落とし三好政権の重鎮となった。
1560年岸和田城主となるが、その翌年急死。病死と言われるが、松永久秀による暗殺説も根強い。
軍事の中枢を担った彼の早逝は、畠山細川の息を吹き替えさせ、三好家衰退の遠因となった。
**篠原長房
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|75|64|86|90|62|威圧・補佐・強行|A|C|A|C|B|A|?|1573|剛胆|剛胆|丁寧|維持・長|4/5|2/5|
【シノハラナガフサ】
三好家の重臣。三好実休のち三好長慶、義継の家臣。
三好実休の重臣としてその軍事活動の中枢を担い、各地を転戦。
久米田の合戦では先陣を任され活躍するが、本陣を急襲され実休戦死を招いて敗走。同時期に出家した。
以後は三好長慶の直臣として実休の子である長治を補佐。教興寺の戦いでは長慶指揮下で軍功をあげた。
長慶の死後は次期当主となった義継に仕え、筆頭重臣として分国法「新加制式」を定める。
信長包囲網の際には反信長連合の主軸として軍を率い、畿内の勢力と戦って戦果を上げるが、内紛によって1573年に自害。
**松永久秀
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|60|48|89|84|76|火攻・深謀・機略|B|B|A|C|B|C|1510?|1577|三好長慶|三好長逸・十河一存|冷静|冷静|尊大|維持・長|1/5|5/5|
【マツナガヒサヒデ】
三好家家臣。弟に松永長頼がいる。三好長慶の娘婿。はじめ三好長慶に右筆として仕え、三好長慶・三好義継の2代に重用された。
長慶存命期から強大な権力と信任を有しており、嫡男であった三好義興や一門筆頭の三好長逸に次ぐものであったと言われている。
主に大和に勢力を伸ばしており、事実上大和国主のような存在であった。長慶に従い各地の合戦に参加して功を立てていたが、
長慶死後は三好家中枢を占める三好三人衆と対立。当初は劣勢に立たされていたが、主君にあたる三好義継の亡命や、畠山氏ら畿内勢力との共闘、
そして、上洛を目指す織田信長との協調によって勢力を挽回した。以後は信長の勢力を盾に大和でも勢力を伸ばすが、1572年に足利義昭や三好義継と結んで信長から離反した。
しかし、武田信玄の死や、大和で対立してきた筒井順慶に大敗北を喫したことから徐々に衰退。足利三好の脱落もあって一度は信長に降伏した。
しかし1577年に再び信長に反旗を翻し、本願寺や毛利、上杉と協調。しかし多勢に無勢であり、織田信長との協調を進めていた筒井順慶を先鋒とした
織田の大軍を支えることができず、居城の天守で自害した。その生き様は戦国屈指の梟雄と言われ、多くの逸話を残した。
**荒木村重
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|78|71|85|63|65|遁走・機略・乱戦|A|B|A|A|C|B|1535|1586|剛胆|剛胆|豪放|維持・短|2/5|5/5|
【アラキムラシゲ】
戦国時代の武将。もとは三好家盟友であった摂津池田家の家臣。
はじめ池田勝正に仕えその重鎮となったが、三好三人衆の勧誘を受け三好家に仕え
池田家の実権を掌握する。その後、織田信長との戦いでは反信長連合を担うも
戦局悪化に伴い信長方に寝返る。織田信長に従い軍功を立てていたが、1578年に
突如謀叛を起こして信長と断交。毛利や本願寺に味方して信長と戦うが敗北。
居城から一人逃亡して毛利氏の庇護を受けた。晩年、大坂に帰り秀吉家臣と対立するが
「道糞」と改名して事なきを得ている。
*本願寺家+雑賀衆
[[寺社勢力の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E5%8B%A2%E5%8A%9B]]
[[本願寺の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA]]
[[雑賀衆の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%B3%80%E8%A1%86]]
**大谷顕如
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|83|27|90|94|95|鬼門・仁政・名声|C|A|A|C|C|B|1543|1592|冷静|威厳|維持・短|4/5|3/5|
【オオタニケンニョ】
戦国時代の僧。本願寺第十一世で証如の子。本願寺光佐、顕如とも。
父の跡を継いで本願寺勢力の拡大をめざし、特に畿内の中央朝廷との関係を密にした。
織田信長とは一時期良好な関係を築くも、元亀元年から敵対路線を歩み織田家と和議敵対を
繰り返しつつ戦い続けた。しかし共闘勢力の伊勢長島衆や越前衆の潰滅から徐々に不利となり、
救援勢力であった毛利家や雑賀衆も織田家に劣勢、あるいは和議を結んだことから、
正親町天皇の詔勅によって事実上の臣従と言える和議を結び、石山本願寺を退去して紀伊鷺森へと向かった。
その後は織田家、ひいては豊臣家に臣従し良好な関係を築いていたが、最終的に豊臣政権の
中央集権化に取り込まれる形となり、顕如はその前後で示寂。その後本願寺は東西に分裂するに至った。
※その他候補となった特技:虚実・富豪・論客
**下間頼廉
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|86|70|85|78|80|名声・論客・補佐|A|C|A|C|B|B|1537|1626|冷静|威厳|維持・長|4/5|1/5|
【シモヅマライレン】
戦国時代の坊官。石山本願寺に仕え、顕如を支えた。下間頼康の子。
本願寺の法主であった顕如を支え、石山本願寺勢力の重鎮を担った。「大坂之左右之大将」とも言われ、
石山本願寺の重鎮として、各地の大名との外交や、他の一向衆勢力との連絡も取り合っている。
勅命による和睦の際には本願寺側として立ちあい、顕如の鷺森下向にも同道している。
その後は顕如派と教如派で割れる石山本願寺勢力の仲介や、本願寺町奉行として貢献。
豊臣秀吉の覇権確立後も中立を貫き、その後は顕如によって新たに法主候補に指名された准如を補佐し続けた。
**鈴木孫一
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|80|88|74|56|87|弓神・急襲・明鏡|A|C|S|B|S|A|1556?|?|冷静|威厳|維持・長|4/5|1/5|
【スズキマゴイチ】
戦国時代の武将。紀伊国にある鉄砲、地侍集団、雑賀衆の頭目の一人と伝わる。「雑賀孫市」とも。
織田、本願寺双方にその軍事的才能を高く評価され、はじめ本願寺につき石山戦争に従事。
法主顕如からも格別の信頼を持って迎えられ、織田軍を苦しめた。同じく本願寺の坊官である下間頼廉とともに
「大坂之左右之大将」とまで称された。石山戦争の終結後は顕如を鷺森へ迎え入れ、織田信長とも接近。
一方で雑賀衆の土橋氏と対立し、これを暗殺して雑賀衆の一本化をはかっている。本能寺の変後は先述の理由もあって
敵対する土橋氏の攻撃を避けるべく雑賀の地を出て織田領に逃亡。当時岸和田城主であった織田信張の庇護を受けた。
その後は羽柴秀吉に従い、小牧・長久手の戦いや紀州征伐にも参戦。以後の動行は不明であるが、関ヶ原合戦後に水戸徳川家に仕えたという説もある。
※その他候補となった特技:射手
*浅井家
[[浅井家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E6%B0%8F]]
**浅井長政
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|72|90|71|56|85|疾走・急襲・不屈|A|C|B|S|C|C|1545|1573|織田お市|冷静|冷静|丁寧|維持・長or開眼(統率・知力など)|3/5or5/5|5/5|
【アザイナガマサ(アサイナガマサ)】
戦国時代の武将。近江浅井家当主。浅井久政の嫡男。
若年ながら家督を相続し、野良田の戦いの勝利をはじめ、近江六角氏との戦いを有利に進めた。
のち、足利義昭を奉ずる織田信長の軍に協力、この時に織田お市を正室に迎え入れ、足利義昭を護衛し上洛を成功させている。
しかし、織田信長が権力を持ち始めるとこれに反発。朝倉・三好ら各地の勢力とともに反信長連合の一角を成した。
姉川の戦いや志賀の陣をはじめ、数に勝る織田軍に対して善戦を続けるも、戦力差は如何ともしがたく、
1573年織田軍の羽柴秀吉に攻められ、家族を逃したのち自害した。
※その他候補となった特技:沈着・騎将・乱戦
**海北善右衛門
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|71|59|77|48|63|明鏡・不屈・鉄壁|A|A|B|A|C|C|?|1573?|冷静|冷静|剛胆|維持・長|5/5|2/5|
【カイホウゼンエモン】
戦国時代の武将。浅井家重臣。「海北綱親」とも言われる。
浅井亮政、久政、長政の3代に仕え、主に軍奉行を任された。主に近江国内の合戦に参加し、
多賀氏、六角氏、織田氏らとの戦いで武功をあげている。1573年に織田信長によって
浅井長政が自刃に追い込まれた際、自らも戦死。後年、一族の海北友松が秀吉に召し出された時
「我が兵法の師」と秀吉から発言したと伝わっている。
補足:斎藤道三の例に漏れず、最近では「海北善右衛門」と名乗る親子の2代説が主流。例示能力値は親子1代説で設定。
*朝倉家
[[朝倉家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F]]
**朝倉孝景
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|55|43|82|91|84|富豪・名声・米道|B|C|B|C|C|C|1493|1548|冷静|冷静|丁寧|維持・長|4/5|1/5|
【アサクラタカカゲ】
戦国時代の武将。朝倉家10代当主。
父の死後家督を相続し、室町幕府の将軍足利義稙と昵懇な関係を築く。
その後一門の朝倉宗滴を軍奉行に任命し、幕府の要請に応じて丹波、若狭、美濃へ出兵させ
朝倉の影響力と勢力を高めた。両細川の乱の際には細川高国を支持して将軍家、管領家と並ぶ重鎮として
京を事実上支配した。一方で富国強兵にも励み、幕府や朝倉家の繁栄の礎となった。
将軍家管領家の失墜後は独自路線を歩み、朝倉家最盛期を演出した。
**朝倉義景
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|46|25|67|63|48|名声・詩想・楽奏|C|C|C|C|C|C|1533|1573|小心|冷静|丁寧|維持・長|2/5|1/5|
【アサクラヨシカゲ】
戦国時代の武将。越前近江を領する朝倉家の11代当主。
1548年に父が死没し家督を継いだが、実権は朝倉宗滴が握っていた。1555年に宗滴が死没してからは
当主として権勢をふるい、若狭武田氏や加賀一向一揆と交戦して勢力を拡大した。
当初は足利義昭を庇護していたが、あくまで上洛は目指さず、自らは若狭武田氏を支配下に入れた。
しかし足利義昭を庇護した織田信長が上洛命令を出すとこれを拒否。翻意ありとして織田信長による若狭征伐を引き起こし、
若狭を事実上失陥する。だが浅井長政の助力により本国越前は無事であった。以後は浅井長政と協力して織田信長と戦うが、
数に勝る織田軍に対して疲弊劣勢となり、最後は刀根坂の戦いで信長率いる馬廻衆に惨敗を喫した。越前に逃亡するが、朝倉景鏡の寝返りにより自刃。
**朝倉宗滴
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|87|69|89|85|82|待伏・火攻・虚実|A|A|S|A|C|C|1477|1555|剛胆|剛胆|丁寧|維持・長|5/5|3/5|
【アサクラソウテキ】
戦国時代の武将。朝倉氏一族。甥の子として朝倉義景がいる。
朝倉貞景・孝景・義景の3代に仕え、金ヶ崎城城主として大権を握った。
細川政元と対立し、彼の要請を受けた一向一揆の大軍を撃退。また六角、浅井両家に介入して朝倉家の権威向上に励んだ。
のち、足利義晴と細川高国を支持し、上洛して細川晴元や三好元長の軍を破った。しかし以後は
対立する足利・細川両家同士の戦には介入せず、もっぱら朝倉家の地盤固めに奔走。朝倉氏の最盛期を演出した。
※その他候補となった特技:乱戦・明鏡・百出
**山崎吉家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|81|87|70|62|69|強行・猛者・待伏|S|A|B|A|C|C|?|1573|剛胆|剛胆|豪放|維持・長|4/5|1/5|
【ヤマザキヨシイエ】
戦国時代の武将。朝倉家の重臣。
朝倉宗滴や魚住景固らとともに一向一揆征伐で名をあげる。1567年には同じく重臣であった
堀江景忠の討伐に出陣、成功させるものの景忠を取り逃がした。足利家や斎藤家との交渉も任されつつ、
浅井長政が織田信長に背いた際は浅井長政を救援している。1570年には朝倉軍の中核をなし、
志賀の陣で森可成らを敗死させた。だが、1573年織田軍と対峙中に織田信長の急襲を受け、
殿として奮戦するも戦死。このわずか数日後に朝倉義景が自刃して朝倉氏は滅亡する。
*【中国四国地方】
*大内家
[[大内家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F]]
**大内義興
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|94|86|81|89|84|連戦・強行・詩想|A|C|C|S|C|A|1477|1528|剛胆|剛胆|威厳|維持・長|4/5|2/5|
【オオウチヨシオキ】
室町時代の武将。大内政弘の子供として生まれ、
周防国をはじめ7か国の守護に任命される。中国地方から北九州にまで
またがる大勢力を確保しながら、10代将軍足利義尹を保護し、畿内に上洛して細川澄元らと争う。
自ら管領代となり室町幕府の実権を握っていたが、尼子経久の台頭や細川氏、足利氏との対立もあり
領国に帰還。以後尼子氏との戦いを展開する。毛利元就の帰参もあり戦いを有利に進めるが、まもなく病死。
※その他候補となった特技:駆逐・掃討・精妙・勇将
**大内輝弘
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|37|44|51|45|72|名声・長駆・昂揚|C|C|C|B|C|B|1520|1569|猪突|剛胆|丁寧|維持・短|4/5|4/5|
【オオウチテルヒロ】
戦国時代の武将。大内家最後の当主。大内義興の甥。
実父が本家に謀叛を起こして亡命したため、豊後国で生まれた。その後、
大内義興の母方の孫であった大友宗麟の庇護を受ける。1568年に大友毛利の戦いの際、大友宗麟の提案を受け入れ
密かに周防へ上陸。尼子勝久らとも語らい、反毛利と大内再興を掲げて挙兵した。
旧大内家臣が多く集まり、毛利元就を悩ませたが、毛利方の抵抗も激しく、やがて九州より帰還した吉川元春・小早川隆景らに
敗れ、自害した。大内家の家督は、その後幕命により大友宗麟のものとなったが、輝弘の死によって事実上大内家は滅亡している。
*尼子家
[[尼子家の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F]]
**尼子経久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|73|54|78|77|50|深謀・鬼謀・虚実|A|B|S|B|C|C|1458|1541|冷静|威厳|開眼|2/5|4/5|
【アマゴツネヒサ】
戦国時代の大名。「謀聖」と称され、11ヶ国を支配する尼子氏の全盛期を築いた。
当初は京極氏、ついで大内氏を盟主としたが、面従腹背で幕府からの追討軍派遣など
苦難を乗り越えて独自の勢力圏を築く。その後は山名氏、大内氏、三村氏、赤松氏などと
対立して勢力を伸ばしながら、毛利氏の内乱や支配圏にも介入して毛利元就を従えている。
晩年は孫の晴久に家督を譲って隠居した。尼子氏を中国地方有数の勢力にのし上げたが、
嫡男の戦死や三男の反乱、毛利元就の離反など尼子氏の衰退も始まっており、その途中で死去。
※その他候補となった特技:名声・威圧・心攻・洞察
**山中幸盛
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|70|91|72|51|87|猛者・不屈・遁走|S|B|A|A|C|C|1545|1578|剛胆|丁寧|維持・長|5/5|1/5|
【ヤマナカユキモリ】
戦国時代の武将。尼子氏家臣。尼子晴久、尼子義久に仕え、毛利元就らの侵攻軍相手に抗戦して活躍。
しかし、既に往時の勢いのない尼子氏が滅亡すると、尼子勝久を擁立し尼子再興を掲げて挙兵した。
始め山名氏を頼るも、すんでのところで毛利氏とその同盟者であった織田氏に阻止され、
ついで大友氏を頼り奮戦したが、これもあと一歩のところで阻止された。その後、柴田勝家や
明智光秀を通じて織田信長の傘下となり、織田家の軍事活動に貢献する傍らで尼子氏再興を
推進させ、羽柴秀吉の支援を受けて尼子氏再興に成功した。しかし激化する毛利氏の攻勢や、
別所氏の謀反などで織田家の支援を受けられなり、上月城に籠城するも敗れた。その後、護送中に謀殺された。
※ 天下の義将として名高く、知勇に優れた。その力量を多くの大名に頼られ、また恐れられた。謀殺は存在を危険視した吉川元春、小早川隆景が主導したと言われている。
*毛利家
[[毛利家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F]]
**毛利元就
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|94|62|99|93|96|虚実・百出・指導|B|B|S|C|C|A|1497|1571|冷静|威厳|維持・長|2/5|2/5|
【モウリモトナリ】
戦国時代の大名。日本の戦国七雄の一人に数えられる。
元は安芸を支配する弱小豪族にすぎなかったが、巧みな権謀術数と露骨な外交戦略の限りを尽くし、
大敵を平らげながら一代で中国地方を代表する大大名へとのし上がった。
大内、尼子といった戦国中期を代表する覇者たちに囲まれながらも、生涯戦績は戦国武将の中で
群を抜いて高く、その優れた知略、軍事手腕は後世に「謀神」「戦国最高の知将」の異名で評される。
三本の矢、百万一心の逸話で知られる名君であり、後世に長州藩の開祖として奉られた。
※その他候補となった特技:心攻・洞察・待伏・鬼謀
**毛利隆元
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|71|48|76|87|69|富豪・風水・楽奏|B|C|A|C|C|B|1523|1563|小心|維持・長|5/5|1/5|
【モウリタカモト】
戦国時代の武将。毛利元就の長男。毛利輝元は実子。
大内義隆のもとで元服し、父元就に従い各地の合戦に参加。毛利元就から家督を譲られ、
志道広良の補佐を受けた。大内・尼子との戦いに従軍し、毛利軍の中核を成した。その後は
大友氏との戦いにも従軍している。尼子義久との戦いに赴く途中、和智誠春の饗応を受けた直後に急死。
武将としての器量は父元就をはじめ、苦言を呈されていたが、毛利家の基盤を支えていたようで、彼の死後、毛利家は一時衰退した。
**吉川元春
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|90|91|80|61|85|威風・連戦・急襲|S|B|A|S|C|C|1530|1586|剛胆|維持・長|5/5|1/5|
【キッカワモトハル】
戦国時代の武将。毛利元就の2男。毛利両川として弟の隆景とともに毛利家の中軸を担った。
尼子氏との戦いで初陣し、以後毛利家の主要な戦いに参加しつづけた。
特に、大内・尼子との戦いでは武功を立てて、両家の滅亡に大きく貢献した。
父であった元就がなくなると、甥の輝元を支えたが、織田信長の勢力拡大、羽柴秀吉の中国侵攻、宇喜多直家の離反などに
苦しめられ、善戦するも劣勢は避けられない状況となった。本能寺の変直後に秀吉と和睦し、追撃を主張する武将を押しとどめた。
その後は息子である吉川元長に家督を譲り隠居していたが、九州征伐で出陣。しかし病によって陣没している。
※その他候補となった特技:勇将・乱戦
**小早川隆景
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|80|68|81|92|86|深謀・論客・指導|B|B|A|B|B|A|1533|1597|冷静|維持・長|5/5|1/5|
【コバヤカワタカカゲ】
戦国時代の武将。毛利元就の3男。父と兄の死後、毛利家を支え続けた稀代の傑物。
豊臣秀吉に接近し、五大老の一人に数えられた。
毛利氏の中国制覇に際して、厳島の戦いや大友氏との戦いで活躍し、
毛利家の版図の拡大に功績を残す。秀吉の四国征伐や朝鮮出兵にも参戦し、
特に碧諦館の戦いでは圧倒的な明の大軍を打ち破り、立花宗茂らと共に日本軍勝利の立役者となった。
秀吉の親族である羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子にし、彼に家督を譲った2年後死去。
毛利家の為に全てを捧げた人生であった。
※その他候補となった特技:補佐・精妙
**毛利秀元
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|78|76|65|87|62|指導・不屈・仁政|A|B|A|B|B|B|1579|1650|剛胆|維持・長|5/5|2/5|
【モウリヒデモト】
戦国時代の武将。毛利元就の四男、穂井田元清の嫡男で従兄弟の輝元の養子となる。
1592年に元服。元服して間もなく文禄の役に参戦する。慶長の役では若年ながら病身の輝元に代わり毛利全軍を統率した。
輝元が関ヶ原の戦いにおいて石田三成らの説得を受け西軍の総大将に就任すると、毛利軍の総大将として出陣するが、
吉川広家と家老の福原広俊が敗戦を予想して東軍に内通しておりそれに応じる形で傍観に徹した。この時の状況は「宰相殿の空弁当」の逸話に残る。
西軍の敗戦後毛利家は30万石まで減封されるが輝元から長門国に6万石を与えられ、減封における家中の混乱を収拾する傍ら、幕府との友好関係を深めたり
毛利宗家の知行割り当てや新田開発、請紙制の制定など大改革を行い、財政を好転させ藩政の基礎を固めることに成功した。
輝元の後を継いだ秀就とは対立するが、幕府の仲裁で和解した後隠居し徳川家光の御伽衆を務めた。1650年死没。
**瑶甫恵瓊
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|63|8|87|89|50|論客・妙計・指導|C|C|B|C|C|C|1539?|1600|石田三成・小早川隆景・毛利隆元|吉川広家|冷静|維持・長|4/5|3/5|
【ヨウホエケイ】
戦国時代の僧。安国寺に住持し「安国寺恵瓊」の名でよく知られる。
毛利隆元と親交を持ち、その伝手で毛利家に仕え外交僧として活躍。織田信長の横死を予想し、果たして彼が本能寺の変で斃れると、
当時信長の部将として毛利家と戦っていた羽柴秀吉との和睦に成功。以降秀吉に接近する。
毛利家が秀吉に臣従すると秀吉から重用され、僧侶でありながら大名に抜擢されるという異例の出世を遂げる。
肥後国人一揆では策謀を用いて鎮圧に尽力、朝鮮出兵では小早川隆景の下で現地の統治に勤しむ傍ら、戦闘にも参加した。
秀吉が死ぬと吉川広家と対立、親交のあった石田三成と毛利宗家の当主である輝元を担ぎ上げ関ヶ原の戦いを起こすが失敗し、
三成や小西行長とともに斬首され、梟首となった。
**国司元相
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|60|90|60|68|66|槍神・能吏・指導|S|B|A|C|C|C|1492|1592|剛胆|維持・長|4/5|1/5|
【クニシモトスケ】
戦国時代の武将。元の名は助六。
毛利元就に仕える。隆元の傅役を務め、隆元の元の字を拝借して元相と名乗る。
吉田郡山城の戦いで奮戦し尼子氏を撃破する戦功を挙げ、元就が月山富田城の攻略に失敗した際は負傷しながらも元就を守り抜く。
1550年に井上元兼が粛清され新たに五奉行制が定まると、五奉行の一人となる。
厳島の戦いで奮戦し、松山城を攻めた際には一番乗りの武功を挙げる。
槍の名手としても名高く、足利義輝と面会した際には槍の鈴の免許を与えられている。
嫡子元武に奉行職を譲った後も奉行人として働き、1592年に100歳を超える長寿で死没。
※ 郡山城の戦いでは尼子方の将三十四人を討ち取り、生涯百三十と戦国時代中でも屈指の数の首級を挙げている。高師泰の子孫でもある。
**天野隆重
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|81|74|77|56|63|明鏡・鉄壁・連戦|B|S|A|C|C|C|1503|1584|冷静|維持・長|4/5|2/5|
【アマノタカシゲ】
戦国時代の武将。安芸の有力な国人であり、ある程度の独立性を持った。
初めは大内氏に従属するが、大内義隆が死ぬと妻の縁戚関係のため毛利元就に従属した。
厳島の戦いなど数々の戦いを転戦し活躍、尼子氏の滅亡後は月山富田城の城代となる。
1569年に山中幸盛が尼子勝久を担ぎ上げて尼子氏再興の兵を起こし、月山富田城を6000の兵で包囲した。
この時城には300の兵しか残されていなかったが、城主の毛利元秋と共に一計を案じて偽降伏を用いて先陣の兵2000を打ち破る。
怒った幸盛は2000の兵を率いて富田城に迫り、二度にわたって計略を用いて攻略しようとしたが隆重は全て看破しこれを打ち破った。
**二宮俊実
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|59|80|66|32|65|猛者・運搬・連戦|S|C|B|C|C|C|1522|1603|剛胆|維持・長|4/5|1/5|
【ニノミヤトシザネ】
戦国時代の武将。吉川氏の直臣。
元就が陶隆房の反乱に協力した際に槌山城を攻略した際、これに参加する。
後に元就が隆房に反旗を翻し戦いとなった厳島の戦いでは敗走する陶軍を追撃し、三浦房清を討ち取る功をあげる。
尼子氏の勇将本庄常光との戦いでは決死隊を組織し兵糧運搬を行い、忍原崩れの敗戦による劣勢を覆した毛利軍の謀略に参加し常光を暗殺した。
関ヶ原の戦いの後主家の依頼を受け、現在の毛利氏研究の重要資料である「二宮俊実覚書」を著した。
*長宗我部家
[[長宗我部家の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E6%B0%8F#.E6.AD.B4.E5.8F.B2]]
**長宗我部元親
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|79|85|83|77|88|槍将・徴収・怒髪|S|B|A|A|C|A|1539|1599|長宗我部信親|仙石秀久orなし|冷静|早熟・長|2/5|4/5|
【チョウソカベモトチカ】
戦国時代の武将。四国土佐の国人。本姓は「秦」。若い頃は姫若子と呼ばれたが、初陣を果たすとその武勇を振るった。
土佐の安芸氏、本山氏、一条氏らと戦いこれに勝利して土佐統一を果たす。三好家の衰退に乗じて織田信長と同盟し、阿波、讃岐を制圧する
一方、毛利氏の援助を受ける伊予の河野氏と激戦を繰り広げた。織田信長と対立するが、本能寺の変が
発生すると織田軍の侵略戦争から逃れ、1584年に河野氏を滅ぼし、伊予もほぼ統一して四国平定を成し遂げた。
しかし、羽柴秀吉との対立から四国征伐を招き、羽柴軍の前に連戦連敗を喫したため降伏した。戸次川合戦で
信親が戦死した後は気落ちし、四男の盛親に家督を相続させた。家中が混乱する中1599年に死去。
「土佐の出来人」と称されたが、織田信長からは「鳥無き島の蝙蝠」と呼ばれ、あまり評価はされなかった。
※その他候補となった特技:乱戦・威風
**長宗我部信親
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|
|65|90|67|68|89|勇将・血路・護衛|S|C|A|A|C|A|1565|1587|長宗我部元親|冷静|維持・長|5/5|2/5|
【チョウソカベノブチカ】
戦国時代の武将。四国土佐の国人。本姓は「秦」。長宗我部元親の嫡男。
幼少期から才を発揮し、父や領民に敬愛されて育つ。その資質には織田信長も一目置いたと
言われ、信長を烏帽子親として「信」の字を与えられた。その後は父に従い
四国平定戦に参加するが、四国征伐で敗れ土佐一国となる。その後、秀吉の
九州征伐に参陣し、豊後戸次川にて島津家久と戦い敗北。勇戦して戦死した。
*宇喜多家(浮田家)
[[宇喜多家の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%B0%8F]]
**宇喜多直家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|87|70|95|72|89|深謀・百出・連環|A|B|S|A|B|B|1529|1581|冷静|維持・長|2/5|4/5|
【ウキタナオイエ】
戦国時代の武将。備前の大名。没落した宇喜多家を下克上で大名とした。
はじめ浦上宗景に仕え、明善寺合戦で寡兵ながら三村氏を破って勢力を伸ばした。
のち主君である宗景にも反旗を翻し、一度目は味方とした赤松氏が黒田孝高に敗れたため失敗するも、
二度目は毛利氏の力を借りて主家を追放し、毛利氏の後ろ盾を得て勢力を伸ばす。織田信長の勢力が
伸びてくると、当初は毛利氏と提携して織田軍の羽柴秀吉らに対抗するが、やがて毛利氏を見限り
織田氏へとついた。以降織田氏の中国征伐先鋒として活躍するも、1581年死去。その死は秘匿され、1582年に死去とされた。
補足:毛利氏の後ろ盾を得た時、吉川元春からは警戒された。しかし山陽方面の小早川隆景の後押しで事なきを得た。
※その他候補となった特技:強運・沈着・明鏡
**宇喜多忠家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|79|72|81|65|76|補佐・百出・鬼謀|A|B|A|A|C|B|?|1609|冷静|維持・長|3/5|3/5|
【ウキタタダイエ】
戦国時代の武将。宇喜多直家の弟。直家・秀家2代を支えた。
兄で当主の直家の出世を助け、明善寺合戦でも一翼を担った。毛利氏とともに織田氏と戦った際は
兄の代役で総大将となり、織田氏に味方した尼子氏を滅ぼすことに貢献する。宇喜多直家が毛利氏を見限った後は
山陽方面で小早川隆景と戦い、しばしばこの侵略を撃退した。直家が1581年に没すると、若干10歳の秀家を補佐、
備中高松城攻めでも軍を率いて秀吉のもとへ駆けつけた。その後も若年の秀家を補佐し続け、唐入りにも帯同するが
このあたりから大坂で隠居し、家督を息子に譲った。宇喜多騒動や関ヶ原合戦には関与せず、隠居先の大坂で死去した。
※その他候補となった特技:規律・名声
**宇喜多秀家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|71|75|67|34|78|鉄壁・昂揚・遁走|B|B|S|B|C|B|1572|1655|豊臣秀吉・豊臣秀頼・石田三成|宇喜多詮家・小早川秀秋・徳川家康|猪突|維持・長|4/5|1/5|
【ウキタヒデイエ】
戦国時代の武将。備前の大名、宇喜多直家の嫡男。宇喜多直家の死後わずか10歳で家督を継承した。織田信長から家督継承を認められたが、
実権は叔父忠家が持つ。本能寺の変後は変わらず秀吉に味方し、中国地方の毛利氏を監視する役目を担った。元服後、当時
実子のいなかった秀吉の養子となり、「羽柴秀家」と名乗る。以後紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐と
秀吉の天下統一事業における主要な合戦に全て参加、1592年からの唐入りでは事実上の司令官として朝鮮で奮闘、
碧蹄館の戦いでは小早川隆景、立花宗茂らとともに明・朝鮮連合軍を破った。豊臣政権で五大老に任命され、秀吉から
秀頼の補佐を任されている。秀吉の死後、宇喜多騒動を起こし戦力の大半を喪失、直後の豊臣家臣団対立では石田三成を支持、
徳川家康が上杉景勝の征伐に向かうと、石田三成や毛利輝元を担ぎ上げ、関ヶ原の合戦を起こし、主力軍として奮闘した。
しかし、小早川秀秋らの裏切りによって敗れ、のち捕縛された。八丈島へ配流され、以後50年近く隠棲したのち死去。
※その他候補となった特技:射手・猛者
*【九州地方】
*大友家
[[大友家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F]]
**大友宗麟
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|65|57|94|83|91|連環・発明・深謀|C|C|A|C|S|A|1530|1587|冷静|維持・長|1/5|5/5|
【オオトモソウリン】
戦国時代の大名。大友家当主。大友義鑑の嫡男。
二階崩れの変によって大友家の当主を相続し、大内義隆が死去した大寧寺の変を受け、弟を大内家新当主に送り込むなど
暗躍。一方で菊池氏・秋月氏を滅ぼし傘下に加えるなど勢力を拡大し続けた。大内家が毛利家によって滅ぼされると
毛利元就の侵攻をうけるが、これを巧みに迎撃。足利家の庇護や、旧大内家臣らを利用した謀略の末、毛利元就の侵攻軍を撤退させる。
毛利元就は再び侵攻してくるが、これも撃退。旧大内領における北九州の優位権を確保した。晩年は龍造寺氏、島津氏の侵攻に苦慮し、
時の権力者であった織田信長、豊臣秀吉の威光を背景に勢力を保った。秀吉の九州征伐中に発病し、島津氏の降伏前に死去。
※その他候補となった特技:論客・妙計
**大友義統
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|34|21|15|46|24|遁走・名声・強行|C|C|C|C|C|C|1558|1610|小心|維持・長|3/5|4/5|
【オオトモヨシムネ】
戦国時代の大名。大友家当主。大友義鎮(宗麟)の嫡男。
隠居した父が実権を握る形で家督を相続、その2年後の1578年に耳川の戦いで島津氏に大敗してしまい家中の内紛の原因を作る。
島津氏の大友家に対する攻撃が本格的になると家臣が相次いで離反、家臣の必死の防戦をよそに自らは居城のある府内を退去してしまう。
豊臣秀吉の九州征伐で事なきを得、領土を安堵され37万石の大名となる。秀吉に謁見したときは大いに気に入られ「吉」の諱を与えられ吉統と名乗る。
文禄の役に参戦、しかし平壌城で囲まれた小西行長の救援に向かうも偽報を信じ撤退するという大失態を犯し、改易されてしまう。
関ヶ原の戦いが起こると旧領回復を望み西軍として参戦。旧臣と共に豊後を席巻するが石垣原で黒田孝高らに敗北。常陸国に流され1610年に病没した。
なお流刑地で「大友家文書録」を記したが、これは大友家を知るうえで現在大変貴重な資料となっている。
**戸次道雪
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|83|96|82|87|90|威風・昂揚・乱戦|S|S|A|A|C|B|1513|1585|冷静|維持・長|5/5|1/5|
【ベッキドウセツ】
戦国時代の武将。大友家臣。のち立花の名跡を継ぐ。父は戸次親家。
大友義鑑、大友宗麟の2代に仕えた。1526年に初陣、元服を果たし、菊池氏、秋月氏との戦いで活躍。
1550年の二階崩れの変の際は、大友義鎮(宗麟)を支持し、義鎮の家督相続に貢献。1554年には
菊池氏を滅ぼす大功を立てた。同時期から毛利元就の北九州侵攻が始まっているが、これに追従し
毛利元就や小早川隆景を撃退している。1562年に出家し、なおも毛利氏との戦いに従事した。
1567年にも毛利氏との戦闘があり、毛利氏との戦いに呼応した秋月氏との戦いでは大被害を出したが、
多々良浜で毛利軍と戦った際には奮戦し、敵を寄せ付けなかったと言われる。以後龍造寺氏、島津氏、秋月氏ら
との戦いで活躍するが、宗麟との確執や老齢から徐々に前線に立つ機会が減り、1585年に陣没。
立花の名跡を継承していたが、男子なく、同じく重臣であった高橋紹運の子であった宗茂を婿養子とした。
刀で雷を切って命を守ったとする逸話がある。
※その他候補となった特技:強運・闘神
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**志賀親次
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|85|79|56|33|61|鉄壁・金剛・乱戦|A|S|A|B|C|C|1566|?|冷静|維持・長|5/5|1/5|
【シガチカツグ】
戦国時代の武将。大友家臣。父は志賀親度。母は大友宗麟の娘。「天正の楠木」と称される。
戸次道雪、高橋紹運の黒木家永攻めに追従し軍功を立て、大友義統からも賞賛された。
19歳の若さで家督を相続し、大友義統に重用されるが、島津氏との戦いで父の親度が離反。周りの国人衆も追従したが
親次は大友家への忠誠を崩さず、島津義弘の大軍に徹底抗戦して居城を守りぬいた。
その後、豊臣秀吉、豊臣秀長の九州征伐軍が到着すると、反対勢力を駆逐して父を自刃させ、秀吉からも賞賛された。
九州征伐後は祖父の親守に支えられながら大友家の重鎮として主君義統を補佐。だが唐入りの前哨となった朝鮮出兵の際、
慎重論を展開して義統に撤退を進言し、大友家の改易を招く。その後は豊臣秀吉、細川忠興らに仕えた。
**立花宗茂
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|81|92|85|65|89|洞察・長駆・乱戦|C|B|S|A|S|B|1569|1642|冷静|維持・長|5/5|2/5|
【タチバナムネシゲ】
戦国~江戸初期の武将。柳川藩主。
大友家の武将・高橋紹運の嫡子だが立花道雪の願いで立花家に入り婿した。
豊薩合戦では島津家5万の大軍を僅か兵1500で撃退。西部戦線の先鋒として寡兵で多くの城を陥落させ、
実父の敵である島津忠長を正面決戦で破る武功を得た。この功績から豊臣秀吉に柳川13万石の大名に取り立てられる。
小田原征伐では秀吉から「剛勇鎮西一」の称賛を受け、朝鮮出兵にも従軍。碧蹄館の戦いで日本軍勝利の立役者になるなど、
縦横無尽に活躍して諸侯から武勇を絶賛された。
関ヶ原の戦いで西軍に所属したため立花家は改易されたが、
彼が豊臣に附く事を恐れた徳川家康により破格の待遇で家臣に取り立てられる。
大坂夏の陣で2代将軍・徳川秀忠の軍師参謀を務め、以後も重用される。
1620年には幕府から柳川藩主に任じられ、西軍に所属した大名の中で唯一旧領への復帰を果たした。
西軍に所属しながら旧領に戻れた武将は立花宗茂ただ一人である。
復帰後も江戸で将軍・秀忠、家光を支え、70歳の時に島原の乱が勃発すると参戦して、
若き日を想わせる将器を存分に発揮した。
塹壕や早合などの戦術を用いた革新的な武将。自ら剣術流派を興す程の武人であると同時に、
茶道や香道、蹴鞠などにも長けた文武両道の名将であった。
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**山田宗昌
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|76|81|72|35|71|不屈・弓将・金剛|B|A|S|C|C|C|1544|1620|剛胆|維持・長|5/5|1/5|
【ヤマダムネマサ】
戦国~江戸初期の武将。山田宗継の子。
伊東義祐に仕え、組み合いの末に敵将を討ち取るなど家中屈指の武将として名を馳せる。
伊東氏の滅亡後は佐伯惟定に仕え、彼の参謀として島津氏の手から栂牟礼城を守り抜く。
秀吉の九州平定の際、豊臣秀長率いる征討軍の先導役を務めた。
義祐の子である伊東祐兵が同年に旧領に復帰すると祐兵に仕え酒谷城主となった。
晩年は匡得と号し、1620年死没。四半的弓道の創始者とも伝わる。
*島津家
[[島津家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F]]
**島津義久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|82|57|88|89|90|眼力・風水・論客|C|C|B|C|C|B|1533|1611|剛胆|維持・長|3/5|3/5|
【シマヅヨシヒサ】
戦国~江戸時代初期の武将。島津貴久の長男。
「三州の総大将たるの材徳自ら備わり」と祖父の忠良に評され、大いに期待されていた。
1554年に初陣を果たし、1566年父の隠居により家督を相続。1570年に薩摩統一を果たす。
前後して日向の伊東氏と対立するが、弟の義弘を派遣し伊東勢を散々に打ち破り、日向も制圧した。
のち大友氏との対立が決定的となると、自らも出陣して大軍を率い、耳川にて大友軍に大勝し南九州に覇を唱えた。
一時期織田家との外交交渉により織田信長に臣従、毛利攻めの援軍要請を受諾するが、本能寺の変で信長が倒れるとうやむやとなり、
北九州で勢力を張りつつある龍造寺氏を撃退すべく弟の家久を派遣し、龍造寺隆信を敗死させ、そのまま龍造寺氏を従属させる。
以後も大友氏との戦いを展開するが、大友氏の要請を受けた豊臣秀吉の九州征伐軍に敗北して降伏、所領を安堵された。
実子がおらず、のち家督を弟の義弘、ついで甥の忠恒に譲るが、以後も権力を持ち続けた。1611年死去。
※その他候補となった特技:仁政・威圧
**島津義弘
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|74|97|79|67|89|飛将・猛者・掎角|A|B|A|S|C|S|1535|1619|剛胆|維持・長or開眼(統率)|5/5|2/5|
【シマヅヨシヒロ】
戦国~江戸時代初期の武将。島津貴久の次男。
当主である父の貴久、兄の義久を補佐し、その剛勇でしばしば敵を圧倒した。伊東、大友との戦いでは
少数ながらも果敢に敵に挑んで破り、島津氏を九州最大勢力へと押し上げた。豊臣秀吉の九州征伐でも果敢に抵抗するが、
数の差は如何ともしがたく降伏。実子のなかった兄の義久の跡を継ぎ、島津家当主になったとも言われる。朝鮮出兵でも
その力を発揮し、敵将を数多討ち取った。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、少数の兵ながら東軍に損害を与えて撤退。
戦後は実子の忠恒に家督を譲り隠居。1619年に病没。
※その他候補となった特技:勇将・威風・闘神・踏破・藤甲
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**島津歳久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|69|75|90|84|88|百出・言毒・反計|B|C|A|B|C|C|1537|1592|島津義久・島津義弘|豊臣秀吉|猪突|維持・長|4/5|4/5|
【シマヅトシヒサ】
戦国時代の武将。島津貴久の三男。「知謀の歳久」と言われる。
「始終の利害を察するの智計並びなく」と祖父忠良に評され、兄義久に近侍して支えた。
兄とともに初陣を果たし、兄の薩摩統一に貢献。その後も対立する伊東氏や大友氏との
戦いに参加したが、以後は内治を主とし、外征に出る兄義弘や弟家久と異なり、薩摩大隅での
活動が中心であった。一方で娘婿の島津忠隣を婿養子として迎え、兄義弘の外征の補佐をさせている。
その後秀吉の九州征伐軍が押し寄せると、家久、義久の降伏後も徹底抗戦を行い、秀吉の駕籠に矢を射掛けた。
秀吉の唐入り計画前哨となった朝鮮出兵にも参陣しなかったため、秀吉の不興を買い、家臣が多く関わった梅北一揆の
責任を取らされて、兄義久の追手を受け自害した。この時既に病にかかっていたと言われている。家督は娘の子、常久が継いだ。
※その他候補となった特技:明鏡・能吏
**島津家久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|95|76|89|62|84|掎角・機略・論客|A|A|S|B|C|B|1547|1587|冷静|維持・長or開眼(武力)|5/5|3/5|
【シマヅイエヒサ】
戦国時代の武将。島津貴久の四男。義久・義弘・歳久とは異母兄弟。子に島津豊久。
当主であった兄を助け、肝付氏との戦いで初陣を飾る。その後、畿内の織田信長と昵懇にすべく
上洛し、織田信長・明智光秀と交渉している。1584年の龍造寺家との戦いでは有馬氏を救援し
龍造寺隆信を討ち取るという大戦果をあげ、島津氏の九州最大勢力への躍進を決定的なものとした
大友家と戦いさらに領土を広げ、戸次川の戦いで援軍として参上した四国連合軍を破っている。
だが豊臣秀吉による九州征伐に伴い軍を撤退。島津の命運をかけた根白坂の戦いでは、
慎重論を唱えるも豊臣秀長軍と激突。だが宮部継潤に阻まれ、小早川隆景、黒田孝高、藤堂高虎の救援軍に敗退した。
のち豊臣秀長と単独講和して島津の和平を促したが、島津家の降伏直後に病死。毒殺説もある。
※その他候補となった特技:藤甲・踏破・金剛・鉄壁
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#comment_num2(size=50,vsize=3,num=10,logpage=みんなの新武将/倭・日本(中世)/戦国時代(西日本)/コメント)
#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
上杉謙信の名馬「放生月毛」、武田信玄の名馬「黒雲」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
&color(red){武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。}アイテム効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/16.html]]。能力効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html]]
こちらで能力値を確認できる戦国武将もいます。ここに載っていない戦国武将について調べる時にもどうぞ
[[三国志12・信長転生>http://goo.gl/cK0bO2]] [[信長の野望シリーズ>http://p.tl/eLYR]] [[太閤立志伝シリーズ>http://p.tl/71Wz]]
*倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
応仁の乱を契機とした内乱は、日本全国に広がり、世に言う「戦国時代」の始まりとなった。
畿内では応仁の乱の結末が尾を引き、[[足利義材>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_958847c9]]と[[足利義澄>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_bae21033]]の両足利将軍が対立、
これに天下の政局を牛耳りながらも永正の錯乱で暗殺された[[細川政元>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_f002c2ab]]の後釜を巡る両細川の乱が発生した。
畿内・地方の諸侯も巻き込まれ、[[朝倉宗滴>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_597dca0b]]ら朝倉家、後に畿内の実力者となる[[三好長慶>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_ec9a682a]]を輩出した三好家、中国の[[大内義興>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_9f8431eb]]ら大内家も参戦。
中国では尼子経久をはじめ尼子氏が台頭、そして後にその両家を滅ぼした毛利家が躍動、[[毛利元就>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_ad0151fc]]が神算鬼謀で一国人にすぎない毛利家を押し上げた。
九州では大内が衰退したのち、大友島津龍造寺らによる三勢力のみつどもえが続き、やがて[[島津義弘>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_720491db]]ら島津家が九州で覇権を握った。
四国では三好家や一条家を押し上げて長宗我部家が勢いを増し、四国全土をわがものとしていた。
そして1568年には15代将軍である[[足利義昭>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2736.html#id_ef667fbc]]が上洛。彼の陣営には、後に天下人となる[[織田信長>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html#id_610ff904]]、[[豊臣秀吉>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html#id_32821d77]]、[[徳川家康>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html#id_99520553]]の姿があった。
[[古代>みんなの新武将/倭・日本]]→[[中世>みんなの新武将/倭・日本(中世)]]→[[近世>みんなの新武将/倭・日本(近世)]]→[[近代>みんなの新武将/倭・日本(近代)]]
[[南北朝時代(日本)>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2779.html]][[戦国時代(東日本)>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2731.html]]戦国時代(西日本)[[江戸時代>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2719.html]][[戦後>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2767.html]]
*織田家・豊臣家・徳川家
[[織田家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F]] [[豊臣家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F]] [[徳川家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F]]
[[近世>みんなの新武将/倭・日本(近世)]]
*【東日本の戦国時代の人物】
[[戦国(東日本)>みんなの新武将/倭・日本(中世)/戦国時代(日本)]]
*【近畿地方】
*朝廷
[[朝廷の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%BB%B7]]
**方仁親王
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|3|5|82|86|99|仁政・祈願・楽奏|C|C|C|C|C|C|1517|1593|冷静|維持・長|3/5|5/5|
【ミチヒトシンノウ】
戦国時代の皇族、天皇。正親町天皇とも言われる。
後奈良天皇の崩御の後、毛利元就の支援を受けて即位。今川義元や織田信長など
戦国大名と積極的に交流を持ち、信長上洛後は彼と擁立する足利義昭を後押しした。
織田信長が本能寺で倒れると台頭してきた羽柴秀吉に接近し、彼に豊臣氏と関白職を授けている。
晩年は孫の和仁親王に譲位し隠棲した。織田信長、豊臣秀吉との関係や交流の程度については、多くの説がある。
**誠仁親王
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|
|2|6|68|71|75|論客・富豪・遁走|C|C|C|C|C|C|1552|1586|織田信長・織田信忠|冷静|維持・長|5/5|2/5|
【サネヒトシンノウ】
戦国時代の皇族。正親町天皇の第五皇子。子にのちの後陽成天皇、秀吉の猶子となった智仁親王がいる。
足利義昭の上洛に伴った織田信長の援助を受けて元服し、織田信長と昵懇な関係を築く。
父の高齢化に伴い、天皇としての事実上の業務を徐々に移行され、晩年は「今上皇帝」と呼ばれるまでになっていた。
本能寺の変の際には二条御所におり、織田信忠の勧めに従い禁裏へ脱出。織田信忠と明智光秀の交渉の結果無事に脱出することに成功する。
その後は天下統一の道をひた走る豊臣秀吉に接近するが、1586年に天皇に譲位されることなく病没。
本能寺の変の朝廷黒幕説には、彼が信長と親しい関係であったことを実父の正親町天皇が警戒したため、という説がもとになっている。
**周仁親王
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|5|7|80|69|84|規律・論客・詩想|C|C|C|C|C|C|1571|1617|猪熊教利|冷静|維持・長|4/5|4/5|
【カタヒトシンノウ】
戦国時代の皇族。誠仁親王の第一皇子。のちの後陽成天皇。
父の誠仁親王の早逝により、同年の1586年に皇祖父の正親町天皇から譲位される形で即位。
関白、太政大臣に就任して天下人となった豊臣秀吉との協調路線を歩み、豊臣政権と朝廷の関係維持、威信存続に貢献した。
秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、古今伝授に通暁する細川幽斎(藤孝)の才を惜しみ、勅命で和議を斡旋して彼を助けた。
だが、関ヶ原の合戦後に徳川家康が天下を取ると、徐々に協調路線が崩れていき、幕府権力の介入を許す。
猪熊事件の措置が幕府主導で行われたことから譲位を決意し、第三皇子の政仁親王に譲位。のち1617年に崩御。
跡を継いだ政仁親王は、のちに即位して後水尾天皇となるが、幕府権力の介入を食い止められず、娘の明正天皇の即位によって将軍家の外戚化を許す。
**山科言継
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|1|3|75|89|94|眼力・論客・解毒|C|C|C|C|C|C|1507|1579|冷静|維持・短|3/5|1/5|
【ヤマシナトキツグ】
戦国時代の公家。藤原北家四条家の分家と言われる。
後奈良・正親町両天皇に仕え、朝廷財政の再建にあたるべく奔走。
足利将軍家や織田家、今川家、結城家など数多くの大名と交流を持ち、朝廷の支持を取り付けることに成功。
晩年は時の権力者であった織田信長と朝廷の仲を取り持ち、朝廷復権や武家との融和に大きく貢献した。
気さくな人柄で、庶民からも人気があったと言われている。
**近衛前久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|8|45|95|94|59|虚実・鬼謀・言毒|C|C|C|C|C|C|1536|1612|冷静|普通・短|2/5|5/5|
【コノエサキヒサ】
戦国時代の公家。平安時代に権勢を誇った藤原氏の子孫。
藤原氏の氏長者として足利家、上杉家などと昵懇の関係を保つが、
一方で権威拡大のために謀略や外交術を駆使し、足利将軍を弑逆した三好家と関係を結んだり、
敵対する足利義昭と、それを支持する織田信長を追い落とすために本願寺を反信長方針に導くなど
時に戦国大名を仲介し、時に戦国大名を翻弄した。そのため京から離れることも多かった。
本能寺の変後は織田信孝などの追及もあって京を離れ、年齢からこの前後に隠棲した。
本能寺の変を唆したのは彼だと言う説もある。
※その他候補となった特技:論客・遁走
**二条昭実
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|3|9|82|77|72|能吏・規律・威圧|C|C|C|C|C|C|1556|1619|近衛信輔|冷静|維持・長|4/5|1/5|
【ニジョウアキザネ】
戦国時代の公家。平安時代に権勢を誇った藤原氏の子孫。父は二条晴良。織田信長の娘婿にもあたる。
足利義昭の偏諱を賜って1568年に元服。若年でありながら要職を歴任し、28歳で左大臣、29歳で関白となった。
しかし、対立していた近衛信輔から関白職を譲るよう強要され、関白相論を引き起こす。結果的に
信輔の父である前久や朝廷貴族の意向もあり、関白職を辞任。かわって関白となったのが近衛家に猶子となった羽柴秀吉であった。
ただ、二条家自身はあくまで武家と親しい関係にあり、昭実自身も秀吉と昵懇であった。秀吉の死後は
天下を取った徳川家康と昵懇になり、猪熊事件後の江戸幕府による朝廷統制にも貢献。禁中並公家諸法度の制定にも関わった。
若年の頃から晩年にいたるまで朝廷と武家の協調関係に貢献し、1619年に死没した。
**吉田兼見
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|
|1|2|66|74|68|詩想・富豪・祈願|C|C|C|C|C|C|1535|1610|明智光秀|冷静|維持・長|3/5|3/5|
【ヨシダカネミ】
戦国時代の公家、神道家。吉田神道の継承者。先祖に「兼好法師」がいる。
細川幽斎の従兄弟にあたり、1570年に家督と官職を継ぐ。同年勢力を伸ばしつつある織田信長と昵懇の関係を築き、
織田信長の比叡山焼き討ちの相談を受けたと伝わる。信長の推挙により「堂上家」の地位を築いた。
のち、天下を取った豊臣秀吉と昵懇な関係を築いた。彼の自著「兼見卿記」は、戦国時代の貴重な史料のひとつと言われている。
明智光秀と仲が非常によく、そのことが朝廷黒幕説の一因に挙げられている。
*足利家
[[足利家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B0%8F]]
**足利義材
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|53|67|30|44|71|遁走・威圧・怒髪|C|C|C|C|C|C|1466|1523|剛胆|尊大|維持・短|2/5|5/5|
【アシカガヨシキ】
室町幕府10代将軍。実父に応仁の乱で将軍候補となった足利義視がいる。「足利義稙」「足利義尹」とも。
9代将軍であった足利義尚が急死したことにより、8代将軍であった足利義政から請われて将軍職に就任。
しかし、日野富子や細川政元と対立を起こし、明応の政変によって将軍職を解任され幽閉された。
管領であった畠山政長の手引で脱出し、以後畠山・朝倉・そして大内の支持を受け続け、
永正の錯乱で細川政元が暗殺されると将軍職復帰を目指して上洛。
大内義興や細川高国の支持を受け、11代将軍となっていた足利義澄を追い落とした。
だが、尼子経久の台頭による大内義興の帰国と、両細川に対する姿勢から細川高国との対立を生み、
最後は細川高国によって追放され、失意のまま阿波で死去。跡目は足利義維が継ぎ、阿波公方となった。
**足利義澄
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|7|6|48|66|79|遁走・名声・能吏|C|C|C|C|C|C|1481|1511|小心|尊大|維持・短|3/5|5/5|
【アシカガヨシズミ】
室町幕府11代将軍。実父は8代将軍である足利義政の異母兄で堀越公方だった足利政知。実兄に伊勢盛時と対立した足利茶々丸がいる。
堀越公方の次男として生まれていたが、後継候補とはなれず、出家して清晃と名乗り、在京していた。
その後、10代将軍であった足利義材が日野富子・細川政元と対立すると、2人によって11代将軍に擁立された。
しかし、富子の死後は細川政元と対立。その政元も永正の錯乱で殺害されると、細川氏同士の内乱に巻き込まれ、
大内義興の大軍を前に近江国へ逃走。以後何度も再起をはかり、足利義稙暗殺まで目論むも全て失敗。
将軍復帰を成就させようとした1511年に早逝。このわずか9日後に船岡山合戦が発生する。跡目はのちの12代将軍である足利義晴が継いだ。
**足利義維
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|28|12|69|76|65|遁走・能吏・名声|C|C|C|C|C|C|1509|1573|小心|尊大|早熟・短|2/5|4/5|
【アシカガヨシツナ】
11代将軍足利義澄の次男とも、庶長子とも言われる。兄弟に12代将軍足利義晴、子に14代将軍足利義栄がいる。
阿波国守護であった細川氏のもとで育ち、三好氏・細川氏が権力を握って足利将軍を追い落とすと、
彼らの元で将軍候補に擁立され、実権を握った。以降、息子の足利義栄を将軍職に定めつつ、
三好氏の庇護を受けて足利将軍とたびたび対立した。一時期大内氏の庇護をうけるが、再び三好家の庇護を受けるようになり、
15代将軍になるべく足利義昭が上洛してきたときは、三好家を援助して、義昭と彼に協力する織田信長と対立した。
しかし、子の足利義栄が死ぬと勢力を衰退させ、1573年阿波で死去した。
**足利義輝
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|37|80|68|59|90|不屈・名声・威圧|A|C|C|C|C|C|1536|1565|猪突|剛胆|早熟・長|2/5|5/5|
【アシカガヨシテル】
室町幕府13代将軍。実弟に足利義昭。実父に足利義晴。
管領であった細川晴元との対立を行っていた父に従い、京と近江を行き来して抗戦。
11歳で将軍に就任し、細川家との和睦によって京に帰還したが、細川家臣の三好長慶が離反するとこれに抵抗。
六角、畠山らの支援を受け、三好長慶の軍と何度も戦い続けたと言われている。武田、上杉、今川ら諸大名との
交渉も続け、将軍親政を目指す一方、強大な権力を持つ三好長慶を疎んじ、水面下で彼の勢力を削ぐ反抗勢力を支援したが、
三好長慶の没後、跡を継いだ三好義継らによって弑逆された。死の間際、自ら剣を奮い奮戦したと言われる。
**足利義昭
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|40|17|90|67|88|遁走・名声・論客|C|C|C|C|C|C|1537|1597|小心|尊大|維持・短|2/5|5/5|
【アシカガヨシアキ】
室町幕府15代将軍。実兄に足利義輝、実父に足利義晴。
兄の足利義輝が将軍職を継承する予定であったため、僧籍に入り覚慶と名乗った。
永禄の変で兄達が殺害されたことを受けて還俗。六角家、朝倉家、織田家などを頼り、織田信長の上洛で15代将軍に就任した。
初めは信長に協力的であったが、徐々に対立。既に反信長連合を組んでいた浅井朝倉や、兄を殺した三好家、そして武田信玄らの協力を仰ぎ、
信長に対抗しようとするが失敗。槇島城を落とされ、京を追放された。その後は毛利輝元の庇護を受け、鞆に本拠地を置いたが勢威は回復することなく、
のちに天下統一事業を継いだ豊臣秀吉と面会して将軍職を辞任。以後は貴人として、豊臣秀吉に遇された。
**野村定常
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|65|81|57|33|74|猛者・精妙・護衛|A|C|B|B|C|C|?|1570|剛胆|剛胆|維持・長|4/5|2/5|
【ノムラサダツネ】
足利家家臣。足利義輝・足利義昭の2代に仕えた。
武者奉行として足利家の軍事行動を支え、足利義輝の死後も足利家に忠誠を尽くした。
本圀寺合戦では襲撃する三好軍の攻撃から足利義昭の身柄を守り、三好軍撃退に功を立て織田信長から激賞された。
のち、和田惟政らとともに足利幕臣として、織田信長と三好家との戦争に従軍するが、
決起した石山本願寺衆の攻撃を受け、戦死した。顕如がその武勇を恐れていたという。
**槇島昭光
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|口調|素質|義理|野望|
|22|9|68|80|56|論客・沈着・祈願|C|C|C|C|C|C|?|?|足利義昭|冷静|丁寧|維持・長|4/5|1/5|
【マキシマアキミツ】
足利家家臣。足利義昭の側近衆。
足利義昭に仕え、1573年の織田信長との抗争の際には義昭を槇島城に迎え入れた。
その後、足利義昭の都落ちにも同道し、鞆幕府における政治の中枢を任されている。
織田信長の死後は畿内で実力をはる豊臣秀吉との融和をすすめ、足利義昭の帰京や豊臣・毛利・島津らの交渉を請け負っている。
足利義昭が亡くなると葬儀を任され、以後は豊臣秀吉、豊臣秀頼に仕えた。
**御牧景重
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|78|63|57|31|60|鉄壁・金剛・不屈|A|A|A|C|B|C|?|1582|剛胆|維持・長|5/5|1/5|
【ミマキカゲシゲ(オマキカゲシゲ)】
戦国時代の武将。足利奉公衆の1人。のち明智光秀家臣。御牧三左衛門とも。
伊勢貞興らとともに足利義昭に仕官していたが、義昭追放後は明智光秀の家臣となる。
松永久秀討伐の際には、片岡城を攻略すると言う軍功を立てた。
本能寺の変の際も明智光秀に加担し、山崎の戦いにも参陣する。
戦局が劣勢になった際に明智光秀に撤退を進言し、自ら殿となって羽柴軍を押しとどめた後、戦死した。
後年、秀吉がその功と忠節を惜しみ、彼の弟を馬廻りに推挙している。
*細川家(管領)
[[細川家(管領)の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F]]
**細川政元
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|68|32|92|69|41|捕縛・詭計・名声|B|C|B|C|C|C|1466|1507|冷静|尊大|早熟・長|3/5|4/5|
【ホソカワマサモト】
室町時代の人物。応仁の乱の主要人物である細川勝元を父に持つ。
10代将軍足利義材と対立し、伊勢貞宗らとともに明応の政変を起こし、彼を将軍職から追い落とした。
後に関東・堀越公方である足利政知の息を迎えて還俗させ、足利義澄として将軍職に就任させ、実権を牛耳った。
以降、廃された足利義材と彼に味方する勢力が反発するが、畠山氏や延暦寺など、敵対する勢力を次々と駆逐した。
女性に興味がなかったのか、生涯女人禁制を貫き、養子を3人も迎え入れたが、やがて養子同士の権力争いに巻き込まれ、
養子の1人である細川澄之派の家臣に暗殺された。
**木沢長政
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|56|24|90|72|57|詭計・百出・言毒|B|B|C|B|C|C|1493|1542|小心|小心|尊大|維持・長|1/5|4/5|
【キザワナガマサ】
室町時代の武将。畠山、のち細川家の家臣。河内守護代。
はじめ畠山義尭に仕えていたが、主家の衰退に伴い細川晴元へ接近。細川高国ら反晴元連合と戦い、
その一角である細川尹賢を攻め滅ぼした。また台頭著しい三好元長を危険視して、三好政長や
一向一揆衆と語らい、これを誅滅した。その後、法華衆や一向衆、畠山家細川家を巧みに操り、
独自の勢力を拡大して畿内の盟主たらんとしたが、三好元長の遺児であった三好長慶につけこまれ、
太平寺の戦いで敗死した。遺領は主に細川氏綱らによって引き継がれたが、三好畠山細川らの
内乱は収まるところを知らず、畿内の安寧は織田信長の到来を待つことになる。
*三好家
[[三好家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%B0%8F]]
**三好長慶
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|93|72|75|94|82|威風・楽奏・弓将|S|C|A|C|C|B|1522|1564|冷静|冷静|丁寧|普通・短|3/5|4/5|
【ミヨシナガヨシ】
三好元長の嫡男。父親が殺害された原因となった細川晴元に面従腹背で仕え
やがて主家を下剋上して主君である晴元を追放、勢力をほぼ簒奪する。
以後は13代将軍足利義輝を操り幕政を事実上掌握。朝廷からも重宝され
室町末期における事実上の天下人として君臨した。しかし反三好連合の反抗による弟達の死や
嫡男の夭折を境に心身を憔悴させ、甥で養子でもある三好義継に家督を譲り、しばらくして病没する。
※その他候補となった特技:怒髪・補佐・詩想・槍将
**三好長逸
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|79|67|78|75|52|昂揚・威圧・名声|B|C|A|B|C|C|?|1573?|松永久秀|冷静|冷静|丁寧|維持・短|3/5|5/5|
【ミヨシナガヤス】
三好家一門。三好三人衆の筆頭。
三好長慶・義継の2代に仕え、長慶存命期からその勢力拡大に貢献。三好一族の長として長慶に重用された。
おもに六角・足利との戦いで功をあげ、長慶の嫡男であった義興より先に従四位の官位を得ている。
長慶死後もその影響力は大きく、当主であった義継を纏めていたが、松永久秀の離反、そして主君である義継の猜疑心から
対立を重ね、嫡男を失い、さらに織田信長による介入を招き敗北。信長に敗れ阿波へと逃れた。その後反信長連合の主軸として
織田信長と戦い続けたが、1573年に摂津中嶋城を落とされ、以後消息を絶つ。
**十河一存
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|81|92|64|68|85|槍神・威風・連戦|S|C|A|A|C|B|1532|1561|三好長慶|松永久秀|剛胆|剛胆|豪放|維持・長|5/5|1/5|
【ソゴウカズマサ】
三好家一門。三好元長の四男。三好長慶の弟。「鬼十河」「夜叉十河」と呼ばれた。
讃岐十河氏の家督を継ぎ、三好家の軍事の中枢として数々の合戦で活躍。
父の仇敵にあたる三好政長討伐では先陣を務め、細川家崩壊に大きな功績を残す。
その後は和泉、阿波、京などを転々として三好家を政軍両面で支え、畠山細川を追い落とし三好政権の重鎮となった。
1560年岸和田城主となるが、その翌年急死。病死と言われるが、松永久秀による暗殺説も根強い。
軍事の中枢を担った彼の早逝は、畠山細川の息を吹き替えさせ、三好家衰退の遠因となった。
**篠原長房
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|75|64|86|90|62|威圧・補佐・強行|A|C|A|C|B|A|?|1573|剛胆|剛胆|丁寧|維持・長|4/5|2/5|
【シノハラナガフサ】
三好家の重臣。三好実休のち三好長慶、義継の家臣。
三好実休の重臣としてその軍事活動の中枢を担い、各地を転戦。
久米田の合戦では先陣を任され活躍するが、本陣を急襲され実休戦死を招いて敗走。同時期に出家した。
以後は三好長慶の直臣として実休の子である長治を補佐。教興寺の戦いでは長慶指揮下で軍功をあげた。
長慶の死後は次期当主となった義継に仕え、筆頭重臣として分国法「新加制式」を定める。
信長包囲網の際には反信長連合の主軸として軍を率い、畿内の勢力と戦って戦果を上げるが、内紛によって1573年に自害。
**松永久秀
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|60|48|89|84|76|火攻・深謀・機略|B|B|A|C|B|C|1510?|1577|三好長慶|三好長逸・十河一存|冷静|冷静|尊大|維持・長|1/5|5/5|
【マツナガヒサヒデ】
三好家家臣。弟に松永長頼がいる。三好長慶の娘婿。はじめ三好長慶に右筆として仕え、三好長慶・三好義継の2代に重用された。
長慶存命期から強大な権力と信任を有しており、嫡男であった三好義興や一門筆頭の三好長逸に次ぐものであったと言われている。
主に大和に勢力を伸ばしており、事実上大和国主のような存在であった。長慶に従い各地の合戦に参加して功を立てていたが、
長慶死後は三好家中枢を占める三好三人衆と対立。当初は劣勢に立たされていたが、主君にあたる三好義継の亡命や、畠山氏ら畿内勢力との共闘、
そして、上洛を目指す織田信長との協調によって勢力を挽回した。以後は信長の勢力を盾に大和でも勢力を伸ばすが、1572年に足利義昭や三好義継と結んで信長から離反した。
しかし、武田信玄の死や、大和で対立してきた筒井順慶に大敗北を喫したことから徐々に衰退。足利三好の脱落もあって一度は信長に降伏した。
しかし1577年に再び信長に反旗を翻し、本願寺や毛利、上杉と協調。しかし多勢に無勢であり、織田信長との協調を進めていた筒井順慶を先鋒とした
織田の大軍を支えることができず、居城の天守で自害した。その生き様は戦国屈指の梟雄と言われ、多くの逸話を残した。
**荒木村重
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|78|71|85|63|65|遁走・機略・乱戦|A|B|A|A|C|B|1535|1586|剛胆|剛胆|豪放|維持・短|2/5|5/5|
【アラキムラシゲ】
戦国時代の武将。もとは三好家盟友であった摂津池田家の家臣。
はじめ池田勝正に仕えその重鎮となったが、三好三人衆の勧誘を受け三好家に仕え
池田家の実権を掌握する。その後、織田信長との戦いでは反信長連合を担うも
戦局悪化に伴い信長方に寝返る。織田信長に従い軍功を立てていたが、1578年に
突如謀叛を起こして信長と断交。毛利や本願寺に味方して信長と戦うが敗北。
居城から一人逃亡して毛利氏の庇護を受けた。晩年、大坂に帰り秀吉家臣と対立するが
「道糞」と改名して事なきを得ている。
*本願寺家+雑賀衆
[[寺社勢力の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E5%8B%A2%E5%8A%9B]]
[[本願寺の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA]]
[[雑賀衆の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E8%B3%80%E8%A1%86]]
**大谷顕如
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|83|27|90|94|95|鬼門・仁政・名声|C|A|A|C|C|B|1543|1592|冷静|威厳|維持・短|4/5|3/5|
【オオタニケンニョ】
戦国時代の僧。本願寺第十一世で証如の子。本願寺光佐、顕如とも。
父の跡を継いで本願寺勢力の拡大をめざし、特に畿内の中央朝廷との関係を密にした。
織田信長とは一時期良好な関係を築くも、元亀元年から敵対路線を歩み織田家と和議敵対を
繰り返しつつ戦い続けた。しかし共闘勢力の伊勢長島衆や越前衆の潰滅から徐々に不利となり、
救援勢力であった毛利家や雑賀衆も織田家に劣勢、あるいは和議を結んだことから、
正親町天皇の詔勅によって事実上の臣従と言える和議を結び、石山本願寺を退去して紀伊鷺森へと向かった。
その後は織田家、ひいては豊臣家に臣従し良好な関係を築いていたが、最終的に豊臣政権の
中央集権化に取り込まれる形となり、顕如はその前後で示寂。その後本願寺は東西に分裂するに至った。
※その他候補となった特技:虚実・富豪・論客
**下間頼廉
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|86|70|85|78|80|名声・論客・補佐|A|C|A|C|B|B|1537|1626|冷静|威厳|維持・長|4/5|1/5|
【シモヅマライレン】
戦国時代の坊官。石山本願寺に仕え、顕如を支えた。下間頼康の子。
本願寺の法主であった顕如を支え、石山本願寺勢力の重鎮を担った。「大坂之左右之大将」とも言われ、
石山本願寺の重鎮として、各地の大名との外交や、他の一向衆勢力との連絡も取り合っている。
勅命による和睦の際には本願寺側として立ちあい、顕如の鷺森下向にも同道している。
その後は顕如派と教如派で割れる石山本願寺勢力の仲介や、本願寺町奉行として貢献。
豊臣秀吉の覇権確立後も中立を貫き、その後は顕如によって新たに法主候補に指名された准如を補佐し続けた。
**鈴木孫一
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|80|88|74|56|87|弓神・急襲・明鏡|A|C|S|B|S|A|1556?|?|冷静|威厳|維持・長|4/5|1/5|
【スズキマゴイチ】
戦国時代の武将。紀伊国にある鉄砲、地侍集団、雑賀衆の頭目の一人と伝わる。「雑賀孫市」とも。
織田、本願寺双方にその軍事的才能を高く評価され、はじめ本願寺につき石山戦争に従事。
法主顕如からも格別の信頼を持って迎えられ、織田軍を苦しめた。同じく本願寺の坊官である下間頼廉とともに
「大坂之左右之大将」とまで称された。石山戦争の終結後は顕如を鷺森へ迎え入れ、織田信長とも接近。
一方で雑賀衆の土橋氏と対立し、これを暗殺して雑賀衆の一本化をはかっている。本能寺の変後は先述の理由もあって
敵対する土橋氏の攻撃を避けるべく雑賀の地を出て織田領に逃亡。当時岸和田城主であった織田信張の庇護を受けた。
その後は羽柴秀吉に従い、小牧・長久手の戦いや紀州征伐にも参戦。以後の動行は不明であるが、関ヶ原合戦後に水戸徳川家に仕えたという説もある。
※その他候補となった特技:射手
*浅井家
[[浅井家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E6%B0%8F]]
**浅井長政
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|72|90|71|56|85|疾走・急襲・不屈|A|C|B|S|C|C|1545|1573|織田お市|冷静|冷静|丁寧|維持・長or開眼(統率・知力など)|3/5or5/5|5/5|
【アザイナガマサ(アサイナガマサ)】
戦国時代の武将。近江浅井家当主。浅井久政の嫡男。
若年ながら家督を相続し、野良田の戦いの勝利をはじめ、近江六角氏との戦いを有利に進めた。
のち、足利義昭を奉ずる織田信長の軍に協力、この時に織田お市を正室に迎え入れ、足利義昭を護衛し上洛を成功させている。
しかし、織田信長が権力を持ち始めるとこれに反発。朝倉・三好ら各地の勢力とともに反信長連合の一角を成した。
姉川の戦いや志賀の陣をはじめ、数に勝る織田軍に対して善戦を続けるも、戦力差は如何ともしがたく、
1573年織田軍の羽柴秀吉に攻められ、家族を逃したのち自害した。
※その他候補となった特技:沈着・騎将・乱戦
**海北善右衛門
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|71|59|77|48|63|明鏡・不屈・鉄壁|A|A|B|A|C|C|?|1573?|冷静|冷静|剛胆|維持・長|5/5|2/5|
【カイホウゼンエモン】
戦国時代の武将。浅井家重臣。「海北綱親」とも言われる。
浅井亮政、久政、長政の3代に仕え、主に軍奉行を任された。主に近江国内の合戦に参加し、
多賀氏、六角氏、織田氏らとの戦いで武功をあげている。1573年に織田信長によって
浅井長政が自刃に追い込まれた際、自らも戦死。後年、一族の海北友松が秀吉に召し出された時
「我が兵法の師」と秀吉から発言したと伝わっている。
補足:斎藤道三の例に漏れず、最近では「海北善右衛門」と名乗る親子の2代説が主流。例示能力値は親子1代説で設定。
*朝倉家
[[朝倉家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F]]
**朝倉孝景
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|55|43|82|91|84|富豪・名声・米道|B|C|B|C|C|C|1493|1548|冷静|冷静|丁寧|維持・長|4/5|1/5|
【アサクラタカカゲ】
戦国時代の武将。朝倉家10代当主。
父の死後家督を相続し、室町幕府の将軍足利義稙と昵懇な関係を築く。
その後一門の朝倉宗滴を軍奉行に任命し、幕府の要請に応じて丹波、若狭、美濃へ出兵させ
朝倉の影響力と勢力を高めた。両細川の乱の際には細川高国を支持して将軍家、管領家と並ぶ重鎮として
京を事実上支配した。一方で富国強兵にも励み、幕府や朝倉家の繁栄の礎となった。
将軍家管領家の失墜後は独自路線を歩み、朝倉家最盛期を演出した。
**朝倉義景
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|46|25|67|63|48|名声・詩想・楽奏|C|C|C|C|C|C|1533|1573|小心|冷静|丁寧|維持・長|2/5|1/5|
【アサクラヨシカゲ】
戦国時代の武将。越前近江を領する朝倉家の11代当主。
1548年に父が死没し家督を継いだが、実権は朝倉宗滴が握っていた。1555年に宗滴が死没してからは
当主として権勢をふるい、若狭武田氏や加賀一向一揆と交戦して勢力を拡大した。
当初は足利義昭を庇護していたが、あくまで上洛は目指さず、自らは若狭武田氏を支配下に入れた。
しかし足利義昭を庇護した織田信長が上洛命令を出すとこれを拒否。翻意ありとして織田信長による若狭征伐を引き起こし、
若狭を事実上失陥する。だが浅井長政の助力により本国越前は無事であった。以後は浅井長政と協力して織田信長と戦うが、
数に勝る織田軍に対して疲弊劣勢となり、最後は刀根坂の戦いで信長率いる馬廻衆に惨敗を喫した。越前に逃亡するが、朝倉景鏡の寝返りにより自刃。
**朝倉宗滴
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|87|69|89|85|82|待伏・火攻・虚実|A|A|S|A|C|C|1477|1555|剛胆|剛胆|丁寧|維持・長|5/5|3/5|
【アサクラソウテキ】
戦国時代の武将。朝倉氏一族。甥の子として朝倉義景がいる。
朝倉貞景・孝景・義景の3代に仕え、金ヶ崎城城主として大権を握った。
細川政元と対立し、彼の要請を受けた一向一揆の大軍を撃退。また六角、浅井両家に介入して朝倉家の権威向上に励んだ。
のち、足利義晴と細川高国を支持し、上洛して細川晴元や三好元長の軍を破った。しかし以後は
対立する足利・細川両家同士の戦には介入せず、もっぱら朝倉家の地盤固めに奔走。朝倉氏の最盛期を演出した。
※その他候補となった特技:乱戦・明鏡・百出
**山崎吉家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|81|87|70|62|69|強行・猛者・待伏|S|A|B|A|C|C|?|1573|剛胆|剛胆|豪放|維持・長|4/5|1/5|
【ヤマザキヨシイエ】
戦国時代の武将。朝倉家の重臣。
朝倉宗滴や魚住景固らとともに一向一揆征伐で名をあげる。1567年には同じく重臣であった
堀江景忠の討伐に出陣、成功させるものの景忠を取り逃がした。足利家や斎藤家との交渉も任されつつ、
浅井長政が織田信長に背いた際は浅井長政を救援している。1570年には朝倉軍の中核をなし、
志賀の陣で森可成らを敗死させた。だが、1573年織田軍と対峙中に織田信長の急襲を受け、
殿として奮戦するも戦死。このわずか数日後に朝倉義景が自刃して朝倉氏は滅亡する。
*【中国四国地方】
*大内家
[[大内家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F]]
**大内義興
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|94|86|81|89|84|連戦・強行・詩想|A|C|C|S|C|A|1477|1528|剛胆|剛胆|威厳|維持・長|4/5|2/5|
【オオウチヨシオキ】
室町時代の武将。大内政弘の子供として生まれ、
周防国をはじめ7か国の守護に任命される。中国地方から北九州にまで
またがる大勢力を確保しながら、10代将軍足利義尹を保護し、畿内に上洛して細川澄元らと争う。
自ら管領代となり室町幕府の実権を握っていたが、尼子経久の台頭や細川氏、足利氏との対立もあり
領国に帰還。以後尼子氏との戦いを展開する。毛利元就の帰参もあり戦いを有利に進めるが、まもなく病死。
※その他候補となった特技:駆逐・掃討・精妙・勇将
**大内輝弘
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|37|44|51|45|72|名声・長駆・昂揚|C|C|C|B|C|B|1520|1569|猪突|剛胆|丁寧|維持・短|4/5|4/5|
【オオウチテルヒロ】
戦国時代の武将。大内家最後の当主。大内義興の甥。
実父が本家に謀叛を起こして亡命したため、豊後国で生まれた。その後、
大内義興の母方の孫であった大友宗麟の庇護を受ける。1568年に大友毛利の戦いの際、大友宗麟の提案を受け入れ
密かに周防へ上陸。尼子勝久らとも語らい、反毛利と大内再興を掲げて挙兵した。
旧大内家臣が多く集まり、毛利元就を悩ませたが、毛利方の抵抗も激しく、やがて九州より帰還した吉川元春・小早川隆景らに
敗れ、自害した。大内家の家督は、その後幕命により大友宗麟のものとなったが、輝弘の死によって事実上大内家は滅亡している。
*尼子家
[[尼子家の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F]]
**尼子経久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|73|54|78|77|50|深謀・鬼謀・虚実|A|B|S|B|C|C|1458|1541|冷静|威厳|開眼|2/5|4/5|
【アマゴツネヒサ】
戦国時代の大名。「謀聖」と称され、11ヶ国を支配する尼子氏の全盛期を築いた。
当初は京極氏、ついで大内氏を盟主としたが、面従腹背で幕府からの追討軍派遣など
苦難を乗り越えて独自の勢力圏を築く。その後は山名氏、大内氏、三村氏、赤松氏などと
対立して勢力を伸ばしながら、毛利氏の内乱や支配圏にも介入して毛利元就を従えている。
晩年は孫の晴久に家督を譲って隠居した。尼子氏を中国地方有数の勢力にのし上げたが、
嫡男の戦死や三男の反乱、毛利元就の離反など尼子氏の衰退も始まっており、その途中で死去。
※その他候補となった特技:名声・威圧・心攻・洞察
**山中幸盛
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|70|91|72|51|87|猛者・不屈・遁走|S|B|A|A|C|C|1545|1578|剛胆|丁寧|維持・長|5/5|1/5|
【ヤマナカユキモリ】
戦国時代の武将。尼子氏家臣。尼子晴久、尼子義久に仕え、毛利元就らの侵攻軍相手に抗戦して活躍。
しかし、既に往時の勢いのない尼子氏が滅亡すると、尼子勝久を擁立し尼子再興を掲げて挙兵した。
始め山名氏を頼るも、すんでのところで毛利氏とその同盟者であった織田氏に阻止され、
ついで大友氏を頼り奮戦したが、これもあと一歩のところで阻止された。その後、柴田勝家や
明智光秀を通じて織田信長の傘下となり、織田家の軍事活動に貢献する傍らで尼子氏再興を
推進させ、羽柴秀吉の支援を受けて尼子氏再興に成功した。しかし激化する毛利氏の攻勢や、
別所氏の謀反などで織田家の支援を受けられなり、上月城に籠城するも敗れた。その後、護送中に謀殺された。
※ 天下の義将として名高く、知勇に優れた。その力量を多くの大名に頼られ、また恐れられた。謀殺は存在を危険視した吉川元春、小早川隆景が主導したと言われている。
**亀井茲矩
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|
|67|81|78|86|70|指導・槍将・屯田|A|B|A|B|C|A|1557|1612|山中幸盛|冷静|維持・長|4/5|3/5|
【カメイコレノリ】
戦国時代の武将。琉球守。
尼子氏の家臣の子に生まれ、尼子氏が滅ぼされると流浪の身となる。その後尼子勝久の挙兵に従い、各地を転戦する。
勝久が自刃すると羽柴秀吉の家臣となり、鳥取城攻め等で武功を挙げる。中国大返しの際は鹿野城主として毛利氏を牽制する。
豊臣政権下では1万3500石を領し銀山開発など内政に功を立てる。文禄・慶長の役では船手衆の一員として参戦した。
関ヶ原合戦では東軍に参戦し鳥取城を激戦の末に落城させ、その功で2万4200石の加増を受けた。
領内では新田開発等を行う一方、世界に視野を広げシャムとの貿易を行った。1612年病没。
槍の名手としても知られ、「槍の新十郎」の名で知られた。子孫に政治家の亀井静香がいる。
*毛利家
[[毛利家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F]]
**毛利元就
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|94|62|99|93|96|虚実・百出・指導|B|B|S|C|C|A|1497|1571|冷静|威厳|維持・長|2/5|2/5|
【モウリモトナリ】
戦国時代の大名。日本の戦国七雄の一人に数えられる。
元は安芸を支配する弱小豪族にすぎなかったが、巧みな権謀術数と露骨な外交戦略の限りを尽くし、
大敵を平らげながら一代で中国地方を代表する大大名へとのし上がった。
大内、尼子といった戦国中期を代表する覇者たちに囲まれながらも、生涯戦績は戦国武将の中で
群を抜いて高く、その優れた知略、軍事手腕は後世に「謀神」「戦国最高の知将」の異名で評される。
三本の矢、百万一心の逸話で知られる名君であり、後世に長州藩の開祖として奉られた。
※その他候補となった特技:心攻・洞察・待伏・鬼謀
**毛利隆元
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|71|48|76|87|69|富豪・風水・楽奏|B|C|A|C|C|B|1523|1563|小心|維持・長|5/5|1/5|
【モウリタカモト】
戦国時代の武将。毛利元就の長男。毛利輝元は実子。
大内義隆のもとで元服し、父元就に従い各地の合戦に参加。毛利元就から家督を譲られ、
志道広良の補佐を受けた。大内・尼子との戦いに従軍し、毛利軍の中核を成した。その後は
大友氏との戦いにも従軍している。尼子義久との戦いに赴く途中、和智誠春の饗応を受けた直後に急死。
武将としての器量は父元就をはじめ、苦言を呈されていたが、毛利家の基盤を支えていたようで、彼の死後、毛利家は一時衰退した。
**吉川元春
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|90|91|80|61|85|威風・連戦・急襲|S|B|A|S|C|C|1530|1586|剛胆|維持・長|5/5|1/5|
【キッカワモトハル】
戦国時代の武将。毛利元就の2男。毛利両川として弟の隆景とともに毛利家の中軸を担った。
尼子氏との戦いで初陣し、以後毛利家の主要な戦いに参加しつづけた。
特に、大内・尼子との戦いでは武功を立てて、両家の滅亡に大きく貢献した。
父であった元就がなくなると、甥の輝元を支えたが、織田信長の勢力拡大、羽柴秀吉の中国侵攻、宇喜多直家の離反などに
苦しめられ、善戦するも劣勢は避けられない状況となった。本能寺の変直後に秀吉と和睦し、追撃を主張する武将を押しとどめた。
その後は息子である吉川元長に家督を譲り隠居していたが、九州征伐で出陣。しかし病によって陣没している。
※その他候補となった特技:勇将・乱戦
**小早川隆景
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|80|68|81|92|86|深謀・論客・指導|B|B|A|B|B|A|1533|1597|冷静|維持・長|5/5|1/5|
【コバヤカワタカカゲ】
戦国時代の武将。毛利元就の3男。父と兄の死後、毛利家を支え続けた稀代の傑物。
豊臣秀吉に接近し、五大老の一人に数えられた。
毛利氏の中国制覇に際して、厳島の戦いや大友氏との戦いで活躍し、
毛利家の版図の拡大に功績を残す。秀吉の四国征伐や朝鮮出兵にも参戦し、
特に碧諦館の戦いでは圧倒的な明の大軍を打ち破り、立花宗茂らと共に日本軍勝利の立役者となった。
秀吉の親族である羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子にし、彼に家督を譲った2年後死去。
毛利家の為に全てを捧げた人生であった。
※その他候補となった特技:補佐・精妙
**毛利秀元
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|78|76|65|87|62|指導・不屈・仁政|A|B|A|B|B|B|1579|1650|剛胆|維持・長|5/5|2/5|
【モウリヒデモト】
戦国時代の武将。毛利元就の四男、穂井田元清の嫡男で従兄弟の輝元の養子となる。
1592年に元服。元服して間もなく文禄の役に参戦する。慶長の役では若年ながら病身の輝元に代わり毛利全軍を統率した。
輝元が関ヶ原の戦いにおいて石田三成らの説得を受け西軍の総大将に就任すると、毛利軍の総大将として出陣するが、
吉川広家と家老の福原広俊が敗戦を予想して東軍に内通しておりそれに応じる形で傍観に徹した。この時の状況は「宰相殿の空弁当」の逸話に残る。
西軍の敗戦後毛利家は30万石まで減封されるが輝元から長門国に6万石を与えられ、減封における家中の混乱を収拾する傍ら、幕府との友好関係を深めたり
毛利宗家の知行割り当てや新田開発、請紙制の制定など大改革を行い、財政を好転させ藩政の基礎を固めることに成功した。
輝元の後を継いだ秀就とは対立するが、幕府の仲裁で和解した後隠居し徳川家光の御伽衆を務めた。1650年死没。
**瑶甫恵瓊
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|63|8|87|89|50|論客・妙計・指導|C|C|B|C|C|C|1539?|1600|石田三成・小早川隆景・毛利隆元|吉川広家|冷静|維持・長|4/5|3/5|
【ヨウホエケイ】
戦国時代の僧。安国寺に住持し「安国寺恵瓊」の名でよく知られる。
毛利隆元と親交を持ち、その伝手で毛利家に仕え外交僧として活躍。織田信長の横死を予想し、果たして彼が本能寺の変で斃れると、
当時信長の部将として毛利家と戦っていた羽柴秀吉との和睦に成功。以降秀吉に接近する。
毛利家が秀吉に臣従すると秀吉から重用され、僧侶でありながら大名に抜擢されるという異例の出世を遂げる。
肥後国人一揆では策謀を用いて鎮圧に尽力、朝鮮出兵では小早川隆景の下で現地の統治に勤しむ傍ら、戦闘にも参加した。
秀吉が死ぬと吉川広家と対立、親交のあった石田三成と毛利宗家の当主である輝元を担ぎ上げ関ヶ原の戦いを起こすが失敗し、
三成や小西行長とともに斬首され、梟首となった。
**国司元相
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|60|90|60|68|66|槍神・能吏・指導|S|B|A|C|C|C|1492|1592|剛胆|維持・長|4/5|1/5|
【クニシモトスケ】
戦国時代の武将。元の名は助六。
毛利元就に仕える。隆元の傅役を務め、隆元の元の字を拝借して元相と名乗る。
吉田郡山城の戦いで奮戦し尼子氏を撃破する戦功を挙げ、元就が月山富田城の攻略に失敗した際は負傷しながらも元就を守り抜く。
1550年に井上元兼が粛清され新たに五奉行制が定まると、五奉行の一人となる。
厳島の戦いで奮戦し、松山城を攻めた際には一番乗りの武功を挙げる。
槍の名手としても名高く、足利義輝と面会した際には槍の鈴の免許を与えられている。
嫡子元武に奉行職を譲った後も奉行人として働き、1592年に100歳を超える長寿で死没。
※ 郡山城の戦いでは尼子方の将三十四人を討ち取り、生涯百三十と戦国時代中でも屈指の数の首級を挙げている。高師泰の子孫でもある。
**天野隆重
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|81|74|77|56|63|明鏡・鉄壁・連戦|B|S|A|C|C|C|1503|1584|冷静|維持・長|4/5|2/5|
【アマノタカシゲ】
戦国時代の武将。安芸の有力な国人であり、ある程度の独立性を持った。
初めは大内氏に従属するが、大内義隆が死ぬと妻の縁戚関係のため毛利元就に従属した。
厳島の戦いなど数々の戦いを転戦し活躍、尼子氏の滅亡後は月山富田城の城代となる。
1569年に山中幸盛が尼子勝久を担ぎ上げて尼子氏再興の兵を起こし、月山富田城を6000の兵で包囲した。
この時城には300の兵しか残されていなかったが、城主の毛利元秋と共に一計を案じて偽降伏を用いて先陣の兵2000を打ち破る。
怒った幸盛は2000の兵を率いて富田城に迫り、二度にわたって計略を用いて攻略しようとしたが隆重は全て看破しこれを打ち破った。
**二宮俊実
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|59|80|66|32|65|猛者・運搬・連戦|S|C|B|C|C|C|1522|1603|剛胆|維持・長|4/5|1/5|
【ニノミヤトシザネ】
戦国時代の武将。吉川氏の直臣。
元就が陶隆房の反乱に協力した際に槌山城を攻略した際、これに参加する。
後に元就が隆房に反旗を翻し戦いとなった厳島の戦いでは敗走する陶軍を追撃し、三浦房清を討ち取る功をあげる。
尼子氏の勇将本庄常光との戦いでは決死隊を組織し兵糧運搬を行い、忍原崩れの敗戦による劣勢を覆した毛利軍の謀略に参加し常光を暗殺した。
関ヶ原の戦いの後主家の依頼を受け、現在の毛利氏研究の重要資料である「二宮俊実覚書」を著した。
*長宗我部家
[[長宗我部家の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E6%B0%8F#.E6.AD.B4.E5.8F.B2]]
**長宗我部元親
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|79|85|83|77|88|槍将・徴収・怒髪|S|B|A|A|C|A|1539|1599|長宗我部信親|仙石秀久orなし|冷静|早熟・長|2/5|4/5|
【チョウソカベモトチカ】
戦国時代の武将。四国土佐の国人。本姓は「秦」。若い頃は姫若子と呼ばれたが、初陣を果たすとその武勇を振るった。
土佐の安芸氏、本山氏、一条氏らと戦いこれに勝利して土佐統一を果たす。三好家の衰退に乗じて織田信長と同盟し、阿波、讃岐を制圧する
一方、毛利氏の援助を受ける伊予の河野氏と激戦を繰り広げた。織田信長と対立するが、本能寺の変が
発生すると織田軍の侵略戦争から逃れ、1584年に河野氏を滅ぼし、伊予もほぼ統一して四国平定を成し遂げた。
しかし、羽柴秀吉との対立から四国征伐を招き、羽柴軍の前に連戦連敗を喫したため降伏した。戸次川合戦で
信親が戦死した後は気落ちし、四男の盛親に家督を相続させた。家中が混乱する中1599年に死去。
「土佐の出来人」と称されたが、織田信長からは「鳥無き島の蝙蝠」と呼ばれ、あまり評価はされなかった。
※その他候補となった特技:乱戦・威風
**長宗我部信親
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|
|65|90|67|68|89|勇将・血路・護衛|S|C|A|A|C|A|1565|1587|長宗我部元親|冷静|維持・長|5/5|2/5|
【チョウソカベノブチカ】
戦国時代の武将。四国土佐の国人。本姓は「秦」。長宗我部元親の嫡男。
幼少期から才を発揮し、父や領民に敬愛されて育つ。その資質には織田信長も一目置いたと
言われ、信長を烏帽子親として「信」の字を与えられた。その後は父に従い
四国平定戦に参加するが、四国征伐で敗れ土佐一国となる。その後、秀吉の
九州征伐に参陣し、豊後戸次川にて島津家久と戦い敗北。勇戦して戦死した。
*宇喜多家(浮田家)
[[宇喜多家の解説>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%B0%8F]]
**宇喜多直家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|87|70|95|72|89|深謀・百出・連環|A|B|S|A|B|B|1529|1581|冷静|維持・長|2/5|4/5|
【ウキタナオイエ】
戦国時代の武将。備前の大名。没落した宇喜多家を下克上で大名とした。
はじめ浦上宗景に仕え、明善寺合戦で寡兵ながら三村氏を破って勢力を伸ばした。
のち主君である宗景にも反旗を翻し、一度目は味方とした赤松氏が黒田孝高に敗れたため失敗するも、
二度目は毛利氏の力を借りて主家を追放し、毛利氏の後ろ盾を得て勢力を伸ばす。織田信長の勢力が
伸びてくると、当初は毛利氏と提携して織田軍の羽柴秀吉らに対抗するが、やがて毛利氏を見限り
織田氏へとついた。以降織田氏の中国征伐先鋒として活躍するも、1581年死去。その死は秘匿され、1582年に死去とされた。
補足:毛利氏の後ろ盾を得た時、吉川元春からは警戒された。しかし山陽方面の小早川隆景の後押しで事なきを得た。
※その他候補となった特技:強運・沈着・明鏡
**宇喜多忠家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|79|72|81|65|76|補佐・百出・鬼謀|A|B|A|A|C|B|?|1609|冷静|維持・長|3/5|3/5|
【ウキタタダイエ】
戦国時代の武将。宇喜多直家の弟。直家・秀家2代を支えた。
兄で当主の直家の出世を助け、明善寺合戦でも一翼を担った。毛利氏とともに織田氏と戦った際は
兄の代役で総大将となり、織田氏に味方した尼子氏を滅ぼすことに貢献する。宇喜多直家が毛利氏を見限った後は
山陽方面で小早川隆景と戦い、しばしばこの侵略を撃退した。直家が1581年に没すると、若干10歳の秀家を補佐、
備中高松城攻めでも軍を率いて秀吉のもとへ駆けつけた。その後も若年の秀家を補佐し続け、唐入りにも帯同するが
このあたりから大坂で隠居し、家督を息子に譲った。宇喜多騒動や関ヶ原合戦には関与せず、隠居先の大坂で死去した。
※その他候補となった特技:規律・名声
**宇喜多秀家
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|71|75|67|34|78|鉄壁・昂揚・遁走|B|B|S|B|C|B|1572|1655|豊臣秀吉・豊臣秀頼・石田三成|宇喜多詮家・小早川秀秋・徳川家康|猪突|維持・長|4/5|1/5|
【ウキタヒデイエ】
戦国時代の武将。備前の大名、宇喜多直家の嫡男。宇喜多直家の死後わずか10歳で家督を継承した。織田信長から家督継承を認められたが、
実権は叔父忠家が持つ。本能寺の変後は変わらず秀吉に味方し、中国地方の毛利氏を監視する役目を担った。元服後、当時
実子のいなかった秀吉の養子となり、「羽柴秀家」と名乗る。以後紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐と
秀吉の天下統一事業における主要な合戦に全て参加、1592年からの唐入りでは事実上の司令官として朝鮮で奮闘、
碧蹄館の戦いでは小早川隆景、立花宗茂らとともに明・朝鮮連合軍を破った。豊臣政権で五大老に任命され、秀吉から
秀頼の補佐を任されている。秀吉の死後、宇喜多騒動を起こし戦力の大半を喪失、直後の豊臣家臣団対立では石田三成を支持、
徳川家康が上杉景勝の征伐に向かうと、石田三成や毛利輝元を担ぎ上げ、関ヶ原の合戦を起こし、主力軍として奮闘した。
しかし、小早川秀秋らの裏切りによって敗れ、のち捕縛された。八丈島へ配流され、以後50年近く隠棲したのち死去。
※その他候補となった特技:射手・猛者
*【九州地方】
*大友家
[[大友家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F]]
**大友宗麟
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|65|57|94|83|91|連環・発明・深謀|C|C|A|C|S|A|1530|1587|冷静|維持・長|1/5|5/5|
【オオトモソウリン】
戦国時代の大名。大友家当主。大友義鑑の嫡男。
二階崩れの変によって大友家の当主を相続し、大内義隆が死去した大寧寺の変を受け、弟を大内家新当主に送り込むなど
暗躍。一方で菊池氏・秋月氏を滅ぼし傘下に加えるなど勢力を拡大し続けた。大内家が毛利家によって滅ぼされると
毛利元就の侵攻をうけるが、これを巧みに迎撃。足利家の庇護や、旧大内家臣らを利用した謀略の末、毛利元就の侵攻軍を撤退させる。
毛利元就は再び侵攻してくるが、これも撃退。旧大内領における北九州の優位権を確保した。晩年は龍造寺氏、島津氏の侵攻に苦慮し、
時の権力者であった織田信長、豊臣秀吉の威光を背景に勢力を保った。秀吉の九州征伐中に発病し、島津氏の降伏前に死去。
※その他候補となった特技:論客・妙計
**大友義統
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|34|21|15|46|24|遁走・名声・強行|C|C|C|C|C|C|1558|1610|小心|維持・長|3/5|4/5|
【オオトモヨシムネ】
戦国時代の大名。大友家当主。大友義鎮(宗麟)の嫡男。
隠居した父が実権を握る形で家督を相続、その2年後の1578年に耳川の戦いで島津氏に大敗してしまい家中の内紛の原因を作る。
島津氏の大友家に対する攻撃が本格的になると家臣が相次いで離反、家臣の必死の防戦をよそに自らは居城のある府内を退去してしまう。
豊臣秀吉の九州征伐で事なきを得、領土を安堵され37万石の大名となる。秀吉に謁見したときは大いに気に入られ「吉」の諱を与えられ吉統と名乗る。
文禄の役に参戦、しかし平壌城で囲まれた小西行長の救援に向かうも偽報を信じ撤退するという大失態を犯し、改易されてしまう。
関ヶ原の戦いが起こると旧領回復を望み西軍として参戦。旧臣と共に豊後を席巻するが石垣原で黒田孝高らに敗北。常陸国に流され1610年に病没した。
なお流刑地で「大友家文書録」を記したが、これは大友家を知るうえで現在大変貴重な資料となっている。
**戸次道雪
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|83|96|82|87|90|威風・昂揚・乱戦|S|S|A|A|C|B|1513|1585|冷静|維持・長|5/5|1/5|
【ベッキドウセツ】
戦国時代の武将。大友家臣。のち立花の名跡を継ぐ。父は戸次親家。
大友義鑑、大友宗麟の2代に仕えた。1526年に初陣、元服を果たし、菊池氏、秋月氏との戦いで活躍。
1550年の二階崩れの変の際は、大友義鎮(宗麟)を支持し、義鎮の家督相続に貢献。1554年には
菊池氏を滅ぼす大功を立てた。同時期から毛利元就の北九州侵攻が始まっているが、これに追従し
毛利元就や小早川隆景を撃退している。1562年に出家し、なおも毛利氏との戦いに従事した。
1567年にも毛利氏との戦闘があり、毛利氏との戦いに呼応した秋月氏との戦いでは大被害を出したが、
多々良浜で毛利軍と戦った際には奮戦し、敵を寄せ付けなかったと言われる。以後龍造寺氏、島津氏、秋月氏ら
との戦いで活躍するが、宗麟との確執や老齢から徐々に前線に立つ機会が減り、1585年に陣没。
立花の名跡を継承していたが、男子なく、同じく重臣であった高橋紹運の子であった宗茂を婿養子とした。
刀で雷を切って命を守ったとする逸話がある。
※その他候補となった特技:強運・闘神
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**志賀親次
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|85|79|56|33|61|鉄壁・金剛・乱戦|A|S|A|B|C|C|1566|?|冷静|維持・長|5/5|1/5|
【シガチカツグ】
戦国時代の武将。大友家臣。父は志賀親度。母は大友宗麟の娘。「天正の楠木」と称される。
戸次道雪、高橋紹運の黒木家永攻めに追従し軍功を立て、大友義統からも賞賛された。
19歳の若さで家督を相続し、大友義統に重用されるが、島津氏との戦いで父の親度が離反。周りの国人衆も追従したが
親次は大友家への忠誠を崩さず、島津義弘の大軍に徹底抗戦して居城を守りぬいた。
その後、豊臣秀吉、豊臣秀長の九州征伐軍が到着すると、反対勢力を駆逐して父を自刃させ、秀吉からも賞賛された。
九州征伐後は祖父の親守に支えられながら大友家の重鎮として主君義統を補佐。だが唐入りの前哨となった朝鮮出兵の際、
慎重論を展開して義統に撤退を進言し、大友家の改易を招く。その後は豊臣秀吉、細川忠興らに仕えた。
**立花宗茂
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|81|92|85|65|89|洞察・長駆・乱戦|C|B|S|A|S|B|1569|1642|冷静|維持・長|5/5|2/5|
【タチバナムネシゲ】
戦国~江戸初期の武将。柳川藩主。
大友家の武将・高橋紹運の嫡子だが立花道雪の願いで立花家に入り婿した。
豊薩合戦では島津家5万の大軍を僅か兵1500で撃退。西部戦線の先鋒として寡兵で多くの城を陥落させ、
実父の敵である島津忠長を正面決戦で破る武功を得た。この功績から豊臣秀吉に柳川13万石の大名に取り立てられる。
小田原征伐では秀吉から「剛勇鎮西一」の称賛を受け、朝鮮出兵にも従軍。碧蹄館の戦いで日本軍勝利の立役者になるなど、
縦横無尽に活躍して諸侯から武勇を絶賛された。
関ヶ原の戦いで西軍に所属したため立花家は改易されたが、
彼が豊臣に附く事を恐れた徳川家康により破格の待遇で家臣に取り立てられる。
大坂夏の陣で2代将軍・徳川秀忠の軍師参謀を務め、以後も重用される。
1620年には幕府から柳川藩主に任じられ、西軍に所属した大名の中で唯一旧領への復帰を果たした。
西軍に所属しながら旧領に戻れた武将は立花宗茂ただ一人である。
復帰後も江戸で将軍・秀忠、家光を支え、70歳の時に島原の乱が勃発すると参戦して、
若き日を想わせる将器を存分に発揮した。
塹壕や早合などの戦術を用いた革新的な武将。自ら剣術流派を興す程の武人であると同時に、
茶道や香道、蹴鞠などにも長けた文武両道の名将であった。
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**山田宗昌
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|76|81|72|35|71|不屈・弓将・金剛|B|A|S|C|C|C|1544|1620|剛胆|維持・長|5/5|1/5|
【ヤマダムネマサ】
戦国~江戸初期の武将。山田宗継の子。
伊東義祐に仕え、組み合いの末に敵将を討ち取るなど家中屈指の武将として名を馳せる。
伊東氏の滅亡後は佐伯惟定に仕え、彼の参謀として島津氏の手から栂牟礼城を守り抜く。
秀吉の九州平定の際、豊臣秀長率いる征討軍の先導役を務めた。
義祐の子である伊東祐兵が同年に旧領に復帰すると祐兵に仕え酒谷城主となった。
晩年は匡得と号し、1620年死没。四半的弓道の創始者とも伝わる。
*島津家
[[島津家の解説>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F]]
**島津義久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|82|57|88|89|90|眼力・風水・論客|C|C|B|C|C|B|1533|1611|剛胆|維持・長|3/5|3/5|
【シマヅヨシヒサ】
戦国~江戸時代初期の武将。島津貴久の長男。
「三州の総大将たるの材徳自ら備わり」と祖父の忠良に評され、大いに期待されていた。
1554年に初陣を果たし、1566年父の隠居により家督を相続。1570年に薩摩統一を果たす。
前後して日向の伊東氏と対立するが、弟の義弘を派遣し伊東勢を散々に打ち破り、日向も制圧した。
のち大友氏との対立が決定的となると、自らも出陣して大軍を率い、耳川にて大友軍に大勝し南九州に覇を唱えた。
一時期織田家との外交交渉により織田信長に臣従、毛利攻めの援軍要請を受諾するが、本能寺の変で信長が倒れるとうやむやとなり、
北九州で勢力を張りつつある龍造寺氏を撃退すべく弟の家久を派遣し、龍造寺隆信を敗死させ、そのまま龍造寺氏を従属させる。
以後も大友氏との戦いを展開するが、大友氏の要請を受けた豊臣秀吉の九州征伐軍に敗北して降伏、所領を安堵された。
実子がおらず、のち家督を弟の義弘、ついで甥の忠恒に譲るが、以後も権力を持ち続けた。1611年死去。
※その他候補となった特技:仁政・威圧
**島津義弘
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|74|97|79|67|89|飛将・猛者・掎角|A|B|A|S|C|S|1535|1619|剛胆|維持・長or開眼(統率)|5/5|2/5|
【シマヅヨシヒロ】
戦国~江戸時代初期の武将。島津貴久の次男。
当主である父の貴久、兄の義久を補佐し、その剛勇でしばしば敵を圧倒した。伊東、大友との戦いでは
少数ながらも果敢に敵に挑んで破り、島津氏を九州最大勢力へと押し上げた。豊臣秀吉の九州征伐でも果敢に抵抗するが、
数の差は如何ともしがたく降伏。実子のなかった兄の義久の跡を継ぎ、島津家当主になったとも言われる。朝鮮出兵でも
その力を発揮し、敵将を数多討ち取った。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、少数の兵ながら東軍に損害を与えて撤退。
戦後は実子の忠恒に家督を譲り隠居。1619年に病没。
※その他候補となった特技:勇将・威風・闘神・踏破・藤甲
※日本有数の猛将の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**島津歳久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|
|69|75|90|84|88|百出・言毒・反計|B|C|A|B|C|C|1537|1592|島津義久・島津義弘|豊臣秀吉|猪突|維持・長|4/5|4/5|
【シマヅトシヒサ】
戦国時代の武将。島津貴久の三男。「知謀の歳久」と言われる。
「始終の利害を察するの智計並びなく」と祖父忠良に評され、兄義久に近侍して支えた。
兄とともに初陣を果たし、兄の薩摩統一に貢献。その後も対立する伊東氏や大友氏との
戦いに参加したが、以後は内治を主とし、外征に出る兄義弘や弟家久と異なり、薩摩大隅での
活動が中心であった。一方で娘婿の島津忠隣を婿養子として迎え、兄義弘の外征の補佐をさせている。
その後秀吉の九州征伐軍が押し寄せると、家久、義久の降伏後も徹底抗戦を行い、秀吉の駕籠に矢を射掛けた。
秀吉の唐入り計画前哨となった朝鮮出兵にも参陣しなかったため、秀吉の不興を買い、家臣が多く関わった梅北一揆の
責任を取らされて、兄義久の追手を受け自害した。この時既に病にかかっていたと言われている。家督は娘の子、常久が継いだ。
※その他候補となった特技:明鏡・能吏
**島津家久
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|95|76|89|62|84|掎角・機略・論客|A|A|S|B|C|B|1547|1587|冷静|維持・長or開眼(武力)|5/5|3/5|
【シマヅイエヒサ】
戦国時代の武将。島津貴久の四男。義久・義弘・歳久とは異母兄弟。子に島津豊久。
当主であった兄を助け、肝付氏との戦いで初陣を飾る。その後、畿内の織田信長と昵懇にすべく
上洛し、織田信長・明智光秀と交渉している。1584年の龍造寺家との戦いでは有馬氏を救援し
龍造寺隆信を討ち取るという大戦果をあげ、島津氏の九州最大勢力への躍進を決定的なものとした
大友家と戦いさらに領土を広げ、戸次川の戦いで援軍として参上した四国連合軍を破っている。
だが豊臣秀吉による九州征伐に伴い軍を撤退。島津の命運をかけた根白坂の戦いでは、
慎重論を唱えるも豊臣秀長軍と激突。だが宮部継潤に阻まれ、小早川隆景、黒田孝高、藤堂高虎の救援軍に敗退した。
のち豊臣秀長と単独講和して島津の和平を促したが、島津家の降伏直後に病死。毒殺説もある。
※その他候補となった特技:藤甲・踏破・金剛・鉄壁
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