「みんなの新武将/フランス革命・ナポレオン戦争」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
みんなの新武将/フランス革命・ナポレオン戦争 - (2017/04/20 (木) 03:26:49) の1つ前との変更点
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
#CONTENTS
----
*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
各人物のアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]特に武勇に優れる「偉人」「猛将」などの
個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
&color(red){武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。}アイテム効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/16.html]]。能力効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html]]
*フランス革命・ナポレオン戦争
18世紀のヨーロッパでは社会契約説や人権主義など、人間の解放を唱える啓蒙思想が広く伝播していた。
しかし、当時のフランスではブルボン朝における絶対君主制が継続されており、第三身分と呼ばれた
平民は、身分差別や特権階級側からの圧迫、また天災による治安不純などもあり、ブルボン朝の
融和政策も虚しく、1789年にバスティーユ牢獄が襲撃され、革命気運がフランス全土に広まった。
この革命気運はヴァレンヌ事件を経て反国王、反体制の方向へと突き進むことになり、
1793年には国王であった[[ルイ16世>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_4c43055b]]が刑死するに至った。その後、革命は紆余曲折を経て
国民総会、ついで総裁政府が誕生するも、混乱し続ける中央をよそに軍閥が台頭。
他国の侵略も加わり内憂外患を抑える必要性も後押しし、軍人[[ナポレオン>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_9422ea16]]が統領、ついで皇帝となる。
ナポレオンはフランス帝国の皇帝となり、自らの一族も衛星国の皇帝として掲げ、莫大な勢力と
権力を手にしたが、対仏大同盟と呼ばれる反対勢力との戦争で、当初は優勢であったが
徐々に勢いを削がれ、百日天下を経てついに失脚。1821年に幽閉先で病死するに至った。
ナポレオン戦争の終結後、ウイーン体制と呼ばれる国際秩序が構築された。
詳細な説明は[[こちら>https://goo.gl/GpkhZC]]や[[こちら>https://goo.gl/X0f28v]]や[[こちら>https://goo.gl/p2KrKV]]など
※備考
光栄(現:コーエーテクモ)による発売ソフト、「[[ランペルール>https://goo.gl/CQRaQQ]]」における[[各人物の能力値表>http://goo.gl/cMxt0g]]
イギリス・プロイセンなど一部の勢力は → [[対仏大同盟>みんなの新武将/対仏大同盟]]
*詳細
「みんなの新武将」として記述・登録できる人物(武将)の時代・国家(地域)などは基本的に[[ランペルール>http://goo.gl/cMxt0g]]の登場人物に準ずる。
一番の早生まれは[[カサノヴァ>https://goo.gl/vlP7ny]]含む3人の1725年。一番の遅生まれは[[ヴィクトリア>https://goo.gl/ZhPy0X]]で1819年である。
登場国家はランペルールで登録されている14ヶ国の他、近隣諸国などの「その他」の15項目としている。
時代の異なる欧州の人物は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2724.html]]、アメリカなどは[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2726.html]]を参照。
日本・中国などの同時代人物はみんなの新武将・該当項目ページをそれぞれ参照。
*漢字表記
三国志11は無印PK問わず、姓名にそれぞれ2文字までしか表記できない。
そのため、カタカナ表記の偉人は、そのままだと三国志11に登録することができない事が多い。
しかし、漢字・中国語表記をすることで、文字数を減らし、登録することができるようになる。
よって、当項目では武将や偉人を投稿する場合、漢字表記もそれとわかるよう併記することが望まれる。
例:ナポレオン(拿破仑)、ダヴー(达武)など
*フランス
**ルイ・オーギュスト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|28|40|53|77|86|造船・指導・発明|C|C|C|C|C|C|1754|1793|マリー・アントワネット|冷静|早熟・長|3/5|3/5|140|
【ルイ・オーギュスト】
フランス王国ブルボン朝の国王。「ルイ16世」「路易・奥古斯特」。弟にルイ18世。
ルイ・フェルディナン王太子の3男として生まれ、兄や父の早逝からフランス王太子となる。
のちに1774年に祖父であったルイ15世が逝去すると、フランス国王となった。
農奴制の廃止や身分制の融和、アメリカ独立戦争への介入や海軍港の整備など
積極的な内政を志すも、財政難が頂点を迎え、一部の貴族層からの反発が起こり変革は失敗に終わった。
やがてフランス革命が起こると、当初は国民議会への融和を測るも、ヴァレンヌ事件によって
革命過激派の猛反発を食らうこととなり、幽閉されて1793年に刑死した。
**マリー・アントワネット
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|4|1|65|27|9|規律・傾国・遁走|C|C|C|C|C|C|1755|1793|ルイ・オーギュスト|冷静|維持・短|3/5|2/5|139|
【マリー・アントワネット】
フランス王国ブルボン朝の王妃。国王ルイ16世の王妃にあたる。「玛丽·安托瓦内特」
神聖ローマ皇帝シュテファンを父に持ち、オーストリア女大公マリア・テレジアを母に持つ。
フランスとの同盟強化の一貫でフランス国王となったルイ16世のもとへ嫁いだ。
フランス王妃となってからは、財政難への対応として宮廷対応の簡素化などを行うが、
宮廷では反感が目立ち、民衆を煽り立てる流言飛語もとんだと言われている。
フランス革命勃発後は、国王と謀って実家のオーストリアに逃亡しようとするも失敗。
これが国民の反国王、反体制思想に火をつける結果となり、1793年10月に処刑された。
フランスの王政復古後を中心に彼女の名誉回復がはかられ、多くの反感材料が無実であったという。
**マリー・テレーズ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|30|26|58|44|67|遁走・強行・昂揚|C|C|C|C|C|C|1778|1851|ルイ・オーギュスト、マリー・アントワネット、ルイ・シャルル|ロベスピエール、フーシェ、ナポレオン、ルイ・フィリップ|冷静|維持・短|4/5|2/5|140|
【マリー・テレーズ】
フランス王国ブルボン朝の王族。父親はルイ16世、母親はマリー・アントワネット。弟にルイ17世。「瑪麗-泰瑞絲」。
フランス王家の第一王女として生まれ、ヴェルサイユ宮殿で幼少期を過ごした。フランス革命発生後に
父、母、叔母を処刑されて亡くし、弟のルイ17世も幽閉先で獄死したため孤独の身となる。
しかしロベスピエールが亡くなり革命派の勢力が弱体化されると待遇が改善され、オーストリア皇帝フランツ2世の
要望により身柄を引き渡され、獄中から逃れた。以後は政治情勢やナポレオン台頭に従い諸国を転々とし、ナポレオン退位後は
フランスのパリへと戻る。百日天下の際には演説によってブルボン王朝の軍勢を鼓舞した。
以後もブルボン王朝の人間としてフランスに尽くすが、7月革命の際に再び亡命し、オーストリアに庇護されたまま客死。
※ ルイ16世の子女では唯一天寿を全うした。革命派及び彼らに協力した人間を生涯嫌っていたと言われ、特に新興貴族とはしばしば対立した。
**ルイ・スタニスラス
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|34|51|68|54|80|遁走・名声・威圧|C|C|C|C|C|C|1755|1824|ナポレオン・フーシェ|冷静|早熟・長|3/5|3/5|141|
【ルイ・スタニスラス】
フランス王国ブルボン朝の皇族、国王。ルイ16世の実弟、のちのルイ18世。「ルイ・スタニスラス・グザヴィエ」
「路易・斯坦尼斯」。若年の頃は兄に対抗するため、武術や学問を学んだと言われている。
フランス革命が発生すると、早い段階でパリを離れ、コブレンツへと逃走。ルイ16世らが刑死すると
ブルボン家の長として、ナポレオンに対抗する立場となるが、彼本人は積極的ではなかった。ロシア、イギリス、
プロイセンなどを転々としていたが、ナポレオンが退位するとウィーン会議によってフランス皇帝となる。百日天下の際に
再びパリを離れたが、ナポレオンが失脚すると再び皇帝となった。当初は融和的な政策を打ち出していたが、晩年は
絶対王政に切り替え、ブルボン朝の行く末に暗い影を落とした。タレーランは彼のことを酷評したと言われている。
**シャルル=フィリップ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|3|42|9|2|8|怒髪・反計・徴税|C|C|C|C|C|C|1757|1836|ナポレオン・フーシェ・ロベスピエール|猪突|早熟・短|1/5|5/5|136|
【シャルル=フィリップ】
フランス王国ブルボン朝の皇族、国王。のちのシャルル10世であり、ブルボン朝最後の国王。「查尔斯·菲利浦」
ルイ16世やルイ18世の弟にあたるが、兄達とは不仲であった。一方でマリーアントワネットとは仲が良かったと言われる。
熱心な絶対君主制の信者であり、革命勢力や第三身分の弾圧を支持していた。フランス革命が起こると、兄達が折れる中
ただ1人反革命運動を貫くが、自ら手を汚すことはせず、反革命派の士気を折ってさしたる成果を出せなかった。
1800年にはナポレオン暗殺を王党派とともに企むが、これも失敗に終わっている。ナポレオン失脚後は兄が国王に即位、
子供のいなかった国王の後継者とされるが、ここでも反革命派として活動したため、次男を失っている。国王に即位すると、
兄以上の君主専制政治、民衆弾圧を行い、7月革命で王位を追われ、ウィーン体制崩壊の前兆を作る。その後亡命先のオーストリアで死去。
**ロベスピエール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|8|6|92|83|89|名声・鬼門・詭計|C|C|C|C|C|C|1758|1794|サン=ジュスト|冷静|維持・長|3/5|5/5|15|
【ロベスピエール】
革命期フランスの政治家。「マクシミリアン・ロベスピエール」。「罗伯斯庇尔」
フランス革命勢力における最高指導者の1人。幼少の頃から学に励み、ルイ16世の行幸を迎えた。
成長した後は弁護士として活躍、この時裁判でベンジャミン・フランクリンの発明した「避雷針」の有用性を
立証し、その効果を認めさせている。弁護士として高く評価されていたが1789年より政界に参入、
三部会の第三身分代表の1人となる。ジャコバン派の山岳派の一員として、対立派閥と権力闘争を行い、
1793年に巨大な権力を掌握。事実上の「独裁」となり、民衆を扇動して、自らの革命理論を実践した。
しかし、1794年のテルミドールのクーデターによって失脚、刑死した。恐怖の独裁政治家と呼ばれる一方、
革命に殉じた正義の政治家とも呼ばれることがある。
**ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|65|42|81|69|84|補佐・百出・論客|C|C|C|C|C|C|1767|1794|ロベスピエール|冷静|維持・長|4/5|1/5|15|
【ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト】
革命期フランスの政治家。「路易·德聖茹斯特」。「革命の大天使」の異名を取る。
1767年に生まれ、理論家としての道を歩み、国王や教会などを批判して追われた。
のち、革命気運が高まるに連れて、革命派として行動、国民公会議員当選後は政治家の道を歩む。
1792年のフランス革命で国王ルイ16世らが捕らえられた際には、国王処断の演説を行い、
議員や民衆の反国王思想を結実させ、革命を成就させた。以後、革命派ロベスピエールの側近として政策や
治安維持に奔走するが、1794年テルミドールのクーデターによって失脚、刑死した。
**ポール・バラス
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|23|10|84|75|31|眼力・富豪・徴税|C|C|C|C|C|C|1755|1829|小心|維持・長|1/5|4/5|10|
【ポール・バラス】
革命期フランスの政治家。「バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ」。「保罗」
古参貴族の家に生まれ、軍隊に入隊するが、フランス革命勃発を機に政治家としてジャコバン派を支持、加入する。
国民公会議員、ついで派遣議員として各地を回り、イタリアにてナポレオンに同道した。
「悪徳の士」と呼ばれるほど悪行や汚職に手を染め、虐殺や横領などから政府に召喚されるが、
逆にフーシェと組んでクーデターを起こし、ナポレオンを懐刀として総裁政府の有力者に君臨。
しかし、ナポレオンら臣下を持て余し、王政復活を試みるも、1799年のクーデターで失脚。以後は隠棲した。
※ ナポレオンの最初の妻であるジョセフィーヌは、もともと彼の愛人だった。
**ラザール・カルノー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|87|76|94|49|63|名声・規律・運搬|C|C|B|B|A|C|1753|1823|剛胆|政治:早熟・短 それ以外:維持・長|3/5|3/5|11|
【ラザール・カルノー】
革命期フランスの政治家、軍人。「ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー」「拉扎尔·卡诺」
もとは平民の出身。工兵士官学校を経てフランス軍に入隊。のち議員に選出されフランス革命戦争に四苦八苦するフランス革命政府で重用された。
軍制改革、徴兵制度、軍需工場の整備など、フランス軍の抜本的な改革を行い、「勝利の組織者」と呼ばれる。
ジュールダン元帥とともに軍を率いて、革命戦争でのフランス優勢を決定づけたが、以後は警戒され政治の表舞台から
引き下がる。テルミドールのクーデターの後も名誉職へ就任するに留まった。共和主義者でナポレオンの皇帝就任には
反対したが、ナポレオン戦争でフランス軍が不利となると、愛国心からナポレオンに味方し、善戦した。以後ナポレオンの
失脚まで彼を支え、ルイ18世の即位後は国を追われる。晩年はドイツで過ごした。科学者としても著名。
※その他候補となった特技:建築・能吏
**ジャン=バティスト・ジュールダン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|73|74|79|88|86|妙計・規律・名声|B|B|A|A|A|B|1762|1833|ジョゼフ・ボナパルト|冷静|政治:維持・長 それ以外:早熟・短|4/5|2/5|142|
【ジャン=バティスト・ジュールダン】
革命期フランスの軍人、政治家。「让・巴蒂斯特・乔丹」。若くして軍隊に入隊し、アメリカ独立戦争にも従軍して功績を上げた。
フランス革命戦争が始まるとフランスに協力し、この時カルノーの抜擢を受け、フランス革命政府軍の重鎮として活躍する。
主にオーストリア軍と戦い、フリューラスの戦いでは気球を偵察に使用して敵を一網打尽にした。
しかし、カール大公が軍を率いてくると連戦連敗を重ねた。革命戦争後半には政治家も努め、
国民皆兵の基礎となる「ジュールダン法」を制定し、後のフランス軍躍進の基盤を築く。1804年に元帥就任。ナポレオン戦争では
親しかったジョゼフ・ボナパルトを補佐。ナポリ、スペインで軍事の重鎮となるが、スペイン方面でアーサー・ウェルズリーに大敗し、軍を退役した。
※その他候補となった特技:能吏・射程
**タレーラン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|22|17|100|99|59|論客・神算・富豪|C|C|C|C|C|C|1754|1838|スタール夫人|剛胆|維持・長|4/5or2/5|2/5or4/5|141|
【タレーラン】
革命期フランスの政治家。「シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール」「塔列朗」
フランス有数の貴族の家に生まれ、早くから政界に参加した。はじめルイ16世に仕え三部会第一身分の
中心をつとめた。革命派の台頭で一時期に亡命した後、フランスへ帰国後はナポレオンに仕える。
ナポレオンのもとで外交内治両面に力を発揮し、高い評価を得て重用されたが、ナポレオンの皇帝就任後は徐々に対立。
ナポレオンの失脚後はルイ18世に仕え、ウィーン会議では高い交渉力と外交力で敗戦国でありながらフランスの国益を堅持
することに成功した。一度失脚するも、その後は政治家としてフランスに終生仕えた。今日フランスの礎を作り、
メッテルニヒと並ぶ外交家、政治家として評価されている。メートル法の生みの親。
※その他候補となった特技:強運・徴税・洞察
**ジョゼフ・フーシェ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|84|13|99|80|11|威圧・虚実・火神|C|C|C|C|C|C|1759|1820|冷静|維持・長|1/5|5/5|13|
【ジョゼフ・フーシェ】
革命期フランスの政治家。中国語表記は不明。はじめロベスピエール、ついでナポレオンに仕える。
政界に入る前からロベスピエールとは親交があり、フランス革命前後に政界参入。国王ルイ16世の
処刑票を投じて革命勢力の一員となる。革命政府ではロベスピエールの側近として、リヨンの反乱を鎮圧。
この時リヨンの大虐殺を行い、約2000人を弾圧目的で処刑して「リヨンの霰弾乱殺者」とまで呼ばれた。
その後、ロベスピエールと対立するとテルミドールのクーデターを起こし、彼を処刑。総裁政府、ナポレオンに
従って警察大臣として権勢を振るった。1808年にナポレオンを見限り始め、独断での越権行為が露見して辞職。
百日天下では再びナポレオンを支持し、ナポレオン2世を皇帝につけた。のちルイ18世が政権を握ると、ルイ16世の
処刑票を投じたことを咎められ、失脚。1820年に死去。晩年は穏やかな暮らしだったと伝わる。
※その他候補となった特技:明鏡・強運・百出
**ナポレオン・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|100|93|95|100|91|飛将・強行・名声|A|B|S|S|S|B|1769|1821|ランヌ・ドゼー・ベシェール・ジョセフィーヌ|剛胆|早熟・短(知力・政治) 維持・長(それ以外)|1/5|5/5|1|
【ナポレオン・ボナパルト】
革命期フランスの軍人、政治家。「拿破仑一世」または「拿破仑」
コルシカ島の血統貴族の家に生まれ、パリの陸軍士官学校を経て砲兵士官に就任。
革命を起こしたフランス軍に所属し、一度政争の煽りを受けて失脚するものの
再び抜擢され、以降対仏大同盟との戦いにおいて功績を上げ続けた。
エジプト戦線では連戦連勝を重ねるが外交戦略によって孤立、遁走するものの、
国内に帰還後は第一執政となり、敗北と勝利を重ねながらもフランス勢力を拡大させ
皇帝に就任。兄弟も皇帝に据えて、神聖ローマ帝国を滅ぼしヨーロッパのほぼ全てを旗下に加えた。
だがイギリス・ロシアを中心とした組織的抵抗を完全封殺するには至らず、ロシア戦役の敗北後に
対仏大同盟による解放戦争で失脚。息を吹き返した後も長続きせず、百日天下を迎えた後セントヘレナ島へ追放され、同地で死没。
彼の行動原理はナポレオン法典や戦争論、革命理念など、ヨーロッパに数多くの遺産となって受け継がれた。
※その他候補となった特技:覇王・遁走・威風・強運・藤甲・長駆・踏破・金剛・急襲・駆逐・連戦・虚実・洞察
**フランソワ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|37|33|65|41|77|名声・詩想・怒髪|C|C|C|C|C|C|1811|1832|ナポレオン|冷静|早熟・長or開眼(知力・政治)|4/5|1/5|1|
【フランソワ・ボナパルト】
革命期フランスの皇族。ナポレオン・ボナパルトの息子。のちのナポレオン2世。「ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ」
「拿破仑二世」「ライヒシュタット公」。ナポレオン・ボナパルトを父に持ち、オーストリア皇族のマリア・ルイーザを母に持った。
生まれた直後にローマ王とされたが、3年後にナポレオンは皇帝を退位しエルバ島へ失脚。母に連れられてオーストリアへ向かい、
メッテルニヒの監視下に置かれた。その後ナポレオンが百日天下で舞い戻ると、オーストリアとの融和政策を提唱する
フーシェの案により、若干4歳にして名目上の皇帝となる。父がセントヘレナ島へ幽閉されると、母がナイペルク伯と再婚。
若年期はナポレオンの著書を研究する一方、政界の重要人物と面会することもあったという。ほぼ同時期に結核を発症。若干21歳で早逝した。
**ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|9|8|60|66|83|洞察・内助・傾国|C|C|C|C|C|C|1763|1814|ナポレオン|カロリーヌ|冷静|維持・長|4/5|1/5|1|
【ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ】
革命期フランスの皇族、ナポレオン最初の皇后。フランス領西インド諸島の生まれ。「约瑟芬·德博阿尔内」
はじめアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚し、一男一女をもうける。しかし生来不仲であり、離婚して一度故郷に戻った。
その後再びフランスへと戻ってくるが、フランス革命の混乱期で、生前の夫の姿勢もあって投獄された。釈放後は
総裁政府の有力者であったポール・バラスの愛人となり、当時彼の臣下であったナポレオンの求婚を受けて婚姻する。
その後、ナポレオンの出世に従い栄達を極めたが、それに奢ることなく飾らない性格で将兵や国民からの支持は厚かったと言われている。
しかし、1810年に皇帝となっていたナポレオンとの間に子供ができなかったため離婚した。離婚後もナポレオンとは昵懇な
関係が続いていたという。ナポレオンの失脚に気落ちし、百日天下の凱旋を待たずして死去した。
補足:元来恋多き女性であり、婚姻後も浮気をして度々ナポレオンを悩ませた。しかし、ブリュメールのクーデター前後から自身がナポレオンの浮気に悩まされるようになる。
**ウジェーヌ・ド・ボアルネ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|84|82|73|48|71|飛将・鉄壁・明鏡|B|B|S|S|A|C|1781|1824|アウグステ|冷静or剛胆|維持・長|4/5|1/5|1|
【ウジェーヌ・ド・ボアルネ】
革命期フランスの軍人。ナポレオンの養子であり、フランス皇子。イタリア副王、ヴェネツィア公。「欧仁·德·博阿尔内」。
若干15歳でナポレオンのエジプト遠征に補佐官として随行。1799年のアブキールの戦いにも参加した。1800年ブリュメールのクーデターにより、
ナポレオンが権力を極めると、その擬似一門として活躍。マレンゴの戦い、イタリア遠征に参加し、1804年にはレジオンドヌール勲章を授けられ、将軍となった。
1805年にイタリア副王となり、同年バイエルン王国の王女を娶った。1809年にはオーストリア戦役で名を挙げ、この際イタリア軍の
最高司令官を務めている。ロシア戦役では敗走するフランス軍にあって、主に撤退戦や防衛戦で抜群の働きを見せ、
敵味方ともに感嘆されたと言われる。1813年にミュラが離反すると、ナポリ・オーストリア連合軍と戦ったが、
自国の政変で抵抗を諦めてバイエルンに亡命した。百日天下では中立を貫いた。1824年早逝、子孫は4王朝へと連なっている。
補足:ナポレオンの最初の皇后であった、ジョセフィーヌと前夫との間にできた子供の1人。再婚当時ナポレオンには子供がなく、妹ともども重用された。
ジョセフィーヌとナポレオンの離婚後も、双方の仲は良く、双方の懇願もあってそのままナポレオンに仕え続けた。
**ジョゼフ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|26|15|48|69|77|名声・親蛮・遁走|C|C|C|C|C|C|1768|1844|小心|維持・長|3/5|3/5|5|
【ジョゼフ・ボナパルト】
スペイン、ボナパルテ朝の国王。ナポレオン・ボナパルトの実兄にあたる。もとナポリ国王。「约瑟夫」
はじめローマに駐在しフランス全権公使に就任。弟のナポレオン・ボナパルトがフランス革命戦争などで
権力者に登りつめると、ナポレオン一族の重鎮としてナポレオンの覇業に従った。はじめナポリ国王となり、
義弟のミュラが後を継ぐとスペイン国王となった。しかし、分裂するスペインの国民や、武断政治を勧めようとする
ナポレオンからの板挟みにあい、はじめは国内改革を行い支持されるも、戦況悪化に伴って次第に実権を失う。
スペイン独立戦争ではフランス軍のジュールダン元帥と組んでイギリス軍のアーサー・ウェルズリーと戦うが大敗。
亡命後はフランスパリの防衛につくが、ナポレオンの快進撃をよそにマルモン元帥が降伏すると、自身もパリを明け渡した。
ナポレオンの失脚後はアメリカに亡命。その後イタリアで死去した。
※その他候補となった特技:富豪
**リュシアン・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|32|26|78|53|67|明鏡・論客・威圧|C|C|C|C|C|C|1775|1840|冷静|維持・長|2/5|4/5|10|
【リュシアン・ボナパルト】
革命期フランスの政治家。ナポレオンの実弟。「吕西安」
コルシカ島で生まれ、フランス革命時にジャコバン派へと加入し、革命政府を支持。
そのため島を追われフランスへ移住した。フランス移住後は実兄ナポレオンを補佐し、
五百人会の議長となる。ブリュメールのクーデターではナポレオンを補佐して成功に導き、
ナポレオン政権下で内務大臣になる。しかし後に仲違いし、1804年義絶。以後イタリア、
イギリスなどに移住する。百日天下では再びナポレオンに協力。晩年はイタリアで過ごした。
※その他候補となった特技:能吏
**ルイ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|40|49|37|56|45|富豪・遁走・風水|C|C|B|C|C|C|1778|1846|小心|維持・長|2/5|3/5|12|
【ルイ・ボナパルト】
革命期フランスの軍人。のちホラント王。ナポレオンの実弟。「路易・波拿巴」。
早くからナポレオンに従い、イタリア遠征やエジプト遠征に随行する。
ナポレオンがジョセフィーヌと婚姻すると、ナポレオンの差配のもと、
彼女の連れ子であったオルタンスと婚姻するが、不仲が続きのちに離婚している。
1806年にはオランダのホラント王国の国王となるが、現地オランダに配慮した
政治体制をとったため、ナポレオンの怒りを買い廃位させられた。以後ボスニアで隠棲した。
※その他候補となった特技:祈願
**ジェローム・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|48|66|25|39|52|長駆・反計・操舵|C|C|B|B|B|B|1784|1860|剛胆|維持・長|3/5|3/5|7|
【ジェローム・ボナパルト】
革命期フランスの軍人。ナポレオンの実弟。ヴェストファーレン国王。「热罗姆」。
末弟のため兄ナポレオンからも可愛がられ海軍に入隊した。しかしイギリス軍との戦闘で敗れ
アメリカ合衆国に逃亡し、現地人と婚姻した。その後本国に帰るが、結婚をナポレオンに
反対されたため泣く泣く離婚し、ボナパルト朝王家の一員となる。以後は兄ナポレオンを
支え、ヴェストファーレンの国王となるが、ロシア遠征ではナポレオンと対立して戦線離脱、
1813年のライプツィヒの戦いでも敗走し、養父のもとへ逃げ込んだ。百日天下でもナポレオンを支持するが、
ワーテルローの戦いでウーグモン館を攻略できず敗戦の一因となる。甥のルイ・ナポレオン政権下では元帥となった。
※その他候補となった特技:規律
**ルイ・ナポレオン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|43|38|67|81|73|遁走・築城・名声|C|C|C|C|C|C|1808|1873|ナポレオン・ボナパルト|冷静|維持・長|3/5|4/5|10|
【ルイ・ナポレオン】
フランスの政治家、のち皇帝「ナポレオン3世」。「路易・拿破仑」
ナポレオン・ボナパルトの実弟であるルイ・ボナパルトの三男として生まれる。
1815年のボナパルト朝崩壊に伴いフランスを追われ、亡命生活を余儀なくされたが、
7月革命及び2月革命による政情不安に助けられフランスへと戻った。伯父ナポレオン・ボナパルトの
名声を後押ししつつ、対立する派閥を上手く手玉にとってその支持を取り付け、フランス大統領、ついで
皇帝となり第二帝政を開始した。祖国フランスの都市拡張や技術革新、植民地の増大やアジア進出など
多くの事業を手がけ、仇敵イギリスとの同盟締結や協調路線を築きフランスをかつてのような大国に押し上げる。
しかし、普仏戦争でビスマルクやモルトケ率いるプロイセンを相手に大敗。捕縛されたことで帝政は崩壊した。晩年はイギリスへ亡命し、そこで客死。
※その他候補となった特技:論客
**ジャン=アンドシュ・ジュノー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|69|77|53|38|45|猛者・怒髪・遁走|B|C|A|B|A|C|1771|1813|ナポレオン|ミュラ|猪突|早熟・短|4/5|2/5|1|
【ジャン=アンドシュ・ジュノー】
革命期フランスの軍人。「朱诺」。ナポレオンの母であるマリア・ボナパルトからは「6番目の息子」と呼ばれる。
フランス革命時にはパリで勉学に励んでいた。フランス革命戦争時には義勇兵として活動し、トゥーロン攻略戦から
ナポレオンと知り合う。以後、ナポレオンの古参、友人としてその腹心となり、イタリア戦役、エジプト戦役、
ブリュメールのクーデターなど、ナポレオンの立身出世の舞台に居合わせた。以後はスペイン・ポルトガル方面で活躍。
アウステルリッツにも参戦しつつ、ポルトガルやスペインの攻略作戦で軍功を立てた。しかし、スペインゲリラを敵に回した上、
イギリス軍が上陸してくると苦しみ、アーサー・ウェルズリーに大敗して事実上の降伏を行った。フランスに帰国後はマッセナの指揮下に入り、
再びスペイン戦線に戻る。ロシア遠征にも参加するが、その後精神を病み軍を辞職。1813年に自殺した。一説にはイタリア戦役での重傷の古傷が原因という。
**アントワーヌ・ドゼー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|85|79|87|81|84|洞察・眼力・疾走|A|B|S|S|A|C|1768|1800|ナポレオン・ダヴー・クレベール|冷静|維持・長|5/5|1/5|3|
【アントワーヌ・ドゼー】
革命期フランスの軍人。「ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー」「安托万·打盹」。
初めブルボン朝の国王軍に入隊し、フランス革命が起きると革命政府の軍に入り、さらに変事が起きると
フランス共和制政府のもとへ入り、フランス革命戦争を戦った。ジュールダン、モロー将軍らの麾下として
ドイツ戦線で活躍する。1796年にナポレオンと知り合い、イタリア戦役に従軍。以後エジプト戦役にも従軍し、
彼の躍進を支えた。エジプトでは公正明大な統治も行い、「正義のスルタン」と呼ばれている。
その後ナポレオンの再度のイタリア戦役に合流。オーストリアと戦ったマレンゴの戦いでは窮地のフランス軍を救い、
フランス軍勝利に導く活躍をしたが、戦争中に戦死した。その名誉は凱旋門やヴィクトワール広場の碑で讃えられた。
補足:当時副官であったダヴーをナポレオンに引きあわせた人物としても有名。
※その他候補となった特技:仁政・補佐・急襲
**ジャン・パプディスト・クレベール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|82|85|76|68|69|不屈・藤甲・金剛|B|S|S|A|A|C|1753|1800|ドゼー|剛胆|維持・長|4/5|3/5|143|
【ジャン・パプディスト・クレベール】
革命期フランスの軍人。「克莱伯」。元はバイエルン軍に所属していた。
フランス革命の際にフランス軍に入隊し、以後革命政府のもとで従軍して軍功を重ね、
ヴァンデの反乱の鎮圧やドイツ方面の戦いで多大な貢献を残した。革命政府の評価は低かったが、
その重鎮特にナポレオンからの評価は高く重用された。しかしエジプト戦役の際撤退するナポレオンの後任となり、
劣勢の状況の中奮戦して連勝を重ねるが、道半ばで暗殺された。奇しくもドゼーの戦死した同年同月同日であったといい、
ナポレオンは後に2人の死を生涯最大の損失と語った。
※その他候補となった特技:駆逐・威圧・鉄壁
**フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|84|89|61|55|72|騎神・白馬・疾走|B|C|A|S|B|C|1770|1835|剛胆|維持・長|3/5|4/5|141|
【フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン】
革命期フランスの軍人。「凯勒曼」。父親は名誉元帥「フランソワ・クリストフ・ケレルマン」。
若年の頃から軍隊に入り、フランス革命戦争では父に従ってアルプス方面軍に所属し、
のちにナポレオン率いるイタリア方面軍と合流、タリアメントの戦いで功を立てた。
1800年のマレンゴの戦いではドゼーとともに崩壊寸前のフランス軍を救う騎兵突撃により逆転勝利を掴み、
史上最も有名な騎兵突撃と称された。以後はスペイン戦役、ドイツ戦役、フランス戦役と従軍し軍功を立てる。
百日天下でもナポレオンに味方し、イギリス軍に突撃をかけるが、多勢に無勢で徐々に劣勢となった。後にブルボン朝が復興すると隠棲。
**ルイ=ニコラ・ダヴー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|96|85|98|87|32|洞察・虚実・補佐|B|B|S|A|S|B|1770|1823|ナポレオン・ドゼー・サン=シール|ミュラ|冷静|維持・長|5/5|2/5|3|
【ルイ=ニコラ・ダヴー】
革命期フランスの軍人。「不敗のダヴー」の異名を持つ。「路易·尼古拉·达武」
軍人貴族の家系に生まれ、エジプト戦役の頃からナポレオンに忠誠を誓っていた。
軍政両面に才能を発揮し、ナポレオンの信頼を得て34歳の若さで元帥に就任。
ナポレオンの勢力拡大にも大きな貢献を残し、アウエルシュタットの戦いでは2倍以上の敵を破った。
ロシア戦役でも孤軍奮闘し、ナポレオンが百日天下で没落する中でもパリを守り抜いた。
ナポレオンがダヴーの諫言を受け入れていれば、ナポレオンの失速はなかったと言われている。
※その他候補となった特技:鉄壁・金剛・不屈・藤甲・踏破
**アンドレ・マッセナ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|95|92|89|42|49|強奪・勇将・強行|A|A|S|S|B|C|1758|1817|レイユ|剛胆|早熟・長|3/5|4/5|2|
【アンドレ・マッセナ】
革命期フランスの軍人。「安德烈·马塞纳」。フランス革命勃発時の前後から軍に入隊。1795年に
ロナートの戦いでオーストリア軍を破る。1796年以降はナポレオン指揮下に入るも、変わらず軍功をたてつづけ、
リヴォリの戦いでは機動戦を展開し短期間で3つの戦いに勝利した。のちにスイス方面軍司令官となり、
ロシア・オーストリア連合軍の戦いでは機動戦で翻弄、敵司令官のアレクサンドル・スヴォーロフに苦心の転進を決意させる。
1800年にはイタリアで10万のオーストリア軍の攻撃を耐え続けて味方の勝利を呼んだ。1804年に元帥就任後は、
イタリア方面軍となりカール大公と戦い、これを破る。1809年のアスペルン・エスリンクの敗戦の際も、戦場で敵の攻撃を耐え続け橋頭堡を守護した。
ヴァグラムの戦いで軍功を立て、大エスリンク侯爵となる。1810年のスペイン独立戦争では、ポルトガル司令官となりアーサー・ウェルズリーと戦うが
持久戦に徹され、徐々に劣勢となり、敗退。以後はマルセイユ司令官として前線を退き、百日天下でも中立を貫いた。1817年パリで死去。
※その他候補となった特技:急襲・眼力・強運・駆逐・連戦・明鏡・長駆
補足:ナポレオン体制での戦歴の数多さから、ナポレオン麾下元帥の中では[[ダヴー>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_dcb47ea9]]と並び最高の司令官とも言われる。
一方で金銭の略奪行為や男装の女性愛人を戦場にしばしば連れ込むことを好み、トラブルも多かったという。
**ジャン・ランヌ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|84|93|57|46|90|勇将・連戦・猛者|S|B|S|S|A|C|1769|1809|ナポレオン|ミュラ・ベシェール|猪突or剛胆|知力:開眼 それ以外:維持・長 |5/5|1/5|1|
【ジャン・ランヌ】
革命期フランスの軍人。「让·拉纳」。ナポレオンから「友」として遇された。
農民の出であったが、フランス革命発生後は国民防衛軍に志願。のちに
イタリア方面司令官だったナポレオンの目に留まり、抜擢された。以後、
ナポレオンから重用され、それに応える形で戦いでは常に先陣を争い、劣勢にあっても
頑強な戦い方をするなど軍の中核を担った。オーストリア、ロシア、スペイン戦役で常に
勝利を収め、ナポレオンの快進撃を支えていたが、アスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンが敗戦した際に
砲弾を受けて負傷。その戦傷がもとで死去した。将兵の人気は高く、「我らがローラン」と讃えられていたという。
※その他候補となった特技:洞察・威風・名声
※フランス有数の勇者の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**ミシェル・ネイ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|76|94|44|52|78|勇将・強行・楽奏|A|B|S|S|B|C|1769|1815|マッセナ|猪突|早熟・短(知力・政治・統率) 開眼(武力・魅力)|4/5|1/5|1|
【ミシェル・ネイ】
革命期フランスの軍人。「米歇尔·内伊」。ルイ16世、ナポレオンらに仕える。
フランス革命前後に軍に入隊して頭角をあらわし、主にマリー・モローの指揮下などで奮戦。1804年にナポレオンから元帥の1人に任命されると
ナポレオン麾下として活躍。戦争でも軍功を立てるかたわら、戦術家のジョミニを抜擢しているなど人材面での
功績も立てた。1806年のイエナの戦いでは先行しすぎて敵中に孤立し、ランヌに救われる。しかし翌年のアイラウの戦いでは
軍を強行させてナポレオンを救援、フランス軍大敗北を未然に防ぐ功績を立てた。その後スペイン戦役、ロシア戦役、ドイツ戦役と
数々の戦いに参加し功を立てた。一方、その猪突猛進が災いすることもあり、アーサー・ウェルズリーやベルナドットに敗れることもあった。
ナポレオンの百日天下の際には、ルイ18世側として軍を率いてのナポレオン捕縛を命じられるも、一転ナポレオン側についた。
しかしワーテルローの戦いでは決定的なミスをおかし、ナポレオン軍敗北に繋がる致命傷を招いた。ナポレオン失脚後、反逆罪として銃殺刑に処された。
※その他候補となった特技:眼力・猛者・飛将・神将
※フランス有数の勇者の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**ルイ=アレクサンドル・ベルティエ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|42|67|95|62|66|洞察・百出・反計|C|A|C|A|S|C|1753|1815|ジョミニ|冷静|維持・長|4/5|3/5|142|
【ルイ=アレクサンドル・ベルティエ】
革命期フランスの軍人。ルイ16世、ナポレオン、のちルイ18世に仕える。「路易斯·亚历山大·贝尔蒂埃」
初めフランス王国ブルボン朝に仕え、アメリカ独立戦争に従事。フランス革命が発生すると
国民衛兵の参謀長としてルイ16世を補佐し、彼の叔母の国外逃亡を支援、ヴァレンヌ事件では
王と王妃の逃亡に援助した。そのため革命後は軍から解任された。その後幾多の将軍の元で
経験を積み、1790年からはナポレオンの参謀総長をつとめ、ナポレオンの覇権確立に多大な功績を残した。
知勇両面の活躍が功を奏し、ナポレオンから元帥に任命されるも、徐々に対立。ナポレオンの退位後まで
彼に従うが、その後はルイ18世に仕え、王国再建を目指すも、ナポレオンがエルバ島を脱出した直後に謎の死を遂げた。
軍の指揮能力は並であったが、緻密・正確・迅速に参謀をこなした彼の死はワーテルローの敗戦の遠因ともなった。
※その他候補となった特技:強運
**ミッシェル=ジョゼフ・レイユ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|72|75|80|57|68|騎将・強行・明鏡|B|B|A|A|A|B|1775|1860|マッセナ|冷静|維持・長|4/5|1/5|2|
【ミッシェル=ジョゼフ・レイユ】
革命期フランスの軍人。革命政府及びナポレオンらに仕える。「米歇尔」
1792年に軍隊に入り、以後フランス革命戦争に従軍。1796年のイタリア戦役でナポレオンに従軍し、
マッセナの副官として行動を共にし、ロディ、リヴォリ、チューリッヒ、ジェノヴァの戦いに参加。軍功を上げる。
その後はナポレオン・ボナパルト直属の部下としてアウステルリッツ、フリートランドの戦いに従軍。スペイン戦線に転属されるが、
オーストリアとの戦いに呼び戻され、アスペルンの戦い、ワグラムの戦いで功績を上げた。その後はスペインのアラゴンに
駐屯。スペイン戦線ではイギリス軍と戦うが、1813年ビトリアの戦いでウェリントンに敗れる。百日天下の際はナポレオンを支持し、
ワーテルローの戦いでは第2軍団を指揮した。1819年貴族に列し、ボナパルト一族のルイ・ナポレオンが政権を取ると元帥に任命された。
※ 元上官のマッセナとは親しい関係にあり、事実上の親子関係を結んでいたとされる。彼の墓はマッセナの墓の隣にある。
**ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|83|92|40|48|73|明鏡・猛者・強行|A|S|S|A|B|C|1742|1819|剛胆|維持・長|4/5|1/5|141|
【ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ】
革命期フランスの軍人。「约翰」。ブルボン王家、革命政府などに仕える。
はじめフランス民兵として七年戦争に従軍後、ポルトガルを経てブルボン朝に仕えた。
フランス革命が勃発すると王党派として弾圧に従軍、革命後は捕縛されるが赦免された。
その後、ナポレオンが司令官を勤めるイタリア方面軍に所属し、その勇敢ぶりから彼に重用された。
フランス革命戦争では数々の軍功を立てたが、老齢のためのち予備役となり、ナポレオン戦争では最前線に出なかった。
その後、百日天下を境に政治活動から距離を取り、数年後に病没。
※ 戦場では兵を指揮する身でありながら常に最先頭に立ち、兵卒の最前列の10歩前を1人で立って進んだと言われている。
**アントワーヌ・ラヴォアジエ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|義理|野望|相性|
|67|41|98|79|100|神算|C|C|C|C|C|C|1743|1794|4/5|1/5|131|
【ラヴォアジエ】
質量保存の法則を発見するほか、数多の分野で膨大な功績を残した万能の天才。本格的な近代科学は彼によってはじまり「近代科学の父」と評される。
ルイ16世支配時の1791年に国家財政委員に就任し、フランスの金融・徴税システムを改革しようとした。
しかし、フランス革命勃発後の1793年に徴税吏であること、徴税請負人の長官の娘と結婚したことなどを理由に投獄された。
1794年5月8日の革命裁判所の審判で死刑とされ、その日のうちに、ギロチンで処刑された。
※ 処刑される際「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」とジョゼフ=ルイ・ラグランジュに泣かれた。
**ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|義理|野望|相性|
|19|13|99|65|100|神算|C|C|C|C|C|C|1736|1813|3/5|1/5|137|
【ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ】
イタリアのトリノで生まれフランスで活動した数学者、天文学者である。オイラーと並んで18世紀最大の数学者。
彼の初期の業績は、微分積分学の物理学、特に力学への応用である。その後さらに力学を一般化して、最小作用の原理に基づく、
解析力学をつくり出した。また数論に関する業績もある。
全ての自然数が高々四つの平方数の和によって表されるという定理はラグランジュの四平方定理と呼ばれる
さらに彼は、五次以上の方程式がベキ根によっては解けないことについても研究し、根の置換など群論の先駆けとなるような研究も行っている。
※ またマリー・アントワネットの数学教師でもあった。彼女やラヴォアジエの処刑を嘆き、「なぜ私が残されたのかわからない」と一生苦しみつづけた。
**ピエール・オージュロー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|79|91|37|13|68|遁走・猛者・昂揚|S|B|A|S|A|C|1757|1816|猪突|早熟・長|1/5|2/5|143|
【ピエール・オージュロー】
革命期フランスの軍人。「シャルル・ピエール・フランソワ・オージュロー」「奥热罗」
フランスのパリで生まれ、若くして軍に入るが、素行が悪く2年で除隊。その後各地を転々とし、決闘で
たびたび剛勇を振るったが、軍の扱いに不満で脱走を起こした。その後フランス革命が起こると再びフランスに
帰還。以後は革命政府やナポレオン・ボナパルトに仕え、スペインやイタリア方面の戦線で活躍する一方、
ナポレオンの股肱の臣として王党派に対する掃討も行っている。1804年にはその活躍を讃えられて元帥となり、
ナポレオン戦争時にはプロイセンやロシアと戦う。イエナの戦いではランヌとともにプロイセンに甚大な被害を与える軍功を立てた。
しかし1807年のアイラウの戦いでは大損害を出して敗北。自らも重傷を負った。スペイン戦役では活躍を見せるも、以降のロシア戦役や
諸国民の戦いでは目立った戦果がなく、フランス戦役ではリヨンに籠るもあっさり降伏した。百日天下ではナポレオンに見限られ、失意のまま死去。
**ジャン=バティスト・ベシェール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|83|87|74|30|78|騎神・明鏡・護衛|B|C|A|S|A|C|1768|1813|ナポレオン・ミュラ|ランヌ|冷静|維持・長|4/5|2/5|147|
【ジャン=バティスト・ベシェール】
革命期フランスの軍人。「贝西埃尔」。はじめフランス革命を機にルイ16世に仕えた。8月10日事件では
テュイルリー宮殿を襲撃する革命勢力からルイ16世を守るべく戦った。のちに革命政府に入り、1796年から
ナポレオンの指揮下に入った。イタリア遠征、エジプト遠征に従軍し、1800年のマレンゴの戦いでは騎兵を指揮して
軍功を立て、勝利に貢献した。1804年には元帥に就任。以後もナポレオン戦争で軍功を立て続け、皇帝親衛隊を
指揮することもあった。オーストリア戦役、ドイツ戦役、スペイン戦役を戦い抜き、1809年のヴァグラムの戦いでも
勝利に貢献する戦功を立てた。ロシア戦役でも軍功を立て、撤退の際も敗走するナポレオンを護衛し、コサック兵と戦っている。
フランスの戦局が徐々に悪化する中、1813年の戦役で戦死。その資質を買っていたナポレオンはその死を非常に悲しんだという。
**ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|94|90|58|45|50|強運・工神・洞察|A|B|S|S|S|C|1769|1851|剛胆or冷静|晩成・長|3/5|3/5|148|
【ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト】
革命期フランスの軍人、政治家。「让德主公医院苏尔特」。フランス史上6人しかいない大元帥のうちの1人。
若くして軍に入隊し、将官となった。ジュールダン、クレベール、モロー、マッセナといった国家の重鎮たちの
下で活躍し、才覚を発揮。ナポレオンに抜擢され、1803年には軍団長、1804年には元帥にまで昇進した。
1805年のアウステルリッツの戦いでは、主力軍としてナポレオンの大勝利に貢献、ナポレオンから激賞される。
ドイツ・ポーランド戦役にも従軍して軍功を立て、スペイン戦線を任される。スペイン戦役ではオカーナの戦いで
倍近いスペイン軍を撃破し、マドリード攻防戦などでイギリス軍のアーサー・ウェルズリーと互角の戦いを演じたが、戦略的には徐々に敗北。
それでも最後まで奮戦したが、パリの降伏およびナポレオンの退位により、最終的には降伏した。百日天下ではナポレオンに味方するも、
不慣れな参謀長を任され敗戦の原因を作った。1830年の七月革命後に重用され、フランス大元帥に任命された。1851年死去。
※その他候補となった特技:強奪・威圧
**ルイ=ガブリエル・スーシェ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|93|91|85|83|84|補佐・洞察・強運|B|S|S|A|A|C|1770|1826|冷静|維持・長|4/5|1/5|14|
【ルイ=ガブリエル・スーシェ】
革命期フランスの軍人。「苏切特」。フランス西部リヨンから革命政府軍に身を投じる。人徳と才能を評価され、
革命政府軍でも中核を成した。のちフランス革命戦争ではトゥーロン攻囲戦に従軍。1795年からはイタリア戦役方面軍に属し、
マッセナの指揮下で戦った。しかし当時ナポレオンからはあまり評価をされず、スールト、ランヌのもとでナポレオン戦争の主要な合戦に参加。
続いてジュノーの指揮下に入るが、先に上官であったランヌからその資質を高く評価され、ランヌの進言により
ナポレオンからスペイン戦線の司令官に任命された。以後スペイン戦線でナポレオンに貢献し、特に優れた行政手腕で
彼が管轄した地域では反乱や犠牲者などは極めて少なかったと言われる。ナポレオンが降伏した後も耐え抜き、百日天下でも
ナポレオンに味方するが、これまたナポレオンの敗北後もイタリア戦線で耐えぬいた。以後は公職につくことなく病没。
補足:後年、ナポレオンは最も優れた将軍として彼の名を出し、彼を重用しなかったことを悔いたと言われている。
※その他候補となった特技:仁政・能吏
**ジャック・マクドナル
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|81|69|67|63|72|護衛・補佐・明鏡|B|B|A|A|A|C|1765|1840|冷静|維持・長|5/5|1/5|144|
【ジャック・マクドナル】
革命期フランスの軍人。「麦当劳」。元はプロイセン王国への反抗勢力に属していたが、
やがてフランス軍に所属。革命戦争ではデュムーリエ、ピジュグリュ、ナポレオンといった
多くの司令官に従軍して軍功を上げる。ナポレオンの指揮下でローマを統治したが、
やがてロシアのスヴォーロフ大元帥に敗れた。その後、1807年にナポリ軍、及びイタリア軍を
指揮し、半島戦争、ロシア戦役、ドイツ戦役などナポレオン戦争の多くの合戦に従軍した。
戦局が悪化しナポレオンの皇帝退位の声が上がる中、ただ1人反対してナポレオンに付き従った。
その類まれな忠誠心は多くの人間に評価され、百日天下では仕えた主君であるルイ18世を寝返ることをせず、護衛した。
**ニコラ・ウディノ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|66|89|37|51|65|猛者・連戦・駆逐|A|C|A|S|B|C|1767|1847|猪突|維持・長|4/5|3/5|141|
【ニコラ・ウディノ】
革命期フランスの軍人。「ニコラ・シャルル・ウディノ」、「尼古拉·夏尔·乌迪诺」。
1784年にフランス軍に入隊し、革命戦争に従軍。以後勇壮な軍人として名を馳せ、
モロー、マッセナなどの指揮下で戦い軍功を立てた。ナポレオンが実権を握っても
依然変わらず軍功を立て続け、主にオーストリア、プロイセン方面で活躍。1809年に
オーストリア戦線の軍功から元帥に就任し、1810年からは追放されたルイ・ボナパルトの
後任の1人としてオランダ統治に貢献。ロシア遠征、ライプツィヒの戦いなどにも従軍したが、
1814年フランス戦役で劣勢の最中ナポレオンに退位を迫った。百日天下ではナポレオンから帰順を拒否されたが、
その後もブルボン朝、オルレアン朝とフランスに仕え続けた。
※ 生涯数十箇所の傷を受けながらも戦い続けた勇敢な軍人ではあったが、用兵や知才はナポレオンからも批判されている。
**ローラン・グーヴィオン=サン=シール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|98|42|95|68|71|鉄壁・洞察・藤甲|C|S|S|B|A|C|1764|1830|ダヴー・ネイ|冷静|維持・長|4/5|2/5|12|
【ローラン・グーヴィオン=サン=シール】
革命期フランスの軍人。「洛朗·古维翁-圣西尔」。当時としては珍しい複合姓。ロレーヌ地方で生まれ、
家業を継がず各地を転々とした後、1792年に軍人となり、共和国軍に入隊。熱心な共和主義者でもあった。
はじめモローの指揮下で頭角を現し、1799年のイタリア遠征ではノヴィの戦いで軍功を上げる。
防衛戦を指揮することに長け、ナポレオンからその才能を評価されたが、本人が共和主義者であったことに
加え、人格面にも難があり疎まれていた。そのためナポレオンの皇帝戴冠式にも出席していない。
1807年のポーランド戦役から従軍し、半島戦争とロシア戦役で軍功をあげた。1813年のドイツ戦役では
ドレスデン防衛戦で獅子奮迅の戦いを見せる。百日天下では中立を保ち、1821年に政治の表舞台から去った。
※その他候補となった特技:遁走・楽奏
**エマニュエル・ド・グルーシー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|77|86|50|32|31|騎将・急襲・血路|B|C|A|S|A|C|1766|1847|剛胆or猪突|普通・長|3/5|2/5|8|
【エマニュエル・ド・グルーシー】
革命期フランスの軍人。「埃曼努尔·格鲁希」。パリで生まれ、1779年にフランス軍に入隊。フランス革命および革命戦争の際には貴族階級でありながら
共和国制を掲げる革命勢力に肩入れした。1793年ヴァンデ鎮圧に功を挙げ、1795年にアイルランド上陸軍に従軍、
1799年にはロシア・オーストリア軍と戦うも捕虜となる。1800年のナポレオンのクーデターの際には共和制の立場から
反対して追われたが、同年のホーエンリンデンの戦いで軍功をあげ、騎兵指揮に長けたその才を惜しんだナポレオンから再度呼び戻された。
以後、ナポレオンの主要な遠征に参加し、フリートランドの戦いで活躍。1809年にはウジェーヌの指揮下でイタリア軍騎兵を
指揮し、ロシア戦役の際にはフランス近衛騎兵を指揮した。フランス戦役では重傷を負って捕虜となり、王政復古の際に追放された。
百日天下ではナポレオンに味方し、元帥となるが、リニーの戦いで撤退するプロイセン軍の追撃に手間取り、ワーテルロー敗北の遠因を作る。1847年死去。
**オーギュスト・マルモン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|79|74|83|61|57|護衛・遁走・工神|C|B|S|A|S|C|1774|1852|小心|維持・長|2/5|4/5|149|
【オーギュスト・マルモン】
革命期フランスの軍人。「馬爾蒙」。ナポレオンの腹心。
トゥーロン攻略戦からナポレオンに副官として従い、イタリア戦役やエジプト戦役でも
軍功を重ね副官、ついで将軍となる。ブリュメールのクーデターでは支援部隊に回り、
マレンゴの戦いでは砲兵隊を指揮して勝利に貢献する。ナポレオン戦争では主にオーストリア、
ドイツ方面で軍功を重ね、1808年に元帥昇進。1810年にはポルトガル遠征総司令官となるが、ウェリントンに敗北した。
1813年に多くの戦いに従軍するが疲弊により連戦連敗を重ね、1814年フランス戦役でパリ防衛を任されるが、早くに降伏。
ナポレオン退位の決定打を作り、以後は王党派に属してルイ18世を補佐した。ナポレオンは死の間際まで彼の離反を許さなかったと言われる。
※ 砲兵指揮の新概念として、共和暦11年システムを考案、数々の戦闘で使用された。しかし彼の爵位「ラグーサ公爵」は、その離反劇から裏切り者を意味するようになる。
*ナポリ
**ジョアシャン・ミュラ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|92|97|11|38|86|騎神・駆逐・急襲|C|C|C|S|C|C|1767|1815|ベシェール|ジュノー・ランヌ|剛胆or猪突|維持・長or早熟・短(知力、政治、統率)|2/5|4/5|147|
【ジョアシャン・ミュラ】
革命期フランスの軍人、のちナポリ王国の国王。「若阿尚·缪拉」。ナポレオンの義弟にあたる。
1795年にナポレオン率いる反乱鎮圧軍に参加。以後ナポレオンと行動を共にし、
イタリア遠征やエジプト遠征で戦功を立て、ナポレオンの妹を夫人に迎え元帥に昇進した。
1808年にナポリ王位を与えられて国王となるが、権力を得たあたりからそれにすがるようになり、
やがてナポレオンとも対立。ナポレオンが形勢不利になると離反したが、ウイーン体制で王位を剥奪された。
その後脱出したナポレオンのもとに帰参しようとするも、一時は認められたが独断専行を起こして大敗、
やがてナポレオンにも見捨てられた。のち王位奪回を試み挙兵するも失敗、刑死した。
「騎兵を率いたら世界最高」とまで言われたが、平時の度量のなさはナポレオンですら酷評したという。
※フランス有数の勇者の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
※その他候補となった特技:連戦・白馬・猛者・飛将
**カロリーヌ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|10|7|63|5|71|傾国・威圧・名声|C|C|C|C|C|C|1782|1839|剛胆|維持・長|2/5|5/5|141|
【カロリーヌ・ボナパルト】
革命期フランスの皇族、ボナパルト朝。ナポレオン・ボナパルトの実妹、のちミュラの夫。「卡罗琳·波拿巴」
1796年にコルシカ島からボナパルト一族が追われた際、一緒にフランスへ移り住む。
のちミュラを見初めて兄の懸念を押し切り1800年に婚姻。ミュラの昇進や兄の栄光に追従し、その暮らしは
女王のようであったと言う。野心多き女性で、兄の死後に夫をフランス国王とするため数々の謀略と
不義密通を繰り返し、兄や旦那と対立することも多かった。そのため1809年に兄の手でフランスを追われナポリ女王となった。
しかし、1812年のロシア遠征の際、ミュラの留守中に摂政となったが、ここでも不義密通を重ねて統治を放棄し、国民の反感を買う。
ナポレオンの没落後は彼を見限り工作に奔走するが失敗。百日天下の失敗後は旦那とも別れ、フィレンツェで没した。
*ポーランド
**マリア・ヴァレフスカ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|3|1|72|64|83|内助・補佐・仁政|C|C|C|C|C|C|1786|1817|ナポレオン・ボナパルト|冷静|維持・長|5/5|1/5|4|
【マリア・ヴァレフスカ】
近世ポーランドの貴族。「玛丽」
父ウォンチニスキの4人目の子として生誕したが、祖国ポーランドも1772年に分割され、
ロシアとの戦争で父は戦死、貧困な生活と強い愛国心を持っていた。はじめヴァレフスキ伯爵と結婚、
ついでフランス皇帝ナポレオンの愛人となり、彼の子を授かっている。ナポレオンの凋落後も
彼を愛し続け、ナポレオンがセントヘレナ島へ配流されてから心痛を患い早逝した。
祖国ポーランドでは偉大な愛国者として祀られている。
※ 最初の夫ヴァレフスキとは借金の肩代わり、ナポレオンの愛人関係は国益を考慮した国王の差配と、不遇な生涯でもあった。
**アレクサンドル・ヴァレフスキ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|36|47|75|83|79|名声・論客・遁走|C|C|C|C|C|C|1810|1868|剛胆|維持・長|3/5|4/5|4|
【アレクサンドル・ヴァレフスキ】
近世フランスの政治家。「亚历山大」。
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの庶子。母はマリア・ヴァレフスカ。
幼少期に母を亡くし、父と離別して過ごす。その後ポーランド独立運動に参加するが、
やがてフランスに亡命する。その後政治家となり、外交官になった。
ルイ・ナポレオン政権ではナポレオン1世の庶子として厚遇され、元老院議員、外務大臣や国務大臣など
数多くの要職を歴任。クリミア戦争の際は、外務大臣として講和条約における権限を一任されている。
その後、1865年にフランス立法院議長を務め、3年後にストラスブールで病没。
※ 家系図上はヴァレフスキ伯爵の子。ナポレオン1世と姿がよく似ており、ナポレオン3世と間違われたこともある
**ユゼフ・ポニャトフスキ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|80|83|61|65|72|不屈・金剛・騎将|A|C|A|S|B|C|1763|1813|剛胆|維持・長|4/5|1/5|8|
【ユゼフ・ポニャトフスキ】
ポーランドの王族。ポーランド、オーストリア、フランスに仕える。「约泽夫·波尼亚托夫斯基」
オーストリアで軍務につき、オスマン帝国との戦いに従軍。この時後に諸国民戦争で戦った
オーストリアのシュヴァルツェンベルクと共闘している。後に請われて祖国ポーランドの軍務につくが、
ポーランド分割を食い止めることが出来ず、軍を退役した。その後1806年に台頭著しいナポレオンに
つくことを決め、ポーランドワルシャワ公国を再興し、その最高司令官となる。以後ナポレオンに従い
オーストリアやロシアとの戦いに従軍。没落するナポレオンを見捨てず、ライプツィヒの戦い3日前に元帥となった。
その後、諸国民戦争(ライプツィヒ)で敗走するフランス軍の殿を務め、戦死した。
※その他候補となった特技:血路・鉄壁
*バイエルン
**マックス・ヨーゼフ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|30|14|68|76|82|論客・遁走・眼力|C|C|C|C|C|C|1756|1825|冷静or小心|維持・長|4/5|2/5|135|
【マックス・ヨーゼフ】
近世ドイツ、バイエルン王国の国王。バイエルン選帝侯、マクシミリアン1世。「马克斯约瑟夫」
ヴィッテルスバッハ家のフリードリヒ・ミヒャエルの三男として生まれる。所領がフランスに占拠されていたこともあり
フランス体制の中で育ち、1777年にはフランス陸軍大佐となる。フランス革命戦争が起きるとオーストリアに従い参戦した。
1795年兄の死去に伴いツヴァイブリュッケン公位を継承。1799年にはバイエルン選帝侯となり、モンジュラ伯を起用して
国内改革に務めた。フランス革命、ナポレオン戦争ではライン同盟に所属しており、親ナポレオン体制を樹立。ナポレオンの
養子であったウジェーヌに娘を嫁がせている。1806年にバイエルン王となるが、1813年オーストリアとの国益争いで、フランスが
オーストリアの肩を持ったためナポレオン体制から離反。ウィーン会議ではバイエルンの国益保持に奔走した。
補足:本名は「マクシミリアン・マリア・ミヒャエル・ヨハン・バプティスト・フランツ・デ・パウラ・ヨーゼフ・カスパール・イグナティウス・ネポムク」。マックス・ヨーゼフは愛称。
**マクシミリアン・フォン・モンジュラ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|27|29|82|91|64|威圧・論客・発明|C|C|C|C|C|C|1759|1836|冷静|維持・長|3/5|1/5|135|
【マクシミリアン・フォン・モンジュラ】
バイエルン王国の政治家。「马克西米利安」。
父の代からバイエルンに仕え、外交官僚として名を馳せマックス・ヨーゼフの信任を得る。
その後、ライン同盟によってバイエルン王国が誕生すると、マックス・ヨーゼフのもとで
宰相としてバイエルン近代化に貢献した。フランスとオーストリアの戦争ではフランスへの
同盟を説き、バイエルンの国益保持に奔走。一方で、ナポレオンの没落が明らかになると
ヴレーデを立てて、今度は対仏大同盟に肩入れするように提唱した。晩年は反対派との全面対立を
避けるために隠棲。1818年憲法成立の祖となった。
*スウェーデン
**ジュール・ベルナドット
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|61|77|62|79|92|強運・名声・心攻|B|A|S|B|B|C|1763|1844|冷静|統率:開眼 それ以外:維持・長|2/5|4/5|18|
【ジュール・ベルナドット】
革命期フランスの軍人。のちスウェーデン王カール14世ヨハン。「ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット」「贝纳多特」
1780年に軍隊に入隊するも、熱心なジャコバン派の支持者であり、フランス革命時には革命を支持した。
順調に功績を重ね、一時はナポレオンのライバルと目されるも、やがて傘下に入り、ナポレオン一門となった。
しかし時に不審な行動を起こし、ナポレオンに疑念を抱かせることもあり、軍功を立てては失態を重ね、
銃殺刑まで宣告されたこともあったが、結果的に指揮権剥奪となっている。その後、王位継承者のいないスウェーデンの
王太子となるが、スウェーデンで実権を握ると反仏政策を取るようになり、ナポレオンと決別。1813年のライプツィヒの戦いでは
反フランス連合軍の総指揮を取り、連合軍の勝利に導いた。ナポレオン失脚後もスウェーデンで実権を握り、今日に至る繁栄を築いた。
ナポレオンがベルナドットに強く当たれなかったのは、彼の妻デジレが、ナポレオンの元婚約者だったからだとも言われている。
**デジレ・クラリー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|8|3|69|37|85|内助・論客・富豪|C|C|C|C|C|C|1777|1860|ナポレオン・ボナパルト、ベルナドット|冷静|維持・長|5/5|2/5|1|
【デジレ・クラリー】
革命期フランスの令嬢。「西瑞克拉里」
マルセイユの富豪の家に生まれ、自身の姉を通じてナポレオンと知り合う。
姉がナポレオンの兄であるジョゼフと結婚すると、自らもナポレオンと親しくなり、
婚約者同然となるが、父の反対により断念。その後、出世して功を積んだナポレオンは
ジョゼフィーヌと結婚し、婚約を反故にされた。後にナポレオンのライバルとされるベルナドットと結婚。
ベルナドットが失態を犯した時もとりなして彼を救ったという。晩年はスウェーデン王妃となり、国母として敬われた。
※その他候補となった特技:風水
*その他
**マリア・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|12|45|61|27|80|仁政・洞察・富豪|C|C|C|C|C|C|1750|1836|ナポレオン・ボナパルト、ジョゼフ・ボナパルト、ポリーヌ・ボナパルト|冷静|維持・長|5/5|1/5|1|
【マリア・ボナパルト】
革命期フランスの人物。コルシカ島の出身。ナポレオン、ジョセフらの母。「マリア・レティツィア・ボナパルト」。
「玛丽亚·莱蒂齐亚·波拿巴」。コルシカ島の有力者のもとで生まれ、コルシカ独立戦争にも参加した。
夫であるマリ・ボナパルトが早逝すると、女手1つで子どもたちを育てた。のち、夫が親フランスを表明していたため
コルシカ島を追われマルセイユへと移り住む。ジョセフが有力富豪と結婚したことで暮らしもよくなったが、
金と権力に関しては終始懐疑的で、特に息子のナポレオン・ボナパルトが皇帝就任した時は強く反対し、戴冠式にも欠席している。
ナポレオンが失脚するとローマへ亡命したが、娘であったポーリーヌとともに彼を激励したという。晩年は弟の屋敷で暮らした。
**ポーリーヌ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|8|5|46|38|77|傾国・楽奏・解毒|C|C|C|C|C|C|1780|1825|ナポレオン・ボナパルト、ルクレール|小心|維持・長|5/5|2/5|1|
【ポーリーヌ・ボナパルト】
革命期フランスの人物。コルシカ島の出身。ナポレオンの妹。愛称はポーレット。「波拿巴」
ナポレオンに最も可愛がられた妹で、美人であった。しかし我儘で移り気があり、多くの男性と
色恋になり、そのたびによく家族から反対された。やがてナポレオンの部下で将軍ルクレールと結婚するが、
赴任先のハイチで疫病にかかり、彼女の看病の甲斐なくルクレールは亡くなった。その後
服喪を続けるが、喪が明けると再び色恋を続けたという。ただし実兄ナポレオンのことは
慕い続け、彼が没落してエルバ島に流された後も一緒に暮らしては励ましたという。
ナポレオンがセントヘレナ島へ流された際も随行を願い出たが許されなかった。1825年死去。
※その他候補となった特技:怒髪・不屈・内助
**アントワーヌ=アンリ・ジョミニ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|97|42|98|39|71|百出・運搬・洞察|C|C|C|A|C|A|1779|1869|ネイ|冷静|維持・長|3/5|3/5|22|
【アントワーヌ=アンリ・ジョミニ】
スイス出身の軍人、軍事学者。「安東莞·亨利·約米尼」。もとはヘルヴェティア共和国の軍人であったが、
限界を悟り出奔。その後、当時スイス総督であったミシェル・ネイによってフランス軍に抜擢された。ウルムの戦い、
アウステルリッツの戦いに参戦。その時ナポレオンの目に止まり、彼の著書を読んだナポレオンによって重用される。
1806年にネイの幕僚長となり、1808年にはネイに従ってスペイン遠征に従軍するが、フランス軍元帥であったベルティエから反発され、
彼の工作で幕僚長を解任された。この時辞職を願い出るもナポレオンの必死の懇願により軍に残留する。1812年のロシア遠征にも従軍するが、
1813年に反発するベルティエから職務怠慢を理由に禁錮刑を言い渡され、苦慮の末ロシア軍に寝返る。1815年には元上官のネイの助命嘆願に走った。
後年、「戦争概論」を著述。その完成度の高さはクラウゼヴィッツの「戦争論」と並び高い評価を受けた。
**ルスタム・ラザ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|12|80|64|18|56|護衛・血路・威圧|C|C|C|C|C|C|1783|1845|剛胆|維持・長|3/5|1/5|149|
【ルスタム・ラザ】
革命期フランスの軍人。もとはアルメニア人商人。「ルスタム・レザ」とも。「鲁斯塔姆·礼萨」。
アルメニアで幼少期を過ごしたが、戦争によって家族が離散し、奴隷となる。その後、数度の
従者・家臣として仕えた後、ナポレオン・ボナパルトに仕え、彼の護衛として武器管理や身の世話を行ったという。
ナポレオンに付き従い、主要な戦争にはほぼ全て参加したが、1814年ナポレオンが没落すると彼の元を離れた。
のち、ナポレオンの百日天下の際は帰参を願い出るも許されず、晩年は妻とパリで暮らしたという。
**アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|8|2|99|73|77|詩想・論客・反計|C|C|C|C|C|C|1766|1817|タレーラン・ベルナドット|ナポレオン|剛胆|早熟・長|4/5|3/5|18|
【アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール】
フランスの批評家、小説家。フェミニズム運動の先駆者とも言われる。「杰曼·德斯戴尔」「スタール夫人」。
父はスイスの政治家だが、幼年期からパリで暮らす。フランス革命の際は革命派を支持し、
積極的な関与を行った。のちドイツの文豪であるゲーテから才能を絶賛され、「小説論」「文学論」などを著す。
しかし、自由と平等、反専制・反独裁を掲げたため、皇帝となったナポレオンと対立し、パリから追放される。
以後は諸国を回ってナポレオンの排斥を掲げ、反ボナパルト体制を目論む有力者を仲介した。ナポレオン政権の崩壊後は
ベルナドットを擁立しての立憲君主制を目論むが、結果はブルボン王朝復活となり、数年後志を果たせず失意のまま病没。
**シャルル=アンリ・サンソン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|37|35|78|66|11|解毒・規律・沈着|C|C|C|C|C|C|1739|1806|ルイ16世、マリー・アントワネット|剛胆|維持・長|5/5|1/5|140|
【シャルル=アンリ・サンソン】
近世フランスの人物。パリの死刑執行人。「查尔斯」
フランス革命の影響で数多くの人物を処刑した。
その一方、副業として医者として数多くの人物を治療し
そのため特に貴族から一目置かれていた。なお本人は
熱心な死刑廃止論者であり、同時に王党派でルイ16世を崇拝しており、
彼を革命の余波で処刑したことを死ぬまで悔いたと言われている。
※その他候補となった特技:強運
*目安相性表
&color(red){実際に三国志11に登録する}際、当時の史実の世界観をより反映しやすくなります。
数値元の三国志武将についてはあまり考慮していません。
[[相性>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/983.html#id_35633e07]]は円形になっており、遠ければ遠いほど登用や処断、外交関係に影響します。
001:[[ナポレオン・ボナパルト>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_9422ea16]]
015:[[ロベスピエール>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_03c36933]]
020:[[エスポス・イ・ミナ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_199b3687]]
030:[[アレクサンドル・パヴロヴィチ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_5a8c3e32]]
050:[[ムハンマド・アリー・パシャ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_541971eb]]
075:[[アーサー・ウェルズリー>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_b59449a2]]
100:[[クラウゼヴィッツ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_0b7b411b]]
125:[[カール・フォン・エスターライヒ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_063b8ea9]]
140:[[ルイ・オーギュスト>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_4c43055b]]
001:フランス・ボナパルト朝
015:フランス・共和主義革命勢力
020:スペイン・郷土勢力
030:ロシア・ロマノフ王朝
050:オスマン帝国・エジプト
075:イギリス
100:プロイセン
125:オーストリア・ハプスブルク
140:フランス・ブルボン朝
----
#comment_num2(size=50,vsize=3,num=10,logpage=みんなの新武将/フランス革命・ナポレオン戦争/コメント)
#CONTENTS
----
*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
各人物のアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]特に武勇に優れる「偉人」「猛将」などの
個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
&color(red){武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。}アイテム効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/16.html]]。能力効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html]]
*フランス革命・ナポレオン戦争
18世紀のヨーロッパでは社会契約説や人権主義など、人間の解放を唱える啓蒙思想が広く伝播していた。
しかし、当時のフランスではブルボン朝における絶対君主制が継続されており、第三身分と呼ばれた
平民は、身分差別や特権階級側からの圧迫、また天災による治安不純などもあり、ブルボン朝の
融和政策も虚しく、1789年にバスティーユ牢獄が襲撃され、革命気運がフランス全土に広まった。
この革命気運はヴァレンヌ事件を経て反国王、反体制の方向へと突き進むことになり、
1793年には国王であった[[ルイ16世>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_4c43055b]]が刑死するに至った。その後、革命は紆余曲折を経て
国民総会、ついで総裁政府が誕生するも、混乱し続ける中央をよそに軍閥が台頭。
他国の侵略も加わり内憂外患を抑える必要性も後押しし、軍人[[ナポレオン>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_9422ea16]]が統領、ついで皇帝となる。
ナポレオンはフランス帝国の皇帝となり、自らの一族も衛星国の皇帝として掲げ、莫大な勢力と
権力を手にしたが、対仏大同盟と呼ばれる反対勢力との戦争で、当初は優勢であったが
徐々に勢いを削がれ、百日天下を経てついに失脚。1821年に幽閉先で病死するに至った。
ナポレオン戦争の終結後、ウイーン体制と呼ばれる国際秩序が構築された。
詳細な説明は[[こちら>https://goo.gl/GpkhZC]]や[[こちら>https://goo.gl/X0f28v]]や[[こちら>https://goo.gl/p2KrKV]]など
※備考
光栄(現:コーエーテクモ)による発売ソフト、「[[ランペルール>https://goo.gl/CQRaQQ]]」における[[各人物の能力値表>http://goo.gl/cMxt0g]]
イギリス・プロイセンなど一部の勢力は → [[対仏大同盟>みんなの新武将/対仏大同盟]]
*詳細
「みんなの新武将」として記述・登録できる人物(武将)の時代・国家(地域)などは基本的に[[ランペルール>http://goo.gl/cMxt0g]]の登場人物に準ずる。
一番の早生まれは[[カサノヴァ>https://goo.gl/vlP7ny]]含む3人の1725年。一番の遅生まれは[[ヴィクトリア>https://goo.gl/ZhPy0X]]で1819年である。
登場国家はランペルールで登録されている14ヶ国の他、近隣諸国などの「その他」の15項目としている。
時代の異なる欧州の人物は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2724.html]]、アメリカなどは[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2726.html]]を参照。
日本・中国などの同時代人物はみんなの新武将・該当項目ページをそれぞれ参照。
*漢字表記
三国志11は無印PK問わず、姓名にそれぞれ2文字までしか表記できない。
そのため、カタカナ表記の偉人は、そのままだと三国志11に登録することができない事が多い。
しかし、漢字・中国語表記をすることで、文字数を減らし、登録することができるようになる。
よって、当項目では武将や偉人を投稿する場合、漢字表記もそれとわかるよう併記することが望まれる。
例:ナポレオン(拿破仑)、ダヴー(达武)など
*フランス
**ルイ・オーギュスト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|28|40|53|77|86|造船・指導・発明|C|C|C|C|C|C|1754|1793|マリー・アントワネット|冷静|早熟・長|3/5|3/5|140|
【ルイ・オーギュスト】
フランス王国ブルボン朝の国王。「ルイ16世」「路易・奥古斯特」。弟にルイ18世。
ルイ・フェルディナン王太子の3男として生まれ、兄や父の早逝からフランス王太子となる。
のちに1774年に祖父であったルイ15世が逝去すると、フランス国王となった。
農奴制の廃止や身分制の融和、アメリカ独立戦争への介入や海軍港の整備など
積極的な内政を志すも、財政難が頂点を迎え、一部の貴族層からの反発が起こり変革は失敗に終わった。
やがてフランス革命が起こると、当初は国民議会への融和を測るも、ヴァレンヌ事件によって
革命過激派の猛反発を食らうこととなり、幽閉されて1793年に刑死した。
**マリー・アントワネット
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|4|1|65|27|9|規律・傾国・遁走|C|C|C|C|C|C|1755|1793|ルイ・オーギュスト|冷静|維持・短|3/5|2/5|139|
【マリー・アントワネット】
フランス王国ブルボン朝の王妃。国王ルイ16世の王妃にあたる。「玛丽·安托瓦内特」
神聖ローマ皇帝シュテファンを父に持ち、オーストリア女大公マリア・テレジアを母に持つ。
フランスとの同盟強化の一貫でフランス国王となったルイ16世のもとへ嫁いだ。
フランス王妃となってからは、財政難への対応として宮廷対応の簡素化などを行うが、
宮廷では反感が目立ち、民衆を煽り立てる流言飛語もとんだと言われている。
フランス革命勃発後は、国王と謀って実家のオーストリアに逃亡しようとするも失敗。
これが国民の反国王、反体制思想に火をつける結果となり、1793年10月に処刑された。
フランスの王政復古後を中心に彼女の名誉回復がはかられ、多くの反感材料が無実であったという。
**マリー・テレーズ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|30|26|58|44|67|遁走・強行・昂揚|C|C|C|C|C|C|1778|1851|ルイ・オーギュスト、マリー・アントワネット、ルイ・シャルル|ロベスピエール、フーシェ、ナポレオン、ルイ・フィリップ|冷静|維持・短|4/5|2/5|140|
【マリー・テレーズ】
フランス王国ブルボン朝の王族。父親はルイ16世、母親はマリー・アントワネット。弟にルイ17世。「瑪麗-泰瑞絲」。
フランス王家の第一王女として生まれ、ヴェルサイユ宮殿で幼少期を過ごした。フランス革命発生後に
父、母、叔母を処刑されて亡くし、弟のルイ17世も幽閉先で獄死したため孤独の身となる。
しかしロベスピエールが亡くなり革命派の勢力が弱体化されると待遇が改善され、オーストリア皇帝フランツ2世の
要望により身柄を引き渡され、獄中から逃れた。以後は政治情勢やナポレオン台頭に従い諸国を転々とし、ナポレオン退位後は
フランスのパリへと戻る。百日天下の際には演説によってブルボン王朝の軍勢を鼓舞した。
以後もブルボン王朝の人間としてフランスに尽くすが、7月革命の際に再び亡命し、オーストリアに庇護されたまま客死。
※ ルイ16世の子女では唯一天寿を全うした。革命派及び彼らに協力した人間を生涯嫌っていたと言われ、特に新興貴族とはしばしば対立した。
**ルイ・スタニスラス
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|34|51|68|54|80|遁走・名声・威圧|C|C|C|C|C|C|1755|1824|ナポレオン・フーシェ|冷静|早熟・長|3/5|3/5|141|
【ルイ・スタニスラス】
フランス王国ブルボン朝の皇族、国王。ルイ16世の実弟、のちのルイ18世。「ルイ・スタニスラス・グザヴィエ」
「路易・斯坦尼斯」。若年の頃は兄に対抗するため、武術や学問を学んだと言われている。
フランス革命が発生すると、早い段階でパリを離れ、コブレンツへと逃走。ルイ16世らが刑死すると
ブルボン家の長として、ナポレオンに対抗する立場となるが、彼本人は積極的ではなかった。ロシア、イギリス、
プロイセンなどを転々としていたが、ナポレオンが退位するとウィーン会議によってフランス皇帝となる。百日天下の際に
再びパリを離れたが、ナポレオンが失脚すると再び皇帝となった。当初は融和的な政策を打ち出していたが、晩年は
絶対王政に切り替え、ブルボン朝の行く末に暗い影を落とした。タレーランは彼のことを酷評したと言われている。
**シャルル=フィリップ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|3|42|9|2|8|怒髪・反計・徴税|C|C|C|C|C|C|1757|1836|ナポレオン・フーシェ・ロベスピエール|猪突|早熟・短|1/5|5/5|136|
【シャルル=フィリップ】
フランス王国ブルボン朝の皇族、国王。のちのシャルル10世であり、ブルボン朝最後の国王。「查尔斯·菲利浦」
ルイ16世やルイ18世の弟にあたるが、兄達とは不仲であった。一方でマリーアントワネットとは仲が良かったと言われる。
熱心な絶対君主制の信者であり、革命勢力や第三身分の弾圧を支持していた。フランス革命が起こると、兄達が折れる中
ただ1人反革命運動を貫くが、自ら手を汚すことはせず、反革命派の士気を折ってさしたる成果を出せなかった。
1800年にはナポレオン暗殺を王党派とともに企むが、これも失敗に終わっている。ナポレオン失脚後は兄が国王に即位、
子供のいなかった国王の後継者とされるが、ここでも反革命派として活動したため、次男を失っている。国王に即位すると、
兄以上の君主専制政治、民衆弾圧を行い、7月革命で王位を追われ、ウィーン体制崩壊の前兆を作る。その後亡命先のオーストリアで死去。
**ロベスピエール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|8|6|92|83|89|名声・鬼門・詭計|C|C|C|C|C|C|1758|1794|サン=ジュスト|冷静|維持・長|3/5|5/5|15|
【ロベスピエール】
革命期フランスの政治家。「マクシミリアン・ロベスピエール」。「罗伯斯庇尔」
フランス革命勢力における最高指導者の1人。幼少の頃から学に励み、ルイ16世の行幸を迎えた。
成長した後は弁護士として活躍、この時裁判でベンジャミン・フランクリンの発明した「避雷針」の有用性を
立証し、その効果を認めさせている。弁護士として高く評価されていたが1789年より政界に参入、
三部会の第三身分代表の1人となる。ジャコバン派の山岳派の一員として、対立派閥と権力闘争を行い、
1793年に巨大な権力を掌握。事実上の「独裁」となり、民衆を扇動して、自らの革命理論を実践した。
しかし、1794年のテルミドールのクーデターによって失脚、刑死した。恐怖の独裁政治家と呼ばれる一方、
革命に殉じた正義の政治家とも呼ばれることがある。
**ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|65|42|81|69|84|補佐・百出・論客|C|C|C|C|C|C|1767|1794|ロベスピエール|冷静|維持・長|4/5|1/5|15|
【ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト】
革命期フランスの政治家。「路易·德聖茹斯特」。「革命の大天使」の異名を取る。
1767年に生まれ、理論家としての道を歩み、国王や教会などを批判して追われた。
のち、革命気運が高まるに連れて、革命派として行動、国民公会議員当選後は政治家の道を歩む。
1792年のフランス革命で国王ルイ16世らが捕らえられた際には、国王処断の演説を行い、
議員や民衆の反国王思想を結実させ、革命を成就させた。以後、革命派ロベスピエールの側近として政策や
治安維持に奔走するが、1794年テルミドールのクーデターによって失脚、刑死した。
**ポール・バラス
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|23|10|84|75|31|眼力・富豪・徴税|C|C|C|C|C|C|1755|1829|小心|維持・長|1/5|4/5|10|
【ポール・バラス】
革命期フランスの政治家。「バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ」。「保罗」
古参貴族の家に生まれ、軍隊に入隊するが、フランス革命勃発を機に政治家としてジャコバン派を支持、加入する。
国民公会議員、ついで派遣議員として各地を回り、イタリアにてナポレオンに同道した。
「悪徳の士」と呼ばれるほど悪行や汚職に手を染め、虐殺や横領などから政府に召喚されるが、
逆にフーシェと組んでクーデターを起こし、ナポレオンを懐刀として総裁政府の有力者に君臨。
しかし、ナポレオンら臣下を持て余し、王政復活を試みるも、1799年のクーデターで失脚。以後は隠棲した。
※ ナポレオンの最初の妻であるジョセフィーヌは、もともと彼の愛人だった。
**ラザール・カルノー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|87|76|94|49|63|名声・規律・運搬|C|C|B|B|A|C|1753|1823|剛胆|政治:早熟・短 それ以外:維持・長|3/5|3/5|11|
【ラザール・カルノー】
革命期フランスの政治家、軍人。「ラザール・ニコラ・マルグリット・カルノー」「拉扎尔·卡诺」
もとは平民の出身。工兵士官学校を経てフランス軍に入隊。のち議員に選出されフランス革命戦争に四苦八苦するフランス革命政府で重用された。
軍制改革、徴兵制度、軍需工場の整備など、フランス軍の抜本的な改革を行い、「勝利の組織者」と呼ばれる。
ジュールダン元帥とともに軍を率いて、革命戦争でのフランス優勢を決定づけたが、以後は警戒され政治の表舞台から
引き下がる。テルミドールのクーデターの後も名誉職へ就任するに留まった。共和主義者でナポレオンの皇帝就任には
反対したが、ナポレオン戦争でフランス軍が不利となると、愛国心からナポレオンに味方し、善戦した。以後ナポレオンの
失脚まで彼を支え、ルイ18世の即位後は国を追われる。晩年はドイツで過ごした。科学者としても著名。
※その他候補となった特技:建築・能吏
**ジャン=バティスト・ジュールダン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|73|74|79|88|86|妙計・規律・名声|B|B|A|A|A|B|1762|1833|ジョゼフ・ボナパルト|冷静|政治:維持・長 それ以外:早熟・短|4/5|2/5|142|
【ジャン=バティスト・ジュールダン】
革命期フランスの軍人、政治家。「让・巴蒂斯特・乔丹」。若くして軍隊に入隊し、アメリカ独立戦争にも従軍して功績を上げた。
フランス革命戦争が始まるとフランスに協力し、この時カルノーの抜擢を受け、フランス革命政府軍の重鎮として活躍する。
主にオーストリア軍と戦い、フリューラスの戦いでは気球を偵察に使用して敵を一網打尽にした。
しかし、カール大公が軍を率いてくると連戦連敗を重ねた。革命戦争後半には政治家も努め、
国民皆兵の基礎となる「ジュールダン法」を制定し、後のフランス軍躍進の基盤を築く。1804年に元帥就任。ナポレオン戦争では
親しかったジョゼフ・ボナパルトを補佐。ナポリ、スペインで軍事の重鎮となるが、スペイン方面でアーサー・ウェルズリーに大敗し、軍を退役した。
※その他候補となった特技:能吏・射程
**タレーラン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|22|17|100|99|59|論客・神算・富豪|C|C|C|C|C|C|1754|1838|スタール夫人|剛胆|維持・長|4/5or2/5|2/5or4/5|141|
【タレーラン】
革命期フランスの政治家。「シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール」「塔列朗」
フランス有数の貴族の家に生まれ、早くから政界に参加した。はじめルイ16世に仕え三部会第一身分の
中心をつとめた。革命派の台頭で一時期に亡命した後、フランスへ帰国後はナポレオンに仕える。
ナポレオンのもとで外交内治両面に力を発揮し、高い評価を得て重用されたが、ナポレオンの皇帝就任後は徐々に対立。
ナポレオンの失脚後はルイ18世に仕え、ウィーン会議では高い交渉力と外交力で敗戦国でありながらフランスの国益を堅持
することに成功した。一度失脚するも、その後は政治家としてフランスに終生仕えた。今日フランスの礎を作り、
メッテルニヒと並ぶ外交家、政治家として評価されている。メートル法の生みの親。
※その他候補となった特技:強運・徴税・洞察
**ジョゼフ・フーシェ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|84|13|99|80|11|威圧・虚実・火神|C|C|C|C|C|C|1759|1820|冷静|維持・長|1/5|5/5|13|
【ジョゼフ・フーシェ】
革命期フランスの政治家。中国語表記は不明。はじめロベスピエール、ついでナポレオンに仕える。
政界に入る前からロベスピエールとは親交があり、フランス革命前後に政界参入。国王ルイ16世の
処刑票を投じて革命勢力の一員となる。革命政府ではロベスピエールの側近として、リヨンの反乱を鎮圧。
この時リヨンの大虐殺を行い、約2000人を弾圧目的で処刑して「リヨンの霰弾乱殺者」とまで呼ばれた。
その後、ロベスピエールと対立するとテルミドールのクーデターを起こし、彼を処刑。総裁政府、ナポレオンに
従って警察大臣として権勢を振るった。1808年にナポレオンを見限り始め、独断での越権行為が露見して辞職。
百日天下では再びナポレオンを支持し、ナポレオン2世を皇帝につけた。のちルイ18世が政権を握ると、ルイ16世の
処刑票を投じたことを咎められ、失脚。1820年に死去。晩年は穏やかな暮らしだったと伝わる。
※その他候補となった特技:明鏡・強運・百出
**ナポレオン・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|100|93|95|100|91|飛将・強行・名声|A|B|S|S|S|B|1769|1821|ランヌ・ドゼー・ベシェール・ジョセフィーヌ|剛胆|早熟・短(知力・政治) 維持・長(それ以外)|1/5|5/5|1|
【ナポレオン・ボナパルト】
革命期フランスの軍人、政治家。「拿破仑一世」または「拿破仑」
コルシカ島の血統貴族の家に生まれ、パリの陸軍士官学校を経て砲兵士官に就任。
革命を起こしたフランス軍に所属し、一度政争の煽りを受けて失脚するものの
再び抜擢され、以降対仏大同盟との戦いにおいて功績を上げ続けた。
エジプト戦線では連戦連勝を重ねるが外交戦略によって孤立、遁走するものの、
国内に帰還後は第一執政となり、敗北と勝利を重ねながらもフランス勢力を拡大させ
皇帝に就任。兄弟も皇帝に据えて、神聖ローマ帝国を滅ぼしヨーロッパのほぼ全てを旗下に加えた。
だがイギリス・ロシアを中心とした組織的抵抗を完全封殺するには至らず、ロシア戦役の敗北後に
対仏大同盟による解放戦争で失脚。息を吹き返した後も長続きせず、百日天下を迎えた後セントヘレナ島へ追放され、同地で死没。
彼の行動原理はナポレオン法典や戦争論、革命理念など、ヨーロッパに数多くの遺産となって受け継がれた。
※その他候補となった特技:覇王・遁走・威風・強運・藤甲・長駆・踏破・金剛・急襲・駆逐・連戦・虚実・洞察
**フランソワ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|37|33|65|41|77|名声・詩想・怒髪|C|C|C|C|C|C|1811|1832|ナポレオン|冷静|早熟・長or開眼(知力・政治)|4/5|1/5|1|
【フランソワ・ボナパルト】
革命期フランスの皇族。ナポレオン・ボナパルトの息子。のちのナポレオン2世。「ナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ」
「拿破仑二世」「ライヒシュタット公」。ナポレオン・ボナパルトを父に持ち、オーストリア皇族のマリア・ルイーザを母に持った。
生まれた直後にローマ王とされたが、3年後にナポレオンは皇帝を退位しエルバ島へ失脚。母に連れられてオーストリアへ向かい、
メッテルニヒの監視下に置かれた。その後ナポレオンが百日天下で舞い戻ると、オーストリアとの融和政策を提唱する
フーシェの案により、若干4歳にして名目上の皇帝となる。父がセントヘレナ島へ幽閉されると、母がナイペルク伯と再婚。
若年期はナポレオンの著書を研究する一方、政界の重要人物と面会することもあったという。ほぼ同時期に結核を発症。若干21歳で早逝した。
**ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|9|8|60|66|83|洞察・内助・傾国|C|C|C|C|C|C|1763|1814|ナポレオン|カロリーヌ|冷静|維持・長|4/5|1/5|1|
【ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ】
革命期フランスの皇族、ナポレオン最初の皇后。フランス領西インド諸島の生まれ。「约瑟芬·德博阿尔内」
はじめアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚し、一男一女をもうける。しかし生来不仲であり、離婚して一度故郷に戻った。
その後再びフランスへと戻ってくるが、フランス革命の混乱期で、生前の夫の姿勢もあって投獄された。釈放後は
総裁政府の有力者であったポール・バラスの愛人となり、当時彼の臣下であったナポレオンの求婚を受けて婚姻する。
その後、ナポレオンの出世に従い栄達を極めたが、それに奢ることなく飾らない性格で将兵や国民からの支持は厚かったと言われている。
しかし、1810年に皇帝となっていたナポレオンとの間に子供ができなかったため離婚した。離婚後もナポレオンとは昵懇な
関係が続いていたという。ナポレオンの失脚に気落ちし、百日天下の凱旋を待たずして死去した。
補足:元来恋多き女性であり、婚姻後も浮気をして度々ナポレオンを悩ませた。しかし、ブリュメールのクーデター前後から自身がナポレオンの浮気に悩まされるようになる。
**ウジェーヌ・ド・ボアルネ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|84|82|73|48|71|飛将・鉄壁・明鏡|B|B|S|S|A|C|1781|1824|アウグステ|冷静or剛胆|維持・長|4/5|1/5|1|
【ウジェーヌ・ド・ボアルネ】
革命期フランスの軍人。ナポレオンの養子であり、フランス皇子。イタリア副王、ヴェネツィア公。「欧仁·德·博阿尔内」。
若干15歳でナポレオンのエジプト遠征に補佐官として随行。1799年のアブキールの戦いにも参加した。1800年ブリュメールのクーデターにより、
ナポレオンが権力を極めると、その擬似一門として活躍。マレンゴの戦い、イタリア遠征に参加し、1804年にはレジオンドヌール勲章を授けられ、将軍となった。
1805年にイタリア副王となり、同年バイエルン王国の王女を娶った。1809年にはオーストリア戦役で名を挙げ、この際イタリア軍の
最高司令官を務めている。ロシア戦役では敗走するフランス軍にあって、主に撤退戦や防衛戦で抜群の働きを見せ、
敵味方ともに感嘆されたと言われる。1813年にミュラが離反すると、ナポリ・オーストリア連合軍と戦ったが、
自国の政変で抵抗を諦めてバイエルンに亡命した。百日天下では中立を貫いた。1824年早逝、子孫は4王朝へと連なっている。
補足:ナポレオンの最初の皇后であった、ジョセフィーヌと前夫との間にできた子供の1人。再婚当時ナポレオンには子供がなく、妹ともども重用された。
ジョセフィーヌとナポレオンの離婚後も、双方の仲は良く、双方の懇願もあってそのままナポレオンに仕え続けた。
**ジョゼフ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|26|15|48|69|77|名声・親蛮・遁走|C|C|C|C|C|C|1768|1844|小心|維持・長|3/5|3/5|5|
【ジョゼフ・ボナパルト】
スペイン、ボナパルテ朝の国王。ナポレオン・ボナパルトの実兄にあたる。もとナポリ国王。「约瑟夫」
はじめローマに駐在しフランス全権公使に就任。弟のナポレオン・ボナパルトがフランス革命戦争などで
権力者に登りつめると、ナポレオン一族の重鎮としてナポレオンの覇業に従った。はじめナポリ国王となり、
義弟のミュラが後を継ぐとスペイン国王となった。しかし、分裂するスペインの国民や、武断政治を勧めようとする
ナポレオンからの板挟みにあい、はじめは国内改革を行い支持されるも、戦況悪化に伴って次第に実権を失う。
スペイン独立戦争ではフランス軍のジュールダン元帥と組んでイギリス軍のアーサー・ウェルズリーと戦うが大敗。
亡命後はフランスパリの防衛につくが、ナポレオンの快進撃をよそにマルモン元帥が降伏すると、自身もパリを明け渡した。
ナポレオンの失脚後はアメリカに亡命。その後イタリアで死去した。
※その他候補となった特技:富豪
**リュシアン・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|32|26|78|53|67|明鏡・論客・威圧|C|C|C|C|C|C|1775|1840|冷静|維持・長|2/5|4/5|10|
【リュシアン・ボナパルト】
革命期フランスの政治家。ナポレオンの実弟。「吕西安」
コルシカ島で生まれ、フランス革命時にジャコバン派へと加入し、革命政府を支持。
そのため島を追われフランスへ移住した。フランス移住後は実兄ナポレオンを補佐し、
五百人会の議長となる。ブリュメールのクーデターではナポレオンを補佐して成功に導き、
ナポレオン政権下で内務大臣になる。しかし後に仲違いし、1804年義絶。以後イタリア、
イギリスなどに移住する。百日天下では再びナポレオンに協力。晩年はイタリアで過ごした。
※その他候補となった特技:能吏
**ルイ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|40|49|37|56|45|富豪・遁走・風水|C|C|B|C|C|C|1778|1846|小心|維持・長|2/5|3/5|12|
【ルイ・ボナパルト】
革命期フランスの軍人。のちホラント王。ナポレオンの実弟。「路易・波拿巴」。
早くからナポレオンに従い、イタリア遠征やエジプト遠征に随行する。
ナポレオンがジョセフィーヌと婚姻すると、ナポレオンの差配のもと、
彼女の連れ子であったオルタンスと婚姻するが、不仲が続きのちに離婚している。
1806年にはオランダのホラント王国の国王となるが、現地オランダに配慮した
政治体制をとったため、ナポレオンの怒りを買い廃位させられた。以後ボスニアで隠棲した。
※その他候補となった特技:祈願
**ジェローム・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|48|66|25|39|52|長駆・反計・操舵|C|C|B|B|B|B|1784|1860|剛胆|維持・長|3/5|3/5|7|
【ジェローム・ボナパルト】
革命期フランスの軍人。ナポレオンの実弟。ヴェストファーレン国王。「热罗姆」。
末弟のため兄ナポレオンからも可愛がられ海軍に入隊した。しかしイギリス軍との戦闘で敗れ
アメリカ合衆国に逃亡し、現地人と婚姻した。その後本国に帰るが、結婚をナポレオンに
反対されたため泣く泣く離婚し、ボナパルト朝王家の一員となる。以後は兄ナポレオンを
支え、ヴェストファーレンの国王となるが、ロシア遠征ではナポレオンと対立して戦線離脱、
1813年のライプツィヒの戦いでも敗走し、養父のもとへ逃げ込んだ。百日天下でもナポレオンを支持するが、
ワーテルローの戦いでウーグモン館を攻略できず敗戦の一因となる。甥のルイ・ナポレオン政権下では元帥となった。
※その他候補となった特技:規律
**ルイ・ナポレオン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|43|38|67|81|73|遁走・築城・名声|C|C|C|C|C|C|1808|1873|ナポレオン・ボナパルト|冷静|維持・長|3/5|4/5|10|
【ルイ・ナポレオン】
フランスの政治家、のち皇帝「ナポレオン3世」。「路易・拿破仑」
ナポレオン・ボナパルトの実弟であるルイ・ボナパルトの三男として生まれる。
1815年のボナパルト朝崩壊に伴いフランスを追われ、亡命生活を余儀なくされたが、
7月革命及び2月革命による政情不安に助けられフランスへと戻った。伯父ナポレオン・ボナパルトの
名声を後押ししつつ、対立する派閥を上手く手玉にとってその支持を取り付け、フランス大統領、ついで
皇帝となり第二帝政を開始した。祖国フランスの都市拡張や技術革新、植民地の増大やアジア進出など
多くの事業を手がけ、仇敵イギリスとの同盟締結や協調路線を築きフランスをかつてのような大国に押し上げる。
しかし、普仏戦争でビスマルクやモルトケ率いるプロイセンを相手に大敗。捕縛されたことで帝政は崩壊した。晩年はイギリスへ亡命し、そこで客死。
※その他候補となった特技:論客
**ジャン=アンドシュ・ジュノー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|69|77|53|38|45|猛者・怒髪・遁走|B|C|A|B|A|C|1771|1813|ナポレオン|ミュラ|猪突|早熟・短|4/5|2/5|1|
【ジャン=アンドシュ・ジュノー】
革命期フランスの軍人。「朱诺」。ナポレオンの母であるマリア・ボナパルトからは「6番目の息子」と呼ばれる。
フランス革命時にはパリで勉学に励んでいた。フランス革命戦争時には義勇兵として活動し、トゥーロン攻略戦から
ナポレオンと知り合う。以後、ナポレオンの古参、友人としてその腹心となり、イタリア戦役、エジプト戦役、
ブリュメールのクーデターなど、ナポレオンの立身出世の舞台に居合わせた。以後はスペイン・ポルトガル方面で活躍。
アウステルリッツにも参戦しつつ、ポルトガルやスペインの攻略作戦で軍功を立てた。しかし、スペインゲリラを敵に回した上、
イギリス軍が上陸してくると苦しみ、アーサー・ウェルズリーに大敗して事実上の降伏を行った。フランスに帰国後はマッセナの指揮下に入り、
再びスペイン戦線に戻る。ロシア遠征にも参加するが、その後精神を病み軍を辞職。1813年に自殺した。一説にはイタリア戦役での重傷の古傷が原因という。
**アントワーヌ・ドゼー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|85|79|87|81|84|洞察・眼力・疾走|A|B|S|S|A|C|1768|1800|ナポレオン・ダヴー・クレベール|冷静|維持・長or開眼(統率・政治)|5/5|1/5|3|
【アントワーヌ・ドゼー】
革命期フランスの軍人。「ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー」「安托万·打盹」。
初めブルボン朝の国王軍に入隊し、フランス革命が起きると革命政府の軍に入り、さらに変事が起きると
フランス共和制政府のもとへ入り、フランス革命戦争を戦った。ジュールダン、モロー将軍らの麾下として
ドイツ戦線で活躍する。1796年にナポレオンと知り合い、イタリア戦役に従軍。以後エジプト戦役にも従軍し、
彼の躍進を支えた。エジプトでは公正明大な統治も行い、「正義のスルタン」と呼ばれている。
その後ナポレオンの再度のイタリア戦役に合流。オーストリアと戦ったマレンゴの戦いでは窮地のフランス軍を救い、
フランス軍勝利に導く活躍をしたが、戦争中に戦死した。その名誉は凱旋門やヴィクトワール広場の碑で讃えられた。
補足:当時副官であったダヴーをナポレオンに引きあわせた人物としても有名。
※その他候補となった特技:仁政・補佐・急襲
**ジャン・パプディスト・クレベール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|82|85|76|68|69|不屈・藤甲・金剛|B|S|S|A|A|C|1753|1800|ドゼー|剛胆|維持・長or開眼(統率・知力)|4/5|3/5|143|
【ジャン・パプディスト・クレベール】
革命期フランスの軍人。「克莱伯」。元はバイエルン軍に所属していた。
フランス革命の際にフランス軍に入隊し、以後革命政府のもとで従軍して軍功を重ね、
ヴァンデの反乱の鎮圧やドイツ方面の戦いで多大な貢献を残した。革命政府の評価は低かったが、
その重鎮特にナポレオンからの評価は高く重用された。しかしエジプト戦役の際撤退するナポレオンの後任となり、
劣勢の状況の中奮戦して連勝を重ねるが、道半ばで暗殺された。奇しくもドゼーの戦死した同年同月同日であったといい、
ナポレオンは後に2人の死を生涯最大の損失と語った。
※その他候補となった特技:駆逐・威圧・鉄壁
**フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|84|89|61|55|72|騎神・白馬・疾走|B|C|A|S|B|C|1770|1835|剛胆|維持・長|3/5|4/5|141|
【フランソワ・エティエンヌ・ケレルマン】
革命期フランスの軍人。「凯勒曼」。父親は名誉元帥「フランソワ・クリストフ・ケレルマン」。
若年の頃から軍隊に入り、フランス革命戦争では父に従ってアルプス方面軍に所属し、
のちにナポレオン率いるイタリア方面軍と合流、タリアメントの戦いで功を立てた。
1800年のマレンゴの戦いではドゼーとともに崩壊寸前のフランス軍を救う騎兵突撃により逆転勝利を掴み、
史上最も有名な騎兵突撃と称された。以後はスペイン戦役、ドイツ戦役、フランス戦役と従軍し軍功を立てる。
百日天下でもナポレオンに味方し、イギリス軍に突撃をかけるが、多勢に無勢で徐々に劣勢となった。後にブルボン朝が復興すると隠棲。
**ルイ=ニコラ・ダヴー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|96|85|98|87|32|洞察・虚実・補佐|B|B|S|A|S|B|1770|1823|ナポレオン・ドゼー・サン=シール|ミュラ|冷静|維持・長|5/5|2/5|3|
【ルイ=ニコラ・ダヴー】
革命期フランスの軍人。「不敗のダヴー」の異名を持つ。「路易·尼古拉·达武」
軍人貴族の家系に生まれ、エジプト戦役の頃からナポレオンに忠誠を誓っていた。
軍政両面に才能を発揮し、ナポレオンの信頼を得て34歳の若さで元帥に就任。
ナポレオンの勢力拡大にも大きな貢献を残し、アウエルシュタットの戦いでは2倍以上の敵を破った。
ロシア戦役でも孤軍奮闘し、ナポレオンが百日天下で没落する中でもパリを守り抜いた。
ナポレオンがダヴーの諫言を受け入れていれば、ナポレオンの失速はなかったと言われている。
※その他候補となった特技:鉄壁・金剛・不屈・藤甲・踏破
**アンドレ・マッセナ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|95|92|89|42|49|強奪・勇将・強行|A|A|S|S|B|C|1758|1817|レイユ|剛胆|早熟・長|3/5|4/5|2|
【アンドレ・マッセナ】
革命期フランスの軍人。「安德烈·马塞纳」。フランス革命勃発時の前後から軍に入隊。1795年に
ロナートの戦いでオーストリア軍を破る。1796年以降はナポレオン指揮下に入るも、変わらず軍功をたてつづけ、
リヴォリの戦いでは機動戦を展開し短期間で3つの戦いに勝利した。のちにスイス方面軍司令官となり、
ロシア・オーストリア連合軍の戦いでは機動戦で翻弄、敵司令官のアレクサンドル・スヴォーロフに苦心の転進を決意させる。
1800年にはイタリアで10万のオーストリア軍の攻撃を耐え続けて味方の勝利を呼んだ。1804年に元帥就任後は、
イタリア方面軍となりカール大公と戦い、これを破る。1809年のアスペルン・エスリンクの敗戦の際も、戦場で敵の攻撃を耐え続け橋頭堡を守護した。
ヴァグラムの戦いで軍功を立て、大エスリンク侯爵となる。1810年のスペイン独立戦争では、ポルトガル司令官となりアーサー・ウェルズリーと戦うが
持久戦に徹され、徐々に劣勢となり、敗退。以後はマルセイユ司令官として前線を退き、百日天下でも中立を貫いた。1817年パリで死去。
※その他候補となった特技:急襲・眼力・強運・駆逐・連戦・明鏡・長駆
補足:ナポレオン体制での戦歴の数多さから、ナポレオン麾下元帥の中では[[ダヴー>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_dcb47ea9]]と並び最高の司令官とも言われる。
一方で金銭の略奪行為や男装の女性愛人を戦場にしばしば連れ込むことを好み、トラブルも多かったという。
**ジャン・ランヌ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|84|93|57|46|90|勇将・連戦・猛者|S|B|S|S|A|C|1769|1809|ナポレオン|ミュラ・ベシェール|猪突or剛胆|知力:開眼 それ以外:維持・長 |5/5|1/5|1|
【ジャン・ランヌ】
革命期フランスの軍人。「让·拉纳」。ナポレオンから「友」として遇された。
農民の出であったが、フランス革命発生後は国民防衛軍に志願。のちに
イタリア方面司令官だったナポレオンの目に留まり、抜擢された。以後、
ナポレオンから重用され、それに応える形で戦いでは常に先陣を争い、劣勢にあっても
頑強な戦い方をするなど軍の中核を担った。オーストリア、ロシア、スペイン戦役で常に
勝利を収め、ナポレオンの快進撃を支えていたが、アスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンが敗戦した際に
砲弾を受けて負傷。その戦傷がもとで死去した。将兵の人気は高く、「我らがローラン」と讃えられていたという。
※その他候補となった特技:洞察・威風・名声
※フランス有数の勇者の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**ミシェル・ネイ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|76|94|44|52|78|勇将・強行・楽奏|A|B|S|S|B|C|1769|1815|マッセナ|猪突|早熟・短(知力・政治・統率) 開眼(武力・魅力)|4/5|1/5|1|
【ミシェル・ネイ】
革命期フランスの軍人。「米歇尔·内伊」。ルイ16世、ナポレオンらに仕える。
フランス革命前後に軍に入隊して頭角をあらわし、主にマリー・モローの指揮下などで奮戦。1804年にナポレオンから元帥の1人に任命されると
ナポレオン麾下として活躍。戦争でも軍功を立てるかたわら、戦術家のジョミニを抜擢しているなど人材面での
功績も立てた。1806年のイエナの戦いでは先行しすぎて敵中に孤立し、ランヌに救われる。しかし翌年のアイラウの戦いでは
軍を強行させてナポレオンを救援、フランス軍大敗北を未然に防ぐ功績を立てた。その後スペイン戦役、ロシア戦役、ドイツ戦役と
数々の戦いに参加し功を立てた。一方、その猪突猛進が災いすることもあり、アーサー・ウェルズリーやベルナドットに敗れることもあった。
ナポレオンの百日天下の際には、ルイ18世側として軍を率いてのナポレオン捕縛を命じられるも、一転ナポレオン側についた。
しかしワーテルローの戦いでは決定的なミスをおかし、ナポレオン軍敗北に繋がる致命傷を招いた。ナポレオン失脚後、反逆罪として銃殺刑に処された。
※その他候補となった特技:眼力・猛者・飛将・神将
※フランス有数の勇者の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
**ルイ=アレクサンドル・ベルティエ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|42|67|95|62|66|洞察・百出・反計|C|A|C|A|S|C|1753|1815|ジョミニ|冷静|維持・長|4/5|3/5|142|
【ルイ=アレクサンドル・ベルティエ】
革命期フランスの軍人。ルイ16世、ナポレオン、のちルイ18世に仕える。「路易斯·亚历山大·贝尔蒂埃」
初めフランス王国ブルボン朝に仕え、アメリカ独立戦争に従事。フランス革命が発生すると
国民衛兵の参謀長としてルイ16世を補佐し、彼の叔母の国外逃亡を支援、ヴァレンヌ事件では
王と王妃の逃亡に援助した。そのため革命後は軍から解任された。その後幾多の将軍の元で
経験を積み、1790年からはナポレオンの参謀総長をつとめ、ナポレオンの覇権確立に多大な功績を残した。
知勇両面の活躍が功を奏し、ナポレオンから元帥に任命されるも、徐々に対立。ナポレオンの退位後まで
彼に従うが、その後はルイ18世に仕え、王国再建を目指すも、ナポレオンがエルバ島を脱出した直後に謎の死を遂げた。
軍の指揮能力は並であったが、緻密・正確・迅速に参謀をこなした彼の死はワーテルローの敗戦の遠因ともなった。
※その他候補となった特技:強運
**ミッシェル=ジョゼフ・レイユ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|72|75|80|57|68|騎将・強行・明鏡|B|B|A|A|A|B|1775|1860|マッセナ|冷静|維持・長|4/5|1/5|2|
【ミッシェル=ジョゼフ・レイユ】
革命期フランスの軍人。革命政府及びナポレオンらに仕える。「米歇尔」
1792年に軍隊に入り、以後フランス革命戦争に従軍。1796年のイタリア戦役でナポレオンに従軍し、
マッセナの副官として行動を共にし、ロディ、リヴォリ、チューリッヒ、ジェノヴァの戦いに参加。軍功を上げる。
その後はナポレオン・ボナパルト直属の部下としてアウステルリッツ、フリートランドの戦いに従軍。スペイン戦線に転属されるが、
オーストリアとの戦いに呼び戻され、アスペルンの戦い、ワグラムの戦いで功績を上げた。その後はスペインのアラゴンに
駐屯。スペイン戦線ではイギリス軍と戦うが、1813年ビトリアの戦いでウェリントンに敗れる。百日天下の際はナポレオンを支持し、
ワーテルローの戦いでは第2軍団を指揮した。1819年貴族に列し、ボナパルト一族のルイ・ナポレオンが政権を取ると元帥に任命された。
※ 元上官のマッセナとは親しい関係にあり、事実上の親子関係を結んでいたとされる。彼の墓はマッセナの墓の隣にある。
**ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|83|92|40|48|73|明鏡・猛者・強行|A|S|S|A|B|C|1742|1819|剛胆|維持・長|4/5|1/5|141|
【ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ】
革命期フランスの軍人。「约翰」。ブルボン王家、革命政府などに仕える。
はじめフランス民兵として七年戦争に従軍後、ポルトガルを経てブルボン朝に仕えた。
フランス革命が勃発すると王党派として弾圧に従軍、革命後は捕縛されるが赦免された。
その後、ナポレオンが司令官を勤めるイタリア方面軍に所属し、その勇敢ぶりから彼に重用された。
フランス革命戦争では数々の軍功を立てたが、老齢のためのち予備役となり、ナポレオン戦争では最前線に出なかった。
その後、百日天下を境に政治活動から距離を取り、数年後に病没。
※ 戦場では兵を指揮する身でありながら常に最先頭に立ち、兵卒の最前列の10歩前を1人で立って進んだと言われている。
**アントワーヌ・ラヴォアジエ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|義理|野望|相性|
|67|41|98|79|100|神算|C|C|C|C|C|C|1743|1794|4/5|1/5|131|
【ラヴォアジエ】
質量保存の法則を発見するほか、数多の分野で膨大な功績を残した万能の天才。本格的な近代科学は彼によってはじまり「近代科学の父」と評される。
ルイ16世支配時の1791年に国家財政委員に就任し、フランスの金融・徴税システムを改革しようとした。
しかし、フランス革命勃発後の1793年に徴税吏であること、徴税請負人の長官の娘と結婚したことなどを理由に投獄された。
1794年5月8日の革命裁判所の審判で死刑とされ、その日のうちに、ギロチンで処刑された。
※ 処刑される際「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」とジョゼフ=ルイ・ラグランジュに泣かれた。
**ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|義理|野望|相性|
|19|13|99|65|100|神算|C|C|C|C|C|C|1736|1813|3/5|1/5|137|
【ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ】
イタリアのトリノで生まれフランスで活動した数学者、天文学者である。オイラーと並んで18世紀最大の数学者。
彼の初期の業績は、微分積分学の物理学、特に力学への応用である。その後さらに力学を一般化して、最小作用の原理に基づく、
解析力学をつくり出した。また数論に関する業績もある。
全ての自然数が高々四つの平方数の和によって表されるという定理はラグランジュの四平方定理と呼ばれる
さらに彼は、五次以上の方程式がベキ根によっては解けないことについても研究し、根の置換など群論の先駆けとなるような研究も行っている。
※ またマリー・アントワネットの数学教師でもあった。彼女やラヴォアジエの処刑を嘆き、「なぜ私が残されたのかわからない」と一生苦しみつづけた。
**ピエール・オージュロー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|79|91|37|13|68|遁走・猛者・昂揚|S|B|A|S|A|C|1757|1816|猪突|早熟・長|1/5|2/5|143|
【ピエール・オージュロー】
革命期フランスの軍人。「シャルル・ピエール・フランソワ・オージュロー」「奥热罗」
フランスのパリで生まれ、若くして軍に入るが、素行が悪く2年で除隊。その後各地を転々とし、決闘で
たびたび剛勇を振るったが、軍の扱いに不満で脱走を起こした。その後フランス革命が起こると再びフランスに
帰還。以後は革命政府やナポレオン・ボナパルトに仕え、スペインやイタリア方面の戦線で活躍する一方、
ナポレオンの股肱の臣として王党派に対する掃討も行っている。1804年にはその活躍を讃えられて元帥となり、
ナポレオン戦争時にはプロイセンやロシアと戦う。イエナの戦いではランヌとともにプロイセンに甚大な被害を与える軍功を立てた。
しかし1807年のアイラウの戦いでは大損害を出して敗北。自らも重傷を負った。スペイン戦役では活躍を見せるも、以降のロシア戦役や
諸国民の戦いでは目立った戦果がなく、フランス戦役ではリヨンに籠るもあっさり降伏した。百日天下ではナポレオンに見限られ、失意のまま死去。
**ジャン=バティスト・ベシェール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|83|87|74|30|78|騎神・明鏡・護衛|B|C|A|S|A|C|1768|1813|ナポレオン・ミュラ|ランヌ|冷静|維持・長|4/5|2/5|147|
【ジャン=バティスト・ベシェール】
革命期フランスの軍人。「贝西埃尔」。はじめフランス革命を機にルイ16世に仕えた。8月10日事件では
テュイルリー宮殿を襲撃する革命勢力からルイ16世を守るべく戦った。のちに革命政府に入り、1796年から
ナポレオンの指揮下に入った。イタリア遠征、エジプト遠征に従軍し、1800年のマレンゴの戦いでは騎兵を指揮して
軍功を立て、勝利に貢献した。1804年には元帥に就任。以後もナポレオン戦争で軍功を立て続け、皇帝親衛隊を
指揮することもあった。オーストリア戦役、ドイツ戦役、スペイン戦役を戦い抜き、1809年のヴァグラムの戦いでも
勝利に貢献する戦功を立てた。ロシア戦役でも軍功を立て、撤退の際も敗走するナポレオンを護衛し、コサック兵と戦っている。
フランスの戦局が徐々に悪化する中、1813年の戦役で戦死。その資質を買っていたナポレオンはその死を非常に悲しんだという。
**ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|94|90|58|45|50|強運・工神・洞察|A|B|S|S|S|C|1769|1851|剛胆or冷静|晩成・長|3/5|3/5|148|
【ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト】
革命期フランスの軍人、政治家。「让德主公医院苏尔特」。フランス史上6人しかいない大元帥のうちの1人。
若くして軍に入隊し、将官となった。ジュールダン、クレベール、モロー、マッセナといった国家の重鎮たちの
下で活躍し、才覚を発揮。ナポレオンに抜擢され、1803年には軍団長、1804年には元帥にまで昇進した。
1805年のアウステルリッツの戦いでは、主力軍としてナポレオンの大勝利に貢献、ナポレオンから激賞される。
ドイツ・ポーランド戦役にも従軍して軍功を立て、スペイン戦線を任される。スペイン戦役ではオカーナの戦いで
倍近いスペイン軍を撃破し、マドリード攻防戦などでイギリス軍のアーサー・ウェルズリーと互角の戦いを演じたが、戦略的には徐々に敗北。
それでも最後まで奮戦したが、パリの降伏およびナポレオンの退位により、最終的には降伏した。百日天下ではナポレオンに味方するも、
不慣れな参謀長を任され敗戦の原因を作った。1830年の七月革命後に重用され、フランス大元帥に任命された。1851年死去。
※その他候補となった特技:強奪・威圧
**ルイ=ガブリエル・スーシェ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|93|91|85|83|84|補佐・洞察・強運|B|S|S|A|A|C|1770|1826|冷静|維持・長|4/5|1/5|14|
【ルイ=ガブリエル・スーシェ】
革命期フランスの軍人。「苏切特」。フランス西部リヨンから革命政府軍に身を投じる。人徳と才能を評価され、
革命政府軍でも中核を成した。のちフランス革命戦争ではトゥーロン攻囲戦に従軍。1795年からはイタリア戦役方面軍に属し、
マッセナの指揮下で戦った。しかし当時ナポレオンからはあまり評価をされず、スールト、ランヌのもとでナポレオン戦争の主要な合戦に参加。
続いてジュノーの指揮下に入るが、先に上官であったランヌからその資質を高く評価され、ランヌの進言により
ナポレオンからスペイン戦線の司令官に任命された。以後スペイン戦線でナポレオンに貢献し、特に優れた行政手腕で
彼が管轄した地域では反乱や犠牲者などは極めて少なかったと言われる。ナポレオンが降伏した後も耐え抜き、百日天下でも
ナポレオンに味方するが、これまたナポレオンの敗北後もイタリア戦線で耐えぬいた。以後は公職につくことなく病没。
補足:後年、ナポレオンは最も優れた将軍として彼の名を出し、彼を重用しなかったことを悔いたと言われている。
※その他候補となった特技:仁政・能吏
**ジャック・マクドナル
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|81|69|67|63|72|護衛・補佐・明鏡|B|B|A|A|A|C|1765|1840|冷静|維持・長|5/5|1/5|144|
【ジャック・マクドナル】
革命期フランスの軍人。「麦当劳」。元はプロイセン王国への反抗勢力に属していたが、
やがてフランス軍に所属。革命戦争ではデュムーリエ、ピジュグリュ、ナポレオンといった
多くの司令官に従軍して軍功を上げる。ナポレオンの指揮下でローマを統治したが、
やがてロシアのスヴォーロフ大元帥に敗れた。その後、1807年にナポリ軍、及びイタリア軍を
指揮し、半島戦争、ロシア戦役、ドイツ戦役などナポレオン戦争の多くの合戦に従軍した。
戦局が悪化しナポレオンの皇帝退位の声が上がる中、ただ1人反対してナポレオンに付き従った。
その類まれな忠誠心は多くの人間に評価され、百日天下では仕えた主君であるルイ18世を寝返ることをせず、護衛した。
**ニコラ・ウディノ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|66|89|37|51|65|猛者・連戦・駆逐|A|C|A|S|B|C|1767|1847|猪突|維持・長|4/5|3/5|141|
【ニコラ・ウディノ】
革命期フランスの軍人。「ニコラ・シャルル・ウディノ」、「尼古拉·夏尔·乌迪诺」。
1784年にフランス軍に入隊し、革命戦争に従軍。以後勇壮な軍人として名を馳せ、
モロー、マッセナなどの指揮下で戦い軍功を立てた。ナポレオンが実権を握っても
依然変わらず軍功を立て続け、主にオーストリア、プロイセン方面で活躍。1809年に
オーストリア戦線の軍功から元帥に就任し、1810年からは追放されたルイ・ボナパルトの
後任の1人としてオランダ統治に貢献。ロシア遠征、ライプツィヒの戦いなどにも従軍したが、
1814年フランス戦役で劣勢の最中ナポレオンに退位を迫った。百日天下ではナポレオンから帰順を拒否されたが、
その後もブルボン朝、オルレアン朝とフランスに仕え続けた。
※ 生涯数十箇所の傷を受けながらも戦い続けた勇敢な軍人ではあったが、用兵や知才はナポレオンからも批判されている。
**ローラン・グーヴィオン=サン=シール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|98|42|95|68|71|鉄壁・洞察・藤甲|C|S|S|B|A|C|1764|1830|ダヴー・ネイ|冷静|維持・長|4/5|2/5|12|
【ローラン・グーヴィオン=サン=シール】
革命期フランスの軍人。「洛朗·古维翁-圣西尔」。当時としては珍しい複合姓。ロレーヌ地方で生まれ、
家業を継がず各地を転々とした後、1792年に軍人となり、共和国軍に入隊。熱心な共和主義者でもあった。
はじめモローの指揮下で頭角を現し、1799年のイタリア遠征ではノヴィの戦いで軍功を上げる。
防衛戦を指揮することに長け、ナポレオンからその才能を評価されたが、本人が共和主義者であったことに
加え、人格面にも難があり疎まれていた。そのためナポレオンの皇帝戴冠式にも出席していない。
1807年のポーランド戦役から従軍し、半島戦争とロシア戦役で軍功をあげた。1813年のドイツ戦役では
ドレスデン防衛戦で獅子奮迅の戦いを見せる。百日天下では中立を保ち、1821年に政治の表舞台から去った。
※その他候補となった特技:遁走・楽奏
**エマニュエル・ド・グルーシー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|77|86|50|32|31|騎将・急襲・血路|B|C|A|S|A|C|1766|1847|剛胆or猪突|普通・長|3/5|2/5|8|
【エマニュエル・ド・グルーシー】
革命期フランスの軍人。「埃曼努尔·格鲁希」。パリで生まれ、1779年にフランス軍に入隊。フランス革命および革命戦争の際には貴族階級でありながら
共和国制を掲げる革命勢力に肩入れした。1793年ヴァンデ鎮圧に功を挙げ、1795年にアイルランド上陸軍に従軍、
1799年にはロシア・オーストリア軍と戦うも捕虜となる。1800年のナポレオンのクーデターの際には共和制の立場から
反対して追われたが、同年のホーエンリンデンの戦いで軍功をあげ、騎兵指揮に長けたその才を惜しんだナポレオンから再度呼び戻された。
以後、ナポレオンの主要な遠征に参加し、フリートランドの戦いで活躍。1809年にはウジェーヌの指揮下でイタリア軍騎兵を
指揮し、ロシア戦役の際にはフランス近衛騎兵を指揮した。フランス戦役では重傷を負って捕虜となり、王政復古の際に追放された。
百日天下ではナポレオンに味方し、元帥となるが、リニーの戦いで撤退するプロイセン軍の追撃に手間取り、ワーテルロー敗北の遠因を作る。1847年死去。
**オーギュスト・マルモン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|79|74|83|61|57|護衛・遁走・工神|C|B|S|A|S|C|1774|1852|小心|維持・長|2/5|4/5|149|
【オーギュスト・マルモン】
革命期フランスの軍人。「馬爾蒙」。ナポレオンの腹心。
トゥーロン攻略戦からナポレオンに副官として従い、イタリア戦役やエジプト戦役でも
軍功を重ね副官、ついで将軍となる。ブリュメールのクーデターでは支援部隊に回り、
マレンゴの戦いでは砲兵隊を指揮して勝利に貢献する。ナポレオン戦争では主にオーストリア、
ドイツ方面で軍功を重ね、1808年に元帥昇進。1810年にはポルトガル遠征総司令官となるが、ウェリントンに敗北した。
1813年に多くの戦いに従軍するが疲弊により連戦連敗を重ね、1814年フランス戦役でパリ防衛を任されるが、早くに降伏。
ナポレオン退位の決定打を作り、以後は王党派に属してルイ18世を補佐した。ナポレオンは死の間際まで彼の離反を許さなかったと言われる。
※ 砲兵指揮の新概念として、共和暦11年システムを考案、数々の戦闘で使用された。しかし彼の爵位「ラグーサ公爵」は、その離反劇から裏切り者を意味するようになる。
*ナポリ
**ジョアシャン・ミュラ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|92|97|11|38|86|騎神・駆逐・急襲|C|C|C|S|C|C|1767|1815|ベシェール|ジュノー・ランヌ|剛胆or猪突|維持・長or早熟・短(知力、政治、統率)|2/5|4/5|147|
【ジョアシャン・ミュラ】
革命期フランスの軍人、のちナポリ王国の国王。「若阿尚·缪拉」。ナポレオンの義弟にあたる。
1795年にナポレオン率いる反乱鎮圧軍に参加。以後ナポレオンと行動を共にし、
イタリア遠征やエジプト遠征で戦功を立て、ナポレオンの妹を夫人に迎え元帥に昇進した。
1808年にナポリ王位を与えられて国王となるが、権力を得たあたりからそれにすがるようになり、
やがてナポレオンとも対立。ナポレオンが形勢不利になると離反したが、ウイーン体制で王位を剥奪された。
その後脱出したナポレオンのもとに帰参しようとするも、一時は認められたが独断専行を起こして大敗、
やがてナポレオンにも見捨てられた。のち王位奪回を試み挙兵するも失敗、刑死した。
「騎兵を率いたら世界最高」とまで言われたが、平時の度量のなさはナポレオンですら酷評したという。
※フランス有数の勇者の1人とされる。作る場合は是非とも[[Te-PersonEditor>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]などでアイテムに剣、長柄のものを複数持たせ、一騎打ち性能を強化したい。
※その他候補となった特技:連戦・白馬・猛者・飛将
**カロリーヌ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|10|7|63|5|71|傾国・威圧・名声|C|C|C|C|C|C|1782|1839|剛胆|維持・長|2/5|5/5|141|
【カロリーヌ・ボナパルト】
革命期フランスの皇族、ボナパルト朝。ナポレオン・ボナパルトの実妹、のちミュラの夫。「卡罗琳·波拿巴」
1796年にコルシカ島からボナパルト一族が追われた際、一緒にフランスへ移り住む。
のちミュラを見初めて兄の懸念を押し切り1800年に婚姻。ミュラの昇進や兄の栄光に追従し、その暮らしは
女王のようであったと言う。野心多き女性で、兄の死後に夫をフランス国王とするため数々の謀略と
不義密通を繰り返し、兄や旦那と対立することも多かった。そのため1809年に兄の手でフランスを追われナポリ女王となった。
しかし、1812年のロシア遠征の際、ミュラの留守中に摂政となったが、ここでも不義密通を重ねて統治を放棄し、国民の反感を買う。
ナポレオンの没落後は彼を見限り工作に奔走するが失敗。百日天下の失敗後は旦那とも別れ、フィレンツェで没した。
*ポーランド
**マリア・ヴァレフスカ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|3|1|72|64|83|内助・補佐・仁政|C|C|C|C|C|C|1786|1817|ナポレオン・ボナパルト|冷静|維持・長|5/5|1/5|4|
【マリア・ヴァレフスカ】
近世ポーランドの貴族。「玛丽」
父ウォンチニスキの4人目の子として生誕したが、祖国ポーランドも1772年に分割され、
ロシアとの戦争で父は戦死、貧困な生活と強い愛国心を持っていた。はじめヴァレフスキ伯爵と結婚、
ついでフランス皇帝ナポレオンの愛人となり、彼の子を授かっている。ナポレオンの凋落後も
彼を愛し続け、ナポレオンがセントヘレナ島へ配流されてから心痛を患い早逝した。
祖国ポーランドでは偉大な愛国者として祀られている。
※ 最初の夫ヴァレフスキとは借金の肩代わり、ナポレオンの愛人関係は国益を考慮した国王の差配と、不遇な生涯でもあった。
**アレクサンドル・ヴァレフスキ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|36|47|75|83|79|名声・論客・遁走|C|C|C|C|C|C|1810|1868|剛胆|維持・長|3/5|4/5|4|
【アレクサンドル・ヴァレフスキ】
近世フランスの政治家。「亚历山大」。
フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの庶子。母はマリア・ヴァレフスカ。
幼少期に母を亡くし、父と離別して過ごす。その後ポーランド独立運動に参加するが、
やがてフランスに亡命する。その後政治家となり、外交官になった。
ルイ・ナポレオン政権ではナポレオン1世の庶子として厚遇され、元老院議員、外務大臣や国務大臣など
数多くの要職を歴任。クリミア戦争の際は、外務大臣として講和条約における権限を一任されている。
その後、1865年にフランス立法院議長を務め、3年後にストラスブールで病没。
※ 家系図上はヴァレフスキ伯爵の子。ナポレオン1世と姿がよく似ており、ナポレオン3世と間違われたこともある
**ユゼフ・ポニャトフスキ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|80|83|61|65|72|不屈・金剛・騎将|A|C|A|S|B|C|1763|1813|剛胆|維持・長|4/5|1/5|8|
【ユゼフ・ポニャトフスキ】
ポーランドの王族。ポーランド、オーストリア、フランスに仕える。「约泽夫·波尼亚托夫斯基」
オーストリアで軍務につき、オスマン帝国との戦いに従軍。この時後に諸国民戦争で戦った
オーストリアのシュヴァルツェンベルクと共闘している。後に請われて祖国ポーランドの軍務につくが、
ポーランド分割を食い止めることが出来ず、軍を退役した。その後1806年に台頭著しいナポレオンに
つくことを決め、ポーランドワルシャワ公国を再興し、その最高司令官となる。以後ナポレオンに従い
オーストリアやロシアとの戦いに従軍。没落するナポレオンを見捨てず、ライプツィヒの戦い3日前に元帥となった。
その後、諸国民戦争(ライプツィヒ)で敗走するフランス軍の殿を務め、戦死した。
※その他候補となった特技:血路・鉄壁
*バイエルン
**マックス・ヨーゼフ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|30|14|68|76|82|論客・遁走・眼力|C|C|C|C|C|C|1756|1825|冷静or小心|維持・長|4/5|2/5|135|
【マックス・ヨーゼフ】
近世ドイツ、バイエルン王国の国王。バイエルン選帝侯、マクシミリアン1世。「马克斯约瑟夫」
ヴィッテルスバッハ家のフリードリヒ・ミヒャエルの三男として生まれる。所領がフランスに占拠されていたこともあり
フランス体制の中で育ち、1777年にはフランス陸軍大佐となる。フランス革命戦争が起きるとオーストリアに従い参戦した。
1795年兄の死去に伴いツヴァイブリュッケン公位を継承。1799年にはバイエルン選帝侯となり、モンジュラ伯を起用して
国内改革に務めた。フランス革命、ナポレオン戦争ではライン同盟に所属しており、親ナポレオン体制を樹立。ナポレオンの
養子であったウジェーヌに娘を嫁がせている。1806年にバイエルン王となるが、1813年オーストリアとの国益争いで、フランスが
オーストリアの肩を持ったためナポレオン体制から離反。ウィーン会議ではバイエルンの国益保持に奔走した。
補足:本名は「マクシミリアン・マリア・ミヒャエル・ヨハン・バプティスト・フランツ・デ・パウラ・ヨーゼフ・カスパール・イグナティウス・ネポムク」。マックス・ヨーゼフは愛称。
**マクシミリアン・フォン・モンジュラ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|27|29|82|91|64|威圧・論客・発明|C|C|C|C|C|C|1759|1836|冷静|維持・長|3/5|1/5|135|
【マクシミリアン・フォン・モンジュラ】
バイエルン王国の政治家。「马克西米利安」。
父の代からバイエルンに仕え、外交官僚として名を馳せマックス・ヨーゼフの信任を得る。
その後、ライン同盟によってバイエルン王国が誕生すると、マックス・ヨーゼフのもとで
宰相としてバイエルン近代化に貢献した。フランスとオーストリアの戦争ではフランスへの
同盟を説き、バイエルンの国益保持に奔走。一方で、ナポレオンの没落が明らかになると
ヴレーデを立てて、今度は対仏大同盟に肩入れするように提唱した。晩年は反対派との全面対立を
避けるために隠棲。1818年憲法成立の祖となった。
*スウェーデン
**ジュール・ベルナドット
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|61|77|62|79|92|強運・名声・心攻|B|A|S|B|B|C|1763|1844|冷静|統率:開眼 それ以外:維持・長|2/5|4/5|18|
【ジュール・ベルナドット】
革命期フランスの軍人。のちスウェーデン王カール14世ヨハン。「ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット」「贝纳多特」
1780年に軍隊に入隊するも、熱心なジャコバン派の支持者であり、フランス革命時には革命を支持した。
順調に功績を重ね、一時はナポレオンのライバルと目されるも、やがて傘下に入り、ナポレオン一門となった。
しかし時に不審な行動を起こし、ナポレオンに疑念を抱かせることもあり、軍功を立てては失態を重ね、
銃殺刑まで宣告されたこともあったが、結果的に指揮権剥奪となっている。その後、王位継承者のいないスウェーデンの
王太子となるが、スウェーデンで実権を握ると反仏政策を取るようになり、ナポレオンと決別。1813年のライプツィヒの戦いでは
反フランス連合軍の総指揮を取り、連合軍の勝利に導いた。ナポレオン失脚後もスウェーデンで実権を握り、今日に至る繁栄を築いた。
ナポレオンがベルナドットに強く当たれなかったのは、彼の妻デジレが、ナポレオンの元婚約者だったからだとも言われている。
**デジレ・クラリー
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|8|3|69|37|85|内助・論客・富豪|C|C|C|C|C|C|1777|1860|ナポレオン・ボナパルト、ベルナドット|冷静|維持・長|5/5|2/5|1|
【デジレ・クラリー】
革命期フランスの令嬢。「西瑞克拉里」
マルセイユの富豪の家に生まれ、自身の姉を通じてナポレオンと知り合う。
姉がナポレオンの兄であるジョゼフと結婚すると、自らもナポレオンと親しくなり、
婚約者同然となるが、父の反対により断念。その後、出世して功を積んだナポレオンは
ジョゼフィーヌと結婚し、婚約を反故にされた。後にナポレオンのライバルとされるベルナドットと結婚。
ベルナドットが失態を犯した時もとりなして彼を救ったという。晩年はスウェーデン王妃となり、国母として敬われた。
※その他候補となった特技:風水
*その他
**マリア・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|12|45|61|27|80|仁政・洞察・富豪|C|C|C|C|C|C|1750|1836|ナポレオン・ボナパルト、ジョゼフ・ボナパルト、ポリーヌ・ボナパルト|冷静|維持・長|5/5|1/5|1|
【マリア・ボナパルト】
革命期フランスの人物。コルシカ島の出身。ナポレオン、ジョセフらの母。「マリア・レティツィア・ボナパルト」。
「玛丽亚·莱蒂齐亚·波拿巴」。コルシカ島の有力者のもとで生まれ、コルシカ独立戦争にも参加した。
夫であるマリ・ボナパルトが早逝すると、女手1つで子どもたちを育てた。のち、夫が親フランスを表明していたため
コルシカ島を追われマルセイユへと移り住む。ジョセフが有力富豪と結婚したことで暮らしもよくなったが、
金と権力に関しては終始懐疑的で、特に息子のナポレオン・ボナパルトが皇帝就任した時は強く反対し、戴冠式にも欠席している。
ナポレオンが失脚するとローマへ亡命したが、娘であったポーリーヌとともに彼を激励したという。晩年は弟の屋敷で暮らした。
**ポーリーヌ・ボナパルト
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|8|5|46|38|77|傾国・楽奏・解毒|C|C|C|C|C|C|1780|1825|ナポレオン・ボナパルト、ルクレール|小心|維持・長|5/5|2/5|1|
【ポーリーヌ・ボナパルト】
革命期フランスの人物。コルシカ島の出身。ナポレオンの妹。愛称はポーレット。「波拿巴」
ナポレオンに最も可愛がられた妹で、美人であった。しかし我儘で移り気があり、多くの男性と
色恋になり、そのたびによく家族から反対された。やがてナポレオンの部下で将軍ルクレールと結婚するが、
赴任先のハイチで疫病にかかり、彼女の看病の甲斐なくルクレールは亡くなった。その後
服喪を続けるが、喪が明けると再び色恋を続けたという。ただし実兄ナポレオンのことは
慕い続け、彼が没落してエルバ島に流された後も一緒に暮らしては励ましたという。
ナポレオンがセントヘレナ島へ流された際も随行を願い出たが許されなかった。1825年死去。
※その他候補となった特技:怒髪・不屈・内助
**アントワーヌ=アンリ・ジョミニ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|97|42|98|39|71|百出・運搬・洞察|C|C|C|A|C|A|1779|1869|ネイ|冷静|維持・長|3/5|3/5|22|
【アントワーヌ=アンリ・ジョミニ】
スイス出身の軍人、軍事学者。「安東莞·亨利·約米尼」。もとはヘルヴェティア共和国の軍人であったが、
限界を悟り出奔。その後、当時スイス総督であったミシェル・ネイによってフランス軍に抜擢された。ウルムの戦い、
アウステルリッツの戦いに参戦。その時ナポレオンの目に止まり、彼の著書を読んだナポレオンによって重用される。
1806年にネイの幕僚長となり、1808年にはネイに従ってスペイン遠征に従軍するが、フランス軍元帥であったベルティエから反発され、
彼の工作で幕僚長を解任された。この時辞職を願い出るもナポレオンの必死の懇願により軍に残留する。1812年のロシア遠征にも従軍するが、
1813年に反発するベルティエから職務怠慢を理由に禁錮刑を言い渡され、苦慮の末ロシア軍に寝返る。1815年には元上官のネイの助命嘆願に走った。
後年、「戦争概論」を著述。その完成度の高さはクラウゼヴィッツの「戦争論」と並び高い評価を受けた。
**ルスタム・ラザ
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|相性|
|12|80|64|18|56|護衛・血路・威圧|C|C|C|C|C|C|1783|1845|剛胆|維持・長|3/5|1/5|149|
【ルスタム・ラザ】
革命期フランスの軍人。もとはアルメニア人商人。「ルスタム・レザ」とも。「鲁斯塔姆·礼萨」。
アルメニアで幼少期を過ごしたが、戦争によって家族が離散し、奴隷となる。その後、数度の
従者・家臣として仕えた後、ナポレオン・ボナパルトに仕え、彼の護衛として武器管理や身の世話を行ったという。
ナポレオンに付き従い、主要な戦争にはほぼ全て参加したが、1814年ナポレオンが没落すると彼の元を離れた。
のち、ナポレオンの百日天下の際は帰参を願い出るも許されず、晩年は妻とパリで暮らしたという。
**アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|義理|野望|相性|
|8|2|99|73|77|詩想・論客・反計|C|C|C|C|C|C|1766|1817|タレーラン・ベルナドット|ナポレオン|剛胆|早熟・長|4/5|3/5|18|
【アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール】
フランスの批評家、小説家。フェミニズム運動の先駆者とも言われる。「杰曼·德斯戴尔」「スタール夫人」。
父はスイスの政治家だが、幼年期からパリで暮らす。フランス革命の際は革命派を支持し、
積極的な関与を行った。のちドイツの文豪であるゲーテから才能を絶賛され、「小説論」「文学論」などを著す。
しかし、自由と平等、反専制・反独裁を掲げたため、皇帝となったナポレオンと対立し、パリから追放される。
以後は諸国を回ってナポレオンの排斥を掲げ、反ボナパルト体制を目論む有力者を仲介した。ナポレオン政権の崩壊後は
ベルナドットを擁立しての立憲君主制を目論むが、結果はブルボン王朝復活となり、数年後志を果たせず失意のまま病没。
**シャルル=アンリ・サンソン
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|相性|
|37|35|78|66|11|解毒・規律・沈着|C|C|C|C|C|C|1739|1806|ルイ16世、マリー・アントワネット|剛胆|維持・長|5/5|1/5|140|
【シャルル=アンリ・サンソン】
近世フランスの人物。パリの死刑執行人。「查尔斯」
フランス革命の影響で数多くの人物を処刑した。
その一方、副業として医者として数多くの人物を治療し
そのため特に貴族から一目置かれていた。なお本人は
熱心な死刑廃止論者であり、同時に王党派でルイ16世を崇拝しており、
彼を革命の余波で処刑したことを死ぬまで悔いたと言われている。
※その他候補となった特技:強運
*目安相性表
&color(red){実際に三国志11に登録する}際、当時の史実の世界観をより反映しやすくなります。
数値元の三国志武将についてはあまり考慮していません。
[[相性>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/983.html#id_35633e07]]は円形になっており、遠ければ遠いほど登用や処断、外交関係に影響します。
001:[[ナポレオン・ボナパルト>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_9422ea16]]
015:[[ロベスピエール>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_03c36933]]
020:[[エスポス・イ・ミナ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_199b3687]]
030:[[アレクサンドル・パヴロヴィチ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_5a8c3e32]]
050:[[ムハンマド・アリー・パシャ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_541971eb]]
075:[[アーサー・ウェルズリー>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_b59449a2]]
100:[[クラウゼヴィッツ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_0b7b411b]]
125:[[カール・フォン・エスターライヒ>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_063b8ea9]]
140:[[ルイ・オーギュスト>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2754.html#id_4c43055b]]
001:フランス・ボナパルト朝
015:フランス・共和主義革命勢力
020:スペイン・郷土勢力
030:ロシア・ロマノフ王朝
050:オスマン帝国・エジプト
075:イギリス
100:プロイセン
125:オーストリア・ハプスブルク
140:フランス・ブルボン朝
----
#comment_num2(size=50,vsize=3,num=10,logpage=みんなの新武将/フランス革命・ナポレオン戦争/コメント)
表示オプション
横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: