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みんなの新武将/倭・日本(近世)/江戸時代 - (2017/08/01 (火) 06:11:47) の最新版との変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
織田信長が所持していた「鬼丸」、豊臣秀吉が所持していた「三日月宗近」などアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]
特に「剣豪」「猛将」などの個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
&color(red){武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。}アイテム効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/16.html]]。能力効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html]]
*倭・日本
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
天下平定を成し遂げた[[徳川家康>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html#id_99520553]]の死後、日本は本格的に江戸時代と呼ばれる泰平の世を迎えた。
しかし、初期の頃は3代徳川家光の頃に生じた島原の乱、4代徳川家綱の代に生じた慶安の変など
必ずしも戦争と無縁の時代ではなかった。家康の跡を継いだ[[徳川秀忠>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2712.html#id_1004119a]]は自らも家康に倣い大御所として君臨。
3代将軍になった[[徳川家光>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2719.html#id_36fc40b4]]は武家諸法度を改定して「参勤交代」と呼ばれる江戸出仕を諸藩に義務付けた。
その後、慶安の変を受けた4代将軍徳川家綱は諸大名の改易を縮小緩和させ、文治政治への移行を差配。
この姿勢は5代将軍でもある[[徳川綱吉>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2719.html#id_30a10287]]にも受け継がれ、以降戦乱と無縁になる真の天下泰平を見た。
7代将軍である徳川家継が死去したことで、将軍家は一度断絶となったが、御三家と呼ばれる徳川親藩から
8代将軍である[[徳川吉宗>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2719.html#id_c1291047]]が迎え入れられ、享保の改革を実施。その後、田沼意次、松平定信、水野忠邦といった
3人の側近たちも改革を行うが、目ぼしい成果は挙げられなかった。政情不安から一揆や打ちこわしが頻発し、
12代将軍徳川家慶の頃に黒船が来航。日本は再び風雲急を告げる状況となっていた。
[[古代>みんなの新武将/倭・日本]]→[[中世>みんなの新武将/倭・日本(中世)]]→[[近世>みんなの新武将/倭・日本(近世)]]→[[近代>みんなの新武将/倭・日本(近代)]]
[[南北朝時代(日本)>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2779.html]][[戦国時代(東日本)>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2731.html]][[戦国時代(西日本)>みんなの新武将/倭・日本(中世)/戦国時代(西日本)]]江戸時代 [[戦後>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2767.html]]
*江戸時代(16世紀前半~19世紀後半、幕末は別項)
**徳川秀忠
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|義理|野望|
|62|50|86|98|95|仁政・威圧・規律|B|B|C|C|C|C|1579|1632|徳川秀康・豊臣寧々|小心|維持・長or開眼(政治・知力・統率など)|4/5|3/5|
【トクガワヒデタダ】
江戸幕府2代将軍。徳川家康の三男。
早世した嫡男、養子に行った次男に代わり、家康の後継者に指名され
1605年徳川幕府2代将軍に就任。武家諸法度、禁中並公家諸法度などを制定して
公武双方の統制を充実させ、自らの娘を天皇に嫁がせ、自らの孫を天皇にした。
また幕政を脅かしかねない大名のとり潰しや減封を積極的に行い、徳川幕府の礎を固めた。
性格は生真面目であり、関ヶ原での失態や大坂の陣の叱責などを気に病んでいたと言われる。
※その他候補となった特技:藤甲・造船・能吏
**徳川義直
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|61|63|59|77|80|米道・風水・詩想|C|C|B|B|C|C|1601|1650|剛胆|維持・長|4/5|4/5|
【トクガワヨシナオ】
戦国・江戸時代の武将。徳川家康の九男であり、御三家の一つである尾張徳川家の祖。
元は甲斐25万石の領主であったが、異母兄の松平忠吉が早逝するとその後を継いで
尾張62万石を領し、のちに家康の差配で築かれた名古屋城に入って城下町を整備した。
大坂冬の陣で初陣をはたし、夏の陣では秀忠本隊の後詰を勤める。
天下泰平後は農業を奨励して新田開発や治水事業に力を注いだ。
一方で柳生如雲斎を招いて武術を好み、その剛直な性格は3代将軍であった徳川家光をしばしば悩ませた。
**徳川頼宣
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|79|65|62|54|80|威風・猛者・金剛|B|C|C|B|C|C|1602|1671|剛胆|維持・長|4/5|4/5|
【トクガワヨリノブ】
戦国・江戸時代の武将。徳川家康の十男であり、御三家の一つである紀伊徳川家の祖。
1603年に異母兄松平信吉が早逝すると、わずか2歳でその後を継ぎ水戸藩20万石を領し、
ついで1609年には駿河50万石を領する。1614年の大坂冬の陣で初陣を飾り、1615年の大坂夏の陣では
家康本隊の後詰を務めた。1619年に紀伊藩55万石を領し、内政に励んで紀伊藩の礎を築いた。
覇気に富んだ人物で、大坂の陣で先陣を希望して断られたのを悔しがったり、徳川家の重鎮として
威厳を持った振る舞いを行い、3代将軍であった徳川家光と衝突することもあったという。
**徳川頼房
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|60|53|78|69|80|明鏡・補佐・眼力|C|C|B|C|B|C|1603|1661|冷静|維持・長|4/5|4/5|
【トクガワヨリフサ】
戦国・江戸時代の武将。徳川家康の十一男であり、御三家の一つである水戸徳川家の祖。
1606年に常陸下妻10万石を領し、実兄の頼宣の駿河転封後に水戸藩25万石を領した。
3代将軍であった徳川家光と年が近かったことから、長じるまで家光の傍で過ごし、彼の信任を得たと言われる。
水戸藩では城下町の整備や城の修復なども手がけるが、2代将軍であった秀忠が病になった時から
江戸定府することが多くなり、副将軍と言われる所以を作る。その後も徳川幕府を支える
重鎮一門として江戸に君臨し、時の将軍を補佐し続けた。1661年に死去し、死の間際に殉死禁止令を起草したと伝わる。
**豊臣秀頼
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|52|33|64|71|79|富豪・名声・不屈|B|C|C|C|C|C|1593|1615|冷静|威厳|晩成・短or開眼(統率・知力など)|4/5|3/5|
【トヨトミヒデヨリ】
豊臣秀吉の次男。わずか6歳で豊臣家を継ぎ、秀吉亡き後の豊臣家を纏める地位に立つが
前田利家の逝去もあり、七将襲撃事件など混乱する豊臣家中を抑えることができず、
徳川家康の台頭、ひいては関ヶ原合戦を発生させ、権力を縮小させた。
その後も天下で一目置かれる存在ではあり続けたものの、その勢力を危険視した家康によって
大坂の陣を起こされる。自ら家康との徹底抗戦を主張し、浪人衆を多く雇って徳川方と戦い続けるが
やがて徳川方の物量作戦や機知によって劣勢になり、夏の陣で敗北。大坂城一角で自害した。生存説もある。
**浅井茶々
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|音声|口調|素質|義理|野望|
|28|36|58|69|65|祈願・築城・昂揚|B|C|C|C|C|C|1569?|1615?|浅井長政・織田お市・豊臣秀頼|剛胆|剛胆|丁寧|維持・長|4/5|3/5|
【アザイチャチャ(アサイチャチャ)】
戦国・江戸時代の女性。浅井長政の長女。母はお市の方。
小谷城で生誕するも、浅井織田の戦争に巻き込まれ、幼くして父と死別。
藤掛永勝に救助され、織田信包のもとで育つ。その後賤ヶ岳合戦にて母とその再婚相手であった
義父の柴田勝家とも死別し、織田信雄に庇護されて育つ。1588年に豊臣秀吉の側室となり、
翌年に鶴松、1593年に秀頼を産んだ。秀吉死後は高台院と協調しつつ中央政局には静観し、
天下泰平のための寺院修築や建立などを行っている。しかし、豊臣徳川の政治対立から衝突が始まり、
1615年の大坂夏の陣で大坂城が落城し豊臣家は滅亡。城の一角で自害した。生存説もある。
**大野治長
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|義理|野望|
|54|45|76|78|71|築城・明鏡・論客|B|A|A|B|C|C|1569|1615|豊臣秀頼|冷静|5/5|1/5|
【オオノハルナガ】
戦国時代の武将。豊臣秀吉の家臣。
豊臣秀吉の馬廻り衆として取り立てられ、のち1万石の大名となる。
その後伏見城造営にも携わるが、秀吉死後に家康暗殺の疑惑をかけられ謹慎。
関ヶ原の戦いでは東軍に属すも、戦後に使者として豊臣家に向かい、
そのまま豊臣秀頼に仕える。以後豊臣家の重鎮として豊臣徳川の橋渡しをつとめ、
豊臣秀頼と和平派と牢人衆を取り持った。暗殺未遂にて重傷を負うもなお
豊臣家に尽くし、最期は大坂落城と秀頼自害を見届けて自刃した。
※ もとは近江の出身と伝わっており、一説には父母がお市の方に仕えていたとも。
※その他候補となった特技:護衛・不屈・能吏
**真田信繁
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|80|91|73|31|86|飛将・疾走・猛者|A|A|A|S|C|C|1567|1615||早熟・短|5/5|2/5|
※晩年(48歳以降)Ver.
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|76|98|80|15|96|飛将・疾走・猛者|A|A|S|S|C|C|1567|1615||早熟・短|5/5|1/5|
【サナダノブシゲ】
戦国時代の武将。後世に幸村の名で知られる。
信州上田の国主・真田昌幸の次男として生まれ、上杉家、豊臣家の人質として育った。
関ヶ原の戦いで西軍に属した事が切掛で、父親と九度山に蟄居。
大坂の陣が始まると豊臣家の要請で大坂城入し、豊臣軍の主力武将の一人として活躍した。
大坂冬の陣では堅牢な出城・真田丸を築き、押し寄せる関東の大軍を度々撃破。
大坂夏の陣の道明寺の戦いで伊達政宗を破る功績をあげる。
敗色濃厚となった天王寺の戦いでは、武士の意地を示すために3千の兵を率いて徳川家康本陣を急襲。
総員玉砕し信繁も打ち取られたが、家康をあと一歩の所まで追い詰めたと伝わる。
その卓越した武功は諸侯や朝廷貴族からも絶賛を受け、島津忠恒は「真田日本一の兵」と彼を讃えている。
※その他候補となった特技:藤甲
**毛利勝永
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|義理|野望|
|89|81|82|58|82|遁走・強運・猛者|A|S|B|B|B|C|1577|1615|剛胆|5/5|2/5|
【モウリカツナガ】
戦国時代の武将。豊臣秀吉の黄母衣衆を務めた譜代家臣・森勝信の子。
九州征伐の後、父が豊前国内に10万石を拝領した際、現地に馴染み深い毛利姓を秀吉から与えられた。
朝鮮出兵の蔚山倭城の戦いで武功をあげたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで毛利家は改易。
大坂の陣が始まると主君・豊臣秀頼に忠誠を示すために大坂城入し、豊臣の主力武将の一人として活躍した。
天王寺の戦いでは4千の兵を率いて徳川本陣の正面に布陣。徳川主力軍の全てを引き受け、真田信繁の突撃を助ける。
本多忠朝や小笠原秀政を打ち取る武功をあげ、最後まで戦線を維持し続けたが、真田軍が壊滅すると敗北を悟り、大坂城に反転。
四方から押し寄せる敵の大軍全てを突破して大坂城に帰還。主君・秀頼に殉じたと伝わる。
後世の真田幸村を扱った講談では彼の武功は真田幸村に吸収され、凡庸な武将として描かれることが多い。
その事実を江戸時代の文人・神沢杜口は「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と嘆いたという。
※その他候補となった特技:勇将・白馬
**長宗我部盛親
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|81|77|44|48|73|鉄壁・金剛・不屈|A|C|A|B|C|A|1575|1615|剛胆|知略:開眼 それ以外:維持・長|4/5|3/5|
【チョウソカベモリチカ】
戦国時代の武将。長宗我部元親の四男。本姓は「秦」。兄、信親の戦死により、増田長盛を烏帽子親として長宗我部家の家督を相続。
小田原征伐より従軍し、唐入りも経験。1590年代後半からは事実上代替わりとして活動し、1597年には父、元親と
協力して分国法を定めた。関ヶ原の戦いが起こると、曖昧な態度を取りつづけたが結局西軍に属し、戦闘に
参加しないまま敗北。当初許されたが、実兄の津野親忠を殺害したことによって改易された。改易後は京に移り住む。
豊臣・徳川の対立が決定的となると、豊臣家から土佐一国を条件に参戦要請が届き、これを受諾。大坂の陣でも主力として戦い、
大坂冬の陣では真田信繁(幸村)と協力して徳川方を撃退した。夏の陣でも藤堂高虎を退ける活躍を見せるが、劣勢を覆す
ことはできず、豊臣家滅亡が決定的になると行方をくらました。しかし捕らえられ、処刑された。長宗我部家はこれで事実上滅亡した。
なお、豊臣秀吉は彼の家督相続を認めず、実兄の香川親和を当主後継と考慮していたと言われている。
**徳川家光
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|
|52|67|76|88|89|威圧・眼力・名声|C|C|C|C|C|C|1604|1651|徳川家康・保科正之|徳川忠長|剛胆|維持・長or晩成・長|
【トクガワイエミツ】
江戸幕府3代将軍。徳川秀忠の次男。祖父は徳川家康。
江戸城で春日局によって養育され、一時期は将軍候補を弟の忠長にとする動きもあったが
やがて諸説あるも、将軍職後任に決定し、1620年に元服。1623年に将軍職となり、父の秀忠とともに幕政を見た。
徳川秀忠が1632年に死去すると、幕政を重臣達と協議し、江戸幕府の基礎的構造が作られるようになった。
優秀な幕閣に支えられつつも、江戸幕府の体制をほぼ確立し、江戸幕府の基礎を固めた。
祖父である家康を敬愛・崇拝しており、日光東照宮を築いている。
**徳川忠長
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|素質|
|37|58|64|25|77|射手・怒髪・名声|C|C|B|C|C|C|1606|1634|徳川家光|早熟・長|
【トクガワタダナガ】
徳川家一族。徳川秀忠の三男。祖父は徳川家康。
幼少より才気利発で一時期は後継者と目されていたが、家康の差配で
兄に後継者を譲ることになった。のちに徳川秀忠から松平姓を下賜され、
正式に将軍後継候補から外された。甲府23万石、駿河55万石を領し、
織田家の娘を正室に迎えたが、やがて秀忠に蟄居処分を下された。その後
対立する兄である家光が将軍に就任すると不行跡などを理由に改易され、幕命で自刃した。
**松平忠明
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|58|42|79|91|75|能吏・風水・威圧|B|C|A|C|B|B|1583|1644|冷静|維持・長|4/5|1/5|
【マツダイラタダアキ】
戦国・江戸時代の武将。奥平信昌の四男。母親は徳川家康の娘である亀姫。
1588年に徳川家康の養子として一門となり、早逝した兄の家督を継ぐ。
徳川後継者の秀忠から「忠」の偏諱を貰い、関ヶ原合戦や大坂の陣に従軍。
和睦後は家康の指示に従い大坂城外堀、内堀の埋め立てを担当。
大坂夏の陣では伊達政宗とともに道明寺口の軍を率い、豊臣宗家滅亡に貢献。
戦後家康から摂津大坂10万石を与えられ、大坂復興に力を注ぎ豊臣時代の遺産を引き継ぎつつ改良。
今日の大坂における基盤を作った。のち大和郡山・播磨姫路へと加増転封。井伊直孝らとともに初期幕臣の重鎮として活躍した。
**松平信綱
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|58|33|97|96|26|百出・看破・深謀|C|C|C|C|C|C|1596|1662||維持・長|
【マツダイラノブツナ】
江戸時代の武将。「松平伊豆守」とも。知恵に長け、「知恵伊豆」の異名を取った。
父は大河内久綱。叔父で松平家の養子となっていた松平正綱の養子となる。
1603年に徳川秀忠の元に出仕し、翌年誕生した徳川家光の小姓としてつけられた。
1611年に元服するも変わらず家光に近侍し、1623年に伊豆守に任官された。
長じてはその才智を買われ、1632年には老中、翌年には六人衆として幕閣の重鎮を担った。
徳川家光を補佐して初期の幕政を担う傍ら、朝鮮通信使との外交や島原の乱の鎮圧にも奔走。
武家諸法度の改定や鎖国制度の徹底、そして家光死後の慶安の変の鎮定など初期江戸幕府の万に通じた。
4代将軍であった徳川家綱の補佐も務めていたが、1662年に病に倒れ、死去。
**太田於八
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質|義理|野望|
|25|41|75|60|89|内助・機略・指導|C|C|C|C|C|C|1578|1642|冷静|丁寧|維持・長い|5/5|2/5|
【オオタオハチ】
太田康資の娘。のち徳川家康の側室となる。お勝の方、英勝院とも。
当初は女官として仕えていたが、その聡明さを家康に可愛がられ、家康晩年の側室となった。
徳川家康との間には二女をもうけ、徳川家内でも重用された。聡明さ、気骨の強さを伝える逸話が多く、
徳川軍の合戦に家康の側近くで従軍したり、家康が彼女を信頼し金蔵の鍵を預けていたというもの等がある。
太田資宗を秀忠のもとに出仕させたのは、彼女の差配だとも言われている。
**斎藤福
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|
|3|6|72|81|64|指導・論客・祈願|C|C|C|C|C|C|1579|1643|徳川家光|剛胆|維持・長|
【サイトウフク】
安土桃山・江戸時代の女性。「春日局」。明智家重臣であった斎藤利三の娘。母は稲葉一鉄の娘。
本能寺の変と山崎合戦の影響で4歳にして父と死別。その後母のツテで稲葉家に
引き取られ、三条西公国に育てられたといわれる。のち稲葉重通の養女として稲葉正成の
後妻となり、稲葉正勝を産む。しかし関ヶ原の戦いの後で稲葉家が没落すると離縁し
徳川家光の乳母となった。徳川家光の将軍就任や、その実母であった崇源院が死去すると
女性ながら絶大な権力を得、最終的には三条家の猶妹として朝廷に参内し、無位無官から従二位まで
のぼりつめた。1643年死去、堀田正盛や稲葉正勝、斎藤利宗など、彼女の縁で出世した武将は多い。
**森宗意軒
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|49|27|83|56|38|妖術・火攻・操舵|C|C|C|C|C|B|?|1638?||維持・短|
【モリソウイケン】
江戸時代の武将、医学者。もとはキリシタン大名であった小西行長の家臣と伝わる。
主君が関ヶ原合戦の責を問われて刑死したのち、真田信繁に仕え大坂の陣に従軍。
大坂落城後は天草に落ち延び、そこで一揆に加担し島原の乱の首謀者の1人として暗躍した。
のち、原城落城の際に戦死したと伝わる。若年の頃に南蛮で妖術などを学び、
若き日の由比正雪に軍略とともに授けたという伝説がある。
**織田高長
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|義理|野望|
|40|17|75|69|72|論客・指導・眼力|C|C|C|C|C|C|1590|1674|冷静|維持・長|3/5|4/5|
【オダタカナガ】
戦国・江戸時代の武将。織田信雄の五男であり、織田信長の孫にあたる。
元は兄である織田秀雄に仕えていたが、関ヶ原合戦で改易されたため、その後諸国を放浪して細川忠興に仕え1万2千石を領した。
その後前田利常に仕えて大坂の陣にも参陣し前田家に貢献した。異母兄の織田信良が早逝すると
織田信雄から後見候補として呼び戻され、幼い甥である信昌の後見役として藩政を一手に引き受けた。
徳川秀忠と昵懇な関係を築き、信雄死後に隠居領である大和宇陀をそのまま統治し織田本家の権力を事実上掌握。
晩年には兄信良の家系に養子を入れるなど、江戸時代の織田家中興を築き上げた。
**伊達忠宗
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|48|37|85|88|89|米道・屯田・築城|C|C|C|C|C|C|1600|1658|冷静|維持・長|
【ダテタダムネ】
江戸時代の藩主。仙台藩第2代藩主。伊達政宗の次男であり嫡男。「守成の名君」として高く評価される。
父政宗の正室陽徳院の子として産まれ、側室腹であった異母兄の秀宗を差し置いて後継者となる。
政宗が1636年に病没すると家督を継承し、有用な人物を多数重用して藩内統制を強化。
その後は寛永総検地に伴い家臣の知行地を再編、また藩領で生じた余剰米を藩が買い取り、
それを江戸で売るという買米制を実施し、仙台藩の最盛期を演出した。寺社増築を多数行い、
藩の防備にも勤める。晩年は母陽徳院の遺言に従い、三男宗良を田村家当主として田村家を再興させた。
**伊達宗勝
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|10|33|86|69|45|徴税・論客・名声|C|C|C|C|C|C|1621|1679||普通・短|
【ダテムネカツ】
江戸時代の武将。伊達政宗の十男。一関藩藩主。
宗家の仙台藩藩主である伊達綱宗を後見し、老中・酒井忠清との関係を強化しながら徐々に権力を拡大。
綱宗が幕命で隠居させられ、幼少の綱村が藩主となると奉行の原田甲斐と組んで藩政を壟断。
伊達一門の伊達宗重らとの対立を招き、伊達騒動の元凶を作った。伊達騒動の責任を取らされる形で
一関藩は取り潰しとなり、最終的には土佐藩預かりとなり、同地で死没。江戸時代の史料、
大名評判記では同じく後見であった田村宗良と比較して「発明過テ科ヲ招ク」と評されている。
**保科正之
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|25|37|79|93|90|仁政・能吏・築城|C|C|C|C|C|C|1611|1673|冷静|維持・長|
【ホシナマサユキ】
江戸時代初期の大名。徳川秀忠の四男。初代会津藩主。
徳川秀忠の庶子として生まれるが身分が低い女性が母であった事、秀忠の正妻・江の怒りを怖れた事で譜代である保科氏の養子となる。
異母兄である家光の代に召しだされるとその人物を気に入られ、それ以降は幕政に重きをなした。
末期養子の禁を緩和して藩の断絶を予防したり、明暦の大火後は江戸の街の復興と庶民の救済にあたるなど文治政治を推し進め、江戸時代の全盛期に大きく貢献した。
**松尾芭蕉
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|5|9|82|63|84|詩想・論客・強行|C|C|C|C|C|C|1644|1694||維持・長|
【マツオバショウ】
江戸時代初期の俳人。本名は松尾宗房。
伊賀国の下級武士、あるいは農民の出と言われ、若年の頃藤堂良忠に仕えた。
同時期より俳諧を嗜むが、良忠が早逝すると主君の菩提を弔いつつ俳諧に専念。
京、江戸を拠点にして俳諧に専念し続け、のちに猿蓑、おくのほそ道を完成させた。
死の瞬間まで句を詠み続け、50歳で死去。異説として、幕府による諸藩の諜報を行っていたというものもある。
※その他候補となった特技:運搬
**徳川光圀
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪|性格|素質|
|65|72|84|53|81|威風・詩想・威圧|B|B|B|B|C|C|1628|1701|伊達政宗|徳川綱吉・柳沢吉保|剛胆|維持・長|
【トクガワミツクニ】
江戸時代初期の大名。徳川頼房の三男で水戸藩藩主。「副将軍」「水戸黄門」とも。
頼房の三男として水戸で生まれ、兄を差し置いて嫡男となり、山野辺(最上)義忠の
教育を受ける。1661年に藩主となり、水道や寺社の整備を行った。
また学問にも熱心で、儒学朱子学を中心に学び、多くの学者を呼び寄せて
水戸学の源流を築いた。また大日本史の編纂に着手し、以後水戸藩の大事業として
すすめさせた。蝦夷地探索なども行わせるなど幅広い活動を行った。1690年に隠居し、1701年に死去。
※ 名君として後世に謳われるが、その事業の多さから水戸藩は慢性的な財政難に悩まされる。また全国行脚はほとんどが講談やフィクションによるものである。
※その他候補となった特技:風水、築城
**大石良雄
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|素質|
|82|68|71|36|94|論客・能吏・明鏡|B|C|B|C|C|C|1659|1703|吉良義央|剛胆|維持・長|
【オオイシヨシタカ】
江戸時代中期の武将。「大石内蔵助」の名で有名。播州赤穂藩藩士にして、元禄赤穂事件の首謀者。
大石良昭の子として生まれ、早逝した父に変わって家老職を引き継ぐ。
内匠頭刃傷事件により、赤穂藩が改易されるとその残務処理などを担当。
その後対立する二派を纏めあげ、御家再興、そして吉良邸討ち入りの中心的人物となる。
吉良義央を討ち取って主君の無念を晴らしつつ、1703年に切腹した。
主君に殉じる義挙と後世名高く広まるが、一方で放蕩三昧や昼行灯と呼ばれる行状もあったと言われている。
**関孝和
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|28|13|100|69|75|神算・鬼謀・連環|C|C|C|C|C|C|1642|1708||維持・長|
【セキタカカズ】
江戸時代の武将、和算家。藤原氏の出と伝わる。
江戸幕府6代将軍である徳川家宣に仕え、勘定吟味役として幕政に関与する一方、
関家の養子となり、塵劫記を学んだ。1674年に「発微算法」を著述し、点竄術の概念を提案。
西洋数学から独立しての導関数の発見や、ベルヌーイ数に相当する数式を発見した。
後年「算聖」と言われ、日本数学史上最高の英雄的人物としても名高い。
**徳川綱吉
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|12|23|67|89|72|論客・富豪・眼力|C|C|C|C|C|C|1646|1709||早熟・長|
【トクガワツナヨシ】
江戸幕府5代将軍。徳川秀忠の孫。
継嗣なく死去した兄の家綱に代わって5代将軍に就任。
大老の堀田正俊や勘定奉行の荻原重秀を重用し文治政治を推進。
武家諸法度元和令を制定し天和の治と呼ばれる政治を行う。
晩年は生類憐みの令などを出して捨て子や犬を保護し、「戦国時代」の遺風を断絶した。
綱吉死後、犬の保護は取り止めとなったがそれ以外の制度は存続している。
**柳沢吉保
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|17|11|86|74|28|言毒・富豪・能吏|C|C|C|C|C|C|1658|1714||維持・長|
【ヤナギサワヨシヤス】
江戸時代初期の幕臣。甲斐源氏一条家の末裔と言われる。
もとは上野国館林藩の藩士で、当時の藩主であった徳川綱吉に仕えた。4代将軍家綱に
継嗣がなかったため、将軍後継として綱吉が選ばれた。この時綱吉に同道して江戸へ入っている。
徳川綱吉が5代将軍に就任すると、側用人として起用され、権勢を振るった。
その後は老中格にまで登りつめ、最終的に甲斐15万石の領主となる。綱吉死後は権勢を徐々に
衰退させ、その前後で隠居し、1714年に死去。甲斐源氏武田家と遠縁ということもあり、
武田信玄の法要や武田家子孫を取り立てるなど、凋落していた武田家の復興にも貢献している。
**識仁親王
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|5|9|85|89|92|詩想・威圧・指導|C|C|C|C|C|C|1654|1732||維持・短|
【サトヒトシンノウ】
江戸時代の皇族、天皇。のちの霊元天皇にあたる。後水尾天皇の第十六皇子。
兄の後西天皇から譲位されて践祚するが、実権は父親である後水尾法皇が握っており院政状態であった。
後水尾法皇の死後は自ら政務をとり、皇室再興と独自戦略を軸に幕府と距離を取った政治体制を敷いた。
また自らも院政を実行し、これを抑えようとする幕府方との対立をしばしば発生させたと言われている。
一方で幕府と関係改善も実行しており、幕府の統制下に縛られない政治を行い続けた。
父である後水尾天皇同様、長期にわたって朝廷政治に重きをなした。
**徳川吉宗
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|46|63|85|90|89|米道・徴収・猛者|C|C|B|C|C|C|1684|1751||維持・長|
【トクガワヨシムネ】
江戸幕府8代将軍。徳川光貞の四男。徳川家康の曾孫。紀伊藩出身。
徳川綱吉に任じられ、越前葛野藩主となった。兄2人が夭逝したため宗家の紀伊藩を相続。
やがて7代将軍徳川家継が継嗣なきまま早逝すると、幕閣から将軍候補として迎え入れられ、
江戸幕府8代将軍に就任する。新田開発や上米の制など「享保の改革」と呼ばれた政治体制を行い
江戸幕府中興の祖と言われた。武芸を推奨した一方で、徳川綱吉や新井白石の統治に敬意を払い、
文武両立の体制を築いた。
**青木昆陽
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|8|7|77|82|79|風水・屯田・米道|C|C|C|C|C|C|1698|1769||維持・長|
【アオキコンヨウ】
江戸時代の町人、幕臣、儒学者、蘭学者。
江戸日本橋の魚屋の子として生まれ、古義堂で儒学を学んだ。
その後、懇意にしていた加藤枝直の推挙で大岡忠相に仕え幕臣となる。
徳川吉宗の差配にて甘藷栽培を命じられ、関東各地で試作させ、関東における
甘藷流行の先駆けとなる。のち薩摩芋御用掛を拝命した。学者としても著名で
「蕃薯考」「諸州古文書」を記し、晩年には書物奉行となった。
**平賀源内
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質|
|10|13|99|77|84|発明・指導・築城|C|C|C|C|C|C|1728|1780|猪突|早熟・短|
【ヒラガゲンナイ】
江戸時代中期の学者、事業者。「平賀国倫」の諱を持つ。
讃岐の出身、先祖は武田家に滅ぼされた信濃豪族の「平賀氏」と言われるが定かではない。
のち大坂、京都、江戸に出て多くの学問や技術を学び、しばしばそれを
博覧会などで還元した。江戸においては田沼意次や杉田玄白ともある程度の交流があったという。
儒学、俳諧、蘭学、浄瑠璃、医学、鉱山開発、殖産業など多くのことに精通した異才であったが、
1779年に不祥事を起こし牢獄送りと成り、そのまま獄中で死去した。その死は杉田玄白からも
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」という文言で惜しまれている。
**徳川家治
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|51|58|79|78|82|明鏡・補佐・眼力|C|C|C|C|C|C|1737|1786|冷静|
【トクガワイエハル】
江戸幕府10代将軍。祖父は8代吉宗、父は9代家重。
若年のころより文武の才覚に優れ、祖父吉宗直々の薫陶を受けた。
その後23歳で将軍職を継ぎ、田沼意次や松平武元らを重用して政治改革に乗り出す。
晩年は田沼意次に政治を一任し、趣味に没頭。早逝した嫡男家基にかわり
一橋家から豊千代(家斉)を養子を迎え、1786年に薨去した。
※ 多病の家重を吉宗が後継者に定めたのは、家重の嫡男家治の存在があってのこととも言われる。家治の死後、反対派によって田沼意次は失脚させられた
**田沼意次
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|12|19|83|92|39|富豪・能吏・屯田|C|C|C|C|C|C|1719|1788|冷静|
【タヌマオキツグ】
江戸時代中期の大名。旗本田沼家の子息。
徳川吉宗に推挙され、吉宗、家重、家治の3代の将軍に仕えた。
老中首座の松平康福らを筆頭に田沼派で幕政を掌握し、重商主義を貫いて幕府財政の再建に着手。
株仲間の結成や印旛沼干拓、蝦夷地開発などを実施するが
反田沼派の手によって嫡男が暗殺されると次第に権力を失い、家治の死に前後して失脚した。
反田沼派の工作に因り生前没後も賄賂政治の元凶と呼ばれた一方、
近年では新進気鋭の政治方針を評価されつつある。
※その他候補となった特技:徴税
**杉田玄白
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|性格|素質|
|6|18|89|60|85|解毒・詩想・心攻|C|C|C|C|C|C|1733|1817|平賀源内|冷静|維持・長|
【スギタゲンパク】
江戸時代中期の蘭学医、小浜藩、江戸幕府に仕える。
江戸の牛込で生まれ、小浜藩上屋敷で藩医として活動。その後江戸で
町医者となり、平賀源内らと昵懇な関係を築く。その後前野良沢らと
協力してオランダ語の医学書である「ターヘル・アナトミア」を和訳し、
「解体新書」を手掛けた。晩年は「蘭学事始」を執筆。江戸一の医者として
名を馳せ、日本近代医学の先駆けとも言われている。
**山片蟠桃
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|5|10|94|89|80|屯田・徴収・米道|C|C|C|C|C|C|1748|1821|
【ヤマガタバントウ】
江戸時代中期の商人。もとは播磨国の出身。
大阪の両替商である升屋に仕え、若い頃から卓越した商才で経営を良化させた。
仙台藩の財政事情にも介入し、米の扱いを改善して財政再建を行ったと言われている。
学問にも熱心で、天文学や儒学などを学び、のちに「夢の代」を記した。
※その他候補となった特技:富豪・徴税
**松平定信
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪|性格|音声|素質|
|22|29|73|62|39|徴税・機略・規律|C|C|C|C|C|C|1758|1829|田沼意次|小心|尊大|早熟・短|
【マツダイラサダノブ】
吉宗の子・田安宗武の7男で白河藩松平家の養子。養子縁組の首謀者と目した田沼意次に怨恨を持つ。
その田沼を派閥工作で執拗に追い落した後、白河藩の治世の実績を買われ老中に就任。
現実を一切無視した観念的な朱子学に則った政策は後世「寛政の改革」と称され、
民衆の恨みを買い幕政が一層傾く結果となった。
※その他候補となった特技:論客
**上杉治憲(鷹山)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|58|40|82|96|88|指導・能吏・米道|B|C|B|C|C|C|1751|1822|
【ウエスギハルノリ(ヨウザン)】
江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第9代藩主。諱は治憲。隠居後に鷹山と号する。
十七歳で家督を継ぎ、財政産業に明るい竹俣当綱や莅戸善政を重用して財政難に喘いでいた米沢藩の改革を断行した。
藩主自ら質素倹約に努め、改革に反対する家老や重役と激しく対立した結果、破綻寸前の藩財政を改善し次々代の斉定で借債を完済する。
「為せは成る 為さねは成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬ也けり」の言葉で有名。
**徳川家斉
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|41|46|59|70|84|規律・威圧・徴税|C|C|C|C|C|C|1773|1841|
【トクガワイエナリ】
徳川幕府第11代将軍。徳川吉宗の曾孫で一橋家出身。
継嗣がいなかった徳川家治の跡を継いで15歳で11代将軍に就任。同じく将軍後継と目された
松平定信を老中に据え、御三家との協調体制を打ち出し寛政の改革を推し進める。しかし
長じた後は松平定信を罷免。その後実父の徳川治済や一門の松平信明らと協力するが、
彼らの死去、隠居後は自ら親政を行った。その後は豪盛な生活を送る傍ら異国船打払令などの
外患防衛策などを推し進め、また自ら授かった50人近くの子供を有力大名や旗本の家へ送り込み
莫大な利益を築いた。しかし長期に渡る将軍在位、大御所執政により晩年は財政問題が拡大し、幕藩体制の不安を抱えたまま病没した。
**大塩正高
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|36|48|52|79|91|論客・怒髪・火攻|B|B|B|C|C|C|1793|1837|
【オオシオマサタカ】
江戸時代後期の幕臣。大坂町奉行組与力。「大塩平八郎」の名で有名。
もとは厳格清廉な役人で、上方の腐敗を暴き民衆の支持を集めていた。
その後は養子に家督を譲って学問に専念。また大坂町奉行からも厚遇されていた。
しかし飢饉が発生した際に大坂東町奉行の跡部良弼と対立し、結果的に上方に
餓死者が溢れかえったため、「救民」の文字を掲げて町人と乱を起こした。
内部離反者がいたため乱は1日で鎮圧され、大塩自身も後に潜伏先を見つけられて自害しているが、
大坂での被害は大きく、また幕府元役人の反乱ということもあり、全国各地へ大きな影響を残した。
**水野忠邦
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|11|5|76|58|38|論客・眼力・規律|C|C|C|C|C|C|1794|1851|
【ミズノタダクニ】
江戸時代後期の藩主。肥前唐津、遠江浜松藩主、のち老中首座。
1812年に家督相続して藩主に就任し、1816年に奏者番となったが、負担増を懸念し
自ら領民や家臣の反対を押し切って浜松への国替えを願い出、許されて浜松藩主となる。
その後同族の水野忠成に登用されて幕府中枢入りを果たし、大坂城代、京都所司代を歴任、
1839年に老中首座となり、天保の改革に着手した。
しかし、民衆や外様・譜代藩主の猛烈な反対を受け、改革は失敗。
一度復帰するも声望を得られないまま死去した。
遠山景元や真田幸貫ら有為の人材を抜擢する一方、賄賂や弾圧の噂が絶えず、官民問わず多くの反発を受けた。
**真田幸貫
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|36|38|80|85|84|発明・眼力・能吏|C|C|C|C|C|C|1791|1852|
【サナダユキツラ】
江戸時代後期の藩主。真田松代藩第8代藩主。松平定信の庶長子。
長男であったが、庶子であったため次男として遇され、1815年に真田幸専の養子となり
真田松代藩を継いだ。1823年に藩主就任となると、佐久間象山ら優秀な人材を多数抱えて藩政改革を実行。
洋学の導入研究や殖産興業の発展に力を注ぎ、藩校である文武学校を開設した。徳川将軍家と
同じ血を引いていることから幕閣からも期待され、天保の改革にも参与した。子に先立たれたため、孫を養子とした。
**織田信陽
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|17|14|50|66|80|富豪・徴税・眼力|C|C|C|C|C|C|1795|1857|
【オダノブアキ】
江戸時代後期の藩主。大和柳本藩11代。織田信長の子孫にあたる。
1806年に家督を相続後、藩札を用いた大規模な財政改革により、財政再建を実施。
また人材登用も積極的に行い、藩政改革を成功させた。
小藩ながら徳川将軍家の信頼も厚かったと言われている。
**徳川斉昭
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|
|57|80|64|86|75|威圧・眼力・発明|B|A|A|C|C|C|1800|1860|猪突or剛胆|
【トクガワナリアキ】
江戸時代後期の藩主。水戸藩第9代藩主であり、15代将軍徳川慶喜の実父。
早逝した兄の徳川斉脩の跡を継いで水戸藩藩主となり、藩政改革を実行。
藩校、弘道館を設置し藤田東湖や戸田忠太夫ら多くの人材を見出した。
また幕政にも関与し、蝦夷地開拓や軍事改革などを提言している。一方で
仏教を抑圧し神道を優遇した。黒船来航後は水戸学の影響から攘夷論を展開。
将軍継嗣問題や戊午の密勅などをめぐり井伊直弼と対立したが、安政の大獄で弾圧され、1860年死去。
補足:「烈公」の諡号の通り苛烈な人物で、自ら砲術や薙刀術を創始した。攘夷論を提言した際は
幕府に対し74門の大砲と弾薬、軍艦「旭日丸」を献上している。
※その他候補となった特技:造船・射手
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*注意点
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https://wikiwiki.jp/sansinb/
&color(Red){今後はこちらの利用をお願いします。}
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