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みんなの新武将/戦国時代 - (2022/02/02 (水) 12:38:01) の最新版との変更点
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#CONTENTS
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*注意点
基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。}
当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。}
(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。)
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。
&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。)
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。}
ここはあなただけのページではありません。
2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。
それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。
適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。
*戦国時代(B.C.403~B.C.221)
春秋時代に続く、秦によって中華が統一されるまでの時代。
戦国時代の呼称は『戦国策』『史記』にも見られるが、17世紀に普及するまでは“六国の世”または“七国の世”が一般的だった。
晋の分裂と斉の簒奪に始まる実力主義の時代で、周王室は[[洛陽]]一帯を保つ弱小勢力に凋落し、初期には中原を占める魏が強勢となり、
次いで斉が覇を唱え、やがて未開発地を多く擁した楚と秦が抬頭し、斉・楚・秦が諸国との合従連衡を通じて覇を競った。
宋を併合した斉が済西の役(B.C.283)で壊滅し、公族の抑制に成功した秦が楚の雲夢を併合(B.C.278)したことで秦の優勢が確定し、
武霊王の軍事改革で抬頭した趙が長平の役(B.C.260)で壊滅すると秦に単独で対抗できる国はなくなり、
B.C.256年には周が滅び、他国もB.C.221年までに秦に順次蚕食併合された。
また諸子百家の時代でもあり、代表的な学派の墨家・道家・儒家・法家・陰陽家・農家・縦横家・雑家・小説家を以て九流とも呼ばれる。
多様な思想学問の勃興は中国史上稀有な現象で、相互に刺激して思想を深化させた状況は“百家争鳴”と称され、
学術の中心となった斉の稷下には著名な学者の多くが名を連ねた。
**蘇秦
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|40|22|93|90|85|論客|C|C|C|C|C|C|?|B.C.284?|
【ソシン】
戦国時代の遊説家。鬼谷子の門下。[[張儀]]と並ぶ縦横家の代表人物。
合従策を成立させたとされる。
『史記』によると、戦国の七雄の内、秦を除いた六カ国間の同盟(合従策)を成立させ、秦を封じ込めた。
この時の故事成語が、「鶏口牛後」である。
合従解体後は燕に仕えたが、身の危険を感じ斉に移り、斉でも湣王に取り立てられたが、政敵に暗殺された。
しかし、新資料の『戦国縦横家書』によると、燕を中心とした五カ国合従により斉を圧倒したのが事実であり、
彼の事績は大幅に修正されている。
**衛鞅
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|70|62|90|98|83|規律|B|B|C|C|B|C|B.C.395?|B.C.338|
【エイオウ】
戦国時代の思想家。商鞅。公孫鞅。衛の公族出身。
母国の衛が弱小国のため、若い頃から学問に励み、魏の恵王の宰相公叔座の食客となった。
公叔座は若き公孫鞅の才能に驚愕し、評価したという。
後に秦に仕え変法と呼ばれる国政改革を断行し、僅か十年で富国強兵に成功し、民心も豊かになった。
しかし、恵文王の代には反対派の讒訴を受け、身の危険を感じて魏へと亡命するが、
魏はこれを受け入れず、このため車裂刑で惨殺された。
とはいえ、商鞅の死後も彼の法は残り、最終的に秦が統一出来たのも商鞅の法の功績とされる。
//姓と氏は姫姓衛氏。別氏で公孫。封地から商氏とも。
**申不害
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|56|29|91|96|87|沈着|B|C|C|C|B|C|?|B.C.337|
【シンフガイ】
戦国時代の韓の政治家。
身分は低かったが、才能を見込まれて師匠に推挙され、昭侯に拝謁した。
昭侯は弱国である韓の統治策を問われると、
法を整備し公平な論功行賞を行えば国は自然に治まると説いた。
こうして、昭侯は申不害を宰相にした。
韓は戦国七雄最弱で、常に隣国の魏と秦に怯えていたが、
彼が宰相の間は国情は安定し、領土も少しずつ拡張した。
彼の法家思想は韓非に継承され、[[始皇帝>贏政]]によって国政に用いられ、秦は大陸を統一した。
著書に『申子』二篇があるが、散逸している。
**嬴疾
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|89|77|94|85|70|鬼謀|A|A|S|A|S|C|?|B.C.300|
【エイシツ】
秦の王族、武将、政治家。別名に樗里子、樗里疾。
諸国が連合して秦を攻めると、連合軍を討ち破って敵将の申差を捕縛した。
魏の焦と曲沃、趙の藺を攻略し秦の版図を拡充する。
魏章を支援して楚の将軍達に離間を仕掛け、楚軍を大破し屈丐を捕らえた。
さらに[[漢中]]を攻め取り、その功績で厳君と呼ばれるようになる。
[[張儀]]が放逐されると右丞相となり、重用される。
衛の蒲を攻めた際には、胡衍が利害を説いて講和を求めたため撤退した。
その智謀から「智嚢」と綽名され、後代に機智に富む人物が「智嚢(知恵袋)」と呼ばれるようになった。
**孟軻(子輿)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|56|48|82|85|87|仁政|C|C|C|C|C|C|B.C.372|B.C.289|
【モウカ(シヨ)】
戦国時代の思想家。孟子。別字に子車、子居。
子思([[孔子>孔丘]]の弟子)の門人に師事して魏・斉・宋などに遊説し、
魯への仕官に失敗した後は郷里で門人教育につとめた。
孔子の思想を発展させて人の本性を「善」とし、礼はその昇華の媒介だとして「性善説」を展開し、
徳治主義=王道思想を主張したが、攻撃的・排他的・独善的な傾向が強く、
君主の絶対権を否定した為に政治的には不遇だった。
当時の土地私有の増大を背景として井田制を主張し、また、墨家を厳しく排撃した。
『孟子』の著者とされる。
※字は後代の出典のため信憑性は薄い。
**慎到
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|42|38|85|87|70|風水|C|C|C|C|C|C|B.C.395?|B.C.315?|
【シントウ】
戦国時代の諸子百家の一人。『史記』には伝はなく、正確な生没年は不明だが、
孟子らと同じころに活躍していたらしい。道家の出身であるがその思想は法家への移行を果たし、
百年に一人でるかどうかの聖人に国を任せるのではなく、法で国を治めるべきと主張し、
政治権力を君主や官僚の個人の能力と関係ない「勢」と捉え、後の中国の政治構造のベースとなった。
著書に『慎子』なる書物があるが、散逸して現存していない。
現在は『韓非子』の難勢編の引用でのみその思想の一端を知ることができる。
**荀況
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|53|45|86|92|74|規律|C|C|C|C|C|C|B.C.313?|B.C.238?|
【ジュンキョウ】
戦国時代の思想家。荀子。
斉の襄王に仕えたが讒言されて去り、楚の春申君に招聘されたが、春申君の没後隠棲した。
子夏の学統を継承し、孟子の性善説に対し「性悪説」を唱え、
人性を矯め、中庸の精神を維持する為の礼の必要性を説いた。
礼は修身の手段とされ、これは礼の励行・維持の手段として形即心に発展し、
次第に法家的となり、門下からは韓非・李斯を輩出し、漢代には政治的に主流となった。
反面、本来の儒家とは相容れず、特に宋代には不評で、儒家よりも法家に分類された。
『荀子』の著者とされる。
**墨翟
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|90|60|92|85|90|築城|A|S|S|A|S|C|B.C.468?|B.C.376?|
【ボクテキ】
戦国時代の思想家。墨子。河南鲁山の人とされる。
兼愛・非攻を説いて全国を遊説したが、その経歴は謎の部分が多い。
儒学を学ぶが、儒学批判を通じて独自の学問を切り開き、墨家集団と呼ばれる学派を築くに至る。
彼らは思想集団としてだけではなく、兼愛・非攻の究極の実践形と言える防御・守城の技術者集団として、
一時は儒学と並び称される程の学派となった。
しかし、秦による法家思想の圧倒的影響力や、漢代の儒教の国教化も相俟って、急速に衰退する。
彼らが再評価されるのは、清代に入ってのことである。
**荘周(子休)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|54|38|97|76|95|鬼門|C|C|C|C|C|C|B.C.369|B.C.286|
【ソウシュウ(シキュウ)】
戦国時代の思想家。荘子。宋の人。
一時仕官していたがほどなく離職し、著述と思索に没頭して楚の威王の招聘にも応じなかった。
胡蝶の夢に代表されるその思想は逆説に富み、万物斉同と因循主義の哲学を唱え、
礼などによる矯正=人為を否定して個人的解脱を説いた。
儒家や墨家の主張を巧みな比喩で批判したが、論争することはなかった。
のちに老子の思想に結び付けられ、ともに道教の神とされ、
唐代には神格化され南華老仙となり、三国志演義では[[張角]]に妖術書を授けたとされた。
『荘子』の著者とされる。
※字は後代の出典のため信憑性は薄い。
**公輸盤
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|70|79|85|74|73|工神|C|C|S|C|S|C|?|?|
【コウシュバン】
戦国時代の楚の伝説的な大工。雲梯(攻城用の梯子)を発明したとされる。
墨子と模擬攻城戦を行った逸話で知られる。
その結果、墨子は公輸盤の攻撃を悉く撃退し、しかも手駒には余裕が有った。
面子を潰された公輸盤は秘策として墨子殺害を目論むが、それすら墨子に看破されていた。
帰途、宋の城門の軒先で雨宿り中の墨子は、乞食と勘違いされ城兵に追い払われた。
墨子の御技は、救われた当の宋人にも解らない程の素早さであった。
これが「自説を頑なに守る」という意味の「墨守」という故事成語の典拠である。
**田文
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|75|52|87|84|96|名声|A|B|B|C|C|C|?|B.C.279|
【デンブン】
戦国時代の斉の宰相。戦国四君の一人、孟嘗君。
薛の靖廓君嬰の子で、魏で呉起と宰相を争った田文とは別人。
妾腹出の不祥の子として殺されかけたが、長じて才腕を発揮。
多数の食客を養って名声を博し、秦の昭襄王に宰相として招聘されたが、
「鶏鳴狗盗」の活躍で函谷関を破って帰国。
宣王の宰相として内外に治績を挙げたが、王の疑心を被り一時は魏の宰相に転じ、後には自立。
しかし、優秀な業績は遺さず、『史記』には、食客のために薛の治安は大いに乱れたとある。
没後、薛は相続争いに乗じた斉・魏の連合軍に滅ぼされた。
**田単
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|89|74|97|82|74|深謀|A|B|B|A|S|C|?|?|
【デンタン】
戦国時代の斉の名将。
燕の楽毅が斉に侵攻し70余の城を陥落させた際に、残った2城の内の即墨を堅守する。
田単は城内にいた燕の密偵に対して反間の計を仕掛け、
楽毅と不仲だった燕の恵王へ流言を飛ばし楽毅を亡命させる事に成功する。
また、敵軍の非道を訴えて城内の結束を固めつつ、
燕の将軍・騎劫にも偽報を流して油断を誘い、角に剣、尾に松明を付けた牛を敵陣に放って撃破した。
この火牛の計で燕軍は潰走し、この勝利に乗じて70余城を奪い返した。
斉を再建した後は趙の宰相も務めた。
**趙雍
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|87|90|78|54|66|白馬|A|A|S|S|B|C|B.C.340?|B.C.295|
【チョウヨウ】
戦国時代の趙の王。武霊王。
即位後、肥義を顧問とし、また叔父の公子成の協力を得、中山国の征討と遊牧民打倒を志す。
この時、群臣の反対を押し切って胡服騎射を採用し、趙を一躍軍事大国とした。
中山国攻略では名将[[楽毅]]を向こうに回したが、代・九原遠征で大成功を収め、
太子に譲位後は庶政を委ね、主父を称して軍事に専念し、遂に中山国を征服した。
自ら使者を装って秦の昭王に謁見し、秦の情勢を観察するなど秦攻略を次の目標としたが、
廃太子章を厚遇したため叛乱を招き、包囲の中餓死した。
**趙勝
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|76|34|82|80|84|補佐|B|C|A|C|B|C|?|B.C.251|
【チョウショウ】
戦国時代の趙の公子・政治家。戦国四君の一人、平原君。武霊王の子。
公孫竜や鄒衍らを食客として養い、兄を補佐した。
魏の宰相・魏斉が庇護を求めた際には受け入れ、秦に赴いて彼を擁護した。
後、秦との関係を拗らせたため、長平の戦いでは[[白起]]の軍に大敗し、趙を危機に陥れてしまうが、
「嚢中の錐」の故事で知られる毛遂の助力で、楚の助力を得る。
魏の義弟である信陵君や、忠臣李同の特攻もあって遂に国難を脱したが、私財も李同も失った。
後、彼の名声も信陵君にとって代わられたという。
没後、子孫は趙とともに滅んでいる。
**趙奢
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|92|78|89|84|87|長駆|B|A|A|S|B|C|?|?|
【チョウシャ】
戦国時代の趙の将軍。地方の税吏出身。馬服君。
平原君が貢税を拒否したため家士9人を処断し、報復に来た平原君を叱咤し、認められて中央に推挙された。
閼与の戦いでは廉頗・楽乗らが不可としたのを可能として将軍とされ、大勝して上卿に任じられ、馬服君と号した。
子の趙括は兵法論では父を凌ぐとされたが、趙奢は趙括を机上の空論家と評しており、
長平の戦いでは功を焦って[[白起]]に大敗。趙軍40万を坑殺された。
後漢の光武帝に仕えた将軍馬援([[馬超]]の先祖)の馬氏は馬服君の末裔という。
**廉頗
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|素質|
|95|92|75|50|88|闘神|S|S|A|A|B|C|?|?|維持・長い|
【レンパ】
戦国時代の趙の将。戦国時代を代表する老将。
[[藺相如]]を口説の徒として嫌っていたが、彼の憂国の情に心打たれて改心し、
彼と刎頸の交わりを結んだ事で名高い。
将軍として秦・斉に連勝し、この功により上卿に任ぜられ、勇敢さで諸侯に名を挙げた。
秦との戦いでは塁壁を守り抵抗を続けたが、范雎の工作による讒訴を受け左遷させられてしまう。
しかし、後任の趙括は長平の戦いで秦に大敗し、趙の国運は傾く。
燕との戦いの後、魏や楚へと亡命を繰り返すが、重用される事はなかった。
**黄歇
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|68|63|81|80|72|論客|C|C|C|C|C|C|?|B.C.238|
【コウケツ/コウアツ】
戦国時代の楚の政治家。戦国四君の一人、春申君。
楚の使者として、楚秦両国の講和を成功させたことで名を挙げる。
後、楚の後継争いでは秦の人質であった考烈王を擁立し、国勢の傾いた楚を立て直した。
趙が秦によって包囲された時、義兄の平原君の救援要請に応えて兵を出し、
秦の包囲を破り、更には魯を滅ぼした。
戦国四君のなかで唯一公族ではないが、その勢力は楚王をも凌いだという。
荀子ら多くの食客を養ったが、食客の一人李園の妹を巡る政略結婚の問題で恨みを買ったため、
謀殺された。
**屈平(原)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|48|36|90|92|94|詩想|B|B|A|C|S|A|B.C.343|B.C.278|
【クツヘイ(ゲン)】
戦国時代の楚の政治家・詩人。
当初は楚の懐王に重用されていたが、屈原の才を妬んだ靳尚に讒言され疎まれる。
楚が秦との同盟を際、秦は虎狼の国であるから信用できないと進言したが、
懐王はこれに耳を傾けず秦に赴き、拘留された。
次代の頃襄王にも疎まれたため、江南に移され、屈原は憂国の情に駆られ入水自殺した。
屈原の慰霊のため、人々は竹の皮でつつんだ餅を川に投げるようになった。
これが端午の節句に食べられるちまきの始まりといわれている。
**魏無忌
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|92|76|90|87|94|深謀|A|B|A|S|B|C|?|B.C.243|
【ギブキ/ギムキ】
戦国時代の魏の公子・政治家・軍人。戦国四君の一人、信陵君。三代昭王の末子。
3千名を超える、多彩な食客を集めた。
秦が趙を攻めた際、義兄の平原君の救援要請に応え、秦を撤退させた。
趙に滞在中、平原君を論破し、多くの食客が信陵君に鞍替えしたという。
後、度重なる秦の侵攻に対応すべく、魏に帰国。
五カ国の軍隊を指揮して秦を討ち、蒙驁([[蒙恬]]の祖父)を破り、
遂に函谷関に逆侵攻するが、秦の離間の計のため失脚。
その後は酒に溺れ、酒毒により没した。
食客らの兵書を集め、『魏公子兵法』を編纂したという。
**魏冉
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|81|47|72|89|63|規律|B|A|B|C|B|C|?|?|
【ギゼン】
戦国時代の秦の政治家。楚の人。穣公・陶公。
秦の三代に仕えた丞相で、幾度も丞相の位に再任した。
武王の急逝後、外戚として昭襄王を擁立した後、反対派の反乱を鎮圧して政権を固める。
楼緩に代わって宰相となり、[[白起]]を登用し、韓・魏・楚を破り、秦の版図を拡大した。
その後も外征を繰り返し、自身の封邑である陶を広げ、斉の地を自領に組み込んだ。
しかし、范雎が昭襄王に取り立てられると、その専横ぶりを批判されて失脚する。
封地の陶で隠棲し、そのまま没したが、彼の家財は王室をも大きく凌いでいたという。
**范雎(叔)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|69|50|89|90|82|鬼謀|B|B|C|C|A|C|?|B.C.255|
【ハンショ(シュク)】
戦国時代の秦の政治家。魏の人。
諸侯の間を遊説し、魏の大夫・須賈に仕え、使者として斉に向かう。
この時、斉の襄王は范雎の才覚を高く評価し、金十斤と牛・酒を送ってきたが、范雎はこれを断った。
後、范雎は[[白起]]の大功を恐れ、昭襄王に讒言して白起を誅殺させた。
後任の鄭安平と王稽は秦を裏切ったため范雎は憂いたが、昭襄王の信頼は変わらなかった。
後、遊説家の蔡沢が商鞅・[[呉起]]・文種らを例に挙げ、范蠡に倣って致仕を奨めた。
范雎はこの言を容れて致仕し、後任の宰相に蔡沢が就いた。
**呂不韋
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|46|34|89|87|73|富豪|C|C|C|C|C|C|B.C.290?|B.C.235|
【リョフイ】
戦国時代の大商人。陽翟の人。
邯鄲に人質となっていた秦の昭王の孫の子楚を「奇貨居くべし」と支援した。
子楚は後に秦の荘襄王となり、彼を丞相に任じた。
荘襄王の没後、太子の政が即位すると、仲父の尊称を受けて朝政を総覧したが、
食客の嫪毐の謀反に連座したため、蟄居し、後年自害した。
門下には食客数千人が集まり、見聞・知識の集大成として『呂氏春秋』を編集し、「一字千金」と豪語した。
子楚の求めで譲った愛妾が年余で政を産んだため、儒家により[[始皇帝>贏政]]の実父とされている。
彼の一族は始皇帝により永昌に強制移住させられ、当地は後に不韋県と称された。尚、[[呂凱]]は彼の末裔である。
**李牧
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|95|78|92|80|85|妙計|S|S|A|A|A|C|?|B.C.229|
【リボク】
戦国時代の趙の将。
趙の北方を守り、匈奴の侵入に対して籠城して防衛に当たる。
これを臆病と考えた趙王により解任されるが、損害が拡大したため従来の方針確保を条件に任に戻る。
匈奴に対し、李牧は奇陣を張って大勝し、匈奴十余万騎を殺害し、10年以上も匈奴は趙に近づかなかった。
後、秦・韓・魏の度重なる侵攻を何度も撃退するが、秦から賄賂を受けた郭開の讒言で更迭された。
しかし、その命令を拒否したため捕らえられて斬られ、その3ヶ月後に趙も滅亡した。
**蒙武
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|81|90|60|24|55|威風|B|S|C|S|C|C|?|?|
【モウブ】
戦国時代の秦の将。蒙驁の子で[[蒙恬]]・蒙毅の父。
父に劣らぬ名指揮官として各地を転戦し功を上げた。
楚の攻撃では[[王翦]]の副将となり、淮南以外の楚の地を悉く奪い取り楚を討ち滅ぼす。
楚の項燕が昌平君を立てて反乱すると叛乱軍を撃破、昌平君を戦死させ項燕は自殺して楚は滅亡した。
**李信
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|81|85|54|30|65|急襲|A|B|C|S|C|C|?|?|
【リシン】
戦国時代の秦の将。
血気の勇があり、平民出ながら戦功を重ね将軍となる。
燕との戦いでは[[薊]]から敗走した太子丹を追撃し討ち取るが、
楚との戦いでは[[蒙恬]]と共に20万の兵を率いるも、項燕率の奇襲に破れる。
なお、翌年には[[王翦]]が60万の兵を率い、楚を滅ぼした。
対楚戦後も粛清されず、対斉戦に出陣している事から[[始皇帝>贏政]]の信頼を得ていた模様。
李信の曾孫が前漢の李広であり、李陵はその子孫。
他にも唐の李白等が李信の子孫を称している。
現在連載中の原泰久作漫画作品『キングダム』で、李信と嬴政が主人公として描かれている。
**王賁(典)
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|88|84|80|55|78|攻城|A|A|B|A|S|C|?|?|
【オウホン(テン)】
戦国時代の秦の将。名将[[王翦]]の子。王離の父。[[秦王政>贏政]]に仕えた。
魏侵攻戦では、黄河の水を魏の都城である大梁に引いて包囲し、魏王魏假を投降させ滅亡させる。
李信らと遼東方面に進撃し、燕王喜を捕らえ燕を滅亡させた。
更に斉を攻撃、都城の臨淄を急襲して包囲すると、斉王田建を降伏させ滅亡させた。
秦の中国統一事業に大きな功績を残し、その功で後に通武侯に封じられた。
後、王賁・王離父子は始皇帝の天下巡遊に従い、石碑に名を刻んでいる。
**蒙毅
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|65|50|82|88|78|沈着|B|C|A|A|B|C|?|B.C.209|
【モウキ】
戦国時代の秦の将。蒙武の子で[[蒙恬]]の弟。
蒙恬が[[始皇帝>贏政]]に信任されると、蒙毅も親近され、上卿の地位を与えられて、
始皇帝の外出には常に車に陪乗し、宮中でも常に御前に侍った。
蒙恬は外征に任じられ、蒙毅は内政をはかり、共に忠信を称せられて、
他の諸将・大臣も敢えて二人と争おうとしなかった。
大罪を犯した趙高を処刑するよう命じたことで趙高に恨まれ、
始皇帝が崩御すると趙高の陰謀により、兄・蒙恬は捕らえられて蒙毅も獄に繋がれ、
間もなく趙高に弾劾されて、蒙一族は誅殺された。
**尉繚
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|76|58|97|89|80|百出|A|A|A|B|A|C|?|?|
【ウツリョウ】
戦国時代の秦の将。[[秦王政>贏政]]に仕えた。
秦に赴き、秦王政に六国の合従を財物30万金を費やして破綻させるように説いた。
秦王政は尉繚の進言に従い、尉繚を自分と対等の礼をもって待遇して衣服や飲食も同じくした。
後に、王の残忍さを危惧して秦を逃げ出そうとするが固く引きとめられて将軍となり、
秦国の尉としての計策を李斯が実践することとなった。
兵法書『尉繚子』が彼の著書という説もある。
**昌平君
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|84|62|88|77|83|指導|A|S|S|A|B|B|?|BC.224|
【ショウヘイクン】
戦国時代の楚の公子。楚王。
若くして人質として秦に赴き、秦で頭角を現して相国となった。
尉繚と共に秦の軍事面に携わり、多くの将兵を育成して統一の原動力となる。
長信侯が背くと昌文君と共に鎮圧した。
考烈王が秦に捕らえられ、楚が滅亡すると楚の将軍の項燕により淮南で楚王に立てられ、
秦に背いたが、[[王翦]]・蒙武に敗れて戦死した。
※姓氏名は不詳。
ただし、楚の公子であることから姓は芈(バ)、氏は熊(ユウ)と考えられる。
また近年の研究では諱を启(啓、ケイ)とする説があり、これに基づくなら熊啓(ユウケイ)となる。
**楊端和
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|81|77|68|49|77|射程|A|A|C|C|S|C|?|?|
【ヨウタンカ/ヨウタンワ】
戦国時代の秦の将軍。[[秦王政>贏政]]に仕えた。
[[王翦]]・桓騎とともに魏の[[鄴]]を攻め九つの城を落とした。
河内の兵を率いて趙に攻め込み、邯鄲を囲み、翌年王翦と羌瘣が趙の地を平定した。
**羌瘣
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|80|83|68|44|71|槍将|S|A|C|B|B|C|?|?|
【キョウカイ】
戦国時代の秦の将軍。[[秦王政>贏政]]に仕えた。
代を伐ち、[[王翦]]とともに趙を攻め、趙王遷を東陽で捕らえて趙を滅ぼした。
さらに兵を率いて燕を攻めんと中山に駐屯、李信と王賁が攻めて燕は滅亡した。
**韓非
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|27|22|90|99|63|看破|C|C|C|C|C|C|B.C.280?|B.C.233|
【カンピ】
戦国時代の韓の王族。韓非子。法家の完成者。
[[李斯]]と荀子に師事して刑名学を学び、門下一の俊秀と称され、
荀子は「出藍の誉れ」と彼を賞した。
韓非の母国の韓は戦国七雄最弱で、秦の脅威に曝されており、その打開策を練っていた。
生来の吃音で演説は上手くなかったが、文章は天才であり、
度々国政改革の上書をしたが容れられず、その思想を『韓非子』に著した。
却って[[秦王政>贏政]](のちの始皇帝)に高く評価されたため、李斯の伝手で秦に招かれた。
だが、韓非の才能を恐れた李斯は讒言をし、韓非は獄中で自殺した。
**鄭国
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|40|20|82|84|56|築城|C|C|C|C|A|C|?|?|
【テイコク】
戦国時代の韓の政治家。謀略により[[秦王政>贏政]]に仕えた。
土木作業に通じており、秦を疲弊させる目的で秦に入り、
秦王政に大規模な溝渠事業を説き実行させた。
目論みが発覚した後も、土地の荒い秦の農業に溝渠事業が必須であり、
いずれは秦の利になると弁明し、処刑されずに溝渠事業は継続。
万里の長城に近い規模の溝渠は、十数年かけて建設に成功した。
鄭国渠とよばれたその溝渠は古代中国の三大水利施設の一つに数えられ、
今日でも役だっている。
**荊軻
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|41|80|67|51|80|猛者|S|A|B|C|C|C|?|B.C.227|
【ケイカ】
戦国時代末期の刺客。衛の人。
争い事を避けて怯惰と評されたが、読書と剣術を修行し、若くして諸国を放浪して遊説術を学び、遊侠に身を投じる。
燕で高漸離という知己を得、人脈を広げ、実力者の田光に賓客として遇された。
燕の太子丹が人質先の秦から逃げ帰ってきた際に、彼の復讐のために田光は荊軻を推挙した。
[[始皇帝>贏政]]暗殺の策のため、督亢の地図と秦の亡命将軍樊於期の首を餌に不退転の覚悟で暗殺を試みた。
だが惜しくも失敗し、始皇帝に斬られ、怒りを買った燕も太子丹以下悉く秦に滅ぼされた。
**司馬錯
|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|
|85|76|88|74|77|明鏡|A|B|S|S|C|B|?|?|
【シバサク】
戦国時代の秦の将軍。司馬遷の八世の祖。恵文王・武王・昭襄王の3代に仕えた。[[張儀]]と同時代の人物。
張儀の征周論に対して征蜀論を展開し恵文王に支持され、蜀の内乱に乗じて自ら蜀を征服し平定、秦の国力を大きく増強した。
また楚や魏との戦いで功績を挙げ、秦の勢力拡大にも貢献した。
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*注意点
&color(Red){協議の結果、みんなの新武将の項目は別サイトに移転しています。}
https://wikiwiki.jp/sansinb/
&color(Red){今後はこちらの利用をお願いします。}
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