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隋~唐 - (2010/06/05 (土) 13:41:51) のソース
#CONTENTS ---- *隋~唐 **楊広 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |79|67|90|70|68|徴税|A|A|A|A|A|A|569|618| 【ヨウコウ】 中国隋朝の第2代皇帝。諱は広、廟号は世宗、謚は明帝。煬帝とは唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君とされる。文帝楊堅の次子として生まれる。 文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智顗より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜されている。 生母独孤皇后は非常に貞操意識が強く、文帝に対して「自分以外には子を産ませない」と誓わせている。文帝は倹約を是としていたが、楊広の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため皇帝に嫌われ、この状況を楊広が利用、両親の甘心を得るため自らの質素を宣伝すると共に、腹心の楊素らによる讒言を行い、楊勇を廃立し自ら皇太子の地位に就いた。 604年に文帝の崩御に伴い即位、崩御直前の文帝が楊広を廃嫡しようとし暗殺されたとの俗説が以後根強く残った(この説については隋書でも言及されている)。 即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また禁止されていた残酷な刑を復活させ、謀反を企てた楊玄感は九族に至るまで処刑されている。洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また百万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させこれを使い江南からの物資の輸送を行うと共に、美女宝物を運搬させた。 対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の台湾)などに出兵し版図を拡大した。更に612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は三度実施されたが失敗に終わり、これにより隋の権威は失墜した。また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第二次遠征途中の楊玄感の反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。 各地で李密、李淵ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江南に逃れた。煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての機能は失われていた。 618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及兄弟らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺害された。 **李世民 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |94|87|91|96|90|仁政|S|A|A|S|B|B|599|649| 【リセイミン】 唐朝の第ニ代皇帝。高宗・李淵の次男。 父の李淵が太原で起兵すると、長安に向けて進軍して平定。唐が建国されると秦王に封ぜられる。 武将として優れた才能を発揮し、割拠した群雄を平定するのに中心的役割を果たした。 建国の戦功に比してその地位が報われていないとして、父や兄と対立。 「玄武門の変」を起こし、兄の皇太子・李建成を殺害し、兄の同志であった弟を謀殺し、 父を上皇に祭り上げて幽閉した末に譲位させて即位した。 突厥を討伐し西域の高昌国を滅亡させ、「貞観の治」と称される善政を行い 府兵制、均田制、租庸調制、中央官制などの唐の諸制度の多くを完成させて唐の繁栄を築く。 中国史上最高の名君の一人と称えられる。 **長孫無忌(輔機) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |61|24|82|78|76|名声|C|C|C|C|B|C|?|659| 【チョウソンムキ(ホキ)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。趙国公。隋の右驍衛将軍、長孫晟の子。 唐の太宗の長孫皇后の兄であり、唐朝の外戚。学問を好み、文章や史書に通暁した。 唐の創始者・李淵が太原で起兵して長安を奪うと、謁見を受けて唐に仕える。 李世民の征戦に従軍して活躍。「玄武門の変」では、房玄齢・杜如晦らとともに襲撃の計画を定めた。 李世民が即位すると、功績第一として斉国公に進封された。唐の元勲・外戚として礼遇を受ける。 皇太子の李承乾が廃嫡されると、第九子の晋王李治を皇太子に推して後見となるが、 武氏立后に反対し、数度にわたって高宗(李治)に諫言したため、武氏が皇后として立つと、 宮廷で孤立。朋党事件の黒幕とでっちあげられて黔州に流されて首を吊り自殺した。 唐律疏義や隋書の編纂者としても知られている。 **李孝恭 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |83|82|86|63|85|精妙|A|A|A|B|B|S|591|640| 【リコウキョウ】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。河間元王。西平懐王李安の子。唐の高祖李淵の族甥。 李淵が長安を平定すると、左光禄大夫に任命され、間もなく山南道招尉大使となった。 金州から巴蜀に進出して三十余州を下して進撃、朱粲を破り降伏させる功を立てる。 江陵に拠る蕭銑を撃破して、輔公祏が江南で背くと大破した。この功で揚州大都督となる。 のち、邸に石頭城を築いたことで、謀反を誣告され召還されて詰問されるが、 謀反の実態がなかったため許され、涼州都督・晋州刺史を歴任した。 趣味は豪奢で、歌舞や美人を好んだが、人に対しては寛仁謙譲で、おごった様子を見せず、 李淵の跡を継いだ李世民にも重用された。 **杜如晦(克明) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |23|17|94|83|75|鬼謀|C|C|C|C|C|C|585|630| 【トジョカイ(コクメイ)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。莱国成公。 史書に親しみ、隋末には吏部に入ったが、間もなく官を辞し故郷へ戻った。 李淵が長安を占拠すると、李世民の参謀役であった房玄齢により見出され幕下に加わる。 「玄武門の変」の前、讒言により秦王府を追われたが、 太宗・李世民が即位をすると中央政界に復活し、 太子左庶子や兵部尚書という要職を歴任し、尚書右僕射まで上り詰める。 左僕射の房玄齢とともに「貞観の治」を現出させた。 **魏徴(玄成) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |17|55|83|77|68|百出|C|C|C|C|C|C|580|643| 【ギチョウ(ゲンセイ)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄭国文貞公。 幼少時貧困で、隋末に群雄の一人である李密のもとへ身を寄せ、敗戦して唐へ帰する。 竇建徳の捕虜となり、才能を見出される。建徳の兵が敗れ、唐へ帰り、 皇太子・李建成の側近となるが、玄武門の変で李建成が死ぬと、 李世民は率直さを評価して諫議大夫へ昇進させた、後に秘書監、侍中等の職を転任。 癇癪を起こした太宗を二百回余りも諌めることで有名となる。 死亡時、太宗は非常に哀しんで「人は銅を以て鏡と為し、衣冠を正すべし、 古きを以て鏡と為し、興替を見るべし、人の為す鏡を以て、得失を知るべし。 魏徴の沒、朕亡くせし一鏡矣。」と言ったという。 **房喬(玄齢) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |7|3|92|91|76|眼力|C|C|C|C|C|C|578|648| 【ボウキョウ(ゲンレイ)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。梁国公。 隋末の混乱時に唐に投じて、李世民の秦王府十八学士の筆頭とされた。 李淵が統一を果たして以後、優秀な人材の確保に努めて、杜如梅を見出し推挙。 建国間もない唐の王朝で皇太子・建成と世民の間で継承争いが起きると、 房玄齢と杜如晦はその謀略の才を建成側に恐れられ、讒言を受けて秦王府への立ち入りを禁じられた。 李建成に悟られないように策謀を進め、「玄武門の変」を成功させて李世民を即位させた。 「貞観の治」の立役者の一人で、正史の編纂を総監した。 **高倹(士廉) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |82|78|86|85|84|沈着|B|A|B|B|C|C|576|647| 【コウケン(シレン)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。義興郡公。申国公。 北斉の清河王高岳の孫。高履行・高審行・高真行の父。 李淵が嶺南に遣使すると交趾太守の丘和とともに唐に降り、秦王李世民の下で治中となり重用された。 李世民が皇太子李建成と争うと、長孫無忌とともに李建成を討つ計画を定めた。 「玄武門の変」の当日は囚人を釈放して兜を着せ、芳林門に向かって李世民の援軍として戦った。 李世民が皇太子となると、義興郡公に任ぜられるが。王珪をかくまったために安州都督に左遷された。 蜀の地で学校を復興し、灌漑のための水道を広げ、現地の風俗を一変させた。 のちに、長安に召還されて許国公に進封。司空に進み特進・上柱国の位を得た。 **尉遅恭(敬徳) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |82|98|60|32|84|槍神|S|S|B|A|C|C|585|658| 【ウツチキョウ(ケイトク)】 ※いにしえ武将 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。呉国公。鄂国公。 鉄鞭の名手。隋末期には劉武周に従い、各地に頻発する反乱の鎮圧に当たる。 その後、唐に敗れて帰順し、唐の創健者である李淵の子・李世民に仕えて大陸統一に貢献。 その後も、異民族の討伐などで活躍した。常に李世民に忠実であり、 李世民が兄や弟らと争った「玄武門の変」では李世民の弟・李元吉を討ち取って、 李世民を大使の座に上らせた。晩年は官職を退き、神仙の修行に明け暮れている。 その強さは神勇と称され、戦場では一度の傷を負ったことがなかったという。 **李靖(薬師) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |97|72|96|70|86|深謀|S|A|A|S|B|S|571|649| 【リセイ(ヤクシ)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。衛国公。 直属の上司の李淵が謀反を起こすと、隋王室に知らせに抜け出そうとするが露見し捕縛される。 すぐさま処刑しようとする李淵に対して「貴公は挙兵して天下のために暴虐を除いて民を安らげて、 大事を成し遂げようとしているが、なんのために私怨によって忠臣・義士を殺すのか」と問いかけた。 このとき傍らにいた李世民は、父に李靖の助命を嘆願して、以後配下に加える。 以後、強力な幕僚として付き従い、隋が崩壊した後の統一戦争において様々な献策を行った。 王世充との戦いで武功を挙げ、唐の中国統一における大きな障害であった江南の蕭銑との戦いでは 全権を任されて李世民の期待に応えた。続いて、突厥を破り、西部で背いた吐谷渾を討伐して、 晩年には宰相を務めた。寡兵で常に勝利を収めた鮮やかな勝ち方から、 中国では李靖をして史上最高の名将とする書籍が多い。 **蕭瑀(時文) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |68|66|83|77|25||B|C|B|C|B|C|575|648| 【ショウウ(ジブン)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。宋国公。蕭鋭の父。 隋の楊広(煬帝)の外戚として重用された。しかし煬帝の意にそむく進言を行い、河池郡守に左遷された。 唐の高祖李淵が長安に入ると、蕭瑀を招き、宋国公に封じ、秦王李世民が右元帥として洛陽を攻めると 蕭瑀はその下で元帥府司馬をつとめた。李淵の側近にあって内外の政務の裁決にかかわり、蕭郎と呼ばれた。 李淵の過失についてもはばかることなく発言して信頼され、李世民が雍州牧となると蕭瑀は雍州都督となる。 貴族の生まれで、心は狭く不平不満を鳴らすことが多かったために、房玄齢や魏徴と対立することも多く、 度々、朝政権を剥奪されている。 **段志玄 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |82|92|36|23|66|疾走|A|A|B|A|B|C|?|642| 【ダンシゲン】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。樊国公。褒国公。 李淵が起兵すると、志玄は千人の兵士をもって従い、右領大都督府軍頭に任ぜられた。 霍邑・絳郡を下し、永豊倉を攻めるにあたって常に先鋒をつとめた。劉文静が桑顕和に襲撃されて、 唐軍が潰乱すると、二十騎を率いて敵中に入り流れ矢を足に受けながらも再三討ち入って 敵を混乱させて敗走させた。王世充の征討に従い、竇建徳を破った。 皇太子・李建成に金や絹で誘われたが、これを拒絶。李世民が即位すると、左驍衛大将軍に累進し、 樊国公に封ぜられる。警備にあたって厳重で「真の将軍である。周亜夫もこれ以上であろうか」 と李世民に感嘆されたという。 **劉弘基 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |76|87|56|15|64|駆逐|B|B|A|A|C|C|582|650| 【リュウコウキ】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。輔国大将軍。 隋の河州刺史劉昇の子。若い頃は素行が悪く侠客と交友して博徒に興じた。 高句麗遠征を忌避して部隊の者と牛を屠殺し官吏を批判して捕縛され、釈放されると馬泥棒として自活する。 のちに唐公李淵に仕えて、李世民に見出されて、起兵にあたって二千人を集めた。 王威らを捕らえて西河を攻め下し、宋老生を撃破し、先陣を切って黄河を渡り、隋軍を大破する。 長安が平定されると、功績第一として、右驍衛大将軍に任ぜられた。 以後は割拠する群雄の討伐に活躍して、突厥に対する防備を固めた。 **屈突通(坦豆抜) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |85|86|82|57|90|白馬|B|S|A|S|C|C|557|628| 【クツトツツウ(タントウハツ)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。蒋国忠公。 北周の邛州刺史の屈突長卿の子。武略を好み、騎射を得意とした。 隋が建国されると、左衛府司馬となり、楊広(煬帝)の命で長安を守備する。 低落の一途をたどる官軍の士気の中、長安を守備しよく守るが唐軍の勢いの前に敗北、 号泣しながら東南に再拝して降伏する。 「通は人臣の節を尽くすことができず、そのためここにいたりました。本朝の恥じるところです」 との言葉に、李淵に「忠臣である」と許されて、国内統一に貢献した。 「玄武門の変」ののちは洛陽を守備し、まもなく亡くなった。 官にあっては剛直で、法を犯す者があれば、親族であっても容赦しなかったという。 **殷嶠(開山) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |62|53|37|72|58||B|C|B|C|C|C|?|622| 【インキョウ(カイサン)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄖節公。 隋の秘書丞殷僧首の子。李淵が太原で起兵すると、召されて大将軍掾に補任され、 軍機に参預。李建成に従って西河を攻撃した。のち、元帥府司馬として李世民に従い戦うが、 李世民の戒めを破って大敗を喫し、死罪に相当するところ一命を許されて庶民に落とされた。 薛仁杲に対する征戦に従軍し、功績によって爵位をもどされ、 王世充を討つのに従い、功により鄖国公に任ぜられた。 **柴紹(嗣昇) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |88|92|88|30|75|機略|A|A|B|S|B|C|?|638| 【サイショウ(シショウ)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。譙襄公。妻は唐の高祖李淵の三女平陽公主。 幼少のころから身軽で荒々しく、武力を有した任侠として知られていた。 李淵が太原で起兵すると、間道を通って太原に赴き参陣。 長安進軍に際し、いずれも先頭で敵陣を陥れる功を上げた。 天下統一戦では李世民に従って薛仁杲・宋金剛・王世充・竇建徳らを討伐。 吐谷渾と党項が辺境に侵入すると、高所から矢を雨のように射こむ敵軍に対し、 胡琵琶を弾かせ、二女子に舞いを舞わせる奇策で敵軍を疑心に陥らせて、 精鋭の騎兵を率いて後方から攻撃し潰滅させた。 功により、鎮軍大将軍を加えられ、右驍衛大将軍を代行し、譙国公に改封された。 **長孫順徳 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |75|83|55|80|74|名声|A|B|B|A|C|C|?|?| 【チョウソンジュントク】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。邳襄公。長孫無忌や長孫皇后の族叔。 隋に仕えて右勲衛となるが、高句麗遠征への従軍を忌避して太原に逃れて李淵や李世民と親交を持つ。 李淵が起兵すると、統軍に任ぜられて平定に活躍。 劉文静とともに屈突通を潼関で攻撃し、捕らえて長安に連行する功を立てて 左驍衛大将軍に任ぜられ、薛国公に封ぜられた。 放縦で、法律を守らなかったが、その統治は端折って簡明であり、明肅と号される。 官吏たちの多くは百姓にたかっていたが、順徳はこれを糾弾して許さなかったので、良牧と称された。 娘を亡くして意気消沈し、病死した。 **張亮 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |78|76|73|52|54|遁走|B|A|B|A|B|C|?|646| 【チョウリョウ】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。長平郡公。鄖国公。 群雄の一人である李密に従っていたが、李勣とともに唐に帰順する。 李勣を補佐して鄭州刺史に抜擢されるが、王世充に鄭州を奪われると、共城山に逃れ、 李勣が劉黒闥を討ったとき、相州を守ったが劉黒闥の勢力が強まると、城を棄てて逃亡した。 房玄齢の推薦により、秦王李世民に召されて、車騎将軍に任ぜられて洛陽に行き、 山東の豪傑と結んで太子・李建成に備えた。太宗李世民が即位すると、朝政に参与する。 李世民が高句麗遠征をおこなおうとすると、張亮はたびたび諫めたが、聞き入れられず 遠征は大敗、帰国途中逮捕される。のち、死罪にあたる事件を起こして斬刑を受けた。 **侯君集 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |67|83|88|17|55|射程|A|C|S|B|S|C|?|643| 【コウクンシュウ】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。陳国公。 唐の秦王李世民の幕府に召されて、その征戦に従い謀議に参与した。 「玄武門の変」において、李建成・李元吉を排除する計画に多くの献策をおこなう功で、 李世民が即位すると、左衛将軍に転じ、潞国公・右衛大将軍に任ぜられた。 吐谷渾討伐戦では李靖の下で献策して撃破し、西域でも撞車、投石車を駆使して功を上げる。 高昌を破ったとき、無罪の人を奴隷に落として分配し、私的に宝物や婦人を略取していたために 長安で役人がその罪を奏上すると、詔により獄に下される。 太宗は李広利や陳湯の例を引いた上疏を受けて許して釈放するが、 のち、皇太子李承乾と共に兵変を計画した罪で処刑された。 **張公謹(弘慎) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |78|73|82|84|80|屯田|B|A|A|C|A|C|594|632| 【チョウコウキン(コウシン)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄒国公。郯襄公。 隋に仕えて王世充の下で洧州長史となったが、刺史の崔枢とともに唐に帰順した。 李勣と尉遅恭から李世民に紹介されて秦王府に入る。 「玄武門の変」では李建成亡き後、部下の馮立・薛万徹らが玄武門を攻めるが奮戦しこれを阻む。 のち、代州都督となり、食糧運送の手間を省くために屯田を置いた。ときの政治の得失を言上して、 李世民に意見の多くが採りあげられた。突厥攻撃では李靖の下の副将として、定襄を落とし、 頡利可汗を破る功績で鄒国公に進封された。襄州都督に転出し、寛容な統治で知られた。 **程知節(義貞) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |84|93|65|30|62|騎将|A|A|C|S|C|C|589|665| 【テイチセツ(ギテイ)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。宿国公。盧国公。 瀛州刺史の程婁の子。李密に従い四驃騎の一つを領して活躍。 王世充と李密が戦ったとき、知節は内騎営を受け持ち、単雄信は偃師にあって外騎営を受け持った。 王世充が単雄信を襲撃すると、李密は知節と裴行儼を派遣して単雄信を救援した。 裴行儼が流れ矢に当たって落馬すると、知節はこれを救い、裴行儼を馬上に抱えて馳せもどった。 のちに李密が敗れると、知節は王世充に捕らえられるが性格を嫌って、秦叔宝とともに唐に帰順し、 宋金剛・竇建徳・王世充との戦いに従軍して、先陣を幾度も切る功績をあげる。 その後、李建成による讒言を受けて左遷されても従わず、赴任せず、「玄武門の変」ののち、 右武衛大将軍に任ぜられて反乱平定などに活躍。左領軍大将軍・原州都督を歴任し、普州刺史となり、 盧国公に改封された。次子の程処亮は清河公主の降嫁を受けて、駙馬都尉・左衛中郎将となった。 **虞世南(伯施) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |1|1|42|46|40|指導|C|C|C|C|C|C|558|638| 【グセイナン(ハクシ)】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。永興文懿公。 初唐の書家で三大家の一人。はじめ隋に仕え、のちに唐に仕えた。 王羲之の書を愛好した李世民には皇太子時代から仕えてその顧問として生涯信任をうけた。 書は智永にまなんで王羲之の正統をひきついだと伝えられ、太宗が開設した弘文館では 貴族の子弟に書をおしえた。同時代の欧陽詢とともに楷書の大成者とされる。 **劉政会 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |60|64|76|52|58|沈着|B|A|B|C|C|C|?|635| 【リュウセイカイ】 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。渝襄公。北斉の中書侍郎・劉環雋の孫。 隋の太原鷹揚府司馬で唐公李淵の麾下に属していた。李淵が太原で挙兵するのに先立って、 王威・高君雅らを捕らえるのに功績を挙げた。 唐が建国されると、衛尉少卿に任ぜられ、太原の留守を務める。 群雄の一人である劉武周が并州を攻撃すると捕らえられるが、敵中にあって 劉武周の動静を李淵のもとに書き送る。劉武周が敗れると官爵を戻されて 刑部尚書・光禄卿を歴任し、邢国公に封じられた。 **唐倹(茂約) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |66|65|51|25|62|掃討|A|B|B|C|B|C|579|656| 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。莒国公。 隋の戎州刺史唐鑑の子。父の唐鑑は李淵と親交があり、李淵の次子の李世民と親交を結んだ。 隋の政治が乱れると、唐倹は王業を立てるよう李淵や李世民にひそかに説いた。 呂崇茂が劉武周と結んで夏県で背くと、永安王李孝基・独孤懐恩・于筠らとともに討伐にあたる。 しかし尉遅恭に敗れて劉武周に捕らえられた。独孤懐恩が唐に対する造反を企んでいることを知り、 劉世讓をひそかに李淵のもとに派遣してその謀略を告発させる。 その後、劉武周が敗れて突厥に逃亡すると、太原の府庫や戸籍や武器を封印して李世民の到着を待った。 李淵は唐倹が敵中にあっても唐朝への忠誠を忘れなかったことを賞賛し、并州道安撫大使とする。 李世民の下で劉黒闥を討伐し、幽州を平定して、馬邑の高満政が突厥について叛くと、 これを鎮圧して莒国公に進封される。 官にあって仕事に励まず、賓客と酒を飲んでは楽しんでいたため微罪に触れて、 光禄大夫に左遷され致仕するが、国老として特進を加えられた。 **李勣(懋功) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |92|70|94|90|74|妙計|A|A|A|A|A|B|594|669| 【リセキ(ボウコウ)】 ※いにしえ武将 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。曹国公。 元の名は徐世勣。隋末の混乱期、17歳で反乱軍に参加して頭角を現す。 のち李淵に帰順して唐建国に功を立て李姓を賜った。李淵の子・李世民の下で歴戦し、 李世民が即位すると并州都督として異民族討伐に活躍。その後、李世民に疑われて左遷されたが、 李治(高宗)が即位すると復帰して宰相となった。李治が武照を皇后に立てようとしたとき、 他の臣が反対する中、李勣は進言を退けて事実上容認。やがて武則天として政権を奪うと、 多くの進化が失脚する中、李勣はそのまま重用された。 **秦瓊(叔宝) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |81|96|51|29|88|金剛|S|S|C|A|C|C|?|638| 【シンケイ(シュクホウ)】 ※いにしえ武将 唐の凌煙閣二十四功臣の1人。左武衛大将軍。 隋末期の名将である来護児や張須陀に属し、各地に頻発する反乱の鎮圧に当たった。 その後、群雄割拠する混乱の中で唐の李淵に帰順。李淵の子・李世民に仕えて大陸統一に貢献した。 大軍を指揮することはなかったが武勇に優れ、唐初期の代表的な名将として尉遅恭と並び称される。 その活躍を民衆の間に語り継がれ、後世には『隋唐演義』の主人公の1人となった。 また、李世民の夢に出てきた鬼を、尉遅恭と共に夜通し門番をして追い払ったという伝承から、 門を守る神ともされている。 **単雄信 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |84|96|52|16|73|飛将|S|A|B|S|C|C|581|621| 【ゼンユウシン】 隋末から唐初にかけての武将。翟讓、李密、王世充に仕えた。 馬上で槍を用いるのを得意として「飛将」と号された。 翟讓が隋に反抗して叛乱を起こすと、雄信は徐世勣とともに翟讓の軍に投じる。 翟讓が李密に斬られて李密が魏公となると、左武候大将軍に任ぜられ、四驃騎の一つを領して活躍。 李密が偃師で大敗すると、雄信は王世充に帰順して大将軍となった。 李世民が東都を攻撃すると、雄信はこれを迎撃して唐軍の李世民本陣に肉薄した。 勇戦したが唐軍に捕らえられ、洛水の渚の上で斬られた。 「隋唐演義」ではその最期を、義兄弟の程知節・徐世勣と涙の別れを演じている。 **武則天 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |96|1|97|99|32|指導|A|B|S|B|S|S|623|705| 【ブソクテン】 武則天(623年-705年、在位690年-705年)は中国武周朝の創始者。中国史上最初にして最後の女帝。唐の高宗の皇后。姓は武。諱は照または曌(照に代わる則天文字)。謚は則天大聖皇后。日本では則天武后の名前で呼ばれる事が多いが、最近の中国では武則天と一般的に称されるようになってきている。漢代の呂后、清代の西太后とともに『中国三大悪女』と称される。西太后もまた政権を掌握した皇后であるが、武則天は正式に王朝を建て自ら皇帝の位に就いた唯一の女性である。武則天は外交も積極的に行い、660年(顕慶5年)には新羅の要請を受け入れて百済討伐の軍を起こした。百済を滅ぼした後の日本と百済の遺臣連合軍との白村江の戦い(中国の史書では白江之戦と表記される)にも勝利し、更にその5年後には孤立化した高句麗を滅ぼし満洲地方の安定を実現した。 **薛礼(仁貴) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |89|96|78|56|75|神将|S|A|S|S|A|C|614|683| 【セツレイ】 唐の軍人。&bold(){薛仁貴}の通称で知られる。北魏の薛安都の後裔であり、薛軌の子。河東薛氏の出身であった。本貫は絳州龍門県。 その勇武は多くの民間伝承にも伝えられている。 若いころは貧しく、耕作を生業として、妻に柳氏を迎えた。 645年、柳氏の勧めにより張士貴の兵の徴募に応じて、高句麗遠征に参加。 郎将の劉君卬が高句麗軍の包囲におちいっているところを救援して、名が知られた。 これを皮切りに、突厥・高句麗・吐蕃・契丹といった唐王朝の遠征軍に連続して参加。 ときに唐軍が安市城を攻撃し、高句麗の高延寿らが20万の兵を率いて抗戦した。 仁貴は奇功を立てようと考え、目立つ白衣を着て目印とし、戟を持ち、ふたつの弓を腰にかけて軍の先頭に立って突撃し、高句麗軍を破った。 その姿が太宗の目にとまって召し出され、金帛などの褒賞を受け、游撃将軍・雲泉府果毅に任ぜられた。 唐の遠征軍が長安に帰還すると、仁貴は右領軍中郎将に転じ、宮城の北門を守備した。 一時は敗戦の責を負い、官職を奪われて庶人に落とされたが、まもなく高句麗の残党が蜂起したため復職。 682年、突厥の骨篤禄が唐の北辺に侵入すると、仁貴は阿史徳元珍の軍を雲州で撃退した。 683年、70歳で死去した。左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈された。 子に薛訥・薛楚玉があった。 薛訥は、字を慎言といい、平陽郡公に封ぜられ、左羽林大将軍・朔方行軍大総管などをつとめ、その人物像は『説唐』の薛丁山の原型となった。 薛楚玉は、開元年間に范陽節度使となったが、赴任せずに罷免された。 **楊玉環 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |3|2|64|7|99|傾国|C|C|C|C|C|C|?|?| 【ヨウギョクカン】 楊貴妃。唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。 蜀州の司戸参軍楊玄[王炎]の娘。あまりにも玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたので傾国の美女と呼ばれる。 楊貴妃は元々玄宗の第18皇子の寿王瑁の妃の一人であったが、玄宗に見初められたために、一時的に道士となり、その後で、玄宗の後宮に入った。 玄宗は楊貴妃との愛欲の生活に溺れたため、まったく政治を顧みなくなり、彼女を喜ばすために楊一族の位を高くした。 その結果、楊貴妃の従兄の楊国忠の専横を許すこととなった。中国史では伝統的な、外戚の専横である。 楊国忠は自らの名声を高めるため、遠征を行うなどの悪政を行ったために国力を弱め、民衆からの恨みを買うこととなった。 さらに楊国忠は権力争いのライバルである節度使の安禄山を蹴落とすために玄宗に讒言を行った。結果的に、これに危機感を覚えた安禄山は反乱を起こした。 首都である長安から逃げ出して蜀へ向った楊貴妃たちだが、兵士達は乱の原因となった楊国忠を強く恨んでいたため、彼の部隊を包囲して殺害した。 さらに兵士達は、玄宗に対して楊貴妃を殺害することを要求したため、玄宗はやむなく楊貴妃を縊死(首吊り)させた。 **安禄山 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |88|93|84|75|95|駆逐|A|B|B|S|A|C|?|?| 【アンロクザン】 唐代の中国の節度使、軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。語学に堪能であり、交渉事で頭角を現す。 讒言を受けたため唐の玄宗に対し安史の乱を起こし、大燕帝国皇帝に即位したが、最後は息子に殺された。この乱以降、唐王朝の衰退は加速していった。 巨漢として知られ、その膨らんだ腹の中には何が入っているのかと玄宗に聞かれた時に「ただ忠誠のみが入っています。」と答えた。 また「楊貴妃の養子になりたい」と言い出し、おむつをして大きな揺り籠に入って出てきて、玄宗や楊貴妃を大いに笑わせた。 これらの事は玄宗の「軍事力を背景に反乱を起こすのでは」と言う疑いをそらすための苦肉の策であった。 **杜甫(子美) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |2|1|83|81|90|詩想|C|C|C|C|C|C|712|770| 【トホ】 盛唐期の詩人。杜少陵、杜工部とも呼ばれる。三国時代の名将杜預の末裔。 律詩の表現を完成させ、後世、詩人としての最高位の呼称である『詩聖』と称された。 その文学的功績は李白と並び称される。 反面、士大夫としては終生不遇と貧困に苦しみ、傑作が生み出されたのはその苦境の中であった。 **楊炎(公南) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |32|11|73|95|87|徴税|C|C|C|C|B|C|727|781| 【ヨウエン】 唐の政治家。両税法の創設者として名高い。鳳翔郡天興(現在の陝西省)の人。号は小楊山人。諡は肅愍。 初め、河西節度使呂崇賁の掌書記となり文才を開花させる。 後に中央政府に入り、同郷の宰相・元載の信任を受け、司勲員外郎・礼部郎中・中書舎人・吏部侍郎・史館脩撰を歴任。 元載の失脚に連座して楊炎も道州(現在の湖南省)の司馬に左遷された。 徳宗が皇帝に即位すると、楊炎は宰相職である門下侍郎・同中書門下平章事に抜擢され、朝権回復と財政再建という難題に取り組む事になった。 安史の乱以後、河朔三鎮をはじめとする地方の節度使は中央から独立して藩鎮と呼ばれる事実上の独立政権を打ち立てて国は分裂状態にあった。 更に農村の荒廃も加わって、唐の財政は危機的状況にあった。 楊炎は塩の専売制を成功させて財政を掌握していた劉晏を処刑して実権を得ると、陸贄らの反対を押し切って両税法を導入し、 更に財政収入が宦官に流用される事を禁じて、国家財政を扱う戸部の左蔵庫を充実させた。 また、沈既済・杜佑ら有能な人材を登用した事でその名声が高まりつつあった。 だが、こうした政策は強硬な反発を伴い、貴族・宦官・藩鎮ら既得権益層全てが楊炎排斥に動き出す事になる。 楊炎と対立した徳宗の側近・廬紀が楊炎に対する讒言を行うと、反対勢力もこれに同調する。 楊炎の人気の高まりと劉晏の処刑に不快感を抱いていた徳宗もそれに従い、楊炎は海南島の崖州司馬に左遷され、中途で処刑された。 ---- #comment_num2(size=50,vsize=3,num=20,logpage=新武将ログ)