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みんなの新武将/蜀漢 - (2015/03/22 (日) 15:10:13) のソース
#CONTENTS ---- *注意点 基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。} 当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。} (能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) 可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。 &color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。) どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 &color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。 もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 &color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。} ここはあなただけのページではありません。 *蜀漢(221~263) 開祖の[[劉備]]は西漢景帝の裔を称し、黄巾の乱に義兵を興してより各地を転戦し、 荊州寄寓のおりに[[諸葛亮]]ら名士層と結んで赤壁の役で荊南を確保し、 更に益州を併せて三国鼎立の形勢をなした。 219年には荊州を失って益州のみを支配し、221年に[[曹丕]]の禅譲に対抗して称帝したが、 翌年には夷陵の役で呉に大敗し、人材面でも深刻な損失を被った。 劉備の死後は丞相の諸葛亮が[[雲南]]地方の安定と開発、対呉関係の修復、荊州閥と益州閥の融和に尽力し、 魏に対しては227年より度々北伐を行なったものの、補給の困難から悉く失敗した。 諸葛亮の死後は外征を控え、国力の涵養と人材育成に努めて小康を保ったが、 [[費禕]]の横死後は[[劉禅]]に寵遇された宦官[[黄皓]]が朝政を壟断した上、 大将軍[[姜維]]の度重なる北伐と相俟って国力が著しく疲弊し、263年に魏軍によって滅ぼされた。 **楊洪(季休) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |37|41|72|78|74|能吏|B|B|A|C|B|C|?|228| 【ヨウコウ(キキュウ)】 後漢末の将。 初め[[劉璋]]に仕え、諸郡の官吏を歴任した。 劉備の蜀平定後、[[諸葛亮]]に事務処理能力を評価され、蜀郡太守となった。 のちに益州治中従事に転任し、夷陵の戦いの敗戦の後、 [[劉備]]・[[諸葛亮]]の留守を狙って黄元に謀反の兆しが見えると、 留守を守る太子[[劉禅]]に討伐を進言し、黄元を滅亡させた。 [[劉禅]]即位後も、関内侯に封じられ重用された。 **射援(文雄) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |38|28|71|70|84|名声|C|C|C|C|B|C|?|?| 【シャエン(ブンユウ)】 後漢末から蜀の政治家。扶風郡の人。 先祖は謝姓であったが、始祖の謝服が征戦に赴く際、名前が謝服(謝罪し服従する)という、 縁起の悪い名だったので、姓を『射』と改め、子孫もその姓を継承したとされる。 若くして高い名声を得ており、太尉の[[皇甫嵩]]にその才幹を評価されて、その娘婿となっている。 兄の射堅が飢饉によって混乱した[[長安]]を避け、[[劉璋]]の下に身を寄せた際に同行し、 [[劉備]]の入蜀後は兄と共に仕官した。 蜀に仕えてからは[[諸葛亮]]に丞相祭酒に任命され、後に従事中郎に昇進したが、在職中に死去した。 **王連(文儀) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |37|27|64|76|62|鉄壁|B|C|C|C|C|C|?|224?| 【オウレン(ブンギ)】 蜀の政治家。 [[劉璋]]の時代に益州に移り、[[梓潼]]県の令となった。 [[成都]]に侵攻を開始した[[劉備]]の兵が[[梓潼]]に進出した際、城門を閉ざして抵抗を続け、 益州平定後、その義を評価した[[劉備]]によって県令に任命され、治績をあげた。 後、司塩校尉に昇進し、塩鉄の専売で国庫の収入を大幅に増加させ、 加えて、呂乂・杜祺・劉幹といった有能な人物を属官として任用した。 [[諸葛亮]]の南征を度々諫言し、その間は[[諸葛亮]]も[[成都]]に留まっていたが、間もなく死去した。 [[諸葛亮]]の南征は、彼の死後の事である。 ※南征は225年。 **李盛 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |46|40|39|31|46||B|B|C|B|B|C|?|228| 【リセイ】 蜀の将。いつ頃から[[劉備]]陣営に加わったかも明らかでは無い。 北伐で[[馬謖]]の副将を務めたが、最後は、主将たる[[馬謖]]の作戦の責任を取って処刑。 正史に伝は立てられていない。 **陳祗(奉宗) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |13|4|49|56|24||C|C|C|C|C|C|?|258| 【チンシ(ホウソウ)】 蜀の政治家。[[汝南]]郡の人。[[許靖]]の兄の外孫に当たる人物。 幼い頃に孤児となり、許靖の家で成長する。 慎み深く厳かで威厳のある容貌で、天文・暦法・卜占に秀で、[[費禕]]から高い評価を受けていた。 [[董允]]の跡を継いで侍中となったが、大将軍の[[姜維]]とは宦官達と結託して反目し、 [[劉禅]]の寵愛を受け、蜀の政治の実権を握った。 宦官の[[黄皓]]が政務に関与するようになったのは彼の代からと言われている。 陳祗は[[譙周]]と戦争の負担について論争し、その趣旨は『仇国論』に纏められている。 **習珍 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |70|73|58|40|77|乱戦|A|B|B|B|C|C|?|221?| 【シュウチン】 蜀の将。[[襄陽]]郡の人。 [[劉備]]に仕えて零陵北部尉・裨将軍に任じられていた。 しかし[[孫権]]が[[関羽]]を殺したとき諸県がこれに呼応、習珍は籠城しようとしたが、一旦は降伏する。 のちに密かに樊胄らと手を結んで挙兵したが、孫権軍に敗れる。 七県を占拠して邵陵太守を自称、異民族の土地に駐屯して蜀に味方した。 [[潘濬]]が習珍を征討し、城を次々陥落させた。習珍は麾下数百人を率い、山で抵抗を続けた。 潘濬は何度も降服を勧告したが、習珍は答えなかった。 最後には、矢も兵糧も尽き果て、漢への恩を声高に叫び、自刎して果てた。 **呂乂(季陽) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |51|27|68|75|56||C|C|B|C|C|C|?|251| 【リョガイ(キヨウ)】 蜀の将。演義では呂義と書かれる。 塩府校尉の王連によって杜祺・劉幹共に典曹都尉に任じられた後、 綿竹、新都の県令を経て、巴西や[[漢中]]の太守を務めた。 地方からの評判が良く、厚い信頼を受けていた。 その後、中央に呼ばれて尚書となり、さらに[[董允]]に替わって尚書令となった。 しかし、法万能の俗吏を好んで任用したため、以前ほど支持されなくなった。 **来敏(敬達) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |3|1|72|73|46||C|C|C|C|C|C|?|?| 【ライビン(ケイタツ)】 蜀の学者。義陽郡[[新野]]県の人。 荊州に疎開中に、黄琬が[[劉璋]]の縁者だったので、姉弟揃って招聘されたのを機に劉璋の賓客となる。 [[劉備]]の益州平定後、典学校尉となる。 書物を渉猟し、「左氏春秋」に秀で、「三倉」「広雅」の訓詁学に詳しかったが、 無節操な言動で度々免職・降格された。 しかし、来氏は荊州の名族で、[[劉禅]]が太子時代以来の臣であり、その都度復職した。 出陣前夜の[[費禕]]に対して、別れの挨拶と称して囲碁を所望し、その胆力を試みたという。 景耀年間に97という、驚異的な長寿を全うした。 ※景耀年間は258から263年の間。 **柳隠(休然) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |74|76|77|61|74|鉄壁|B|A|A|C|C|C|188|267| 【リュウイン(キュウゼン)】 蜀晩年の将。 度々[[姜維]]の征伐に従軍し、戦陣に臨んでは計略を立て、 敵軍にぶつかっては陣営を陥落させ、武勇計略は軍の筆頭と評された。 [[鍾会]]が蜀を征討しようと漢川に侵入した際、多くの要害が陥落する中、 柳隠の守る黄金囲だけは鉄壁不動で、鍾会の別将が攻撃をかけても打ち破れなかった。 [[劉禅]]が降服して直筆の命令書を柳隠に与えた後、ようやく鍾会の元に出頭した。 [[司馬炎]]より西河太守に任じられ、在職すること3年、高齢を理由に官職を去り蜀に帰る。 80歳で卒去。 **句扶(孝興) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛武将| |72|71|73|50|67|規律|B|A|B|C|B|C|?|?|王平| 【コウフ(コウコウ)】 蜀の将。巴西郡漢昌の人。 『蜀書・[[王平]]伝』に、「忠誠にして武勇があり、寛大な人柄」として記述されている。 また、たびたび戦功をたて、王平に次ぐ功名・爵位を得たという。 左将軍・宕渠侯にまで登った。 『演義』には登場しない。 **彭羕(永年) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛| |25|17|58|64|34||C|C|B|C|B|C|?|?|[[龐統]]| 【ホウヨウ(エイネン)】 後漢末の政治家。 まず[[劉璋]]に仕えたが、驕慢な性格だったために髠鉗(頭髪を剃られ、刑具に付けられる)にされ奴隷に落とされた。 [[劉備]]の入蜀の際に龐統に会い意気投合し、龐統と[[法正]]に推挙されて劉備に仕える。 劉備が軍令を諸将に伝える役割を与えると見事にこなして賞賛された。 劉備が益州牧となると治中従事に任じられるが次第に驕るようになり、[[諸葛亮]]の進言で江陽太守に左遷される。 劉備への誹謗を[[馬超]]に漏らしたため、処刑された。 演義では、[[孟達]]への書状が馬超に見つかって処刑され、孟達が魏に寝返ることになった。 ※生没年不詳だが、処刑されたのは214年といわれる(生年は178年)。 演義では、孟達の出奔との関係から没年は220年となる(生年は184年)。 **張裔(君嗣) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |55|47|70|78|72|操舵|B|B|B|C|C|B|166or167|230| 【チョウエイ(クンシ)】 蜀の政治家。 はじめは[[劉璋]]に仕え、[[張飛]]が益州に侵攻すると徳陽で抗戦したが敗れる。 [[成都]]が包囲されると劉璋の投降を伝える使者となった。 [[劉備]]のもとで司金中朗将となり、農具と武器の製造を司った。 [[雍闓]]の反乱に巻き込まれ、捕えられて呉に送られる。 劉備死後の講和で[[鄧芝]]が呉に遣わされた際に返還が要求され、蜀に帰還する。 この際、[[孫権]]は返還を渋り、返還後も後悔して追いかけさせたほど未練があった。 参軍となって丞相府に入り、益州治中従事を務める。 [[諸葛亮]]が北伐のために漢中に駐屯すると、留府長史として成都を治めた。 ※特技は、呉に追いかけられた際に長江で呉の船を振り切って蜀領に入ったことから。 司金中朗将の任務として「能吏」も候補の一つ。 **宗預(徳艶) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛| |69|64|67|65|71||C|C|B|C|B|C|?|264|[[廖化]]、[[孫権]]| 【ソウヨ(トクエン)】 蜀の政治家、武将。 [[張飛]]に従って入蜀する。 [[諸葛亮]]のもとで主簿・参軍などを務める。 諸葛亮死後、蜀の衰亡を見越して呉が巴丘の軍勢を増強した際に、 使者となって[[孫権]]を問い質し、[[鄧芝]]、[[費禕]]に次いで敬われた。 60代で屯騎校尉となって初めて軍事に与る。 鄧芝が驕る中で、一人阿らずに屈しなかった。 呉に再び派遣され孫権と対面すると、共に高齢の身を案じ、孫権と泣いて別れる。 [[諸葛瞻]]が朝政に参画すると、[[廖化]]とともに70代という高齢を理由に赴かなかった。 蜀滅亡後、廖化と共に[[洛陽]]へ向かう途上で共に病没した。 ※諸葛瞻が平尚書事となったのが261年のため、逆算して190年前後が生年と推測される。 **頼恭 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |47|34|74|71|59||C|C|C|C|C|C|?|?| 【ライキョウ】 蜀の政治家。[[零陵]]出身。 はじめ[[劉表]]に仕え、交州刺史に任じられる。 しかし交州は[[曹操]]が任命した交州刺史の士燮が治めており、蒼梧太守の[[呉巨]]と行動を共にする。 呉巨が自立すると蒼梧を追われ、荊南を支配下に置いた[[劉備]]に仕える。 鎮遠将軍として劉備の[[漢中]]王即位を上奏した一員となり、太常に任じられる。 また、[[曹丕]]が魏を建国すると諸臣らと劉備の皇帝即位を上奏した。 劉備が崩ずると、甘夫人の諡号を[[諸葛亮]]と検討した。 **王謀(元泰) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |35|24|75|81|76||C|C|C|C|C|C|?|?| 【オウボウ(ゲンタイ)】 蜀の政治家。漢嘉出身。 [[劉璋]]のもとで巴郡太守、州治中従事を務める。 [[劉備]]入蜀後は別駕となり、劉備の漢中王即位に際して少府に任じられる。 劉備の皇帝即位を上奏した諸臣に名を連ねる。 王謀の没後に[[蒋琬]]が、同郷だった張休に王謀の後任が誰かと問うと、 「郡どころか州でも後を継げるものはいない」と答えており、王謀の能力が重んじられていた。 **黄柱 |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |30|34|66|73|67||C|C|C|C|C|C|?|?| 【コウチュウ】 蜀の政治家。[[南陽>宛]]出身。 [[劉備]]が漢中王に即位すると光禄勲に任じられる。 [[許靖]]、[[糜竺]]、[[諸葛亮]]、頼恭、王謀とともに劉備に対して皇帝即位を上奏した。 頼恭、黄柱、王謀の3名は蜀漢成立時の重職にあったが、 業績の記録が失われていたために蜀書に立伝できなかったと[[陳寿]]は記している。 **鄧方(孔山) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |75|72|70|53|72|不屈|B|C|A|C|B|C|?|222| 【トウホウ(コウザン)】 蜀の武将。南郡出身。 [[劉備]]の荊州時代に従事となり、入蜀に随軍する。 朱提太守、安遠将軍、庲降都督を歴任した。 楊戯の「季漢輔臣賛」では、難事にも惑わされず、少数で多勢を防御し、辺境の任務を保ったと評価されている。 ※庲降都督の後任となる[[李恢]]が221年に赴任しているため、没年は221年説もある。 **程畿(季然) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |67|73|68|61|74|強襲|C|A|C|C|C|A|?|222| 【テイキ(キゼン)】 蜀の武将。巴西出身。 [[劉璋]]の代に漢昌の長を務めた。 巴西太守の[[龐羲]]が兵を集めていたため劉璋に猜疑されると、 息子を人質に協力を要請されるが龐羲を諌めて助力を拒否した。 このため、龐羲は諌めを受け入れて劉璋に謝罪し、程畿は江陽太守に取り立てられた。 [[劉備]]が益州牧となると、従事祭酒に任じられる。 夷陵の戦いに従軍し、敗戦の中で撤退を進言されるが拒否し、 船上で戟を執って奮戦して敵船を覆すが、戦死した。 **王嗣(承宗) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |57|51|63|77|82|親羌|C|C|B|B|C|C|?|?| 【オウシ(ショウソウ)】 蜀の政治家。犍為出身。 延熙年間に功徳が顕著で孝廉に推挙され、西安圍督、汶山太守,安遠将軍を歴任する。 羌族に対して恩信を持って接し、羌族を帰服させた。 そのため、[[姜維]]の北伐の際には必ず羌族から馬・牛・羊や兵糧の支援を受けることが出来た。 鎮軍となり、姜維の北伐に従軍した際に流矢を受けて、その傷がもとで数ヶ月後に没した。 葬儀の際には羌族が数千人参加し、その恩篤を慕って泣いたという。 ※[[陳寿]]の益州史書「益部耆旧雑記」に記述があり、正史の裴松之注として加えられている。 **李福(孫徳) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪| |43|30|64|70|71||B|C|A|C|B|C|?|238|[[劉焉]]| 【リフク(ソントク)】 蜀の政治家、武将。[[梓潼]]出身。 正確な知識と鋭い決断力を持ち、鋭敏な政治を行った。 [[劉備]]が入蜀すると、書佐、西充国長、成都令を務める。 その後、巴西太守、江州督、楊威将軍、尚書僕射を歴任した。 五丈原で[[諸葛亮]]が危篤となると、[[劉禅]]により五丈原へ遣わされ諸葛亮亡き後の国家の大計を諮った。 別れる直前に丞相の後任を問い、[[蒋琬]]を当て、さらにその後任には[[費禕]]を当てるよう遺言を託された。 前監軍・司馬として蒋琬の[[漢中]]駐屯に従うが、そこで没した。 ※劉焉伝に父の李権が劉焉に殺害されたという記述があるので生年は191年以前。 **周羣(仲直) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |10|9|75|61|65|風水|C|C|C|C|C|C|?|?| 【シュウグン(チュウチョク)】 蜀の占術師。 父の周舒も名声のある占術師で、父から術を学ぶ。 天文を見て天災などについて予見し的中させる。 [[劉表]]と西方諸侯([[韓遂]]、[[劉璋]]、[[張魯]])の没落を予見した。 劉璋により師友従事に任じられ、[[劉備]]のもとでは儒林校尉となる。 [[漢中]]の争覇について占うと、 「土地は得られるが人は得られず、軍の一部だけを出すなら緒戦は不利となる」と予言した。 先行した[[呉蘭]]・[[雷銅]]が戦死し、漢中は得るも住民は[[曹操]]が引き上げさせており、言は的中した。 これにより茂才に推挙された。 没後は子の周巨に術が受け継がれた。 **孟光(孝裕) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛| |43|31|79|70|76|指導|C|C|C|C|C|C|?|?|[[郤正]]| 【モウコウ(コウユウ)】 後漢、蜀漢の政治家。[[洛陽]]出身。 霊帝の代に講部吏となるが、[[董卓]]が実権を握って献帝が長安に遷されると益州に逃げた。 [[劉焉]]・[[劉璋]]に賓客として礼遇される。 博識で、三史(史記・漢書・東観漢記)の研究に鋭意を注いだ。 春秋では公羊伝を好んで左氏伝を嫌い、来敏と争議をしている。 [[劉備]]のもとでは儀郎となり、許慈と共に制度の制定にあたり、[[劉禅]]の代には大司農まで昇る。 [[費禕]]による延熙年間の大赦について批判している。 また郤正に太子の教育について教えを請われ教授した。 後に何らかの事件に連座し免官され、90歳で没した。 ※霊帝に仕えたことを考慮すると、生年は170年以前か。 **姚伷(子緒) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛| |43|31|64|68|74||C|C|C|C|C|C|?|242|[[張嶷]]、[[諸葛亮]]| 【ヨウチュウ(シショ)】 蜀の政治家。 [[劉備]]が益州に入ると功曹書佐となり、その後は広漢太守を務めた。 張嶷が益州の従事だった頃から名声を得ており、龔祿とともに友人関係にあった。 諸葛亮が漢中に駐屯すると、その掾となる。 たびたび文武の士を推挙したため諸葛亮から賞賛され、 諸将は姚伷を見習うよう訓示し、参軍に任じられた。 諸葛亮の死後は尚書僕射となり、その誠篤さに人々が従ったという。 **李邈(漢南) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|嫌悪| |17|9|62|53|43||C|C|C|C|C|C|?|234|[[諸葛亮]]| 【リバク(カンナン)】 蜀の政治家。 [[劉璋]]のもとで牛鞞県長を務め、[[劉備]]が益州牧となると従事となる。 新年の謁見の際に「劉璋に賊討伐を委託されたのに劉璋を滅ぼしたのは甚だ宜しくない」と直言し、 劉備に殺されそうになるが、諸葛亮の執り成しで許された。 犍為太守、丞相参軍、安漢将軍を歴任する。 第一次北伐で[[馬謖]]を斬ろうとする諸葛亮を諌めたが、諸葛亮の意図を理解できず蜀へ還された。 諸葛亮の死後、「諸葛亮は狼虎のような危険人物で、蜀は安全になった」と[[劉禅]]に慶賀を述べたため、 怒った劉禅により獄に下され誅殺された。 **郝普(子太) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪| |52|56|16|53|27||C|C|B|C|B|B|?|?|[[孫権]]|[[関羽]]| 【カクフ(シタイ)】 蜀、呉の武将。義陽出身。 [[劉備]]が入蜀すると[[零陵]]の太守に任命される。 [[呂蒙]]が荊南三郡([[長沙]]・[[桂陽]]・零陵)を攻めた際に郝普のみこれに抵抗した。 劉備と関羽が救援に向かったため、攻略を急ぐ呂蒙の偽報により孫権軍に投降する。 関羽と[[魯粛]]の間で和平が成立すると、零陵の地ともども劉備に返還された。 後に呉に再度下り、呉では廷尉まで昇り、同じく投降した[[潘濬]]とともに重用された。 魏の降将の隠蕃を信じて推薦するが、隠蕃は偽降者で謀叛を起こしたため責任を問われ賜死した。 ※関羽が嫌悪なのは、呉への再投降の過程は不明だが楊戯の「季漢輔臣賛」にて [[糜芳]]、[[士仁>傅士仁]]、潘濬と関羽に嫌らわれ呉に投降した諸将と列挙されているため。 没年は230年過ぎ(隠蕃の投降が230年)。 **費観(賓伯) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛| |71|65|57|54|73|補佐|C|B|A|C|B|C|?|?|[[劉璋]]、[[李厳]]| 【ヒカン(ヒンハク)】 蜀の武将。[[江夏]]出身。 劉璋の母の親族で、劉璋の娘を娶った。 [[劉備]]が劉璋を攻めると、李厳とともに綿竹で防衛するが李厳の投降に従った。 劉備が益州を平定すると裨将軍、巴郡太守、[[江州]]都督を歴任する。 [[劉禅]]の代に都亭侯に封じられ、振威将軍となった。 人と善く接し、自矜心の強い李厳とも20歳以上の年齢差がありながら上手に付き合えた。 李厳と輔匡が対立した際には仲を取り持っている。 37歳で没した。 ※生年は195年前後に設定(ゲーム内での李厳の生年より20数年後)。 演義では劉璋の義弟として登場し、李厳を推挙している。 『III』で登場した際は演義での登場年代に合わせ、167年生まれの設定となっている。 **輔匡(元弼) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛| |69|74|50|52|70|踏破|B|B|A|C|C|C|?|?|[[劉備]]| 【ホキョウ(ゲンヒツ)】 蜀の武将。[[襄陽]]出身。 劉備の入蜀に従い、益州の平定後に巴郡太守となる。 劉備の東征にも従い、夷陵の戦いでは趙融、[[廖淳>廖化]]、[[傅彤]]とともに別督として参加した。 その後、鎮南将軍、右将軍を歴任し、中郷侯に封じられる。 費観とともに[[李厳]]に次ぐ地位にあった。 「季漢輔臣賛」では粗強で、劉邕とともに異民族に当たる任務で活躍したと評されている。 **劉邕(南和) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |68|63|64|68|73||B|C|A|C|B|C|?|?| 【リュウヨウ(ナンワ)】 蜀の武将。義陽出身。 [[劉備]]の入蜀に従い、益州の平定後に江陽太守となる。 [[諸葛亮]]が丞相府を開府すると、[[蒋琬]]が茂才に推挙されるが、 蒋琬は最初固辞して、劉邕、[[廖淳>廖化]]らに譲ろうとした。 [[劉禅]]の代に監軍、後将軍を歴任し、関内侯に封じられる。 「季漢輔臣賛」では尚篤で、輔匡とともに異民族に当たる任務で活躍したと評されている。 **楊戯(文然) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛|嫌悪| |42|39|65|71|68||C|C|B|C|B|C|?|261|[[蒋琬]]、[[譙周]]|[[姜維]]| 【ヨウギ(ブンゼン)】 蜀の政治家。犍為出身。 若い時から名を知られ、[[諸葛亮]]も楊戯を称賛した。 20歳過ぎに州の書佐や督軍従事を務めて刑獄(裁判)を担当し、 法に基づいて判断し職務に公平に当たったため、丞相府の主簿となる。 蒋琬に請われて治中従事史となり、蒋琬の丞相府で要職を歴任する。 姜維の北伐に従うが姜維とは折り合いが合わず、 酒席で傲慢な態度をとってしまい庶人に落とされた。 手を抜ける仕事は省く性向だったが、甘言を加えず過情にならなかったため、職務に清潔だった。 「季漢輔臣賛」を著し、陳寿の「三国志」に収録された。 **殷観(孔休) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |38|34|74|65|67||C|C|C|C|B|B|?|?| 【インカン(コウキュウ)】 [[劉備]]の幕僚。 劉備が荊南四郡を降し荊州牧となると、荊州の主簿に任じられる。 [[孫権]]から共に[[劉璋]]を攻めようと使者が遣わされると、 劉備に対し、劉備軍の出兵には利がないことを説き、 孫権軍の蜀征伐に賛同だけして出兵しないよう進言した。 劉備がこの言に従うと、孫権は蜀の地への侵攻を思い止まった。 この功績により、別駕従事に昇進した。 **習禎(文祥) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |49|42|71|70|75||C|C|B|C|B|B|?|?| 【シュウテイ(ブンショウ)】 [[劉備]]の幕僚。[[襄陽]]出身。 風流で善談を論じ、[[龐統]]には及ばないが[[馬良]]より上であるとの評判があった。 劉備の入蜀に従い、雒県、郫県の令を歴任し、その後広漢太守を務めた。 楊戯の「季漢輔臣賛」では馬良らとともに荊州出身の幕僚として列記され、 殷観と並んで「善い才があり、志を広く伝えた」と称されている。 **杜微(国輔) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |31|36|71|68|73||C|C|C|C|C|C|?|?| 【トビ(コクホ)】 蜀の政治家、学者。[[梓潼]]出身。 広漢の仁安に学び、[[劉璋]]に仕え従事となる。 病気と称して辞職し、[[劉備]]の入蜀後も聾と称して門を閉ざして出なかった。 [[諸葛亮]]が丞相となると主簿の位を打診されるが固辞する。 諸葛亮が親書を認めて復帰するよう求めるとようやく応じ、諌議大夫に任じられた。 演義では、諸葛亮が出師表を上奏して北伐に赴く際に、 留守を託す諸臣の一人として名を挙げられ、尚書に任じられている。 **杜瓊(伯瑜) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |24|20|74|65|75|風水|C|C|C|C|C|C|?|250| 【トケイ(ハクユ)】 蜀の政治家、学者、占術家。[[成都]]出身。 広漢の仁安に師事し、図識術(予知術)を学ぶ。 [[劉璋]]のもとで従事となり、[[劉備]]が益州牧となると議曹従事となる。 [[劉禅]]の代には要職を歴任し、太常まで上った。 静かで寡黙な人柄で世事に関わらず、[[蒋琬]]・[[費禕]]らにも一目置かれていた。 著作には「韓詩章句」十万余言がある。 80余歳で亡くなったが、弟子を持たなかったために学術を受け継ぐものはいなかった。 演義では、劉備に即位を勧めた諸臣の一人として登場。 魏が五路から侵攻すると、劉禅が[[諸葛亮]]に対策を聞くために[[董允]]とともに派遣された。 ※生年は165から170年頃に設定。 **許慈(仁篤) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| |21|24|76|72|53||C|C|C|C|C|C|?|?| 【キョジ(ジントク)】 蜀の政治家、学者。[[南陽>宛]]出身。 劉熙に師事し、易経・尚書・礼記・詩経・論語を修める。 [[許靖]]とともに交州へ向かい、そこから入蜀した。 [[劉備]]が蜀を平定すると、戦乱で荒廃し典籍の照合等が出来ない状況になっていたため、 胡潜とともに学士に任じられ、孟光・来敏らと旧文を司って制度の制定を行う。 しかし、胡潜とは議論で対立することが多く、劉備が間を取り持つほどだった。 [[劉禅]]の代に大長秋まで昇っている。 演義では、[[諸葛亮]]が劉備に即位を勧めた際に、孟光とともに即位の礼典を担当した。 **李譔(欽仲) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛| |18|10|72|62|34|発明|C|C|B|C|B|C|?|?|[[劉璿]]| 【リセン(キンチュウ)】 蜀の政治家、学者。[[梓潼]]出身。 父の李仁は[[尹黙]]とともに荊州を遊学して司馬徽らに師事し、五経・諸子を学んだ。 さらに算術・占術・医術・弓射・機械などの技に通じており、李譔はその業績を全て伝授された。 劉璿が立太子されると、その養育係となって劉璿に近侍した。 劉璿には寵愛されたが軽佻な性格だったため、世間からは重んじられなかった。 易経、尚書、詩経、礼記、左氏伝などの古文に注釈を行う。 その内容は当時主流の鄭玄のものとは異なり、会ったことはないが魏の[[王粛]]の見解と似ていた。 景耀年間に没した。 ※景耀年間は258から263年。 「譔」の字は「撰」や「巽」の字を代わりに当てる。 **楊顒(子昭) |統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|親愛| |24|34|69|73|78|規律|C|C|C|C|C|C|?|?|[[諸葛亮]]| 【ヨウギョウ(シショウ)】 蜀の政治家。[[楊儀]]の宗族。 巴郡太守を務めた後、諸葛亮の主簿となる。 ところが諸葛亮が自ら下役の仕事である簿記校正を行っていたため、 「治には礼があって、上下の職分を侵すべきではない。」と述べ、 「自ら帳簿に記入まで行って一日汗を流してもただ労するだけだ」と諫言した。 諸葛亮は諫言を受け入れて謝り、楊顒を東曹属として選挙(官吏の人事)を司らせた。 楊顒が死ぬと、諸葛亮は三日泣き続けたという。 *その他『正史』に名前が登場する、シリーズ未登場の人物 尹宗、衛継、何宗(カソウ)、許勲、五梁、周巨、周舒、常播、諸葛攀、任安、張存、張裕、陳術、董扶、馬勲、馬秋、馬斉、来忠、李邵、李朝、劉琰 ---- *コメント #comment_num2(size=50,vsize=3,num=10,logpage=みんなの新武将/蜀漢/コメント)