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みんなの新武将/世界大戦・枢軸同盟 - (2020/06/29 (月) 11:21:10) のソース
#CONTENTS ---- *注意点 -基本的に、新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 -新武将の能力値や適性の&color(blue){決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物}であり、&color(blue){その正誤も、各人それぞれ異なります。} -当然、&color(red){万人が納得する能力値や適性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発しています。} -(能力値の編集行為については過去にも俎上に載っているので、コメント欄の過去ログ等をご覧ください。) -可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には&color(blue){各プレイヤーの裁量次第}であることをお忘れなきようお願い致します。 -&color(red){理由なく能力値の変更、人物の削除は荒れる元となりますので絶対にしないでください。}(過去に何度も編集合戦が起きています。) -どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、 -&color(red){お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録する}ことをおススメします。 - -もう一度言いますが新武将は「&color(red){作成例}」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。 -&color(red){能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。} -ここはあなただけのページではありません。 - - -2015年3月29日より、荒れる原因が生じているとの指摘があり、能力の追加も禁止となりました。 -それ以前に追加された能力値は、特に反論がないもののみ、暫定的に記載しています。 -適正・特技、親愛嫌悪候補などにつきましては、従来通りとなっています。 - - -特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。 -各人物のアイテムもお好みでお願いします。持たせ方は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/66.html]]特に武勇に優れる「偉人」「猛将」などの -個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。 -&color(red){武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。}アイテム効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/16.html]]。能力効果は[[こちら>http://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1598.html]] - - - -*漢字表記 -三国志11は無印PK問わず、姓名にそれぞれ2文字までしか表記できない。 -そのため、カタカナ表記の偉人は、そのままだと三国志11に登録することができない事が多い。 -しかし、漢字・中国語表記をすることで、文字数を減らし、登録することができるようになる。 -よって、当項目では武将や偉人を投稿する場合、漢字表記もそれとわかるよう併記することが望まれる。 - - - - -*世界大戦・枢軸同盟 - - - - -第一次世界大戦・第二次世界大戦における枢軸国・同盟国側。双方の戦いとも敗者側となり、のちの国際社会で弾圧された国家も存在する。 -一方で、枢軸連合などに属さない、あるいはどちらかに属しておきながら独自行動を行ったソビエト連邦のような国家も存在する。 - - - -その他の解説は [[こちら>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6#.E8.A5.BF.E9.83.A8.E6.88.A6.E7.B7.9A]] [[こちら>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6]] [[こちら>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E8%BB%B8%E5%9B%BD]]など - -連合国側は[[こちら>みんなの新武将/世界大戦・連合]]を、第三勢力は[[こちら>みんなの新武将/世界大戦・第三勢力]]を参照 - - - - -*ドイツ - -1870年、当時の首相[[ビスマルク>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_b651d620]]と、参謀総長[[モルトケ>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2756.html#id_95fafbcb]]らの功績により、普仏戦争でプロイセンはフランスに大勝した。 -戦後、プロイセン国王であったヴィルヘルム1世は諸侯から皇帝に推挙され、ここにドイツ帝国が誕生した。 -しかし、次代のヴィルヘルム2世の代になって親政を開始し、帝国主義を標榜した結果、イギリス・フランス・ロシアなどとの -対立を招き、これが第一次世界大戦の遠因となった。戦後敗戦国となったドイツでは帝政が廃されたものの、戦勝国からの -多額の賠償金のために国家財政は破綻した。その後幾度かの権力闘争や政争のはてにアドルフ・ヒトラー率いる -ナチ党(NSDAP、国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を握り、内政問題を一気に解決させたが、 -一方でポーランド侵略やホロコーストなどを推し進め、欧州各国と対立し第二次世界大戦を引き起こす。 -序盤は圧倒的優勢でヨーロッパのほぼ全てを制したが、やがて物量に勝る連合軍の前に劣勢となり、1945年5月に降伏した。 - - -**アドルフ・ヒトラー -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質| -|15|46|82|99|99|名声・富豪・徴税|C|C|C|C|C|C|1889|1945|剛胆|早熟・長| -【アドルフ・ヒトラー】 -オーストリア出身、ドイツの政治家。国家元首。「阿道夫」「希特勒」 -出自については定かではなく、ドイツ系ともアフリカ系ともユダヤ系とも言われている。 -青年期は放浪の末、バイエルン王国の兵役に志願し、第一次世界大戦に予備役、伝令兵として参陣した。 -第一次世界大戦の終了後に政界へ参入し、大ドイツ主義を唱えた。ミュンヘン一揆で一度 -投獄されるが、釈放後は権力を取りまとめ、ナチス党を選挙活動の末に第一党に押し上げた。 -全権委任法案の可決、大統領と首相を兼任するという独裁体制を築くが、政治姿勢を -咎められることはなく、むしろ人類史上屈指と言われる政治内容をおさめ、多くの国民の支持と崇拝を集めた。 -しかし、第二次世界大戦を起こし、外交戦略を見誤った頃からその才覚に陰りが生じ始め、 -最期は連合軍包囲下にあったベルリン市街の総統地下壕で自殺した。大戦中の -ホロコーストから20世紀最大の悪人と言われる一方、ヒトラーの政治貢献や政治活動は多くの国で参考にされた。 - -補足:一説には晩年のヒトラーはパーキンソン病を患っていたと言われる。症状が疑われる[[1941年頃>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC#.E5.81.A5.E5.BA.B7.E7.8A.B6.E6.85.8B]]から能力値を下げていくのもいいかもしれない。 - - -**ラインハルト・ハイドリヒ -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質| -|91|42|98|86|2|威圧・虚実・洞察|C|C|C|C|C|C|1904|1942|冷静|維持・長| -【ラインハルト・ハイドリヒ】 -ドイツの政治家、軍人。海軍中尉、警察大将。「莱因哈德」。「死刑執行人」の異名を取る。 -ドイツ帝国の領邦プロイセン王国に生まれ、15歳でドイツ義勇軍、のちドイツ海軍へ入隊した。 -しかし素行不良が酷く問題を起こし、軍法会議の末に不名誉除隊処分となる。その後 -彼に才能を見出したヒムラーによって親衛隊拡充の中枢として雇われ、同時期にナチス党にも入党。 -以後はその類まれな謀略の才を発揮し、国家保安本部長に任命され、謀略、弾圧、政治工作、粛清など -あらゆる手段を駆使してドイツ第三帝国に貢献。身内の粛清のみならず、ユダヤ人殺害計画「ホロコースト」をも主導、 -敵味方からその謀略の才を恐れられていたが、1942年にチェコで暗殺された。 - -補足:圧倒的な才を持ち、上官であるはずのヒムラーや、はては総統ヒトラーまで内心では見下していたと言われる。暗殺は現地ゲリラ等によるものとするが、 - 上官ヒムラーによる謀殺説も根強い。ドイツ第三帝国の支配が長引けば、彼が跡を継いだだろうとまで言われている。 - -**エルヴィン・ロンメル -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質| -|94|83|88|48|92|工神・強行・射程|A|B|S|A|S|C|1891|1944|剛胆|維持・長| -【エルヴィン・ロンメル】 -ドイツの軍人。陸軍元帥。「埃尔温」「隆美尔」。 -ドイツ帝国領ヴュルテンベルク王国出身。1910年に軍人となり、第一次世界大戦に従軍。 -各地の戦線に従軍して活躍し、戦後もドイツ陸軍に残り続けた。その後はアドルフ・ヒトラーの姿勢に -共感し、彼を支持。第二次世界大戦ではそのヒトラーに抜擢され、ポーランド、フランスへの電撃的侵攻を成功させた。 -北アフリカでも連戦連勝を重ね、世界にその名を轟かせたが、物資兵站に勝るイギリス軍を完全打倒するには至らず、 -ついにアフリカからの撤退を余儀なくされた。本土の防衛戦に回されるも英米戦力を図り損ねる同僚と対立。翌年 -発生したヒトラー暗殺未遂事件への関与を疑われ、服毒自殺した。祖国ドイツのみならず敵対した英米からも英雄視され、 -「砂漠の狐」「ナポレオンの再来」と言われた。 - - - - - - -*オスマン帝国 - - - -*オーストリア - - - -*日本 - -明治大正は[[こちら>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2713.html]]を参照 -戦後は[[こちら>https://www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2767.html]]を参照 - - -第一次世界大戦ではドイツ植民地の中国青島や南洋諸島を攻撃し、事実上占領して戦勝国となり、 -国際連盟の常任理事国となった日本であったが、関東大震災や昭和恐慌などによって国家財政は危機的状況を迎える。 -窮した日本では軍部の暴走が目立ち始め、政治的混乱も激しく、特に関東州に配備した関東軍が顕著であった。 -その後帝国主義のもとに満州国を建国したが、国際連盟で無効とされたため、日本は国際連盟を脱して本格的に -中華民国との戦争に入る。戦争長期化と中華民国の外交により日本は中華民国をはじめとする米英仏などの -連合軍を同時に相手にすることになり、1941年12月の真珠湾攻撃によってアメリカやイギリスとの本格戦闘に突入した。 -しかし翌年におけるミッドウェー敗戦を機に劣勢に転じ、沖縄上陸、日本本土大空襲、2度の原子爆弾投下という -凄惨たる犠牲を経て、同盟国ソ連の対日参戦が決定打となり、1945年8月に降伏した。 - - - -**載仁親王 -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| -|64|58|51|47|90|急襲・威圧・強運|C|C|A|A|A|C|1865|1945| -【コトヒトシンノウ】 -明治、大正、昭和時代の皇族。伏見宮のち閑院宮。陸軍軍人、元帥陸軍大将。 -幼少のころに閑院宮を養子縁組によって引き継ぎ、その後陸軍幼年学校に入学して -軍人の道を進んだ。日露戦争では機転を利かして敵を奇襲し敗走させる。 -戦後陸軍中将、ついで大将となり、昭和天皇の欧州外遊に随行した。 -1931年には参謀総長となり、統制派として陸軍組織に腐心。太平洋戦争の -敗色色濃い1945年5月に薨去し、国葬された。 - -※ その他候補となった特技:護衛 - -**山本五十六 -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| -|87|60|83|79|93|推進・論客・威風|B|B|A|C|A|A|1884|1943| -【ヤマモトイソロク】 -日本海軍の名将。明るく冗談好きで部下からの信頼が厚かった。 -当時の欧米事情に詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対した。 -開戦後は、日米間に於ける国力の差を冷静に分析し、「短期決戦・早期和平」という現実的な作戦計画を実施しようとした。 - -**近衛文麿 -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調|素質| -|5|2|67|22|85|論客・遁走・名声|C|C|C|C|C|C|1891|1945|小心||普通・短| -【コノエフミマロ】 -大正・昭和時代の政治家。内閣総理大臣。 -平安時代に権勢を誇った藤原氏の、五摂家である近衛家の出身。近衛前久・後陽成天皇を先祖に持つ。 -1916年に貴族院議員を世襲し、木戸幸一や徳川家達らと昵懇となった。 -1937年には官軍民の圧倒的支持を受け、内閣総理大臣に就任。以降第三次まで内閣を組閣するが、 -閣僚や元老などと政治方針を巡って度々対立し、特に優柔不断な気質を度々咎められた。 -内閣辞任後は終戦工作に奔走し、和平派の中心となって活動。しかし戦後は戦犯認定された。 -戦犯として裁かれることをよしとせず、服毒自殺。 - - -**山下奉文 -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調| -|90|73|26|47|70|不屈・踏破・急襲|C|C|C|A|A|A|1885|1946|剛胆|丁寧| -【ヤマシタトモユキ】 -日本陸軍の軍人。最終階級は大将。陸軍きっての猛将で『マレーの虎』の異名が有名。 -陸軍学校を経て出世するも、2・26事件で時勢が読めず上層部の不興を買い、左遷される。 -第二次大戦でマレー侵攻作戦を指揮、倍以上の兵力差を覆して約2ヶ月で攻略。 -現地では軍務政治家として才能を発揮した。 -フィリピン防衛戦には早くから懐疑的であったが、上層部に押し切られて戦端を開き、 -倍以上の兵力差で終戦まで持ちこたえるも、終戦後に降伏、米軍により絞首刑となった。 -明快な性格で、下士官や国民の間では人気があった一方、配慮に欠け誤解を受けやすい面もあったとされる。 - -**東條英機 -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年| -|78|55|69|85|7|規律・百出・強行|C|C|A|S|A|C|1884|1948| -【トウジョウヒデキ】 -日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。関東軍に所属し、2・26事件の -内部処理などの功績から関東軍参謀長に就任。1937年から開始された日中戦争でも -兵団の指揮を執りながら軍事行動を行った。1940年には近衛文麿内閣で陸軍大臣をつとめ、 -翌年には内大臣の木戸幸一の推挙によって内閣総理大臣に就任した。だが対米交渉に難航し -ハル・ノートを突きつけられたことから、天皇や政府首脳が望んだ対米決戦回避が事実上困難となり、 -同年中に太平洋戦争が開戦。当初こそ日本軍優位で進んでいたが、やがて技術物量ともに勝る連合軍に -押され気味となり、1944年戦局悪化に伴い内閣を退陣。太平洋戦後に東京裁判でA級戦犯とされ、1948年巣鴨拘置所で絞首刑となった。 -石原莞爾をはじめ、その事務的官僚的な姿勢を批判した者は多かったと言う。 - -**伊達順之助(張宗援) -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調| -|83|89|38|25|82|射手・連戦・反計|C|C|S|A|S|C|1892|1948|剛胆|威厳| -【ダテジュンノスケ(チョウシュウエン)】 -昭和時代の人物。戦国大名伊達政宗の子孫。 -生来血気盛んで若年の頃、張作霖爆殺計画、山縣有朋暗殺計画に加担するが、いずれも失敗。 -その後第二次満蒙独立運動への参加を契機に大陸を渡る馬賊として活動。 -張宗昌と義兄弟の契りを結んで、張宗援と名乗り、中国人の妾との間に子供も作っている。 -その後1939年まで馬賊として活動を続けるが、その後は終息。第二次世界大戦後、 -中国における日本人戦犯として連行され、銃殺刑に処せられた。銃の名人だったと言う。 - -**石原莞爾 -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調| -|96|90|91|17|88|虚実・強行・踏破|B|B|S|A|S|B|1889|1949|剛胆|威厳| -【イシハラカンジ】 -昭和時代の日本陸軍軍人。帝国陸軍の異端児と呼ばれる。 -幼少期より天才的な知能を発揮し、陸軍大学校時代までの学問を難なくこなしたという。 -また戦術知能も優れており、関東軍参謀に就任した際に板垣征四郎に絶賛され、 -柳条湖事件ひいては満州事変の首謀者として関東軍の軍事行動の主軸を担い -圧倒的劣勢の立場から満州全土の占領に至った。王道楽土、五族協和を唱え、世界最終戦論構想を -打ち出したが、若年期から上官に対して反抗し続けるなど気骨の士であり、東条英機らとも対立した。 -1941年に予備役へ引いた後、東条英機の暗殺も企んでいたと言われるが、東条の内閣退陣に伴い撤回。 -終戦後は病と東条との対立による不遇が有利に働き、戦犯からは除かれた。その後郷里へ隠棲したと言う。 - -※ その他候補となった特技:深謀・急襲 - -**花谷正 -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|口調| -|20|42|15|12|5|怒髪・強行・強奪|B|C|C|C|C|C|1894|1957|小心|威厳| -【ハナヤタダシ】 -昭和時代の日本陸軍軍人。 -1914年に陸軍士官学校を卒業し、陸軍に入隊。歩兵隊として働き、1922年に陸大を卒業した。1929年に少佐へと昇進し順調に出世を重ねる。 -柳条湖事件を石原莞爾と共に共謀する一方で、軍部批判を行った北陸タイムズを独断で攻撃するなど軍部至上主義を貫く。 -日中戦争に参加し、ノモンハン事件では指揮をとるが敗退。 -太平洋戦争では第1軍参謀長として参戦。ビルマに出征し第二次アキャブ作戦の指揮をとるも稚拙な作戦を行い大敗するが、責任は問われなかった。 -終戦後は軍人恩給で暮らし、1957年病没。 - -※陸大出身であることを鼻にかけ非陸大出身者をいじめ抜いたり、部下を顔が変形するまで殴打したりするなど非常に人格に問題のある人物であり、部下からは強い憎悪を抱かれていた。実際に彼の葬儀が行われた際に元部下の呼び掛けが行われたが、誰一人応じなかったという。 - - -*ルーマニア - - - - - -*イタリア - - - - - -*その他 - - -**シモ・ヘイヘ -|統率|武力|知力|政治|魅力|特技|槍兵|戟兵|弩兵|騎兵|兵器|水軍|生年|没年|性格|素質| -|38|100|72|15|81|洞察・猛者・弓神|C|C|S|C|S|C|1905|2002|冷静|維持・長| -【シモ・ヘイヘ】 -フィンランドの軍人。「席摩·海赫」。若年の頃は漁師と農民を兼任した生活を送っていた。 -その後民兵組織「白衛軍」、ついでフィンランド国防陸軍に所属した。 -1939年からの冬戦争では、 フィンランド軍として従軍、コッラの戦いでは -わずか32名で4000のソビエト赤軍を追い返す活躍を見せる。その後は狙撃手として -ソビエト赤軍を倒し続け、公式記録では542人もの兵を狙撃にて倒している。 -ソビエトからは白い死神と呼ばれたが、大規模な掃討作戦によって重傷を負い、戦線離脱。 -復帰後に冬戦争が休戦したため、以後は傷痍軍人として余生を過ごした。 - -※ フィンランドの偉人では軍人で3位に選ばれている。 - 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