雨空の昴星 第1話『PleiaDeath』
「失礼致します。」
そう言うと同時に、私は重い扉をゆっくりと押し開いた。瞬間、鼻の奥を突き刺すような薬品の匂いが一気に押し寄せ、思わず鼻を手で覆ってしまう。
「あぁ......よく来てくれたな。散らかっていて申し訳ないが、まぁ入りたまえ。」
ガラスの破片や零れた薬品、そして赤黒い何かが床一面に散乱する実験室。その奥から、嗄れた老人男性の声が聞こえる。私は言われるがまま、部屋の中へと足を踏み入れた。
「.........相変わらず、ですね。」
診療台の上で何かを弄っている白衣姿の老人。背後から私が声をかけると、老人はゆっくりと振り向いて「フン」と曲がった大きな鼻を鳴らした。
「ワシは“これ”以外に夢中になれるものがないからな。この実験を完全なものにするまで、おちおち死ぬことも出来ん。」
老人の四肢は機械と化し、頭や心臓には延命用の薬品を通す管が無数に繋がれている。目は焦点が合っておらず、そもそも私を視認出来ているのかすらも分からない。
男の名はDr.アトラ、本名は不明。私が数年間連れ添ってきた凄腕の科学者だ。その年齢は定かではないが、本来の人間なら既に寿命を迎えている年齢ということだけは確かである。本人曰く「三度死んだ経験がある」とのことだった。
彼の実力は他のどの科学者よりも優れているが、その分常軌を逸しており、学会では称賛どころか大バッシングを受けていた。それにも関わらず、彼は自らに狂気じみた延命治療を施してまで研究や実験を続けている。
「.........ァ.......ァ................」
診療台の上で、何かが蠢いている。私はそれを見て、思わず吐き気を催した。
「吐くならそこの排水溝に吐け。」
「っ...........大丈夫、です.......」
喉奥から込み上げてくるものを必死に押さえ込み、私は辛うじてそう答える。やはり慣れないものだ、彼の実験風景は。
「......タス.....ケ............オカ.........サ...........」
言葉で言い表すのも憚られる程おぞましいそれは、耳を澄ませばやっと聞き取ることが出来る小さな声で助けを求めていた。しかし。
「やかましいッ!!!」
Dr.は突然部屋中に響き渡る怒鳴り声をあげ、それを激しくいたぶり始めた。
「実験材料如きが!!貴様のような役立たずなど、直ぐに廃材置き場行きだ!!」
私は慌てて耳と目を塞ぎ、彼が立てる声や音を必死に遮断する。頼む、早く終わってくれ.......そう祈るので精一杯だった。
............................
...............
五分程経過した頃だろうか。蹲る私の肩を、Dr.が強めに掴んできた。
「...........」
「終わったぞ。すまないな、見苦しいところを見せてしまって。」
Dr.の声色は、すっかり落ち着きを取り戻していた。私は恐る恐る目を開き、ゆっくりと立ち上がる。
「.................!!」
診療台の上は、鮮血に濡れていた。さっきまでそこに居た筈のそれは、影も形もなくなっていた。
「また失敗だ.......もうストックもないというのに。今度は上手くいくと思ったんだが.......」
Dr.は髭を蓄えた顎を撫でながら、深刻そうな表情で唸る。
「.........あの、Dr.........」
私は話題を逸らそうと、自分が此処に呼ばれた理由をDr.に尋ねた。
「ああ、そうだ。すっかり本題を忘れていたな。」
すると、Dr.は思い出したように私の方に向き直り、歪に歪んだ唇を吊り上げながら言った。
「単刀直入に言う。お前とワシで再始動させるぞ、あの計画を............」
「!!」
私は愕然とした。
ああ、やはり人間は変わらない。
どんなに失敗しても、周りから非難されようと..........
一度歪んだ人間は、もう二度と元には戻れないのだと。
..................................
..................
新たな力《言羽》を発現させることに成功した、あの戦いから数日。
私..........音羽 初は、すっかりクラスの皆と打ち解けていた。
「初!任せた!」
「おっとと!....よーし、食らえっ!」
休み時間恒例のドッジボール。私はみっちゃんから投げ渡されたボールを受け取り、相手のコートに投げ入れた。
「うわっ!?」
ボールは見事命中し、相手のチーム人数をまた一人減らすことに成功した。
「よし.....!」
「おっ、やったな初!当てたの初めてなんじゃねーか?」
「うん、みっちゃんが特訓してくれたお陰だよ。」
「へへー、アタシの教え方が良かったんだな!」
「二人とも危ない!」
「「えっ?」」
その声と同時に私とみっちゃんが前を見ると、いつの間にかボールがすぐそこまで迫ってきていた。
「どわぁっ!?」
「うっ!」
咄嗟のことで避ける暇もなく、私達は同時にそれを喰らってしまう。
「ダブルアウト!」
「っしゃー!」
体勢を立て直していると、月那さんが向こうのコートでガッツポーズをしているのが見えた。
「もー、何やってんの二人とも。」
「あはは、悪りぃ悪りぃ!」
「ごめんね、すぐ戻るから。」
呆れる玲亜に謝りながら、私達は外野に出て行った。
「よーし、再開だ!」
私達の代わりにボールを取った有葉の掛け声で、再びゲームが始まった。運動はあまり得意じゃない私だけど、皆とするドッジボールはとても楽しくて、すっかり毎日の楽しみの一つになっていた。
「やっちゃった....早く内野に戻らないと。」
「う〜い〜サンっ!」
気合いを入れ直していると、私は突然誰かに腕を掴まれた。
「えっ?」
「お取り込み中申し訳ないんでスけど、ちょーっと来てほしいっス!」
金髪のショートヘアに、青い瞳。目つきは狐のように鋭く、口の端からは尖った八重歯。白いブレザーを着た、小柄で人懐っこい少女。
彼女の名は、荊姫 カレン。最近私達のクラスにやってきた二人目の転校生だ。人見知りだった私と違いたった一日でクラスメイトと馴染んでしまう程フレンドリーな性格で、皆もカレンをすぐに受け入れていた。そんな中、私だけはどうも彼女を受け入れる気にはなれなかった。当の本人はよく私に絡んでくるけど。
「な、何?急に.......」
「良いから良いから!すぐ終わるんで大丈夫っス!」
グイグイ、と私を引っ張りながら、カレンは無邪気な笑顔を浮かべている。
「ちょ、ちょっと......」
「おい、カレン!今ドッジやってんだ、用事なら後にしてくれよな!」
みっちゃんが私達の間に割って入り、カレンを止めてくれた。内心助かったと思いつつ、私もうんうんと頷く。
「えー、ほんとにちょっとだけっスよ〜!」
「ダーメーだ、このドッジは途中でやめられるような遊びじゃねえんだよ!」
「いや一応遊びだけどね.....」
同じく外野に居た丸菜が小声で突っ込んだ。
「むー、仕方ないっスねぇ。じゃあ初サン、放課後なら空いてるっスか?」
「え?う、うん、まぁ..........」
「了解っス!じゃあ放課後に校門前集合っスね!忘れちゃダメっスよー!」
カレンはそう言って走り去っていった。その後ろ姿を見ながら、私は小さく溜息を吐く。
「........あの子......一体何が目的で.............」
「アナタの力は、世界にとって忌むべき脅威に成りかねないんでス。」
《言羽》が発現する直前、初めてあの子と出会った時......私はそう言われた。
自分の言った言葉が現実に起こる力《言刃》。使い方によっては凶器にもなるその力を、自分が本当に望む願いに変えられる力《言羽》。私が持つこの二つの力は、確かに脅威かもしれない。だけど、私は決意した。この力を使うのは、誰かを助ける時だけだと。
きっとあの子は、まだ私に力を使わせないようにしようとしているに違いない。皆を助ける為に、学校に向かおうとする私を止めようとしていたのがその証拠だ。
「私の力が覚醒することで、不利な状況に陥る人が居る......あの子もきっと、その中の一人なんだよね。」
季節は初夏、夕方でもまだ明るい校門前。《言羽》の発動に使う為のマイク『隻翼』を見つめながら、私は小さく呟いた。
「その通りっス、初サン。」
「!」
いつの間にか、目の前にカレンが立っていた。
「お待たせっス♪」
満面の笑顔を浮かべ、カレンは首をコテッと大袈裟に傾けた。その瞬間、私の背筋がゾクリと凍りつく。
「あれれ、どうしたんスか?冷や汗かいてまスけど。」
「......いや、何でもないよ........」
私は額の汗を拭い、『隻翼』をポケットに仕舞った。何なんだろう、この不快感は。
「帰りながらお話しまシょっか。アナタの力のこととか、ワタシが此処に来た目的とか。」
「......やっぱり、何か裏があったんだね。」
「それは初サンも同じでシょ?人間、誰にでも表と裏、隠したいことの一つや二つあるもんでス。むしろその方が人間らしいっていうか?」
「..................何が言いたいの?」
そう私が尋ねると、カレンはニヤリと笑いながら私と距離を詰めてきて、私の耳元に唇を寄せると冷たく無機質な声で囁きかけた。
「とぼけても無駄っスよ。この人殺し」
「!!!」
私は咄嗟に距離を取ろうとした、が。
「女児符号《ガールズコード》────」
カレンは即座に私の腕を掴むと、目を閉じて今や聞き慣れた単語を口にする。
「まさか、君も........!?」
再び目を開くカレン。その瞳は、私が《言刃》を使った時と同じように真っ赤に光っていた。
「《赤い靴で踊れ-ダンス•イン•ザ•ハンド-》」
カレンがそう言った次の瞬間、私の身体は口だけを残して完全に動かなくなった。唯一動く口からは、勝手に声が漏れ出してくる。
「あが......ぁあッ.......!?」
「ほらほら、話してみて下サいよ。一年前、自分が犯した罪を...........」
「ゥ......わた、し、は...........」
自分にその気がないのに、私の口は勝手に動いて喋り始めた。
「......『PleiaDeath』の職員、達を........自分の、力で、殺しました..............」
脳裏にフラッシュバックするあの日の光景。一年前、黒服の男達に襲われ、追い詰められた私は《言刃》でそいつらを殺害した。
「はい!よく言えまシた〜〜!その通りっス〜!」
カレンが拍手すると、私はようやく呪縛から解放され、地面に膝を突いて倒れ込んだ。
「はぁっ、はぁっ........今の......何.....?『Pleia Death』って.......?」
「ワタシが所属する組織の名前っス。アナタが殺したのはその職員達っスよ。」
「じゃあ......君が私を狙うのも..........」
「ククク........その通りっス。」
カレンは再び笑みを浮かべ、私の手首を掴みながら言った。
「音羽 初サン。アナタには、我々『PleiaDeath』の偉大なる計画の為......犠牲になって貰いまス。」
続く